Episode 01

第1話 ラーザァー選定

英雄の証

《月神の血と偽りの聖都》
The False Sanctum and the Moon God's Blood

 神聖なる白い神殿内で、巫女が凛とした声を放った。
 ――来る。

 広大な大地の上を滑るように巨鳥が飛翔する。眼下に広がる農地では、果樹栽培でブドウやオリーブが盛んに作られ、羊の放牧が白い雲模様を大地に描いている。どこまでも豊かな大地が広がっている。
 鳥の目から見る地平線の先に、聳え立つ高い防壁が現れる。強固な防壁に守られた都市国家メミスだ。
 壁に囲まれた都市の中心には小高い丘があり、その頂には神殿がある。この場所が城塞であり、この都市を守護する月の女神ムーミストからの信託を授かる場所である。
 国は巫女が神から授かる信託によって物事を決めるが、実際に国を動かしているのは十三人からなる神官と呼ばれる地位の者たちだ。
 その神官を父に持つアレクは今日も自宅の庭で魔導の訓練をしていた。
 今年で十六歳となるアレクは、アルフェラッツ家の第一子として生まれ、小さい頃から父に神官になることを義務付けられて育てられてきた。今日もそのために魔導の腕を磨いているのだ。
 庭の端に立ててある的をアレクは睨みつけた。アレクの気合はいつも以上だった。その理由は、あれが来る時期だからだ。
 法衣を身に纏ったアレクの天高く上げた掌の上で紅蓮の炎が渦巻いた。
「喰らえっ!」
 アレクの手から放たれた炎の塊は轟々と空気を巻き込みながら的に命中した。
 掌に炎の玉を出して的に投げつける。今では百発百中だが、昔は的を外してアレクは父によく叩かれたものだ。アレクにとって父は偉大であると共に畏怖の表徴でもある。今でも父は苦手だった。
 魔導の種類にもよるが、炎の玉をひとつ出しただけでアレクは肩で息をしていた。魔導は強力な力を持つが、それゆえのリスクが伴うのだ。
 燃え上がり灰となった的をアレクが見ていると、この場に何者かが手を叩きながら現れた。
「さすがは将来有望な魔導士だ」
「おお、シルハインドか!」
 アレクの前に現れたのはシルハインドだった。白銀の髪を持つ彼はアレクと同い年で、アレクが最も信頼している親友でもある。
 法衣を纏っているシルハインドはアレクと同じく魔導士だ。
「アレクと顔を合わせるのは一ヶ月ぶりになるか?」
「ああ、だいたいそのくらいだな。ところで探しに出た魔導具は見つかったのか?」
 シルハインドはひと月ほど前にある魔導具を探して旅に出たのだ。そして、昨晩遅くこのメミスに帰って来て、朝一で手に入れた魔導具をアレクに見せに来たのだ。
 胸にぶら下がるペンダントを見せつけながらシルハインドは自慢げに話しはじめた。
「これを見ろ、これがその魔導具だ」
 シルハインドの胸で蒼く妖々と輝く宝玉。これがシルハインドの探し出した魔導具だ。
 不思議な輝きを放つ宝玉にアレクは目を奪われた。
「これがソーサイアの魔導具か、なるほど不思議な力が伝わってくる」
「この魔導具は俺の魔導力を高めてくれるが、本当にソーサイアが創った魔導具なのかはわからない。そもそもソーサイアという者が本当にいるかも怪しいな」
 ソーサイアとは四貴精霊のひとりに数えられ、古の時代に起きた精霊同士の戦争で活躍した精霊だ。この精霊は魔導を極めたと云われ、深い敬意を表して〈蒼魔の君〉と呼ばれ、絵本にも出てくる有名な伝説上の精霊である。
 魔導力を増幅させたシルハンドは、右手に魔導を集中させて、黒い稲妻のような剣をつくり出した。
「アレク、久しぶりに剣の腕を競ってみないか?」
「おもしろい、その魔導具の力が本物か見極めてやろう」
 アレクは手に魔導を集中させ閃光のような剣をつくり出した。
 魔導剣による決闘。魔導剣とは魔導でつくり出した剣のことで、黒い稲妻を剣にしたものや、普通の剣の形をしているものなど多種多様の種類がある。
 剣を構えた二人は互いを見据えながら間合いを取った。
 足を地面に滑らせながら歩いていたシルハインドが急に地面を蹴り上げた。
「うおぉー!」
「くっ!」
 噛み合った剣を挟んで二人は互いのことを睨みつけた。
 不適な笑みを浮かべたアレクの姿がシルハインドの視界から消えた。
 次の瞬間、シルハインドは回し蹴りを喰らって、足をすくわれて転んでしまった
「シルハインドよ、勝負あったようだ」
「……参った」
 地面に尻を付いたシルハンドの首にはアレクの剣が突きつけられていた。
「俺の負けは負けだが、おまえはもっと正面から攻めてくる奴だと思っていたぞ」
「どんな戦法を使おうと私は他の者に負けるわけにはいかないのでな」
「神官になるためか……おまえも大変だな」
 アレクは剣の決闘と言われれば、剣のみで戦うような者であった。だが、それでは神官にはなれないのだ。アレクは他の者を蹴落としても上へ行かなければならない。
 例え神官を父に持っていたとしても、アレクが神官になれるとは限らない。神官になるには厳しい条件が必要なのだ。
 神官になるためにはまず魔導士になる必要がある。そして、魔導士になるためにも厳しい条件があるのだ。
 このメミスでは魔導士になれるのは貴族の男だけである。そして、もうひとつの重要な条件に〝エイース〟を所有していなければならないというのがある。
 エイースとは人間が極めて稀に持って生まれてくる特別な〈血〉のことである。この特別な〈血〉を持っていなければいくら努力をしようと魔導士にはなれない。
 アレクは幸運な不運か魔導士の素質を持って生まれた。だが、魔導士や神官になるためのハンデを負っている。それでもアレクは父の職を継いで神官になるために魔導士となった。しかし、アレクは誰にも言えないアレクの両親とごく一部の人間しか知らない大きな秘密を持っていたのだ。
 魔導剣を消したアレクがシルハンドに手を差し伸べた。アレクに手を借りて立ったシルハンドは笑みを浮かべ、アレクもそれに誘われて微笑んだ。だが、次の瞬間にアレクの笑みは凍りついた。
