Episode 02

第2話 血の雫

英雄の証

 ――寝付くことができない。
 アレクはしかたなく眠ることを止めてベッドから起きた。
 部屋の外に足を運ぶと、長い廊下は少し冷え冷えとしており静けさに満ちていた。
 手にランプ持ったアレクは足音をなるべく立てぬように、ゆったりとした足取りで廊下を歩きはじめた。
 神殿で過ごす初めての夜は緊張と不安で、鼓動の高まりが治まらない。
 ラーザァーに選ばれたアレクはその次点で神官候補として有望だということが言える。そして、今回の働きによっては神官への道が大幅に近付く。そのためアレクに肩には大きなプレッシャーが伸し掛った。
 アレクは生まれた時から父によって歩むべく道を決められて魔導士となった。そして、怪物が四十年に一度この都に来ることは決まっているので、この年にラーザァーにならねばならなかった。決められたレールがあり、そのレールから外れたことはない。アレクは父の期待にいつでも答えてきたのだ。
 暗い廊下の先に淡いランプの光が見えた――人影だ。
 淡いランプの光は素早い動きで廊下を曲がって隠れてしまった。その動きがたどたどしく逃げるようだったので、アレクは不審人物かもしれないと思い、すぐに後を追った。
 謎の人物は廊下を曲がってすぐにところに立っていた。その人物と目が合ってしまったアレクは思わず声を張り上げてしまった。
「ザヴォラムじゃないか!?」
「大きな声を出すな、皆は眠りについているのだぞ」
「そんな時間におまえは何をしているのだ?」
「その問いはそのまま返そう」
「そうやって答えをはぐらかすのは卑怯だと思うぞ」
「何が卑怯だ、理屈が通じぬな」
 二人は押し黙ってしまった。
 アレクは緊張して眠れないなど口が裂けても言えるはずがなかった。
 言葉も途切れたところでザヴォラムは何事もなかったように歩き出した。それに対してアレクは特に用もないのに呼び止めてしまった。
「どこに行くのだ?」
「見回りの途中だ」
「私も同行する」
「好きにするがいい」
 見回りの途中だったのか、とアレクは少し落胆した。ザヴォラムも緊張や不安のせいで寝付けぬのなら、心がだいぶ休まっただろうに。
 静かに二人が神殿内を歩いていると、やがて中庭に通じる道に出た。
 星々が煌く宇宙のもとで、水面に揺れる静かな月。
 神殿の廊下から見える中庭は夜の静寂さと月明かりを浴びて美しく輝いていた。その中庭にいる人物をアレクとザヴォラムは見て取った。
 小さな池の近くで地面に腰を下ろし、肩を寄せ合う二人。それはキルスとその身体に取り憑いている美しい女性の霊だった。
 キルスの取り憑いている霊は彼の婚約者であるという。その婚約者の名はローゼン。彼女が死んだ時、キルスは禁じられた古の魔導によってローゼンを自分の身体に取り憑かせたのだと云われている。
 アレクとザヴォラムはこの世のものではない幻想的なもの魅入られて、無言で佇む二人を見つめてしまったが、しばらくして相手に見つかる前にこの場を早々に立ち去ろうとした。だが、キルスによって呼び止められてしまった。
「二人とも待て!」
 静かな夜にキルスの声が響いた。足を止めるアレクとザヴォラム。
 身体を強張らせる二人に対してキルスは囁くように言葉を零した。
「今宵は月が綺麗だ、そう思わんか二人とも?」
 キルスから話かけられるなどアレクは夢にも思わなかった。
 ゆっくりと歩み寄って来るキルスに対してアレクの緊張は高まり、それに比べてザヴォラムは平然とした態度を保っていた。
「キルス様、何か御用で御座いましょうか?」
「特に用はないが、夜更けの神殿内で人と出くわすことも珍しい。二人は何をしていたのだ?」
 ローゼンが死んだ後、キルスは自室に引きこもるようになり、必要以上に人とかかわらないとアレクは聞いていた。そのキルスが会話を続けようとしているのだ。
 アレクは理由を話すのが恥ずかしく口ごもり、ザヴォラムが先に口を開いた。
「神殿内の見回りをしておりました」
 この言葉にキルスは少し妖々たる笑みを浮かべた。その笑みの真意をアレクは理解できないが、ザヴォラムには察しがついていた。
 この国の神官長と巫女は人の心を覗くことができるとまことしやかに囁かれている。その神官長を前にして嘘を突き通せる者はまずいない。
 神殿内に耳を傾けたキルスはザヴォラムの瞳を見据えて呟いた。
「今宵はいつもより見回りの数が多いらしいな」
 この発言を聞いたザヴォラムは胸を鷲掴みにされた気分だった。やはり、囁かれている噂は事実なのだと思い知らされるはめになってしまった。
 口を摘むんでしまったザヴォラムからアレクへキルスの視線が移動する。
「第一飛空部隊長の君は夜の見回りとは無関係だろう? 君は何をしていたのだね?」
「私は……その……」
 妖々とした闇色の瞳でキルスはアレクを見据えた。この瞳から逃げる術をアレクは知らなかった。この瞳はいつか見つめられた巫女の瞳と全く同じ――いや、それよりも深い色をしていた。
