Episode 02

第2話 ― 星綴高等学園七不思議

本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。

序節 ― 名前を呼んだ翌朝

 翌朝、神狭駅は何事もなかったように動いていた。

 通勤客が改札を抜け、学生たちが階段を上がり、駅員がホームの端で安全確認をしている。発車メロディはいつも通り軽やかで、電光掲示板には遅延情報もなく、地下連絡通路の入口には「足元にご注意ください」と書かれた黄色い案内板が置かれているだけだった。

 昨夜、そこに無番線ホームがあったことなど、誰も知らない。

 あるいは、知っていても、もう忘れている。

 駅前の大型ビジョンでは、昨日と同じ化粧品の広告が流れていた。白い背景、笑顔のモデル、季節外れの桜の花びら。画面は一度も乱れない。青白い文字列も、黒い横線も、神話構文反応という不穏な表示も、そこにはなかった。

 天瀬ユウリは、改札から少し離れた柱のそばに立ち、そのビジョンを見上げていた。

 何も起きない。

 当たり前だ。

 朝の駅前で、突然また神話構文だの無番線だのが表示されたら困る。

 困るはずなのに、何も起きないことが、かえって不安だった。

 昨夜の出来事が、本当にあったことなのか分からなくなる。

 名前が切符に移されかけたこと。

 ミオの学生証の文字が薄くなったこと。

 顔のない車掌が、白い切符を差し出したこと。

 ホームが崩れ、見えない電車の音が迫ってきたこと。

 そして、自分が初めて、彼女を名前で呼んだこと。

 それらすべてが、寝不足の頭の中で、夢の断片のように揺れていた。

 けれど、夢ではない。

 ポケットの中のスマホが、ずっとそれを証明している。

 ユウリはスマホを取り出した。

 ホーム画面には、黒い円環のアイコンがある。

 《AVIS》。

 昨日まで神話辞典アプリだったもの。

 今は、アヴィ=シグルという正体不明の何かが宿っているらしいもの。

 アプリを開くと、黒い画面の中央に白い円環が浮かんだ。目にも、鳥にも、鍵穴にも見える小さな記号が、一度だけ瞬く。

《神話構文災害:未収束》
《観測者接続:継続》
《星綴高等学園周辺に微弱な構文揺らぎを予測》

 昨夜と同じ表示。

 夢ではない。

 そう突きつけられて、ユウリは小さく息を吐いた。

「おはよ」

 背後から声がした。

 振り返ると、久遠レンが片手を上げて近づいてきた。制服はいつも通り少し着崩れていて、鞄も肩に引っかけただけ。だが、目の下には薄く隈がある。

 ユウリはそれを見て、少しだけ安心した。

 自分だけが眠れなかったわけではない。

「寝た?」

 ユウリが聞くと、レンは笑った。

「二時間」

「それ、寝たって言うのか」

「目を閉じてたから寝た判定でいいだろ」

「よくないと思う」

 レンは答えず、スマホを取り出した。

 画面には動画の一覧が表示されている。

「昨日の映像、やっぱ全部ダメだった」

 声は軽くしようとしていた。

 けれど、失敗していた。

「地下通路で俺たちがふざけてる映像だけ。無番線も、車掌も、切符もなし。音声も、途中から変なノイズになってる。あと、俺のスマホの位置情報、なぜか駅前ロータリーで止まってた」

「地下に入ってないことになってる?」

「そう。俺たちは駅前で三分くらい突っ立って、その後ミオを送って帰ったことになってる」

「……世界が雑に編集してるな」

「ほんとそれ。編集するならもう少し上手くやれって感じ」

 レンは苛立ったように笑う。

 ユウリは、その笑い方に覚えがあった。

 怖い時のレンだ。

 面白がっているように見せて、怖さを軽口で押し返そうとしている。昨日、無番線ホームから戻った直後と同じだった。

「SNSは?」

「こっちは面白い。いや、面白いって言っていいのか分かんないけど」

 レンは画面を操作し、いくつかの投稿を見せた。

 神狭駅で存在しないホーム見たんだけど。
 昨日のAVISイベント参加した人いる?
 無番線って表示、動画撮ったのに映ってない。
 駅側、設備トラブルって言ってるけど絶対違う。
 釣り乙。
 集団幻覚?
 神狭駅、前から変な噂あるよね。
 AVISのプロモーションじゃね?

 ユウリは画面を見つめた。

 完全に消えてはいない。

 誰かが見ている。

 誰かが違和感を覚えている。

 けれど、それはもう噂になり、ネタになり、考察され、茶化され、次の話題へ流されかけていた。

 昨夜、自分たちが命を削るように感じた恐怖は、ネットの中では「AVISイベント」になっている。

「……こうやって広がるんだな」

 ユウリは呟いた。

「何が?」

「神話構文災害」

 口にしてから、自分でもその言葉に少し戸惑った。

 昨日まで知らなかった言葉が、もう自分の中で意味を持ち始めている。

 レンは少し黙ったあと、肩をすくめた。

「まあ、拡散力はすごいよな。映像が残ってないのに、噂だけ残る。証拠がないから逆に盛れる。みんな好き勝手に解釈する」

「危ないって分かってても?」

「危ないって分かってるやつほど寄ってくることもある。俺みたいに」

 レンは自嘲気味に笑った。

 ユウリは何も言えなかった。

 そこへ、駅の階段から見慣れた姿が現れた。

 星宮ミオだった。

 昨日と同じ星綴高等学園の制服。まだ少し着慣れないブレザー。長い黒髪は、朝の光を受けてわずかに青く見える。手には鞄を持ち、胸元には昨日と同じように学生証の入ったカードケースが下がっていた。

 ユウリは、無意識にその名前欄を見てしまった。

 星宮ミオ。

 文字は消えていない。

 ちゃんと読める。

 それだけで、胸の奥が少し緩む。

 ミオもこちらに気づき、少し足を速めた。

「おはようございます」

 丁寧な挨拶。

 けれど、そのあとに続く沈黙が、少しぎこちなかった。

 昨日、ユウリは彼女を「ミオ」と呼んだ。

 呼ばなければ、彼女の名前は切符に奪われていたかもしれない。

 だから必要だった。

 そう分かっている。

 分かっているのに、朝の普通の駅前で向き合うと、その距離感が急に分からなくなった。

 いまもミオと呼んでいいのか。

 それとも、星宮さんに戻すべきなのか。

 そんなことを考えてしまう。

 レンは二人の空気を見て、わざとらしく咳払いをした。

「おはよ、星宮さん。眠れた?」

「少しだけ」

「俺も。ユウリもたぶん寝てない」

「勝手に決めるな」

「寝たのか?」

「……少し」

「ほら」

 レンが得意げに言う。

 ミオが、小さく笑った。

 その笑顔を見て、ユウリはまた安堵する。

 昨日と同じだ。

 彼女はここにいる。

 笑っている。

 名前がある。

 ミオは自分の学生証に軽く触れた。

「朝、何度も確認してしまいました」

「名前?」

「はい。起きてすぐ、鏡を見る前に」

 その言葉は静かだった。

 けれど、ユウリには重かった。

 名前があるかどうかを、朝起きて最初に確認する。

 そんな日常は、きっとあってはいけない。

「ごめん」

 ユウリは思わず言った。

 ミオが目を丸くする。

「どうして天瀬くんが謝るんですか」

「いや……昨日、巻き込んだというか」

「それを言うなら、私の方です。私が行かなきゃいけない気がするって言ったから」

「でも、止められなかった」

「止めようとしてくれました」

 ミオはまっすぐ言った。

「それに、呼んでくれました」

 ユウリは言葉に詰まる。

 呼んだ。

 また、その事実が戻ってくる。

 駅前の雑踏の中で、その言葉だけが少しだけ熱を持ったように感じられた。

 レンが二人の間に割って入るように言う。

「はいはい、朝から重い空気はそこまで。遅刻するぞ。あと、俺は今日こそ昨日の現象を何かしら記録する。次は世界の編集に勝つ」

 その瞬間、ユウリのスマホが震えた。

 画面を開く前に、アヴィの声がした。

「その意気込みは評価する。成功率は低いが」

 レンの顔が引きつった。

「朝から出るな!」

「おはよう、動画猿」

「その呼び方やめろって言っただろ!」

 ミオが驚いたようにユウリのスマホを見る。

 ユウリは慌てて音量を下げた。

「駅前で喋るな。周りに聞こえる」

「聞こえる相手には聞こえる。聞こえない相手には聞こえない」

「それが怖いって言ってるんだよ」

「感想は記録しておく」

「するな」

 レンが深くため息をついた。

「ほんと、こいつ何なんだよ」

「決めるな」

「はいはい、出た」

 昨日の地下連絡通路を思えば、ひどく間の抜けた会話だった。

 けれど、その間の抜け方がありがたかった。

 恐怖だけを抱えていたら、きっと学校まで歩けなかった。

 三人は駅前を離れ、星綴高等学園へ向かった。

 坂道には、いつもの朝が流れていた。

 制服姿の生徒たちが同じ方向へ歩いている。自転車のブレーキ音。コンビニ袋を持った男子の笑い声。角の家から出てきた犬が、通り過ぎる生徒に尻尾を振っている。

 世界は普通に見える。

 それなのに、ユウリには、昨日よりもずっと多くのものが目に入った。

 古い鳥居の奥にかすかに揺れる影。
 電柱に貼られた町内掲示の「氏名欄」という文字。
 スマホを見ながら歩く生徒たちの画面に、一瞬だけ浮かぶ黒い円環。
 学校へ向かう道の上に薄く重なる、星座の線のような白い筋。

 見ようとすると消える。

 見まいとすると、視界の端に残る。

 ユウリは、自分の目が少しずつ変わっているのを感じた。

 いや、目ではないのかもしれない。

 世界を見る時の、どこか奥の方。

 物語や神話を「読む」ために使っていた感覚が、現実へ向き始めている。

「ユウリ?」

 ミオの声で、我に返る。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫」

「顔色、あまりよくないです」

「ミオもだよ」

 言ってから、ユウリは気づいた。

 また、名前で呼んだ。

 ミオも気づいたようだった。

 けれど、嫌がる様子はなかった。

 むしろ、一瞬だけ、安心したように見えた。

「はい。あまり眠れなかったので」

「だよな」

「でも、大丈夫です。学校に着いたら、普通にしていればいいと思います」

「普通に?」

「はい。昨日のことを全部、なかったことにはできません。でも、全部それだけにしてしまったら……たぶん、もっと怖くなるので」

 ユウリは少し驚いた。

 ミオは静かに前を見ている。

 朝の光の中で、その横顔は昨日より少しだけ強く見えた。

 名前を奪われかけた少女。

 けれど、それだけではない。

 星宮ミオは、怖がりながらも、ちゃんと今日の学校へ向かっている。

「そうだな」

 ユウリは言った。

「普通にしよう」

「普通にできるといいけどな」

 レンが横から口を挟む。

「なんだよ」

「いや、普通って意外と難しいだろ。特に昨日あんなの見たあとだと」

 レンはわざと軽く言った。

 だが、その目は学校の方を見ていた。

 星綴高等学園。

 白と灰色の校舎。中庭の桜。奥に見える旧校舎の屋根。

 昨日まで日常の象徴だった場所。

 そこへ近づくにつれて、ユウリのポケットの中でスマホが微かに熱を持った。

 校門をくぐる。

 その瞬間、AVISが震えた。

 ユウリは足を止めた。

 ミオとレンも同時に気づく。

 画面を開く。

 黒い背景に、白い文字が浮かんでいた。

《星綴高等学園内に構文揺らぎ》
《記録系構文の微弱変質を検出》
《出席記録に未登録名を検出》

 出席記録。

 未登録名。

 ユウリの背筋が冷たくなる。

 アヴィの声が、スマホから低く響いた。

「来たな」

「何が」

「学校怪談だ」

 レンが顔をしかめる。

「昨日の今日で?」

「神話構文災害は、こちらの登校予定に配慮しない」

「ほんとに最悪だな」

「同感だ」

 ミオが校舎を見上げた。

 彼女の視線の先には、開いた窓と、朝の教室と、何も知らない生徒たちの影がある。

「学校の中に、何かいるんですか」

 アヴィはすぐには答えなかった。

 代わりに、画面に新しい表示が浮かぶ。

《出席簿/座席表/校内放送に微弱な同期反応》
《注意:名前の読み上げに警戒してください》

 ユウリは、思わず教室棟を見た。

 朝のホームルーム。

 出席確認。

 名前を呼ばれる時間。

 昨日、名前を奪われかけた翌朝に。

 今度は、学校そのものが名前を呼ぼうとしている。

「急ごう」

 ユウリは言った。

 三人は昇降口へ向かった。

 上履きに履き替え、階段を上がり、二年三組の教室へ入る。

 教室は、いつも通りだった。

 クラスメイトたちが騒いでいる。
 倉持ハルトが自分の席でスマホを見せびらかしながら、昨日のAVIS診断の話をしている。
 佐伯たちがミオに「昨日、大丈夫だった?」と声をかけている。
 黒板には、日直が書いた日付と、提出物の一覧。

 普通の朝。

 けれど、ユウリはもう、その普通を信じきれなかった。

 席につく。

 ミオは自分の席へ向かう前に、一度だけユウリを見た。

 大丈夫です。

 そう言おうとしたのかもしれない。

 ユウリは小さく頷いた。

 チャイムが鳴る。

 教室のざわめきが、少しずつ収まっていく。

 扉が開き、小野寺先生が出席簿を片手に入ってきた。

「はい、席につけ。ホームルームを始めるぞ」

 いつもの声。

 いつもの朝。

 小野寺先生は教卓に出席簿を置き、表紙を開いた。

 その瞬間、ユウリのスマホが机の中で震えた。

《出席記録に未登録名を検出》
《現在名上書き反応:発生準備》

 ユウリは息を呑んだ。

 先生の指が、出席簿の上を滑る。

 名前が読み上げられていく。

 当たり前のように。

 安全な日常の手続きのように。

 けれど、その中に一つだけ、知らない名前が混ざろうとしていた。

第一節 ― 出席簿の空席

 小野寺先生の指が、出席簿の上を滑っていく。

 朝の教室には、いつものざわめきが残っていた。チャイムが鳴った後も、完全な静けさにはならない。椅子を引く音、筆箱を開ける音、スマホを机の中へ押し込む気配、誰かが小声で「あとでノート見せて」と頼む声。

