EP 92

第9話 無面原

第七節 ― サヨの面になれたもの

 面箱の蓋は、ひどく軽かった。

 それなのに、イロハの指には、まるで石の扉を押し開けるような重さがあった。

 かちり、と小さな音がする。

 封じ紐がほどける。
 蓋の隙間から、白い気配が漏れた。

 光ではない。

 匂いでもない。

 けれど、そこにあるものが、まだ誰かの顔になる前の木でできているのだと、無面原の白い木々が一斉に知らせてくるようだった。

 アヤメが息を詰める。

 ロウセツは、目を逸らさなかった。
 逸らす資格がないとでも言うように。

 サヨは、静かにイロハの隣へ歩み寄った。

「触れても、よいですか」

 イロハは一瞬、面箱を抱きしめそうになった。

 これは自分の面だ。

 ずっと、そう思ってきた。

 けれど今は、その言葉だけで守ることができない。

 イロハは、震える指で面箱を少しだけ傾けた。

「……はい」

 蓋が、さらに開く。

 中に納められていた《ナギノオモテ》は、朝の光を受けても、ただ白くは見えなかった。

 白木の地。
 淡く凪いだ額。
 目元には、まだ表情になりきらない余白。
 頬から顎にかけて、どこか風を受け流すような線がある。

 生面のように見える。

 けれど、普通の生面ではない。

 家の根を示す重さがない。
 血筋へ繋がる古さもない。
 職面のような定まった役もない。

 そこにあるのは、ただ、消えかけた子どもをこの世へ置くために、急いで結ばれた白い呼吸だった。

 サヨは面に直接触れなかった。

 指先を、面の少し上で止める。

 その仕草は、冥祀社で《ヒドメ》を見送った時に似ていた。
 生者の手で、死者の役へ踏み込みすぎないように。
 今もまた、彼女はイロハの面へ踏み込みすぎない距離を選んでいた。

