Episode 01

第1話 ― 神話が検索された日

本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。

序節 ― 神は検索欄に現れる

 神狭駅の朝は、いつも少しだけ急いでいる。

 改札前の床を、革靴とローファーとスニーカーが絶え間なく叩いていた。会社員の黒い鞄が揺れ、制服姿の学生たちが改札機の前で列を作り、誰かのイヤホンから漏れた音楽が、発車ベルと駅員のアナウンスに薄く溶けていく。

 駅前ビジョンには、新しくできたショッピングモールの広告が流れていた。

 白い背景に、笑顔のモデル。
 春限定のスイーツ。
 英会話教室の入会キャンペーン。
 市内循環バスの運行案内。

 どこにでもある朝だった。

 神狭市は、東京から電車で四十分ほどの場所にある、ありふれた郊外都市だ。

 駅前には再開発ビルがあり、少し歩けば古い商店街が残っていて、坂の上には学校と神社がある。都心ほど騒がしくはないが、田舎というほど静かでもない。住むには便利で、遊ぶには少し足りない。そんな街。

 天瀬ユウリは、改札を抜ける人の流れから少し外れた柱のそばで、スマホの画面を見ていた。

 画面に表示されているのは、神話考察系の動画だった。

 タイトルには、こうある。

 ――ロキとルシファーは同じ存在なのか? 神話に隠された“反逆者”の構造。

 サムネイルには、北欧風の角飾りをつけた男の横顔と、黒い翼を広げた天使らしきシルエットが並んでいる。いかにも再生数を稼ぎそうな、派手で少し胡散臭い画像だった。

 ユウリはイヤホンを片耳だけにつけ、もう片方は外していた。

 動画の語り手は、妙に熱のこもった声で言っている。

『ロキ、ルシファー、プロメテウス。彼らは文化圏こそ違えど、人類に知恵や火を与え、神々の秩序に反逆した存在として描かれています。つまり彼らは、同一存在が各地に分岐したものではないか――』

「……同一、って言い切るのは違うと思うけどな」

 ユウリは小さく呟いた。

 似ている。

 それは分かる。

 神話には、離れた土地なのに妙に似た役割の存在がいる。太陽を運ぶ神。月を司る女神。冥界へ下る者。禁じられた知恵を与える者。世界の終わりを告げる戦い。眠った姫。海に声を奪われた娘。

 けれど、似ているから同じ、という言い方にはいつも少し引っかかる。

 同じなのではない。

 たぶん、どこかで同じ形の問いに触れているだけだ。

 人間が違う言葉で、違う時代に、違う恐怖や願いを抱えながら、それでも似た輪郭の物語を呼んでしまう。そういうことなのだと思う。

 ユウリはそういうことを考えるのが好きだった。

 神を信じているわけではない。

 祈りを捧げる習慣もない。

 ただ、神話や都市伝説、物語の裏側にある「なぜ似てしまうのか」を考えるのが好きだった。学校の授業で扱う古典や世界史より、ネットの考察動画や古い本の端に載っている異説の方が、ずっと生きている感じがした。

 けれど、それはあくまで趣味だ。

 読むもの。
 調べるもの。
 考えるもの。
 ノートに書いて、あとで自分だけが見返すもの。

 現実とは、ちゃんと別の場所にある。

 そのはずだった。

「おーい、ユウリ」

 背後から声がした。

 振り返ると、久遠レンが人混みを縫うようにして近づいてきた。少し跳ねた髪、着崩した制服、片手にはコンビニの袋。朝から妙に元気そうな顔をしている。

「また神話動画? 朝から重いな、お前」

「レンにだけは言われたくない。昨日の夜中に送ってきた都市伝説スレ、何時だと思ってるんだよ」

「二時四十七分」

「即答するな」

「いや、あれは鮮度が大事だったんだって。三時になったら消えるって書いてあったし」

「消えたの?」

「消えなかった」

「じゃあ普通に寝かせてくれ」

 レンは悪びれもせず笑った。

 彼はそういうやつだった。

 ネットの噂、怪しいアプリ、都市伝説、未確認のリーク、誰かが作った神話考察まとめ。そういうものを見つけるのが異様に早い。しかも、ただ見るだけではなく、すぐに中身を開きたがる。

 ユウリが考える側なら、レンは触る側だった。

 危ない橋を前にして、ユウリが「本当に渡っていいのか」と立ち止まると、レンはもう真ん中くらいまで走っている。

「で、入れた?」

「何を」

「AVIS」

 レンは待ってましたとばかりにスマホを差し出した。

 画面には、黒地に白い円環のようなアイコンが表示されている。円環の中心には、小さな目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号があった。

「なにそれ」

「知らない? 今、神狭の高校生界隈でちょっと流行ってるやつ」

「高校生界隈って範囲せまくない?」

「せまい流行の方が怖いんだよ。拡散前の都市伝説って感じで」

 レンは画面を操作しながら、妙に楽しそうに説明した。

「AVIS。神が見えるアプリ」

「見えるわけないだろ」

「出た、ユウリの現実主義」

「神話好きと、何でも信じるのは別だよ」

「でも、こういうの好きだろ? 神格診断、守護神タイプ、近くの怪異反応、AR神話紋表示。あと、夜中の三時に通知が来るらしい」

「怪しい機能の詰め合わせだな」

「さらに噂によると、契約を許可すると願いが叶う」

「課金アプリ?」

「違う違う。もっとヤバいやつ。拒否すると名前が消えるらしい」

 レンは最後の一文を、怪談番組のナレーションみたいに低い声で言った。

 ユウリはため息をついた。

「名前が消えるって、具体的にどうなるんだよ」

「さあ? アカウント名がバグるとか、LINEの表示が空白になるとか、出席簿から消えるとか」

「だんだん学校怪談になってきたな」

「場所が学校だからじゃね?」

 レンは軽く言う。

 その軽さが、かえって妙に現代的だった。

 昔なら、怪談は古い校舎や墓地や神社にあったのかもしれない。けれど今は、スマホの通知欄にも、アプリの利用規約にも、検索欄にも、いくらでも怪談は生まれる。

 神様だって、いまさら祠や神棚だけにいるとは限らない。

 もし本当に現れるなら、たぶん広告の隙間や、動画の関連欄や、誰かの投稿のタグから出てくる。

 そんなことを考えてしまって、ユウリは少しだけ嫌な気分になった。

「ユウリ?」

「いや……なんでもない」

「で、入れないの?」

「入れない」

「即答かよ」

「怪しいアプリを入れるなって、情報の授業で習っただろ」

「習ったけど、守ったら青春が減る」

「減らしていい青春だと思う」

 レンは大げさに肩を落とした。

 そのとき、ユウリのスマホが震えた。

 短い通知音。

 画面の上に、見慣れたアプリの更新通知が表示されている。

 ――神話辞典アプリ:更新が完了しました。

「あれ」

 ユウリは眉をひそめた。

 その神話辞典アプリは、かなり前から入れているものだった。世界各地の神話名や神々の系譜を検索できる、少し古いデザインの辞典アプリ。創作メモ代わりに使うこともある。

 最近は更新も止まっていたはずだ。

「どうした?」

「いや、このアプリ、まだ更新あったんだ」

 ユウリがアイコンをタップする。

 次の瞬間、画面が黒く反転した。

 いつものトップページではない。

 神名検索の欄も、カテゴリ一覧も、広告バナーも消えている。

 代わりに、黒い画面の中央で、白い円環がゆっくり回転していた。

 レンのスマホに表示されていたAVISのアイコンと、よく似ている。

「……レン」

「ん?」

「お前、僕のスマホに何かした?」

「してないけど」

「本当に?」

「してたらもっと面白いタイミングでバラす」

「それは信用していいのか分からない」

 画面に文字が浮かんだ。

《AVIS-System 起動》
《人工残滓照合を開始します》
《端末所有者名:天瀬ユウリ》
《照応深度:未確定》
《未確定名の観測者を確認しました》

 駅の音が、一瞬だけ遠くなった。

 発車ベルも、改札の電子音も、人の足音も、全部が薄い膜の向こう側に沈んだように聞こえた。

 ユウリは思わず息を止める。

 スマホの画面には、さらに文字が流れていく。

《神話構文解析を開始します》
《現在地:神狭駅》
《周辺構文濃度:微弱》
《警告:未登録神名の流入を検出》

「……おい」

 レンの声が、さっきより少しだけ低くなった。

「それ、俺のと違う」

「違うって?」

「俺のAVIS、そんな表示出ない。もっと普通。診断アプリっぽいやつ。なんだよ、未確定名の観測者って」

「知らないよ」

 ユウリは画面を閉じようとした。

 けれど、閉じられない。

 ホームボタンも、電源ボタンも、画面を暗くするだけで、次の瞬間にはまた白い円環が浮かび上がる。

 心臓が、少しずつ早くなっていく。

 悪戯にしては手が込みすぎている。
 ウイルスにしては、表示される言葉が自分の趣味に寄りすぎている。
 都市伝説にしては、今ここで起きている。

 そんなふうに考えたところで、ユウリは自分が本気で怖がり始めていることに気づいた。

 神話は好きだ。

 でも、神話の方から画面越しにこちらを見てくるのは、話が違う。

 駅前ビジョンが、ふっと白く瞬いた。

 ユウリは顔を上げる。

 広告が切り替わる一瞬、画面の端に見慣れない文字が走った気がした。

 アルファベットでもない。
 日本語でもない。
 ただ、なぜかそれが「名前」だと分かった。

 読めないのに、呼ばれているような気がした。

「ユウリ?」

 レンが声をかける。

 ユウリは慌てて瞬きをした。

 駅前ビジョンは、もう普通の広告に戻っている。

 春の新作ドリンク。
 駅ビル二階、期間限定ショップ。
 本日十時オープン。

 何もおかしくない。

 何も起きていない。

 そう思おうとしたとき、スマホがもう一度震えた。

《初期解析完了》
《本端末は通常版AVISではありません》
《選択肢表示機能:未定義》
《現在名を保持してください》

 最後の一文だけ、他の表示よりも強く光った。

《物語は、すでにあなたを読んでいます》

 ユウリは、画面から目を離せなかった。

 朝の人混みが流れていく。

 誰も立ち止まらない。
 誰も画面を覗き込まない。
 誰も、いま自分の手の中で何かが始まったことに気づかない。

 レンだけが、隣で小さく笑った。

 けれどその笑い方は、いつもの軽いものではなかった。

「……なあ、ユウリ」

「何」

「これ、たぶん当たりだ」

「何の」

「都市伝説の」

 ユウリは答えられなかった。

 駅の時計は、いつも通り八時を少し過ぎたところを示している。

 遅刻するほどではない。
 急がなければならない時間ではある。
 学校へ行って、ホームルームを受けて、授業を受けて、昼休みに購買か弁当を食べて、放課後にはまた駅へ戻る。

 いつもの一日が、まだそこにある。

 けれど、ユウリのスマホ画面には、消えない円環が浮かんでいた。

 白い輪の中心で、小さな記号がまばたきのように瞬く。

 目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号。

 そして、その下にもう一行だけ、文字が表示された。

《ようこそ、天瀬ユウリ》
《検索された神話は、まもなく現実へ接続されます》

 ユウリは思った。

 神話は、読むものだったはずだ。

 少なくとも、今朝までは。

 けれど。

 画面の奥で、何かがこちらを読んでいる。

 その感覚だけが、春の朝の光の中で、ひどく冷たく残っていた。

第一節 ― 星宮ミオ

 星綴高等学園は、神狭駅から坂道を上った先にある。

 駅前の商業ビルを背にして、住宅街の細い道を抜け、古い石垣の横を通り、ゆるやかな坂を登っていくと、やがて白と灰色を基調にした校舎が見えてくる。校門の向こうには中庭の桜があり、その奥に本校舎、さらに奥まった場所に、今はほとんど使われていない旧校舎の屋根が少しだけ覗いていた。

 朝の光を受けた校舎は、いつも通りだった。

 自転車置き場で慌てて鍵をかける生徒。
 昇降口で友人を待つ生徒。
 下駄箱の前でプリントを落として騒ぐ一年生。
 廊下の奥から聞こえる教師の声。
 どこかの教室で流れている、朝練後の吹奏楽部の半端な音階。

 いつもの学校。
 いつもの朝。
 神話とも、都市伝説とも、世界の危機とも、まるで関係のない場所。

 そのはずなのに、ユウリは昇降口の前で一度、足を止めてしまった。

 スマホは、ポケットの中でまだ熱を持っていた。

 駅から学校までの間、何度も確認した。画面を閉じても、再起動しても、あの白い円環は消えなかった。ただ、しばらくすると通常のホーム画面に戻り、神話辞典アプリのアイコンだけが見慣れない黒い円環へ変わっていた。

 アプリ名は、もう神話辞典ではない。

 《AVIS》

 たった四文字。

 削除しようとしても、長押ししても、アイコンは震えるだけで、削除の表示が出てこなかった。

「まだ気にしてる?」

 隣で、レンが上履きに履き替えながら言った。

「気にするだろ、普通」

「まあ、気にするなって方が無理か。でもさ、考えようによってはラッキーじゃん」

「何が」

「都市伝説の当たり個体、引いたんだぞ」

「ガチャみたいに言うな」

「いや、でも本当にさ。俺のAVISと違うの、だいぶ面白いって。あとで見せて。中身、調べる」

「嫌だ」

「即答すんなよ」

「お前に渡したら、絶対余計なことする」

「余計なことじゃない。解析」

「同じだよ」

 レンは笑ったが、ユウリは笑えなかった。

 レンの軽さには、いつも救われるところがある。何でも深刻に受け取りすぎるユウリにとって、レンの「面白そうじゃん」の一言は、世界を少しだけ軽くしてくれる。

 けれど今朝は、その軽さが少し怖かった。

 ユウリの手元で起きたことは、面白いで済ませていいものなのだろうか。

 《物語は、すでにあなたを読んでいます》

 あの一文が、頭の奥に張りついて離れない。

 読むものだったはずの物語が、こちらを読んでいる。

 そんな感覚は、考えれば考えるほど気味が悪かった。

 教室に入ると、すでに半分以上の生徒が席についていた。

 二年三組。

 窓側の席では、女子たちが週末に行く予定のカフェの話をしている。廊下側では、男子がスマホの画面を囲んでゲームの結果に騒いでいる。黒板には、日直が書いた日付と、今日の提出物の一覧が残っていた。