 出席確認は、毎朝の何でもない手続きだった。

 名前を呼ばれる。
 返事をする。
 出席簿に印がつく。
 その日、自分がここにいることが、当たり前のように確認される。

 昨日までなら、ユウリもそんなふうに考えもしなかった。

 けれど今は、その何でもない手続きが、ひどく危ういものに見えていた。

「相原」

「はい」

「石動」

「はい」

「上原」

「はい」

 名前が呼ばれるたびに、生徒が返事をする。

 声の高さも、返事の早さも、態度もそれぞれ違う。眠そうに手だけ上げる者。必要以上に元気よく返事をする者。友人に肘でつつかれて慌てて顔を上げる者。

 それでも、教室の空気は穏やかだった。

 自分の名前が呼ばれる。
 自分が返事をする。
 それだけで、教室の中の席と、その席に座る人間が結びついていく。

 ユウリは、机の中で震えたスマホを押さえた。

 画面は見ない。

 見なくても、何かが起きようとしていることは分かる。

 昨日の無番線ホームとは違う。

 あれは、地下へ降りていく異界だった。駅の底に、現実から外れた場所が口を開けていた。

 今は違う。

 ここは教室だ。

 窓から朝の光が入っている。黒板には日付が書かれ、教卓には出席簿が置かれ、壁には文化祭準備のポスターが貼られている。後ろの掲示板には進路調査票の締切が赤字で書かれていた。

 どこにも逃げ場のないくらい、日常そのものの場所だった。

「久遠」

「はいはい」

「返事は一回でいい」

「はい」

 クラスの何人かが笑う。

 レンはいつもの調子で肩をすくめたが、その視線だけはユウリの方へ向いていた。

 警戒している。

 彼も気づいているのだ。

 出席簿という、何の変哲もない紙の束が、今だけは切符より怖いものに見えていることに。

 小野寺先生は、次の名前を読み上げようとして、ふと指を止めた。

 ほんの一瞬だった。

 だが、ユウリには分かった。

 先生が、何かに引っかかった。

 出席簿の上で、目が止まっている。眉がわずかに寄る。ページを一枚戻し、もう一度確認する。そんな小さな仕草。

 教室の空気が、少しだけ薄くなった。

 先生は小さく首を傾げた。

「……ん?」

 それは本当に小さな声だった。

 普段なら誰も気にしない。

 だが、ユウリは息を止めた。

 先生の指が、出席簿の一行をなぞる。

 見慣れた名簿の中に、見慣れない何かが挟まっている。

 そういう顔だった。

 ユウリの机の中で、スマホがもう一度震える。

 今度は長く、低く。

 まるで警告音のように。

 先生の違和感は、しかし長くは続かなかった。

 眉間に寄った皺がほどける。

 首を傾げていたことすら忘れたように、先生は出席簿へ視線を落とし、淡々と次の名前を読み上げた。

「綴白ナナセ」

 教室が、静かになった。

 その名前は、朝の空気にぽつりと落ちた。

 綴白ナナセ。

 誰の名前でもなかった。

 少なくとも、ユウリの記憶にはない。

 二年三組に、そんな生徒はいない。昨日も、一昨日も、入学してから今まで、一度も聞いたことがない。

 だが、先生はまるで当然のように呼んだ。

 出席簿に書かれている名前を、ただ読み上げただけの声だった。

 数秒、誰も返事をしなかった。

 教室の奥で、誰かが小さく「え?」と言った。

 佐伯が隣の女子と顔を見合わせる。
 窓際の男子が首をひねる。
 レンの表情から、いつもの軽さが消える。
 ミオは、胸元の学生証に指を添えたまま、じっと教卓を見ている。

 小野寺先生が顔を上げた。

「綴白?」

 呼び直す。

 その声には、苛立ちも疑問もない。

 ただ、返事のない生徒へ出席確認を促す、教師としての自然な声だった。

 その瞬間だった。

 倉持ハルトが、ぼんやりと手を上げた。

「……はい」

 自分で言った後、倉持自身が一番驚いた顔をした。

 教室の空気が一拍止まる。

 次の瞬間、笑いが起きた。

「何やってんだよ、倉持」

「お前、いつからナナセになったんだよ」

「女子っぽい名前で返事すんな」

「いや、綴白って誰?」

 笑い声が広がる。

 倉持は顔を赤くして、慌てて手を下ろした。

「いや、違う違う! 何か、今、勝手に……」

「寝ぼけてんのか?」

「昨日AVISやりすぎたんじゃね?」

「雷神タイプからナナセタイプに進化した?」

「うるせえよ!」

 倉持は笑って返していた。

 けれど、その笑い方には戸惑いが混ざっている。

 本人にも分かっていないのだ。

 なぜ返事をしたのか。

 どうして、自分ではない名前に反応してしまったのか。

 小野寺先生は、少しだけ困った顔をした。

「倉持、ふざけるな。出席確認中だぞ」

「いや、先生、今の名前――」

「次に行くぞ」

 先生は、倉持の言葉を最後まで聞かなかった。

 あるいは、聞く必要がないと判断したのかもしれない。

 出席簿の中で何かがずれているのに、そのずれを認識できない。

 ユウリには、そう見えた。

 先生の指は、もう次の名前へ移っている。

「佐伯」

「はい」

「篠原」

「はい」

 何事もなかったように、出席確認が続いていく。

 教室の笑いも、すぐに薄れていった。

 ただの小さな珍事。

 倉持が謎の名前に返事をした。

 あとで昼休みにいじられる程度のこと。

 クラスメイトたちは、そう受け取ったようだった。

 だが、ユウリは違った。

 机の中でスマホを開く。

 黒い画面。

 白い円環。

 そして、文字。

《星綴高等学園内に構文揺らぎ》
《出席記録に未登録名を検出》
《現在名上書き反応:発生》

 ユウリの喉が乾く。

 現在名上書き。

 昨日のミオは、名前を切符に移されかけた。

 今度は、上書き。

 別の名前を、誰かの上から被せる。

 それは、昨日とは違う怖さだった。

 ミオがこちらを見た。

 教室の離れた席から、ほんの一瞬だけ。

 彼女も気づいている。

 昨日、自分の名前が薄れていくのを見たからこそ、今の異常を感じ取っている。

 ユウリは小さく頷いた。

 大丈夫、とは言えなかった。

 まだ何も分からない。

 それでも、気づいていると伝えたかった。

 出席確認が終わり、先生は連絡事項へ移った。

「今日の六限終了後、各委員会の集まりがある。該当者は忘れないように。それと、昨日の神狭駅の件だが――」

 その一言で、教室が再びざわつく。

「昨日、駅やばかったらしいな」

「存在しないホーム見たって投稿あったよ」

「AVISのイベントじゃね?」

「釣りだろ」

 小野寺先生が咳払いをした。

「静かに。駅側からも連絡が来ているが、設備トラブルによる案内表示の不具合だそうだ。根拠のない噂や、危険な場所への立ち入りはしないように。特に、AVISというアプリについては――」

 そこで、倉持が小さく笑った。

「俺、雷神タイプだったんだけどな」

 隣の男子が言う。

「またそれかよ、倉持」

「いや、普通に当たってただろ。衝動的で仲間思いって」

「衝動的だけは当たってる」

「うるせえ」

 いつもの倉持だった。

 軽くて、調子がよくて、少しうるさい。

 そのはずなのに。

 ユウリは、彼の机に貼られた名前シールを見た。

 机の右上。

 白いテープに黒い文字で、名前が印刷されている。

 倉持ハルト。

 だが、その文字が、ほんの少し薄く見えた。

 気のせいかもしれない。

 朝の光の当たり方かもしれない。

 それでも、ユウリは目を離せなかった。

 倉持が椅子にもたれ、隣の男子とふざけて笑うたびに、その名前シールの輪郭だけが、少しずつ紙に溶けていくように見える。

 先生の連絡事項が終わる。

 ホームルームが終わる。

 チャイムが鳴り、次の授業の準備が始まった。

 クラスはまた普通の空気へ戻っていく。

 けれど、異変は静かに進んでいた。

 最初に気づいたのは、レンだった。

 一時間目と二時間目の間の休み時間。

 レンが、スマホを握ったままユウリの席まで来た。

「ユウリ」

 声が低かった。

「見ろ」

 レンが画面を見せる。

 軽音部のグループチャットだった。

 昨日までは、倉持のアイコンが並んでいたはずの画面。ライブの予定、曲の候補、誰が機材を持ってくるか、そういう雑な会話が続いている。

 その中で、いくつかの投稿のアイコンが空白になっていた。

 名前欄も、表示が崩れている。

 ――Kura……
 ――未設定ユーザー
 ――綴白ナ……

「これ、倉持の投稿だよな」

 レンが言う。

「昨日の夜、あいつが送ってたやつ。『明日の放課後ギター持ってく』って。なのに名前が変になってる」

 ユウリは画面を見つめた。

 メッセージ本文は残っている。

 だが、誰が送ったかが曖昧になっている。

 名前が、表示名から剥がれかけていた。

「本人は?」

「そこにいる」

 レンが顎で教室の後ろを示した。

 倉持は、いつも通り友人たちと話している。

 いや、いつも通りに見える。

 だが、周囲の反応が少しおかしかった。

「倉持ってさ」

 隣の男子が言った。

「下の名前、何だっけ」

「は?」

 倉持が笑う。

「ハルトだよ。何年同じクラスやってんだよ」

「ああ、そうそう。ハルト。いや、なんか一瞬出てこなかった」

「お前こそ寝ぼけてんだろ」

「かもな」

 男子は笑った。

 だが、笑いながらも、まだ少し首を傾げている。

 ほんの小さな違和感。

 その程度なら、誰も深く気にしない。

 けれど、ユウリには分かった。

 始まっている。

 クラスメイトが、倉持ハルトの名前を思い出せなくなり始めている。

 スマホが震えた。

 机の下で画面を見る。

《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:8%》
《仮登録名:綴白ナナセ》
《注意:校内記録に拡散中》