 シルハンドは突然アレクの手を引き寄せて、アレクの身体を強く抱きしめた。アレクは少しの間、惚けてしまったが、我に返りシルハンドの身体を突き飛ばした。
 ――いけない。
 アレクの脳裏にいつかのシルハンドの顔が浮かぶ。
 その日のシルハンドはいつにも増して真剣な顔だった。あの日、アレクはシルハンドのある言葉を言われた。それは嬉しくもあり、アレクの苦悩を増やすものでもあった。
 シルハインドは一息ついてアレクの顔をまじまじ見つめて呟いた。
「男として育てられていなければ俺の嫁にしたかった」
「戯言を抜かすな!」
「だが、いつまでも隠し通すわけにもいかないだろう」
「私は生涯男性を演じ続けなければならない」
 そう、アレクはアルフェラッツ家の〝長女〟として生まれたのだ。
 アレクの母はアレクを生んだ後に子供の産めない身体になり、アレクの父は別に女に子供を産ませて男の子供を産ませようとも考えたが、〝アクエ〟を所有する者が生まれてくるとは限らない。
 アレクの父は悩んだ挙げ句、愛する妻と自分との間に生まれたアクエを所有する我が子を〝長男〟として育てることにした。神官という職務はどんなことをしても手に入れたいものなのだ。
「アレクが女として育てられたならば、おまえの母上のような美しい女性に育ったと思うのだがな」
「私は男だ。戯言をこれ以上抜かすようならば承知しないぞ」
「いやいや、おまえは美男子として女たちに噂されているようだが、やはり真実を知っている俺からすれば女の顔にしか見えない」
 いつの日からか、アレクは自分を見るシルハンドの目が変わってしまったことに気づいていた。だが、アレクはアルフェラッツ家の〝長男〟だ。シルハンドに対する態度もそうでなければならない。
 今年でアレクは十六歳になるが、それまでの間、父から剣術や魔法を叩き込まれ男装をさせられ完全に男として育てられた。
 男として育てられたアレクには女性としての自覚もある。そうでなくては女性としての自分を隠すことはできない。
 だが、思春期になった頃から私は女性への憧れを強く抱くようになってしまった。その最も大きい要因は私の母にあった。
 男として育てられるアレクを見て不憫に思ったのか、母は、ある時、父に隠れて私に女装をさせたのだ。それからというもアレクは度々母によって女装させられ、そのたびに女性への憧れを抱くようになっていた。そして、最近のシルハンドの態度。
 魔導士であるアレクは普段から厚手の法衣で身を包んでいたので、女性の体系を隠すことにはそれほど困ることはなかった。だが、それでも女性であることがばれぬように、できる限り人とは会わないようにしていた。
 アレクは父が望むように人生を歩んできた。だが、ふと思う――自分は富と名誉を手に入れるための道具なのか……。自問の日々が続き、エイースを持って生まれなければよかったと思うことがある。
「アレク、俺はおまえのことを……」
「それ以上申すな……」
 シルハンドの気持ちが胸に突き刺さる。
 幼き頃から人生を共にしてきた友人。果たして今も友人なのか。そのことがアレクの苦悩を増やしていた。
 押し黙るアレクをただ見つめるシルハンド。時間にしては短いものであっても、二人に取って――特にアレクにとっては苦しく長い時間に思えた。その場を壊してくれたのは法衣を着たひとり男だった。
「神殿からの遣いで参った。久しぶりだシルハンド、そしてアレク」
 この男のことはアレクもシルハンドもよく知っている。同じ師のもとで学んだ兄弟弟子――ザヴォラムだった。
 ザヴォラムは軽くお辞儀をしたが、アレクを見る目つきは鋭い。いつもそうだ。
 明るい顔をしたシルハンドがザヴォラムの肩に腕を回した。
「元気にしてたか? 俺はもちろん元気だったがな」
「貴公は相変わらずだな。魔導士としての威厳に欠ける」
「それは魔導士の恥さらしと言うことか?」
「そう聞こえたのならば、そう捉えるがいい」
 少し苦笑するザヴォラムに対して、シルハンドは大きな口を開けて笑った。
 この二人の輪にアレクは入ることができなかった。
 アレクとザヴォラムは互いのことを昔からよく知っている。シルハンドという共通の友もいる。だが、アレクとザヴォラムの間には溝がある。そのことはザヴォラムがアレクの〝秘密〟を知らないということもあるだろうが、それよりも、ザヴォラムがアレクを近づけまいとする雰囲気を漂わせていた。
 アレクを無視しているわけではないが、シルハンドは久しぶりの友人との話に華を咲かせた。
「この魔導具を見てくれないか、なかなかの代物だと思うのだが?」
 胸に輝くペンダントを見せ付けるシルハンドに対して、ザヴォラムの口調は淡々としていた。
「不思議な光を放つ魔導具だな。まるで、これ自体が生き物のようだ」
「もっと驚くとかしないのかおまえは?」
「神殿で雑務をしていると、たまにこのような魔導具を見かけることがある。それに神殿の地下にある宝物庫を拝見させて頂いた時、世にも珍しい魔導具の数々を見ることができた」
「この魔導具は俺の物だ。眺めるだけのお宝ではない。その点では俺の勝ちだな」
「意味がわからんな、その勝負は」
 首を傾げるザヴォラムだが、シルハンドにとっては満足だった。相手が世にも珍しい魔導具を見たと言うなら、自分は世にも珍しい魔導具を持っていると言う。ただの負けず嫌いの子供のようだ。
 ザヴォラムは気を取り直して、アレクに視線を向け、シルハンドにも視線を向けた。
「はじめに言ったが、私はシルハンドと雑談をしに来たのでなく、神殿の遣いとして参った。アレク、シルハンド両名を巫女様がお呼びだ、午の刻までに神殿に集まるように」
 踵を返してザヴォラムは二人に背を向けて歩き出そうとした。それにシルハンドが声をかけた。
「もう、行くのか。俺はしゃべり足らんぞ」
