Episode 03

第3話 ― 神なき空に、日は昇る

本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。

序節 ― 相談室の白い声

 白い廊下の光の中で、烏丸マシロは手を差し出していた。

 その手は、乱暴ではなかった。

 奪おうとしている手ではない。

 強制しようとしている手でもない。

 丁寧に差し出され、相手が自分から置くのを待っている手だった。

 だからこそ、ユウリは動けなかった。

 無番線の車掌が差し出した白い切符は、明らかに異常だった。受け取ってはいけないと本能で分かった。

 旧校舎の出席簿もそうだ。あれは名前を閉じ込めるものだった。黒板に書かれた文字も、顔のない教師の影も、誰の目にも間違っていると分かる姿をしていた。

 けれど、目の前の烏丸マシロは違う。

 白いブラウス。
 黒いジャケット。
 落ち着いた声。
 静かな微笑み。

 どこから見ても、学校に派遣された臨時スクールカウンセラーだった。

 生徒の不安を聞くために来た大人。
 危険なアプリの影響を確認しようとしている大人。
 体調不良や噂の広がりを心配している大人。

 正しい。

 言っていることは、何も間違っていない。

 それなのに、ユウリの手の中でAVISは震え続けていた。

《注意》
《人類管理機構照応》
《接触対象:烏丸マシロ》
《警戒してください》

 白い文字が、黒い画面の上で冷たく光っている。

 ユウリはスマホを握りしめたまま、マシロを見た。

「……どうして、僕のことを」

 声が少し掠れた。

 マシロは微笑みを崩さない。

「相談員ですから」

 答えは穏やかだった。

「学校側から、必要な情報は共有されています。昨日、保健室前で体調不良の生徒を介抱していたこと。神狭駅での設備トラブルの際、駅周辺にいた可能性があること。そして、AVISというアプリについて、通常とは異なる反応を示していること」

