EP 98

第10話 名喰月見台

第一節 ― 名を喰う台

 名喰月見台は、帝都カミザの北東、古い石垣の上にあった。

 白影宮よりも高く、天帝宮よりは低い。

 都を見下ろすには近すぎて、空へ届くには低すぎる。
 その中途半端な高さが、かえって不気味だった。

 そこは、月を見るための場所だと聞かされていた。

 けれど、門をくぐった瞬間、イロハは思った。

 違う。

 ここは、月を眺める場所ではない。

 月に、何かを差し出す場所だ。

 白い石段が、ゆるやかに上へ続いている。

 一段一段はよく磨かれていた。
 足を置くたび、石の冷たさが草履の裏から伝わってくる。
 白木の回廊の清らかさとも、ミナ=クラの冥祀社の灰白とも違う。

 ここにある白は、洗われた白だった。

 何かを削り落とし、汚れも傷も、泣き声までも拭い去って、表面だけを整えたような白。

 サヨは黙って石段を上っていた。

 公式参詣ではない。
 けれど、仮面籍庁の通達によって呼ばれた以上、もはや私的な外出でもなかった。

 アヤメは一歩後ろに控えている。

 いつもなら、サヨより半歩前へ出る。
 だが今日は違った。
 名喰月見台へ上がるのは、サヨ自身でなければならない。

 それを知っているからこそ、アヤメは前へ出ない。

 イロハは、その背中を見ながら、自分の面箱を抱え直した。

 面はまだ作れない。

 無面原の木片は、ロウセツが持っている。
 《ナギノオモテ》は、イロハの腰の面箱の中にある。
 どちらも、まだ使うものではなかった。

 今ここにあるのは、完成した答えではない。

 それでも、来た。

 サヨの役を、サヨのいない場所で決めさせないために。

 石段の上に出ると、月見台が見えた。

 円形の台だった。

 白い石を組み合わせて作られ、継ぎ目には銀のような細い線が走っている。
 遠くから見れば、月の輪郭を地上へ写したようにも見える。

 台の四方には、細い柱が立っていた。

 そこから幾筋もの白い紐が垂れている。

 月紐。

 イロハは、そう呼ばれるものを初めて見た。

 絹のように細く、白髪のように淡い。
 風もないのに、わずかに揺れている。
 その先には、まだ何も結ばれていない小さな札掛けがあった。

 役名札を吊るすためのものだと、アヤメが小声で教えた。

「本来は、月の下で役名を清めるための儀礼具です」

「本来は?」

 イロハが問い返すと、アヤメは唇を引き結んだ。

「……今は、保留役名を示す札を掛けることにも使われます」

 保留。

 その言葉が、白い紐の揺れと重なって見えた。

 台の中央には、黒い皿が置かれている。

 水盤ではない。

 漆黒の皿だった。
 厚く、浅く、底には濡れたような艶がある。
 砕いた月石を漆に混ぜて固めたものだと、ロウセツが低く言った。

「水を使わずに月を映すための皿だ」

 イロハは、皿の底を見た。

 まだ夜は浅い。
 空に昇った月は、満月ではない。

 それなのに、黒皿の底には、丸い光がかすかに滲んでいた。

 はっきりとは映っていない。
 けれど、そこに何かが出ようとしている。

 イロハの胸が重くなる。

 面箱の中に浮かんだ満月。
 鉄鉢の水面に出た満月。
 方位盤の式面の内側に現れた満月。

 また同じだ。

 空の月ではない。

 映る場所に棲む月。

 台の奥には、古い面棚があった。

 棚は半円形に並び、ひとつひとつの区画に白布がかけられている。
 どの面も直接は見えない。
 けれど、布の下に何かがあることだけはわかる。

 使われなくなった皇族面。
 役名を預けられた者の面。
 定まらぬまま封じられた儀礼面。

 そういうものが納められているのだろう。

 けれど、不思議なことに、棚からは冥祀社のような終わりの静けさを感じなかった。

 死者の面ではない。

 終わった面でもない。

 それらは、眠っているというより、起こされないように伏せられている。

 その中央だけ、棚が空いていた。

 いや、棚ではない。

 座だった。

 白い石で作られた小さな空座。
 面を置くための台座にも見える。
 人が座るには小さすぎる。
 だが、ただの物置にしては、あまりにも儀礼的だった。

 イロハは、その空座を見て息を止めた。

 空の面箱。

 白影宮の中央の棚。

 サヨのために用意されているのに、サヨの面だけがない場所。

 それと、同じ気配がした。

「ここに」

 サヨが静かに言った。

「わたしを置くのですね」

 誰もすぐには答えられなかった。

 アヤメの顔が強張る。
 ロウセツは口を開きかけて、閉じる。

 イロハは、空座を見たまま言った。

「サヨ様を置く場所じゃありません」

 サヨが、イロハを見る。

 イロハは、言い直した。

「サヨ様の役を、置かせる場所です」

 白い月紐が、ふ、と揺れた。

 まるで、その言葉を聞いたように。

 名喰月見台は、美しい場所だった。

 白い石。
 黒い皿。
 月紐。
 古い面棚。
 中央の空座。

 すべてが整っている。

 乱れたものは何もない。
 汚れもない。
 欠けた面も、泣いている子どもも、煤けた職面も、灰札を貼られた灰面もない。

 だからこそ、怖かった。

 灰面長屋のように、欠けたものが見えている場所ではない。
 冥祀社のように、終わったものを終わったものとして扱う場所でもない。

 ここでは、欠ける前に整えられる。
 終わる前に預けられる。
 乱れる前に封じられる。

 美しいまま、処分される。

 イロハは、そう直感した。

 ここは、面を眠らせる場所ではない。

 役を、月に預ける場所だ。

 そして、一度預けられた役が、必ず戻ってくるとは限らない。

 背後で、役人たちの足音が聞こえた。

 仮面籍庁の者たちだ。

 灰白の装束。
 整った足取り。
 手には札箱。
 顔には礼儀正しい無表情。

 彼らは怒鳴らない。
 武器も抜かない。
 ただ、所定の位置へ立つ。

 それだけで、月見台は裁きの場へ変わっていった。

 イロハは、サヨの横顔を見た。

 サヨは、空座を見つめている。

 怖くないはずがない。

 けれど、その足は下がらない。

 やがて、月紐の向こうから、ひとりの男が現れた。

 白金と墨黒の宮廷装束。
 黒に銀糸の混じる髪。
 手には、白漆の面箱。

 典役卿アリノリ=シジョウ。

 彼は、台の入口で深く礼をした。

「サヨ=ミカゲ様。ならびに白影宮の皆様。面師イロハ=ナギ殿」

 声は低く、柔らかい。

 そこには敵意がなかった。

 だから、イロハはさらに身構えた。

 アリノリは穏やかに続ける。

「名喰月見台へ、よくお越しくださいました」

 歓迎の言葉。

 けれどイロハには、それがこう聞こえた。

 よく、月へ預けられに来ました、と。