「他の者のところにも行かねばならんのでな。それに、貴公の話は後で十分に聞く時間があるから心配するな」
 ザヴォラムは後ろを振り返った。しかし、見たのはシルハンドの顔ではなく、アレクの顔であった。
 不適に笑ったザヴォラムは何も言わず、風のように去って行った。
 アレクの心にザヴォラムの笑みが焼きついた。不安の影が過ぎる。
 この時期に国の中枢である神殿から遣いの者が来て、しかも巫女がお呼びなれば、あれしかないとシルハインドは思った。
「おそらくあれに選ばれたのだろうな」
「そうだな、私たちはラーザァーに選ばれたのだろう」
「だとすると、死にさえしなければ神官になれるのは確実だろうな」
「ああ、そうだな……」
 ラーザァーとはメミスの都に四〇年に一度攻めて来る怪物たちと戦うために選抜される魔導士たちの総称だ。
「俺は一度自宅に戻って支度をする。では神殿でまた会おう」
「ああ、神殿で会おう」
 片手を上げるアレクを尻目にシルハンドが去っていく。
 アレクは不安だった。この日が訪れるであろうことを予感はしていた。しかし、このままで本当にいいのか……。

 ベッドで横になる色香の漂う中年の女性はひとりで読書に明け暮れていた。
 相手を気遣うような優しいドアをノックする音。
 女性は本にしおりをはさみ、静かに顔をドアに向けた。
「アレクかしら?」
 この女性はドアをノックする音だけで、その人物が誰であるかわかるのだ。そう、この女性はアレクの母であった。
 静かにドアを開け、恭しくお辞儀をしたアレクが部屋の中に入って来た。
「母上、お話し等ことがあるのです」
 神妙な面持ちのアレクに対して、母は優しく微笑み、自分の近くにある椅子を指差した。
「そこにお座りなさい」
「はい」
 椅子に腰掛けたアレクは呼吸を整えた。そして、高まる緊張を抑えてから重い口を開いた。
「神殿に呼ばれました。シルハインドも呼ばれましたので、おそらくラーザァーに選ばれたのだと思います」
「まあ、それは、お父上様もさぞお喜びになるでしょう」
 そう言いながらもアレクの母の顔は浮かない表情をしている。
「母上もそう思っているのですか?」
「いいえ。こんなことを言ってはいけないのはわかっています。ですが、ラーザァーに選ばれるということは死ぬかもしれないということ、自分の子供の死を望む母親がどこにいましょうか? わたくしはおまえに普通の女として生きて欲しいのです。あなたはアレクサンドラなのですよ」
 アレクサンドラという名がアレクの本当の名。アレクと二人きりの時はアレクの母はこの名で呼ぶのだ。
「私はアレクです。アレクサンドラなどという名前ではありません」
 必要以上に否定するアレクの顔を母は哀しい瞳で見つめていた。
 この時代に生まれたのがいけないのか、特別な血を持って生まれたのがいけないのか。恐らくはこの家に生まれてしまったのかいけなかったのだろう。
 目を瞑った母の目じりから一滴の涙が頬を伝って落ちた。
「わたくしはおまえが不憫でなりません。他の家の子として生まれれば、農民の子に生まれれば魔導士などにならずに済んだのに、父を神官に持ったばかりに、おまえには辛い思いをさせてしまったわ」
「私は母上の子として生まれることができて幸せです。ですが、もう後戻りはできないのです。――行ってきます」
 急に立ち上がったアレクは母の言葉をもう何も聞かないうちに部屋の外に出た。母といると自分が女に戻ってしまう。心は掻き乱され、押し寄せてくる苦しさからアレクは逃げた。
 女である母は幸せだ。それなのに、自分は男でも女でもない。どちらにもなれない自分が惨めに思えてきた。
 心を落ち着かせながらアレクは家の外に出ると、騎獣小屋に向かった。
 アレクの騎獣は蝙蝠の翼を持つ黒馬――バーホースであり、この国でも空を飛べる馬を所有するものは数少ない。
 蝙蝠の翼を持つバーホースの他にも、鷲や白鳥の翼を持つバーホースもおり、翼を持つ全ての馬の総称をバーホースという。その中でも蝙蝠の翼を持つバーホースは気性が激しく、騎獣になることはまずない。しかし、この牝のバーホースはアレクと相性がよく、アレクのいうことだけは聞く。
「さあ、イーラ、神殿までひと飛びしておくれ」
 アレクはこのバーホースに詩や歌の意味を持つイーラという名をつけ与えた。アレク以外の者にすれば、気性の激しい荒くれ者のバーホースにイーラという名は相応しくないと言われる。しかし、アレクはこの名こそが、このバーホースに相応しいと思っている。
 イーラの首を繋いでいた魔導錠を解き放ち、背中に騎乗したアレクは手綱を強く握った。
 地面を強く蹴り上げイーラが騎獣小屋を飛び出す。
 数メティート(1メティート=1.2メートル)地面を走ったところで、イーラが地面を激しく蹴り上げ、黒い翼を大きく広げた。次の瞬間、イーラはアレクを乗せて天高く舞い上がった。
 青空が広がり、眼下にメミスの都が小さく見える。遥か遠くまで続く地平線の先には、天を衝くザルハルト山が見える。
「イーラ、少し高く上がりすぎだぞ。神殿まで行くのに、ここまで上がる必要はないだろう」
 イーラは声高らかに鳴くと、急降下をはじめた。
「おいおい、はしゃぎすぎだぞイーラ」
 アレクを背に乗せたイーラは興奮し、今にもアレクを落としてしまいそうなほどだった。
 身体全身でアレクは風を感じた。風は生命の息吹を運んでくれる。とても心地よく、清々しい気分になる。アレクはイーラに乗っていると、魂を解放した気分になる。
 魔導大国として名を馳せたメミスの都は華やいでいる。こんなにも恵まれた国は他にはないだろう。だから、四〇年に一度、怪物たちが攻めて来ることがわかっていようとも逃げ出さない。女神ムーミスの加護の元、恵まれた国を誰しもが守ろうとする。