 淡々としていた。

 責める言い方ではない。

 それなのに、ひとつひとつの言葉が、ユウリの周囲に白い線を引いていく。

 天瀬ユウリ。
 駅の件に関与。
 校内異常時に行動。
 特殊AVIS所持。
 要観察。

 そう分類されていくようだった。

 レンが一歩前に出た。

「先生」

 声は軽くしようとしていたが、目は笑っていない。

「それ、任意ですよね。スマホを見せるかどうか」

 マシロの視線が、ゆっくりレンへ移った。

「もちろんです。久遠レンさん」

 レンの眉が動いた。

 自分の名前を呼ばれたことに反応したのだろう。

「強制ではありません。私は警察でも、教師でもありません。あなたたちの端末を取り上げる権限はありません」

「じゃあ、見せなくてもいい」

「はい」

 マシロは静かに頷いた。

「ただし、見せないという選択も、ひとつの情報として扱われます」

 廊下の空気が、少しだけ冷えた。

 レンは口を開きかけたが、ユウリが手で制した。

 怒鳴れば負ける。

 そう思った。

 マシロは脅していない。

 ただ、正しい手続きの中で、こちらを観察している。

 何を言うか。
 何を隠すか。
 誰が割って入るか。
 誰が怯えるか。

 全部見られている。

 ユウリは、ふとミオのことが気になった。

 横を見ると、ミオは黙って立っていた。

 胸元の学生証を片手で握っている。顔色は悪くない。だが、その指先は白くなるほど強くカードケースを押さえていた。

 マシロはミオを見ていた。

 けれど、名前を呼ばなかった。

 星宮ミオ、と。

 その四文字を、彼女は口にしない。

 ユウリはそのことに、奇妙な緊張を覚えた。

 呼ばない優しさなのか。

 呼べない不自然さなのか。

 あるいは、まだ呼ぶべきではないと判断しているのか。

 分からない。

 マシロは視線をユウリへ戻した。

「天瀬さん。ここでは落ち着いて話せません。もしよければ、相談室へ来ていただけますか。久遠さんも、そちらの方も、一緒で構いません」

「そちらの方?」

 レンが鋭く言った。

「名前、知ってるんじゃないんですか」

 マシロは、ほんのわずかに目を細めた。

 笑顔は変わらない。

 けれど、その一瞬だけ、廊下の光が白く硬くなった気がした。

「現在、確認中です」

 ミオの肩が小さく震えた。

 ユウリは反射的に、彼女の前へ半歩出た。

 マシロはそれを見た。

 見て、何も言わなかった。

 ただ、記録した。

 そう感じた。

「確認って、何をですか」

 ユウリが聞く。

「安全性です」

「ミオの?」

 言ってから、ユウリは息を呑んだ。

 マシロの前で、はっきり名前を呼んだ。

 星宮ミオではなく、ミオと。

 マシロの瞳が、ほんのわずかに揺れる。

 それは驚きではなかった。

 むしろ、探していた反応を見つけた人の目だった。

「なるほど」

 マシロは小さく呟いた。

「あなたは、そう呼ぶのですね」

 ユウリの背筋が冷たくなる。

 その一言で、彼女が昨日の無番線ホームのことも、旧校舎の補講教室のことも、何かしら把握しているのではないかと思った。

 あるいは、直接知らなくても、そこに至る構文だけは読んでいる。

 名前をどう呼ぶか。

 それが、ユウリたちにとってどれほど重要なのかを。

 レンが低く言う。

「行く必要あるのか」

 アヴィの声が、ユウリの手元から聞こえた。

「推奨しない」

 画面の中の白い円環が、いつもより細く回っている。

「この相手は敵性とは断定できない。だが、端末提出、単独聴取、情報開示のいずれも危険だ」

 マシロは、アヴィの声を聞いていた。

 聞こえている。

 それを隠そうともしない。

「アヴィ=シグル」

 その名を呼ばれた瞬間、スマホが強く震えた。

 ユウリは思わず画面を胸元へ引いた。

 マシロは手を下ろし、静かに言った。

「やはり、自律応答型ですか」

「……あなた、何者なんですか」

 ユウリは聞いた。

 声に怒りが混ざっていた。

 怖いから怒っている。

 自分でも分かる。

 マシロは、少しだけ考えるように間を置いた。

「今の私は、星綴高等学園の臨時スクールカウンセラーです」

「今の私は?」

「役割は、状況によって変わります」

 また、正しいようで、何も答えていない言葉。

 ユウリは奥歯を噛んだ。

 その時、廊下の向こうから教師の声がした。

「烏丸先生、すみません。相談室の鍵ですが――」

 マシロは自然に振り向いた。

 その一瞬で、廊下の空気が戻る。

 生徒たちの足音。
 教室へ急ぐ声。
 チャイム前の慌ただしさ。

 まるで、今までの会話だけが白い薄膜に包まれていたかのようだった。

 マシロは教師に短く返事をし、再びユウリたちへ向き直った。

「では、今はここまでにしましょう」

 レンが警戒したまま言う。

「見逃してくれるんですか」

「見逃す?」

 マシロは少しだけ首を傾けた。

「私は、あなたたちを捕まえに来たわけではありません」

 その言い方には、嘘がないように聞こえた。

 けれど、ユウリは安心できなかった。

「保護するために来ました」

 マシロは穏やかに続ける。

「必要であれば」

「必要かどうかは、誰が決めるんですか」

 ユウリが言うと、マシロは静かに見返した。

「本来なら、本人です」

 その答えに、ユウリは少しだけ意表を突かれた。

 マシロは続ける。

「ただし、本人が自分の危険性を正しく認識できていない場合、周囲の大人が介入する必要があります。特に、未成年であれば」

 正しい。

 正しすぎる。

 ユウリは何も言い返せなかった。

 自分たちは未成年だ。

 昨日から、駅の異界へ入り、旧校舎の怪異へ飛び込み、名前を奪われかけた生徒を助けている。

 どう考えても危険だった。

 大人が止めるのは、正しい。

 けれど。

 大人に任せていたら、ミオの名前は戻ったのか。
 倉持ハルトは戻ったのか。
 世界は、それを「設備トラブル」と「寝不足」にして終わらせなかったのか。

 ユウリは、スマホを握る手に力を込めた。

「今は、見せません」

 はっきりと言った。

 廊下の空気が、また少し静かになる。

 マシロは怒らなかった。

 残念そうでもなかった。

 ただ、頷いた。

「分かりました」

 あまりにもあっさりしていたので、ユウリの方が戸惑った。

「ですが、覚えておいてください。天瀬さん」

 マシロの声は柔らかい。

 けれど、白い糸のようにまっすぐだった。

「危険なものを、危険だと知らずに持ち続けることは、自由ではありません」

 ユウリは返事をしなかった。

 できなかった。

「それは、ただの放置です」

 マシロはそう言って、教師の方へ歩いていった。

 白いファイルを抱えた背中が、廊下の人波に自然に溶け込む。

 特別な気配はない。

 けれど、ユウリには、その白さだけが目に残った。

   *

 一時間目は、ほとんど頭に入らなかった。

 黒板に書かれる英単語も、教師の説明も、隣の席のシャーペンの音も、全部が遠かった。

 ユウリは何度もスマホを見たくなったが、授業中に開くことはできない。

 机の中で、AVISは時々微かに震えた。

 アヴィは黙っている。

 それが、かえって不気味だった。

 休み時間になると、レンがすぐにユウリの席へ来た。

「やばいな、あの人」

「うん」

「敵か?」

「分からない」

「敵じゃない方が厄介そう」

 レンは窓際に腰を預け、腕を組んだ。

「言ってること正しいんだよな。そこが嫌だ。俺たちが危ないことしてるのは事実だし、AVISが危険なのも事実だし、先生に相談しろって言われたら普通はそうする」

「でも、渡せない」

「渡したら終わる気がする」

 ユウリは頷いた。

 スマホの中で、アヴィがようやく喋った。

「端末を提出した場合、最低でも三つのリスクがある」

 レンが顔を近づける。

「聞こうじゃん」

「第一に、俺が解析される。第二に、ユウリの観測ログが抜かれる。第三に、星宮ミオの現在名に関する記録が管理側へ渡る」

 ミオは少し離れた席で、こちらを見ていた。

 ユウリが目で合図すると、彼女は静かに近づいてくる。

「私の名前の記録も、入っているんですか」

「入っている。というより、ユウリが君を呼んだ瞬間から、関連ログが生成されている」

 ミオは一瞬、唇を結んだ。

「それを見られると、どうなるんですか」

「善意なら保護。悪意なら利用。管理なら分類」

「分類……」

 ミオの表情が曇る。

 昨日の補講教室で、彼女の名前の周囲に別の名が重なった。

 女神の名。
 器としての名。
 本人ではない役割名。

 分類されることは、ミオにとって、名前を別の枠へ入れられることに近いのかもしれない。

 ユウリは静かに言った。

「渡さないよ」

 ミオが顔を上げる。

「今は」

 ユウリは付け加えた。

