EP 99

第10話 名喰月見台

第二節 ― 保護という封印

 アリノリ=シジョウは、月紐の下を静かに歩いてきた。

 足音は小さい。

 だが、その一歩ごとに、名喰月見台の空気が整えられていくようだった。

 乱れたものを正す。
 傾いたものを直す。
 定まらぬものへ、名札を掛ける。

 そのために来た男。

 アリノリは、サヨの前で膝を折った。

 礼は深い。

 形だけなら、そこに侮りはなかった。

「サヨ=ミカゲ様。本日は御身を守るための審査です」

 柔らかな声だった。

 責める響きはない。
 糾弾する熱もない。
 むしろ、病人へ薬を差し出す医師のような静けさがあった。

 イロハは、その静けさが怖かった。

 アリノリは、サヨを憎んでいない。
 イロハを憎んでいるわけでもない。
 白化面の被害者たちを軽んじているつもりも、おそらくない。

 だからこそ、彼は迷わず封じる。

 守るために。

 正しくあるために。

 サヨは、アリノリを見下ろしたまま、静かに尋ねた。

「守るとは、どこへ置くことですか」

 月紐が、かすかに揺れた。

 アリノリは顔を上げる。

 その目は穏やかだった。

「定まるまで、月より遠ざけることです」

 即答だった。

 あらかじめ用意していた答えではない。
 彼にとっては、それが当然の理だったのだ。

「月より、遠ざける」

 サヨは繰り返した。

「はい」

 アリノリは立ち上がり、白漆の面箱を胸の前に持った。

「現在、白化面の異常は複数の役に及んでおります。神楽師、香役、番衆見習い、陰陽師。いずれも、役へ入る瞬間に乱れが生じている」

 彼は、すべてを知っていた。

 ユラの舞。
 カンナの香。
 ハルマサの抜刀。
 セイランの式面。

 それらはイロハたちが必死に見てきた傷だった。

 けれどアリノリの口から出ると、それは傷ではなく、分類された異常記録になる。

「そして、その多くに共通しているのは、未確定、矛盾、不安定な役名構造です」

 イロハの胸が痛んだ。

 未確定。
 矛盾。
 不安定。

 それは、人を救うための言葉ではない。

 でも、間違ってはいなかった。

 サヨの面はない。
 イロハの《ナギノオモテ》も普通の生面ではない。
 白化面の被害者たちは、役の入口を喰われている。

 アリノリは、事実を見ている。

 ただ、その先にある人の息を見ていない。

「サヨ=ミカゲ様」

 アリノリは、改めてサヨへ向き直った。

「貴女は血統上、疑いなく皇族に連なる御方です」

 アヤメの肩がわずかに緩む。

 しかし、次の言葉でまた強張った。

「しかし、皇族面台帳において、貴女の儀礼上の役名は確認できません」

 サヨは黙っている。

「白影宮の空の面箱。月痕の浮かぶ白絹。周囲の役喰い現象。これらを総合すれば、サヨ様の未登録役名が月喰い現象と強く共鳴している可能性は否定できません」

「だから、わたしを遠ざけるのですか」

「はい」

 アリノリは、迷わなかった。

「御身を守るためです」

 その言葉に、アヤメが一歩踏み出した。

「守るというのなら、なぜ白影宮に閉じ込めようとする」

 アリノリは、アヤメへも丁寧に向き直る。

「閉じ込めるのではありません。月光、反射媒介、公的儀礼、未確定役名との接触を制限するのです」

「言い換えただけです」

「いいえ。違います」

 アリノリの声は穏やかなままだった。

「これは罰ではありません。処分でもありません。被害を広げぬための保護措置です」

「サヨ様を危険因子のように扱うのか」

「危険因子ではなく、危険の中心に立たされている御方と見ています」

 イロハは、息を呑んだ。

 アリノリは、サヨを責めていない。

 むしろ、被害者として見ている。

 だが、被害者だからこそ隔離する。
 守るために遠ざける。
 危ないから、本人の意思より先に制度で囲う。

 それが、彼の正しさだった。

「サヨ様がこのまま宮外に出られ、未登録役名のまま月に映り続ければ、月喰い現象はさらに拡大する恐れがあります」

「恐れで、人を封じるのですか」

 イロハの口から、言葉が出ていた。

 アリノリは、静かにイロハを見る。

「恐れではありません。予防です」

「同じです」

「違います」

 アリノリは、わずかに首を振った。

「恐れは感情です。予防は責務です。私は典役卿として、王朝に属する役の乱れを放置できません」

 イロハは言い返そうとして、止まった。

 この人は、本気だ。

 本気で、王朝を守ろうとしている。

 ユラを止めたのも、ハルマサを封役したのも、セイランの記録を仮記録に落としたのも、イロハの出入りを制限したのも。

 全部、この人の中では同じ線の上にある。

 乱れを広げないため。

 制度の内側で、人を守るため。

 けれど、その制度の内側に入れない者はどうなるのか。

 灰面長屋の子どもは。
 借り物の面で水を汲みに来るミツは。
 白札を貼られたユラは。
 刀を抜かずに立とうとしたハルマサは。
 そして、面のないサヨは。

 イロハは拳を握った。

「アリノリ様」

 サヨが声を出した。

 誰もがそちらを見る。

 サヨは、怒っていなかった。

 泣いてもいなかった。

 ただ、まっすぐにアリノリを見ていた。

「わたしを月より遠ざけるとは、具体的には何をするのですか」

 アリノリは答えた。

「役名保留者として、白影宮内にて御身を安置します。宮外公式儀礼への参加は停止。月見、鏡水、面箱開封、未認定面師との単独接触は制限。皇族面台帳に新たな役名が確定するまで、公的な立場の使用を控えていただきます」