 メミスの都は他の都市のように高くて頑丈な壁で囲まれている。その理由は他国の侵略から都市を守るためと、四〇年に一度攻めて来る怪物から都市を守るために頑丈な壁で都市を囲っている。大抵の怪物は壁とムーミストの加護により、都市に侵入することができないが、稀にだが空からの襲撃がある。そのためにバーホースに乗って監視をする職務を担う者がいる。アレクもその一人だった。
 アレクの視線にバーホースに乗った魔導士が入った。すぐにその魔導士の元へイーラを飛翔させる。
 バーホースに乗った若い魔導士が手を振る。
「やあアレク、バーホースに乗ってどこにお出かけかな?」
「神殿に呼ばれたのだ」
「ほお、それはすごいじゃないか。この時期に呼ばれるとなると、ラーザァーしかない。さすがはメミス第一飛空部隊の部隊長殿だ」
「まだ、ラーザァーに選ばれたと決まったわけではないさ」
 決まっていないと言いながらも、アレクの表情はにこやかだった。期待は重荷にもなるが、嬉しいことでもある。成果をあげられなければ、男として育てられた意味がない。全ては神官になるためにあるのだ。
 魔導士が突然空に向かってに顔を上げた。
「アレク、あれを見ろ、魔物じゃないか?」
「怪鳥のようだが、ムーミスト様のお力であれ以上近づけまい」
「だが、仕事だから追い払わねばいけないな」
 空を旋回する体長2メティート(2.4メートル)の怪鳥に向かって、魔導士は手に溜めた光の弾を投げつけた。
 光の弾は風よりも早く飛び、怪鳥の身体を掠めた。
「外したか」
 魔導士はそう呟いたが、怪鳥は羽をやられたらしく、上下によろめきながら逃げるようにして飛んでいく。
 翼から紅い血を線のように垂れ流し、怪鳥はメミスに都を離れる。広がる農地を越えて、山を越えて、ムーミストの領地を離れる。
 怪鳥の目に映る広大な森。
 人里離れた森は瘴気を放ち、人間は決して近づけず、普通の魔物もここで暮らすことはできまい。ここで暮らせる魔物は魔物の王と呼ばれる者と、その配下の者たちくらいだ。
 怪鳥は深い森に向かって降下し、森が開けた巨大な湖の辺に降り立った。
 静かだった湖の水面が揺れる。
 水の底から巨大な泡が上がり、水面で激しく弾け飛ぶ。そして、湖の底から禍々しい低い声が響いてくる。
「メミスのようすはどうだった?」
 声は大地を震わせ、森を揺らし、この森に棲む者たちを震え上がらせた。
 怪鳥は身体を震わせながらも、湖の主に向かって鳴いて状況を説明した。
 水面が激しく波打った。
「ほう、メミスの魔導士に手負いを負わせて逃げ帰ったと申すか!」
 怪鳥は心の底から震え上がり、その場に失神した。
 湖の底から巨大な泡が幾つも上がり、水面を爆発させた。
 飛び散る水飛沫の向こうに巨大な影が見える。その影はおそらく9メティート(約10.8メートル)だが、全身が出ているわけではなさそうだ。長く伸びた身体の大部分は湖の中に浸かったままだ。
 巨大な影は失神した怪鳥をひと呑みにして、再び湖の底へと帰っていった。
 静まり返った湖に男の声が響く。
「貴様が怒りを覚えるたびに喰われる家臣が可哀想だ」
 厚いローブに付いたフードをすっぽりと頭に被り、湖の辺に立つ人物。今のは、この者の声だ
 湖の底から激昂した声が響き、世界を振るわせる。
「今日は何用だ、ソーサイアの遣いの者よ。今の我は機嫌が悪い、抜かしたことを言いおると、お主とて喰ろうて腹に納めてくれるわ」
「やれるものならやってみるがいいレザービトゥルド。だが、私とて抵抗はさせてもらう」
 湖の主レザービトゥルドは一転して静かな口調になった。
「……用件を言え」
「メミスの巫女がラーザァーの召集をかけた」
「それならば我も今聞いたぞ」
「ザルハルト山の封印は明日解かれ、その際に神官長が都の外に出る。神官長を殺すならば、よい機だと思わぬか?」
「我に襲撃をしろと申しているのか? それならば断じてできん。ムーミストとの取り決めを破るわけにはいかん。我とてそこまで落魄れてはおらぬ。神としての自尊心がある」
 フードの奥で静かな笑い声が響いた。それを聞き逃さなかったレザービトゥルドは怒りを露にした。
「何が可笑しい! 我を笑うとは何事だ!」
「貴様はもはやムーミストに負けた時に神ではなく怪物になった。宝に眩んだ哀れで醜い怪物よ」
「許さぬぞ、許さぬぞ、お主とて生かしておけぬ」
「貴様がやらんというのならば、明日の襲撃は私に任せてもらう。では、さらばだ」
 湖が激しい水飛沫を上げた時にはすでに、ローブを纏った男の姿はなかった。
 巨大な岩でできた蛇のような頭を出したレザービトゥルドは、天に向かって激しく咆哮した。

 神殿内は殺伐とした空気が張り詰めていた。それによってアレクの緊張も高められる。
 大広間を見回すと、この国でも名高い魔導士たちが多く目に入った。この者たちも巫女に呼ばれて来たに違いない。やはり、アレクはラーザァーとして呼ばれた可能性が高くなった。
 大広間に集まっている魔導士の数は五名。まだ来ていないシルハインドの数を合わせると六名となる。六名という数はラーザァーの数とも一致している。
 ラーザァーとは古代語である星を意味するラーザが複数形になったもので、魔導によく使用される六芒星からラーザァーの数は6人と定められている。
 この場にいたザヴォラムとアレクの視線が合うと、ザヴォラムの方から睨み付けてすぐに視線を外した。アレクは睨まれることをした覚えはない。昔から目の敵にされてしまっているのだ。
 魔導士になるには貴族でなければならない。アレクは父を神官に持つ、だが、ザヴォラムの父は魔導士でもなんでもない、ただの貴族に過ぎない。息子が魔導士であっても父親が魔導士である可能性は低いのだ。魔導士とただの貴族では爵位が同じでも格差が生じてしまう。この国の階位は完全に力によって統治され、それでも暴動が起きないのは魔導士の力が強大であるためと、神と巫女の力によるものが大きい。
 魔導士になる〝素質〟があっても、多くの者は魔導士になる〝資格〟がないのだ。
 だいぶして、シルハンドがこの大広間に入って来た。
