EP 97

第10話 名喰月見台

序節 ― 月見台への召命

 舞台へ上がる者は、みな名を持っているとは限らない。

 役を与えられて立つ者もいれば、役を奪われぬために立つ者もいる。

 では、まだ名のない者が中央へ進む時、観客は何を見るのか。

 顔か。
 血筋か。
 空白か。

 それとも、最初の一歩か。

 ――その問いに答えるための舞台が、帝都カミザには古くからあった。

 名喰月見台。

 月を見上げるための台だと、人は言う。

 だが、月を見上げる場所は、ときに、月へ何かを差し出す場所にもなる。

 名を。
 役を。
 まだ定まらない者の息を。

 無面原から戻る道で受け取った封書は、灰白の印で閉じられていた。

 定役面《コトサダメ》の印。

 イロハは、その封を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。

 仮面籍庁からの正式通達。

 サヨ=ミカゲの役名保留審査を、名喰月見台にて行う。
 名目は、皇女の御身を守るための保護審査。
 月喰い現象による影響を避け、未登録役名の安定性を確認するため。

 言葉は丁寧だった。

 けれど、イロハにはわかった。

 これは守るための審査ではない。

 封じるための儀式だ。

 役名がない者を、役名がないまま王朝の外へ置く。
 面がない者を、面がないことを理由に舞台から降ろす。
 未在の役を、未在であるうちに閉じる。

 アリノリ=シジョウは、きっとそうする。

 怒りではなく、正しさで。

「明晩、酉の刻」

 アヤメが封書の文面を読み上げた。

 声は平静だったが、指先がわずかに強張っている。

「名喰月見台、開門。サヨ=ミカゲ様、白影宮関係者、面師イロハ=ナギ殿、臨席を命ずる……」

「命ずる、ですか」

 イロハは、思わず呟いた。

 サヨは、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 白影宮の皇女であるはずの彼女が、呼ばれるのではなく、命じられている。