 ひとつひとつの言葉が、白い札のように落ちていく。

 安置。
 停止。
 制限。
 控える。

 どれも柔らかい言葉だ。

 だが、それはサヨの息の周りに紐を掛けていく言葉だった。

「つまり」

 サヨは言った。

「わたしは、皇女としても、そうでない者としても、立たないようにされるのですね」

「定まるまでです」

「その定まる日は、誰が決めるのですか」

「仮面籍庁、天帝宮典役院、陰陽寮、必要に応じて宮廷面師の合議により」

「わたしは」

 サヨの声は、ほんの少しだけ低くなった。

「その合議に入っていますか」

 アリノリは、沈黙した。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけだ。

 しかし、その沈黙が答えだった。

「サヨ様の御身に関わる審査です。御意向は、当然――」

「聞かれるのですね」

「はい」

「決めるのではなく」

 アリノリは、今度はすぐに答えなかった。

 イロハは、サヨの横顔を見た。

 穏やかだ。

 けれど、そこには確かな怒りがあった。

 声を荒げない怒り。

 自分の息を、他人の帳面に預けられようとしている者の怒り。

「守るために、息を止めるのですか」

 サヨが言った。

 月見台の上が静まり返った。

 アリノリの表情は変わらない。

 だが、イロハには、彼の目の奥がわずかに揺れたように見えた。

「息を止めるのではありません」

 アリノリは答えた。

「乱れが過ぎるまで、深くお休みいただくのです」

「眠る面は、いつ起こされるのですか」

「必要な時に」

「誰にとって必要な時ですか」

 アリノリは、もう一度沈黙した。

 サヨは続けた。

「わたしにとってですか。王朝にとってですか。仮面籍庁にとってですか。月にとってですか」

 風もないのに、月紐が揺れる。

 白い紐の先の札掛けが、小さく触れ合い、乾いた音を立てた。

 アリノリは、ゆっくりと白漆の面箱へ手をかける。

「だからこそ、審査します」

 彼の声は、再び整っていた。

「感情ではなく、儀礼として。混乱ではなく、判定として。御身の危険を、王朝の乱れと切り分けるために」

 面箱が開かれる。

 中には、定役面《コトサダメ》が納められていた。

 白漆の半面。
 細い目元。
 穏やかで、感情のない表情。
 額の小さな朱印。
 右頬の金の矩形線。
 左目下の黒い細線。

 美しい。

 あまりにも整っている。

 それは、怒りを持たない面だった。
 悲しみも持たない。
 迷いもない。

 ただ、定めるための面。

 アリノリは、それを両手で持ち上げた。

「サヨ=ミカゲ様。本審査において、私は典役卿として《コトサダメ》を用います」

 アヤメが低く言う。

「サヨ様の同意は」

「保護審査においては、対象者の同意が困難な場合、典役院判断で儀礼を進行できます」

「困難ではありません。サヨ様はここにおられる」

「だから、御意向を伺っています」

 アリノリは、サヨを見た。

「サヨ様。どうかご理解ください。私は貴女を消そうとしているのではありません」

 その声に、初めてわずかな熱が宿った。