 全く悪びれた表情も見せないシルハンドは、そのまま迷わずアレクの元へ一直線に向かった。
「やあ、アレク」
「遅かったなシルハインド」
「絶世の美女である巫女様に会えるのでな格好よく決めて来なければならないと思ってな、髪型を整えるのに時間がかかってしまった」
「そんなことに……まったくおまえって奴はどうしようもない奴だ」
 突然静けさが訪れ、誰もこの場に現れた人物に対して恭しく頭を下げはじめた。
 法衣を纏った高貴な顔立ちの男。その男の肩には淡く輝く女の霊が寄り添っている。この男の名はキルス。神官長を務める巫女の双子であり、この国で巫女に次いで権力を持つ者だ。
 代々巫女の家系では男と女の双子が必ず生まれて、女が巫女になり男がそれを守る魔導士となる。
 巫女は生涯清らかな身体でなければ魔導を失ってしまうので、特別な事情を除いては男の方が結婚をして子供を作ると決まっている。
 神官長キルスはまだ跡継ぎがいないために神殿内で厳重な警備下に置かれ、神殿の外に出たこともないと云われていて、その顔を見たことのある者も少ない。
 この場に集められた魔導士たちは高位な魔導士であり、誰もがひと目でここに現れた霊を連れた若者がキルスであるとわかった。
 キルスが一歩足を踏みしめるたびに場の空気が凛とする。
 頭を下げながら視線を少し上げたアレクの目とキルスの目が合ってしまった。
 黒く冷たい瞳。その瞳で見据えられたアレクは心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。もはや、キルスの眼はヒトの眼ではない――魔性の眼だ。
 アレクはすぐに視線を下に向けたが、頬に冷たい汗が流れた。
 無表情な顔をしたままキルスはこの場に集まった魔導士たちを一瞥した。
「なるほど、強い魔導を持った者たちばかりだ。まずは顔を上げるがよい、私は堅苦しいものが嫌いでね、この国全てが腹立たしい」
 この国で大きな発言力を持つ神官長の言葉とは思えなかった。変わり者だとの噂はあったが、こんな男が神官長では国がいつ崩れても可笑しくないかもしれない。
 魔導士たちが顔を上げると、キルスは踵を返して歩き出した。
「巫女が待っている、私について来い」
 それだけを言って歩き出したキルスの後を魔導士たちが付いて行く。魔導士たちの動きはぎこちない。まるで下手な人形師に操られているようにキルスの後をついていくのだ。
 床には赤い絨毯が敷かれ、部屋の両脇には聖水が流れる水路がある。この部屋に案内されて来た魔導士たちはひと目である娘に魅了された。
 金の装飾の首飾りや腕輪で飾られた白い身体についた乳房は隠されることなく露出され、その胸の下から布が身体のラインに沿って巻かれ、くびれた腰と優美な脚を協調していた。
 大理石の玉座に座る妖艶な魅力をうら若き巫女。この国で最も権力を持ち、世界でも美女である巫女は、自分の前に跪いた魔導士たちを魔導のこもった黒い瞳で見つめた。
 巫女はとても妖艶な色気を放ち、男であればこのような女性を抱きたいと思うのかとアレクは考えるが、巫女はあまりにも高貴で男の方が怖気づくのではないかと考え直す。そして、巫女と男っぽい女のどちらが好かれるのかと考えて、すぐにそのことを頭から掻き消した。
 陶磁器のように白い顔から玲瓏たる声が零れた。誰をも魅了する巫女の魅言葉だ。
「うぬらを呼んだのは他でもない、ラーザァーに任命するためじゃ」
 四〇年に一度このメミスの都に攻めて来る怪物と戦うのがラーザァーの役目だが、ラーザァーが本来倒さねばならないのはレザービトゥルドという大怪物だ。このレザービトゥルドという大怪物がメミスに四〇年に一度怪物を送り込んで来ているのだ。
 レザービトゥルドとの争いはメミスの都が建国される以前にさかのぼる。
 元来この土地は資源豊かな土地であり、特に金などの鉱物が豊富に採れた。この土地を守っていたのが土地神であるレザービトゥルドであった。
 レザービトゥルドはある時、ムーミストという月の女神と夫婦となった。だが、レザービトゥルドは浮気性で度々他の女神と不倫をして、ついにムーミストの激怒を買ってしまったのだ。
 ムーミストはレザービトゥルドの盗み出し、レザービトゥルドを追い払ってしまおうと考えたのだが、レザービトゥルドは激しく抵抗して自分の宝を全て呑み込み怪物へと姿を変えてしまった。しかし、レザービトゥルドはこの地を追い払われて、ムーミストはこの地に自分を信仰する人間たちによる国を造らせた。
 実はムーミストはレザービトゥルド宝が目的で夫婦となったのだ。そのことを知ったレザービトゥルドは激しい怒りを覚えた。
 深手を負わされたレザービトゥルドは四十年に一度この地に怪物を送り込んでやると言い、そしていつか自らの力を蓄えたのちに、自らの手でムーミストを信仰する全ての人間たちに復讐して、メミスを滅ぼしに来ると言って完全に姿を暗ませた。
 四十年に一度怪物を送り込むという約束通り、怪物がメミスの都に攻めて来て、メミスは大きな打撃を受けてしまった。この四十年に一度という日は、国の守護神ムーミストの力が最も弱まってしまう日でもあったのだ。
 レザービトゥルドの送り込んで来る怪物は都市に大きな打撃を与えるが、滅亡までには至らない。レザービトゥルドの目的はあくまで自らの手でメミスを滅ぼすことであり、送り込む怪物はメミスの民に恐怖を与ええるためのものなのだ。
 一度目の怪物の襲撃で思わぬ打撃を受けてしまったムーミストは策を講じることにした。
 ムーミストは四十年に一度の来るこの日のことを聖戦と呼び、この日に備えて準備を講じ、ある魔導具を用意したのだった。
 玉座に座った巫女は話を続けていた。
「うぬらにはここにいるキルスと共に〈血の雫〉を取って来てもらいたい」
 この〈血の雫〉こそがムーミストが用意した魔導具である。
 レザービトゥルドを向かい撃つために選ばれたラーザァーは、強い魔力を得るために〈血の雫〉を取りに行かねばならない。これを取って帰って来た後に儀式をすることによって正式なラーザァーとなれるのだ。