「全部分からないまま、任せるのは怖い。マシロさんが悪い人かどうかは分からない。でも、ミオの名前を、誰かの判断だけで預けたくない」

 ミオは少し驚いたように目を開いた。

 それから、小さく頷いた。

「ありがとうございます」

 レンが軽く肩をすくめる。

「で、どうする。相談員対策会議でも開くか?」

「第二図書準備室で?」

「非公式調査拠点だからな」

「名前つけるなって」

 その時だった。

 教室のあちこちで、スマホの通知音が鳴った。

 一つではない。

 数人分。

 いや、十人以上。

 机の中。
 鞄のポケット。
 制服の内側。

 同じタイミングで、短い電子音が重なった。

 クラスがざわつく。

「何?」

「AVISじゃね?」

「俺も来た」

「また診断?」

 ユウリは嫌な予感がして、自分のスマホを開いた。

 画面の黒い円環が、すでに白く揺れている。

 その上に、一般版とは違う警告が重なった。

《神話構文濃度:急上昇》
《発生源:神狭市北東部》
《照応候補:ソウリン大御神》
《注意:照応値に異常な揺らぎがあります》

 ソウリン大御神。

 その名を見た瞬間、ユウリは息を止めた。

 神楽坂レイジの契約神。

 神々の再臨派の中心にいる、秩序と光の神格照応。

 だが、表示の最後にある言葉が不穏だった。

 異常な揺らぎ。

 レンも自分のスマホを見ている。

 彼の画面には、AVIS一般版の明るい通知が表示されていた。

《本日の守護神タイプ:太陽》
《神格適性イベント開催中》
《天御柱神宮にて、特別照応を検出》
《再臨候補に接続しますか?》

 周囲の生徒たちが騒ぎ始める。

「太陽タイプだって」

「俺も出た!」

「天御柱神宮って、駅の向こうの神社だよな」

「放課後行く?」

「再臨候補って何、やばくない?」

「イベントじゃね?」

 軽い。

 あまりにも軽い。

 昨日、名前が奪われかけた旧校舎のことなど知らない生徒たちは、スマホの通知をただの面白いイベントとして受け取っている。

 その軽さが怖かった。

 ユウリはミオを見た。

 彼女の顔色が変わっている。

 窓の外を見ていた。

 ユウリも視線を追う。

 空は、昼前の明るさだった。

 だが、どこか白すぎる。

 太陽は雲に隠れているはずなのに、校舎の壁も、窓枠も、生徒たちの机も、妙に白い光を受けていた。

 影が薄い。

 まるで、誰かが世界の明度だけを勝手に上げたようだった。

 ミオが小さく言う。

「明るいのに……怖いです」

 ユウリのスマホが震えた。

《対象:星宮ミオ》
《現在名安定率:64%》
《警告:太陽照応による漂白反応》

「漂白……?」

 レンが画面を覗き込む。

 アヴィの声が低くなった。

「名前を焼く光だ。個人名を薄め、役割名へ置き換えるタイプの干渉。信徒、依代、供物、器。そういう名札を貼りやすくなる」

 ミオの指が、学生証を握った。

「また、私じゃなくなるんですか」

 その声は小さかった。

 けれど、ユウリにははっきり聞こえた。

 また。

 無番線ホーム。
 旧校舎の補講教室。
 そして今度は、白い太陽の通知。

 何度も、彼女の名前が別のものにされようとしている。

 ユウリの中で、何かが静かに熱を持った。

 怒りだった。

 けれど、それだけではない。

 怖さを押し返すための、はじめての意志のようなもの。

 教室の前方で、倉持が通知画面を見ていた。

 彼はユウリたちの方を見て、笑おうとして失敗したような顔をした。

「なあ、これ」

 声が少し震えている。

「やばいやつか?」

 昨日、名前を奪われかけた倉持は、もう笑い飛ばせなくなっていた。

 ユウリはすぐに答えられなかった。

 やばい。

 たぶん、かなり。

 でも、そう言えば教室は混乱する。

 その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。

 烏丸マシロだった。

 彼女は教室の入口に立ち、ざわつく生徒たちを一瞥した。

 手には、白いファイルではなく、薄いタブレット端末を持っている。

 その画面にも、何かの警告が出ているようだった。

 マシロの表情が、初めてほんのわずかに変わった。

 笑顔が消えたわけではない。

 だが、目がより静かになった。

「……もう広がっているのですね」

 独り言のような声だった。

 ユウリは立ち上がった。

 マシロがこちらを見る。

「天瀬さん。久遠さん。星宮さん」

 今度は、彼女はミオの名前を呼んだ。

 正確に。

 星宮さん、と。

 その呼び方に、ミオが小さく息を呑む。

 マシロは続ける。

「放課後、天御柱神宮へは近づかないでください」

 レンが眉をひそめた。

「何が起きてるんですか」

「危険な照応反応です」

「先生は知ってるんですね」

「少なくとも、あなたたちよりは」

 その言葉には、わずかに厳しさがあった。

 ユウリはマシロを見る。

「危険なら、止めないと」

「それは大人の仕事です」

 即答だった。

「あなたたちは、生徒です。昨日のようなことを繰り返すべきではありません」

 正しい。

 また、正しい。

 けれど、ユウリの中で、今度はその正しさが引っかかった。

「昨日、僕たちが動かなかったら、倉持はどうなってましたか」

 マシロの目が、ほんの少し細くなる。

「その件についても、確認が必要です」

「確認している間に、名前が消えてたかもしれない」

「だからこそ、無秩序な行動は避けるべきです」

「秩序が間に合わない時は?」

 ユウリの声は、自分でも思ったより強かった。

 マシロは黙った。

 教室のざわめきが、遠くなる。

 ユウリはまだ何も分かっていない。

 AVISのことも、神話構文のことも、契約相のことも、マシロの所属も、何も。

 でも、分からないからといって、何も見なかったことにはできない。

 ミオの名前が揺らいでいる。

 倉持のような誰かが、また巻き込まれるかもしれない。

 それだけは、分かる。

 マシロは、ゆっくり息を吐いた。

「天瀬さん」

 声は穏やかに戻っていた。

「あなたは、まだ自分が何を扱っているか理解していません」

「そうかもしれません」

「それでも行くのですか」

 ユウリは窓の外を見た。

 白すぎる空。

 薄くなる影。

 そして、手の中で震えるAVIS。

 アヴィが小さく言う。

「推奨はしない」

「でも、止めないんだな」

「止めても行くだろう」

 ユウリは少しだけ笑った。

「行きます」

 マシロの表情は変わらなかった。

 けれど、その目に、ほんのわずかに失望にも似た色が過ぎった。

「分かりました」

 彼女は静かに言う。

「なら、せめて覚えておいてください。神の名を扱う者は、神に扱われる側にもなり得ます」

 その言葉を残して、マシロは教室を離れた。

 白い光の中へ溶けるように。

 ユウリはスマホを見る。

 AVISの表示が更新されていた。

《神話構文濃度:上昇継続》
《発生源:天御柱神宮・鏡池周辺》
《照応候補:ソウリン大御神》
《警告:照応値に異常な揺らぎ》
《推奨:接近時、契約相展開準備》

 契約相。

 その言葉に、ユウリの心臓が一度だけ強く鳴った。

 昨日までは、名前を呼ぶことしかできなかった。

 記録を繋ぎ直すことしかできなかった。

 でも、今度は違う。

 白い太陽の下で、何かが戦いを求めている。

 そして自分も、そこへ向かおうとしている。

 ユウリは、ミオとレンを見た。

「放課後、行こう」

 レンは少しだけ笑った。

 怖がっている。

 それでも、笑った。

「だと思った」

 ミオは学生証を握りしめたまま、小さく頷いた。

「私も行きます」

 外の光は、さらに白くなっていた。

 神狭市の上で、まだ昇るはずのない太陽が、どこかで目を開けようとしていた。

第一節 ― 太陽タイプ診断

 放課後のチャイムが鳴る頃には、星綴高等学園の中で、AVIS一般版の通知は完全に遊びになっていた。

 昼前に一斉に届いた「太陽タイプ診断」は、授業の合間を縫って生徒たちの間に広がり続けていたらしい。廊下に出ると、あちこちで同じ画面を見せ合う声が聞こえた。

「俺、太陽神タイプだった」

「え、俺も。これ全員太陽じゃね?」

「いや、私、月タイプから太陽に変わったんだけど」

「守護神が天照っぽいやつって出た。すごくない?」

「神社行くと限定診断できるらしいぞ」

「何それ。御朱印みたいな?」

「再臨チャレンジって出てるんだけど。これ押したら何かもらえんの?」

 笑い声が重なる。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 画面の中で「神」や「再臨」や「契約」という言葉が並んでいるのに、生徒たちはそれを新しい占いアプリか、企業のキャンペーンか、ちょっとよくできた都市伝説イベントくらいにしか思っていなかった。