「口ごもり嘘を考えるくらいなら、答えなくてもよい。私も静かな夜に出歩くのが好きだからな」
「私は嘘をつこうなどとは……!?」
 アレクの目が大きく見開かれ、キルスの後方にあるものを見定めた。
 場の静寂を掻き消すようにアレクの叫びが木霊する。
「お避けください!」
 瞬時にアレクの手から放たれた炎の玉はキルスの横を掠め飛び、その後ろにいた鋼の鱗を持った蛇の怪物に命中した。
 燃え上がる怪物と、その周りにいる怪物たちを見ながらキルスは不機嫌そうに呟いた。
「この神殿の警備も大したことがない。ムーミストの力が弱っているのか、それとも……?」
 怪物たちに混ざって人間の姿も見受けられる。都市内に怪物が入り込んだことはあっても、この神殿内に怪物が入って来たことは一度もなかった。
 敵を確認したアレクは魔導を発動しようとし、ザヴォラムはキルスの前に立って守ろうとしたのだが、二人はキルスの黒瞳――魔眼に見つめられて身動きを封じられてしまった。
 身体が全く動かない。かろうじて動かせたのは顔だけであった。
 アレクがキルスに向かって声を張り上げる。
「何をなさるのですか!?」
 驚いたアレクに対してキルスは冷笑を浮かべた。
「奴らの狙いはこの私だ。ならば相手をしてやろうではないか」
 月明かりを浴びてキルスの守護霊であるローゼンはよりいっそう輝きを増した。
 キルスの身体から流星のように放たれたローゼンは敵を輝きで呑み込み一掃した。それは一瞬のできごとであり、アレクは唖然としてしまった。
 敵は跡形もなく消え、ローゼンはキルスのもとに擦り寄りより厚い抱擁を交わした。
「キルス……様」
 ローゼンが口を開いた。そのことにアレクを驚かずにはいられなかった。
「その霊は人語をしゃべるのですか……いや、感情というもがあるのですか?」
 哀しい表情をしてキルスが首を振った。
「いや、彼女は死人だ。生きていた時の記憶は徐々に失われ、今は私の名を呼ぶことで精一杯だ」
 先ほどローゼンが放った眩い光のせいか、人々が起き出して中庭に集まって来た。
 キルスはアレクに背を向けた。
「私は部屋に戻る。この場に集まって来た者への説明は君に任せる」
 アレクの視界からキルスが消えた瞬間、彼女にかけられていた魔導は解かれ。身体の自由が利くようになった。
 アレクが辺りを見回すとザヴォラムの姿もいつの間にか消えていた。
 その後、アレクはこの場に集まって来た魔導士などに敵の襲撃を伝え、神殿内は騒然とした雰囲気に包まれた。
 怪物が神殿内に侵入したことも前代未聞であるが、キルスを襲おうとした中に人間がいたことが大問題だとされた。
 まさか、メミスの都に神官長への反逆を企む者がいようとは、それは守護神であるムーミストへの反逆に等しい。
 神官長を襲った者は自発的に行動をしたのか、それとも誰かに操られたのか、今のところは何もわからない。全ては深い夜の闇の呑み込まれてしまった。

 巨大な雷鳥が天を駆け、崖から見渡す光景は遥かなる地平線を望めた。
 山の上は風が吹き、黄土色の砂埃が舞っている。
 騎獣に乗った7人の影。名だたる魔導士の騎獣はどれも高価もので、中でもアレクとキルスの乗る騎獣は群を抜いており、アレクの騎獣は蝙蝠の翼を持つ黒馬、キルスの騎獣は白い翼を持つペガソスであった。
 〈血の雫〉を取りに来たのはラーザァーと神官長であるキルスの七名。この者たちだけで〈血の雫〉を取りに行かねばならないという仕来りがあるのだ。
 ザルハルト山には凶暴な怪物がいることで有名なのだが、〈血の雫〉を取りに行くルートはムーミストの守護により怪物を寄せつけない。そのため、何事もなく旅路は進む。
 一行はザルハルト山の中腹にある洞窟へ向かっている。その洞窟の中に〈血の雫〉は封印されているのだ。
 約3メティート(約3.6メートル)はあるであろう岩の前でキルスは騎獣から降りた。この岩の奥に洞窟の入り口があるのだが、その前にまずは岩を退かし、その後に結界が張ってあるのでそれも解かなくてはならない。
 岩に触れたキルスはそのままラーザァーのいる後ろを振り向いた。
「私の役目は〈血の雫〉への案内役と、この先にある結界を解くことのみ、それ以外のことで君たちの手助けをすることは何があろうと禁じられている。まずは君たちの力によってこの岩を退かしてもらう」
 この岩はただの岩ではなく、魔導士たちが一定量の魔導を注がなければ動かない魔導石の一種だった。この岩をラーザァーたちに退かさせることによって技量試しというわけだ。
 二本の角を持つ黒馬――バイコーンから降りたシルハンドが一目散に岩に向かって走りした。それに続いて他のラーザァーたちも我先にと巨石に向かう。
 一足遅れてゆっくりと騎獣イーラから降りたアレクの横でザヴォラムはため息をついた。
「こんなところで競って何になるというのだか……」
 その意見にアレクは同感であったが声には出さない。