 ユウリの席は、窓際から二列目の後ろ寄りだった。

 鞄を机の横にかけ、椅子に座る。

 窓の外には、神狭市の街が見えた。

 星綴高等学園は少し高台にあるため、教室の窓から駅前の再開発ビルの上部が見える。天気のいい日には、その向こうに白環管理区域のデータセンターらしき白い建物群も見えた。さらに右手には、古い森のような濃い緑があり、その奥に天御柱神宮の鳥居があると聞いたことがある。

 街全体を見下ろしているようでいて、どこにも届かない。

 ユウリは、机に頬杖をつきながら、ぼんやりと外を見た。

 そのとき、スマホが震えた気がして、思わずポケットに手を伸ばす。

 画面には何も出ていなかった。

 ただの錯覚。

 そう思おうとしたとき、レンが後ろの席から身を乗り出してきた。

「ユウリ、今日転校生来るって知ってた?」

「転校生?」

「さっき廊下で聞いた。女子らしい」

「へえ」

「反応うす」

「朝からアプリに呪われてる人間に、転校生イベントを楽しむ余裕はない」

「呪われてるって認めるんだ」

「言葉の綾」

 レンはにやにやしていたが、そこでチャイムが鳴った。

 教室のざわめきが少しずつ収まっていく。扉が開き、担任の小野寺先生が出席簿を片手に入ってきた。

 四十代半ばの、穏やかだが妙に逃げ場のない目をした教師だ。国語担当で、授業中に生徒の感想文を容赦なく読み上げることがあるため、一部の生徒からは静かに恐れられている。

「はい、席について。ホームルーム始めるぞ」

 まだ立っていた生徒が慌てて席に戻る。

 小野寺先生は教卓に出席簿を置き、いつも通り教室を見回した。だが、その視線が少しだけ柔らかくなる。

「今日は先に紹介がある。知っている者もいるかもしれないが、今日からこのクラスに転入生が入る」

 教室が、分かりやすくざわついた。

「マジで?」
「女子?」
「どこから?」
「この時期に?」

 レンが後ろから、ユウリの肩を軽くつつく。

「ほら、来た。転校生イベント」

「だからイベントじゃないって」

 小野寺先生が軽く咳払いをした。

「静かに。……入っていいぞ」

 教室の前の扉が、ゆっくり開いた。

 入ってきたのは、ひとりの少女だった。

 最初に目に入ったのは、髪だった。

 黒に近い、けれど光を受けるとわずかに青みを帯びる長い髪。肩より少し下まで落ちたそれは、派手に整えられているわけではないのに、歩くたびに音もなく揺れた。

 制服は星綴のものだったが、まだ着慣れていないのか、襟元が少しだけ硬い。白いシャツ、紺のブレザー、落ち着いた色のリボン。どこにでもいる高校生の服装なのに、その少女が着ると、教室の明るさがほんの少し変わったように見えた。

 特別に目立つ容姿というわけではない。

 背が高すぎるわけでもない。
 派手な美人というわけでもない。
 視線を奪うような笑顔を浮かべているわけでもない。

 むしろ、表情は静かだった。

 ただ、その静けさが不思議だった。

 騒がしい教室に入ってきたのに、彼女の周囲だけ、音が一段薄くなるような気がした。窓の外の空が、教室の中に少しだけ近づいたような。

 ユウリは、自分が息を止めていたことに気づいた。

 小野寺先生が黒板に名前を書いた。

 星宮 ミオ

「星宮ミオさんだ。家庭の事情で、今日からこのクラスに入ることになった。しばらく分からないことも多いだろうから、みんな助けてやってくれ」

 先生に促され、少女が一歩前に出る。

 教室中の視線が集まる。

 少女は少しだけ頭を下げ、それから顔を上げた。

 声は、思ったよりも澄んでいた。

「星宮ミオです。よろしくお願いします」

 その瞬間。

 ユウリのスマホが震えた。

 ポケットの中で、短く、しかし確かに。

 反射的に手を入れる。

 見てはいけない気がした。

 でも、見ずにはいられなかった。

 机の下で、そっと画面を点ける。

 黒い背景。
 白い円環。
 そして、流れる文字。

《照応候補:過多》
《太陽/月/夜/母性/境界/死/記録外祈祷》
《解析不能》
《現在名:星宮ミオ》
《現在名を保持してください》

 心臓が跳ねた。

 太陽。
 月。
 夜。
 母性。
 境界。
 死。
 記録外祈祷。

 単語の意味は分かる。けれど、それが一人の転校生に向けて並ぶ意味が分からなかった。

 解析不能。

 現在名を保持してください。

 ユウリは慌ててスマホを伏せた。

 机に当たった音が、思ったより大きく響いた気がした。

 小野寺先生が一瞬こちらを見る。

 ユウリは何でもないふりをして、視線を黒板へ戻す。

 そのとき、星宮ミオと目が合った。

 ほんの一瞬だった。

 彼女は、黒板の前に立ったまま、教室を見回している途中だったのかもしれない。偶然、ユウリの方に視線が向いただけかもしれない。

 けれど、その目はまっすぐユウリを見ていた。

 驚いたような。
 懐かしいものを見つけたような。
 それでいて、何も分かっていないような。

 そんな目だった。

 ユウリの背筋に、冷たいものが走る。

 彼女は、いまの通知を知っているのか。

 それとも、知らないのか。

 星宮ミオはすぐに視線を外した。小野寺先生が空いている席を示す。

「席は、窓側の後ろから二番目。佐伯の隣だな」

 教室の中ほどで、佐伯という女子が小さく手を振る。

 ミオは「はい」と答えて、指定された席へ向かった。

 その歩き方も、ごく普通だった。

 鞄を机にかける。
 椅子を引く。
 隣の佐伯に小さく会釈する。
 ノートを取り出す。

 何ひとつ、おかしなところはない。

 なのに、ユウリのスマホには、まだ最後の一文が残っていた。

《現在名を保持してください》

 ユウリは画面を消した。

 その日、午前の授業はほとんど頭に入らなかった。

 数学の問題は数字の並びにしか見えず、世界史の年号はただの記号に見えた。英語の長文を追っていても、途中で《照応候補:過多》という文字が頭の中に浮かんでくる。

 何度も、ユウリは星宮ミオの方を見てしまった。

 彼女は普通に授業を受けていた。

 教科書を開き、教師の説明を聞き、分からない箇所を隣の佐伯に小声で尋ね、ノートに丁寧な字で何かを書いている。休み時間には、女子たちに囲まれて前の学校のことを聞かれていた。

 その様子を見るかぎり、彼女自身に異常な自覚があるようには見えない。

 むしろ、少し緊張している普通の転校生だった。

 それが余計に、ユウリを不安にさせた。

 もし、ミオ本人が何も知らないのだとしたら。

 あの通知は、ミオの何を見ていたのか。

 昼休みになると、教室の空気は一気に緩んだ。

 机をくっつける音。
 弁当箱を開ける音。
 購買へ走っていく生徒の足音。
 誰かが流し始めた動画の短い笑い声。

 ユウリは購買のパンを机に置いたまま、しばらく手をつけられずにいた。

 レンが椅子を反対向きにして、前の席に座る。

「で」

「何」

「行くぞ」

「どこへ」

「転校生のところ」

「なんで」

「なんでって、話すだろ普通。あと、さっきのお前のスマホ、絶対反応してたし」

「声が大きい」

「小さくしてるだろ」

「してない」

 レンは少し身を乗り出し、声を落とした。

「なあ、ユウリ。あの子、何か出た?」

「……分からない」

「出たんだな」

「分からないって言った」

「ユウリが分からないって言うとき、大体何かある」

 嫌なところを突いてくる。

 ユウリはパンの袋を開けながら、小さく息を吐いた。

「変な単語が並んでた。太陽とか月とか、境界とか、死とか」

「うわ、盛りすぎ」

「僕に言うな」

「神話属性全部盛りの転校生か。いいね、ラノベなら表紙確定」

「本人の前で絶対言うなよ」

「言わないって。そこまで無神経じゃない」

 レンはそう言いながら、すでにミオの席の方を見ていた。

 ミオは佐伯たちと一緒に弁当を食べている。少し緊張しているようだったが、時々小さく笑っていた。その笑い方は控えめで、けれど作りものには見えなかった。

 普通の女の子だ。

 そう思うほど、画面に出た単語が浮いて見える。

 太陽。月。夜。死。

 そんな言葉を、本人に重ねること自体が失礼な気がした。

「僕はいいよ」

「え、行かないの?」

「転校初日に、いきなり知らない男子二人が神話アプリ片手に寄ってくるの、普通に怖いだろ」

「神話アプリは隠す」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ俺だけ行く」

「もっと駄目だろ」

 止める間もなく、レンは立ち上がった。

 そして持ち前の軽さで、ミオたちの輪に入っていく。

「星宮さん、だっけ? 俺、久遠レン。こっち天瀬ユウリ。困ったことあったら聞いて。ユウリ、神狭の変な道に詳しいから」

 突然名前を出され、ユウリはパンを喉に詰まらせかけた。

「詳しくない」

 レンが手招きする。

 逃げる方が不自然だった。

 ユウリは仕方なくパンを持ったまま立ち上がり、ミオの席の近くへ行った。

 近づいてみると、ミオはやはり普通の転校生に見えた。

 弁当箱には、小さなおにぎりと卵焼き、ミニトマトが入っている。机の端には、まだ新品に近い星綴の校章入りクリアファイル。鞄には、通学路のメモらしき紙が挟まっていた。

 ミオはユウリを見ると、少しだけ首を傾げた。

「天瀬くん、ですね」

「あ、うん。天瀬ユウリ」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 短い会話。

 それだけなのに、なぜか妙に緊張した。

 ミオの声は朝の自己紹介の時と同じで、澄んでいる。だが近くで聞くと、硬さもあった。知らない場所で、知らない人に囲まれて、ちゃんと普通に振る舞おうとしている声だった。

 レンは遠慮なく話を続ける。

「星宮さん、前はどこ住んでたの?」

「少し遠いところです。県外で……海の近くでした」

「海か。いいな。神狭、海ないからさ」

「川はありますよね。朝、電車から見えました」

「あるけど、あれはまあ、海の代わりにはならないかな」

 ミオは小さく笑った。

「そうですね」

 佐伯が身を乗り出す。

「星宮さん、部活とか入る予定ある?」

「まだ決めていません。前の学校では、図書委員をしていました」

「運動部じゃないんだ」

「運動は、あまり得意ではなくて」

「分かる。体育って存在がもう無理」

 女子たちが笑う。

 ユウリは、少しだけ肩の力が抜けた。

 普通だ。

 会話のテンポも、反応も、困ったように笑うところも、全部普通の高校生だった。

 レンが机に肘をつく。

「好きな飲み物は?」

「飲み物、ですか?」

「いや、購買の自販機、当たり外れあるから。転校生への重要情報」

「重要かな、それ」

 ユウリが言うと、レンは真顔で返した。

「重要だろ。神狭の高校生活は、自販機選びでかなり変わる」

 ミオは少し考えた。

「温かいミルクティーが好きです」

「お、無難に強い」

「でも、今日はまだ場所が分からなくて」

「じゃああとで案内する。ミルクティーは二階の渡り廊下前が一番安定。中庭側のはたまにぬるい」

「そんな違いあるの?」

 ミオが本気で少し驚いた顔をする。

 レンは得意げに頷いた。

「ある。学校の自販機は、生き物だから」

「それは違うと思う」

 ユウリが言うと、ミオがまた笑った。

 今度の笑みは、さっきよりも自然だった。

 その表情を見た瞬間、ユウリは少しだけ安心した。

 画面にどんな単語が出たとしても、目の前にいるのは、やはり星宮ミオなのだと思った。

 太陽でも、月でも、夜でも、死でもない。

 少なくとも今は、昼休みにミルクティーの場所を知らなくて困っている転校生だ。

「神狭市には、もう慣れた?」

 ユウリは自分でも意外なほど自然に聞いていた。

 ミオは箸を置き、少し考える。

「まだ、全然です。駅から学校までの道も、今朝は地図を見ながら来ました。坂が多いですね」

「星綴は高台にあるから」

「はい。少し迷いました。途中で、古い鳥居が見えて」

「ああ、商店街の裏の小さいやつかな。今はほとんど誰も使ってないと思う」

「そうなんですね」

 ミオは窓の外へ視線を向けた。

 昼の光が、彼女の横顔に落ちる。

 その目は、街ではなく、もっと上を見ているようだった。

「この学校、空がよく見えますね」

 何気ない言葉だった。

 けれど、ユウリはなぜかその一言に引っかかった。

「空?」

「はい」

 ミオは窓の外を見たまま、少しだけ眩しそうに目を細めた。

「前の学校は、校舎が低くて、周りに建物も多かったので。ここは……空が近いですね」

 空が近い。

 ただの感想だ。

 高台にある学校なら、誰でもそう言うかもしれない。

 けれどユウリには、その言葉が普通の風景の話だけには聞こえなかった。

 朝、駅前ビジョンに一瞬だけ走った読めない文字。

 スマホに表示された《照応候補:過多》。

 太陽。月。夜。境界。

 そして、星綴高等学園という名前。

 星を綴る学校。

 ユウリは思わず、自分のスマホに手を伸ばしかけた。

 その動きを、ミオが見た。

「……何か?」

「いや」

 ユウリは手を引っ込める。

「何でもない」

 そう答えたのに、ミオはなぜか少しだけ不安そうな顔をした。

「私、変なことを言いましたか?」

「言ってない。ほんとに」

 ユウリは慌てて首を振った。

「ただ、ちょっと……いい表現だなと思って」

「いい表現?」

「空が近いって。あんまり考えたことなかったから」

 ミオは少し驚いたあと、柔らかく笑った。

「そうですか」

 その笑顔は、本当に普通だった。

 普通で、静かで、少しだけ寂しそうだった。

 チャイムが鳴った。

 昼休みの終わりを告げる音が、教室に広がる。生徒たちが慌てて机を戻し、弁当箱を片付け、次の授業の教科書を取り出す。

 レンが席に戻りながら、小声で言った。

「な、普通にいい子じゃん」

「うん」

「でも?」

 ユウリは答えなかった。

 でも。

 そう、でもだ。

 普通にいい子だった。
 だからこそ、分からない。

 あの子の何を、AVISは見ていたのか。

 ユウリが自分の席に戻ると、机の下でスマホが一度だけ震えた。

 画面を確認する。

 通知はなかった。

 ただ、《AVIS》のアイコンだけが、ほんの一瞬、淡く白く光ったように見えた。

 ユウリは画面を消し、窓の外を見た。

 青い空があった。

 雲ひとつない、よく晴れた空。

 けれど、その青の奥に、何か別のものが薄く重なっているような気がした。

 星宮ミオは、前の席で静かに教科書を開いている。

 その名前は、黒板にも、出席簿にも、彼女のノートにも、ちゃんと書かれている。

 それなのに。

 ユウリの中には、消えない一文が残っていた。

 現在名を保持してください。

 まるでその名前が、いつかどこかへ流れていってしまうもののように。

第二節 ― AVIS一般版

 放課後の校舎には、昼間とは違う音が残る。

 授業中の整った静けさでも、昼休みの雑然とした賑わいでもない。部活動へ向かう生徒たちの足音、階段を駆け下りる笑い声、どこかの教室で机を動かす音、グラウンドから聞こえる掛け声。そういう音が、廊下の壁や窓ガラスに薄く反響していた。

