EP 93

第9話 無面原

第八節 ― 木肌の鏡ノ客

 無面原の奥で、白い木が鳴った。

 それは、枝が風に擦れた音ではなかった。
 幹の内側から、薄い面が一枚、ゆっくりと目を覚ますような音だった。

 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱えたまま、その木を見た。

 水はない。

 鏡もない。

 月も、雲に隠れている。

 それなのに、白い幹の木目が、少しずつ滑らかになっていく。

 木肌の縦筋がほどけ、節の黒いくぼみが薄まり、幹の一部だけが、磨かれた白漆のような光を帯びる。

 そこに、白い半面が映った。

 鏡ノ客。

 エル=ネフリド。

 アヤメが即座に刀へ手をかけた。

「また、あなたですか」

 その声には警戒があった。
 第4話の鏡水、第5話の《コトサダメ》の裏、第6話の濁った水桶、第7話の白い客席、第8話の灰皿。

 どこにでも映る白い客。

 助けるわけではない。
 止めるわけでもない。
 ただ、そこに映る。

 だからこそ厄介だった。

 ロウセツは、白い半面を見るなり顔をしかめた。

「趣味が悪いな、白面野郎」

 エル=ネフリドは、笑わなかった。

 白い半面には、目穴がない。
 けれど、見ている。

 イロハを。
 ロウセツを。
 サヨを。
 そして、開かれたままの《ナギノオモテ》を。

 サヨは逃げなかった。

 ただ静かに、その白い半面を見つめている。

 彼女はもう、この存在が救済者ではないことを知っていた。
 冥祀社でエンジュが言ったように、これは弔う神ではない。
 舞殿で示されたように、これは舞わせる神でもない。

 映すだけのもの。

 だが、映すだけだからこそ、逃げられないもの。

 白い半面の表に、木目が揺れた。

 そこに、幼いイロハの姿が映る。

 灰面長屋の土間。
 汚れた布。
 割れた生面。
 息の仕方を忘れたように膝を抱える子ども。

 次に、若いロウセツの手が映る。

 未完成の白い面。
 無面原の木。
 皇女の未在面の試作材。
 焦げた生面の破片。
 面師自身の面片。

 それらが混ざり、ひとつの面になっていく。

 《ナギノオモテ》。

 イロハは、喉の奥が詰まるのを感じた。

 エル=ネフリドの声が、木肌の奥から響く。

「あなたは救われたのですか」

 その問いは、ひどく静かだった。

 責めていない。

 慰めてもいない。

 ただ、問いだけが、白い木肌に置かれる。

「それとも、作り変えられたのですか」

 イロハは即答できなかった。

 風が吹く。
 白い木々が、ほとんど音もなく揺れる。

 救われた。

 それは事実だ。

 《ナギノオモテ》がなければ、自分はこの国で顔を持てなかった。
 仮面籍のどこにも置かれず、灰面長屋の水桶に映らないまま、誰にも見られない子になっていたかもしれない。