 シルハンドが手が激しい光を放つ。
「動かすなど悠長なことを言わず、破壊してしまった方が手っ取り早い!」
 岩を破壊しようとしたシルハンドの前にキルスが立ちはだかった。
「これはラーザァー全員に与えられた試練だ」
 キルスによって魔導でつくり出した半透明の壁――魔導壁が雷光を手にしたシルハンドの前に立ちはだかる。
 硝子が砕けたように弾け飛ぶように魔導壁が壊され、煌く破片の向こう側でシルハンドに手を向けるキルスが口元が歪む。
 槍と化している雷光の先端はあと少しでキルスの手を貫くところであった。その距離は1ティート(約1.2センチ)もなかった。
 冷や汗を流すシルハンド。次の瞬間、彼の身体はキルスの手から放たれた波動によって後方に大きく飛ばされていた。
 砂煙を上げながら地面に倒れたシルハンドの身体を光の鎖が拘束する。その鎖を放ったのはキルスだ。
「君の実力はわかった、そこで大人しくしていたまえ。さて、この岩は彼を除いて動かすとしよう」
 唖然とするラーザァーたちにキルスは何事もなかったように視線を向けた。
 動揺しつつもアレクが一番初めに岩に魔導力を注ぎはじめた。それに続いて他の者も魔導力を注ぎはじめる。
 巨石が微かに揺れるが、それ以上は動かない。まだまだ、魔導が足りないということだ。
 額に汗を滲ませるラーザァーたちを見てキルスは冷ややかな表情をしている。
「その程度の実力ではラーザァーを名乗ることはできんな」
 相手を小ばかにした言い方を聞いたラーザァーたちの魔導力が一気に上昇した。
 巨石がゆっくりだが横に移動しはじめた。だが、巨石の動きが急に止まった。ラーザァーたちの動きも止まっている。
 ――強大な力を持つ者が近くにいる。
 アレクは辺りを見回した。近くに何かがいるのは確かだ。だが、どこに?
 気高き咆哮が轟々と木霊した。空気が振動し、ラーザァーたちはそれを見た。
 ただの獣の鳴き声ではない。それは、ドラゴンの一種、地竜の鳴き声であった。
 蜥蜴を大きくしたような身体には、鋼の鱗が並び、眼は黄金色に妖しく輝いている。頭から突き出た角だけでも巨大だというのに、その全長は約一〇メティート(約一二メートル)もあった。
 アレクは文献などでドラゴンの絵を見たことはあったが、本物を目の当たりにしたのはこれがはじてだった。
「まさか、この山にドラゴンが……いや、ザルハルト山にドラゴンがいるなど聞いたことがないぞ!」
 そう、この山にはドラゴンは棲んでいないと云われていた。では、何故?
 ラーザァーたちは身構えはするが、それ以上動けずにいた。そんな中、キルスは冷ややかな口調でラーザァーに言った。
「ムーミスト様の守護も届かぬか……」
 この言葉に含まれた意味をアレクはすぐに感じ取った。
「もしやキース様は、あのドラゴンが……!?」
 〈血の雫〉を手に入れさせまいとする何者かの差し金であるとキルスは悟っていたのだ。
 この地竜を取り巻く魔導。地竜は強大な力を持つ魔導士によって操られている。
 地竜が地響きを立てながら迫って来る。ラーザァーは各々に魔導を発動し、地竜に攻撃を開始した。
 風、炎、雷光が地竜に襲い掛かる。
 ドラゴンが咆哮をあげた途端、ラーザァーの放った魔導は掻き消されてしまった。このドラゴンの咆哮は強力な魔導なのだ。
 地竜はラーザァーの前まで来て大きく口を開けた。
 誰かが大きくな声で叫んだ。
「避けろ!」
 次の瞬間、地竜の口から毒霧が吐き出され、ラーザァーは成す術もなく立ち尽くしてしまった。だが、ラーザァーたちは巨大なドーム状の魔導壁によって守られていた。
 魔導壁でラーザァーを守ったのはキルスだった。
「手助けをすることは何があろうと禁じられている。今のは自分を守ったにすぎない。あのドラゴンは君たちで倒したまえ」
 この事態に及んで手助けをしないとは、どうのような考えがあるのか。
 メミスの民である者にはムーミストの言葉は絶対なのだ。キルスが手出すけをできないのは、ムーミストの定めた仕来りだからだ。
 ザヴォラムが白銀に輝く槍を魔導によってつくり出した。
「ムーミスト様のご加護のもとに!」
 ザヴォラムはキルスの張った魔導壁の中にはいなかった。ドラゴンを討つべく果敢にも独りで立ち向かっていた。
 魔導によって瞬間的に天高く舞ったザヴォラムに向かってアレクが叫んだ。
「ザヴォラム止せ!」
 法衣を風に靡かせ、ザヴォラムは白銀の槍を地竜に向けて投げつけた。
 白銀の槍が地竜の硬い鱗に突き刺さった。だが、びくともしていない。
 地竜が大きく身体を震わせ、地面に着地したザヴォラムの身体を巨大な尾が直撃を喰らわす。
 大きく飛ばされ気を失い動かなくなったザヴォラムにアレクがすくさま駆け寄る。
「大丈夫かザヴォラム!?」
 返事はないが息はある。
 アレクはザヴォラムを安全な物陰まで運び、現状を見定めた。
 ラーザァーは地竜との本格的な戦いをはじめている。そして、キルスはどこに?