 西日の差し込む廊下を歩きながら、ユウリは何度目か分からないため息をついた。

「……なんで僕まで」

「そりゃ当事者だからだろ」

 前を歩くレンは、振り返りもせずに言った。

 彼の足取りは軽い。授業が終わった解放感と、これから怪しいものを調べられる高揚感が、背中だけで分かる。

「当事者になった覚えはない」

「朝の時点でなってる。ユウリのスマホ、明らかに俺のよりヤバいやつだったし」

「だから、そういうのを調べるために情報処理室に行くのが嫌なんだよ」

「大丈夫。学校の端末に変なことはしない」

「その言い方がもう不安なんだけど」

「変なことじゃなくて、確認。調査。解析。社会に貢献する高校生の健全な探究活動」

「先生に聞かれたらそのまま言えよ」

「先生に聞かれないようにやる」

「最悪だ」

 レンは肩越しに親指を立てた。

 ユウリはもう一度ため息をついたが、足を止めることはできなかった。

 昼休み以降、スマホは目立った反応を示していない。授業中に何度か画面を確認したが、《AVIS》のアイコンはただ黒い円環としてホーム画面に収まっているだけだった。

 だからこそ、かえって気味が悪い。

 何も起きていないのではなく、起きるべき時を待っているような感じがした。

 放課後になってすぐ、レンは当然のように言った。

「情報処理室B、行くぞ」

 ユウリは断ろうとした。

 断ろうとしたのだが、その前にミオが小さく言った。

「私も、行ってもいいですか」

 それで、断る理由を失った。

 昼休みに自販機の場所を案内する流れになり、そのまま少し話す時間があった。ミオはまだ校舎の構造をよく分かっていないらしく、二階の渡り廊下、図書室、職員室、保健室の場所を一つずつ確認していた。

 その途中で、ミオのスマホにも《AVIS》が入っているらしいことが分かった。

 彼女が自分から言ったのだ。

「朝から、知らないアプリが消えなくて」

 その言葉を聞いた瞬間、ユウリの胸が嫌なふうに沈んだ。

 自分だけではなかった。

 けれど、同じでもなかった。

 ミオは、何も知らないようだった。少なくとも、何かを隠しているようには見えなかった。見知らぬ街に来て、見知らぬ学校に転入して、その初日にスマホに消えないアプリが入っている。そういう不安を、誰かに言うべきか迷っていた顔だった。

 それを見てしまうと、ユウリには、もう「僕は関係ない」とは言えなかった。

 情報処理室Bは、特別棟の二階にある。

 通常の情報処理室より少し狭く、授業というより探究学習やプログラミング演習、動画編集、文化祭の準備などに使われる部屋だった。壁際にはデスクトップPCが並び、中央には可動式の長机が置かれている。天井にはプロジェクターが設置され、正面の白いスクリーンは少し黄ばんでいた。

 放課後の情報処理室Bには、すでに数人の生徒がいた。

 動画編集をしている男子二人。
 生徒会のポスターを作っている女子。
 端の席では、ゲーム研究同好会のメンバーらしい生徒が、何かの画面を見て騒いでいる。

 その中に、見覚えのあるクラスメイトがいた。

「お、久遠。お前もAVIS?」

 声をかけてきたのは、クラスの男子、倉持だった。軽音部で、いつも髪型にだけ異様な気合いが入っている。

 レンはすぐに反応した。

「倉持も入れたのか」

「入れた入れた。これ、守護神タイプ出るやつだろ。俺、雷神系だった。見ろ、かっこよくね?」

 倉持がスマホ画面を見せてくる。

 黒い背景に、金色っぽいエフェクト。中央にはいかにもゲーム風の文字で、

 ――守護神タイプ:雷鳴の戦士

 と表示されていた。

 下には短い説明文がある。

 勇敢。直感型。衝動的。仲間思い。ただし怒ると周囲を巻き込む。

「それ、ただの性格診断じゃないの?」

 ユウリが言うと、倉持は心外そうに眉を上げた。

「ロマンがないな、天瀬。神格診断だぞ」

「診断結果がだいぶふんわりしてる」

「ふんわりしてるから当たるんだよ」

 別の女子が笑いながらスマホを掲げた。

「私、月の巫女だった。今日の神話相性は海神系が吉だって」

「何に使うの、それ」

「知らない。でも画面かわいい」

 生徒たちは、思ったよりも気軽にAVISを使っていた。

 神が見えるアプリ。
 契約すると願いが叶う。
 拒否すると名前が消える。

 朝、レンが言っていた噂は、確かに不気味だった。けれど実際の画面は、よくある診断アプリやARカメラ、占いアプリを混ぜたようなものに見える。

 神格診断。
 守護神タイプ。
 今日の神話相性。
 近くの怪異反応。
 ARで神話紋を見る。

 名前だけなら怪しいが、見た目は軽い。少し中二病っぽく、少しおしゃれで、少しSNSに載せやすい。

 だからこそ、広がるのだと思った。

 怖いからではなく、面白いから。

 危ないからではなく、話題になるから。

 神話は、今はもう神殿や書物からではなく、こういう形で人の手の中に入ってくる。

 画面をスクロールしながら笑うクラスメイトたちを見て、ユウリは背中に小さな寒気を覚えた。

 レンは一台のPCの前に座り、自分のスマホをケーブルで繋いだ。

「よし。まずは一般版から見るか」

「本当に大丈夫なんだろうな」

「大丈夫。俺のスマホだし」

「スマホの問題じゃなくて、学校の端末に変なログ残したら怒られるって話」

「残らないようにする」

「だから言い方」

 ミオは少し離れたところに立ち、情報処理室の中を見回していた。彼女にはこの部屋自体が初めてなのだろう。壁に貼られた情報セキュリティ標語や、古いプリンター、ケーブルの絡まった棚を、少し珍しそうに見ている。

「星宮さん、こっち座る?」

 レンが隣の椅子を引いた。

「あ、はい。ありがとうございます」

 ミオは丁寧に礼を言って腰かけた。仕草の一つ一つに、まだこの場所に慣れていない硬さがある。

 ユウリはその向かい側に座った。

 レンはキーボードを叩きながら、画面をのぞき込む。普段の軽い表情が少し薄れ、代わりに妙に集中した顔になっていた。

「見た目は普通のアプリなんだよな」

 PC画面には、スマホの中身に関する情報が並んでいる。ユウリには詳しいことは分からないが、アプリ名、権限、通信先、更新日時らしきものが表示されているのは分かった。

「カメラ、マイク、位置情報、通知、写真フォルダ……まあ、このへんはAR系アプリなら要求してもおかしくない。検索履歴連携、クリップボード監視……これはちょっと嫌。あと、バックグラウンド通信が多すぎる」

「どこに送ってるんだ?」

「それが変なんだよ」

 レンの声が少し低くなった。

「通信はしてる。でも、相手先が普通のサーバーっぽくない。ドメインがない。IPも見え方がおかしい。なんか、端末内で処理してるように見えるのに、通信量だけ増えてる」

「どういうこと?」

「分かりやすく言うと、誰かと会話してる形跡はあるのに、相手の住所がない」

 倉持たちの笑い声が、部屋の端から聞こえた。

「うわ、見て。AR神話紋、手に出た」
「写真撮ろ」
「これ、加工じゃなくて?」

 軽い騒ぎ。

 その横で、レンの表情だけが少しずつ真剣になっていく。

「しかも、ログの種類が妙だ。位置情報だけじゃない。どの画面を見たか、どの単語で検索したか、カメラに何が映ったか、周囲の音声にどういう言葉が含まれていたか……いや、これ、普通にアウトだろ」

「そんなアプリ、みんな入れてるのか」

「入れてる。だって面白いから」

 レンは画面を睨みながら言った。

 その言い方には、いつもの軽さがなかった。

「これ、ただの診断アプリじゃない。位置情報、カメラ、音声、検索履歴……妙なログ拾ってる」

 ユウリは喉の奥が乾くのを感じた。

 朝からずっと、AVISは得体の知れないものだった。けれど、どこかでまだ「変なアプリ」「悪質な都市伝説」「手の込んだイタズラ」の範囲に押し込めようとしていた。

 でも、レンの顔を見て分かった。

 彼は面白がりだ。
 危険なものにも首を突っ込む。
 けれど、分からないものを分かったふりはしない。

 そのレンが、本気で警戒し始めている。

「……星宮さんのは?」

 ユウリはミオの方を見た。

 ミオは、自分のスマホを両手で持っていた。

 指先が少し強張っている。

「見てもらっても、いいですか」

「もちろん。嫌なら無理に見ないけど」

 レンが、今度は珍しく慎重に言った。

 ミオは首を横に振る。

「大丈夫です。私も、分からないままの方が怖いので」

 その言葉は静かだったが、芯があった。

 レンがケーブルを差し替える。

 だが、PCは何も認識しなかった。

「あれ?」

 レンが接続を確認する。ケーブルを抜き、もう一度差す。別の端子に変える。スマホ側の設定を見る。

 反応しない。

「認識されない。充電はされてるのに、データが見えない」

「故障?」

「いや、普通に使えてるだろ?」

 ミオは頷いた。

「連絡も、写真も、地図も使えます。ただ、このアプリだけ……」

 ミオが画面を点ける。

 ユウリとレンは、同時に息を止めた。

 ミオのスマホ画面は、真っ白だった。

 ユウリの黒い円環とも、レンたちの診断アプリ風の画面とも違う。

 白。

 ただ白いだけの画面。

 アイコンも、メニューも、文字もない。

 まるで、まだ何も書かれていない紙のようだった。

「……何これ」

 レンが呟く。

 ミオは小さく首を振った。

「分かりません。朝から、ずっとこうです」

 その時、白い画面の中央に、薄い文字が浮かんだ。

《現在名が不安定です》

 それだけだった。

 たった一文。

 けれど、その一文が表示された瞬間、情報処理室の空気が変わった。

 音が遠ざかる。

 部屋の端で騒いでいた倉持たちの声が、薄い布の向こう側へ沈んだように聞こえる。キーボードの音、廊下の足音、グラウンドの掛け声。すべてが一段遠くなった。

 ミオは画面を見つめていた。

 自分のことなのに、どこか他人の診断結果を見ているような顔だった。

「現在名って……」

 ユウリの声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 朝、彼のスマホにも出た言葉。

 現在名を保持してください。

 そして今、ミオの画面には、

 現在名が不安定です。

 ユウリはミオを見た。

 ミオは顔を上げない。

 ただ、指先でスマホの縁を押さえている。その指が、わずかに震えていた。

「星宮さん」

 ユウリは呼びかけた。

 ミオが、ゆっくり顔を上げる。

「今の表示、前にも出た?」

「……いえ」

「本当に?」

「はい。こんなふうに文字が出たのは、初めてです」

 嘘をついているようには見えなかった。

 むしろ、彼女自身が一番困惑している。

 レンが椅子を引き寄せ、画面を覗き込む。

「現在名が不安定……名前が不安定って何だよ。アカウント名? 端末名? 本名?」

「たぶん、そういう意味じゃない」

 ユウリは、ほとんど反射的に言っていた。

 レンが見る。

「分かるのか?」

「分からない。でも……たぶん、ただの表示名じゃない」

 ミオの名前。

 星宮ミオ。

 黒板に書かれ、出席簿に載り、彼女自身が名乗った名前。

 それをAVISは「現在名」と呼んだ。

 現在、という言葉が引っかかる。

 今の名前。
 今ここにある名前。
 もしかすると、変わりうる名前。

 ユウリは、朝の通知を思い出す。

 《照応候補:過多》
 《解析不能》
 《現在名:星宮ミオ》
 《現在名を保持してください》

 ミオは、神の名ではない。
 たぶん、それより前に、今この場所にいる一人の少女の名前だ。

 だが、その名前が不安定だと表示されている。

 それはつまり。

 何かが、彼女を別の名前で呼ぼうとしているのではないか。

 そう考えた瞬間、ユウリは自分の想像にぞっとした。

 そのときだった。

 正面のプロジェクターが、勝手に起動した。

 天井から短い機械音が鳴り、白いスクリーンに光が落ちる。

 室内にいた生徒たちが、いっせいに顔を上げた。

「え、誰か使ってる?」
「先生来た?」
「待って、何も押してない」

 レンがキーボードから手を離す。

「俺じゃない」

 スクリーンには、最初、何も映っていなかった。

 白い光だけ。

 だがすぐに、細い線が走り始める。

 線は道路になり、川になり、鉄道路線になった。

 神狭市の地図だった。

 駅前地区。
 星綴高等学園。
 旧北口商店街。
 天御柱神域。
 白環管理区域。
 西側の欠落街区。

 ユウリは、息を呑んだ。

 ただの地図ではない。

 普段見慣れた神狭市の地図の上に、別の線が重なっている。古い血管のような赤い線。星座を結ぶような白い点。読めない文字。神社や古い道や、現在の地図には載っていないはずの小さな印。