 ロウセツの手は、自分を救った。

 けれど。

 作り変えられた。

 それも、おそらく事実だった。

 皇女の未在面の試作材。
 師匠の面片。
 自分の失われた生面の破片。
 それらを混ぜられ、自分は「息をする役」を与えられた。

 その役を、自分は選んでいない。

 幼い自分には、選ぶことも、拒むことも、知ることすらできなかった。

 イロハは、白い半面を見返した。

 怒りはある。

 悲しみもある。

 けれど、そのどちらも、問いへの答えにはならなかった。

「どちらかだけなら」

 イロハは、ゆっくりと言った。

 声は震えていた。
 それでも、途切れなかった。

「楽だったんでしょうね」

 ロウセツが、息を呑んだ。

 サヨは、静かにイロハを見ている。

 イロハは続けた。

「救われただけなら、師匠にありがとうって言えました」

 胸の面箱が熱を持つ。

「作り変えられただけなら、怒ればよかった。恨めばよかった。こんな面いらないって言えたかもしれない」

 でも。

 そうではない。

「私は救われたんです」

 イロハは言った。

「でも、選べなかった」

 白い半面は動かない。

「私は作り変えられたのかもしれません」

 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

「でも、そのおかげで、今ここに立っています」

 無面原の白い木肌に、その言葉が映る。

 幼いイロハ。
 現在のイロハ。
 《ナギノオモテ》。
 サヨの空の面箱。
 ロウセツの若い手。
 焦げた生面の破片。

 それらが、どれかひとつにまとまらないまま、木肌の中で重なっている。

 エル=ネフリドは笑わない。

 慰めない。

 裁かない。

 ただ、イロハの答えを映した。

 白い半面の上に、細い文字のような木目が浮かぶ。

 救い。
 改変。
 未在。
 生面ではない面。
 選ばれなかった役。
 これから選ぶ役。

 サヨが、そっと言った。

「イロハ」

 イロハは、サヨを見る。

「あなたは、今、初めて自分の面を見ているのですね」

 その言葉に、イロハは息を止めた。

 そうかもしれない。

 これまで、自分は《ナギノオモテ》を持っていた。
 守られていた。
 使っていた。
 隠していた。

 けれど、見てはいなかった。

 これは何なのか。
 自分は何を与えられ、何を奪われ、何を選ばずに生きてきたのか。

 今、初めて見ている。

 アヤメは刀から手を離さなかったが、抜きはしなかった。

「白面」

 彼女は低く言う。

「あなたは、これを見せて何をさせたいのです」

 エル=ネフリドは、少しだけアヤメの方へ向いたように見えた。

「何も」

 その声は、木の内側から響いた。

「私は何もさせません」

「では、なぜ現れる」

「映ったからです」

 アヤメの眉が寄る。

「都合のよい答えですね」

「都合が悪いから、見えるのでしょう」

 その言葉に、ロウセツが舌打ちした。

「嫌な客だ」

 白い半面は、ロウセツへ向く。

 木肌に、今度はロウセツの姿が映る。

 若いロウセツ。
 宮廷の御面庫で古い皇女面を調べる姿。
 無面原の木を削る姿。
 泣く幼いイロハを前に、未完成の白い面を握りしめる姿。

 そして、今のロウセツ。

 逃げられなくなった面師。

「あなたは救ったのですか」

 エル=ネフリドは問う。

「それとも、奪ったのですか」

 ロウセツは苦く笑った。

「俺にも同じ質問かよ」

 白い半面は答えない。

 ロウセツは、しばらく黙っていた。

 そして、低く言った。

「どっちもだ」

 イロハは、師匠を見た。

 ロウセツはイロハを見ない。

 白い木肌に映る自分自身を、苦々しく見つめている。

「救った。そう思わなきゃ、あの時の俺は手を動かせなかった」

 彼の声は、いつもの軽さを失っていた。

「だが、奪った。選ぶ機会を。真実を知る時間を。お前が自分の面を自分で見る権利を」

 無面原の白い風が、彼の言葉を運ぶ。

「だから、俺は正しくない」

 イロハの胸が、また痛んだ。

 師匠にそう言わせたかったのか。

 わからない。

 でも、聞かなければならなかった。

 エル=ネフリドは、今度はサヨへ向いた。

 アヤメが半歩前に出る。

「サヨ様に問う必要はありません」

 サヨは、静かにアヤメを制した。

「よいのです」

 白い半面の表に、サヨの姿が映る。

 白影宮の空の面棚。
 黒漆の空の面箱。
 箱の中に浮かぶ満月。
 面のない皇女。
 稽古板の端で踏み出した一歩。
 冥祀社で終わった役を見送った声。

「あなたは奪われたのですか」

 エル=ネフリドは問う。

「それとも、残されたのですか」

 サヨは、長い沈黙のあとに答えた。

「まだ、わかりません」

 その答えは、弱さではなかった。

「わたしの面になれたかもしれないものは、イロハをここに立たせました。そのことで、わたしは面を持たないまま残されました」

 彼女は、《ナギノオモテ》を見る。

「それを奪われたと言うこともできるのでしょう」

 イロハの胸が締めつけられる。

 けれどサヨは、続けた。

「けれど、面がなかったからこそ、わたしはまだ誰かに定められずにいます」

 白い木々が、静かに立っている。

「それを残されたと言うことも、できるのかもしれません」

 エル=ネフリドは、やはり笑わない。

 ただ、サヨの答えを木肌に映す。

 奪われたもの。
 残されたもの。
 面のない痛み。
 面のない余白。

 イロハは、サヨの横顔を見た。

 彼女は強い。

 でも、その強さは傷つかない強さではない。
 傷ついたまま、答えを急がない強さだった。

 白い半面が、再びイロハへ向く。

「彫る者」

 エル=ネフリドの声が、静かに落ちる。

「あなたは、次に何をしますか」

 イロハは、《ナギノオモテ》を見る。

 自分を救った面。

 自分を選ばせなかった面。

 サヨの面になれたかもしれないもの。

 これから自分が、もう一度自分のものにするかもしれない面。

 答えは、まだ出ていない。

 けれど、次に何をするかは、少しだけ見えていた。

「見ます」

 イロハは言った。

「もっと、ちゃんと見ます」

 エル=ネフリドは黙っている。

「この面も。師匠がしたことも。サヨ様の面も。私が何を彫ろうとしているのかも」

 イロハは、面箱の中の《ナギノオモテ》に手を伸ばした。

 触れる直前で、少しだけ指が止まる。

 怖い。

 でも、もう引かない。

「見ないまま救うのは、もう嫌です」

 その言葉が、無面原に落ちた。

 白い木肌の半面が、ほんのわずかに薄くなる。

 エル=ネフリドは、最後に言った。

「では、見なさい」

 木目が揺れる。

「面になる前のものを」

 白い半面は、音もなく消えた。

 そこには、ただ白い木肌だけが残った。

 水もない。
 鏡もない。
 月も雲の向こう。

 けれど、イロハはもう知っていた。

 映すものは、どこにでもある。

 逃げようとする心の中にさえ。

 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直し、無面原のさらに奥を見た。

 そこには、まだ彫られていない白い木が立っていた。

 面になる前のもの。

 役になる前のもの。

 そして、イロハ自身が次に見なければならないものだった。