「この者は私が見ていよう」
 アレクは驚いた表情をしてキルスを見つけた。キルスはアレクに気配を悟られぬまま、すぐ横に立っていたのだ。
「キース様!?」
「現状は思わしくない。例え選ばれし魔導士とはいえ、〈血の雫〉を服用していない魔導士では、あの〝魔導具〟の相手は荷が重い」
「今、何と?」
「あれは巨大な〝魔導具〟だ」
 キルスは地竜を見つめて言っていた。あの地竜と思われた怪物の正体は〝魔導具〟であるとキルスは言っているのだ。
「キース様、あれが魔導具であるとすると、誰が私たちの妨害を……?」
「その話については後でゆっくりと話そう。今はドラゴンを倒して来たまえ」
「しかし、どうやって倒せば?」
「そのようなこともわからぬのか? 世界に誇るメミスの魔導士の質も落ちたものだ。あの魔導具である地竜には核が存在しているのが視えないのか?」
 アレクはキルスにザヴォラムを任せ、地竜に向かって走り出した。
 地竜の魔導具には原動力がある。それをアレクは視た。
 黄金に妖しく輝く双眸が核だとアレクは見定めた。
「ドラゴンの眼を攻撃しろ!」
 自らそう言って、いち早くアレクは雷光のような剣で地竜の瞳を突き刺そうとした。だが、そう上手くはいかない。
 地竜の前足が横に振られアレクに直撃しようとした瞬間、アレクの身体は仲間の一人によって押し飛ばされて、アレクを押し飛ばした者が身代わりとなって宙を舞った。
 吹き飛ばせれ宙を舞った魔導士に地竜が素早く噛み付き、肉を引きちぎって喰らった。
 悲痛な叫び声と共に血が地面に降り注ぐ。
 目を覆いたくなるような光景の中、アレクは全身に血を浴びながら、今がチャンスと魔導剣を地竜の眼に突き刺した。仲間の死を悼んでいる暇などなかった。
 咆哮をあげる地竜。だが、まだ油断はならない。核はもうひとつ残っている。
 だが、地竜は急に身動きを止めて動かなくなってしまった。核がひとつでは動くことができないのか?
 動かなくなった地竜から目を離さぬまま、ラーザァーも身動きを止めて息を呑んだ。
 動いている。地竜を纏う魔導が爆発的な力を発する。
 誰もが眼を見張った。
 天に向かって咆哮する地竜の背中が割れ、中から巨大な翼が生えたではないか。
 舞い上がった竜は空の上から火炎を吐き地上を焼き尽くそうとする。状況は最悪と言えた。
 アレクはすぐさま騎獣の元へ走った。
「逃げずに待っていてくれたのだな。いくぞイーラ!」
 黒い翼をはためかせ、黒馬がアレクを乗せて天に舞い上がる。
 炎の合間を掻い潜りアレクはイーラの背から力強く飛び上がった。アレクの手が竜の角を掴む。足が宙ぶらりんとなり、大きく首を振る竜からふり飛ばされそうになるが、アレクは手に力を入れてぐっと堪える。
「ムーミスト様のご加護のもとに!」
 声を張り上げたアレクは魔導剣を竜の眼に突き刺した。
 甲高い咆哮とともに落ちる竜からアレクはイーラの背中に飛び移った。
 地響きを立てながら地面に落下した竜を空から見下げながら、アレクは手綱を引いて竜の真横にイーラを下ろした。
 ローゼンにシルハンドを任せたキルスが、すぐさま地竜に駆け寄り核を調べた。
「鼓動はまだある。では、なぜ止まったのか……!?」
 二つの核を破損させられ竜は落ちた。しかし、その両眼からは魔導が発せられている。
 キルスの調べていた核が多く脈打ち魔導波と呼ばれる風を巻き起こした。
「逃げろ!」
 キルスの叫びに従うまでもなく、近くにいたラーザァーは魔導波によって後方に吹き飛ばされてしまった。
 アレク砂煙などから目を守るために顔の前に上げていた腕を下ろした。そして、目を見開いた。
 闇よりも黒い触手のような何かがキルスの身体に巻きついていた。その触手は地竜の核から伸びているようだが、その正体はいったい?