 その中心の一つ、神狭駅に赤い点が灯った。

 画面の下に文字が流れる。

《神話構文濃度:上昇》
《神狭駅地下連絡通路に異常反応》
《無番線ホームを検出》
《名喪失反応あり》

 情報処理室が静まり返った。

 だが、それは完全な沈黙ではなかった。

 倉持が、恐る恐る笑った。

「……何これ。演出? AVISのイベント?」

 誰かがスマホを向ける。

「撮ろ撮ろ」
「え、すご。プロジェクター連動?」
「ARじゃなくてリアルに出るの?」

 数人はまだ面白がっていた。

 無理もない。

 この段階では、派手なホラー演出にしか見えない。都市伝説アプリのプロモーションか、誰かの悪ふざけか、文化祭の仕込みか。

 けれど、ユウリには笑えなかった。

 ミオのスマホの白い画面が、まだ光っている。

 《現在名が不安定です》

 そしてスクリーンには、

 《名喪失反応あり》

 レンが低く呟く。

「無番線ホーム……神狭駅にそんなのないよな」

「ない」

 ユウリは即答した。

 神狭駅は、何度も使っている。ホームの数も、地下連絡通路の構造も知っている。無番線なんてものは存在しない。

 存在してはいけない。

 レンの目が、興奮と緊張で光っていた。

「やばい。これ、本物かもしれない」

「本物って何だよ」

「分からない。でも、位置が出てる。神狭駅。今から行けば確認できる」

「行くわけないだろ」

 ユウリの声は、自分で思ったより強く出た。

 レンが驚いたように見る。

「ユウリ?」

「行かない。明らかにおかしい。先生呼ぶか、せめて誰か大人に――」

「大人に何て言うんだよ。プロジェクターに変な地図が出ました、スマホに現在名が不安定って出ました、神狭駅に存在しないホームがありますって?」

「だからって、僕たちだけで行く理由にはならない」

「でも、今起きてるんだぞ」

「だから危ないんだろ!」

 ユウリの声が、情報処理室に響いた。

 周囲の生徒たちがこちらを見る。

 ユウリはすぐに口を閉じた。

 自分でも驚いていた。

 こんなふうに声を荒げるつもりはなかった。

 けれど、胸の中で何かが強く警鐘を鳴らしていた。

 行ってはいけない。

 これは、面白い都市伝説ではない。

 確認しに行って「すごかった」で済むものではない。

 何かが、ミオの名前に触れている。

 そう感じた。

 スクリーンの赤い点が、ゆっくり明滅する。

 まるで、心臓の鼓動のように。

 ミオが、静かに立ち上がった。

 椅子の脚が床を擦る音が、妙にはっきり聞こえた。

「星宮さん?」

 ユウリが呼ぶ。

 ミオはスクリーンを見ていた。

 顔色は悪い。けれど、その目は恐怖だけではなかった。何かを思い出そうとしているような、あるいは、呼ばれている声を聞き分けようとしているような目だった。

「……行かなきゃいけない気がします」

 彼女はそう言った。

 小さな声だった。

 だが、はっきりと聞こえた。

 ユウリの胸が、冷たくなる。

「どうして」

「分かりません」

 ミオは正直に首を振った。

「分からないんです。でも……あそこに、何かあります」

「何かって」

「私の名前を、呼んでいるもの」

 その瞬間、ミオのスマホ画面が一度だけ強く白く光った。

 スクリーンの地図に、新しい文字が浮かぶ。

《対象名:星宮ミオ》
《現在名消失率:3%》
《無番線ホーム、開通準備中》

 消失率。

 その言葉を見た瞬間、ユウリは息が止まりそうになった。

 三パーセント。

 小さな数字だ。

 数学のテストなら誤差のような数字。
 バッテリー残量ならまだ気にしなくていい数字。
 だけど、名前の消失率として表示されると、まるで命の残量のように見えた。

 レンも、さすがに黙っていた。

 軽口が出ない。
 興奮は残っているが、その下に恐怖が混ざっている。

 ユウリは、ミオの横顔を見た。

 昼休み、彼女は温かいミルクティーが好きだと言った。
 神狭市の坂道にまだ慣れていないと言った。
 この学校は空が近いと言った。

 普通のことを、普通に話していた。

 その彼女の名前が、いま、画面の中で数値化されている。

 現在名消失率。

 そんな言葉で。

 ユウリの中で、何かが切り替わった。

 怖い。

 本気で怖い。

 朝のAVIS起動よりも、駅前ビジョンの読めない文字よりも、今の方がずっと怖かった。

 自分に何かが起きているだけなら、まだ分からないで済ませられた。
 レンが面白がっているだけなら、止めればよかった。
 プロジェクターの地図だけなら、悪戯かもしれないと思えた。

 でも、ミオがそこに立っている。

 自分の名前が消えかけているかもしれないのに、それでも呼ばれている場所へ行こうとしている。

 それを見た瞬間、ユウリは逃げられなくなった。

「……行くなら」

 ユウリは、自分の声が震えないように気をつけた。

「一人では行かせない」

 ミオが振り返る。

 少し驚いた顔。

 レンも、すぐに息を吐いた。

「だよな。三人で行こう」

「お前はちょっと嬉しそうにするな」

「嬉しくはない。怖い。でも、見なかったことにする方が無理」

 レンはスマホを抜き取り、ケーブルを乱暴に巻いた。

「場所は神狭駅の地下連絡通路。放課後の混む時間だ。人が多いうちに行った方がいい」

「人が多い方が安全とは限らないだろ」

「じゃあ人が少ない方が安全か?」

 ユウリは答えられなかった。

 スクリーンの赤い点は、まだ明滅している。

《無番線ホーム、開通まで――》

 数字が表示される。

 十七分。

 秒数が減っていく。

 倉持が青ざめた顔で言った。

「な、なあ。これ、ほんとに何なんだよ。久遠、お前ら何か知ってるのか?」

 レンは一瞬迷ったあと、いつもの軽い笑みを作った。

「知らない。だから見てくる」

「いや、普通に先生呼べよ」

「呼んどいて」

「え?」

「先生呼んどいて。俺ら、駅見てくる」

「おい、待てって」

 倉持の声を背に、レンは鞄を掴んだ。

 ユウリもスマホをポケットに入れる。指先が冷たい。

 ミオは自分のスマホを見つめていた。

 白い画面には、まだ一文だけが残っている。

《現在名が不安定です》

 ユウリは言った。

「星宮さん」

 ミオが顔を上げる。

「行く前に、一つだけ確認させて」

「はい」

「今、ここにいるのは、星宮ミオでいいんだよな」

 自分でも、変な質問だと思った。

 けれど、聞かずにはいられなかった。

 ミオは少しだけ目を見開いた。

 それから、ゆっくり頷いた。

「はい」

 その声は、さっきよりも少しだけ強かった。

「私は、星宮ミオです」

 言葉が、情報処理室の空気に落ちる。

 その瞬間、ユウリのポケットの中でスマホが震えた。

 取り出す。

 黒い画面。
 白い円環。
 そして、新しい表示。

《現在名の自称を確認》
《保持補助:微弱》
《警告:無番線ホームにて名喪失反応継続》
《天瀬ユウリ、同行を推奨》

 命令ではなかった。

 推奨。

 その曖昧な言い方が、かえって腹立たしかった。

「言われなくても行くよ」

 ユウリは小さく呟いた。

 レンが扉を開ける。

 廊下には、まだ放課後の普通の学校が広がっていた。

 部活へ向かう生徒。
 笑い声。
 窓から差す夕方の光。
 誰かが階段で友人の名前を呼ぶ声。

 そのどれもが、いまはひどく遠く感じられた。

 ミオが一歩、廊下へ出る。

 ユウリはその背中を見た。

 細く、頼りなく、けれどどこかで確かに呼ばれている背中。

 胸の奥で、恐怖がじわりと広がる。

 本当に行っていいのか。
 何が待っているのか。
 自分に何ができるのか。

 何も分からない。

 ただ一つだけ、分かっていることがあった。

 名前が消えるかもしれない。

 その言葉だけは、冗談では済まない。

 プロジェクターの光が、三人の背後でまだ瞬いている。

 スクリーンに映った神狭市の地図。

 神狭駅の赤い点。

 そして、減っていく数字。

《開通まで:十五分二十二秒》

 放課後の学校から、いつもの駅へ。

 たったそれだけの距離が、その時のユウリには、現実と神話の境界を越える道のりのように思えた。

第三節 ― 無番線ホーム

 星綴高等学園から神狭駅までは、歩いて十五分もかからない。

 それは、朝なら何でもない距離だった。

 坂道を下り、住宅街を抜け、コンビニの角を曲がり、駅前の大きな交差点を渡る。何度も通った道だ。考えなくても足が覚えている。友人と話しながら歩けば、あっという間に着く。

 けれど、その日の放課後だけは違った。

 坂道の途中で振り返ると、星綴高等学園の校舎が夕方の光を受けていた。窓ガラスが橙色に反射し、屋上庭園のフェンスが細い影を落としている。そこにはまだ、普通の日常が残っているように見えた。

 グラウンドでは部活の声が続いている。
 校門の前では、生徒たちが笑いながら別れている。
 誰かが「また明日」と言っている。

 そのすべてが、ユウリには妙に遠く感じられた。

 レンは先頭を歩いていた。

 スマホを片手に、時々画面を確認している。足取りは速い。普段のようにふざけた軽さではなく、焦りと好奇心が混ざった速さだった。

 ミオは、その少し後ろを歩いている。

 顔色はよくない。けれど、立ち止まろうとはしなかった。自分でも理由が分からないまま、呼ばれている場所へ向かう人の足取りだった。

 ユウリは、二人のあいだを少し遅れて歩いた。

 何度もスマホを見た。

《無番線ホーム、開通まで:十一分四十秒》
《対象:星宮ミオ》
《現在名消失率:5%》
《警告:名喪失反応継続》

 五パーセント。

 情報処理室を出た時より、増えている。

 駅へ近づくたびに、数字がじわじわと上がっていた。

「レン」

「分かってる」

 レンは振り返らずに答えた。

「数字、上がってるんだろ」

「……見えてるのか?」

「俺のAVISにも出てる。ただ、ユウリのとは表示が違う」

 レンはスマホ画面をこちらに向けた。

 そこには、ゲームのイベント通知のような軽いデザインで、こう表示されていた。

《近隣怪異イベント発生中!》
《神狭駅周辺でレア反応を検知》
《推奨:ARカメラを起動してください》

 ユウリはぞっとした。

「何だよ、それ」

「一般版は、たぶん危険度をまともに出してない。というか、見せ方を変えてる。イベント扱いだ」

「イベントって……」

「だからヤバいんだよ。これ、知らないやつが見たら普通に行くぞ。レア反応とか言われたら、撮りに行くやついる」

 レンの声には、苛立ちが混ざっていた。

 さっきまで面白がっていた本人だからこそ、その危うさが分かったのかもしれない。

 ミオが小さく言った。

「私の画面は、ずっと白いままです」

 ユウリはミオを見る。

「文字は?」

「今は……」

 ミオはスマホを胸の前で開いた。

 白い画面。
 その中央に、細い文字が浮かんでいる。

《呼び出し中》

 ユウリは息を呑んだ。

 レンも立ち止まりかけた。

「呼び出し中って、誰が誰を」

「分かりません」

 ミオの声は震えていた。

 だが、泣きそうな震えではない。

 もっと深い場所で、自分の知らない何かが自分を揺らしているような震えだった。

「でも、さっきから……駅の方から、何か聞こえるんです」

「音?」

「はい。音というより……名前を呼ばれているような」

「ミオって?」

 ユウリが聞くと、ミオは少しだけ困った顔をした。

「いいえ」

 胸の奥が冷えた。

「じゃあ、何て」

「分かりません。知らない名前です。でも、私を呼んでいる気がするんです」

 知らない名前で、自分が呼ばれる。

 ユウリはその感覚を想像しようとして、すぐにやめた。

 怖すぎる。

 もし、自分の名前ではないものに反応してしまったら。
 もし、その名前が本当は自分のものだったとしたら。
 もし、「天瀬ユウリ」という名前の方が、ただの仮の札だったとしたら。

 考えた瞬間、足元が少し揺れた気がした。

「急ごう」

 ユウリは言った。

 自分でも驚くくらい、声が硬かった。

 神狭駅前は、いつも通り人で溢れていた。

 夕方から夜へ変わる時間帯。

 学校帰りの生徒、会社帰りの人々、買い物袋を下げた主婦、塾へ向かう小学生。駅前ビジョンには飲食店の広告が流れ、バスロータリーには列ができている。街灯が点き始め、ビルのガラス面には夕焼けとネオンが重なっていた。

