EP 90

第9話 無面原

第五節 ― 転用された救い

 ロウセツは、しばらく何も言わなかった。

 無面原の白い風が、彼の外套の裾を揺らしている。
 足元には、面になれなかった木片が散っていた。

 そのひとつひとつが、まだ語られていない罪の欠片のように見えた。

「戦があった」

 やがて、ロウセツは言った。

 その声は、白い木々の間へ落ちていくように低かった。

「帝都の外れが焼けた。大きな戦じゃねえ。歴史書に太く残るような戦でもねえ。ただ、そこに住んでいた連中には、世界が終わるのに十分な火だった」

 イロハは、胸の面箱を抱えたまま、動けなかった。

 焼けた家。

 血のついた布。

 誰も迎えに来ない道。

 その断片が、胸の奥でばらばらに揺れる。

「灰面長屋へ運ばれてきた子どもがいた」

 ロウセツは続けた。

「名は、辛うじて覚えていた。イロハ。たぶん、それだけは誰かが何度も呼んだんだろうな。けれど家は焼けた。家の生面は割れた。仮面籍に置く場所もなかった」

 イロハは、自分の指が冷たくなっていくのを感じた。

 それは、自分の話だ。

 知っていたはずなのに。

 戦災孤児だったことも。
 生面を失っていたことも。
 ロウセツに拾われたことも。

 けれど、それは今まで、遠い昔話のようだった。

 ロウセツが話すたびに、その遠い話が、今の自分の足元へ戻ってくる。

「役人が来た」

 ロウセツの口元が、苦く歪んだ。

「役人は悪人じゃなかった。あいつらも決まりに従っていただけだ。けどな、決まりは時々、人を殺すより静かに、人をどこにも置かなくする」

 アヤメが、わずかに目を伏せた。

 仮面籍庁の白札。
 黒札。
 灰札。

 彼女も、その意味を知っている。

 ロウセツは、淡々と続けた。

「役人は聞いた」

 風が止まった気がした。

「この子は、どの家の面を持つ」

 イロハの耳に、別の声が重なった。

 古い声。
 紙をめくる音。
 筆先が止まる音。
 誰かが困ったように息を吐く音。

「誰の子として登録する」

 白い原の景色が、少し遠のく。

 イロハの目の前に、灰面長屋の土間が見えた。
 汚れた布にくるまれた幼い自分。
 膝を抱え、顔を上げられずにいる子ども。

「何の役で置く」

 その問いに、誰も答えなかった。

 誰も。

 イロハは唇を開いた。

 けれど声は出なかった。

 胸の面箱が熱い。

 熱いのに、身体の芯は冷えていく。

「その時、俺は思っちまった」

 ロウセツは言った。

「皇女の面は、まだ作れない」

 サヨが静かに顔を上げる。

 ロウセツはサヨを見ない。

 見れば、言葉が続かなくなると知っているようだった。

「だが、この子は今、息ができていない」

 イロハの胸が詰まった。

 幼い自分が、そこで息をしていなかったわけではない。
 生きていた。
 泣いていた。
 震えていた。

 でも、この国では、面がなければ顔がない。

 家の生面がなければ、どの家の子か定まらない。
 職面を持つ年齢でもない。
 祈面を持つ立場でもない。
 仮置きする家もない。

 名だけでは、足りなかった。

 イロハという名だけでは、この国で息をする場所がなかった。

「師匠」

 イロハの声は、かすれていた。

「それで、何をしたんですか」

 ロウセツは、白い切り株を見た。

 皇女の未在面になるはずだった材の跡。

「転用した」

 短い言葉だった。

 アヤメが息を呑む。

 サヨは、表情を変えなかった。
 けれど、袖の中で握られた指が、わずかに白くなっていた。

「皇女の未在面の試作材を、使った」

 ロウセツは、まっすぐに言った。

「サヨ様の面になるかもしれなかった材だ。まだ役は定まっていなかった。顔も決まっていなかった。だが、既存の型に縛られないだけの空白があった」

 イロハは一歩、後ろへ下がった。

 足元の木片が、かすかに鳴る。

「それを、私に」

「ああ」

「私の、生面に」

「普通の生面じゃない」