 八パーセント。

 昨日、ミオの名前が消えかけたときの数字を思い出す。

 たった数パーセントでも、確かに世界はずれていた。

 今回は、八。

 しかも、校内記録に拡散中。

 ユウリは拳を握った。

「アヴィ」

 小声で呼ぶ。

 画面の円環が一度だけ瞬いた。

「見ている」

「どうすればいい」

「まだ判断材料が足りない。切符化ではない。これは名前の移動ではなく、学校記録への仮登録による上書きだ」

「分かるように言え」

「学校が、倉持ハルトを綴白ナナセとして扱い始めている」

 ユウリは息を呑む。

「学校が?」

「出席簿、座席表、校内放送、デジタル名簿、グループチャット。学校という記録装置の中で、倉持ハルトの現在名が別名に置換されつつある」

「じゃあ、倉持を名前で呼べば――」

「昨日と同じ手は通用しない可能性が高い」

 アヴィは即座に言った。

「今回は名前が一箇所に奪われているのではない。記録全体に薄く拡散している。呼ぶだけで戻るとは限らない」

「じゃあ、どうするんだよ」

「調べろ。何に書かれ、どこで呼ばれ、誰が覚えているか。名前は本人だけのものではない」

 そこで、画面が一度暗くなった。

 ユウリは奥歯を噛んだ。

 名前は本人だけのものではない。

 昨日の終わりに、なんとなく感じたこと。

 それが今、別の形で突きつけられている。

「天瀬くん」

 静かな声がした。

 振り返ると、ミオが立っていた。

 顔色が少し悪い。片手で胸元を押さえている。

「大丈夫?」

 ユウリが聞くと、ミオは小さく頷いた。

「私は大丈夫です。でも……あの名前」

「綴白ナナセ?」

 ミオの肩が、わずかに震えた。

 その名前を口にしただけで、周囲の空気が少し冷えたように感じた。

 ミオは教卓の方を見た。

 そこにはもう出席簿はない。先生が持っていったのだろう。

 だが、ミオはまだ、そこに残る何かを見ているようだった。

「この名前……空っぽです」

 ユウリは聞き返す。

「空っぽ?」

「はい」

 ミオは、自分でも言葉を探すようにゆっくり話した。

「誰かの名前じゃない。誰かを入れるための、空白みたいな名前です」

 ユウリは、背筋が冷えるのを感じた。

 空白みたいな名前。

 それは、矛盾した言葉だった。

 名前とは、本来その人を示すためのものだ。

 誰かと誰かを区別するもの。
 その人を呼ぶもの。
 記録し、覚え、結びつけるもの。

 けれど、綴白ナナセは違う。

 誰かを示すための名前ではない。

 誰かを入れるための器。

 空の席。

 空の名札。

 空欄のまま用意された出席欄。

 そこに、今、倉持ハルトが入れられようとしている。

 レンが低く言った。

「つまり、倉持がその空欄に上書きされてるってことか」

「たぶん」

 ユウリは頷いた。

 ミオは倉持の方を見る。

 倉持は、まだ笑っていた。

 自分の名前が薄れ始めていることに、ほとんど気づいていない。

 それが、余計に怖かった。

 昨日のミオは、少なくとも自分の名前が消えかけていることに気づいていた。

 だが倉持は、気づかないまま、違う名前の中へ入っていこうとしている。

 そのとき、倉持がふとこちらを見た。

「何? 三人で俺のこと見て。もしかして、朝のナナセ事件まだ引っ張る?」

 レンは、いつものように軽口を返そうとして、少し詰まった。

 ユウリは立ち上がる。

「倉持」

「ん?」

「お前の名前、言ってみて」

 倉持はきょとんとした。

「何その質問。怖」

「いいから」

「倉持ハルト」

 すぐに返事が返ってくる。

 ユウリは少しだけ息を吐いた。

 まだ言える。

 本人は、まだ自分の名前を持っている。

 だが、倉持はその直後、少しだけ眉をひそめた。

「……あれ」

「どうした」

「いや、今、一瞬さ」

 倉持は自分の胸元を見下ろした。

 制服の名札など、星綴にはない。

 それでも、そこに何か別の名前が貼られているような感覚があったのかもしれない。

「何か、変な感じした」

「変な感じ?」

「うまく言えないけど……自分の名前、言い慣れてないみたいな」

 倉持は困ったように笑った。

「寝不足かな。昨日AVIS見すぎたかも」

 また、それで済ませようとする。

 笑って、軽くして、日常へ戻ろうとする。

 ユウリは、それを止めたかった。

 けれど、どう説明すればいいのか分からない。

 お前の名前が、学校に上書きされかけている。

 そんなことを言って、信じてもらえるのか。

 言った瞬間、何かを進行させることにならないのか。

 ミオのときもそうだった。

 認識することが、異変に触れることになる。

 名前が薄れていると知ること自体が、恐怖を通して名前を揺らすかもしれない。

 ユウリは言葉を飲み込んだ。

 代わりに、できるだけ普通の声で言う。

「今日、変なことがあったらすぐ言え」

「変なことって?」

「名前とか、出席簿とか、スマホとか」

「何それ。昨日の駅の続き?」

 倉持は笑った。

 だが、その笑いは少し硬かった。

 彼も、完全には忘れていない。

 昨日、情報処理室Bで見たプロジェクターの地図。
 AVIS一般版の妙な盛り上がり。
 そして、今朝の「綴白ナナセ」。

 それらがつながっているとまでは思っていない。

 でも、どこかで不安になり始めている。

「分かった。何かあったら言うわ」

 倉持はそう言って、無理に明るく笑った。

「でもさ、俺が綴白ナナセになったら、軽音部のボーカルいけるかな」

「やめろ、縁起でもない」

 レンが即座に言う。

 倉持は「冗談だって」と笑った。

 その笑い声の途中で、廊下から次の授業の教師が入ってきた。

 生徒たちが席に戻っていく。

 ユウリも席へ戻りながら、教室を見回した。

 倉持の机。

 名前シールは、さっきよりわずかに薄い。

 黒板の端。

 日直が書いた提出物一覧の下に、見慣れない白い粉のような跡がある。

 教卓。

 出席簿が置かれていた場所に、うっすらと四角い影が残っている。

 そして、窓際の空席。

 本来なら誰も座らないはずの、余った椅子。

 そこに、一瞬だけ、誰かが座っていたような気がした。

 白い制服の袖。
 下を向いた顔。
 机の上に置かれた、名前のないノート。

 瞬きをすると、何もなかった。

 ただの空席。

 ただの椅子。

 ただの教室。

 だが、ユウリのスマホには、新しい表示が残っていた。

《綴白ナナセ:仮席生成》
《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:11%》

 数字が上がっている。

 ユウリは、スマホを握りしめた。

 授業開始の号令がかかる。

「起立」

 クラス委員の声。

 全員が立ち上がる。

「礼」

 いつものように頭を下げる。

 日常の動作。

 何でもない習慣。

 けれど、ユウリはその瞬間、教室のどこかから、誰かが出席簿を閉じる音を聞いた気がした。

第二節 ― 第二図書準備室

 昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。

 弁当箱の蓋を開ける音。
 購買のパンの袋を破る音。
 机を寄せる音。
 誰かがスマホの動画を見て笑う声。

 その騒がしさの中で、倉持ハルトはまだ普通に見えた。

 窓際の席で、友人たちと弁当を食べながら、朝の「綴白ナナセ事件」を自分からネタにしている。

「いや、マジで意味分かんねえんだって。呼ばれた瞬間、なんか俺の番みたいな気がしてさ」

「それ完全に寝ぼけてるやつだろ」

「寝てねえよ。昨日ちょっとしか」

「それを寝不足って言うんだよ」

 笑い声。

 倉持も笑っている。

 その笑い方はいつもの彼に近かった。明るく、雑で、少し調子がいい。クラスの空気を軽くするタイプの声だ。

 けれど、ユウリはもう安心できなかった。

 倉持の机に貼られた名前シールは、朝より少しだけ薄くなっている。

 倉持ハルト。

 まだ読める。

 だが、目を離してもう一度見ると、輪郭がぶれている気がする。

 まるで、印刷された文字の下に、別の文字が沈んでいるように。

 綴白ナナセ。

 その名前が、紙の裏側から滲み出ようとしている。

 ユウリは、昼食のパンを半分以上残したまま、机の中でスマホを開いた。

 黒い画面に、白い円環。

《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:17%》
《仮登録名:綴白ナナセ》
《校内記録への浸透範囲:拡大中》

「上がってる」

 小さく呟くと、隣の席に来ていたレンが顔をしかめた。

「何パー?」

「十七」

「朝は十一だったよな」

「うん」

「昼までに六パー上昇。放課後まで放置したら、かなりまずいな」

 レンの声は低かった。

 彼も弁当にはほとんど手をつけていない。代わりにスマホを何度も確認している。軽音部のグループチャット、クラスの共有フォルダ、学校用アプリの連絡欄。倉持の名前が残っている場所を探しているらしかった。

 けれど、見つけるたびに、表情は悪くなっていく。

「軽音部のチャット、また変わってる。倉持のアイコン、半分くらい未設定ユーザーになった」

「半分?」

「同じ画面内でも、投稿によって違う。名前が残ってるやつと、消えてるやつと、綴白になりかけてるやつが混ざってる」

「記録が安定してないってことか」

「たぶん。……くそ、気持ち悪いな。昨日の映像改竄より嫌だ。知ってるやつの名前が、目の前でぐちゃぐちゃにされてる感じがする」

 レンは苛立ったようにスマホを伏せた。

 ユウリは教室の反対側を見た。

 ミオが、佐伯たちに囲まれて昼食を取っている。

 表情は穏やかに見える。けれど、時々胸元の学生証に手を添えていた。無意識なのだろう。昨日、自分の名前が薄れていくのを見た手が、今も確認せずにはいられない。

 その姿を見て、ユウリは立ち上がった。

「調べよう」

 レンが顔を上げる。

「どこで」

「第二図書準備室」

「図書室じゃなくて?」

「古い資料がある。学校新聞とか、創立記念誌とか、旧校舎の図面とか。去年、文化研究部が展示準備で使ってたのを見た」

「お前、そういうところ詳しいよな」

「たまたま」

「神話オタクの行動範囲って感じ」

「今は褒め言葉として受け取っておく」

 レンは少しだけ笑った。

 けれど、すぐに真面目な顔に戻る。

「ミオも呼ぶか」

「うん」

 ユウリは一瞬だけ迷った。

 昨日の今日で、またミオを怪異に近づけることになる。

 それが正しいのか分からない。

 けれど、ミオはすでにこの異常の内側にいる。しかも、綴白ナナセという名前を「空っぽ」と感じ取ったのは彼女だ。危険だから遠ざける、という選択は、たぶんもうできない。

 彼女自身が、自分の名前を守るためにも、知る必要がある。

 ユウリはミオの席へ近づいた。

「ミオ」

 呼ぶと、彼女はすぐに顔を上げた。

 佐伯たちもこちらを見る。

 ユウリは、ほんの少しだけ言葉に詰まった。クラスの中で自然に名前を呼んでしまったことに、今さら気づいたからだ。

 ミオは驚かなかった。

 むしろ、少し安心したように見えた。

「はい」

「少し、来られる?」

「……倉持くんのことですか」

「うん」

 佐伯が不思議そうに首を傾げた。

「倉持くん? 何かあったの?」

 ユウリは一瞬だけ言葉を探す。

 名前が上書きされかけている。

 そんなことは言えない。

「朝の出席の件、少し気になって」

「ああ、ナナセのやつ? あれ変だったよね」

 佐伯はそう言って笑った。

 笑える程度の出来事。

 まだ、その範囲に収まっている。

 ミオは箸を置き、丁寧に弁当箱を閉じた。

「行きます」

 三人は、教室を出た。

 廊下に出ると、昼休みの学校の音が押し寄せてきた。

 購買から戻る生徒。
 階段でじゃれ合う男子。
 教室移動のために楽器ケースを運ぶ吹奏楽部員。
 廊下の掲示板の前で進路資料を眺める三年生。

 そのすべてが、昨日までならただの日常だった。

 今は違う。

 誰かの名前が、その日常の中から静かに剥がれようとしている。

 それなのに、誰も気づかない。

 そのことが、ユウリにはたまらなく怖かった。

 第二図書準備室は、本校舎の北側、図書室の奥にある。

 普段、生徒が自由に出入りする場所ではない。文化研究部や図書委員が資料整理の時に使う程度で、扉には「関係者以外立入禁止」と古い紙が貼られていた。

 だが鍵はかかっていなかった。

 レンが扉を見て言う。

「いいのか、勝手に入って」

「図書委員の手伝いで入ったことはある」

「今は手伝いじゃないだろ」

「緊急調査」

「それっぽく言えば許されると思うなよ」

 言いながらも、レンは止めなかった。

 ユウリが扉を開ける。

 蝶番が、わずかに軋んだ。

 中は、少しひんやりしていた。

 窓には薄いカーテンがかかり、昼の光が白く濾されている。壁際には背の高い書架が並び、古い新聞のファイル、学校史、創立記念誌、卒業アルバムの予備、旧校舎の図面、地域史資料がぎっしり詰め込まれていた。

 紙の匂いがする。

 古いインクと、埃と、長い間開かれていなかった記録の匂い。

 教室や駅とは違う静けさだった。

 ここでは時間が少し遅い。

 そう感じた。

 ミオは入口で一度立ち止まり、部屋の中を見渡した。

「ここ……名前が多いですね」

 レンが眉を上げる。

「名前?」

「はい。背表紙、名簿、写真、新聞、卒業生の記録……声はしないけど、たくさんの名前が眠っている感じがします」

 ユウリは書架を見た。

 卒業アルバムの束。
 過去のクラス名簿。
 部活動の大会記録。
 学校新聞の縮刷版。

 確かに、ここは名前の保管庫だった。

 今はもう在校していない生徒たち。
 卒業した者。
 転校した者。
 教師だった者。
 表彰された者。
 亡くなった者も、もしかするといるのかもしれない。

 その全員の名前が、紙の中に残っている。

 ユウリは、アヴィの言葉を思い出した。

 名前は本人だけのものではない。

 呼ぶ側、記す側、覚える側にも分散している。

「ここなら、何か分かるかもしれない」

 ユウリが言うと、レンはすでに長机の上にノートPCを開いていた。

「俺は校内ネットワーク見る。学校用アプリの名簿は外からだと制限あるけど、校内Wi-Fiならキャッシュくらい拾えるかもしれない」

「違法じゃないよな」

「ギリギリ調査」

「その言い方、だいたいアウトだろ」

「今は非常時」

 レンはそう言って、キーボードを叩き始めた。

 画面には、校内ポータルのログインページが表示される。レンは自分のIDで入ると、クラス連絡、部活共有、行事予定、出席管理の閲覧可能範囲を素早く開いていく。

 ユウリは書架へ向かった。

 文化研究部が以前まとめていたスクラップの棚を探す。確か、星綴高等学園の七不思議特集があったはずだ。学校創立からの怪談、旧校舎の噂、屋上庭園の光、夜の放送室。

 指先で背表紙を追っていく。

 学校新聞。
 星綴通信。
 創立五十周年記念誌。
 旧校舎改修記録。
 文化研究部展示資料。

 その中に、古びたファイルがあった。

 背表紙には手書きで、こう書かれている。

 星綴七不思議特集。

 ユウリはそれを取り出した。

 埃が少し舞う。

 長机に広げると、黄ばんだ学校新聞の切り抜きが何枚も貼られていた。見出しは大げさで、どこか楽しげだ。文化祭の展示用に作られたものなのだろう。

 消える階段。
 屋上庭園の白い人影。
 旧校舎三階の開かない教室。
 放課後の欠席者。

 ユウリの指が止まった。

「これだ」

 ミオが近づく。

 レンも画面から一瞬顔を上げた。

「何かあった?」

「星綴七不思議特集――放課後の欠席者」

 ユウリは記事を読み上げた。

 紙面には、古い放送室の写真が載っている。今は使われていない旧校舎の放送室。埃をかぶったマイク、古いスピーカー、壁に貼られた放送当番表。

 記事本文は、軽い怪談調で書かれていた。

 ――放課後、誰もいないはずの旧校舎から、校内放送が流れることがある。

 ――そこでは、欠席者の名前が読み上げられる。

 ――呼ばれた者が返事をすると、翌日からその生徒は“欠席”になる。

 ――ただし、完全に消えるわけではない。

 ――机、持ち物、写真の跡だけが残る。

 ――誰もその生徒の名前を思い出せない。

 ユウリは、最後の一文を読んだところで喉が詰まった。

 誰もその生徒の名前を思い出せない。

 倉持の下の名前が一瞬出てこなかったクラスメイト。

 軽音部チャットから消えかけているアイコン。

 机の名前シール。

 今起きていることと、あまりにも重なっている。

 ミオは記事に載った放送室の写真をじっと見ていた。

「放課後に、出席を取られるんですね」

「欠席者なのに?」

 レンが言う。

「いや、逆か。出席を取って、欠席にされるのか」

「嫌な言い方するな」

「でも、たぶんそういうことだろ。学校にいるのに、学校の記録上は欠席になる。だから周りの記憶からもずれる」

 レンはPCへ視線を戻し、険しい顔になった。

「……やばい」

「どうした」

「倉持の出席データ、変だ」

 ユウリとミオが覗き込む。

 画面には、二年三組の今日の出席状況が表示されていた。生徒の名前が一覧になり、出席、遅刻、欠席の記号が並んでいる。

 倉持ハルトの欄は、まだある。

 だが、その下に、空白の行が一つ増えていた。

 名前欄だけが、薄く点滅している。

 綴白ナナセ。

 出席状態は、未処理。

「これ、先生の画面にも出てるのか?」

「分からない。でもサーバー側の表示キャッシュには出てる。さっきまではなかった。たぶん、朝の出席確認で仮登録された」

「仮登録……」

 ユウリはスマホを開いた。

 黒い画面がすぐに反応する。

《学校怪談と校内記録構文の混合》
《出席簿/放送室/座席表/卒業記録が連動》
《暫定名:七不思議の出席係》

 アヴィの声がする。

「見立てが固まった。これは学校怪談の皮を被った記録系構文災害だ」

「七不思議の出席係?」

「暫定名だ。正式分類はまだ不明。出席簿に未登録名を生成し、既存生徒の現在名へ重ねる。朝の出席確認で仮登録。放課後の放送で欠席確定。おそらく、その時点で対象は校内記録から隔離される」