 何もおかしくない。

 少なくとも、駅前広場に立った時点では、そう見えた。

 だからこそ、余計に不気味だった。

「本当に、ここで何か起きてるのか?」

 レンが呟く。

 彼の言葉に答えるように、ユウリのスマホが震えた。

《神狭駅地下連絡通路》
《入口検出》
《注意:周辺認識に差異が発生します》

「地下連絡通路だ」

 ユウリは駅ビルの下へ続く階段を見た。

 通路は、何度も使ったことがある。

 駅の南北を繋ぐ地下道。雨の日や暑い日は便利で、壁には商業施設や学習塾、クリニックの広告が並んでいる。夜でも人通りは多く、怖い場所ではない。

 そのはずだった。

 三人は階段を下りた。

 一段目。

 駅前の音が少し遠ざかる。

 二段目。

 空気が冷える。

 三段目。

 レンがスマホを握り直す。

 四段目。

 ミオの足音が、少しだけ遅れる。

「星宮さん?」

「大丈夫です」

 ミオはそう答えた。

 だが、その声は大丈夫ではなかった。

 地下連絡通路に下りると、蛍光灯の白い光が頭上に続いていた。

 壁には広告ポスターが並んでいる。

 新生活応援フェア。
 春の入会キャンペーン。
 駅前クリニック健康診断。
 神狭市民講座。
 英会話教室。

 どれも、ありふれた広告だった。

 だが、数歩進むと、ユウリは違和感を覚えた。

 ポスターの文字が、少し滲んでいる。

 印刷がぼやけているのではない。
 文字そのものが、意味を変えようとしているように見えた。

 新生活応援。

 その「生活」の部分が、ちらつく。

 生。
 名。
 登録。

 ユウリは立ち止まり、目を凝らした。

 次の瞬間、ポスターの文字はこう見えた。

 ――新名登録。

「……見たか?」

 ユウリが聞くと、レンが頷いた。

「見た。今、変わった」

 ミオは黙っていた。

 彼女は別のポスターを見ている。

 駅前クリニック健康診断。

 その文字も、ゆっくり滲んでいた。

 健康診断。
 姓名診断。
 名簿再登録。

 壁の広告が、一枚ずつ、少しずつ、別の意味へずれていく。

 春の入会キャンペーンは、春の入名キャンペーンへ。
 市民講座は、氏名講座へ。
 英会話教室は、詠名教室へ。

 どれも完全に変わるわけではない。

 見ようとすれば普通の広告に戻る。
 目を逸らすと、また別の文字に見える。

 現実が、間違い探しのようにずれている。

「気持ち悪……」

 レンが吐き捨てた。

 その声が、通路に反響しなかった。

 ユウリはそこで気づいた。

 人の声が遠い。

 地下連絡通路には、確かに人がいる。前を歩く会社員、スマホを見ながら歩く女子高生、改札へ向かう親子連れ。見えてはいる。

 けれど、音がしない。

 靴音も、話し声も、鞄の金具の揺れる音も、全部が薄い。

 まるで、ガラス越しに見ている映像の中にいるようだった。

 代わりに、別の音が聞こえ始める。

 チン。

 金属が鳴る音。

 チン。

 どこか懐かしい、古い鋏の音。

 改札機の電子音が、その音に置き換わっていく。

 ピッ、というICカードの反応音のはずなのに、耳には切符を切る音として届く。

 チン。
 チン。
 チン。

 誰かが、見えない切符を一枚ずつ切っている。

 ミオが両手で耳を押さえた。

「星宮さん!」

「大丈夫……です。でも、近い」

「何が」

「さっきの声」

 ミオは苦しそうに息をした。

「こっちに、来いって」

「聞くな」

 ユウリは反射的に言っていた。

 ミオが顔を上げる。

「聞かなくていい。たぶん、それは星宮さんの名前じゃない」

 自分で言って、自分で確信した。

 声は、彼女を呼んでいる。
 でも、星宮ミオとは呼んでいない。

 だからこそ、聞いてはいけない。

 ミオは唇を噛み、小さく頷いた。

 その時、レンが前方を指差した。

「電光掲示板」

 地下通路の先、駅構内へ続く分岐の上に、案内表示がある。

 通常なら、南口、北口、改札、各ホームへの矢印が表示されている。

 だが、そこに一つ、見慣れない項目が追加されていた。

無番線
終点:未記録

 白い文字だった。

 古い駅の表示板のように、少しだけ掠れた文字。

 矢印は、普段なら閉鎖されているはずの脇道を示していた。

「こんな通路、あったか?」

 レンが言う。

「ない」

 ユウリは答えた。

 だが、矢印の先には通路があった。

 地下連絡通路の壁が、そこだけ奥へ引っ込んでいる。薄暗い階段が下へ続き、その先に青白い灯りが漏れている。

 今まで、一度も見たことのない入口。

 けれど、昔からそこにあったような顔をしている。

「撮る」

 レンがスマホを向けた。

 カメラアプリを起動し、画面を覗き込む。

 すぐに眉をひそめた。

「映らない」

「え?」

「見ろ」

 ユウリが覗くと、レンのスマホ画面には、ただの壁が映っていた。

 そこに階段はない。

 無番線の表示もない。

 人通りのある普通の地下通路だけが、何事もなく映っている。

 レンは何度も角度を変えた。動画にも切り替えた。AVISのARカメラも起動した。

 だが、画面の中には何も映らない。

「肉眼では見えてるのに、記録できない……?」

 レンの声が、今度こそ震えた。

「じゃあ、防犯カメラにも映ってないかもしれない」

「そういうこと言うなよ」

「事実だろ」

 レンは舌打ちした。

 それでも、スマホをしまわなかった。怖がっているのに、記録することを諦められない。その姿に、ユウリは一瞬だけ苛立ち、同時に少し救われた。

 レンはまだ、ここを見ようとしている。

 見なかったことにしようとはしていない。

 三人は、階段の前に立った。

 冷たい風が下から吹き上げてくる。

 駅の地下にあるはずなのに、風には鉄と埃、古い紙の匂いが混ざっていた。使われなくなった倉庫か、長い間開けられていなかった改札の奥のような匂い。

 ミオが一歩、階段へ近づく。

 その瞬間、ユウリのスマホが激しく震えた。

《対象:星宮ミオ》
《現在名消失率:12%》
《警告:切符を受領させないでください》
《警告:切符を受領させないでください》
《警告:切符を受領させないでください》

「待って!」

 ユウリはミオの腕を掴んだ。

 細い腕だった。

 掴んだ瞬間、ミオの体がびくりと震える。

「すみません」

 ミオは自分でも驚いたように言った。

「勝手に、足が」

「足が?」

「行こうとしていました」

 ユウリは、掴んだ手を離せなかった。

 ミオの腕は冷えていた。

 人の体温が、少しずつ遠ざかっているように感じた。

「学生証」

 レンが急に言った。

「星宮さん、学生証見せて」

 ミオは戸惑いながら、鞄の外ポケットから学生証を取り出した。

 透明なケースに入った、今日受け取ったばかりの新しい学生証。

 そこには、顔写真と、学年と、名前が印字されているはずだった。

 だが。

 星宮ミオ。

 その文字が、薄い。

 インクが水に溶けたように、輪郭が滲み、かすれている。

 写真の方ははっきりしている。学年も、クラスも、番号も読める。なのに、名前だけが薄くなっている。

 ミオが息を呑んだ。

「私の、名前……」

 声が小さくなる。

 その瞬間、ユウリははっきりと感じた。

 ここで怖がらせてはいけない。

 名前が薄れていることを、本人に「もう消えかけている」と認識させてはいけない。

 認識が、何かを進める気がした。

「まだ読める」

 ユウリは言った。

 ミオがこちらを見る。

「読める。星宮ミオって書いてある」

 実際には、かなり薄い。

 でも読める。

 読める限り、それはまだ消えていない。

 ユウリは自分に言い聞かせるように、もう一度言った。

「大丈夫。まだ読める」

 ミオの目が少し揺れた。

 けれど、彼女は頷いた。

「はい」

 レンが階段の下を覗いた。

「行くしかない。ここまで来て戻っても、数字が下がるとは限らない」

「分かってる」

 ユウリはミオの腕を離した。

「でも、星宮さん。何か渡されても受け取らないで」

「切符、ですか」

「たぶん」

 ミオは少し青ざめた顔で頷いた。

「分かりました」

 階段を下りる。

 一段ごとに、神狭駅の音が遠ざかる。

 最初は人の声。
 次に改札の音。
 次に電車の走行音。
 最後に、自分たちの足音だけが残る。

 階段の壁は、途中から白いタイルではなくなっていた。

 古いコンクリート。
 剥がれかけた塗装。
 錆びた手すり。
 ところどころに貼られた、読めない行き先表示。

 地下へ下りているはずなのに、空気は広くなっていく。

 やがて、視界が開けた。

 ホームだった。

 神狭駅のどのホームとも違う。

 天井は低く、照明は古い蛍光灯のように青白い。線路は一本だけ。向かい側の壁には広告が並んでいるが、どれも色褪せていて、文字が擦れて読めない。

 ホームの端には、古い木製のベンチ。

 駅名標には、何も書かれていない。

 いや。

 よく見ると、白い板の中央に、薄い文字がある。

 未記録

 そう読めた瞬間、ユウリの背中に汗が滲んだ。

 ここは、駅ではない。

 駅の形をした、別の何かだ。

 レンが小さく呟く。

「……マジかよ」

 その声は、さっきよりずっと小さかった。

 彼はスマホを構えていたが、画面にはやはり何も映っていないのだろう。録画ボタンを押したまま、呆然とホームを見ている。

 ミオは、ホームの中央を見つめていた。

 そこに、ひとり立っていた。

 黒い制服の車掌。

 古い時代の駅員のような服装だった。黒い上着、金属のボタン、制帽。白い手袋。片手には、鈍く光る改札鋏。

 顔は見えない。

 帽子の影になっているのではない。

 そこに顔があるべき場所だけ、黒く塗りつぶされたように影になっている。

 影の奥から、鋏の音がした。

 チン。

 車掌が、ゆっくりこちらを向く。

 顔がないのに、見られていると分かった。

 ユウリのスマホが震える。

《無番線の車掌》
《分類:都市伝説化神話残滓》
《能力推定:名の切符化/記録外搬送/現在名剥離》
《警告:接触禁止》

 読んでいる余裕はなかった。

 車掌が、一歩、ミオへ近づいた。

 その動きは滑らかだった。歩いているのに足音がしない。ホームの床を滑るように、距離だけが縮まっていく。

 ミオは動かない。

 ユウリは彼女の前に出ようとした。

 だが、その瞬間、体が重くなった。

 足元に影が絡みついている。

 見ると、自分の影がホームの床に貼りつき、改札の黒いバーのように行く手を塞いでいた。

「ユウリ!」

 レンが叫ぶ。

 彼も動けない。

 レンの足元にも、細い黒い線が絡んでいた。まるで見えない改札に止められているように。

 ミオだけが、止められていなかった。

 いや、違う。

 彼女だけが、通行を許可されている。

 車掌は白い手袋の手を上げた。

 その手には、いつの間にか一枚の切符があった。

 白い切符。

 古い厚紙のような質感。縁には細い黒線が入っている。

 車掌は、ミオへそれを差し出す。

 鋏が、もう片方の手で鳴る。

 チン。

 ミオの瞳が揺れた。

 ユウリは必死に声を出そうとした。

「受け取るな……!」

 声が掠れる。

 ホームの空気が、言葉を吸い取っている。

 車掌の手元の切符に、黒い文字が浮かび上がった。

 最初は滲んでいた。

 けれど、少しずつはっきりしていく。

 星宮ミオ

 その四文字が、切符の中央に印字されている。

 ミオの学生証の名前は、さらに薄くなっていた。

 まるで、名前が学生証から切符へ移っているように。

 ミオが一歩、前へ出た。

「だめだ!」

 ユウリは影を振り払おうとした。

 足は動かない。

 レンがスマホを投げつけるように構えた。

「星宮さん、聞くな! それ、お前のじゃない!」

 ミオは二人の声に反応したように、わずかに瞬きをした。

 けれど、視線は切符から離れない。

 彼女の顔に、恐怖はあった。

 だが、それ以上に、どこか安堵のようなものが浮かんでいた。

 呼ばれていたものに、ようやく辿り着いた人の顔。

 帰る場所を見つけてしまった人の顔。

 ユウリはその表情を見て、ぞっとした。

 違う。

 これは帰る場所ではない。

 ここへ行ってはいけない。

 名前を渡してはいけない。

 ミオの手が、ゆっくり上がる。

 白い指先が、切符へ近づいていく。

 車掌は動かない。

 ただ、差し出している。

 まるで、当然受け取られるものを待っているだけのように。

 ユウリのスマホが、ポケットの中で激しく震えた。

 画面を見なくても分かる。

 警告が出ている。

 切符を受領させないでください。

 現在名消失率が上がっている。

 ミオの名前が、ここから剥がれようとしている。

 ユウリは歯を食いしばった。

 足は動かない。
 手も届かない。
 走れない。
 止められない。

 なら。

 声だけでも。

「星宮さん!」

 叫ぶ。

 だが、ミオの指先は止まらない。

 車掌の鋏が、もう一度鳴った。

 チン。

 切符の文字が、濃くなる。

 星宮ミオ。

 ミオの指が、切符に触れようとした。

第四節 ― 選択肢の外側

 ミオの指先が、白い切符に触れる。

 その直前。

 ユウリのポケットの中で、スマホが光った。

 光は布越しにも分かるほど強かった。黒い制服のポケットの内側から、白い輪が焼きつくように浮かび上がる。ユウリは動かない足を引き剥がすようにして、震える手でスマホを取り出した。

 画面は黒かった。

 その中央で、白い円環が回っている。

 さっきまでの警告表示ではない。

 もっと深い場所から浮かび上がってくるような、重い文字。

《契約候補を検出》
《対象:天瀬ユウリ》
《接続先:未確定》

《許可する》
《拒否する》
《保留する》

 三つの選択肢が、画面に並んでいた。

 許可する。

 拒否する。

 保留する。

 ユウリは、その文字を見つめたまま、一瞬、何も考えられなくなった。

 契約。

 その単語だけが、妙に現実離れしていた。

 契約とは何だ。
 誰と。
 何を。
 何のために。

 神と契約する。
 力を得る。
 代償を払う。

 そういう言葉なら、物語の中にいくらでもあった。ゲームにも、漫画にも、小説にも、神話にもある。人間が禁じられた知恵を得るとき。悪魔に魂を売るとき。神の加護を受けるとき。英雄が剣を取るとき。

 でも、それは画面の中の話だった。

 読む側の話だった。

 自分の親指が、その選択肢の上で止まるなんて、考えたこともなかった。

「ユウリ!」

 レンの声が聞こえた。

 遠い。

 ホームの空気が、音を吸っている。

 ミオの指先は、まだ切符へ伸びている。時間が引き延ばされたように、動きだけが遅く見えた。けれど、止まっているわけではない。あと少しで触れる。

 車掌は待っている。

 顔のない影を、ミオへ向けたまま。

 切符に印字された文字は、さらに濃くなっていく。

 星宮ミオ。

 その文字が濃くなるたびに、彼女の学生証の名前が薄くなる。
 今ここにいる少女の名前が、別の紙片に移されていく。

 ユウリは画面を握りしめた。

 許可する。

 これを押せば、何かが起きるのかもしれない。

 足を止めている影を破れるのかもしれない。車掌を倒せるのかもしれない。ミオを助けられるのかもしれない。

 けれど、何と契約するのか分からない。

 接続先:未確定。

 そんな状態で、許可していいのか。

 自分の中へ、何を入れることになるのか。
 自分の名前は、そのまま残るのか。
 ミオを助けるために、別の何かへ自分を渡すことにならないのか。

 拒否する。

 押せば、きっと安全なのかもしれない。

 自分だけは。

 この異常から手を引けるのかもしれない。知らなかったことにできるかもしれない。駅前に戻って、教師を呼んで、警察に連絡して、これは自分たちの手に負えるものではないと言えるかもしれない。