 無理もない。

 ユウリだって、二日前なら同じように受け取っていたかもしれない。

 神話や都市伝説が好きだった。

 現実になれば面白いと思っていた。

 存在しないホームも、学校の七不思議も、画面の向こうの噂であるうちは、きっと「よくできた話」として楽しんでいた。

 けれど、もう笑えない。

 名前が切符に印字されるところを見た。

 出席簿に空の名前が増えるところを見た。

 呼ばなければ、記録を戻さなければ、人は本当に「いなかったこと」に近づいていく。

 それを知ってしまった後では、廊下の笑い声が、全部どこか危ういものに聞こえた。

「天瀬」

 声をかけられて振り返ると、倉持ハルトが立っていた。

 いつものように軽く手を上げているが、表情は少し硬い。昨日の保健室前で倒れた一件から、彼はまだ完全には調子を取り戻していないようだった。

 それでも、机の名前シールは今朝よりはっきりしていた。

 倉持ハルト。

 その名前がそこにあることを、ユウリは何度も確認してしまう。

 倉持はスマホの画面をこちらに向けた。

「なあ、これ」

 画面には、AVIS一般版の明るい診断画面が表示されていた。

《本日の守護神タイプ:太陽》
《あなたの内なる神格適性:日輪系》
《天御柱神宮で限定照応イベント開催中》
《再臨候補に接続しますか?》

 その下に、大きな金色のボタンがあった。

《参加する》

 倉持は笑おうとして、少し失敗した。

「やばいやつか?」

 ユウリはすぐに答えられなかった。

 やばい。

 たぶん、間違いなく。

 けれど、その一言だけで済ませられるほど単純でもなかった。

 倉持は昨日、名前を奪われかけた。

 だからこそ、他の生徒よりも少しだけ警戒している。けれど、何がどう危ないのかまでは分かっていない。

 ユウリ自身も、分かっているとは言えなかった。

「押した?」

「いや、押してない」

 倉持はすぐに首を振った。

「昨日のことあるし。何か、こういうの見ると、ちょっと気持ち悪くなってきた」

「なら押すな」

 ユウリは言った。

 少し強い声になった。

「絶対に」

 倉持は一瞬驚いた顔をして、それから真面目に頷いた。

「分かった。押さない」

 その返事を聞いて、ユウリは少しだけ息を吐いた。

 昨日と違う。

 倉持はもう、何でも笑い飛ばすだけではなくなっている。

 それはよかった。

 けれど、同時に胸が痛んだ。

 彼がそうなったのは、名前を失いかけたからだ。

 知らなくてよかった怖さを、知ってしまったからだ。

 廊下の向こうでは、別の生徒がボタンを押して騒いでいた。

「うわ、光った!」

「何これ、AR?」

「鳥居出た! やば!」

 スマホのカメラ越しに、廊下の壁へ薄い鳥居のような金色の線が重なっている。周囲の生徒が面白がって集まり、画面を覗き込んでいた。

 ユウリのポケットの中で、AVISが震える。

 取り出すと、黒い画面に白い文字が走った。

《一般版AVIS:集団接続開始》
《太陽照応イベント:拡散中》
《神狭市内同時接続数:急増》

 隣でレンが、自分のスマホとノートPCを同時に見ていた。

 廊下の窓枠に腰を預け、画面に流れるログを追っている。授業が終わった瞬間から、彼はほとんど会話に加わらず解析を続けていた。

「拡散速度が異常だ」

 レンは低く言った。

「校内だけじゃない。神狭市全体で通知が出てる。駅前、旧北口商店街、天御柱神宮周辺、神狭データアーカイブの近くまで反応がある」

「誰かが配信してるのか?」

「それもある。SNSで“太陽タイプ診断”がトレンドに乗りかけてる。動画も上がってる。天御柱神宮で限定演出が出るって噂になってる。けど、それだけじゃ説明つかない」

 レンは画面を拡大した。

 地図上に、白金色の点が増えていく。

 星綴高等学園から神狭駅へ。
 神狭駅から旧北口商店街へ。
 そこから北東へ伸びる道筋をたどるように、点が天御柱神宮へ集まっている。

「通知が、人を誘導してる」

 レンの声から、いつもの好奇心が少し引いていた。

「ただの診断アプリの動きじゃない。位置情報と行動パターンを見て、行けそうなやつにだけ強めの通知を出してる。しかも、何人かは通知内容が違う」

「違う?」

「“守護神診断”だけのやつもいる。“太陽神適性あり”って出てるやつもいる。“再臨候補に接続しますか”まで出てるやつもいる。段階分けされてる」

 ユウリは倉持の画面を見た。

 彼には、再臨候補の表示まで出ている。

 昨日、名前を揺らされたせいなのか。

 それとも、単にAVIS一般版の使用頻度が高いからなのか。

 分からない。

 倉持が不安そうに言った。

「俺、これ消した方がいい?」

「今すぐアンインストールしろって言いたいけど」

 レンが顔をしかめる。

「消したら消したで、ログがどうなるか分からん。通信切って、アプリ開くな。あと、誰かに押せって言われても押すな」

「お、おう」

 倉持は慌ててスマホをロックした。

「何か、お前ら本当に詳しくなってんな」

 その言葉に、ユウリは少しだけ苦笑した。

 詳しくなりたかったわけではない。

 詳しくならなければ、誰かの名前が消える。

 そういうところへ、押し込まれただけだ。

 ミオは、窓の外を見ていた。

 放課後の空は、夕方へ向かっているはずだった。

 校庭の向こうで太陽は低く傾き、校舎の影が長く伸びる時間のはずだ。

 けれど、影は薄かった。

 光だけが、妙に残りすぎている。

 雲の縁も、校舎の壁も、グラウンドの白線も、まるで白い布を一枚かぶせられたように明るい。眩しいわけではない。ただ、色が抜けていくような明るさだった。

 ミオは小さく呟いた。

「……明るいのに、怖いです」

 ユウリは彼女の横に立った。

「ミオ?」

「太陽の光って、本当はあたたかいはずなのに」

 彼女は空から目を離さない。

「これは、あたたかくないです。照らしているんじゃなくて……消しているみたい」

 その言葉と同時に、ユウリのAVISが震えた。

《対象:星宮ミオ》
《現在名安定率:64%》
《警告:太陽照応による漂白反応》

 六十四。

 昨日の終わりには六十八だった。

 また下がっている。

「漂白反応って何だ」

 ユウリは小声で聞いた。

 アヴィの声が、いつもより少し低く返る。

「太陽照応による過剰な意味付けだ。光で照らすのではなく、個人名の輪郭を焼いて薄める。薄くなった場所へ、別の役割名を貼る」

「役割名?」

「信徒、依代、供物、巫女、器。そういうものだ」

 ミオの指が、胸元の学生証を握った。

 ユウリは、その手を見て胸の奥が冷えるのを感じた。

 昨日の補講教室で、黒板に書かれたミオの名前は、何度も別の名へずれようとしていた。

 星宮ミオ。
 女神の名。
 境界の名。
 器としての名。