 〈血の雫〉と呼ばれる真っ赤な宝石の形をしているもので、この魔道具はムーミストが四〇年の年月をかけて自分の魔力を結晶化したもので、魔導士が服用し一時的に強大な魔力を得ることができる。
 〈血の雫〉は四〇年で六個しか作られず、そのためにラーザァーの数は六人と決められている。
 巫女の横にいたキルスが前へ一歩出た。
「明日の早朝、私と共にザルハルト山へ向かってもらう。今日から君たちラーザァーは責務を終えるまでこの神殿で暮らしてもらうこととなる」
 〈血の雫〉は険しい山道を進んだ先の洞窟の中に厳重な封印をされ保管されて、洞窟にかけられた封印を解くには巫女の双子である神官長の力が必要になり、その神官長がラーザァーを導き、〈血の雫〉を取りに行くことが仕来りになっている。
 ラーザァーを神殿に待機させるのは戦いの日が来るまで厳重に警備下に置くという理由と、この神殿内に流れる神聖な力が魔導士の潜在能力を最大限まで引き出してくれるからだ。
 ラーザァーたちの後ろに立っていた侍女たちが恭しく頭を下げ、その侍女たちについてキルスが説明をした。
「後ろにいる侍女たちが君たちに与えられた部屋まで案内する」
 アレクに近づいて来た侍女は恭しく頭を下げた。
「お部屋まで案内いたします、わたくしに付いて来てくださいまし」
「ああ頼む」
 アレクたちが歩きはじめようとすると、他の侍女の腰に手を回しているシルハインドがアレクに軽く手を振った。
「アレク、後でおまえの部屋に行く。では、また会おう!」
 歩き去ったシルハインドの背中にアレクが言葉を吐いた。
「まったく、女好きさえなければいい奴なのだがな」
 この言葉を聞いてアレクの横にいた侍女は顔を赤らめながら聞いた。
「アルフェラッツ様は女の方がお嫌いでございましょうか?」
「いいや、そういうわけでもない」
「でしたら、お部屋でわたくしのことを抱いてくださってもいいのでございますよ」
「戯言を申すな!」
「申し訳ございません。ですが、やはりアルフェラッツ様はお堅い方なのでございますね。気品に溢れていらっしゃり、真摯な心を持つアレク様はわたくしたち侍女の間でも噂の的になってございます」
「そんな話はどうでもよい、早く部屋に案内してくれ」
「畏まりました」
 歩き出そうとした侍女とアレクを玲瓏たる声が止めた。
「待つのじゃ」
 アレクは身の毛もよだつ思いだった。その声は巫女以外の誰でもない声。その声に呼び止められてしまった。
 ゆっくりとアレクが巫女の方を振り向くと、すぐにキルスが近づいてきてアレクの横にいる侍女に話しかけた。
「アレク・アルフェラッツに巫女が直々にお話しがある、おまえは外でアルフェラッツを待っていろ」
「畏まりました」
 侍女は恭しくキルスにお辞儀をすると、部屋の外に出て行ってしまった。
 残されたアレクは不思議な顔をしてその場に立ち尽くすことしかできなかった。なぜ、自分だけが残されてしまったのかわからない。不安が頭を過ぎる。
 硬直するアレクに対して巫女が妖艶な顔で微笑む。
「近う寄れ」
「はい」
 アレクは巫女に誘われるままに歩き出した。その動きは操り人形のようだ。
 約2メティート(2.4メートル)の距離までアレクは近づいたが、巫女はまだ微笑みながら手招きをする。
 アレクと巫女の距離がどんどん縮まり、やがてアレクは巫女の目の前で跪く格好となった。
 美しく白い手がアレクの顎へと伸ばされる。魔導を秘めた黒瞳がアレクの顔を映し出す。今にも二人に顔はくっついてしまいそうな距離しかない。思わずアレクは息を呑んだ。
「巫女様、何を……?」
「おもしろい運命の持ち主じゃなもう下がってよい」
 アレクは逃げるように後ずさりをした。巫女に心を覗かれたような気がする。そう、深い黒瞳によって全ての秘密を見透かされた気分だ。アレクは大量の汗をかいて顔面蒼白になった。
 身体の振るえと同様を押し殺しながらアレクは言葉を喉から搾り出した。
「失礼いたします」
 早足でアレクは部屋から逃げ出した。
 部屋の外では先ほどの侍女が待っており、アレクの顔を見て少し驚いた表情をした。
「どうなさいました?」
「なんでもない、少し気分が優れないだけだ」
「まあ、それは大変でございます、すぐにお部屋まで案内いたしますわ」
 侍女は自然に手をアレクの背中に回し、寄り添って長い廊下を歩き出した。
 案内された部屋はさして大きくはないが、これと言って困ることはない。窓があり、家具も一式揃っている。
 侍女はテーブルの上に置いてある銀色のベルを手に持って説明をした。
「御用がおありの時はこのベルをお鳴らしください、すぐにわたくしが参ります」
 このベルは魔導具のひとつで、侍女が耳にしているイヤリングとセットになっており、ベルを鳴らすことによってイヤリングを振動させて音を鳴らすことができるのだ。
 侍女はベルをアレクに手渡した。
「試しにお鳴らしになってください」
「わかった」
 アレクがベルを鳴らすと侍女が身体をビクンと振るわせた。
「あぅん……大変結構でございます」
 そう言いながら侍女はアレクの腰に自分の両腕を絡めて来た。魔導士は男しかいないので相手を楽しませるために侍女は教育されている。
「私に触れるな!」
「きゃっ!」
 アレクは侍女を大きく押し飛ばし、侍女は地面に尻餅をついた。
「すまない、押し飛ばそうと思ったわけではないのだ」
 侍女はアレクが差し伸ばした手に掴まって立ち上がった。
「やはりアルフェラッツ様は女がお嫌いで?」
「いいや違う、ただ身体に触れられるのが嫌いなだけだ。さあ、早く部屋の外に出て行ってくれ」
「失礼いたします」
 侍女は恭しく頭を下げて部屋を出て行った。
 部屋に一人きりになったアレクは肩の力を抜いてベッドの上に寝転んだ。