「月喰いは、すでに多くの役を傷つけています。舞台に立てぬ神楽師。刀を抜けぬ武士。読めぬ記録。映らぬ顔。これ以上広がれば、帝都の役そのものが揺らぎます」

 イロハは、何も言えなかった。

 それは事実だった。

「サヨ様が中心であると断ずるつもりはありません。しかし、中心に近い場所におられることは否定できません。であるならば、典役卿として私は、最悪の事態を避けなければならない」

 アリノリは、まっすぐだった。

 冷たいだけの官ではない。

 彼には彼の恐れがある。

 王朝が崩れる恐れ。
 役が乱れ、人々が何者として生きればよいかわからなくなる恐れ。
 面が面として機能しなくなる恐れ。

 その恐れを、責務と呼んで押さえ込んでいる。

「未在は、放置すれば災いになります」

 アリノリは言った。

「定まらぬ役は、まず封じる。それが王朝の責務です」

 イロハの中で、何かが静かに燃えた。

 定まらぬ役。

 未在。

 それはサヨだけではない。

 かつての自分だ。
 灰面長屋の子どもたちだ。
 ユラの白札の外側の一歩だ。
 《ヒドメ》が最後に果たした、記録されなかった役だ。

 定まらないものをすべて封じれば、たしかに乱れは減るのかもしれない。

 だが、その中には、これから始まるはずだったものもある。

 サヨは、静かに息を吸った。

「アリノリ様」

「はい」

「わたしは、災いとして立ちたくありません」

「承知しております」

「けれど、災いになるかもしれないからといって、立つ前に封じられることも望みません」

 アリノリは、面を手にしたまま、サヨを見た。

「では、どのように立たれるのですか」

 その問いは、鋭かった。

 イロハの胸が痛む。

 それこそ、まだ答えのない問いだった。

 サヨの面はまだない。
 役名もない。
 どう立つのか、完全には言えない。

 アリノリは、そこを突いている。

 悪意ではなく、制度として。

 サヨは、少しだけ沈黙した。

 そして言った。

「それを、今から誰かに決められるためではなく」

 サヨは、月見台の中央の空座を見る。

「自分で選ぶために、ここへ来ました」

 アリノリは目を伏せた。

「選択には、形が必要です」

「はい」

「形なき意思は、儀礼上の役にはなりません」

「はい」

「ならば、まず保留が必要です」

「いいえ」

 サヨは、静かに首を振った。

「保留ではなく、見届けが必要です」

 その言葉に、イロハは息を止めた。

 第7話の白い客席。

 鏡ノ客の言葉。

 見届ける者がいれば、まだ名のない動きも、失われずに済む。

 サヨは、それを覚えていた。

 アリノリは、それを理解しない顔をした。

「見届け、ですか」

「はい」

「王朝儀礼に、そのような役名はありません」

「だから、まだないのです」

 月紐が、また揺れた。

 まるで、舞台の幕が開く前のように。

 アリノリは、静かに《コトサダメ》を顔へ近づけた。

「ならば、その未在を判定いたしましょう」

 面が、彼の顔に重なる。

 その瞬間、月見台の空気が変わった。

 礼儀はそのままに。
 美しさもそのままに。

 けれど、すべての余白が、少しずつ狭められていく。

 保護という名の封印が、始まろうとしていた。