 レンが顔をしかめる。

「校内記録から隔離って、どうなる」

「学校にいた痕跡が欠席扱いに置換される。机や持ち物は残るが、誰のものか分からなくなる。周囲の記憶もそれに合わせて曖昧になる」

「それ、ほぼ消えてるだろ」

「完全消失ではない。欠席だ」

 アヴィは淡々と言う。

「欠席者は、記録上“いたはずだが、今日はいない者”として処理される。だから完全な喪失より厄介だ。誰も異常だと思わない」

 ミオが胸元を押さえた。

「昨日の駅とは違うんですね」

「ああ。昨日の無番線ホームは、切符へ名前を移す単純な剥離だった。今回は記録の網に名前を絡め取って、少しずつ別の形に整える。単純な切符化じゃない。今回は名前が学校中の記録に薄く分散している。呼ぶだけでは足りない」

 ユウリは焦りを抑えきれなかった。

「でも、昨日は名前を呼んだら戻った。倉持も、名前を呼べば――」

「通用しない可能性が高い」

 アヴィは切り捨てる。

「本人の現在名が完全に剥がれていない今なら、一時的な補強にはなる。だが、上書きは止まらない。倉持ハルトという名が記録の中で削られ続けている限り、呼び声だけでは押し負ける」

「じゃあ、何をすればいい」

 レンが言った。

 声が鋭かった。

 昨日までなら、面白がっていたかもしれない。
 未知の現象、学校怪談、記録改竄。

 だが、今回は違う。

 倉持はレンの知り合いだ。昨日まで同じ部屋でAVISを見て騒いでいた、軽音部のクラスメイトだ。

 その名前が消えかけている。

 レンはもう、観客ではいられない。

 アヴィの白い円環が、静かに瞬いた。

「そいつが“今ここにいる”と証明する記録を集めろ」

 室内が静かになった。

 窓の外では、昼休みのグラウンドの声が遠く聞こえる。

 誰かがボールを蹴る音。
 女子たちの笑い声。
 校内放送前の短いチャイム。

 その日常の音の中で、アヴィの言葉だけが重く残った。

「今ここにいると証明する記録」

 ユウリは繰り返した。

「本人が名乗るだけじゃなくて?」

「それも必要だ。だが足りない。名前は本人だけのものではない。呼ぶ側、記す側、覚える側にも分散している」

 ミオが静かに言った。

「倉持くんを、誰かが覚えていること」

「そうだ」

 アヴィが答える。

「学校が綴白ナナセを仮登録するなら、こちらは倉持ハルトがこの学校にいる証拠を現在へ繋ぎ直す。本人の声、友人の記憶、部活の記録、今日の行動、持ち物。何でもいい。ただし、ただ集めるだけでは駄目だ。異常が確定する瞬間に、それらを現在名へ束ねる必要がある」

 レンがキーボードに手を置く。

「倉持の記録なら、軽音部にある。録音データ、ライブ動画、部室の機材表、シフト表。あと昨日のチャットも、完全に消える前にスクショ取る」

「スクショも改竄される可能性はある」

「だったら何もしないよりマシだろ」

「その判断は正しい」

「褒め方が腹立つな、お前」

 アヴィは無視した。

 ユウリは学校新聞の記事をもう一度見る。

 放課後の欠席者。

 呼ばれた者が返事をすると、翌日からその生徒は欠席になる。

「放課後に放送があるんだよな」

「可能性は高い」

「何時?」

 ユウリが記事を探す。

 黄ばんだ紙面の端に、手書きのメモがあった。

 午後五時五十七分。

 旧校舎の放送室から、欠席者の名前が呼ばれる。

 その時刻だけ、赤いペンで丸がつけられている。

「五時五十七分」

 ユウリが言うと、ミオが顔を上げた。

「下校時刻の少し前ですね」

「うん。たぶん、その時間までに倉持の記録を集める」

 レンがすぐに言った。

「俺は軽音部に行く。録音データと部室の機材表を探す。あと倉持本人にも、何か言わせて録音する」

「無理に説明するなよ」

「分かってる。『新曲用に声確認』とか適当に言う」

 ユウリは頷く。

「僕はこの資料をもう少し読む。旧校舎と放送室の場所も確認する」

「私は」

 ミオが言った。

 二人が彼女を見る。

 ミオは、書架の奥を見つめていた。

 そこには、古い出席簿が何冊も並んでいる。

 年度ごとに紐で綴じられ、背表紙には古いラベルが貼られていた。紙が黄ばみ、角が少し崩れている。長い間、誰にも開かれていない記録。

 ミオは、その中の一冊へゆっくり歩いていった。

「さっきから、これが気になります」

 彼女が手を伸ばしたのは、他より少し古い出席簿だった。

 背表紙の年号は、薄れて読みにくい。

 ミオが触れた瞬間、ユウリのスマホが微かに震えた。

《旧出席簿に残留反応》
《欠席記録の反復を検出》
《注意:閲覧時、現在名の揺らぎに警戒》

「ミオ、無理しなくていい」

 ユウリは反射的に言った。

 昨日のことが頭をよぎる。

 白い切符。
 薄くなる学生証。
 ミオの名前が紙へ移っていく光景。

 出席簿という紙の束が、同じようにミオの名前へ触れるのではないか。

 そう思った。

 ミオは振り返る。

 少し怖そうだった。

 けれど、手は引かなかった。

「怖いです」

 彼女は正直に言った。

「でも、怖いから、知りたいです。昨日、私の名前を取り返してもらったから。今度は、誰かの名前が消えかけているのに、見ないふりはしたくありません」

 ユウリは、何も言えなくなった。

 ミオは弱いわけではない。

 怖がっている。
 震えている。
 まだ自分の名前も安定していない。

 それでも、彼女はここにいる。

 レンが、小さく息を吐いた。

「じゃあ、決まりだな」

「何が」

「俺たち、もうただ巻き込まれてるだけじゃないってこと」

 レンはノートPCの画面を閉じ、代わりにスマホを握り直した。

「調べて、集めて、止める。少なくとも倉持が綴白ナナセになるのは止める」

 ユウリは、長机の上に広げられた学校新聞を見た。

 古い怪談。

 古い出席簿。

 現在の校内ネットワーク。

 消えかけているクラスメイトの名前。

 全部が、一本の線で繋がり始めている。

 昨日は、ただ目の前でミオを呼ぶことしかできなかった。

 今日は違う。

 何が起きているのかを知ろうとしている。

 どうすれば戻せるのかを考えようとしている。

 それは小さな違いだった。

 けれど、確かな違いだった。

「調査チームみたいだな」

 レンが冗談めかして言う。

「名前つけるなよ」

 ユウリは即座に言った。

「まだ何も言ってないだろ」

「言いそうだった」

「神話災害対策部とか」

「絶対に嫌だ」

 ミオが小さく笑った。

 その笑い声で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

 だが、すぐに第二図書準備室のスピーカーから、短いノイズが鳴った。

 ざ、という音。

 昼休みの予鈴にはまだ早い。

 三人は同時に顔を上げた。

 天井近くの古い校内スピーカーが、かすかに震えている。

 ノイズの奥から、ほんの一瞬だけ、声が聞こえた。

『――欠席者、確認中』

 それだけだった。

 すぐに音は消えた。

 窓の外では、昼休みの賑わいが続いている。

 何も知らない学校の声。

 だが、ユウリたちはもう聞いてしまった。

 放課後を待たずに、何かが動き始めている。

 スマホの画面に、白い文字が浮かぶ。

《七不思議の出席係:予備動作開始》
《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:24%》
《放課後五時五十七分までに、現在名保持記録を確保してください》

 数字が、また上がった。

 ユウリは学校新聞を閉じ、ミオは古い出席簿を胸に抱え、レンはスマホを握りしめた。

 もう、昼休みの終わりを待っている余裕はなかった。

第三節 ― 午後五時五十七分の放送

 午後の授業は、いつもより長く感じられた。

 黒板に書かれていく数式も、教師の声も、ページをめくる音も、全部が薄い膜の向こうから届くようだった。

 ユウリは何度も時計を見た。

 二時四十分。
 三時十五分。
 三時五十分。
 四時二十分。

 時間は進んでいる。

 けれど、放課後五時五十七分という一点だけが、教室のどこかに先回りして待っているように感じられた。

 倉持ハルトは、午後の授業中も教室にいた。

 少なくとも、ユウリにはそう見えていた。

 窓際の席で、眠そうに頬杖をつき、教師に当てられて慌てて教科書を開く。隣の男子に小声で答えを聞き、見つかって注意される。いつもの倉持だった。

 だが、授業が進むたびに、何かが少しずつずれていった。

 四時間目の終わり、教師がプリントを配った時、倉持の分だけ一枚余った。

「……あれ、余ったな」

 教師は教卓の上でプリントを揃えながら、首を傾げた。

「誰か配り忘れか?」

「先生、倉持の分じゃないですか」

 ユウリが言うと、教師は一瞬だけユウリを見た。

 その顔に、妙な空白が浮かんだ。

「倉持?」

 教室が静かになる。

 すぐに隣の男子が笑って言った。

「いや、先生。そこにいますって」

 倉持が手を上げる。

「いますよ。朝からずっと」

「ああ、そうか。悪い悪い」

 教師は笑って、プリントを倉持に渡した。

 それだけだった。

 ただのうっかり。

 そう処理できる程度の出来事。

 だが、ユウリには分かった。

 記録だけではない。

 教師の認識にも、少しずつ穴が開き始めている。

 五時間目が終わる頃には、倉持の机の名前シールはさらに薄くなっていた。

 倉持ハルト。

 まだ読める。

 けれど、黒い文字の奥に、白っぽい別の輪郭が沈んでいる。

 綴白ナナセ。

 ユウリはその名前を頭の中で読むたびに、胸の奥がざらつくのを感じた。

 誰かの名前ではない。
 誰かを入れるための、空白みたいな名前。

 ミオの言葉が、何度も戻ってくる。

 六時間目の終了チャイムが鳴った瞬間、ユウリのスマホが震えた。

《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:36%》
《仮登録名:綴白ナナセ》
《放送確定時刻まで:一時間三十七分》

