イロハは、胸の面箱から手を離せなかった。
救われたこと。
選べなかったこと。
そのふたつが、同じ面の中に入っている。
無面原の白い風は、ひどく静かだった。
誰もイロハを責めない。
誰もロウセツを庇わない。
だからこそ、問いは逃げ場を失って、まっすぐ胸の奥から出てきた。
「じゃあ」
イロハは言った。
「《ナギノオモテ》は、私の生面じゃないんですか」
ロウセツは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、イロハの心をさらに冷たくする。
答えが決まっている問いほど、人はすぐに答えられないのかもしれない。
答えた瞬間に、長く隠してきたものが形を持ってしまうから。
ロウセツは、白い切り株のそばに立ったまま、面師の手を握りしめていた。
その手は、古い傷だらけだった。
木を削り、漆を塗り、面を直し、役を繋いできた手。
幼いイロハへ、《ナギノオモテ》を与えた手。
そして、イロハに選ばせなかった手。
「生面の形はしている」
ようやく、ロウセツが言った。
「仮面籍にも、生面として通した」
「通した?」
イロハの声が尖る。
「私の生面として、役所に?」
「ああ」
「でも、本当は違う」
ロウセツは目を伏せた。
「普通の生面じゃない」
その一言で、イロハの胸にあった何かが、音もなく崩れた。
普通の生面ではない。
薄々、わかっていた。
第1話の白化面を診た時から。
白影宮の空の面箱が《ナギノオモテ》に反応した時から。
サヨが「わたしのものに似ています」と言った時から。
それでも、どこかで思っていた。
これは自分の面だと。
自分をこの国に置いてくれた、自分の生面なのだと。
けれど今、ロウセツは言った。
普通の生面ではない、と。
「じゃあ、何なんですか」
イロハは問い詰める。
「私は、何をつけて生きてきたんですか」
ロウセツは、ひどく疲れた顔で答えた。
「お前をこの世に置くための面だ」
「それは、どういう意味ですか」
「家の根を写した面じゃない。血筋を写した面でもない。お前がどこから来たかを示す面でもない」
ロウセツの声が、わずかに掠れる。
「お前が、これから息をできるように作った面だ」
イロハは、面箱を抱く腕に力を込めた。
「それって」
声が震えた。
「それって、生面じゃないじゃないですか」
ロウセツは否定しなかった。
否定してくれなかった。
「生面は、家の面です」
イロハは言った。
「家の根を示す面です。自分がどこに生まれて、どこに置かれるのかを示す面です。私、そう教わりました。師匠に」
「ああ」
「なのに、これは違うんですか」
「ああ」
「じゃあ、どうして言わなかったんですか!」
声が、無面原に響いた。
白い木々は揺れない。
誰の顔でもない節が、ただ静かにこちらを向いている。
「どうして、ずっと黙ってたんですか。私はずっと、これが私の生面だと思ってた。師匠が私にくれた、私の面だって。私がこの国で、イロハ=ナギとして生きていい証だって」
イロハは、面箱を胸に押しつけた。
「違ったんですか」
「違わねえ」
ロウセツが言った。
イロハは顔を上げる。
ロウセツの目は、逃げていなかった。
「お前がイロハ=ナギとして生きていい証だった。それは違わねえ」
「でも、生面じゃなかった」
「普通の生面じゃなかった」
「同じことです!」
「同じじゃねえ!」
ロウセツの声が、初めて荒くなった。
けれど、その荒さは怒りではなかった。
痛みだった。
「同じじゃねえんだ、イロハ。あれがなかったら、お前は仮面籍のどこにも置けなかった。灰札どころじゃねえ。面を持たねえ子として、誰の目にも映らなくなってたかもしれねえ」
「だからって」
「わかってる」
ロウセツは、遮るように言った。
そして、すぐに声を落とした。
「わかってる。だから、俺は正しくねえ」
イロハは息を呑んだ。
ロウセツは、白い切り株の前に立ったまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺は悪人のつもりじゃなかった。お前を利用しようとしたわけでもない。サヨ様の面を奪って、お前に与えてやろうなんて思ったわけでもない」
サヨは黙って聞いている。
「ただ、あの時は、お前を生かしたかった」
ロウセツの声は、ひどく静かだった。
「今、息ができていない子に、まず息をさせたかった」
イロハの胸が痛む。
その言葉は、嘘ではない。
だから、苦しい。
「だったら」
イロハは言った。
「だったら、あとで言ってくれればよかったじゃないですか」
ロウセツは黙る。
「私が大きくなってからでもよかった。面師になってからでもよかった。白化面に関わる前でもよかった。サヨ様の面に関わる前でもよかった。どうして、私が自分で気づくまで黙ってたんですか」
ロウセツの表情が歪む。
「言えば」
その声は、小さかった。
「お前は、自分が救われたことまで疑うと思った」
イロハは、何も言えなかった。
