蓋は、すでに開いていた。
けれど、まだ本当に開けたわけではなかった。
面箱の中には、白布がかかっている。
その白布の下に、《ナギノオモテ》が眠っている。
イロハは、それを知っている。
何度も手入れをした。
何度も持ち歩いた。
何度も、自分のものだと信じて胸に抱いた。
けれど今、白布の下にあるものは、いつもの面ではなかった。
自分を救ったもの。
自分を選ばせなかったもの。
サヨの面になれたかもしれないもの。
ロウセツの罪を含んだもの。
それらすべてが、同じ白布の下で息を潜めていた。
イロハは、白布の端へ指をかけた。
ロウセツが低く言う。
「着けるな」
イロハは、振り返らなかった。
「わかっています」
「今のお前が着けたら、面に引かれる」
「わかっています」
「これは、普通の生面じゃねえ」
その言葉に、イロハの指が一瞬止まる。
だが、もう逃げるためではなかった。
「だから、見ます」
イロハは言った。
「着けるんじゃなくて、見ます」
サヨが、そっと息を呑んだ。
アヤメは何も言わず、ただ周囲へ気を配っている。
白い木々の間から何かが現れても、すぐに動けるように。
けれど、今ここで一番危ういものは外から来る敵ではない。
面箱の中にある。
イロハ自身の始まりが。
白布が、ゆっくりとめくられる。
朝の光が、《ナギノオモテ》へ落ちた。
それは白い面だった。
けれど、白化面の白ではない。
ユラの舞面に走った、月に噛まれた冷たい白ではなかった。
《ヒドメ》のような、燃え尽きた灰の白でもなかった。
もっと前の白。
何も決められていない白。
何にでもなれるかもしれない白。
そして、何にでもされてしまうかもしれない白。
イロハは、息を止めた。
表から見れば、《ナギノオモテ》は静かな面だった。
凪いだ水面のような額。
強く笑うわけでも、泣くわけでもない目元。
幼い子どもにも、大人にも見える頬の線。
顔を隠すというより、顔が崩れないように、そっと支えるための形。
かつてのイロハは、この面を優しいと思っていた。
今も、その印象は消えない。
だからこそ、苦しかった。
優しいものが、必ず正しいとは限らない。
イロハは、面を持ち上げた。
着けない。
顔へは近づけない。
ただ、両手で支え、内側を見る。
その瞬間、胸の奥がきしんだ。
内側には、いくつもの痕があった。
まず目に入ったのは、無面原の木目だった。
白布に残っていたものと同じ、細く、どこまでも分かれていくような木目。
まるで、まだどの方向へ伸びるか決められていない道のようだった。
その木目の奥に、空白がある。
ただ削られていない余白ではない。
何かが入るはずだった場所。
しかし、まだ入っていない場所。
イロハは、それを見た瞬間、サヨの空の面箱を思い出した。
黒漆の箱。
夜になると内側に浮かぶ満月。
まだ彫られていない面の輪郭。
置くべき役の線が見つからなかった、あの空白。
同じだ。
完全に同じではない。
けれど、響き合っている。
《ナギノオモテ》の内側には、サヨの未在面と同じ種類の空白があった。
「……サヨ様」
イロハは、声を落とした。
「見えますか」
サヨは面に近づきすぎない距離で、静かに頷いた。
「はい」
その声は、とても小さかった。
「わたしの面箱に残っていたものと、似ています」
イロハの手が震える。
面を落としそうになり、慌てて支え直した。
次に見えたのは、白い裂け目だった。
月痕に似ている。
だが、白化面に走っていた噛み跡とは違う。
鋭い歯で喰われた痕ではない。
むしろ、何かが内側から開きかけ、誰かが慌てて塞いだような裂け目だった。
月が噛んだのではない。
月へ映らないように、無理に閉じた痕。
イロハは、指を伸ばしかけて止めた。
触れたら、何かが戻ってくる気がした。
幼い泣き声。
白い木。
ロウセツの手。
役人の問い。
息はできるか、という声。
まだ触れてはいけない。
でも、見なければならない。
裂け目のそばには、黒い傷があった。
細く、古く、漆の奥に沈んでいる。
それは《ナギノオモテ》の木目とは違う。
別の面から移された傷だ。
イロハは、ロウセツを見た。
「これが、師匠の面片ですか」
ロウセツは、短く頷いた。
「ああ」
黒い傷は、どこか師匠の声に似ていた。
軽口を叩く時の影。
大事なことを言わずに済ませようとする時の濁り。
それでも、壊れた面を捨てられない手の温度。
イロハは、その黒い傷を見つめた。
嫌だと思った。