 彼女が彼女である前に、何かの残滓や象徴や役割として扱われる。

 その怖さを、ミオはもう知っている。

「どうして、ミオが」

 ユウリの問いに、アヴィは少し間を置いた。

「星宮ミオは、ただの契約候補ではない。複数の女神残滓、境界系構文、さらに世界法則側の干渉痕を持っている。本人が望んだかどうかは関係ない。神話構文側から見れば、非常に入りやすい空白を持つ」

「空白……」

「器と言い換えてもいい。だが、その言い方は推奨しない」

 ミオが静かに言った。

「神話側が、勝手に私を器だと思っているんですね」

 アヴィは否定しなかった。

「そうだ」

 ミオは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 痛みを受け止めるような沈黙だった。

 ユウリは言葉を探した。

 大丈夫、とは言えない。

 大丈夫ではないからだ。

 狙われている。
 揺らいでいる。
 名前が安定していない。

 でも、それでも言いたいことはあった。

「ミオは器じゃない」

 彼女が顔を上げる。

「少なくとも、僕はそう呼ばない」

 ミオの瞳が、少しだけ揺れた。

 レンがわざと軽く言う。

「俺も呼ばない。星宮さんは星宮さんだし、ミオって呼ぶかはユウリの許可制っぽいから保留」

「何で僕の許可がいるんだ」

「空気的に?」

「いらない」

 ミオが、小さく笑った。

 緊張の中で、その笑いは少しだけ救いだった。

 だが、すぐに校内放送が鳴った。

 短いチャイム。

『生徒の皆さんに連絡します。現在、校外で不審なアプリ通知に関する問い合わせが増えています。不要な外出、噂に基づく行動は控えてください。特に、天御柱神宮周辺には――』

 そこで、放送が一瞬乱れた。

 ざ、とノイズが混ざる。

 次に聞こえたのは、校内放送とは違う、明るく整った合成音声だった。

『特別照応地点を検出しました』

『日輪適性を確認してください』

『再臨候補に接続しますか』

 廊下がざわめく。

「今の何?」

「放送ジャック?」

「AVISの声じゃね?」

 教師が慌てて放送室へ向かう足音が聞こえた。

 校内放送はすぐに通常の声へ戻ったが、一度聞こえてしまったものは消えない。

 生徒たちの興味は、さらに天御柱神宮へ向かっていく。

「やっぱ何かあるじゃん」

「行ってみようぜ」

「配信したら伸びそう」

 ユウリは思わず声を上げそうになった。

 行くな、と。

 けれど、廊下の全員に説明できる言葉を持っていなかった。

 危険だから。

 何が。

 神話構文が。

 何それ。

 太陽照応で名前が漂白される。

 意味分かんない。

 そうなるのが目に見えていた。

 その時、廊下の向こうから白い影が近づいてきた。

 烏丸マシロだった。

 彼女は放課後のざわめきの中でも、少しも急いでいなかった。白いファイルではなく、薄いタブレット端末を持ち、その画面に視線を落としている。

 端末には、赤ではなく白い警告がいくつも並んでいた。

 白い警告。

 それがいかにもマシロらしく見えて、ユウリは嫌な予感を覚えた。

 マシロは三人の前で足を止めた。

「天瀬さん。久遠さん。星宮さん」

 今回は、ミオの名前も呼ばれた。

 星宮さん。

 丁寧な呼称。

 間違いではない。

 けれど、ミオはわずかに身を硬くした。

 マシロの視線は、三人を順番に見たあと、最後にユウリのスマホへ落ちた。

「放課後、天御柱神宮へ向かうつもりですね」

 断定だった。

 レンが肩をすくめる。

「まだ何も言ってませんけど」

「行動傾向、前二件の接触履歴、現在の反応地点、あなた方の位置関係から見て、その可能性が高いと判断できます」

「怖い言い方しますね、先生」

「怖がらせたいわけではありません」

 マシロは穏やかに答えた。

「止めたいのです」

 ユウリは彼女を見た。

「何が起きてるんですか」

「危険な照応反応です」

「ソウリン大御神ですか」

 その名を口にした瞬間、マシロの目がわずかに細くなった。

「その名を、軽々しく確定させないでください」

 静かな声だった。

 だが、そこには初めて少しだけ強い色があった。

「今、天御柱神宮で起きているものは、神名の照応を利用しています。正確な判定が出る前に名前を与えれば、それだけで構文を補強します」

 ユウリは息を呑んだ。

 神名を呼ぶことそのものが、敵を強くする可能性がある。

 第1話では名前を呼ぶことでミオを取り戻した。

 第2話では記録を戻すために倉持の名前を呼んだ。

 だが、神の名は違う。

 呼べば戻るのではなく、呼ぶことで形を与えてしまう。

 アヴィが小さく言った。

「正論だ」

 ユウリは画面を見た。

 マシロは続ける。

「行くべきではありません。危険です」

「危険なら、なおさら止めないと」

 ユウリは言った。

 言いながら、自分でも無謀だと思った。

 相手が何なのかも分からない。
 戦い方も分からない。
 契約相という言葉が画面に出ただけで、実際に何ができるかも知らない。

 それでも、行かないという選択肢は浮かばなかった。

 ミオの現在名安定率は下がっている。

 倉持のように巻き込まれる生徒もいるかもしれない。

 そして、あの通知に誘導された人々が、今も天御柱神宮へ向かっている。

 マシロは、ユウリをまっすぐ見た。

「あなたたちは、まだ自分たちが何を扱っているか理解していません」

 言い返せなかった。

 その通りだった。

 ユウリは、AVISを持っている。

 アヴィ=シグルと話せる。

 未確定名の観測者と呼ばれた。

 でも、自分が何なのか、何ができるのか、何をしてはいけないのか、まだ何も分かっていない。

 ただ、目の前で誰かの名前が消えかけた時に、呼ぶことしかできなかった。

「分かってません」

 ユウリは言った。

 マシロの目が、少しだけ動く。

「でも、分かるまで待っていたら、間に合わないことがある」

 その言葉は、きれいな正義ではなかった。

 焦りだった。

 恐怖だった。

 無知のまま走ろうとする危うさだった。

 けれど、ユウリの中では、それが今の本当だった。

 マシロはしばらく黙った。

 廊下では、生徒たちがまだ通知を見せ合っている。

 外の光はさらに白くなり、窓枠の影がほとんど消えかけていた。

「なら、ひとつだけ忠告します」

 マシロは言った。

「神の名を信じすぎないでください」

 その言葉は、意外だった。

 人類管理機構という警告を受けた相手が、神の名を警戒しろと言う。

 ユウリは眉をひそめる。

 マシロは続けた。

「神名は、人を救うこともあります。けれど同時に、人を役割へ閉じ込めます。信徒、巫女、依代、供物、英雄、敵。呼び名が与えられた瞬間、人はその枠へ押し込まれやすくなる」