 侍女の誘いをあのような形で拒んだのが今になって思うとまずかったように思える下手に女性に近づかれるのも困るが、変な噂を立てられるのもまずい。アレクはため息をついて天井を見つめた。
 アレクは他人といる時はいつも緊張が張り詰めた状態で心が休まらない。こうして一人でいる時が最も心が休まる時間だと言えればいいのだが、そうでもない。一人でいるといらぬ考え事としてしまい、不安が募るばかりで胸が締め付けられる。アレクが気を休める時間などないのだ。
 しばらくしてノックの音が聞こえた。すぐにアレクは飛び起きて背筋を伸ばす。
「どうぞ」
 部屋の中に入って来たのはシルハインドだった。
「約束どおりやって来たぞ」
「来ないと思っていたが……?」
「どうしてだ?」
「てっきり私は、おまえは侍女と……」
 アレクは恥ずかしさから言葉を詰まらせたが、シルハインドはアレクが何を言いたいのか理解した。
「ああ、あの侍女とはまだ何もない、夜にまた会おうことにした」
「そうか、何もなかったのか、それはよかった」
「よかったってどういうことだ?」
「おまえに泣かされた女がどれだけいると思っているのだ?」
 アレクに軽蔑された眼差しで見られたシルハインドは笑ってごまかした。
「そんな話誰に聞いた? 俺は誰も泣かしてなどいないぞ」
「もういい、おまえの話を信じよう」
「なんだその言い草は、信じていないだろ?」
「本当に信じたから、その話はもう終わりだ」
「信じようが信じまいが、まあ今はいいとしよう。それよりも、これをおまえの渡しに来たのだ」
 シルハインドは自分の指にはめていた指輪をアレクに手渡した。
 手渡された指をアレクはまじまじと見つめた。蒼く輝く宝石のついた指輪の輝きは、シルハインドの持つソーサイアの魔導具の輝きに似ていた。
「なんだこの指輪は?」
「俺の持っているソーサイアの魔導具と一緒に見つけたものだ。魔導具のような気を発しているが、効力は不明だ。お守り代わりだと思ってもらってくれ」
「ありがとう、快くもらうことにしよう」
「では、俺は自分の部屋に帰るよ」
「もう行くのか?」
「ああ、少し外に出てくる」
「外出が禁じられているのことを忘れたとは言わせないぞ」
「俺が守ると思うか?」
 シルハインドは背中越しに手を振って部屋を出て行ってしまった。
「まったく、あいつは……」
 アレクはもらった指輪を指にはめて少しだけ微笑を浮かべた。

 アレクが出て行った後、人払いをしたこの部屋に残ったのはキルスと巫女だけであった。
 静かな眼差しでキルスは巫女の瞳を見据えた。巫女のことを全く動じず見据えられる者はキルスを措いて他にはいないのではないだろうか。
「巫女はなぜあの者をお選びになられた?」
 あの者とはアレクのことだった。
 巫女は無邪気な笑みを浮かべ答えた。
「わからぬ。ラーザァーの選定は自動的じゃて、真意を知っておるのはムーミスト様だけじゃろう」
「変革の時ということになるのか、はたまた神の気まぐれか」
「気まぐれとは口が過ぎるぞ、神官長の言葉とは思えぬ」
「なりたくてなったのではありませんゆえ」
 キルスは笑って見せた。
 巫女にとってこの男だけは計り知れない。双子でありながら、キルスのことだけは視えないのだ。巫女にとって怖ろしいものがあるとすれば、このキルス以外に他ならないのだ。
 肩に寄り添い甘える精霊の頭をそっとキルスは撫でて天を仰いだ。
「あの者が女であることは黙さねばならない。女が魔道士になっただけでも問題であるのに、ラーザァーに選定されたとなれば暴動となるだろう」
「この秘密はわらわ3人の心に留めなくてはならぬ」
「心配ない、ローゼンは口が堅いからな」
 そう言ってキルスは肩に寄り添う精霊ローゼンを愛でた。
 ローゼンは悪霊ではないが、キルスは完全に憑かれている。少なくとも巫女はそう思っている。
 日に日にキルスの生命力を含める魔導力はローゼンを生かすために費やされ、キルスの身体は内面から蝕まれている。キルスが天寿を全うすることは到底ありえないのだ。
 神殿内に蔓延るキルスとローゼンに関する噂。その中でも誰もが口にするのは『キルス様はお変わりになられた』である。
 キルスは静かに部屋を出て行こうとする。その背中を見つめる巫女の瞳は物悲しい。生前のローゼンとキルスの仲が、今でも目を瞑ると思い出される。あの時のキルスはあんなにも輝いていたのに……。
 巫女のもとを去ったキルスは一直線に自室に向かう。昔から部屋に引きこもる傾向のあったキルスだが、ローゼンを身体に取り憑かせてからは、それがひどくなった。今では公式の行事でもない限り、部屋にこもりっきりだ。
 自室に戻ってきたキルスは椅子に腰掛け、机の上に置いてあった手紙の封を切る。
 手紙の内容は、他国で戦争や内乱が頻発していること、神々のようすが可笑しいこと、土地が荒れ、天変地異が頻発していること。その他、メミスの都外で起きている事象について記されていた。
 風の噂では近々隣国がメミスに攻め入って来るとの情報もあり、キルスの憂鬱は晴れることがない。いっそのこと世界全てが滅んでしまえばいいと感じることもある。誰もが報われるわけではない、ならば全てが滅んでしまえば喜びも悲しみもなくなり、全ては平等になるのではないかと考えるほどだ。キルスの心は卑屈になっていた。
 巫女とキルスはアレクが女であることをひと目見てすでに見抜いている。キルスはそこに淡い期待を覚える。女が魔導士となり、正式なラーザァーになろうとしている。このまま隠し通せれば、アレクはおそらく神官となるだろう。
 変革の時。全てはムーミストの導きと考えるのがメミスの民としての道理だろう。世界は常に変わり移ろうもの、だからメミスも変わらなければならない。キルスは変革を心から楽しんでいるのだ。
 キルスの肩に寄り添うローゼンの口から微かな声が零れる。
「キルス……様」
「わかっている、ローゼンの気持ちはわかっているよ」