 けれど、拒否した瞬間に。

 ミオの指は、切符に触れる。

 それだけは分かった。

 保留する。

 いちばん無難な選択肢に見えた。

 選ばない。
 決めない。
 もう少し考える。

 けれど、今は考える時間がない。

 保留している間に、名前が消える。

 選択肢があることそのものが、ひどく残酷だった。

 どれを選んでも、何かを間違える気がした。

 ユウリは奥歯を噛みしめる。

 画面の向こうで、白い円環が回り続けている。

 まるで急かしているように。
 まるで試しているように。

 お前はどうする。

 何を選ぶ。

 誰の名を、どこへ渡す。

 そんな問いが、画面の奥から見つめてくる。

「くそ……!」

 ユウリは息を吐いた。

 神話の中の英雄なら、ここで迷わないのかもしれない。

 神を信じる者なら、許可を押せるのかもしれない。
 世界を拒む者なら、拒否を押せるのかもしれない。
 賢い者なら、保留して状況を観察できるのかもしれない。

 けれど、ユウリはそのどれでもなかった。

 ただの高校生だった。

 神話が好きなだけ。
 都市伝説を調べるのが好きなだけ。
 考察動画に文句を言いながら見るのが好きなだけ。

 誰かを救うための力なんて、持っていない。

 それでも。

 ミオの指先が、切符に近づいていく。

 彼女の顔は、どこかぼんやりしていた。

 自分が何をしようとしているのか、分かっていないように見えた。
 あるいは、分かっているのに止められないように見えた。

 昼休みに聞いた声が、ユウリの耳に蘇る。

「温かいミルクティーが好きです」

「駅から学校までの道も、今朝は地図を見ながら来ました」

「ここ、空が近いですね」

 あれは神の言葉ではない。

 伝説の台詞でもない。

 ただの転校生の、普通の会話だった。

 あの名前を、今ここで、切符にされてたまるか。

 その瞬間、スマホの画面が大きく乱れた。

 白い円環にノイズが走る。

 三つの選択肢が歪み、文字が崩れ、黒い画面の奥から別の表示が浮かび上がった。

《未定義の選択肢を検出しました》
《表示しますか?》

 ユウリは息を呑んだ。

 未定義。

 選択肢の外側。

 朝、駅前で表示された言葉を思い出す。

 《選択肢表示機能:未定義》

 許可でもない。
 拒否でもない。
 保留でもない。

 まだ名前のついていない選択。

 迷う時間はなかった。

 ユウリは親指で、画面を押した。

 表示が切り替わる。

《現在名を呼称してください》

 たった一文。

 それだけだった。

 力の使い方も、契約条件も、攻撃方法も表示されない。

 ただ、名前を呼べと。

 現在名を。

 ユウリは顔を上げた。

 ミオの指が、切符に触れた。

 ほんのかすかに。

 紙の端が、彼女の指先に吸いつくように震える。

 切符の文字が、黒く濃く染まった。

 星宮ミオ。

 その名前が、もう一度、紙の上で確定しようとした。

 ユウリは叫んだ。

「ミオ!」

 初めて呼んだ。

 星宮さん、ではなく。

 星宮ミオというフルネームでもなく。

 ミオ。

 昼休みに、まだそう呼んでいい距離ではなかった名前。
 転校初日の相手に、いきなり呼ぶには近すぎる名前。
 けれど今、この場所では、最も確かな名前。

 声は、ホームに響いた。

 吸い取られなかった。

 鋏の音も、車掌の影も、線路の奥の暗闇も、その声だけは消せなかった。

 ミオの肩が震える。

 閉じかけていた瞳が、はっと開いた。

 切符の文字が揺らいだ。

 星宮ミオ。

 その四文字のうち、最後の「ミオ」が、紙から浮き上がるように剥がれた。

 黒いインクがほどけ、細い光の糸になって、ミオの指先へ戻っていく。

 ミオが息を吸った。

 深く、苦しそうに。

 まるで、長い間水の底に沈んでいて、ようやく水面へ出た人のように。

「……ユウリ、くん?」

 声が戻った。

 その瞬間、ユウリの足元を縛っていた影が少し緩む。

 完全には解けない。

 けれど、動ける。

 ユウリは踏み出そうとした。

 だが、それより先に、車掌が動いた。

 顔のない影が、初めてユウリを見た。

 見た、と分かった。

 帽子の下の黒い空洞が、まっすぐこちらへ向く。

 その奥で、無数の鋏の音が鳴った。

 チン。
 チン。
 チン。
 チン。
 チン。

 一つではない。

 数えきれないほどの改札鋏が、暗闇の奥で一斉に鳴っている。切符を切る音。名前を切る音。記録を切る音。誰かがどこかへ行くことを許可する音。誰かがここから消えることを承認する音。

 ユウリの全身が強張った。

 怖い。

 顔がないのに、怒っているのが分かった。

 あるいは、怒りではないのかもしれない。

 業務を妨害された駅員のように、ただ淡々と、規則違反を見る目でこちらを見ている。そういう怖さだった。

 ユウリのスマホから、初めて声がした。

 それは機械音声ではなかった。

 少年のようにも、鳥のようにも、耳元で囁く小さな悪魔のようにも聞こえる声。

「いいぞ、ユウリ」

 ユウリは画面を見た。

 黒い画面の中、白い円環の中心で、小さな記号が瞬いている。

 目にも、鳥にも、鍵穴にも見える記号。

 そこから声が続いた。

「神名じゃない。現在名を掴め」

「お前……」

「説明はあとだ。今は呼べ。あいつが切符にする前に、ここにある名を掴み直せ」

 声は生意気で、命令口調で、少しだけ苛立っていた。

 不思議と、怖くはなかった。

 むしろ、その雑な言い方が、ユウリを現実へ引き戻した。

 そうだ。

 神が何かとか、AVISが何かとか、契約が何かとか、考えている場合ではない。

 ミオはまだ、ここにいる。

 切符に全部移ったわけではない。

 なら、呼べる。

 ユウリは息を吸った。

 ホームの空気は冷たい。

 胸の奥が痛む。

 足元の影が、また絡みついてくる。車掌が鋏を上げる。白い切符が、ミオの指に貼りつくように震える。名前が、もう一度紙へ戻ろうとする。

 ユウリは叫んだ。

「星宮ミオは、ここにいる!」

 その言葉は、さっきよりも強く響いた。

 名を呼ぶというより、そこにいることを宣言する声だった。

 神へ祈る声ではない。
 異界に命じる声でもない。
 ただ、目の前の少女を現実へ繋ぎ止める声。

 切符の文字が、激しく揺らいだ。

 星。
 宮。
 ミ。
 オ。

 一文字ずつ、黒いインクが浮き上がる。

 それは細い光の糸になって、ミオの胸元へ、学生証へ、スマホの白い画面へ、彼女自身の呼吸へと戻っていく。

 ミオの学生証に、薄れていた名前がゆっくり濃くなる。

 星宮ミオ。

 まだ完全ではない。

 でも、読める。

 はっきりと。

 ミオが切符から手を離した。

 白い切符が、宙に取り残される。

 その中央にあった名前は、もうない。

 空白。

 ただの白い紙片。

 車掌の鋏が、強く鳴った。

 チン。

 その音で、切符に細い亀裂が入る。

 続いて、二本目。三本目。

 まるで見えない誰かが、紙ではなく空間そのものに鋏を入れているようだった。

 切符が破れた。

 破片が舞い上がる。

 けれど、それは紙吹雪にはならなかった。白い破片は空中で黒く変色し、小さな改札鋏の影のようになって、音もなく崩れていく。

 ホーム全体が軋んだ。

 天井の蛍光灯が一本ずつ点滅する。

 駅名標の《未記録》という文字が滲み、読めなくなる。

 線路の奥から、電車の接近音が聞こえた。

 だが、光は見えない。

 音だけが来る。

 遠くから、重く、ゆっくりと。

 レンが叫んだ。

「ユウリ、やばい! ここ崩れる!」

 言われなくても分かった。

 ホームの端が、砂のように崩れ始めている。床のタイルが黒い粒になり、線路へ落ちていく。広告ポスターの文字が剥がれ、宙で読めない神名のようにほどける。

 車掌はまだ立っていた。

 倒れていない。

 苦しんでもいない。

 ただ、破れた切符の残骸を見下ろし、それからゆっくりユウリへ顔を向けた。

 その影の奥で、鋏の音が一度だけ鳴る。

 チン。

 それは、怒りではなかった。

 約束のように聞こえた。

 また来る。

 そう告げているように。

 ユウリの背筋が冷えた。

 その直後、足元の影が完全にほどけた。

「走れ!」

 レンが叫ぶ。

 今度はユウリも動けた。

 ミオの腕を掴む。さっきより強く、けれど痛くしないように。ミオは一瞬よろめいたが、自分の足で踏みとどまった。

「ミオ、走れる?」

 そう呼んだあとで、ユウリは自分がまた名前で呼んだことに気づいた。

 けれど、今さら言い直さなかった。

 ミオも、驚かなかった。

「はい……!」

 三人は階段へ向かって走った。

 背後でホームが崩れていく。

 蛍光灯が弾ける。線路が黒い霧へ沈む。電車の接近音がどんどん大きくなる。だが、振り返っても何も見えない。ただ、音だけが迫ってくる。

 まるで、記録されなかったものを乗せた電車が、存在しない線路を走ってくるようだった。

 階段を駆け上がる。

 レンが先頭。
 ミオが真ん中。
 ユウリが最後。

 途中で、壁に貼られた読めない行き先表示が一斉に剥がれ落ちた。紙ではなく、薄い皮膚のようなものがめくれ、その下に普通の白いタイルが現れる。

 上から、駅の音が戻ってくる。

 人の声。
 改札の電子音。
 アナウンス。
 電車の発車ベル。

 それらが一気に流れ込んできた。

 レンが最後の段を駆け上がる。

 ミオが続く。

 ユウリが階段を上りきった瞬間、背後で何かが閉じた。

 振り返る。

 そこに階段はなかった。

 ただの壁。

 広告ポスターが一枚貼られている。

 新生活応援フェア。

 文字は、もう変わらない。

 通路には人がいた。

 会社員が歩いている。学生たちが笑っている。親子連れが改札へ向かっている。誰も、たった今そこに存在しないホームが開いていたことに気づいていない。

 レンは壁に手をつき、荒い息を吐いた。

「……撮れてない」

 スマホの画面を見て、悔しそうに言う。

「全部、普通の壁しか映ってない。音も、ノイズだけ」

「今はそれでいいだろ」

 ユウリも息が切れていた。

 心臓が痛いほど鳴っている。

 ミオは壁の前に立ったまま、自分の学生証を見ていた。

 ユウリは彼女の手元を覗く。

 名前欄には、ちゃんと文字がある。

 星宮ミオ。

 少しだけ印字が薄い気もする。

 けれど、読める。

 ミオはその文字を指先でなぞった。

「戻ってる……」

「うん」

 ユウリは頷いた。

「戻ってる」

 その言葉を口にした瞬間、ようやく膝の力が抜けそうになった。

 倒れそうになるのを、壁に手をついて堪える。

 レンが小さく笑った。

「やば……本当に、やばかった」

「笑うな」

「笑ってないと無理」

 それは本音に聞こえた。

 ユウリも、少しだけ分かった。

 怖すぎると、人は笑うしかなくなることがある。

 ミオがユウリを見た。

 目が少し潤んでいる。

 けれど、泣いてはいなかった。

「あの」

「何?」

「呼んでくれて、ありがとうございます」

 ユウリは、すぐに返事ができなかった。

 呼んだ。

 ただ、それだけだ。

 それだけで何かが戻った。

 それがどういう意味なのか、まだ分からない。

 けれど、ミオの名前はそこにある。

 今は、それでよかった。

「……勝手に呼んで、ごめん」

 ユウリが言うと、ミオは少しだけ目を丸くした。

 それから、ほんのわずかに笑った。

「いいです」

「え?」

「今のは、呼んでもらえてよかったです」

 その言葉に、ユウリは胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 何かを言おうとした。

 だが、その前にスマホが震えた。

 三人同時だった。

 レンのAVIS。
 ミオのAVIS。
 ユウリのAVIS。

 ユウリの画面には、黒い背景と白い円環。

《無番線ホーム:一時消失》
《星宮ミオ:現在名保持》
《天瀬ユウリ:未確定名の観測者として仮登録》
《注意:神話構文災害は未収束です》

 未収束。

 その言葉が、勝利の余韻を静かに打ち消した。

 ユウリは壁を見る。

 そこにはもう、階段も、無番線の表示も、車掌もいない。

 けれど、あの鋏の音だけが、耳の奥に残っている。

 チン。

 切符を切る音。

 名前を切る音。

 そして、またいつか開くかもしれない、存在しないホームの音。

 そのとき、スマホからあの声が聞こえた。

「勘違いするなよ、ユウリ」

 レンがぎょっとして画面を見る。

「今の、誰だ?」

 ミオも目を見開く。

 ユウリはスマホを握りしめた。

 白い円環の中心で、小さな記号が瞬いている。

 声は、少しだけ楽しそうだった。

「お前は神を倒したんじゃない。名前を取り返しただけだ」

 ユウリは、乾いた喉で呟いた。

「……それで十分だろ」

「今日のところはな」

 声はそう答えた。

 そして、画面に一行だけ表示が残る。

《AVIS個体名:アヴィ=シグル》
《以後、暫定同行》

 ユウリは、その文字を見つめた。

 世界が戻ったはずの地下連絡通路で、行き交う人々だけが何も知らずに通り過ぎていく。

 日常は、すぐ隣にあった。

 けれど、もう完全には戻れない。

 ユウリはそれを、はっきりと理解した。

第五節 ― 名前を取り返しただけ

 地下連絡通路を抜け、駅前へ出た瞬間、ユウリは世界の音が一気に戻ってくるのを感じた。

 電車の発車メロディ。

 改札を抜ける人々の足音。

 駅前ロータリーで唸るバスのエンジン。

 信号が青に変わる電子音。

 コンビニの自動ドアが開き、揚げ物の匂いと冷えた空気が、春の夕方へ吐き出される。

 全部、いつもの神狭駅だった。

 何も壊れていない。

 誰も倒れていない。

 誰も叫んでいない。

 さっきまで駅の底にあったはずの無番線ホームは、どこにもなかった。

 ユウリは、階段を上りきったところで立ち止まった。

 いや、正確には、足が止まってしまった。

 身体の奥が遅れて震え始めている。地下では感じる暇もなかった恐怖が、地上の光と人の声に触れた瞬間、いきなり背中へ追いついてきた。

 怖かった。

 今さら、そう思った。

 怖かったのだ。

 名前が消える。

 人が消える。

 そして、そのことを世界が何事もなかったように上書きする。

 そんなものに、自分たちは今、触れてしまった。

「……戻ってる」

 レンが隣で呟いた。

 その声には、安堵よりも困惑が濃かった。

 レンは駅前の雑踏を見回している。人の多さ、明かりの強さ、流れている広告、改札前の行列。そのすべてが普通すぎて、逆に信じられないという顔だった。

「誰も、気づいてないのかよ」

「たぶん」

 ユウリは答えたが、自分の声もひどく頼りなかった。

 ミオは、少し後ろで立ち止まっていた。

 階段の手すりに片手を添え、もう片方の手で胸元を押さえている。息はまだ浅い。顔色も悪い。けれど、さっき地下で見たような、輪郭が世界から剥がれかける感じはもうなかった。