 ミオが、学生証を握る手に力を込めた。

「星宮さん」

 マシロは静かに言った。

 今度は、ミオを見ている。

「あなたは、特に気をつけてください。あなたの中にあるものは、あなた自身の意志より早く、周囲から名を与えられようとします」

 ミオは一瞬、怯えたように見えた。

 だが、すぐに顔を上げた。

「私は、星宮ミオです」

 小さな声だった。

 けれど、はっきりしていた。

 マシロはわずかに目を細める。

「ええ。今は」

 その言い方に、ユウリの胸がざらついた。

 今は。

 まるで、いつか変わることを知っているような言葉だった。

 レンが割って入った。

「先生、止めたいなら先生が行けばいいんじゃないですか」

「行きます」

 マシロは即答した。

 レンが少し驚く。

「行くんだ」

「当然です。危険地点を放置する理由がありません」

「じゃあ、俺たちも別ルートで」

「推奨しません」

「でしょうね」

 レンは苦笑した。

 マシロはユウリを見た。

「あなた方が来ることを、私は許可しません」

「でも、止められない」

「はい」

 マシロは静かに頷いた。

「だから、記録します」

 その一言に、ユウリはぞくりとした。

 許可ではない。
 黙認でもない。
 記録する。

 それが、この人のやり方なのだ。

 マシロはタブレットを閉じた。

「もし現地で接触した場合、私の指示に従ってください」

「約束はできません」

 ユウリが言うと、マシロは少しだけ沈黙した。

「でしょうね」

 その声には、わずかに諦めが混ざっていた。

 そして、彼女は背を向けた。

 白いブラウスが、放課後の廊下の光の中でさらに白く見える。

 ユウリはその背中を見送りながら、スマホを握った。

 アヴィが言う。

「無謀だ」

「分かってる」

「戦闘になる可能性がある」

「それも、分かってる」

「いや、分かっていない。ユウリ、お前はまだ契約相をまともに展開していない」

 ユウリの指が止まる。

 契約相。

 画面に出た言葉。

 まだ、自分のものという実感はない。

「それでも、行く」

 ユウリは言った。

 アヴィは少し黙った。

 それから、いつものように皮肉っぽく言う。

「そう言うと思った。だから嫌なんだ、未確定の人間は」

 レンがノートPCを鞄に押し込み、スマホをポケットに入れた。

「行くなら急ごう。通知に釣られた連中、もう校門出てる」

 倉持が不安そうに近づいてきた。

「俺は?」

 ユウリは即答した。

「来るな」

「だよな」

 倉持は苦笑した。

「分かった。俺は部活行く。あと、通知のこと、軽音部のやつらに押すなって言っとく」

「頼む」

「それくらいならできる」

 倉持は、自分の胸を軽く叩いた。

「俺、倉持ハルトだからな。昨日の借り、ちょっとは返す」

 その言葉に、ユウリは少しだけ笑った。

「覚えてるじゃないか」

「名前くらいな」

 倉持はそう言って、背を向けた。

 その背中が、昨日より少し確かに見えた。

 ユウリはミオとレンを見る。

「行こう」

 三人は廊下を走り出した。

 窓の外では、夕方の空が白く光っている。

 太陽はもう沈みかけているはずなのに、世界はまだ昼のように明るかった。

 だが、その光には温度がない。

 照らすための光ではない。

 名前を、影を、迷いを、個人の輪郭を、すべて同じ白へ塗りつぶすための光。

 神狭市の北東、天御柱神宮の方角で、見えない日輪がゆっくりと開いている。

 ユウリは走りながら、スマホの画面を見る。

《目的地:天御柱神宮》
《神話構文濃度:上昇中》
《照応候補:未確定》
《契約相展開準備:待機》

 胸の奥で、恐怖と、焦りと、まだ名前のない何かが絡み合っていた。

 何ができるのかは分からない。

 何を扱っているのかも、まだ分からない。

 それでも、ユウリは走った。

 分からないまま走ることが、無謀だと知っていても。

 誰かが勝手に神の名を与えられる前に。

 ミオが、また別の何かにされる前に。

 そして、神狭市の空が本当に白く焼き尽くされる前に。

第二節 ― 天御柱神宮

 天御柱神宮へ向かう道は、いつもより明るかった。

 星綴高等学園を出た時には、すでに夕方のはずだった。校門の前の桜並木は影を長く伸ばし、駅へ向かう生徒たちの背中は、いつもなら橙色の光を浴びている時間だ。

 けれど、その日の神狭市は違っていた。

 空の色が、どこか薄い。

 青でもない。白でもない。夕暮れの赤でもない。

 紙を強い光に透かした時のような、妙に均一な明るさが街の上にかかっていた。ビルの窓も、電柱も、歩道橋の手すりも、輪郭だけを白くなぞられているように見える。

 影が薄い。

 それが、いちばん気味が悪かった。

 人も車も建物も、ちゃんとそこにあるのに、足元へ落ちる影だけが頼りない。世界が少しずつ、厚みを失っていくようだった。

「これ、夕方の光じゃないよな」

 レンが歩きながら言った。

 片手にはスマホ。もう片方の手には、小型のモバイルバッテリーが握られている。彼は移動中もずっとAVIS一般版の拡散ログを追っていた。

「太陽はあっち」

 ユウリは西の空を見た。

 ビルの向こうに、本物の太陽が沈みかけている。

 それなのに、天御柱神宮のある北東の丘の方角から、白い明るさが滲んでいた。

 ミオは二人の少し後ろを歩いていた。

 胸元の学生証を片手で押さえている。

 彼女の歩幅はいつも通りに見える。けれど、時々呼吸が浅くなるのが分かった。

「大丈夫?」

 ユウリが声をかけると、ミオは小さく頷いた。

「はい。まだ、大丈夫です」

 まだ。

 その言葉が引っかかった。

 ユウリはスマホを見た。

《対象:星宮ミオ》
《現在名安定率:63%》
《太陽照応による漂白反応:継続》
《注意:発生源への接近により低下速度が上昇する可能性があります》

 また一つ下がっている。

 ユウリは画面を握りしめた。

「アヴィ。これ、近づかない方がいいんじゃないのか」

「その通りだ」

 あまりに即答だった。

「なら、止めろよ」

「止めても行くだろう」

「……それはそうだけど」

「だから警告だけしている。星宮ミオの現在名は、発生源に近づくほど揺らぎやすくなる。だが同時に、発生源が彼女を検出している以上、離れても完全には安全ではない」

「どういうことだよ」

「向こうはもう、彼女を見つけている」

 ユウリの足が一瞬止まりかけた。

 ミオがそれに気づき、こちらを見る。

「どうしました?」

「いや」

 言いかけて、飲み込む。

 不安にさせたくなかった。

 でも、隠しても仕方がない。

 ユウリは少しだけ声を落とした。

「アヴィが、向こうはもうミオを見つけてるって」

 ミオは、驚かなかった。

 むしろ、納得したように目を伏せた。

「……そんな感じがします」

「感じるのか」

「はい」

 彼女は天御柱神宮の方角を見た。

「見られている、というより……呼び方を探されている感じです。私を何と呼べばいいか、向こうが勝手に考えているみたいで」

 ユウリは、胸の奥が冷えるのを感じた。

 呼び方を探されている。

 それは、名前を与えられる前の怖さだった。

 人は名前を呼ばれることで、そこに繋ぎ止められる。

 けれど、間違った名前を与えられれば、その名前の形へ押し込まれる。

 ミオはそれを、もう何度も経験しかけている。

 無番線ホームで。
 補講教室で。
 そして今、白い光の中で。

 レンがスマホから顔を上げた。

「天御柱神宮、もう人が集まり始めてる。SNSに動画上がってる。『神社で太陽が二つ見える』とか、『AVIS限定イベント』とか」

「止められないのか」

「俺が何言っても無理だろ。むしろ拡散する」

 レンは苦い顔をした。

「『危ないから行くな』って投稿したら、逆に行くやつが増える。都市伝説ってそういうもんだ」

 ユウリは何も言えなかった。

 その通りだった。

 危険だと言われれば、見たくなる。

 本物かもしれないと言われれば、確かめたくなる。

 自分も、きっとそういう側にいた。

 神話も、都市伝説も、怪異も、遠くにあるうちは面白い。

 誰かの名前が消えかけるまでは。

   *

 天御柱神宮は、神狭駅から少し離れた丘の上にある古い神社だった。

 駅前の賑やかな通りを抜け、旧北口商店街の端をかすめ、細い坂道を上がった先に石段がある。普段なら、夕方の境内は静かだ。部活帰りの生徒が近道に使うことはあっても、長く立ち止まる者は少ない。