 数字が、昼よりさらに上がっている。

 ユウリは席を立った。

 レンも同時に鞄を掴む。

 ミオは自分の席で、静かに学生証を握っていた。ユウリと目が合うと、小さく頷く。

 言葉は必要なかった。

 三人は、教室を出た。

 放課後の廊下は賑やかだった。

 部活へ向かう生徒、委員会の集合場所へ急ぐ生徒、友人と駅前へ行く約束をしている生徒。窓の外では、グラウンドに運動部の声が広がり始めている。

 昨日、神狭駅で世界が裂けたことなど、誰も気にしていない。

 今、倉持ハルトの名前が消えかけていることにも、誰も気づいていない。

「まず軽音部」

 レンが言った。

「部室に、倉持の録音データがある。あとギターケース。持ち物に名前が残ってるかもしれない」

「倉持本人は?」

「授業終わったら部室行くって言ってた。はず」

 レンは最後の言葉を少しだけ濁した。

 自信が揺らいでいる。

 倉持は確かにそう言ったのか。
 それとも、そう言った記憶だけが残っているのか。

 昨日までなら考えもしなかった不安が、いちいち言葉の隙間へ入り込んでくる。

 軽音部の部室は、特別棟の一階奥にあった。

 防音材の貼られた扉。古いアンプ。廊下まで漏れるギターの音。普段なら、放課後になるとすぐに誰かが音を鳴らしている場所だ。

 だが、その日は少し静かだった。

 部室の扉は開いている。

 中には、部員が三人いた。ボーカルの女子、ドラム担当の男子、ベースを肩にかけた一年生。彼らは譜面台の前で、何かを確認している。

 レンが扉を叩いた。

「倉持いる?」

 部員たちは顔を上げた。

 ボーカルの女子が首を傾げる。

「倉持?」

 レンの表情が固まった。

「おい。いるだろ。ギターの倉持」

「ギター?」

 ドラムの男子が部室の隅を見る。

 そこには、黒いギターケースが立てかけられていた。

 銀色のステッカーが貼られている。雷のマーク。音楽フェスのロゴ。雑に貼られたバンド名。間違いなく倉持のものだった。

 レンはケースを指差した。

「あれ、倉持のだろ」

「え、誰のだっけ」

 ベースの一年生が不安そうに言った。

「前からありましたよね、それ」

「いや、あるのは知ってるけど……誰が持ってきたんだっけ」

 ボーカルの女子が、スマホで部活のグループチャットを開く。

「今日、ギター来る予定だったよね? えっと……」

 指が画面を滑る。

 その動きが途中で止まった。

「……あれ。ギター、誰だっけ」

 レンの顔から血の気が引いた。

「ふざけんなよ」

 声が低くなる。

 部員たちがびくっとする。

 レンは一歩、部室の中へ踏み込んだ。

「昨日まで一緒にAVISで騒いでたやつだろ。情報処理室Bで雷神タイプだって見せびらかして、朝もナナセとか言って笑ってた。倉持ハルトだよ。忘れんなよ」

 最後の声は、怒りというより懇願に近かった。

 ボーカルの女子は困ったように眉を寄せる。

「久遠、何怒ってんの。倉持……ああ、倉持くん?」

 その名前を口にした瞬間、彼女は少しだけ目を見開いた。

「そうだ、いた。ギターの倉持くん。……え、なんで一瞬忘れてたんだろ」

 ドラムの男子も額に手を当てた。

「やば。俺も出てこなかった」

 だが、思い出せたのは一瞬だけだった。

 すぐに表情が曖昧になる。

「でも、今日来てたっけ」

「来てたよ」

 レンが即答する。

「教室にいた」

「そうだっけ」

「いた!」

 レンの声が大きくなった。

 ユウリは彼の肩に手を置く。

「レン」

「分かってる。でも――」

「分かってる」

 ユウリも、同じ怒りを感じていた。

 倉持は軽い。調子がいい。昨日だってAVISを面白がっていた。朝の異変も半分ネタにしていた。

 けれど、それは消えていい理由にはならない。

 忘れられていい理由にはならない。

 レンはギターケースへ向かった。

 ケースの持ち手には、小さなネームタグがついていた。

 だが、その名前も薄れている。

 倉持ハルト。

 文字の最後の方がかすれ、ところどころ白い空白になっていた。

 レンはタグを握りしめた。

「まだ読める」

 自分に言い聞かせるように言う。

「倉持ハルト。読める。消えてない」

 ユウリのスマホが震えた。

《現在名保持記録:物品タグ》
《劣化進行中》
《保持値:微弱》

 アヴィの声がする。

「持ち物の記録は残っているが、弱い。本人との接続が薄れ始めている」

「録音データは?」

 ユウリが聞くと、レンは部室の奥の共有PCへ向かった。

「探す」

 部員たちは戸惑ったまま、その様子を見ていた。

 事情を説明できない。
 けれど、彼らも何かがおかしいとは感じ始めている。

 レンはフォルダを開き、日付順に音声ファイルを探した。

「昨日のリハ録音……いや、一昨日か? くそ、ファイル名が変だ」

 画面には、いくつかの音声ファイルが並んでいる。

 2026_軽音部_練習。
 guitar_test。
 未設定音声。
 Nanase_take01。
 Kura……_intro。

 レンの指が止まった。

「これだ」

 彼はファイルをコピーし、自分のスマホへ転送する。

 再生ボタンを押すと、少しノイズ混じりの音声が流れた。

『えー、二年B組、倉持ハルト。ギター、入ります。ミスっても笑うなよ』

 その後に、粗いギターの音が鳴った。

 倉持の声だ。

 軽くて、少し照れくさそうで、いつものように調子に乗っている声。

 部室の空気が、一瞬変わった。

 ボーカルの女子が、はっとしたように顔を上げる。

「倉持くんの声だ」

 ドラムの男子も頷く。

「そうだよ。これ、倉持の声じゃん。何で忘れて……」

 だが、数秒後にはまた顔が曇る。

 記憶が戻りかけて、また沈んでいく。

 ユウリは拳を握った。

 音声は鍵になる。

 でも、これだけでは足りない。

 レンはファイルを複数コピーしながら、低く言った。

「絶対戻す」

 その言葉に、誰も茶化さなかった。

 ミオは部室の入口で、旧校舎の方角を見ていた。

 その横顔が、急にこわばる。

「ミオ?」

 ユウリが呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。

「声がします」

「また?」

 レンが思わず言う。

 ミオは首を横に振った。

「昨日の駅とは違います。切符の音じゃありません。これは……授業の声です」

「授業?」

「誰もいない教室で、出席を取ってる」

 部室の中が、しんと静まった。

 外では、運動部の声が聞こえている。

 だが、ミオが見ている方向――旧校舎側の廊下だけは、妙に暗かった。

 特別棟の窓から、旧校舎の上階が見える。

 普段なら古びた白い壁と、閉じられた窓が並んでいるだけの建物。

 今は、その三階の一室だけが、薄く明るいように見えた。

 まだ夕方前なのに。

 そこに、誰かがいるはずはないのに。

 レンのスマホが震えた。

 続いて、ユウリのスマホ。
 ミオのスマホ。

 ユウリは画面を見る。

《旧校舎放送系統に異常接続》
《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:41%》
《放送確定時刻まで:十三分》

「十三分」

 ユウリは呟いた。

 時計を見る。

 午後五時四十四分。

 五時五十七分まで、あと十三分。

「倉持本人はどこだ」

 レンが部員たちを見る。

「お前ら、本当に見てないのか」

 部員たちは不安そうに首を振った。

「来てないと思う」

「いや、でもギターケースはあるし……」

「もしかして保健室?」

「でも、誰が?」

 言葉が崩れていく。

 倉持を探そうとしているのに、名前が会話の中で滑り落ちる。

 誰だっけ。
 あの人。
 ギターの。
 ケースの持ち主。

 そんな言葉に置き換わっていく。

 レンは歯を食いしばった。

「ふざけんなよ」

 今度は、部員たちに向けた怒りではなかった。

 学校全体へ向けた怒りだった。

 名前を奪いながら、誰にもそれを異常だと思わせない何かへの怒り。

 ユウリはレンの腕を掴んだ。

「行こう。旧校舎へ」

「倉持探さなくていいのか」

「たぶん、そっちにいる」

 根拠はなかった。

 けれど、そう思った。

 出席簿。
 放送室。
 補講教室。
 欠席扱い。

 倉持ハルトは、今まさに学校の記録から隔離されようとしている。

 なら、その中心に近づくしかない。

 ミオが頷いた。

「声は、旧校舎の上から聞こえます」

 レンは音声ファイルを保存し、スマホを握りしめた。

「分かった」

 部室を出ようとしたその時、背後でボーカルの女子が言った。

「あの、久遠」

 レンが振り返る。

「何」

「ギターの人……倉持くん、だよね」

 彼女は不安げに、自分の記憶を確かめるように言った。

「倉持ハルトくん。昨日、ここのリハで、入りミスって笑ってた」

 レンは、一瞬だけ目を見開いた。

 それから頷く。

「そう。倉持ハルト」

「ごめん。何か、思い出せなくなってた」

「覚えてろ」

 レンの声は少しだけ震えていた。

「俺たちが戻すまで、覚えててくれ」

 彼女は真剣な顔で頷いた。

「うん。倉持ハルト」

 その名前が部室の空気に落ちた瞬間、ユウリのスマホに小さな表示が浮かんだ。

《現在名保持記録:友人記憶》
《保持値:微弱加算》

 微弱。

 それでも、確かに加算された。

 ユウリは胸の奥に、ほんの少しだけ熱が灯るのを感じた。

 名前は本人だけのものではない。

 誰かが覚えていること。

 誰かが呼ぶこと。

 それも、確かに力になる。

 三人は廊下へ出た。

 夕方の校舎は、昼間よりも冷えていた。

 部活動の声は遠くなり、特別棟の廊下には長い影が伸びている。窓の外の空は橙色から青紫へ変わり始めていた。

 旧校舎へ続く渡り廊下は、普段より暗く見えた。

 照明は点いている。

 だが、その光が途中で薄くなっている。

 まるで、廊下の先だけが別の時間に沈んでいるようだった。

 時計を見る。

 午後五時五十六分。

「あと一分」

 レンが言う。

 ユウリの手の中でスマホが熱を持つ。

 ミオは胸元の学生証に触れたまま、旧校舎の方を見つめている。

「来ます」

 その声と同時に、校内放送のチャイムが鳴った。

 いつもの下校案内の前に流れる、柔らかい電子音。

 だが、二音目から音が歪んだ。

 電子音の奥に、古いスピーカーのざらつきが混ざる。

 ざ、ざざ。

 廊下の照明が一度だけ瞬く。

 校内のざわめきが、遠ざかった。

『――二年B組』

 放送が流れた。

 ノイズ混じりの声だった。

 男とも女とも、若いとも年老いているとも言えない。教師の声にも、生徒の声にも聞こえる。校内放送用のマイクを通して、長い年月で擦り切れた声。

『綴白ナナセ』

 ユウリの背筋が凍った。

 一拍。

 その間に、学校全体が息を止めたような気がした。

 そして、声が続く。

『本日より、欠席』

 瞬間、三人のスマホが同時に震えた。

 ユウリは画面を見る。

《倉持ハルト:現在名上書き率 43%》
《警告:欠席扱いが確定すると、校内記録から隔離されます》
《旧校舎三階に補講教室を検出》
《対象を補講教室へ転送中》

「転送中……?」

 レンが顔を上げる。

「倉持、やっぱり旧校舎だ」

 ミオが一歩、渡り廊下へ踏み出した。

 その瞬間、旧校舎三階の窓に、誰かの影が見えた。

 ほんの一瞬。

 制服姿の男子。

 片手にギターケースを持っているように見えた。

 けれど、次の瞬間には影が消え、窓には暗い空だけが映った。

「倉持!」

 レンが走り出す。

 ユウリも追う。

 ミオが続く。

 渡り廊下を駆け抜けると、音が変わった。

 本校舎のざわめきが背後で遠ざかり、代わりに、チョークが黒板を擦る音が聞こえ始める。

 かつ、かつ。
 かつ、かつ。

 誰もいない旧校舎の奥で、誰かが名前を書いている。

 ユウリはスマホを握りしめた。

 画面には、白い文字が点滅している。

《補講教室:開室》
《出席確認、継続中》

 旧校舎の入口が、夕闇の中で黒く開いていた。

第四節 ― 旧校舎の補講

 旧校舎の入口をくぐった瞬間、空気が変わった。

 それは温度だけではなかった。

 匂いが違う。

 本校舎の廊下にある、ワックスと消毒液と人の気配が混ざった匂いではない。旧校舎の中には、湿った木材と、古い紙と、長く閉じられていた黒板消しの粉のような匂いが沈んでいた。