 シルハンドが声をあげながらキルスの元に急いだ。
「それは〈混沌〉だ!」
 一同に衝撃が走る。
 〈混沌〉とは天地創造以前の空間に存在していた世界の元が溶け合っていた〈はじまり〉の物質であると云われている。
 〈混沌〉は人間には触れることも処理することもできないとされる。〈混沌〉は全ての物質を吸収し大きくなっていくので、特殊な術で封じ込めて隔離するしかない。
 キルスが笑った。
「これが〈混沌〉と呼ばれるものか……大したことはない。お還り願おう!」
 キルスを喰らおうとしていた〈混沌〉は核の中に戻っていき、封じられた。
 目の前で起きた驚くべく現象にシルハンドは感嘆の声をあげた。
「まさか、ひとりで〈混沌〉を封じ込めようとは、さすがは神官長様だ」
 アレクもシルハンドに続いた。
「〈混沌〉に巻きつかれ無事だったとは信じられぬ」
 再びキルスは核を調べはじめた。もう、魔導の鼓動は全く感じられなかった。
「この両眼は後で持ち帰ろう。その前に君たちには〈血の雫〉を手に入れてもらわねばならない」
 キルスは巨石を指差した。まだ〈血の雫〉がある洞窟の入り口は開かれていない。
 先ほどの戦いでラーザァーがひとり減ってしまった。これで巨石が動かせるのか?
 腕まくりをしたシルハンドがいち早く巨石の前に立った。
「このような巨石に行く手を塞がれていては、ラーザァーの名が嘆きをあげてしまう」
 驚くべきことが起きた。シルハンドが魔導力を注ぐと同時に巨石が動きはじめたのだ。シルハンドは独りで巨石を動かしてしまった。
 眼を丸くしているアレクの横でキルスが小さく呟いた。
「……あの男、大した食わせ者だな」
 そして、続けて誰にも聞こえない声で呟きを漏らした。
「私は鎖を解いてはいないのだがな……」
 キルスは足早に洞窟の前に向かい、見えない壁を消し去った。これで洞窟の中に入ることができる。
 巨石を独りで動かしたというのに疲れを全く見せないシルハンドをアレクは不思議な顔をして見つめた。
「あれがおまえの実力か?」
 この問いにシルハンドは笑みを浮かべただけで、気絶しているザヴォラムを担いで洞窟の中に消えてしまった。
 残されたアレクは呆然と立ちすくんでしまった。
 到底信じられないことだった。シルハインドは何時の間にあのような魔導力を身に着けたというのか?
 巨石を動かしたシルハンドの魔導力が実力であるとすれば、昨日のアレクとの決闘は手を抜いていたとしか考えられない。
 アレクは渋い顔をして洞窟の中に急いだ。
 洞窟の中は壁自体が淡く輝き、明かりを照らさなくても奥の方まで見渡せた。
 キルスの足が岩でできた杯の前で止まった。
 大きな杯の中に紅い液体が満たされており、その中にキルスが手を浸けた瞬間、辺りは眩く輝いた。
 キルスの親指と人差し指の間には〈血の雫〉が挟まれ、それは妖々とした紅い光を放っていた。
「まずはひとつ」
 そう言うとキルスは宝石に散りばめられた小さな箱の中に〈血の雫〉を入れた。その作業を六回繰り返し、全ての〈血の雫〉を手に入れた。
 手に入れた〈血の雫〉は一度神殿へ持ち帰り、そこで儀式を行った後にラーザァーに選ばれた者たちが服用して力を手に入れる。
 洞窟の外に出たアレクがいち早く気がついた。
「ドラゴンがいない!?」
 この言葉を受けてシルハンドは当たり見回した。
「本当だ……どこに?」
 地竜を模った魔導具がなくなっているのだ。何者かが持ち去ったに違いない。しかし、この男にとってはそのようなことは、どうでもよいことだった。
「〈血の雫〉が手に入れられればそれでよい」
 それだけを言ってキルスはすでに神殿へ足を向けていた。

 暗い部屋に閉じこもるザッハークは心の底から打ち震えていた。
「この作品は俺の最高傑作だったのぞ!」
「だが、負けた」
 厚いフードの中から声が聞こえた。
 魔導具の散らかる乱雑とした部屋の中で、ザッハークは怒鳴り声をあげた。
「忌々しい魔導士どもが!」
「己の技量のなさを相手のせいにするか」
「なんだと貴様!」
「せっかくの機会を不意にしたのだ。残る機会は明日の儀式のみだろうな。おまえも出席できるのだろう、特権とやらで?」
 ザッハークは魔導具つくりの腕を国で認められ、重要な式典などには必ず呼ばれることになっている。
 明日神殿ではラーザァーたちに〈血の雫〉を授与する儀式が執り行われるのだ。ザッハークはその式典に呼ばれていた。
「明日の式典を見ておれ、おまえの目の前で〈血の雫〉を奪ってやる」
「その言葉、楽しみしていよう」
 厚手のローブを纏った人影が部屋の奥に潜む闇の中に沈んでいく。
 強固な守りを誇るメミスの都は内部から崩れはじめていた。

 〈血の雫〉を手に入れて帰還した翌日、神殿にて神官たちや一部の貴族たちの立ち会いもと、巫女による儀式が執り行われた。
 五人のラーザァーは巫女の前に横一列に並ばされてひざまずかされる。
 ラーザァーに一人の欠員の出たことにより、アレクが〈血の雫〉を二つ服用することになった。
 巫女は自分の横に立つキルスの持つ箱から〈血の雫〉を摘み上げ、顔を上げたアレクの口の中に〈血の雫〉を置いた。
 この場には魔導具つくりの名人と謳われるザッハークも出席していた。
 〝蟲〟に操られているザッハークは、その地位を利用して難無くこの儀式の立ち会いを許されたのだ。
 巫女が二人目のラーザァーの口に〈血の雫〉を入れようとした――その時!