けれど、完全に拒めなかった。
この傷は、自分の面に入り込んだ師匠の罪だ。
同時に、幼い自分をこの世へ置こうとした師匠の手でもある。
黒い傷の反対側に、小さな欠けがあった。
そこだけ、木の色が古い。
焦げたように黒ずみ、かすかに朱の名残がある。
よく見なければわからないほど小さい。
けれど、そこには古い家紋の一部のような線が残っていた。
イロハは、息を詰めた。
「これが」
声が震える。
「私の、失われた生面の破片……」
ロウセツは答えなかった。
答えなくても、わかった。
イロハは、その欠けを見た。
そこだけが、ほかのどの痕よりも遠かった。
ロウセツの罪よりも。
サヨの未在面の空白よりも。
無面原の木目よりも。
もっと遠い。
自分がかつて持っていたかもしれない家。
自分が覚えていない誰かの手。
自分をイロハと呼んだ声。
焼ける前の朝。
けれど、それはもう完全な形では残っていない。
欠けている。
割れている。
それでも、消えてはいなかった。
イロハは、喉の奥で小さく息を飲んだ。
涙が出そうだった。
泣く理由が、ひとつではなかった。
自分の生面の欠片が残っていたことが、悲しい。
それを今まで知らなかったことが、悔しい。
それが《ナギノオモテ》の中で、自分を支えていたことが、苦しい。
サヨが、静かに言う。
「そこに、あなたがいたのですね」
イロハは、返事ができなかった。
自分がいた。
確かにいた。
ロウセツが作った面の中に。
皇女の未在面の材の中に。
師匠の面片の中に。
ほんの小さく、欠けた形で、自分自身の生面が残っていた。
だから、《ナギノオモテ》は完全な偽物ではなかった。
けれど、純粋な自分の生面でもなかった。
イロハは悟った。
《ナギノオモテ》は、皇女の未在面そのものではない。
サヨのためだけに作られた面ではない。
イロハだけの生面でもない。
ロウセツだけの罪でもない。
無面原の木。
未在面の空白。
月に似た裂け目。
師匠の面片。
失われた生面の破片。
救済と改変が混ざった面。
それが、自分をここまで立たせてきた。
イロハは、面を見つめたまま、呟いた。
「ひどい面ですね」
ロウセツの顔が強張る。
けれど、イロハは続けた。
「でも、優しい面です」
その二つを、どちらかにできなかった。
ひどい。
誰にも選ばせず、いくつものものを混ぜて、人をこの世に置いた面。
優しい。
消えかけた子どもを、どうにか息ができる場所へ繋ぎ止めた面。
イロハは、泣きそうに笑った。
「ずるいです」
その言葉は、面に向けたのか、ロウセツに向けたのか、自分でもわからなかった。
ロウセツは、何も言わなかった。
白い木々が静かに立っている。
アヤメは、イロハの手元を見つめたまま、低く言う。
「その面は、着けてはいけません」
「はい」
イロハは頷いた。
「今は、着けません」
「今は?」
アヤメが聞き返す。
イロハは、面を見つめる。
怖い。
今でも怖い。
けれど、さっきまでとは違う怖さだった。
知らないから怖いのではない。
少し見えてしまったから怖い。
この面を着ければ、自分はもっと深く知ることになるのだろう。
自分が何を失ったのか。
何を与えられたのか。
何を選べなかったのか。
そして、これから何を選ぶのか。
「いつか」
イロハは言った。
「私が、この面を自分のものとして見られるようになったら」
言葉を選ぶ。
「その時は、着けます」
ロウセツが目を閉じた。
サヨは、静かに頷いた。
「その時は、あなたが選ぶのですね」
「はい」
イロハは、《ナギノオモテ》を白布の上にそっと戻した。
「師匠が私を置くためじゃなく」
白い面は、沈黙している。
「役所に認めさせるためじゃなく」
無面原の白い木々が、聞いている。
「私が、私として立つために」
その瞬間、《ナギノオモテ》の内側にある白い裂け目が、かすかに光った。
月痕ではない。
傷でもない。
まだ名のない、細い入口のような光だった。
サヨが息を呑む。
「今のは」
イロハは、面を見つめる。
何かが開きかけた。
けれど、完全には開かなかった。
それでいいと思った。
今はまだ、すべてを開ける時ではない。
ロウセツが、低く呟く。
「面が、待ってる」
イロハは、白布を戻さなかった。
面を隠さず、そのまま箱の中に置いた。
見なかったことにはしない。
けれど、まだ着けない。
その間にいることを、自分で選んだ。
イロハは、静かに息を吸った。
息はできる。
今度は、自分でそう答えた。