 廊下は夕方のはずなのに暗い。

 窓はある。
 外にはグラウンドが見えるはずだった。
 部活動の声が聞こえ、校庭の照明が点き始め、走る生徒の影が横切っているはずだった。

 けれど、窓の向こうに広がっていたのは、黒い空だった。

 夜ではない。

 星空のように見える。だが、そこにある星は遠すぎず、近すぎた。ガラス一枚の向こうで、白い点がじっと瞬いている。まるで黒板にチョークで打った無数の点のようだった。

 レンが息を呑む。

「外、どうなってんだよ」

 ユウリは窓へ近づきかけて、すぐに足を止めた。

 見てはいけない気がした。

 窓の外にあるものは空ではない。

 旧校舎という記録の内側に貼られた、別の背景だ。

 そう思った。

 ミオは胸元の学生証を押さえていた。

 顔色が悪い。

 けれど、前を見ていた。

「声、上です」

「三階か」

 ユウリが言うと、スマホが震えた。

《旧校舎三階:補講教室》
《出席確認、進行中》
《対象:倉持ハルト》
《現在名上書き率:49%》

 四十九。

 ユウリは奥歯を噛んだ。

 半分近い。

 倉持ハルトという名前の半分が、すでに別の何かに上書きされかけている。

 階段を上がる。

 一段ごとに、チョークの音が近づいてきた。

 かつ。
 かつ。
 かつ。

 誰かが黒板に文字を書いている。

 その音が、廊下の奥からではなく、頭の中に直接響くようだった。

 二階の踊り場を過ぎると、掲示板があった。

 そこには、古い校内新聞や委員会の連絡が貼られているはずだった。

 だが、今は違った。

 紙の一枚一枚に、欠席届が貼られている。

 氏名欄は空白。

 理由欄には、すべて同じ文字が書かれていた。

 記録都合。

「記録都合って何だよ……」

 レンが吐き捨てるように言う。

 アヴィの声がスマホから低く響いた。

「学校側の処理理由だ。対象を“いない者”ではなく、“欠席している者”として扱うための仮ラベルだな」

「ふざけるな」

「ふざけてはいない。だから悪質だ」

 アヴィの声にも、わずかに苛立ちが混じっているように聞こえた。

 三階へ上がる。

 廊下はさらに暗かった。

 非常灯だけが、床の端を緑色に照らしている。

 その光の中で、教室の札がひとつずつ変わっていく。

 三年資料室。

 旧美術室。

 旧放送準備室。

 歩くたびに、札の文字がかすれ、別の文字へ組み替わる。

 三年資料室。
 三年欠席室。

 旧美術室。
 旧未提出室。

 旧放送準備室。
 欠席者放送室。

 そして、廊下の突き当たり。

 そこにあるはずのない教室札が、ゆっくりと浮かび上がった。

 補講教室。

 黒い文字だった。

 白い札の上に、墨で書かれたように濃く、乾いた文字。

 扉は閉まっている。

 だが、中から声が聞こえた。

 ざらついた校内放送のような声。

『次の者』

 その後に、チョークの音。

 かつ。

『欠席』

 ユウリは喉を鳴らした。

「倉持は中か」

「いる」

 ミオが言った。

 その声は小さいが、確信があった。

「でも……ひとりじゃありません」

 レンがスマホを握り直す。

 彼の画面には、さっき保存した倉持の音声ファイルが開かれていた。

「行くぞ」

 ユウリは扉の取っ手に手をかけた。

 冷たい。

 金属ではなく、濡れた石に触れたような冷たさだった。

 扉を開ける。

 軋む音はしなかった。

 内側から、静かに招き入れられるように開いた。

 教室の中には、生徒たちが座っていた。

 数は、二十人ほど。

 全員が机に向かっている。

 制服は星綴高等学園のものに見える。だが、どの生徒も顔が見えなかった。俯いているのではない。顔のあるべき場所が、白いチョークの粉でぼかされたように曖昧だった。

 机の上には、ノートが開かれている。

 ページには何も書かれていない。

 ただ、余白だけが並んでいる。

 教室の正面には黒板があった。

 その中央に、大きく書かれている。

 本日の欠席者

 その下に、名前が並んでいた。

 倉持ハルト。
 綴白ナナセ。

 ユウリは、そこで息を止めた。

 さらにその下へ、白いチョークが勝手に走っていく。

 かつ。

 天瀬ユウリ。

 かつ。

 久遠レン。

 かつ。

 星宮ミオ。

「おい、俺たちまでかよ」

 レンが声を荒げる。

 だが、黒板の文字は止まらない。

 特に、ミオの名前だけが異様だった。

 星宮ミオ。

 書かれた瞬間、その文字がぶれる。

 白いチョークの線が震え、別の形へずれようとする。

 星宮ミオ。
 月を抱く名。
 星宮ミオ。
 夜の女神の器。
 星宮ミオ。
 母の残響。
 境界に立つ者。
 星宮ミオ。

 いくつもの名が、重なっては剥がれ、また戻る。

 黒板の上で、彼女の現在名が別の神名に押し流されそうになっていた。

 ミオの身体が大きく揺れた。

「ミオ!」

 ユウリが支える。

 彼女の手は氷のように冷たかった。

「だめ……ここ、私の名前を別のものにしようとしてる」

 声が震えている。

 ミオは黒板から目を逸らせない。

「私じゃない名前が、たくさん……私の上に、書かれようとしてる」

 ユウリの胸の奥が熱くなる。

 怒りだった。

 昨日、名前を取り返したばかりなのに。

 ようやく、星宮ミオとして朝を迎えたのに。

 また別の何かが、彼女の名前へ手を伸ばしている。

 教卓の前に、影が立った。

 いつの間にか、そこにいた。

 顔のない教師の影。

 古いスーツを着ている。輪郭は黒板の粉のようにぼやけ、顔の位置には白く霞んだ空白がある。片手に出席簿。もう片方の手にはチョーク。

 その影が、ゆっくり出席簿を開いた。

 紙をめくる音が、やけに大きく響く。

 ぱらり。

 ぱらり。

 ぱらり。

 声は、教卓の前からではなく、教室の四隅にある古いスピーカーから流れた。

『出席を確認します』

 生徒たちが、一斉に背筋を伸ばした。

 顔のない生徒たち。

 机に向かっていた全員が、同じ角度で前を向く。

『呼ばれた者は、返事をしてください』

 ユウリはミオの前に出た。

 昨日と同じだ。

 名前を奪われるなら、呼び戻せばいい。

 自分がしたことは、それだけだった。
 けれど、それでミオは戻ってきた。

 なら、今も。

「ミオ!」

 叫ぶ。

 教室の空気が、一瞬だけ揺れた。

 黒板の上で、星宮ミオという文字が濃くなる。周囲にまとわりついていた別の名が、わずかに剥がれる。

 ミオが息を吸う。

 だが、それだけだった。

 教室は壊れない。

 補講教室の机も、顔のない生徒たちも、教師の影も消えない。

 黒板には、なおも名前が並んでいる。

 倉持ハルト。
 綴白ナナセ。
 天瀬ユウリ。
 久遠レン。
 星宮ミオ。

 アヴィの声が鋭く響いた。

「違う。今回は本人だけじゃない。記録を戻せ」

「記録って――」

「倉持ハルトが、ここにいる記録だ。今この学校にいることを、別の記録で押し返せ」

 レンがすぐに動いた。

 スマホを掲げ、音声ファイルを再生する。

 ノイズが走る。

 補講教室の空気が、一瞬だけ抵抗するように重くなった。

 それでも、音は流れた。

『えー、二年B組、倉持ハルト。ギター、入ります。ミスっても笑うなよ』

 倉持の声だった。

 軽くて、少し照れていて、それでも自分を名前で名乗っている声。

 その瞬間、黒板の「綴白ナナセ」という文字が薄れた。

 白いチョークの線が、粉になって落ちる。

 教室の隅に座っていた顔のない生徒たちが、ざわりと揺れた。

 レンが叫ぶ。

「聞こえるか! 倉持ハルトだ! 二年B組、軽音部のギター!」

 音声の中で、ギターの音が鳴る。

 荒いコード。

 少し走ったリズム。

 その音に、教室の机がかすかに震えた。

 だが、教卓の影は出席簿を閉じない。

 顔のない教師は、チョークを黒板へ向けた。

 薄れた「綴白ナナセ」の文字が、再び濃くなろうとする。

『記録不十分』

 スピーカーから声が流れる。

『本人音声。一件。保持値、微弱』

 アヴィが舌打ちしたような音を立てた。

「足りない。音声だけでは弱い。校内記録の上書きに押し負ける」

「じゃあ、どうすればいい!」

 レンの声が割れる。

 ミオが、震えながら言った。

「名前だけじゃない」

 ユウリとレンが振り返る。

 ミオはまだ苦しそうだった。

 けれど、黒板を見つめる目は逃げていなかった。

「あの人が、昨日ここにいたことを……誰かが覚えていることを。倉持ハルトという人が、ただ名前だけじゃなくて、ちゃんとここで誰かと話して、笑って、音を出していたことを」

 その言葉が、ユウリの胸に落ちた。

 記録。

 それは紙やデータだけではない。

 誰かの記憶も、きっと記録だ。

 ユウリは思い出す。

 昨日の情報処理室B。

 AVIS一般版を見せびらかしていた倉持。

 雷神タイプだったと得意げに笑っていた顔。

 「ロマンがないな、天瀬」と言った声。

 くだらないやりとり。

 あの時は、ただの騒がしいクラスメイトだった。

 だが今、そのくだらなさこそが、倉持ハルトがここにいた証拠だった。

 ユウリは黒板へ向かって叫んだ。

「倉持ハルトは、昨日、情報処理室Bにいた!」

 声が教室に響く。

 顔のない生徒たちが、わずかにユウリを見る。

「AVIS一般版を見せてきた。守護神タイプが雷神だって、自慢してた。僕に、ロマンがないって言った。倉持ハルトは、昨日、確かにここにいた!」

 黒板の文字が揺れる。

 倉持ハルトの名前が濃くなる。

 レンも続いた。

「軽音部でギター弾いてる! 入りでミスっても誤魔化すし、音でかいし、AVISで雷神タイプ引いて調子乗ってた! 朝、綴白ナナセって呼ばれて返事して、みんなに笑われてた! でもそれは、倉持ハルトがそこにいたからだ!」

 レンの声には怒りがあった。

 恐怖も、焦りもあった。

 だが、それ以上に、忘れさせられることへの抵抗があった。

 黒板の「綴白ナナセ」が、さらに薄くなる。

 チョークの粉が床へ落ちる。

 ミオが一歩前へ出た。

 ユウリは支えようとしたが、彼女は首を横に振った。

 自分の足で立つ。

 胸元の学生証を握りしめ、ミオは黒板を見た。

「私にも、話しかけてくれました」

 声は震えていた。

 けれど、届いた。

「転校初日で緊張していた私に、画面を見せて笑っていました。雷神タイプだって。私は、少し驚いたけれど……そのおかげで、教室の空気が少しだけ普通になりました」

 ミオは息を吸う。

「倉持ハルトくんは、私の転校初日に、同じ教室にいました」

 その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が大きく揺れた。

 ユウリのスマホが激しく震える。

《現在名保持記録:本人音声》
《現在名保持記録:友人記憶》
《現在名保持記録:同級生記憶》
《現在名束ね直し開始》

 黒板に亀裂が入った。

 いや、黒板そのものではない。

 そこに書かれていた「綴白ナナセ」という文字に、細い割れ目が走った。

 綴。
 白。
 ナ。
 ナ。
 セ。

 一文字ずつ、チョークの線が剥がれ、粉になって崩れていく。

 その下から、倉持ハルトの名前が濃く浮かび上がった。

 倉持ハルト。

 何度も上書きされかけた文字が、黒板の上で強く残る。

 教卓の影が、初めて動きを止めた。

 顔のない教師が、ゆっくりとこちらを見る。

 顔はない。

 表情もない。

 それでも、見られていると分かった。

 スピーカーから、低いノイズが流れる。

『記録、競合』

 出席簿のページが勝手にめくれる。

 ぱらぱらぱらぱら、と音を立てて、無数の名前が過ぎていく。

 その中には、読めない名前もあった。
 滲んだ名前。
 途中で途切れた名前。
 空欄のままの名前。
 かつてこの学校で、誰かが呼ばれ、誰かが忘れたのかもしれない名前。

 ミオが小さく息を呑む。

 ユウリも、そのページから目を離せなかった。

 これは今回だけの怪異ではない。

 星綴高等学園という場所に、ずっと残っていた何かだ。

 今日、たまたま倉持が巻き込まれただけ。

 この出席簿には、他にも空白がある。

 他にも、欠席扱いにされた誰かがいる。

 そう感じた。

 だが、今は全部を救えない。

 ユウリは黒板を見た。

 倉持ハルト。

 その名前だけは、今ここで取り返す。

「倉持ハルトは、綴白ナナセじゃない」

 ユウリは言った。

「二年B組、倉持ハルト。今日、ここにいる」

 レンが続く。

「欠席じゃない。まだ帰ってない。まだ部室にギターケース置きっぱなしだ」

 ミオも言う。

「まだ、誰かに覚えられています」

 教室の後ろで、誰かが息を吸う音がした。

 三人は振り返る。

 顔のない生徒たちの間に、倉持がいた。

 机に突っ伏していた。

 顔は見える。

 だが、ひどくぼんやりしている。

 目を開けたまま、眠っているような顔だった。

「倉持!」

 レンが駆け寄ろうとする。

 だが、机の列が急に遠ざかった。

 教室の奥行きが伸びる。

 倉持のいる席が、黒板から遠く、遠く離れていく。

 スピーカーから声が流れる。

『欠席者は、席を離れないでください』

 ユウリは叫んだ。

「倉持ハルト!」

 レンも叫ぶ。

「倉持、起きろ!」

 ミオが、最後に呼んだ。

「倉持くん!」

 倉持の瞳が揺れた。

 彼の唇が、かすかに動く。

「……俺」

 声は小さい。

 けれど、確かに聞こえた。

「倉持……ハルト」

 その瞬間、伸びていた教室が元に戻った。

 机の列が縮み、倉持の席が三人の近くへ戻る。

 黒板の「倉持ハルト」が、強く白く光った。

 同時に、「綴白ナナセ」の文字が完全に砕けた。

 チョークの粉が舞い、教室の空中に白い霧のように広がる。

 顔のない教師は、しばらく動かなかった。

 やがて、静かに出席簿を閉じた。

 ぱたん。

 その音は、妙にはっきり響いた。

『本日の補講は、終了しました』

 声が告げる。

 教師の影は消えない。

 ただ、教卓の向こうに立ったまま、こちらを見ている。

 倒したわけではない。

 退けただけ。

 今日の出席確認を、ここで終わらせただけ。

 それはユウリにも分かった。

 アヴィが低く言う。

「閉じただけだ。消滅はしていない。長居するな」

「倉持を連れて出る」

 レンが倉持の腕を取る。

 倉持の身体は重かった。

 だが、温かい。

 ちゃんと生きている。
 ちゃんとここにいる。

 ミオがふらつく。

 ユウリはすぐに彼女を支えた。

「大丈夫?」

「……はい。でも、少しだけ」

 ミオは黒板を見る。

 彼女の名前は、まだ残っていた。

 星宮ミオ。

 ただ、その周囲には、薄く消えかけた別の文字の跡がいくつも重なっている。

 ユウリはその名前を見て、静かに言った。

「ミオも、ここにいる」

 ミオは目を閉じ、小さく頷いた。

「はい」

 教室の灯りが、ひとつずつ落ちていく。

 顔のない生徒たちが、机に向かって再び俯く。

 黒板の文字が薄れ、補講教室の輪郭が暗闇に溶け始める。

 扉だけが、細く開いていた。

 逃げ道のように。

 あるいは、今日だけ許された退室口のように。

 ユウリたちは、倉持を支えながら教室を出た。

 背後で、もう一度だけ出席簿のページがめくられる音がした。

 ぱらり。

 まるで、次に呼ぶ名前を探しているように。

第五節 ― 名前は記録だけにない

 補講教室の扉を抜けた瞬間、倉持の重さが消えた。

 いや、消えたのではない。

 ほんの一瞬だけ、ユウリの腕の中にあった体温が、廊下の空気へほどけるように薄くなった。支えていたはずの肩が軽くなり、制服の布地の感触が指先から抜け落ちる。

「倉持……?」

 レンが叫ぶより早く、視界が揺れた。

 暗い廊下。
 非常灯。
 黒い窓の向こうに貼りついた星空。
 遠くでめくられる出席簿の音。

 それらが、黒板消しで拭われるようにぼやけていく。

 次に見えたのは、普通の廊下だった。

 夕方の旧校舎ではない。

 本校舎一階、保健室前の廊下。

 窓の外には、ちゃんとグラウンドがあった。陸上部がトラックを走り、サッカー部の掛け声が風に乗って届いてくる。校舎の蛍光灯は白く、非常灯の緑だけが浮いているわけでもない。