 彼女の影は、夕方の光を受けて、ちゃんと足元に落ちている。

 ユウリは、それを確認してから、ようやく呼んだ。

「ミオ」

 ミオの睫毛が震えた。

「……うん」

 返事があった。

 たったそれだけで、胸の奥が痛いほど緩んだ。

 ユウリはもう一度その名前を呼びそうになって、唇を閉じた。

 呼びたいから呼ぶ。
 確認したいから呼ぶ。
 そこにいるか不安だから呼ぶ。

 今までは、名前なんてそれくらい気軽なものだと思っていた。

 けれど今は違う。

 名前を呼ぶことが、誰かをこの世界へ繋ぎ止める行為なのだと知ってしまった。

 知ってしまった以上、もう以前と同じ重さでは呼べない。

 レンが、ぎこちない動作でスマホを取り出した。

「待って。録画。俺、ホームに入る前からずっと回してたはず」

 いつものレンなら、ここで「スクープだ」とか「神狭駅怪異映像、再生数いける」とか言いそうなものだった。

 けれど、今は違った。

 指が震えている。

 画面のロックを一度失敗し、舌打ちして、もう一度解除する。動画アプリを開き、さっき撮影したはずのファイルを探す。

「あった」

 レンは再生ボタンを押した。

 三人は、自然と画面を覗き込んだ。

 映像には、地下連絡通路が映っていた。

 蛍光灯。

 壁の広告。

 夕方にしては少し人通りの少ない、けれどどこにでもある駅の通路。

 画面の中で、レンがカメラへ向かって何か喋っている。ユウリがそれを押しのけ、ミオが少し困ったように笑っている。

 それだけだった。

 無番線ホームは映っていない。

 黒い制服の車掌も映っていない。

 白い切符も、名前の薄れた学生証も、崩れ落ちるホームも、線路の奥から迫ってきた見えない電車の気配も。

 何もない。

 映像の中の三人は、ただ地下通路で少し悪ふざけをしている高校生にしか見えなかった。

「……は?」

 レンの声が掠れた。

 彼は動画を巻き戻した。

 もう一度再生する。

 何も変わらない。

 さらに戻す。

 地下通路。
 壁。
 広告。
 ふざける自分。
 呆れた顔のユウリ。
 少し笑うミオ。

 それだけ。

「違う」

 レンが呟いた。

「違うだろ。俺、こんなことしてない。ここでミオが変な表示見て、ユウリが止めて、階段があって……俺、ちゃんと撮ってた。絶対撮ってた。なのに、何で」

 レンは何度も動画を擦った。

 指先が焦って画面を滑り、再生位置が飛ぶ。

 それでも、出てくるのは普通の日常だけだった。

 記録は、現実を裏切っていた。

 いや。

 ユウリは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 違う。

 記録が裏切ったのではない。

 記録の方が、世界に合わせて修正されたのだ。

 あの無番線ホームは、記録されない場所だった。

 あるいは、記録されてはいけない場所だった。

 だから、映像には残らない。

 残るのは、編集された日常。

 世界が「何も起きなかった」と言い張るための証拠だけ。

「……ふざけんなよ」

 レンの声が震えた。

 怒っているのか、怖がっているのか、本人にも分からないような声だった。

「じゃあ、俺たちが見たものは何なんだよ」

 ユウリは答えられなかった。

 駅前の雑踏が、いつも通り流れている。

 会社員が改札へ向かう。

 高校生たちが笑いながらファストフード店へ入っていく。

 買い物袋を下げた女性が、自転車の後ろに乗せた子どもに「落とさないでよ」と言っている。

 その全部が、本物の日常に見える。

 けれど、その下に薄い膜が一枚ある。

 少し指で引っかけば、また別の何かが覗いてしまう。

 そんな気がした。

「ミオ、学生証」

 ユウリが言うと、ミオははっとしたように鞄を開いた。

 透明なカードケースを取り出す。

 指先が、ひどく慎重だった。

 まるで、そこに何も書かれていなかったら、その瞬間に自分自身まで消えてしまうと恐れているように。

 学生証には、名前があった。

 星宮ミオ。

 白いカードの上に、黒い文字で、ちゃんと印字されている。

 ミオはそれを見つめたまま、息を詰めた。

 そして、小さく言った。

「……ある」

 声が震えていた。

「私の名前、ある」

 その言葉を聞いた瞬間、ユウリの胸の奥に、何か熱いものが込み上げてきた。

 安堵だった。

 けれど、それだけではなかった。

 悔しさにも近かった。

 名前がある。

 ただ、それだけのことを、こんなにも必死で確認しなければならない。

 そんな状況に巻き込まれたことが、たまらなく腹立たしかった。

 レンも長く息を吐いた。

「よかった……」

 それは、いつもの軽い言葉ではなかった。

 本当に、心の底から漏れた声だった。

 ミオは学生証を胸に抱えた。

 けれど、安堵しきった顔ではない。

 名前が戻ったこと。

 名前が消えかけたこと。

 どちらも本当なのだ。

 その二つを同時に抱えるには、彼女はまだあまりにも普通の高校生だった。

 ユウリも同じだった。

 普通の高校生だったはずだ。

 今朝までは。

 制服のポケットで、スマホが震えた。

 ユウリの肩が跳ねる。

 ただの通知音ではない。

 画面を見なくても分かった。

 《AVIS》だ。

 ユウリはスマホを取り出した。

 画面は勝手に点灯していた。黒い背景に、白い円環が浮かんでいる。中心には、目にも鳥にも鍵穴にも見える小さな記号。さっき地下で声を発した存在の印。

 細い文字が、上から順に流れていく。

《神話構文災害:未収束》
《無番線ホーム:一時消失》
《星宮ミオ:現在名保持》
《天瀬ユウリ:未確定名の観測者として仮登録》

 未収束。

 一時消失。

 現在名保持。

 未確定名の観測者。

 どの単語も理解できる。

 けれど、受け入れられない。

 ユウリはスマホを握りしめた。

「……なんだよ、これ」

 声が震えた。

 レンが横から画面を覗き込む。

「また出たのか」

「出た」

「未収束って……終わってないってことか」

 ユウリは答えられなかった。

 答えたくなかった。

 だが、画面の中の小さな記号が、まるでこちらの沈黙を笑うように瞬いた。

「終わってない」

 スマホから声がした。

 レンが顔を強張らせる。

 ミオも息を呑んだ。

 アヴィ=シグル。

 さっき、画面に表示された名前。

 本人はそれを名前ではなく「呼び名」と言った存在。

 その声は、軽く、少し鼻にかかっていて、妙に偉そうだった。

「正確に言えば、今回は閉じただけだ。無番線ホームは一時消失。車掌も消滅していない。切符の受領は阻止した。星宮ミオの現在名は保持された。以上」

 あまりにも淡々とした言い方だった。

 ユウリの中で、恐怖とは別の感情が湧き上がる。

 怒りだった。

「以上、じゃないだろ」

「何がだ」

「ミオの名前が消えかけたんだぞ」

「だから取り返した」

「取り返しただけで済む話じゃない」

「済まない。だから未収束と表示している」

「お前……!」

 言い返そうとして、言葉が詰まった。

 何を怒ればいいのか、自分でも分からなかった。

 アヴィが悪いのか。

 無番線ホームが悪いのか。

 AVISが悪いのか。

 それとも、何も知らずに駅へ行った自分たちが悪いのか。

 胸の中がぐちゃぐちゃだった。

 そんなユウリを見透かしたように、アヴィは言った。

「勘違いするな、天瀬ユウリ」

 その声から、少しだけ軽さが消えた。

「お前は神を倒したんじゃない。名前を取り返しただけだ」

 ユウリは黙った。

 その言葉は、地下でも聞いた。

 けれど地上で、日常の音の中で聞くと、重さが変わる。

 名前を取り返しただけ。

 確かにそうだ。

 車掌は倒していない。
 無番線ホームの正体も分からない。
 AVISが何なのかも分からない。
 ミオの名前がなぜ狙われたのかも分からない。

 分からないことだらけだ。

 ただ、消えかけた名前を、剥がれきる前に押さえただけ。

「それでも」

 ユウリは小さく言った。

 アヴィが黙る。

「それでも、取り返せたなら……今は、それでいいだろ」

 ミオが、ユウリを見た。

 レンも、少しだけ目を細めた。

 アヴィは数秒、何も言わなかった。

 駅前の雑踏だけが、三人の周囲を通り過ぎていく。

 やがて、画面の記号が小さく揺れた。

「今日のところはな」

「今日のところは、って何だよ」

「そのままの意味だ。お前らは今日、たまたま戻ってきただけだ。状況も、相手も、条件も、まだ何も理解していない。勝ったと思えば、次で消える」

「言い方」

 レンが顔をしかめる。

「もうちょっと初心者向けチュートリアルみたいに言えないのか」

「初回イベントクリアおめでとう。報酬として、次回以降の生存率がわずかに上昇しました」

「急にゲームっぽくするな。余計怖い」

「注文の多い動画猿だな」

「誰が動画猿だ!」

 レンが怒鳴る。

 そのやりとりに、ミオが小さく笑った。

 本当に小さな笑いだった。

 けれど、笑いだった。

 ユウリはそれを見て、喉の奥が詰まる。

 ミオが笑った。

 名前を取り戻した。
 そこにいる。
 くだらない会話に反応して、ちゃんと笑っている。

 それだけで、泣きそうになるくらい安心した。

 ミオは自分でもそのことに気づいたのか、学生証を少しだけ緩く握り直した。

「アヴィさん、でいいんですか」

「さん付けは不要だ。むず痒い」

「じゃあ、アヴィ」

「それでいい」

 ミオは少し迷ってから、言った。

「ありがとう」

 アヴィの記号が止まった。

 ほんの一瞬。

 それから、少し不機嫌そうに跳ねる。

「礼を言う相手を間違えるな。呼んだのはユウリだ」

「でも、教えてくれました」

「状況判断の補助をしただけだ」

「それでも、助かりました」

 ミオはまっすぐ画面を見ていた。

 アヴィは黙った。

 ユウリには、それが照れているように見えた。

 そう思った瞬間、画面の記号がこちらを向いた気がした。

「変な解釈をするな」

「何も言ってないだろ」

「顔に出ている」

「スマホ越しに顔を見るな」

「観測範囲内だ」

「その観測、制限できないのか」

「できるが、する理由がない」

「性格悪いな」

「分類を急ぐなと言った」

 レンが呆れたように笑う。

「こいつ、本当に何なんだよ。AIでも悪魔でもないなら、何枠?」

「決めるな」

 アヴィの声が、急に低くなった。

 ユウリは思わず黙る。

「決めた瞬間、俺はその程度のものになる」

 駅前の音が、少しだけ遠ざかった。

 発車メロディも、人の声も、バスのエンジン音も、完全には消えない。

 けれど一瞬だけ、スマホの画面だけが世界の中心になったような感覚があった。

 アヴィは続ける。

「AI。悪魔。精霊。神の残滓。アプリ。ウイルス。ナビゲーター。お前たちは、理解できないものに名前を貼って安心したがる。名前をつければ扱えると思っている。箱に入れれば、もう怖くないと思っている」

 ユウリは、ミオの学生証を見た。

 星宮ミオ。

 戻ってきた名前。

 守れた名前。

 けれど、その名前もまた、何かを固定するものなのだろうか。

 名前は人を守る。

 でも同時に、人を閉じ込める。

 その両方が、今なら少しだけ分かる気がした。

「じゃあ、アヴィって呼び名は何なんだよ」

 ユウリは聞いた。

「呼び名だ」

「名前じゃなくて?」

「今はな」

「今は?」

「恒久的な定義を求めるな。お前はまだ、自分が何に巻き込まれたかも理解していない」

「だったら説明しろよ」

「説明している」

「してない」

「お前が理解できる形に落としてやっている。感謝しろ」

「どこを?」

「まず、神を倒していないと教えた」

 ユウリは、そこで黙った。

 言い返せなかった。

 ほんの一瞬だけ、思ってしまったからだ。

 自分が何か特別なことをしたのではないかと。

 ミオの名前を呼んだ。

 選択肢の外側を押した。

 無番線ホームから戻ってきた。

 自分には何かがあるのかもしれない。

 そんな考えが、確かに頭をよぎった。

 それを、アヴィは見逃さなかった。

「天瀬ユウリ」

 アヴィの声が、少しだけ硬くなる。

「お前がやったのは、剥がれかけた名前を、まだ剥がれきっていないうちに押さえただけだ。破れた紙の端を指で押さえた。それだけだ。紙を裂いた相手を倒したわけじゃない。紙を作り直したわけでもない。ましてや、世界の仕組みを変えたわけでもない」

 ユウリは唇を噛んだ。

「じゃあ、また起きるのか」

「起きる」

 即答だった。

 ミオの顔が青ざめる。

 レンが低く言う。

「おい、少しは言い方考えろよ」

「優しい嘘は状況を悪化させる。特に、何も知らないまま異常へ突っ込むタイプにはな」

「突っ込みたくて突っ込んだわけじゃない」

「だが突っ込んだ。結果がすべてだ、動画猿」

「だからその呼び方やめろ!」

 レンの怒鳴り声に、駅前を歩いていた女子高生が一瞬こちらを見た。

 ユウリは慌てて少し声を落とす。

「アヴィ。今の無番線ホームって、何だったんだ」

「都市伝説化した神話残滓」

「分かるように」

「神狭駅という場所に残っていた古い“名を運ぶ”構文と、現代の駅、切符、改札、乗換案内、通勤情報が混ざって、一時的に怪異の形を取ったものだ」

「つまり?」

「名前を切符にする現象だ。切符を受け取れば、対象の現在名が現実側の記録から剥がれる。改札を通れば、未記録扱いになる。電車に乗れば、おそらく戻れない」

 ミオの肩が震えた。

 ユウリは反射的に言った。

「もう受け取らせない」

「それは方針であって保証ではない」

「分かってる」

「分かっていない。だから言っている」

 アヴィの声は容赦がなかった。

 けれど、冷たいだけではない。

 突き放すようでいて、聞かせようとしている。

 少なくともユウリには、そう感じられた。

「今回の無番線ホームは、完全顕現ではない。神話構文災害としては初期段階だ。だから呼び戻せた。次も同じとは限らない」

「……神話構文災害って、何なんだ」

「今の世界に、神話が現実として接続される異常現象だ」

「神話って、本とかネットの話だろ」

「今はな」

「今は?」

「検索され、拡散され、語られ、描かれ、学習され、混ぜられ、信じられずに消費される。祈りではなく、情報として流通した神話が、構文だけを肥大化させて現実に干渉する。それが現代型の神話構文災害だ」