 赤く塗られた鳥居は少しくすみ、石灯籠には苔が残っている。

 神狭市の中心にありながら、そこだけ時間が少し古い。

 そんな場所だった。

 けれど、その日の石段の下には、人が集まっていた。

 高校生。

 大学生らしい若者。

 仕事帰りの会社員。

 配信者なのか、自撮り棒にスマホをつけた人。

 近所の子ども連れまでいる。

 みんな、同じようにスマホを掲げている。

 画面を覗き込み、鳥居へ向け、境内へ向け、空へ向けている。

「ここで診断するとレア神格が出るらしい」

「太陽神の再臨イベントだって」

「神様見えるってマジ?」

「ほら、画面越しだと鳥居光ってる!」

「これ公式イベント? どこの会社?」

「AVIS、急に本気出してきたな」

 軽い。

 怖いくらい軽い。

 ユウリは人混みを見て、腹の奥が熱くなるのを感じた。

 遊びじゃない。

 そう叫びたかった。

 でも、声にならなかった。

 つい二日前まで、自分だって同じように画面を向けたかもしれない。

 神社で神様が見える。
 限定診断がある。
 再臨イベントが始まる。

 そんな噂を聞いたら、興味を持ったはずだ。

 面白そうだと思ったはずだ。

 だから、怒り切れない。

 怒りたいのに、その中にいる自分の影が見えてしまう。

 レンが人混みを避けながら言った。

「これ、まずいな。接続数が増えるほど反応が強くなってる」

「スマホが原因なのか」

「原因というより、増幅器。みんなが同じ場所で同じ通知を見て、同じ神っぽいものを期待してる。その期待が、何かに形を与えてる」

 アヴィが補足する。

「祈りの劣化版だ。信仰ではない。だが、数が集まれば構文は発火する」

「祈ってるわけじゃないのに?」

「人間は、面白半分でも神を呼ぶ。問題は、呼ばれたものが何かだ」

 石段を上がる。

 途中の街灯は、まだ点く時間には少し早い。

 それなのに、灯籠の中が白く光っていた。

 炎ではない。

 電球でもない。

 小さな日輪のような白い円が、灯籠の中に浮いている。

 ミオがそれを見て、少しふらついた。

「ミオ」

 ユウリが支える。

 彼女の手が冷たい。

「ごめんなさい。光が……近いです」

「戻るか」

 ミオは首を横に振った。

「戻っても、たぶん追ってきます」

 その声は怖がっているのに、どこかはっきりしていた。

「それに、ここで何が起きているのか、知らないままだと、もっと怖いです」

 ユウリは頷くしかなかった。

 石段を上りきると、境内が見えた。

 普段の天御柱神宮を、ユウリは何度か見たことがある。

 正面に拝殿。

 その横に社務所。

 奥へ行くと、古い御神木と、小さな鏡池がある。

 水面に空を映すその池は、地元では少し有名だった。晴れた日の朝、池の中央に太陽が映ると、願いが届くという話を聞いたことがある。

 だが、今の境内は、いつもの神社ではなかった。

 白い光が、地面の砂利の一粒一粒にまで染み込んでいる。

 鳥居の影は薄く、拝殿の屋根の反りも、白く縁取られている。

 人々は拝殿の前より、奥の鏡池へ向かって集まっていた。

 スマホを掲げる人。
 動画を撮る人。
 誰かに通話で状況を伝える人。
 笑いながら「やばい、映ってる」と言う人。

 その中心から少し離れた場所に、一人の青年が立っていた。

 白い装束に近い、上品な私服。

 白を基調にした長めの上着。襟元はきちんと整えられ、袖口には薄い金の刺繍が入っている。和装ではない。けれど、どこか神職の装束を思わせる端正さがあった。

 年齢は二十歳前後。

 大学生にも見える。

 若い神職にも見える。

 背筋がまっすぐで、立っているだけで周囲の騒がしさから少し切り離されていた。

 神楽坂レイジ。

 ユウリは、まだ名乗られていないのに、そう直感した。

 彼は人々を鏡池から下がらせようとしていた。

「ここから先は入らないでください」

 声はよく通る。

 怒鳴ってはいない。

 だが、不思議と耳に残る声だった。

「これは遊びではありません。池の周辺から離れてください」

 けれど、人々の反応は軽かった。

「本物の神主さん?」

「動画撮っていいですか?」

「イベント運営の人?」

「コスプレ?」

「この先行くと限定演出あるんですか?」

 レイジは眉を寄せた。

 不快そうではない。

 困っている。

 どうすれば伝わるのか、真剣に考えている顔だった。

「限定演出ではありません。危険です。スマートフォンをしまって、境内の外へ――」

「危険って何が?」

「AVISのイベントじゃないんですか?」

「じゃあ何で通知来たの?」

 質問は悪意がない。

 だからこそ厄介だった。

 相手は本気で危険だと思っていない。

 神楽坂レイジは、その中で怒鳴らず、苛立たず、何度も言葉を選んでいた。

 その姿に、ユウリは少しだけ意外なものを感じた。

 神々の再臨派。

 その言葉だけを聞けば、もっと強引で、神の名を振りかざす人間を想像していた。

 けれど目の前のレイジは、少なくとも今この場では、人を守ろうとしている。

 レンが小声で言う。

「あれが神楽坂レイジか?」

「たぶん」

「思ったよりまともそうだな」

「うん」

 それが、かえって厄介なのだと思った。

 間違った人ではない。

 むしろ、正しいことをしている。

 だからこそ、彼の思想も簡単には否定できない。

 その時、レイジがこちらを見た。

 人混みの中で、ユウリたちを見つけた。

 彼の視線は、まずユウリへ。
 次にレンへ。
 そして、ミオで止まった。

 一瞬だけ、彼の表情が変わる。

 驚き。

 警戒。

 そして、どこか痛ましいものを見るような色。

 レイジは人々の間を抜け、ユウリたちへ近づいてきた。

「君たちは、星綴高等学園の生徒だね」

 丁寧な声だった。

 ユウリは頷く。

「天瀬ユウリです」

「久遠レン」

「星宮ミオです」

 ミオが名乗った瞬間、周囲の白い光がかすかに揺れた。

 レイジの目が細くなる。

「星宮さん」

 彼は静かに言った。

「ここは、君には危険だ。すぐに下がった方がいい」

 ユウリは思わず前に出た。

「どうしてミオだけ」

 レイジはユウリを見る。

「彼女の中に、過剰な照応がある。あの光は、それを器として誤認する」

「器じゃない」

 ユウリの声が、思ったより強く出た。

 レイジは、一瞬だけ目を見開いた。

 だが、怒らなかった。

「そうだ。だからこそ、危険だと言っている」

 その答えに、ユウリは詰まった。

 レイジはミオを器と決めつけているわけではない。

 むしろ、そう扱われる危険を警告している。

「あなたは、何を知ってるんですか」

 レンが聞いた。

 レイジは名乗るように、静かに背筋を正した。

「神楽坂レイジ。天御柱神宮に関わる家の者だ。今起きているものは、この神社の本来の祭祀ではない。ソウリン大御神の名を利用した、別の照応反応だ」

 その名を聞いた瞬間、ユウリのスマホが震えた。

《神楽坂レイジ》
《照応:神々の再臨派》
《契約神候補:ソウリン大御神》
《危険度:未確定》
《交戦状態:非推奨》

 レンが小さく呟く。

「非推奨って、戦う前提で出るのやめろよ」

 レイジは画面を見ていない。

 だが、何かを察したようにユウリのスマホへ視線を落とした。

「特殊版のAVISか」

「知ってるんですか」

「断片的には」

 レイジは答えた。

「だが、今は説明している時間がない。君たちは人々を境内の外へ誘導してくれ。僕は鏡池を抑える」

「抑えるって、ひとりで?」

「必要ならば」

 その言葉に、迷いはなかった。

 ユウリは何か言おうとした。

 だが、その前に、境内の奥から歓声が上がった。

「映った!」

「太陽!」

「すげえ!」

 鏡池の方だった。

 人々が一斉にスマホを掲げる。

 ユウリたちも振り向いた。

 池の水面に、太陽が映っていた。

 だが、空にはもう太陽はない。

 本物の太陽は西のビルの向こうへ沈みかけている。鏡池の真上にあるのは、白く薄い夕空だけだ。

 それなのに、水面の中央には、白い日輪がある。

 真円だった。

 あまりにも整いすぎた、白い円。

 水面は揺れているのに、その日輪だけは揺れない。

 まるで池の底に、別の空が開いているようだった。

 ユウリのスマホが激しく震えた。

《再臨候補:発生》
《ソウリン大御神照応:上昇》
《警告:神名照合に矛盾》
《照応値:不安定》
《接続中の一般版AVIS端末:増加》

 同時に、周囲の人々のスマホが白く光った。

「うわ、来た!」

「再臨候補って出た!」

「押していいの?」

「配信止まったんだけど!」

 レンが叫ぶ。

「押すな! 全員、その画面押すな!」

 だが、誰も本気で聞いていない。

 彼らには、レンの声もまたイベントの一部のように聞こえているのかもしれなかった。

 レイジが鏡池へ向かって駆け出した。

「下がってください!」

 その声は、先ほどより強かった。

「今すぐ池から離れてください!」

 だが、人々はむしろ前へ出る。

 白い日輪を撮ろうと、スマホを伸ばす。

 その光景を見て、ユウリは背筋が冷たくなった。

 白い日輪が、こちらを見た気がした。

 水面に映っているだけの円。

 目などない。

 顔などない。

 それなのに、確かに視線を感じた。

 ユウリではない。

 レンでもない。

 その視線は、ミオへ向いていた。

 ミオの身体が大きく揺れる。

「ミオ!」

 ユウリが支えた。

 彼女の瞳に、白い光が映っている。

 鏡池の日輪が、彼女の目の奥にもう一つ浮かんでいるように見えた。

「見てる……」

 ミオがかすれた声で言った。

「水の中の太陽が、私を見てる」

 ユウリのAVISが、警告音を鳴らす。

《対象:星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《依代認識反応を検出》
《警告:対象を発生源から遮断してください》

 レイジが振り返った。

 彼の表情が、初めてはっきり険しくなる。

「星宮さんを下げろ!」

 ユウリはミオを支えながら、一歩後ろへ下がった。

 だが、白い光が足元へ伸びてくる。

 影が消える。

 砂利の上にあったはずの三人の影が、白い明るさの中で薄くほどけていく。

 水面の日輪が、少しずつ大きくなっていた。

 池に映っているのではない。

 池の底から、上がってきている。

 白い太陽が、水の中からこの世界へ顔を出そうとしている。

 アヴィの声が、ユウリの手の中で低く響いた。

「始まったぞ、ユウリ」

 ユウリはスマホを握りしめた。

 鏡池の水面に、白い日輪が開いている。

 人々はまだ笑っている。

 レイジは池の前に立ち、何かの祝詞を唱え始めていた。

 そしてミオは、白い光の中で、自分の名前を必死に握りしめている。

 ユウリは、ようやく理解した。

 これはもう、ただの異変ではない。

 ここから先は、戦いになる。

第三節 ― 神楽坂レイジ

 鏡池の水面から、白い日輪が浮かび上がった。

 音はなかった。

 水が割れる音も、風が鳴る音も、何もない。

 ただ、境内に満ちていたざわめきが、一瞬だけ薄くなった。人々の笑い声も、配信者の早口も、スマホの通知音も、白い光に吸われるように遠ざかる。

 その代わりに、全員のスマホが一斉に白く光った。

「うわ、何これ」

「画面、真っ白になった」

「え、押せって出てる」

「契約?」

 ユウリの近くにいた大学生らしい男が、スマホを覗き込んだまま笑った。

「やば、演出凝ってるな」

 その画面には、余白のない白の中に、黒い文字が二行だけ表示されていた。

《契約しますか?》
《許可する》

 それだけだった。

 戻る、拒否する、閉じる。

 そういう選択肢はない。

 許可する。

 白い画面の中央に、それだけが置かれている。

 レンが顔色を変えた。

「おい、拒否も戻るもないぞ!」

 彼は周囲へ向かって叫んだ。

「押すな! その画面、絶対押すな!」

 だが、境内に集まった人々の多くは、レンの声を聞いていないようだった。

 聞こえていないのではない。

 聞こえているのに、意味が届いていない。

 白い光を浴びた顔が、どこかぼんやりしている。興奮していたはずの表情から、少しずつ熱が抜け、代わりに穏やかな空白が広がっていく。

「契約って、何?」

「押せばいいのかな」

「イベント進むんじゃない?」

 指が画面へ伸びる。

 一人。
 二人。
 三人。

 ユウリは反射的に叫んだ。

「押さないで!」

 けれど、その声は白い境内の中で散った。

 水面の日輪が、また少し大きくなる。

 鏡池の周囲に立つ人々の影が薄れていく。足元にあったはずの黒い輪郭が、白い砂利の中へ溶けていく。人の形はまだある。けれど、名前や個性より先に、白い光に照らされる「群れ」として見えてしまう。