 そして、保健室の扉の前に、倉持ハルトが倒れていた。

 黒いギターケースはない。

 代わりに、彼の鞄が廊下の端に転がっている。

 倉持はうつ伏せに近い形で床に倒れ、片手だけが扉の方へ伸びていた。まるで、助けを求めて保健室まで来て、その直前で力尽きたように。

「倉持!」

 レンが駆け寄る。

 ユウリも膝をついた。

 倉持の肩に触れる。

 温かい。

 呼吸もある。

「倉持、聞こえるか」

 ユウリが呼ぶと、倉持のまぶたがわずかに動いた。

「……ん」

 声が返ってきた。

 小さい。

 けれど、確かに倉持の声だった。

 レンが大きく息を吐く。

「おい、名前言えるか」

「は……?」

「いいから言え。自分の名前」

 倉持は顔をしかめた。

「何だよ……久遠、怖……」

「名前」

 レンの声が少し震えていた。

 倉持は、ぼんやりと天井を見た。

 数秒、沈黙が落ちる。

 その数秒が、ユウリには異様に長く感じられた。

 言え。

 頼むから、言え。

 心の中で、そう祈る。

 倉持は乾いた唇を動かした。

「倉持……ハルト」

 レンの肩から、目に見えて力が抜けた。

「よし」

 それだけ言って、彼は顔を伏せた。

 笑っているようにも、泣きそうになっているようにも見えた。

 ミオは少し離れた場所に立ち、胸元の学生証を握りしめていた。

 彼女の顔色はまだ悪い。補講教室で黒板に別の名を重ねられかけた影響が残っているのだろう。けれど、その目は倉持を見ていた。

 名前が戻った人を見る目だった。

 保健室の扉が開いた。

 養護教諭の榊先生が顔を出す。

「何の騒ぎ――って、倉持くん?」

 その声には、ちゃんと名前があった。

 倉持くん。

 ユウリはその一言に、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 戻っている。

 完全ではないかもしれない。

 でも、倉持ハルトという名前は、まだ学校の中にある。

 榊先生はすぐに倉持の状態を確認し、ユウリたちに手伝わせてベッドへ運ばせた。

 保健室の白いカーテン。
 消毒液の匂い。
 壁に貼られた体温表。
 窓際の観葉植物。

 そこは、あまりにも普通の保健室だった。

 さっきまでいた補講教室の黒板も、顔のない生徒たちも、出席簿を閉じた教師の影も、何もない。

 倉持はベッドに寝かされ、額に冷却シートを貼られた。

「たぶん、寝不足と軽い貧血ね」

 榊先生は体温計を確認しながら言った。

「最近、変なアプリが流行ってるんでしょう。夜更かししてたんじゃない?」

 倉持は弱々しく笑った。

「いや、まあ……ちょっと」

「ちょっとじゃないでしょう。顔色悪いわよ。今日は部活休んで、家に連絡して迎えに来てもらいなさい」

「えー、部活……」

「駄目」

 榊先生の声は優しかったが、強かった。

 倉持は観念したように目を閉じた。

「……はい」

 その返事を聞いて、ユウリは奇妙な感覚を覚えた。

 普通だ。

 あまりにも普通のやりとりだった。

 体調不良の生徒。
 保健室。
 寝不足。
 部活禁止。
 家へ連絡。

 世界は、そういう形で今日の異常を処理しようとしている。

 倉持ハルトは名前を奪われかけたのではない。

 寝不足で倒れた。

 校内放送で欠席扱いにされかけたのではない。

 体調が悪くて保健室へ来た。

 補講教室に閉じ込められたのではない。

 たまたま廊下で倒れた。

 そういう記録に、もう置き換わり始めている。

 レンが、保健室の壁に拳を当てた。

 強くはない。

 だが、悔しさを押し殺すような仕草だった。

「……ふざけんな」

 小さな声だった。

 榊先生には聞こえていない。

 ユウリはレンを見る。

 レンは倉持を見ていた。

 ベッドで寝ている倉持を。

 彼の名前は戻った。

 だが、今日起きたことは戻らない。

 いや、戻らないどころか、誰にも正しく残らない。

 そのことが、レンには許せないのだろう。

 ユウリも同じだった。

 名前を取り返せた。

 でも、それで終わりではない。

 戻した名前のまわりにあった出来事が、世界の都合のいい形へ丸められていく。

 それは、静かな暴力のようだった。

 保健室を出ると、廊下に何人かのクラスメイトが集まっていた。

 佐伯と、倉持の隣の席の男子、軽音部のボーカルの女子もいる。

「倉持、大丈夫?」

「寝不足だって」

 レンが答える。

「そっか……よかった」

 佐伯はほっとしたように言った。

 しかし、すぐに首を傾げる。

「でも、今日、倉持くんって朝からいたよね?」

 隣の男子が言う。

「いたよ。たぶん」

「たぶんって何だよ」

「いや、いたのは覚えてるんだけど……何か、変な返事してなかった?」

「あれ、何だっけ」

「名前、違うやつで呼ばれて……」

「誰の名前だっけ?」

 会話が、途中でほどけていく。

 綴白ナナセ。

 その名前を、誰もはっきり口にしなかった。

 忘れたのか。

 忘れさせられているのか。

 それとも、口にしない方がいいと本能的に感じているのか。

 ユウリには分からなかった。

 軽音部の女子が、少しだけ強く言った。

「倉持ハルトくん」

 全員が彼女を見る。

 彼女は、確かめるようにもう一度言った。

「ギターの倉持ハルトくん。今日、部室には来てないけど、ギターケースは置いてある。昨日の録音も残ってる」

 レンが彼女を見た。

 彼女もレンを見返す。

 その目には、まだ不安があった。

 けれど、確かに覚えようとしている人の目だった。

 ユウリのスマホが、小さく震える。

《現在名保持記録:友人記憶》
《保持値:維持》
《倉持ハルト:現在名回復率 76%》

 七十六。

 完全ではない。

 だが、戻っている。

 ユウリは息を吐いた。

 その時、ミオが小さく言った。

「完全には、戻らないんですね」

 ユウリは答えられなかった。

 倉持の名前は戻った。

 けれど、今日の細部は曖昧になっている。

 誰がいつ彼を見たのか。
 朝の出席で何が起きたのか。
 放課後、彼はどこにいたのか。

 それらは、ところどころ欠けたままになっている。

 名前を取り返すことは、起きたことすべてを元通りにすることではない。

 その現実が、静かに胸へ沈んでいった。

   *

 保健室前の騒ぎが収まる頃には、外はすっかり暮れかけていた。

 部活動の声はまだ残っているが、校舎の中は少しずつ人が減っている。

 三人は、第二図書準備室へ戻った。

 さっきまで開いていた資料やノートPCは、長机の上にそのまま残っていた。星綴七不思議特集のファイル。古い出席簿。旧校舎の図面。レンがコピーした音声ファイル。どれも、今日の出来事を完全には証明できない。

 けれど、何もなかったことにもさせない。

 ユウリは椅子に座り、両手で顔を覆った。

 疲れていた。

 体力を使ったというより、名前を押さえ続けることに神経を削られたような疲れだった。

 ミオは向かいの椅子に座り、学生証を机の上に置いた。

 そこには、星宮ミオと書かれている。

 しかし、ユウリには分かった。

 彼女は安心しきっていない。

 補講教室の黒板で、星宮ミオの周囲に別の名が重なった。

 その感覚が、まだ残っているのだろう。

「名前って、本人だけのものじゃないんですね」

 ミオが静かに言った。

 ユウリは顔を上げる。

 彼女は自分の学生証を見ていた。

「私、昨日は、自分の名前を取り返してもらったと思っていました。でも今日、倉持くんを見て……名前は、自分で持っているだけじゃ駄目なんだって思いました」

「うん」

 ユウリは頷いた。

 言葉を探す。

「たぶん、呼ぶ人がいて、覚えてる人がいて、残ってる場所があって……それで、ここにあるんだと思う」

 自分で言いながら、その重さを感じた。

 名前は本人のものだ。

 それは間違いない。

 けれど、人はひとりで名前を持っているわけではない。

 誰かに呼ばれる。
 書類に書かれる。
 写真の裏に残る。
 部活の録音に声が入る。
 昨日のくだらない会話を、誰かが覚えている。

 そうやって、名前は現実の中に結び目を作っている。

 その結び目が多いほど、人はここに留まりやすい。

 逆に、その結び目を解かれていけば、どんなに本人が自分を覚えていても、世界から滑り落ちてしまうのかもしれない。

 アヴィの声が、机の上のスマホからした。

「少しは学習したな」

 ユウリは顔をしかめる。

「今、感動的な話をしてたんだけど」

「感動で現象は止まらない」

「分かってる」

「分かっているならいい」

 レンが椅子に深く座り込んだ。

 彼は疲れた顔で天井を見上げている。

「で、どうする」

 その声に、ユウリとミオが視線を向けた。

 レンはゆっくり身体を起こす。

「これ、放っておけないだろ」

 軽い言い方ではなかった。

 昨日の駅。

 今日の出席簿。

 どちらも偶然、自分たちの目の前で起きた。

 でも、きっと偶然では済まない。

 AVIS一般版は広がっている。
 神話構文災害は未収束。
 星綴高等学園の七不思議は、閉じただけで解決していない。

 ユウリは長机の上に置かれた旧校舎の図面を見た。

「第二図書準備室」

 ミオが顔を上げる。

「ここを、使うんですか」

「うん。資料がある。人もあまり来ない。旧校舎の記録も近い」

 レンがすぐに言う。

「校内ネットワークも入る。電源もある。隠れて調べるには悪くない」

「隠れてって言うな」

「じゃあ、非公式調査拠点」

「それも怪しい」

 ミオが少し笑った。

 その笑いで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。

 レンはその隙を逃さず、軽い調子を取り戻した。

「じゃあ、部活名つけるか」

「絶対に嫌だ」

 ユウリは即答した。

「まだ何も言ってないだろ」

「神話災害対策部とか言うつもりだった」

「何で分かった」

「顔に書いてある」

「悪くないだろ。略して神対部」

「最悪だ」

「じゃあ、星綴怪異研究会」

「もっと嫌だ」

「AVIS被害者の会」

「それは少し正確だけど嫌だ」

 ミオが、今度は声を出して笑った。

 ほんの短い笑いだった。

 けれど、昨日からの緊張の中で初めて、少しだけ普通の高校生らしい時間が戻った気がした。

 レンも笑い、ユウリも少しだけ肩の力を抜いた。

 だが、その穏やかさは長く続かなかった。

 机の上のスマホが震えた。

 三人分、ほぼ同時に。

 ユウリは画面を見る。

 黒い背景に、白い文字が浮かび上がる。

《星綴高等学園七不思議:未解決》
《出席簿の空席:一時閉鎖》
《旧校舎放送室:継続稼働》
《倉持ハルト:現在名保持》
《星宮ミオ:現在名安定率 68%》

 ユウリの視線が、最後の数字で止まった。

 六十八。

 第1話のあと、駅前で見た数字より低い。

 ミオは戻っている。

 星宮ミオという名前は、ここにある。

 けれど、安定していない。

 今日の補講教室で、彼女の名前はまた揺らいだ。

 別の神名、別の構文、別の何かが、彼女の上に書かれようとした。

 ミオも、その表示を見ていた。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、自分の学生証を静かに握った。

 ユウリは、その手を見つめる。

 名前を取り返すこと。

 名前を守ること。

 それは、一度叫べば終わることではない。

 何度も呼び、何度も覚え、何度も記録を繋ぎ直すことなのだ。

 アヴィが静かに言った。

「勘違いするな。今日は倉持ハルトの現在名を保持しただけだ。七不思議の出席係は残っている。放送室も止まっていない。星宮ミオの現在名も安定していない」

「分かってる」

 ユウリは言った。

 今度は、怒りではなかった。

 怖さはある。

 不安もある。

 けれど、それだけではない。

「でも、倉持の名前は戻った」

 アヴィは少し黙った。

「戻した、が正確だ」

「じゃあ、戻した」

 ユウリはミオとレンを見た。

「僕たちで」

 レンが、少し驚いた顔をした。

 ミオは静かに頷いた。

「はい」

 第二図書準備室の窓の外で、夕方の空が深い青へ変わっていく。

 校内放送は、もう流れていない。

 旧校舎も、今はただ古い建物として沈黙している。

 けれど、そのどこかで、出席簿はまだ閉じられたまま残っている。

 次に開かれる時を待つように。

 ユウリは、机の上の古い出席簿に視線を落とした。

 名前がある。

 名前が消える。

 名前が戻る。

 その仕組みを、まだ何も分かっていない。

 だから、調べるしかない。

 覚えるしかない。

 呼ぶしかない。

 そして、忘れさせられそうになった誰かの名を、ここに繋ぎ止めるしかない。

 その時、第二図書準備室の古いスピーカーが、ほんの一瞬だけノイズを立てた。

 ざ、と。

 三人は同時に顔を上げる。

 だが、声は流れなかった。

 代わりに、スマホの画面に一行だけ、小さなログが残った。

《次回出席確認:未定》

 ユウリは、息を吐いた。

 終わっていない。

 それでも、今日は終わらせた。

 それだけは、確かだった。

終節 ― 白い相談員

 翌朝、星綴高等学園の空気は、昨日より少しだけ白かった。

 雨が降ったわけではない。

 霧が出ているわけでもない。

 それでも、校舎の廊下も、窓から差し込む朝の光も、黒板に残ったチョークの粉も、どこか薄く、漂白されたように見えた。

 ユウリは教室に入る前に、廊下の窓から旧校舎を見た。

 昨日の夕方、あの建物の三階には、存在しない補講教室が開いていた。

 黒板には、倉持ハルトの名前と、綴白ナナセという空っぽの名前が並んでいた。顔のない生徒たちが机に座り、顔のない教師が出席簿を開き、校内放送のような声で「欠席」を告げていた。