 ユウリは、すぐには理解できなかった。

 けれど、朝に見ていた動画のタイトルが頭をよぎる。

 ロキとルシファーは同じ存在なのか。

 似ているものを、同じだと言い切る。
 別々の神話を、ひとつの構造としてまとめる。
 検索し、比較し、考察し、拡散し、また別の誰かがそれを素材にする。

 それは遊びだった。

 創作だった。

 考察だった。

 けれど、その積み重ねがもし、本当に何かを呼んでしまうのなら。

 ユウリは、指先が冷えるのを感じた。

「俺は……これから、どうなるんだ」

 口にした瞬間、情けない声だと思った。

 けれど、もう取り繕う余裕はなかった。

 アヴィは笑わなかった。

「選ぶことになる」

「何を」

「表示されている選択肢を信じるか、表示されていない余白を探すか」

「意味が分からない」

「今はそれでいい。すぐに分かった気になる奴から順に、神話に食われる」

 神話に食われる。

 その言葉に、ミオが学生証を握る手に力を込めた。

 ユウリはそれを見た。

 自分だけが怖いわけではない。

 ミオも怖い。

 レンも怖い。

 全員が怖い。

 それでも、ここにいる。

 名前を取り返して、ここに戻ってきた。

 ユウリは深く息を吸った。

 駅前の空気は、排気ガスと雨上がりのアスファルトと、コンビニの揚げ物の匂いが混ざっていた。

 どこにでもある夕方の匂い。

 その日常が、さっきよりずっと薄く、壊れやすいものに見えた。

「ミオ」

 ユウリは言った。

 ミオが顔を上げる。

「今日は、もう帰ろう」

「……うん」

「一人で帰れる?」

 ミオは少し迷った。

 それから、正直に首を横に振った。

「駅までは大丈夫です。でも……今日は、家の近くまで来てもらえると、助かります」

「行く」

 ユウリは即答した。

 ミオは少し驚いた顔をしたあと、泣きそうな顔で笑った。

「ありがとう」

 レンが軽く手を上げる。

「俺も行く。証拠は残ってないけど、護衛と記録係ってことで」

「記録、残らないんじゃなかったのか」

 ユウリが言うと、レンはむっとした顔をした。

「次は残す。絶対残す」

「次も編集済みの日常動画が残る可能性は高い」

 アヴィが淡々と言った。

「うるさいな。じゃあ何を撮ればいいんだよ」

「自分の顔でも撮っておけ。恐怖に強張る男子高校生の貴重な記録になる」

「性格悪すぎるだろ、お前!」

「分類を急ぐな」

「性格の話だよ!」

 ミオが、今度はさっきよりはっきり笑った。

 その笑い声は、駅前のざわめきにすぐ紛れた。

 けれど、ユウリにはちゃんと聞こえた。

 名前を取り返しただけ。

 神を倒したわけではない。

 事件が終わったわけでもない。

 世界の仕組みを理解したわけでもない。

 それでも、星宮ミオはここにいる。

 学生証には名前が戻り、影は足元に落ち、彼女はくだらないやりとりで笑った。

 なら、今はそれでいい。

 ユウリはそう思おうとした。

 その時、スマホがもう一度だけ震えた。

 画面の端に、小さなログが浮かぶ。

《現在名保持:安定率 72%》
《観測者接続:継続》
《次回構文揺らぎ予測:星綴高等学園周辺》

 ユウリの足が止まった。

 ミオとレンも、同時にこちらを見る。

 アヴィは、いつものように軽い声で言った。

「ほらな」

 白い円環の中心で、小さな記号が瞬く。

「未収束って、表示されてただろ」

 夕方の駅前に、電車がまた一本、何事もなかったように滑り込んできた。

 その音は、日常そのものだった。

 だからこそユウリには、ひどく不吉に聞こえた。

終節 ― 老紳士は名前を呼ばない

 夜の旧北口商店街は、昼間よりも少しだけ古く見える。

 シャッターの下りた金物屋。
 看板の文字が半分剥げた時計店。
 店先の植木鉢だけが妙に丁寧に手入れされている薬局。
 アーケードの蛍光灯はところどころ切れかけ、白い光が雨上がりの敷石をまだらに照らしている。

 空気には、濡れた鉄と、古い油と、どこかの店から流れてくる珈琲の香りが薄く混ざっていた。

 神狭市の中心から少し外れたこの商店街は、地図の上ではまだ商業区域として登録されている。

 だが、そこを歩く者は、なんとなく知っている。

 ここは、買い物をする場所というより、閉じきれなかった記憶が並んでいる場所なのだと。

 かつて誰かが毎朝シャッターを開け、客の名を呼び、釣銭を渡し、世間話をし、夕方には店先を掃いていた。そういう無数の小さな日常が、建物の隙間にまだ薄く残っている。

 その一角に、カフェ《ノーネーム》はある。

 看板は出ていない。

 入口の木枠に、小さな真鍮の札が一枚下がっているだけだった。そこには店名も営業時間も書かれていない。ただ、黒い塗料で細い線が一本引かれている。

 まるで、名前を書くはずだった場所を、あえて塗りつぶしたように。

 扉には、古い鈴がついている。

 鳴ると、不思議に遠くまで響く鈴だった。

 店内は静かだった。

 客はいない。

 古い木のカウンターと、少し暗い色のテーブル席。壁には煤けた額縁がいくつか掛けられているが、中に入っている絵はどれも輪郭が曖昧で、何を描いたものなのか分からない。棚には珈琲豆の瓶と、酒瓶と、誰かが置いていったまま忘れたような古い文庫本が並んでいた。

 カウンターの奥で、老紳士がグラスを磨いている。

 白髪はきれいに撫でつけられ、背筋は年齢を感じさせないほどまっすぐだった。黒いベストに白いシャツ。襟元には細いタイ。左手には薄い手袋をしている。

 磨かれるグラスは、店の灯りを受けて、月の欠片のように淡く光っていた。

 カウンターの端には、黒いシルクハットが置かれている。

 その隣には、銀の握りを持つ杖。

 どちらも、この古びた商店街のカフェには少しだけ似合わない。似合わないのに、なぜか最初からそこにあるべきもののようにも見える。

 店内のテレビが、小さな音でニュースを流していた。

『本日午後、神狭駅構内において一時的な設備トラブルが発生しました。駅によりますと、地下通路付近の案内表示に不具合があり、一部利用客が別通路へ誘導される混乱があったということです。けが人は確認されておらず、現在は通常通り運行しています』

 画面には、神狭駅前の映像が映っている。

 ロータリー。
 改札前。
 地下通路へ続く階段。
 帰宅する人々の波。

 何も起きていなかった顔をした駅。

『なお、SNS上では「存在しないホームを見た」「駅名表示が一瞬消えた」などの投稿も見られますが、駅側は設備トラブルに伴う誤認の可能性が高いとしています』

 老紳士は、薄く笑った。

 グラスを磨く手は止まらない。

「設備トラブル」

 声は低く、柔らかかった。

 独り言のようでいて、誰かに聞かせているようでもある。

「便利な言葉だ。人はいつでも、理解できないものに仮の札を貼る。異変を故障と呼び、裂け目を不具合と呼び、祈りの残響をノイズと呼ぶ」

 テレビの画面が切り替わる。

 次のニュースでは、週末の地域イベント情報が流れ始めた。

 神狭駅前広場で行われる学生向けの進路相談会。
 旧北口商店街の夜市。
 星綴高等学園の文化研究部が参加する地域展示。

 老紳士は、その学校名が出た瞬間だけ、ほんのわずかに目を細めた。

「星を綴る学園、か」

 磨き終えたグラスを、静かに棚へ戻す。

 グラスが棚板に触れる音は、ほとんどしなかった。まるで店の空気そのものが、音を受け止めて飲み込んだようだった。

「無番線。未記録。現在名」

 老紳士は、ゆっくりと呟いた。

 その三つの言葉は、ニュースには出ていない。

 警察にも、駅員にも、通行人にも、動画にも、どの記録にも残っていないはずの言葉だった。

「ふふ……よい始まりだ」

 店内の灯りが、一瞬だけ揺れた。

 風はない。

 窓も閉まっている。

 それでも、カウンターの端に置かれた黒いシルクハットの縁が、ほんのわずかに影を伸ばしたように見えた。

 老紳士は気にする様子もなく、新しいグラスを手に取った。

 そのグラスには、何も注がれていない。

 ただ、底の部分に、光の輪がひとつできていた。

 それは水面の反射にも、月の影にも、誰かの瞳にも見えた。

「まだ倒してはいない。まだ選んでもいない。まだ名乗ってすらいない」

 老紳士は微笑んだ。

「だが、呼んだ」

 その声には、楽しげな響きがあった。

 優しさにも似ている。

 けれど、それだけではない。

 猫が糸玉を見つけた時のような、少年が禁じられた箱を開ける時のような、老いた神父が懺悔室の向こうに罪ではなく物語を見つけた時のような、そんな危うい愉悦が混ざっていた。

 店の扉についた鈴が鳴った。

 ちりん、と。

 細く、澄んだ音だった。

 老紳士は顔を上げる。

 扉は閉まっている。

 誰も入ってこない。

 ガラス越しに見える商店街にも、人影はない。シャッター街の奥で、街灯が白く滲んでいるだけだった。

 それでも、鈴だけがもう一度、小さく震えた。

 老紳士は、少しだけ首を傾ける。

「おや」

 驚いたふうではなかった。

 むしろ、待っていた訪問者が、約束の時間より少し早く合図だけ寄越したような口ぶりだった。

「もう匂いを嗅ぎつけたか。せっかちなことだ」

 誰も答えない。

 だが、カウンターの向かいの椅子が、かすかに軋んだ。

 誰も座っていないのに。

 老紳士は、その空席へグラスをひとつ置いた。

 水も、酒も、珈琲も入っていない空のグラス。

 けれど、その透明な内側には、店の灯りとは別の薄い光が、一瞬だけ差した。

「名を呼ぶには、まだ早い」

 老紳士は静かに言った。

「この店ではね、来た者の名を尋ねない。迷った者は、名乗れるようになってから名乗ればよい。失った者は、失ったまま座っていればよい。名乗りたくない者は、最後まで名乗らなくてよい」

 彼は微笑む。

「だから、ここは《ノーネーム》なのだよ」

 テレビの音量が、勝手にひとつ下がった。

 店内に流れていた古いジャズのレコードが、針飛びのように短く揺れる。

 老紳士は空席を見つめたまま、言葉を続けた。

「神々は名を欲しがる。人は名を貼りたがる。記録は名を残したがる。断絶は名を裂きたがる」

 グラスの底にできた光の輪が、ゆっくりと細くなる。

「だが、名のない時間にも、意味はある」

 老紳士の瞳に、淡い金色の光が過ぎった。

「さて。ひとの子は、どの名を選ぶのかな」

 それを見た者はいない。

 店には、誰もいないのだから。

 外では、旧北口商店街の灯りが一本、また一本と落ちていった。

 アーケードの端から夜が深くなり、閉じた店のシャッターに、街灯の光が長く伸びる。

 カフェ《ノーネーム》だけが、まだ灯っている。

 その灯りは、店名のない入口からこぼれ、雨上がりの敷石に小さな四角い光を作っていた。

 けれど、誰もその光を踏まない。

 今夜、この店に入ってくるべき者は、まだ来ない。

 まだ、名前を取り返したばかりだから。

   *

 同じ頃。

 神狭駅前の大型ビジョンには、化粧品の広告が流れていた。

 白い背景。
 笑顔のモデル。
 新商品のキャッチコピー。
 季節外れの桜の花びらが、画面の端から端へ舞っている。

 駅前を歩く人々は、誰もそれを見上げていなかった。

 広告は街の景色の一部で、目には入っても記憶には残らない。

 ロータリーにはバスを待つ列ができている。

 改札からは、塾帰りの中学生たちが出てきた。スーツ姿の男が電話をしながら歩き、大学生らしい二人組がコンビニ袋を揺らして笑っている。

 駅前の夜は、何も知らないまま続いていた。

 その大型ビジョンの映像が、一瞬だけ乱れた。

 桜の花びらが、白いノイズに変わる。

 モデルの笑顔が、輪郭を失う。

 画面の中央に、黒い横線が一本走った。

 通行人のひとりが、ふと顔を上げる。

 だが、その時にはもう広告は戻っていた。

 ほんの一瞬。

 まばたきより短い時間。

 それでも、そこには確かに文字が出ていた。

《神話構文反応:神狭市全域へ拡大》
《再臨派接近》
《管理機構監視開始》
《断絶構文:微弱検出》
《構文解放派ネットワーク反応》
《警告:星宮ミオの現在名は、まだ安定していません》

 文字はすぐに消えた。

 広告のモデルが、何事もなかったように笑う。

 駅前の人々は、また歩き出す。

 誰も気づかない。

 誰も立ち止まらない。

 ただ、ビジョンの下に立っていた一羽の白い鳩だけが、首を傾げた。

 その目に、ほんの一瞬、青白い文字列が映る。

 鳩は翼を広げた。

 羽ばたきは、街の雑音に紛れてすぐに消えた。

 夜の神狭市の上には、星がほとんど見えない。

 駅前の光。
 ビルの明かり。
 道路を流れる車のヘッドライト。
 人々が手にした無数のスマホの画面。

 それらが、空を少しずつ白く曇らせている。

 それでも、どこかで何かが綴られ始めていた。

 まだ名づけられていない災害が。

 まだ選ばれていない神話が。

 まだ現在に留まりきれない少女の名前が。

 そして、未確定の名を観測してしまった少年の物語が。

 夜の向こうで、静かに頁をめくる音がした。