 ロウセツの声は低い。

「だが、お前をこの世に置くための面にはできると思った」

 イロハは、胸の面箱を見る。

 《ナギノオモテ》。

 自分の面。

 ずっと、自分の生面だと思っていたもの。

 役のない子どもだった自分に、師匠が与えてくれた救い。

 でもそれは。

 サヨの面になるかもしれなかった材だった。

 サヨは、ゆっくりとイロハを見た。

 イロハは、その目を見返せなかった。

「……私」

 声が震える。

「私が、サヨ様の面を」

「違います」

 サヨが言った。

 静かな声だった。

「奪ったのではありません」

 イロハは顔を上げる。

 サヨは、痛みをこらえているような顔をしていた。
 けれど、その声に嘘はなかった。

「あなたは子どもでした」

 その言葉に、イロハの胸がひどく痛んだ。

 子どもだった。

 何も選べなかった。

 それは、確かにそうだ。

 でも、だからといって、何も起きなかったことにはならない。

 ロウセツは、サヨに深く頭を下げた。

「申し開きはしません」

 アヤメが鋭く言う。

「申し開きで済む話ではありません」

「ああ」

 ロウセツは頷いた。

「済まねえ」

 イロハは、ロウセツを見る。

「それだけじゃ、ないんですよね」

 ロウセツの顔が、わずかに強張る。

 イロハにはわかった。

 まだある。

 まだ、語っていないことがある。

 白布の木目。
 《ナギノオモテ》の熱。
 エンジュが言った無面原の木。

 そして、ロウセツが工房で持っていた小さな箱。

「試作材だけじゃない」

 イロハは言った。

「私の面には、ほかにも何か入ってるんですね」

 ロウセツは、懐へ手を入れた。

 面師小路の裏工房から持ってきた、小さな箱を取り出す。

 古い箱だった。
 黒漆はところどころ剥げ、角は削れている。
 けれど、蓋には古い封じ紐がかけられていた。

 ロウセツは、その紐を解く。

 中には、小さな欠片がいくつか入っていた。

 黒ずんだ面片。
 朱の薄く残った木片。
 焦げた白い破片。

 それらは、どれも小さかった。

 けれど、イロハには、それがただの破片ではないとわかった。

「ひとつは、俺の面片だ」

 ロウセツは言った。

 アヤメが眉をひそめる。

「自分の面を?」

「そうだ」

「なぜ」

「無面原の木だけじゃ、幼い子をこの世に留めるには不安定すぎた。役がなさすぎる。空白が大きすぎる。だから、面師の手癖を入れた。俺が、この子をここへ置くと決めた証として」

 イロハは、言葉を失った。

 ロウセツの面片。

 それはつまり、師匠の役の欠片を、自分の面に混ぜたということだ。

 自分は、師匠の手で救われただけではない。

 師匠の役の一部を、面の内側に抱えて生きてきた。

「もうひとつは」

 ロウセツの声が、さらに低くなる。

「お前の失われた生面の破片だ」

 イロハの視界が揺れた。

 白い木々の原が、遠くなる。

「残って、いたんですか」

「ほんの少しだけな」

 ロウセツは、焦げた白い破片を見つめた。

「焼け跡から拾った。家の面だったか、お前個人の生面だったか、もう判別もできなかった。だが、お前に繋がるものだった」

「それを」

「混ぜた」

 ロウセツは、目を逸らさなかった。

「無面原の木。皇女の未在面の試作材。俺の面片。お前の失われた生面の破片。それらを合わせて、《ナギノオモテ》を作った」

 イロハは、動けなかった。

 風が吹く。

 白い木々が、ほとんど音もなく揺れる。

 面箱が熱い。

 今まで、その熱に守られてきたのかもしれない。

 寒い日も。
 不安な夜も。
 自分がどの家の子でもないことを思い出しそうになった時も。

 《ナギノオモテ》は、そこにあった。

 自分はこの面によって、顔を持てた。
 面師小路で生きられた。
 中級面師になれた。
 ユラの舞を、カンナの香を、ハルマサの抜刀を、セイランの読む役を、サヨの未在を見られるようになった。