 胸が締め付けられる思いだった。ローゼンが何を言おうとしているにか、本当はわからない。わかりたいと思うだけなのだ。それがキルスにとって酷く哀しいものとして圧し掛かる。
 霊となってキルスの身体に封じ込められた当初のローゼンには人間としての感情があった。それも時が経つにつれて失われ、崩壊し、今では名前を呼んでくれるだけだ。このままではローゼンは再びキルスのもとから消えてしまう。それだけはなんとしても防ぎたかった。
 全てが己のエゴであり、ローゼンの魂をこの世に縛り付けることは本当の幸せではないかもしれない。全ては過ちであったかもしれない。しかし、ローゼンがいなくなることは、キルスには到底耐えられない。いつか消えてしまうのがわかっているからこそ、怖ろしい、怖ろしくて堪らないのだ。
 キルスは愛しいひとを強く強く抱きしめた。
 それなのに、ローゼンの表情は無表情なままだった。

 メミスが大きな国となっていくにつれて人口が増え、いろいろな考えを持つ者たちが現れた。その中にはこの国の守護神であるムーミストを外面だけで信仰する者もいた。
 魔導士である中年男のザッハークは、まだ日が沈み切っていないうちから、女を囲って酒を飲んでいた。
「酒が切れたぞ、早く酒持って来い!」
 このザッハークは兄を神官に持ち、彼自身も地位の高い魔導士のひとりであり、その中でも魔導具つくりの名手としての名もあった。そして、この男はアレクの伯父でもあったのだ。
 ザッハークはメミスの周りに広がる農園で取れるブドウで作った上質なワインを片手に、残った手は女の腰に回して上機嫌に酔っていた。そんなザッハークに対して女は嫌な顔をしつつも抱かれる。貴族であるだけで平民は逆らえないというのに、魔導士であればなおさらだ。
「酒はまだかって言ってるんだ。俺様を誰だと思っているのだ!」
 魔導士であるザッハークは自分の持つ権力と金を使い、人々から忌み嫌われる貴族の一人でもあった。だが、このザッハークは金使いが荒く、常に借金ばかりで家財道具を売り払ってまで見栄を張るような奴で、アレクの父が継いだ――つまり神官の家系である本家の財産を欲しがっていた。そして、機会があれば神官にもなりたいと考えていた。
 何時しか神官の欠員が出た時、ザッハークも神官候補として名前が上がったのだが、酒に溺れ借金ばかりしている男は神官としては相応しくないとされて、神官に成り損ねた男なのだ。だが、この国の魔導士は数が少ないため、魔導士であればまた神官になるチャンスが巡って来ることもある。
 魔導具つくりの腕は名手と言われようが、仕事がもらえなければいい酒も飲めない。そのことがよけいにザッハークを酒へと走らせる。
 酔ったザッハークの手が女の腰から尻へと伸ばされる。だが、その手は丁重に振り払われる。
「ザッハーク様、私は娼婦ではございませんの。そういうことは他所のお店でなさってください」
「いいじゃねえか、尻ぐらい触っても減りはしないだろう」
「ザッハーク様が神官様におなりになられたら考えますわ」
 誰もがザッハークは神官になれやしないと思っている。思っていても誰も口では言わない。しかし、ザッハークにもそれはわかっていた。だから、そのことを言われると酔いも醒めてしまう。
 ザッハークは酒を飲むのを突然止めた。まだまだ飲み足りないが、今日は金の工面が付かず持ち合わせがほとんどなかった。兄に借金を頼みに行って断られたばかりなのだ。
 金を持っていないのなら、ザッハークの地位で酒代を踏み倒すということもできないこともないが、彼にもプライドがある。
 覚束ない足取りで立ち上がったザッハークはテーブルの上に銀貨を二枚置いて店の外に出た。この瞬間、店員たちはほっとした表情を浮かべた。
 酒場を出たザッハークは定まらぬ視界で辺りを見回した。
 日は沈み、夜の蒼い風が吹いている。
 魔導灯と呼ばれる魔導力をあらかじめ入れて置くことによって輝く街灯のお陰で、都市からは夜の闇の恐怖は消え、夜遅くまで人々が外出をしている。だが、今日に限っては人がひとりもいなかった。
 酔いが醒めたせいか、ザッハークは身体を震わせて背筋を通る寒さを感じた。だが、どうやらまだ酔いは醒めていないらしい。
 視界がぼやけ、霧に霞む光景。歪む地面。灰色の空。
 どこか不思議な場所に迷い込んでしまったかの光景がザッハークの眼前に広がっていた。
 ザッハークは頬を両手で叩いて首を振った。酔いを醒まそうとしたのだ。だが、酔ってはいるが幻覚を見るほどではない。
 強い風に吹かれ、ザッハークは腕で顔を押さえた。――魔導力を帯びた風。魔導士であるザッハークは身体全身を振るわせた。それは恐怖だった。
 黒い霧がザッハークの目の前で渦巻き、ローブを纏った人型を作り出す。頭巾を被った者の顔は見て取れない。
 ローブが風に揺れた。
「金と権力、世界の全てが欲しくはないか?」
 突然のことにザッハークは何も言えずにたじろいだ。
 風が巻き起こり、ローブが激しく揺れた。
 次の瞬間にはローブを纏った人物はザッハークの目と鼻の先に立っており、ローブから伸びた手によってザッハークの口は鷲掴みにされていた。
「うぐっ……うう……おまえは……!?」
 ザッハークは頭巾に隠されていた顔を見た。その顔とは!?
 鷲掴みにした手から蟲が放たれた。それは細長く、ザッハークの口の中に入って食道を通り、身体の中に進入した。
 この蟲は人の悪の心を喰って成長し、人間を思いのままに操る蟲なのだが、ザッハークはそんなことなど知る由もなかった。
 一度気を失ったザッハークが目を覚ますと、そこは歓楽街の裏路地だった。
「夢か?」
 いつものように女遊びをした挙げ句に酒によって泥酔していまい、そのまま倒れるように寝てしまったのか?
 ザッハークは腹を擦りながら嗚咽を漏らした。これは酒のせいか、それとも……?
 全ては夢だったとザッハークは自分に言い聞かせ、暗い夜道を歩きはじめた。

 ベッドの中に入ってどれくらいの時間が経っただろうか。