 ザッハークのさり気ない合図と共に数人の貴族たちと警備を勤めていたはずの兵士の数人までもが儀式の邪魔をしようと暴動を起こしたのだ。
 突然のことに最初は何が起きたのかわからなかった。警備は完璧であったし、何よりもここにいる者たちは皆ムーミストを信仰しており、こんな暴挙をする者などいないはずだった。
 襲い掛かって来る兵士の身体をアレクは光の鎖で縛り上げた。
「これはどういうことだ!?」
 アレクには状況が呑み込めなかった。だが、事態は確かに今ここ起きてしまっている。その事態に神官長のキルスがいち早く動いた。
「命に代えても巫女を守れ!」
 ザヴォラムがすぐに巫女の護衛にまわる。そして、襲い来る者どもを光の鎖で縛り上げる。
 黒い瞳が輝きキルスの身体からローゼンが放たれ、世界を光色に彩る。
 迸る閃光の中、ザッハークは〈血の雫〉を盗み出そうとしていた。
 他の敵に気を取られていたキルスの身体に飛び掛かるザッハーク。キルスが持っていた箱から〈血の雫〉が宙を舞い、地面に散乱した。
 地面に転がった〈血の雫〉を拾おうとするザッハークにキルスは怒鳴りつけた。
「貴様の差し金かザッハーク!」
「俺はこの国の覇者となるのだ!」
 大声を上げたザッハークの身体に光の縄が巻きつけられた。
 伸びた縄の先をしっかりと掴むアレク。
「伯父様が主犯なのですか!」
 ザッハークを取られたアレクであったが、光の縄は霞と化してしまった。
「俺の法衣は特別な生地で作られている。ひよっこの魔導など通用せんのだよ!」
 アレクの伯父は悪い噂しかを聞かないような者ではあったが、アレクは自分の伯父がこんな暴挙に出るなど思ってもいなかった。
 ザッハーク以外の反逆者はすでに捕らえられていた。この場にいた魔導士たちは清栄ばかり、反逆など起こしても失敗に終わることは目に見えていた。
 魔導士たちに囲まれたザッハークは不適な笑みを浮かべた。
「これで勝ったとでも思っているのか?」
 ザッハークは魔導具つくりの名人であり、その魔導力はこの国でもトップクラスだった。
 地面が激しく揺れ、ザッハークの身体を迫り上げながら床を砕き地中から何かが現れた。
 それは石の巨人――ゴーレムだった。
 体長五メティート(約六メートル)ほどのゴーレム肩にザッハークは乗り、奥の方で魔導士たちに守られている巫女を睨付けた。
「この国は俺のものだ、はははっ!」
 巫女の横に立っていたザヴォラムが、巫女の身体を自分の背中に隠した。
「ザッハーク殿、この度の愚行は赦し難い。貴族は死刑を免除されるとは言えど、貴方様は万死に値する大罪を犯した!」
「ならば俺を殺せばよい。殺せるものならな!」
 声を張り上げるザッハークの真後ろで声が響いた。
「その勝負受けた!」
 魔導剣を構えるシルハンドがザッハークに襲い掛かる。それに向けてゴーレムの拳が振り上げられる。だが、ゴーレムの拳とシルハンドの剣は後一歩ところで静止させられた。
「これ以上、神聖なる神殿内で暴れるのは止してもらおう!」
 巨大なゴーレムの拳とシルハンドの剣の間に立ったキルスが魔導壁を構築していた。
 ゴーレムはキルスの張った魔導壁を押し壊そうとするがびくともしない。
「何をやっておるのだゴーレム! こんな若造の作った魔導壁など壊してしまえ!」
「まずはシルハンドよ、剣を収めよ。そして、ザッハーク!」
 キルスの漆黒の魔眼で睨みつけられたゴーレムが粉砕した。
 床に落ちたザッハークは尻餅を付いて脅えた表情をした。
「神官長の魔導力がこれほどまでとは!」
 世界一の魔導力を持つと謳われるメミスの神官長。その真の実力を知る者はいない。
 腰を抜かしながら逃げようとするザッハークの身体を魔導で作られた漆黒の縄が拘束した。
「逃がしはせぬぞザッハーク!」
 漆黒の縄を掴むキルス。ザッハークの顔の前にはローゼンが立ちはだかり。ザッハークは逃げ場を失った。
 生気を失ったザッハークは地面にうな垂れた。
 ザッハークの暴挙は失敗に終わり、彼の身は処分が決まるまでの間、幽閉されることになった。だが、しかし――。
 暴動の最中に紛失した〈血の雫〉が見つからない。ここにいた誰もが蒼い顔をする中、キルスの黒瞳がある人物を見据えた。
「〈血の雫〉を返してもらおう」
 この言葉を聞いたアレクは唖然とした。近くにいたザヴォラムもだ。
「俺が〈血の雫〉を隠したとでも?」
 キルスの黒瞳はシルハンドの瞳を見据えていた。
 対峙するキルスとシルハンドを誰もが動きを止めて見守った。
 息をする音が聞こえてくるくらいの静寂が訪れる。
 アレクは息を呑み込みやっとの思いで言葉を搾り出した。
「まさか、シルハンドがそのようなことを……。キルス様の思い違いでは……?」
 シルハンドが微笑った。
「さすがはキルス様だ」
「君は私を見くびっていたようだ」
 相手から決して目を放さず、キルスがゆったりとした歩調でシルハンドに近づく。だが、その足が止められる。シルハンドが両拳を前に差し出し開き、その両手には2つずつ、計4つの〈血の雫〉が乗せられていた。その数は紛失した〈血の雫〉の数と合致する。
「俺はこれを返す気は毛頭ない」
 強く握られたシルハンドの拳。彼をその拳をゆっくりと開き下に向けた。美しく輝く紅い砂が空気の中を舞いながら儚く地面に零れ落ちた。
 これにはさすがのキルスも眼を剥いた。アレクにいたっては衝撃のあまり床に膝をついてしまった。
 なぜ、シルハンドが?
