イロハは、《ナギノオモテ》を白布の上に置いたまま、ゆっくりとロウセツへ向き直った。
面箱の蓋は閉じていない。
白い面は、まだそこにある。
隠されず、着けられず、ただ見られている。
それは、今のイロハ自身のようだった。
救われた子ども。
選べなかった弟子。
面師になった少女。
そして今、自分の面を初めて見た者。
ロウセツは、何も言わなかった。
言い訳をしようともしない。
軽口も叩かない。
いつものだらしない師匠の顔ではなく、ひとつの面を作ってしまった面師として、そこに立っていた。
イロハは、師匠の目を見た。
怒りはあった。
胸の奥に、熱いものがまだ残っている。
どうして言わなかったのか。
どうして選ばせなかったのか。
どうして自分の面を、自分より先に師匠が決めてしまったのか。
悲しみもあった。
ずっと信じていたものが、別の形を持っていた。
自分の生面だと思っていたものが、普通の生面ではなかった。
自分は自分の始まりを、知らずに生きてきた。
けれど、それだけではなかった。
あの灰面長屋で。
役人の問いに誰も答えられず、どこにも置かれなかった幼い自分。
その子どもへ、ロウセツは面を与えた。
息をするための面を。
それは、たしかに救いだった。
「師匠」
イロハは言った。
声は震えていたが、逃げてはいなかった。
「師匠は、私を救いました」
ロウセツの顔が、わずかに歪んだ。
イロハは続ける。
「それは、なかったことにしません」
白い木々の間を、風が抜ける。
「《ナギノオモテ》がなかったら、私はこの国で顔を持てなかったかもしれない。誰の子でもなく、どの家にも置かれず、灰面長屋の水桶に映らないまま、消えていたかもしれない」
ミツの顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
面がないと、店の人が目を合わせてくれない。
借り物の面をつけると、誰の子かわからないと言われる。
幼い自分も、あの子と同じだった。
サヨも、同じ痛みを別の場所で抱えていた。
「だから、救いだったんです」
イロハは言った。
そして、少しだけ息を吸った。
「でも、私に選ばせませんでした」
ロウセツは目を伏せた。
否定しなかった。
できるはずがなかった。
「それも、なかったことにはしません」
イロハの声は、少しずつ強くなっていく。
「師匠は、私がどう受け止めるかを先に決めた。私が傷つくだろうって、私が自分を責めるだろうって、私が救われたことまで疑うだろうって」
ロウセツの指が、かすかに動く。
「たぶん、当たっています」
イロハは苦く笑った。
「私は今、全部疑っています。救われたことも、自分の面も、自分が何者なのかも」
その言葉に、アヤメの表情が揺れた。
サヨは黙って聞いている。
イロハは、ロウセツから目を逸らさなかった。
「でも、それを疑うかどうかは、私が選びたかった」
ロウセツは、何も言えない。
「知って、傷ついて、それでも持つかどうか。師匠を許せるかどうか。この面を自分のものにするかどうか。そういうことを、私は自分で選びたかったんです」
無面原の白い木々が、静かに立っている。
面になる前のものたち。
まだ誰にも選ばれていないものたち。
それらの前で、イロハは初めて、自分の選べなかった始まりを言葉にしていた。
「すまなかった」
ロウセツが言った。
それは、あまりにも短い言葉だった。
けれど、今の彼には、それ以外に言える言葉がなかったのかもしれない。
イロハは、すぐには頷かなかった。
許す、とも言わなかった。
許さない、とも言わなかった。
そのどちらかへ急いでしまえば、また何かを雑に定めてしまう気がした。
「今は、受け取れません」
イロハは言った。
ロウセツが顔を上げる。
「謝られても、まだどうすればいいのかわかりません」
「ああ」
「でも、聞きました」
イロハは、《ナギノオモテ》へ視線を落とす。
「逃げずに、聞きました」
それだけは、今の自分にできたことだった。
ロウセツは深く息を吐いた。
「お前は、強くなったな」
「強くなったんじゃありません」
イロハは首を振る。
「もう、知らないままではいられなくなっただけです」
その言葉に、サヨが静かに頷いた。
イロハは、今度はサヨへ向き直る。
サヨは、白い面を見るでもなく、ロウセツを見るでもなく、イロハを見ていた。
その目は、答えを急がせない。
けれど、逃げることも許さない。
イロハは、少しだけ背筋を伸ばした。
「サヨ様」
「はい」
「私は、サヨ様の面を作りたいです」
アヤメが、わずかに息を呑む。
ロウセツも、イロハを見る。
「でも」
イロハは続けた。
「師匠が私にしたことと、同じことはしません」
言葉にすると、胸の奥で何かが定まった。
「サヨ様を救いたいからって、私が勝手に役を置く面にはしません」
サヨの瞳が、静かに揺れる。
「王朝に認めさせるためだけの面にも、しません」
イロハは、第5話の仮面籍庁を思い出した。
アリノリ=シジョウ。
定役面《コトサダメ》。
白札と黒札。
役名保留候補。
あの場所では、サヨの存在は「安定しているかどうか」で測られた。
けれど、面はそのためだけにあるのではない。
「仮面籍庁に見せるための面じゃありません」
イロハは言った。