 サヨの指先が、わずかに震える。

「……似ています」

 彼女は呟いた。

 イロハは息を止める。

「白影宮の、空の面箱に残っていた気配に」

 面箱の中で、白い面は沈黙している。

 だが、その沈黙はただの静けさではなかった。

 木目の奥に、細い月痕のような線がある。
 それは白化面にあった噛み跡とは違う。
 月に喰われた痕ではない。

 むしろ、月を映さないように、誰かが必死で閉じた痕のようだった。

 サヨは、目を細める。

「この木目……わたしの面箱の底に、夜だけ浮かぶ輪郭と同じです」

「サヨ様」

 イロハの声はかすれていた。

「それは、つまり」

 言葉が続かなかった。

 自分の面が、サヨの面箱と同じものを持っている。

 わかっていたはずなのに。

 ロウセツの口から、皇女の未在面の試作材を転用したと聞いたはずなのに。

 それでも、サヨが目の前でそれを感じ取ると、逃げ場がなくなる。

 サヨは、イロハを責める目をしていなかった。

 だから余計に、苦しかった。

「あなたの面は」

 サヨは言った。

 声は静かだった。

「わたしの面になれたかもしれないもの」

 イロハは、呼吸を忘れた。

 無面原の白い木々が、遠ざかる。

 その言葉は、刃のようだった。

 けれど、サヨは刃として差し出したのではなかった。

 ただ、そこにある事実を、事実として置いた。

 イロハは、面箱を抱く指に力を込める。

「私……」

 声が出ない。

 奪ったのではない。

 サヨはそう言ってくれるだろう。

 でも、その前に、自分が思ってしまう。

 自分がここに立っていることと、サヨが面を持てなかったことは、まったく無関係ではない。

 その事実が、胸の奥で重く沈む。

 サヨは、続けた。

「でも」

 その一言に、イロハは顔を上げる。

「あなたを、ここに立たせたものでもあるのですね」

 イロハの視界が揺れた。

 責める言葉ではなかった。

 慰める言葉でもなかった。

 それは、二つの事実を同じ場所へ置く言葉だった。

 サヨの面になれたかもしれないもの。

 イロハをこの世に立たせたもの。

 どちらか片方にすれば、楽だった。

 奪われたのだと言えば、サヨは怒れる。
 救いだったのだと言えば、イロハは泣ける。
 ロウセツの罪だと言えば、二人は傷ついた自分を少しだけ外へ置ける。

 けれど、サヨはそうしなかった。

「奪われたとは思いません」

 サヨは言った。

 ロウセツが、わずかに顔を歪める。

 イロハは何も言えない。

「あなたは、子どもでした。何も選べなかった。わたしも、自分の面を選べなかった。だから、あなたを責めることは違います」

 サヨの指先が、《ナギノオモテ》の上の空気をなぞる。

「けれど」

 声が少しだけ低くなる。

「何もなかったことにもできません」

 その言葉に、無面原の風が止まったように思えた。

 イロハは、胸の奥を直接触れられた気がした。

 何もなかったことにはできない。

 救われたことも。
 選べなかったことも。
 サヨの面になれたかもしれない材を、自分が抱いて生きてきたことも。
 ロウセツが罪と救いを同じ手で彫ったことも。

 どれも消えない。

 サヨは、静かに面から手を引いた。

「わたしは、自分にないものを、あなたから奪い返したいわけではありません」

 イロハは、サヨを見る。

「では」

「見たいのです」

 サヨは答えた。

「わたしの役が、誰かの手で保留され、誰かの手で作られかけ、誰かの手で止まり、そして別の誰かを救った。その流れを、なかったことにせず見たいのです」

 イロハは、言葉を失った。

 サヨの声は、泣いていなかった。

 けれど、その強さは、泣くよりも痛かった。

「その上で」

 サヨは続ける。

「わたしは、自分の役を選びたい」

 アヤメが、静かに目を伏せた。

 彼女はきっと、サヨを守りたいのだ。

 白影宮の中で。
 制度から。
 月から。
 そして、こんな真実からも。

 けれど今、サヨは守られるだけの場所から、一歩外へ出ている。

 第7話の稽古板で踏み出した一歩が、今ここで、別の形を取っている。

 サヨは、奪い返さない。
 誰かを責めることで、自分の面を取り戻そうとしない。
 ただ、事実を見届け、その上で選ぼうとしている。

 それは、まだこの国にない皇女の姿だった。

 イロハは、《ナギノオモテ》を見る。

 自分の面。

 けれど、普通の生面ではない面。

 サヨの未在面になれたかもしれないもの。

 自分をこの世に置いたもの。

 その白い面の内側には、まだイロハが知らない空白がある気がした。

「サヨ様」

 イロハは、ようやく言った。

「私は、この面をどう思えばいいのか、まだわかりません」

「はい」

「師匠を許せるかも、わかりません」

「はい」

「サヨ様に、何て言えばいいのかも」

 声が詰まる。

「わかりません」

 サヨは頷いた。

「今は、それでよいと思います」

「よいんですか」

「すぐに定める必要はありません」

 サヨは、かすかに微笑んだ。

「定められないまま残すことにも、意味があるのだと、あなたが教えてくれました」

 イロハは、息を呑む。

 白影宮で。

 空の面棚を見て、自分は言った。

 面を失った棚ではない。
 面を待っている棚です。

 その言葉が、今、自分へ返ってきた。

 イロハは面箱の蓋に手を置く。

 閉じることもできた。
 このまま見なかったことにすることも、たぶんできる。

 でも、もうそれは選ばない。

「この面を」

 イロハは言った。

「もう一度、私のものにできるかどうか、考えます」

 ロウセツが顔を上げる。

 イロハは、師匠を見た。

「師匠がくれたからじゃなく」

 胸が痛む。

 でも言う。

「師匠が私を置いたからじゃなく」

 《ナギノオモテ》の白い額に、朝の光が落ちる。

「私が、これを持って生きると選べるかどうか」

 ロウセツは何も言わなかった。

 ただ、深く頭を下げた。

 イロハへ。
 サヨへ。

 そして、たぶん、かつて選ばせなかったすべてのものへ。

 その時、白い木々の奥で、かすかな音がした。

 面箱ではない。

 木が鳴った。

 イロハは振り向く。

 無面原の奥に立つ白い木のひとつ。
 その幹の節が、ほんのわずかに光ったように見えた。

 サヨも同じ方を見る。

「呼んでいます」

 彼女は言った。

「何を」

 アヤメが問う。

 サヨは少し考え、静かに答えた。

「まだ彫られていないものを」

 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を閉じなかった。

 開いたまま、白い木々の奥を見る。

 サヨの面になれたかもしれないもの。

 自分をここに立たせたもの。

 その二つを抱えたまま、次へ進まなければならない。

 イロハは、面箱を胸に抱いた。

 今度は、隠すためではなかった。

 見届けるためだった。