 シルハンドが行った行為を理解するのに時間がかかった。これはザッハークと同じ叛逆行為であった。シルハンドは裏切ったのだ。
 口元を歪めたシルハンドの掌がキルスに向けられる。
「神々が世界を支配する時代は終わりを迎える」
「神に遣える私に牙を向けるか?」
「そうだ」
 シルハンドの掌から黒いエネルギー体が放たれ、キルスはすぐさま身体の内に閉じ込めてあったローゼンを解き放った。
 ローゼンの光が闇を消し去り、シルハンドをも呑み込んでしまおうとしたのだが、シルハンドが張った魔導壁によってローゼンの身体が大きく跳ね飛ばされてしまった。
 シルハンドの口元が歪む。
「不覚をとったザヴォラム」
 シルハンドが開けた口の中から真っ赤な雫が零れ落ちた。
 血を吐いたシルハンドの背後にはザヴォラムが寄りかかるように立っていた。
「シルハンド! 貴公がなぜこのような行為を!」
 声を張り上げるザヴォラムの手には魔導剣がしっかりと握られ、その切っ先はシルハンドの腹を貫いていた。
 静まり返った神殿内にアレクの叫びが木霊する。
「シルハンドーっ!」
 その声と同時にザヴォラムは魔導剣を引き抜き、シルハンドの身体が膝から床に崩れ落ちた。
 腹を押さえたままシルハンドが小さく声を漏らした
「戦いはこれからだ」
 突然の爆発。シルハンドの身体が四方に弾け飛び爆発した。
 誰もが眼を覆いたくなるような光景。神殿内に飛び散る血と肉。シルハンドは自ら命を絶った。――多くの謎を残して。
 アレクは急に激しい眩暈に襲われて気を失い倒れた。
 親友を失ったことと、〈血の雫〉の副作用が出たのだ。
 〈血の雫〉を服用することに魔導力が急激に増幅させられて、酷い吐き気や眩暈、それに熱や倦怠感に襲われる。その苦しみは一晩もゆっくり休めば治まるものなのだが、アレクは〈血の雫〉を二つも服用していた。
 キルスがアレクの身体を抱きかかえた。
「私がこの者を運ぼう。早急に神官を集め今後の対策を協議したまえ」
 〈血の雫〉はシルハンドによって破壊され、残りの〈血の雫〉を服用したのはアレクだけであった。ラーザァーの欠員は二人となり、これから迎える戦いにどう備えろというのだろうか?
 メミスの都に暗雲が立ち込めた。

 ラーザァーが〈血の雫〉を授かった次の日には都市中で盛大な宴が催される。これから戦いに出る魔導士たちや兵士たち、そしてラーザァーを賛美する。
 他のラーザァーが宴に出席している中、アレクはこの日も酷い熱などにうなされ、宴を欠席した。
 静かな寝息を立てるアレクの部屋に訪問者が来た。それはアレクの容態を診に来たザヴォラムであった。
 酷く汗をかきながらアレクはうなされ寝ていた。ザヴォラムが部屋に入って来ても目を覚ますことはなかった。
 神官長キルスの命により、アレクが眠る部屋への立ち入りは禁止されていた。それにも関わらずザヴォラムはこの部屋に足を踏み込んだ。神官長の命令を破ってでもザヴォラムには確かめたいことがあったのだ。
 アレクの顔をザヴォラムが見定めた。
「この目で貴公の正体を見定めさせていただく」
 ゆっくりと伸びたザヴォラムの手がアレクの服に掛かり、慎重な手つきで服を脱がせて胸元を開けた。
「……やはりな」
 これによってザヴォラムはアレクに対する疑問に答えを出した。やはり、アレクは女であった。
 アレクは急に目を覚ますと飛び起きて自分の身体をシーツで隠した。
「ザヴォラム!?」
 相手の名を呼ぶだけで精一杯だった。
 確実にザヴォラムに自分の秘密を知られてしまった。そう思ったアレクは自分の失態を強く悔やみ、大罪を犯してしまった自分はどのような罰を与えられ、自分の家族はそうなるのかなど、いろいろなことが頭の中を駆け巡った。
 ザヴォラムはアレクの瞳をしっかりと見据え、突然鼻で笑って近くにあった椅子に腰掛けた。
「まさかとは思ったが、本当に女だったとはな」
「…………」
「貴公が女であることはキルス様もご承知のはずだ。気を失った貴公の面倒はキルス様がひとりで看られた。ということは、キルス様はだいぶ前からご存知だったことになるな」
「告発でもするか?」
 静かにザヴォラムは首を横に振った。
「貴公の処分は保留としよう。キルス様が黙認されているのには意味があるのだろう。それに戦いの日は近い、こんな時にラーザァーのひとりが女であったなど言えるものか、暴動が起きるのは間違いない。〈血の雫〉の力を得たのは貴公ひとりしかおらぬ。戦いが終わったあと、私は貴公を告発する、それでよかろう」