「白影宮に飾るためだけの面でもありません」
胸の奥に、第7話の舞台板の音が蘇る。
とん。
サヨが踏み出した一歩。
ユラの鈴が、かすれて鳴った音。
第8話の冥祀社で、《ヒドメ》から足音が消えた静けさ。
始まる役。
終わる役。
戻してはいけない役。
まだ彫ってはいけない面。
すべてが、今ここへ繋がっている。
「サヨ様の面には」
イロハは、慎重に言葉を選んだ。
「サヨ様が選ぶ余白が必要です」
サヨは黙っている。
イロハは続ける。
「役を与えるためだけじゃなく、勝手に定められた役をほどく余白も。誰かが『皇女とはこうあるべきだ』って置いた形に、閉じ込められない余白も」
ロウセツが、低く呟いた。
「仮置きと、仮解きか」
イロハは頷いた。
「はい」
第1話から続く仮置き。
失われた役を、一時的に置く手。
第8話で触れた仮解き。
残りすぎた役を、ほどく手。
サヨの未在面には、その両方が必要なのだ。
ただ役を作るだけでは足りない。
役を選び直せること。
押しつけられた役を脱げること。
失われた一歩を守ること。
終わった役を見送ること。
それらが同じ面の中に入らなければ、サヨを救ったことにはならない。
イロハは、《ナギノオモテ》を見た。
救済と改変が混ざった面。
自分を立たせた面。
その面の痛みを知ったからこそ、サヨの面をどう作ってはいけないかがわかった。
「サヨ様の面は」
イロハは言う。
「サヨ様を、この国に正しく置くためだけの面ではありません」
サヨが、わずかに目を見開く。
「では、何のための面ですか」
イロハは、すぐには答えなかった。
完全な答えは、まだない。
きっと第10話でも、完成はしない。
でも、最初の方向だけは見えた。
「サヨ様が」
イロハは言った。
「自分で一歩を選んだ時、その一歩が喰われず、消されず、誰かに別の役名で上書きされないようにするための面です」
白い木々の間を、柔らかな風が抜けた。
「そして」
イロハは続ける。
「もし、その役を終える時が来たら、ちゃんと脱げる面です」
その言葉に、サヨの表情が変わった。
痛みと、驚きと、ほんのわずかな安堵が混ざった顔だった。
面を持つことは、固定されることだと思っていた。
皇女の面を持てば、皇女として定められる。
王朝に認められる代わりに、王朝の形に閉じ込められる。
でも、イロハが言っている面は違った。
立つための面。
選ぶための面。
そして、脱ぐこともできる面。
「そんな面が」
アヤメが低く言う。
「作れるのですか」
イロハは正直に答えた。
「わかりません」
ロウセツが小さく笑いかけたが、今度は軽口にしなかった。
イロハは、続ける。
「でも、作り方を間違えたらいけないことは、わかりました」
サヨは、ゆっくりと頷いた。
「なら、わたしも選びます」
イロハはサヨを見る。
「わたしの面を、誰かに作ってもらうだけではなく」
サヨは、無面原の白い木々を見た。
「わたしが何者として立ちたいのかを、わたし自身も考えます」
アヤメが、静かに頭を下げた。
「どこへ立たれるとしても、お守りします」
「それも、あなたが選んでください」
サヨが言う。
アヤメは一瞬、言葉を失う。
サヨは穏やかに続けた。
「わたしを守る役を、あなたに押しつけたくありません」
アヤメの目が揺れた。
第2話の夜、サヨは言った。
あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です。
あれはアヤメを救った言葉だった。
けれど今、サヨはそこからさらに進もうとしている。
守る者にも、選ぶ余白を返そうとしている。
「……私は」
アヤメは、少しだけ俯いた。
「選びます」
そして、はっきりと言った。
「あなたを守ることを」
サヨは、静かに微笑んだ。
「ありがとう」
イロハは、そのやり取りを見ながら思った。
サヨの面は、サヨだけの面では終わらないのかもしれない。
サヨが自分の役を選び始める時、その周りにいる者たちもまた、与えられた役を選び直すことになる。
それは、王朝にとって危険な面だ。
アリノリなら、きっと封じようとする。
定まらぬ役は、封じるべきです。
あの声が、耳の奥に蘇る。
けれど、イロハはもう知っている。
定まらないことは、必ずしも乱れではない。
まだ選べるということだ。
ロウセツが、ゆっくりとイロハへ近づいた。
だが、手は伸ばさない。
昔のように、勝手に面を与えることはしない。
「イロハ」
「はい」
「お前が作るなら、俺は手を出さねえ」
イロハは驚いて師匠を見た。
ロウセツは、苦く笑う。
「口は出すかもしれねえ」
「それは、いつもですね」
「悪かったな」
ほんの少しだけ、いつもの師匠の声が戻った。
けれどすぐに、ロウセツは真顔になる。
「だが、決めるのはお前とサヨ様だ」
イロハは、静かに頷いた。
「はい」
その時、《ナギノオモテ》の内側にあった細い光が、もう一度だけ揺れた。
イロハはそれを見た。
救いだった。
罪だった。
その両方を抱えた面が、今、次の面のために何かを告げている。
イロハは、白布をそっと戻した。
今度は、隠すためではない。
見たものを、丁寧に包むためだった。
面箱の蓋を閉じる。
かちり、と音がした。
それは封印ではなかった。
次に開ける時を、自分で選ぶための音だった。