 だが、今朝の旧校舎はただ古いだけだった。

 窓は閉まり、壁は少しくすみ、屋根の端には昨日の雨の名残のような水滴が光っている。

 どこにも星空は映っていない。

 非常灯の緑も見えない。

 補講教室という札もない。

 何も知らない建物の顔をしている。

「おはよ」

 背後から声がした。

 振り返ると、レンが立っていた。

 いつもより少し遅い登校だった。髪は少し跳ねていて、目の下にはまだ薄い隈が残っている。だが、昨日の放課後に比べれば、表情はだいぶ戻っていた。

「倉持は?」

 ユウリが聞くと、レンは顎で教室の中を示した。

「来てる。保健室で寝たおかげで元気、と本人は言ってる」

「本人は?」

「本人は」

 レンはそこで少し苦い顔をした。

「でも、昨日のことはほとんど覚えてない。部室に行こうとして、気分悪くなって、保健室前で倒れた。本人の記憶はそうなってる」

「そっか」

「一応、自分の名前は言える。軽音部のやつらも覚えてる。そこは大丈夫」

 レンはそう言ったあと、声を少し落とした。

「ただ、昨日の録音データ、ノイズ増えてた。倉持が名前を名乗ってるところは残ってる。でも、その前後が少し削れてる」

「世界の編集?」

「たぶん。ムカつくけど」

 レンは唇を噛んだ。

 ユウリも、旧校舎から目を離せなかった。

 名前は戻った。

 倉持ハルトという名前は、まだ学校の中にある。

 けれど、昨日の出来事は、もうところどころ削られ始めている。

 全部を守れたわけではない。

 それでも、守れたものはある。

 そう思わなければ、前へ進めなかった。

 教室に入ると、倉持は本当にいた。

 窓際の席で、友人たちに囲まれている。顔色は少し悪いが、口はいつも通り動いていた。

「だから寝不足だって。昨日、動画見ながら寝落ちしてさ」

「お前、保健室前で倒れるとか大げさすぎ」

「いや、俺もそう思う。人生初だわ」

 倉持は笑っていた。

 その笑い方は、昨日より少しだけ弱い。

 けれど、倉持ハルトの笑い方だった。

 机の名前シールも、今朝は読める。

 倉持ハルト。

 文字は少し薄い気がする。

 それでも、そこにある。

 ユウリは胸の奥で小さく息を吐いた。

 その時、倉持がこちらに気づいた。

「天瀬」

「何?」

「昨日、俺、何か変なこと言ってた?」

 ユウリの足が止まる。

 倉持は笑っている。

 だが、その目の奥には、自分でも説明できない不安が少しだけ残っていた。

「変なこと?」

「いや、何かさ。名前がどうとか、誰かに呼ばれたとか、そういう夢見た気がするんだよ。あと、久遠がめちゃくちゃ怒ってた気がする」

 レンが横から言った。

「それは現実」

「マジかよ。俺、何した?」

「寝不足で倒れた」

「それだけでそんな怒る?」

「怒る」

「理不尽」

 倉持が笑う。

 レンも、一瞬だけ笑った。

 そのやりとりを見て、ユウリは思った。

 完全には戻らない。

 でも、何も残らなかったわけではない。

 昨日、三人で呼び戻したものは、ちゃんとここにある。

 チャイムが鳴った。

 担任の小野寺先生が教室に入ってくる。

 手には出席簿があった。

 ユウリの身体が、反射的に強張る。

 ミオも同じだった。

 彼女は自分の席で、胸元の学生証にそっと触れている。

 小野寺先生は教卓に立ち、出席簿を開いた。

 ページをめくる音。

 昨日までは何でもなかった音が、今は喉の奥を締めつける。

「出席を取るぞ」

 いつもの声。

 いつもの朝。

 名前が順番に呼ばれていく。

「相原」

「はい」

「石動」

「はい」

「上原」

「はい」

 ユウリは、呼吸を浅くしたまま待った。

 小野寺先生の指が名簿の上を進む。

「倉持」

「はい」

 倉持が、少し大きめに返事をした。

 教室の空気は変わらない。

 誰も笑わない。

 誰も首を傾げない。

 小野寺先生も、違和感なく次の名前へ移った。

「久遠」

「はい」

 レンが返事をする。

 ユウリは、そこでようやく息を吐いた。

 綴白ナナセという名前は、呼ばれなかった。

 出席簿には、少なくとも今朝は混ざっていない。

 ミオと目が合う。

 彼女も、小さく頷いた。

 だが、安心しきるには早かった。

 ホームルームの終わりに、小野寺先生が出席簿を閉じ、少し表情を改めた。

「それから、今日は一時間目の前に臨時朝礼がある。昨日の駅の件や、校内での体調不良者が出ている件について、学校から話があるそうだ。体育館へ移動するように」

 教室がざわつく。

「また駅の話?」

「昨日の倉持のやつも?」

「AVIS禁止とかになる?」

「やば、入れてるんだけど」

 ユウリはレンを見た。

 レンも眉をひそめている。

 ミオは何も言わなかった。

 ただ、体育館という言葉を聞いた瞬間、少しだけ身を硬くした。

   *

 体育館には、全校生徒が集められていた。

 朝の光が高い窓から入り、床に細長い白い線を落としている。バスケットゴールは壁際に畳まれ、ステージの上には校章の入った演台が置かれていた。

 生徒たちは学年ごとに並び、教師たちが列を整えている。

 いつもの朝礼と同じ光景。

 だが、空気は少し違った。

 神狭駅の設備トラブル。

 AVIS一般版の噂。

 昨日の倉持の体調不良。

 それらが、生徒たちの間で小さく囁かれていた。

「神狭駅、ほんとに無番線出たらしいよ」

「うちの学校でも七不思議の放送あったって聞いた」

「AVIS入れてから変な夢見るんだけど」

「それただの寝不足じゃね?」

 噂は形を変えながら広がっていく。

 ユウリはその声を聞きながら、アヴィの言葉を思い出していた。

 検索され、拡散され、語られ、混ぜられる。

 祈りではなく、情報として流通した神話が、構文だけを肥大化させて現実に干渉する。

 体育館の中にあるのは、ただの生徒たちの雑談だ。

 けれど、その雑談さえ、何かの燃料になっているのかもしれない。

 そう思うと、ざわめきがただの音には聞こえなかった。

 校長の話は短かった。

 神狭駅の設備トラブルについて、学校としても状況を確認していること。

 根拠のない噂を広げないこと。

 不審なアプリやサイトに個人情報を入力しないこと。

 体調不良や不安があれば、担任や養護教諭に相談すること。

 どれも、正しい話だった。

 正しいからこそ、ユウリには少し怖かった。

 正しい言葉は、異常を日常の枠へ押し戻す。

 設備トラブル。
 根拠のない噂。
 不審なアプリ。
 体調不良。

 昨日の無番線ホームも、補講教室も、その言葉の中へ片づけられていく。

 そして校長は、最後に言った。

「本日より、生徒相談体制を強化するため、臨時のスクールカウンセラーの先生に来ていただくことになりました」

 体育館のざわめきが、少し変わった。

 ステージ袖から、一人の女性が出てくる。

 その瞬間、ユウリはなぜか姿勢を正した。

 白いブラウス。

 黒いジャケット。

 膝下までの落ち着いたスカート。

 髪はきれいにまとめられ、歩き方は静かで無駄がない。派手な印象はない。むしろ、どこまでも清潔で、控えめで、学校という場所に自然に溶け込む大人に見えた。

 けれど、白かった。

 ブラウスの白だけではない。

 肌の色でも、雰囲気でもない。

 彼女の周囲だけ、ノイズが少ない。

 余分なものが削ぎ落とされ、輪郭だけが正確に整えられているように見えた。

 名前を、過不足なく記録するための白。

 そんな印象が、ユウリの中に浮かんだ。

 女性は演台の前に立ち、軽く頭を下げた。

「本日より、しばらく星綴高等学園で相談員を務めます。烏丸マシロです」

 声は落ち着いていた。

 よく通るが、強すぎない。

 柔らかいが、曖昧ではない。

 一語一語が、きちんと紙に記録されるために発音されているような声だった。

「最近、根拠のない噂や、不安を煽るアプリが広がっているようです。困ったことがあれば、いつでも相談に来てください。眠れない、誰かに話したい、何が不安なのか分からない。そういう場合でも構いません」

 生徒たちは、静かに聞いていた。

 マシロは微笑んでいる。

 優しそうだった。

 少なくとも、見た目は。

 だが、ユウリはその目が気になった。

 笑っているのに、目だけがひどく静かだった。

 人を安心させる目ではない。

 人を責める目でもない。

 分類する目だった。

 この生徒は不安定。
 この生徒は影響下。
 この生徒は要観察。
 この生徒は保護対象。
 この生徒は危険。

 そんなふうに、目の前の全員を静かに仕分けているような目。

 ユウリは、自分の思考を振り払った。

 考えすぎだ。

 ただのスクールカウンセラーだ。

 昨日から変なものを見すぎて、普通の大人まで怪しく見えているだけだ。

 そう思おうとした。

 ポケットの中で、スマホが一度だけ小さく震えた。

 ユウリは反射的に押さえた。

 体育館の中で開くわけにはいかない。

 だが、アヴィが警戒している。

 それだけは分かった。

 マシロの挨拶は短かった。

「相談室は本校舎二階の第二応接室をお借りしています。予約がなくても構いません。先生方を通しても、直接来ていただいても大丈夫です」

 そこで彼女は、少しだけ間を置いた。

「不安は、放っておくと形を変えます。名前をつけられない怖さほど、大きくなりやすいものです」

 ユウリの胸が、かすかに跳ねた。

 名前をつけられない怖さ。

 その言葉だけが、体育館の空気の中で妙に重く響いた。

 マシロは穏やかに続ける。

「ですから、ひとりで抱え込まないでください。あなたの不安を、正しい場所へ整理するお手伝いをします」

 正しい場所。

 整理。

 その言葉に、ミオがわずかに身じろぎした。

 レンも気づいたらしく、横目でユウリを見る。

 ユウリは小さく首を振った。

 まだ、何も分からない。

 ただの言葉かもしれない。

 けれど、言葉の選び方が、どこか普通ではなかった。

 朝礼が終わる。

 生徒たちは学年ごとに体育館を出始めた。

 床を擦る上履きの音。教師の誘導。友人同士の小声。

 マシロはステージ脇で、校長や学年主任と短く話している。

 その姿は、どこから見ても普通の大人だった。

 ユウリはそう思おうとした。

 普通の相談員。

 学校が呼んだ人。

 生徒の不安を聞くために来た人。

 そうであってほしいと思った。

   *

 一時間目が始まる前の廊下は、少し混雑していた。

 体育館から戻った生徒たちが各教室へ散っていく。誰かが「相談室行ってみようかな」と冗談で言い、別の誰かが「お前はまず課題相談しろ」と返して笑っている。

 ユウリ、ミオ、レンの三人も、二年三組へ向かっていた。

「どう思う」

 レンが小声で聞く。

「何が」

「あの相談員」

「普通に見えた」

 ユウリは言った。

 自分に言い聞かせるように。

 レンは片眉を上げる。

「普通の人間見て、そんな顔するか?」

「どんな顔」

「旧校舎の扉開ける前みたいな顔」

「してない」

「してた」

 ミオが静かに言った。

「私も、少し怖かったです」

 ユウリは彼女を見る。

「ミオも?」

「はい。悪い人、という感じではありません。でも……私を見ていないのに、どこかを測られている感じがしました」

「測られている?」

「名前ではなく、枠を」

 ミオはそう言ったあと、自分でもうまく説明できないというように、視線を落とした。

 ユウリのポケットで、またスマホが震える。

 今度は少し強かった。

「後で見る」

 ユウリは小声で言う。

 だが、その瞬間だった。

 廊下の角を曲がったところで、烏丸マシロとすれ違った。

 彼女は数冊のファイルを抱えていた。

 白いファイル。

 透明なラベルポケットには、まだ何も書かれていない。

 マシロは教師と話していたが、ユウリたちが近づいた瞬間、視線だけをこちらへ向けた。

 その目が、まっすぐユウリを捉える。

 ユウリの足が止まった。

 止めようと思ったわけではない。

 名前を呼ばれる前に、もう呼ばれたような感覚があった。

 マシロは教師との会話を自然に切り上げ、穏やかに微笑んだ。

「天瀬ユウリさん」

 廊下の音が、遠のいた。

 天瀬ユウリ。

 自分の名前。

 教師なら知っていてもおかしくない。名簿を見たのかもしれない。スクールカウンセラーなら、全校生徒の情報を確認している可能性もある。

 おかしくはない。

 何もおかしくない。

 それなのに、ユウリは背筋が冷たくなった。

 マシロの呼び方は、出席簿の声に似ていなかった。

 無番線の車掌とも違った。

 だが、その名前は、あまりにも正確だった。

 間違いなく自分を指している。

 逃げ道のない呼び方だった。

「……はい」

 返事をしてしまってから、ユウリは少し後悔した。

 名前を呼ばれて返事をする。

 昨日の倉持がそうだった。

 だが、もう遅い。

 マシロは柔らかく微笑んでいる。

「少し、お話を聞かせていただけますか」

 レンが一歩前に出ようとした。

 ユウリは手で制する。

 マシロの視線が、ほんのわずかにレンへ向く。

「久遠レンさんも、後ほど必要であれば」

 レンの表情が険しくなる。

「俺の名前も知ってるんですね」

「相談員ですから」

 マシロは穏やかに答えた。

 それは正しい答えだった。

 正しすぎる答えだった。

 ミオは黙っていた。

 マシロは最後に、ミオを見た。

 その視線は一瞬だけだった。

 だが、ミオの指が学生証を強く握る。

 マシロは、彼女の名前を呼ばなかった。

 呼べなかったのか。

 あえて呼ばなかったのか。

 ユウリには分からない。

 マシロは再びユウリへ視線を戻す。

「神狭駅での件、それから昨日の校内での体調不良について、いくつか確認したいことがあります」

「僕は、別に」

「責めているわけではありません」

 声は優しい。

 けれど、逃がさない。

「不安定な情報に触れた生徒を、適切に保護するためです」

 保護。

 その言葉に、ユウリは小さく眉を動かした。

 守るという意味のはずなのに、なぜか閉じ込める音に聞こえた。

 マシロは、一拍置いた。

 そして、さらに穏やかな声で言った。

「それと――あなたのスマホを、見せてもらえますか」

 ユウリのポケットの中で、AVISが強く震えた。

 今度は隠しようがないほどだった。

 レンがすぐに気づく。

 ミオも顔を上げる。

 ユウリはゆっくりとスマホを取り出した。

 画面は勝手に点灯していた。

 黒い背景。

 白い円環。

 そして、警告。

《注意》
《人類管理機構照応》
《接触対象:烏丸マシロ》
《警戒してください》

 ユウリは息を止めた。

 人類管理機構。

 昨日まで知らなかった言葉。

 けれど、その並びだけで、マシロがただの相談員ではないことは分かった。

 マシロは、画面を見ていた。

 驚いていない。

 怖がってもいない。

 ただ、そこに表示された警告を、すでに知っていた情報と照合するように静かに眺めている。

「やはり」

 彼女は小さく言った。

 そして、ユウリへ向けて微笑んだ。

「あなたが、未確定名の観測者ですね」

 その瞬間、アヴィの声が、ユウリだけに聞こえるほど低く響いた。

「ユウリ。今すぐ渡すな」

 廊下の喧騒は戻ってこない。

 生徒たちはすぐそばを通っているはずなのに、音だけが遠い。

 ユウリはスマホを握りしめた。

 目の前には、白い相談員。

 優しい笑顔。

 静かな瞳。

 そして、管理という言葉の気配。

 マシロは手を差し出していた。

 白い指先。

 何かを奪うためではなく、正しく保管するために伸ばされた手。

 それが、なぜか無番線の白い切符よりも怖かった。

 ユウリは、まだ答えられなかった。

 白い廊下の光の中で、彼の手の中のAVISだけが、黒い円環を静かに回し続けていた。