 アレクは何も言えなかった。神官になることは叶わぬこととなった。未来は閉ざされてしまった。だが、自分には使命が残っている。
 全ては神官になるためだった。それが今、アレクの中で変わったのだ。
「ザヴォラム……どうしても告発するか?」
「この期に及んで何を言うのだ!」
「私はどうなろうと構わないのだ。私を男として育てた父の罪も重い。だが、母上が心配なのだ。全てが終わった後に私が自害をし、おまえは全てを黙っている、それでは駄目なのか? おまえの望みは私の失脚だろう?」
「私は貴公の失脚など望んでおらぬ。私は私の実力で貴公を超える。告発をするのはムーミスト様に遣えるものとしての勤めだ」
 突然アレクの顔が緊張し、ザヴォラムの背後で声がした。
「そのムーミスト様のお導きとは考えられぬか、ザヴォラム秘書官? ここへの立ち入りは禁止したはず、君が禁を犯すとは思ってみなかった」
 後ろを振り向いたザヴォラムの顔が硬直する。そこに佇んでいたのは神官長キルスであった。
 何も言わず固まる二人に対してキルスは静かな口調で話しはじめた。
「神はこの世に存在する、これは紛れもない事実であることだが、その神の技量はどれほどのものか。ムーミスト様は君が女であることをご存知か否か。ご存知とあらば、これは変化の兆し。それをどう取るかねザヴォラム?」
「申し訳御座いません、キルス様の命に叛きこの部屋に立ち入った罪、罰を受ける覚悟はできております」
 キルスはあからさまに嫌な顔をしてザヴォラムの瞳を見据えた。この瞳で見据えられたザヴォラムは心臓が止まりそうな気分だった。
「私は君の罪を咎めるつもりはない。この国で一番の咎人はこの私に他ならない。私の質問が聞こえていないようなら、もう一度言うが?」
「いえ、聞こえておりました。ムーミスト様のご意思ならばアレクの罪を見逃せということで御座いましょうか?」
「敬虔なる者に対してはムーミスト様のご意思は絶対であろう。まあ、私は違うがな」
 この国の神官長とは思えぬ発言にアレクとザヴォラムは度肝を抜かれた。ムーミストの意思があるならば、このような神官長を放って置くのはどういう所存か?
 難しい顔をしてザヴォラムが椅子から立ち上がった。
「職務に戻りますので失礼いたします」
 軽く頭を下げたザヴォラムは早足で部屋を出て行ってしまった。
 二人きりとなった部屋に緊張感が漂う。
 神官長と二人にされてアレクはどうしていいかわかない。アレクはただならぬ恐怖をキルスから感じていた。アレクにとってキルスは自分よりも地位の高い存在というだけでなく、同じ人間とも思えない存在であった。
 キルスの口が少しつり上がる。
「ザヴォラム秘書官にはああ言ったが、私はムーミスト様の意思とは思えぬな」
「あ、どういうことでしょうか?」
「女である君が魔導士となりラーザァーとなったのはムーミスト様の意思でもなんでもないだろう。神などという存在は支配級でしかない、決して万能でもない、ただ人間よりも力のある者に過ぎないと私を思う。神が全てを見通せるはずがない。この国の歯車は狂いつつあるな」
「それは私のせいなのでしょうか?」
「わからぬな。ただ、君の存在はこの国を変えるだけの力がある」
「キルス様は何をお望みなのですか?」
「さあな」
 アレクは俯き黙り込んだ。キルスは自分に対して何かを望んでいるように思える。だが、キルスの考えが理解できない。自分はなぜこの世に生を受けたのか?
「キルス様は私の罪を咎める気はないとおっしゃいましたが、それは私が女であることを黙っているということでしょうか?」
「そうだ、巫女も私も君に処分を下す気はない」
 実のところキルスはアレクが女であろうがどうでもいいと思っていた。彼は貴族である男だけが魔導士になれることを疑問に思っていた。そして、何よりも自分が神官長という地位にがんじがらめにされていることに不満を持っていた。
この世界に不満を多く抱いているキルスは、女が魔導士になるという社会の秩序が乱れるようなことが起きたことに何かが変わるのではないかと少し期待していた。
 部屋を出て行こうとしたキルスの背中にアレクは声を掛けた。
「キルス様、ありがとうございます」
「……どうでもいいことだ」
 キルスは小さく呟くと部屋を出て行った。