 救われた。

 たしかに救われた。

 その事実は、消えない。

 けれど。

 イロハは、胸の面箱を見た。

 これは、自分が選んだ役ではなかった。

 幼い自分は、何も知らなかった。

 無面原の木を使うことも。
 皇女の未在面の材を転用することも。
 ロウセツの面片を混ぜることも。
 失われた生面の破片を組み込むことも。

 何も知らずに、この面を自分のものとして抱いてきた。

「役がないなら」

 ロウセツは、かすれた声で言った。

「あの時は、そう思った」

 イロハは顔を上げる。

 ロウセツの顔は、ひどく疲れて見えた。

「まず、息をする役から作るしかなかった」

 その言葉は、昔の救いの言葉だった。

 幼いイロハにとっては、たぶん光だった。

 でも今のイロハには、刃にも聞こえた。

 息をする役。

 それは、誰が作ったのか。

 ロウセツだ。

 自分ではない。

 イロハは、口を開く。

 何か言わなければならない。

 怒りたいのか。
 泣きたいのか。
 感謝したいのか。
 責めたいのか。

 わからない。

 何も、ひとつにはならない。

「師匠は」

 ようやく声が出た。

「私を救いました」

 ロウセツは黙っている。

「それは、わかっています」

 声が震える。

「私、あのままだったら、どこにも置かれなかった。きっと、誰にも見られない子になってた。灰面長屋で、水にも映らないまま、消えていたかもしれない」

 サヨが、静かにイロハを見る。

 アヤメも、何も言わない。

 イロハは、面箱を抱きしめる。

「でも」

 喉が痛い。

「でも、それは、私が選んだ役じゃなかった」

 ロウセツの目が伏せられた。

 その沈黙が、肯定だった。

「どうして」

 イロハは問いかけた。

「どうして、私に言わなかったんですか」

 ロウセツは、すぐには答えない。

「言えば」

 やがて、彼は言った。

「お前は、自分が生きていることまで疑うと思った」

「もう疑っています」

「だろうな」

「師匠」

 イロハの声が少し強くなった。

「私は、疑いたかったんじゃありません」

 ロウセツが顔を上げる。

「選びたかったんです」

 白い原が、静まり返る。

「知らなかったら、選べないじゃないですか」

 その言葉に、ロウセツの顔が痛みに歪んだ。

 イロハは、初めてそれを見た気がした。

 いつも軽口で隠していた顔。
 だらしなさで隠していた後悔。
 師匠としての優しさの奥にあった、勝手に救った者の罪。

「……そうだな」

 ロウセツは言った。

「俺は、お前に選ばせなかった」

 その声は、ひどく小さかった。

 サヨが、一歩前に出る。

「ロウセツ殿」

 彼は、サヨを見る。

「あなたは、わたしの面を彫れませんでした」

「ああ」

「それは、わたしがまだ選んでいなかったからだと、あなたは言いました」

「言った」

「では、なぜイロハには選ばせなかったのですか」

 静かな問いだった。

 怒鳴られるよりも、重かった。

 ロウセツは答えられない。

 サヨの声は責めていない。
 けれど、逃げ道も与えなかった。

「……時間がなかった」

 ロウセツは絞り出すように言った。

「あの子は、今、息ができていなかった。選ばせるには、まず生きていなきゃならなかった」

「はい」

 サヨは頷く。

「それも、わかります」

 イロハはサヨを見る。

 サヨは、イロハを見ていた。

「救いだったことは、消えません」

 その言葉に、イロハの胸が震える。

「でも、選ばせなかったことも、消えません」

 ロウセツは目を閉じた。

 イロハは、涙が出そうになった。

 サヨは、どうしてこんなに正しく痛いことを言えるのだろう。

 救いと罪を、どちらか片方にしない。

 そのどちらも、同じ場所に置いて見る。

 それは、面のない皇女だからできることなのかもしれなかった。

 自分も、そう見なければならない。

 《ナギノオモテ》を。

 師匠を。

 そして、自分自身を。

 イロハは、胸の面箱に手を置いた。

 熱はまだある。

 けれど、少しだけ違う。

 それはもう、隠された真実が暴れ出す熱ではなく、長いあいだ閉じられていたものが、開かれるのを待つ熱のようだった。

 ロウセツは、箱の中の破片を見つめたまま、低く言った。

「お前がこの面を恨むなら、それでいい」

 イロハはすぐには答えなかった。

 恨む。

 そうできたら、楽かもしれない。

 けれど、自分はこの面で生きてきた。

 この面で救われた。

 この面で、誰かの欠けた役を見られるようになった。

 恨むだけでは、足りない。

 感謝するだけでも、足りない。

 イロハは、白い原の中で立ち尽くした。

 救われた。
 たしかに救われた。

 けれど、それは自分が選んだ役ではなかった。

 その二つが、同じ胸の中でぶつかり合っている。

 答えはまだ出ない。

 でも、もう目を逸らすことはできなかった。