ロウセツは続ける。
「お前は優しい。自分が生きるために誰かのものを使ったと知れば、まず自分を責める。サヨ様の面材だったと知れば、自分が奪ったと思う。俺の面片が入っていると知れば、自分の役が自分のものじゃないと思う。失われた生面の破片まで混ざっていると知れば、自分が何者なのか、余計にわからなくなる」
その言葉は、あまりにもイロハを知っていた。
だから、腹が立った。
「そうやって、また決めたんですね」
イロハは震える声で言った。
「私がどう思うかを、師匠が先に決めたんですね」
ロウセツは目を閉じた。
その瞬間、アヤメが一歩前に出た。
「ロウセツ=カガミ」
声が低い。
護衛としての声ではなかった。
白影宮の者としてでもない。
イロハの怒りを、横から受け止めた者の声だった。
「それは、イロハ殿のためと言いながら、イロハ殿に選ばせなかったということです」
ロウセツは、アヤメを見た。
アヤメは退かない。
「あなたは、イロハ殿を救ったのかもしれない。ですが、その後も真実を隠し続けた。救ったあとの生き方まで、あなたが決め続けた」
「……そうだな」
「否定しないのですか」
「できねえよ」
ロウセツは、苦く笑った。
「できるわけがねえ」
アヤメの目がさらに鋭くなる。
「あなたは、サヨ様には『本人が選んでいなかったから彫れなかった』と言った。ならば、なぜイロハ殿には選ばせなかった」
「さっきも言った。時間がなかった」
「最初は、そうでしょう」
アヤメは言った。
「ですが、今までの年月すべてに、時間がなかったわけではありません」
ロウセツは言葉を失った。
無面原の風が、白い木々の間を抜ける。
アヤメの言葉は正しかった。
幼いイロハに選ばせることはできなかったかもしれない。
火の後で、家も面も失った子どもに、無面原の木の危険を説明することなどできなかったかもしれない。
けれど、その後は。
何年もあった。
イロハが面を覚えた日。
初めて修理した面が持ち主に戻った日。
中級面師の資格を得た日。
自分の面について尋ねた日。
言える時は、いくつもあったはずだった。
ロウセツは、その全部を黙って通り過ぎた。
イロハは、師匠を見た。
悪人ではない。
それはわかる。
ロウセツは、自分を救ってくれた。
自分を育ててくれた。
面の扱いを教えてくれた。
欠けた役を、壊れた面を、捨てられた古面を、雑に扱わない人だった。
でも、正しくもなかった。
イロハを守ろうとして、真実を隠した。
真実を隠すことで、イロハが自分の役を選ぶ機会を奪った。
それもまた、役を勝手に決める行為だった。
「師匠」
イロハは言った。
怒りはまだ消えていない。
悲しみも、消えていない。
でも、その奥に、別のものが少しずつ生まれていた。
自分で決めたい、という意志。
「私は、救われたことをなかったことにはしません」
ロウセツが顔を上げる。
「《ナギノオモテ》がなかったら、私はここにいなかったかもしれない。面師にもなれなかったかもしれない。ユラさんの面も、ハルマサさんの面も、サヨ様の空の面箱も、何も見られなかったかもしれない」
イロハは、面箱を抱く手をゆっくり緩めた。
「でも、知らされなかったことを、なかったことにもしません」
ロウセツは何も言わない。
「これは、私の生面じゃない」
声に出すと、胸が裂けるようだった。
でも、言わなければならなかった。
「でも、私をこの世に置いた面ではある」
サヨが、静かに頷いた。
イロハは続ける。
「だから、私はこの面を、もう一度見ます」
ロウセツの目が揺れた。
「イロハ」
「師匠が決めた役としてじゃなく」
イロハは、胸の面箱を見下ろした。
「私が、これから選ぶために」
その言葉のあと、無面原のどこかで、小さな音がした。
木が軋んだのか。
面箱の中で、何かが鳴ったのか。
わからなかった。
けれど、サヨが顔を上げる。
「今、何かが応えました」
アヤメも周囲を見る。
ロウセツは、白い切り株のそばで動かない。
イロハの面箱は、もう隠しきれないほど熱を持っていた。
「開けるのか」
ロウセツが問う。
その声には、恐れがあった。
師匠の恐れ。
自分が作ったものを、弟子が自分の意志で見ようとしていることへの恐れ。
イロハは、面箱に手をかけた。
「はい」
指先が震える。
怖い。
怖くないわけがない。
この蓋を開ければ、自分が何でできているのかを、さらに見ることになる。
救いか、罪か。
生面か、未在面か。
自分の役か、誰かに置かれた役か。
それでも。
イロハは、サヨを見た。
サヨは静かにこちらを見ている。
その目は、答えを押しつけない。
ただ、見届ける目だった。
アヤメは、刀に手を置いたまま頷く。
守る、という無言の合図。
ロウセツは、もう止めなかった。
イロハは深く息を吸う。
かつてロウセツが問うた。
息はできるか。
今なら、答えられる。
できる。
ただし、その息をどう使うかは、自分で選ぶ。
イロハは、面箱の蓋へ指をかけた。