 役名がないから。
 面がないから。
 王朝儀礼の中に、彼女を正しく置く場所がないから。

 ロウセツは、封書を横目で見て、低く吐き捨てた。

「いい面してやがる。保護、保護ってな。人を箱に入れる時ほど、連中は優しい言葉を使う」

 その声には、古い怒りがあった。

 宮廷を追われた面師の怒り。
 かつて皇女の未在面に触れ、幼いイロハへ《ナギノオモテ》を与えた者の痛み。

 イロハは、胸に抱えた面箱を見下ろした。

 蓋は閉じている。

 けれど、もう隠しているわけではない。

 あの中には、自分の救いと罪が眠っている。
 自分が選べなかった始まりがある。

 だからこそ、サヨには同じことをしたくなかった。

「サヨ様」

 イロハは顔を上げた。

「まだ、面は作れません」

 サヨは、静かにイロハを見た。

「はい」

「一晩で作れるものでもありません。今作れば、きっと間違えます」

「はい」

「でも」

 イロハは、言葉を切った。

 無面原の白い木々。
 《ナギノオモテ》の内側にあった空白。
 師匠の黒い傷。
 自分の失われた生面の欠け。

 それらが、まだ胸の中でざわめいている。

 だからこそ、今はっきりと言えることがあった。

「彫らせてはいけない人たちに、サヨ様の役を決めさせるわけにはいきません」

 サヨの瞳が、かすかに揺れた。

 アヤメが息を呑む。

 ロウセツは何も言わなかった。

 イロハは続ける。

「アリノリ様は、きっと正しいです」

 それが一番怖かった。

「サヨ様を傷つけようとしているわけじゃない。王朝を乱さないため、月喰いを広げないため、みんなを守るために、役名保留という形を取るんだと思います」

 けれど。

「でも、それはサヨ様に息を止めろと言うのと同じです」

 サヨは、ゆっくりと目を閉じた。

 白影宮で、面がないまま生きてきた皇女。

 人が忘れた役を覚えていた。
 失われた役を見届けた。
 終わった役を送った。
 まだ名のない一歩を踏んだ。

 その彼女に、王朝は言う。

 定まるまで、待て。
 危ういから、動くな。
 役名がないから、立つな。

 保護という名で。

「イロハ」

 サヨが静かに言った。

「わたしは、逃げません」

 その声は、驚くほど穏やかだった。

 アヤメが思わず一歩前に出る。

「サヨ様。名喰月見台がどういう場所か、まだわかっておりません。アリノリ=シジョウが《コトサダメ》を用いるなら、無理にでも役名を定められる可能性があります」

「ええ」

「保護審査とは名ばかりです。実際には、白影宮へ封じる口実かもしれません」

「ええ」

「ならば、行くべきではありません」

 アヤメの声は硬かった。

 護衛として、当然の言葉だった。

 危険な場所へ主人を向かわせない。
 封じられるとわかっている儀式へ、連れていかない。
 それが守る役だ。

 だが、サヨは首を横に振った。

「アヤメ」

「はい」

「わたしが行かなければ、わたしのいないところで、わたしの役が決められます」

 アヤメは言葉を失った。

「それは、守られることではありません」

 サヨは続ける。

「わたしは、保留されるために行くのではありません」

 風が吹く。

 遠くに帝都カミザの屋根が見えていた。
 白木の回廊。
 黒漆の門。
 朱塗りの舞台。
 そして、その奥に、月を待つ古い台。

 サヨは、その方角を見た。

「わたしが、何者として立つのかを、わたしのいないところで決められないためです」

 アヤメは、唇を噛んだ。

 前へ出るべきか。
 止めるべきか。
 守るべきか。
 退くべきか。

 その迷いが、一瞬だけ彼女の中で揺れた。

 だが、アヤメはやがて深く頭を下げた。

「では、お供します」

 サヨは小さく頷いた。

「ありがとう」

 イロハは、そのやり取りを見ていた。

 第2話の夜、サヨはアヤメの役を呼び戻した。
 あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です、と。

 けれど今、サヨはアヤメをその役に閉じ込めようとはしない。

 アヤメ自身が選び直すのを待っている。

 それが、サヨという人なのだと思った。

 ロウセツが肩をすくめる。

「で、俺はどうする。資格剥奪者はお呼びじゃねえだろうが」

「師匠も来てください」

 イロハは即答した。

 ロウセツが片眉を上げる。

「お前、さっきまで俺に怒ってなかったか」

「怒っています」

「だよな」

「でも、来てください」

 イロハは、まっすぐに師匠を見た。

「サヨ様の未在面に関わった最初の面師は、師匠です。名喰月見台が何なのかも、少しは知っているはずです」

「全部は知らねえ」

「少しでもいいです」

「俺がいたら、仮面籍庁は余計に騒ぐぞ」

「騒がせればいいです」

 ロウセツは、一瞬だけ黙った。

 それから、苦く笑う。

「弟子が強くなりすぎると、師匠は肩身が狭いな」

「それは自業自得です」

「言うようになったじゃねえか」

 ロウセツはそう言ったが、拒まなかった。

 代わりに、無面原の方角へ一度だけ振り返る。

「あの台はな、イロハ」

 彼は低く言った。

「面を作る場所じゃねえ」

「では、何の場所ですか」

「役を、月へ預ける場所だ」

 イロハは眉をひそめる。

「預ける?」

「そう言われていた。少なくとも、俺が宮廷にいた頃はな」

 ロウセツの声は重かった。

「だが、預けるってのは便利な言葉だ。返す気がある時も、ない時も使える」

 イロハの背筋が冷える。

 名喰月見台。

 月へ預ける場所。

 戻ってくるのか。
 それとも、戻らないのか。

 サヨは静かに聞いていた。

 自分の役が、そこへ預けられようとしている。
 定まるまで、守るために。
 けれど、その「定まるまで」はいつまでなのか。

 誰が、返すと決めるのか。

 その答えは、封書には書かれていない。

 夕暮れが近づいていた。

 今夜を越えれば、明晩には名喰月見台へ向かわなければならない。

 面はまだない。

 あるのは、無面原の木片。
 《ナギノオモテ》の真相。
 サヨ自身の一歩。
 そして、イロハがもう同じ過ちを繰り返さないと決めたことだけ。

 イロハは言った。

「準備しましょう」

 アヤメが頷く。

「白影宮へ戻ります。名喰月見台へ向かうなら、最低限の護衛と支度が必要です」

「仮面籍庁に妨げられない程度に、ですか」

「妨げられても進める程度に、です」

 アヤメの声には、静かな決意があった。

 サヨは、少しだけ微笑んだ。

 ロウセツはぼやく。

「物騒な姫様と護衛だな」

「師匠も十分物騒です」

「俺はただの元面師だ」

「ただの元面師は、無面原の木で禁忌の面を作りません」

「今日の弟子は刺してくるな」

「まだ足りません」

 ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。

 けれど、その緩みもすぐに夜へ沈んでいく。

 帝都の向こうに、月が昇り始めていた。

 暦では、満月ではない。

 それでもイロハは、これまでの出来事を思い出す。

 箱の中の満月。
 鉄鉢の水面に映った満月。
 方位盤の内側に出た満月。
 定役面の裏で震えた白い半面。
 濁った水桶に映らなかった顔。
 灰皿に浮かんだ鏡ノ客。
 無面原の木肌に映った問い。

 月は、空だけにあるのではない。

 映る場所があれば、そこに現れる。

 ならば、名喰月見台では何が映るのか。

 サヨの空白か。
 王朝の正しさか。
 アリノリの恐れか。
 それとも、喰われたことにされた名のほうか。

 イロハには、まだわからない。

 けれど、逃げない。

 サヨも逃げない。

 アヤメも引かない。
 ロウセツも、今度は隠れない。

 イロハは《ナギノオモテ》の面箱に手を置き、静かに息を吸った。

 息はできる。

 今度は、自分でそう答えた。

 そして、サヨが自分の息で立てるように。

 まだ名のない面へ、最初の線を入れる時が近づいていた。