 ミオが胸元を押さえた。

「……名前が」

「ミオ?」

「みんなの名前が、白くなっていく」

 彼女の声は震えていた。

「見えるんです。ひとりひとり違うはずなのに、同じ呼び方にされそうになってる」

 ユウリのスマホが警告を出す。

《一般端末群:契約誘導中》
《役割名付与反応:信徒》
《注意:集団現在名の漂白が進行》

 信徒。

 その文字を見た瞬間、ユウリの喉が詰まった。

 個人の名前が消えるわけではない。

 もっと静かで、もっと正しそうな形に変えられていく。

 信じる者。
 従う者。
 光を受ける者。

 その呼び名の下に、ひとりひとりの名前が薄まっていく。

 池の前で、神楽坂レイジが動いた。

 それまで人々を下がらせようとしていた彼は、もう説得を諦めたのだろう。表情から迷いが消え、代わりに、研ぎ澄まされた静けさが宿る。

 彼は懐から薄い白金色の端末を取り出した。

 スマホに似ているが、ユウリたちのAVISとは違う。画面の縁に小さな神紋が刻まれ、背面には神鏡を思わせる円形の装飾がある。

 端末が起動した瞬間、空気が変わった。

 白く濁っていた境内の光の中に、朱と金の線が走る。

《神格接続》
《契約相:日輪神将》
《ソウリン大御神照応》

 レイジが低く祝詞を唱えた。

 言葉の一つ一つが、境内の石畳に落ち、鳥居の柱へ渡り、鏡池の水面へ突き刺さっていくようだった。

「高天に座す光の御名よ。迷える影を照らし、偽りの輪を祓い給え」

 その背後に、巨大な日輪光背が立ち上がった。

 白金と朱の光。

 鳥居を幾重にも重ねたような光輪。

 輪の内側を、祝詞の文字列が流れていく。墨で書かれたような古い文字が、光になり、風になり、レイジの背に集まる。

 その中央に、神鏡が浮かんだ。

 鏡面は太陽を映していない。

 むしろ、鏡そのものが朝日のように輝いていた。

 さらに光が伸びる。

 レイジの右手に、細長い太刀の輪郭が生まれた。刃ではなく、光そのものを鍛えたような太刀。柄には朱の紐が巻かれ、切っ先からは白い炎のような光が静かに揺れている。

 境内にいた人々が、ようやく異常に気づき始めた。

「え……?」

「何、今の」

「本物?」

 それでも、スマホを下ろす者は少ない。

 驚きながらも、撮ろうとしている。

 記録しようとしている。

 それがさらに、鏡池の日輪へ力を送っているように見えた。

 レイジは一歩踏み出した。

 その足元から朱金の光が広がり、円形の結界が境内を包む。

 白い契約画面へ伸びていた人々の指が、ぴたりと止まった。

「え?」

「動かない」

「画面、押せないんだけど」

 スマホの白い画面に、朱の線が走る。

 許可する、という文字が一瞬ぶれ、弾かれるように薄くなった。

 レイジの結界が、契約誘導を防いでいる。

 ユウリは息を呑んだ。

 これが、契約者の力。

 名前を呼ぶとか、記録を集めるとか、そういう必死の抵抗ではない。

 光を展開し、結界を張り、敵の干渉を正面から押し返す。

 まるで、神話そのものが戦場に降りてきたようだった。

「これが……契約者の戦い」

 思わず呟く。

 アヴィの声が、すぐに返ってきた。

「見惚れてる場合か。あれは強い。だが、相性が悪い」

「相性?」

「見てろ」

 レイジが光の太刀を掲げた。

 日輪光背の文字列が一斉に輝き、鏡池の上へ白金の光柱が落ちる。

 轟音はない。

 代わりに、耳の奥で澄んだ鈴のような音が鳴った。

 光柱が水面の日輪を貫く。

 白い日輪が大きく揺れた。

 池の水が波立ち、周囲の灯籠に浮かんでいた小さな白い円が次々に砕ける。

 人々のスマホ画面にも変化が起きた。

《契約しますか?》
《許可する》

 その文字が薄れ、朱金の光に焼かれるようにかすれていく。

「すごい……」

 ミオが小さく言った。

 ユウリも同じことを思った。

 レイジは強い。

 疑いようがない。

 祝詞を唱えるたび、境内に光の柱が落ちる。光の結界は人々を押し包み、白い契約画面を弾き、鏡池から伸びる漂白の光を遮っている。

 ユウリたちが第1話、第2話で必死に逃げ切った怪異とは、段階が違う。

 これは本当に戦いだった。

 神の名を借りた力と、それを祓う力の衝突。

 レイジは二度目の祝詞を唱えた。

「正しき日輪の御前に、偽りの暁は影を得ず」

 太刀が振り下ろされる。

 白金の斬撃が鏡池を横切り、日輪の輪郭を削った。

 白い円が一部欠ける。

 その瞬間、境内にいた人々の何人かが、はっとしたようにスマホから目を離した。

「何してたんだ、俺」

「やば、何か押しかけてた」

「帰った方がよくない?」

 結界の内側で、意識を取り戻す者が出始める。

 ユウリは少しだけ希望を感じた。

 このままなら。

 レイジが押し切れるのではないか。

 そう思った直後、鏡池の水面から声がした。

『光を』

 それは、幼い声にも聞こえた。

 老人の声にも聞こえた。

 男でも女でもない。

 ただ、白い光そのものが言葉を覚えたような声だった。

『正しい名を』

 水面の日輪が、削られたはずの輪郭を取り戻す。

 いや、取り戻すだけではない。

 さっきよりも、形がはっきりしている。

 ぼやけていた白い円の縁に、鳥居のような模様が浮かぶ。日輪の内側に、古い神紋に似た線が走る。レイジの光を受けた場所ほど、その輪郭が鮮明になっていく。

 ユウリは背筋が冷たくなった。

 アヴィが言った意味が、少し分かった。

 レイジの光は、確かに偽日輪を削っている。

 だが同時に、それを「太陽神らしいもの」へ近づけている。

 正しい光を浴びることで、偽物が正しい形を学んでいる。

『我に』

 偽日輪の中心に、顔のようなものが浮かびかけた。

 白く、輪郭のない顔。

 目も鼻もない。

 それでも、見る者に「神々しい」と思わせる空白。

『我こそは』

 周囲のスマホが再び白く光る。

 今度は、契約画面の下に別の文字が出た。

《正しき太陽を迎えますか?》
《許可する》

 レイジの表情が険しくなる。

 彼はすぐに光の結界を重ねた。

 朱金の線が走り、人々の画面を再び弾く。

 だが、先ほどより抵抗が重い。

 ユウリにも分かった。

 偽日輪が強くなっている。

 レイジの光を受けるほど、自分を「正しき太陽」に見せる術を覚えていく。

『再び来る日』

 偽日輪の声が、境内全体に響いた。

 その言葉に反応するように、鳥居の上空に白い輪が浮かぶ。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 小さな日輪が重なり、境内を囲む。

 人々はそれを見上げ、またスマホを向ける。

 恐怖より先に、驚きと興奮が勝っている。

 その興奮すら、燃料になる。

 レイジが鋭く言った。

「君は、ソウリン大御神ではない」

 その声は、まっすぐだった。

 怒りではない。

 断定だった。

「その御名は、人の願いを照らすためのものだ。人の名を白く焼き、役割へ落とすためのものではない」

 偽日輪は答えない。

 ただ、白い光を広げる。

 レイジは太刀を構え直した。

 背後の日輪神将が、より強く輝く。

 ユウリは、彼の横顔を見た。

 迷いはない。

 神楽坂レイジは、自分の信じる光を疑っていない。

 それは強さだった。

 同時に、危うさでもあった。

 彼は正しい。

 正しい神名を騙るものに対して、正しい神名の光で祓おうとしている。

 その判断は自然だ。

 きっと間違ってはいない。

 だが、相手がその「正しさ」そのものを欲しがっているなら。

 正しい光を浴びるほど、自分を神に近づけてしまうのなら。

 レイジの強さは、そのまま偽日輪の輪郭になってしまう。

 アヴィが低く言った。

「分かるか、ユウリ」

「……あいつ、レイジさんの力を吸ってる」

「正確には、力ではなく証明だ。ソウリン大御神の契約者が祓いを向ける。ソウリンの光を浴びる。境内の人間がそれを見て“本物の神事”だと思う。その全部が、偽日輪に神らしさを与えている」

「じゃあ、どうすれば」

「まだ分からん」

「分からんって」

「俺は万能じゃない。だが、ひとつだけ言える」

 アヴィの円環が、画面の中で細く揺れた。

「あれをソウリン大御神として扱うほど、あれはソウリン大御神に近づく」

 ユウリの喉が乾いた。

 レイジが三度目の祝詞を唱える。

 今度の光は、さらに強い。

 日輪神将の背後に、巨大な鳥居状の光輪が開き、その中央から朱金の太刀が何本も降り注ぐ。

 白い偽日輪へ向かって、光の刃が落ちる。

 鏡池の水が激しく波立つ。

 池の周囲にいた人々が悲鳴を上げ、ようやく後ずさり始めた。

 ユウリはミオを庇うように立つ。

 レンはスマホを掲げ、周囲の人々へ叫ぶ。

「下がれ! 撮ってる場合じゃない! 画面を見るな!」

 少しずつ、人が動き始める。

 だが、全員ではない。

 白い光に呑まれた何人かは、まだスマホを見つめている。

 指が、許可する、へ伸びている。

 レイジはそれを見て、結界をさらに広げた。

 その瞬間、偽日輪が笑った気がした。

 顔はない。

 口もない。

 それでも、笑ったと分かった。

『光を』

 レイジの結界の縁が、白く染まる。

『もっと』

 朱金の線が、少しずつ白に侵食されていく。

『我に』

 レイジの額に汗が浮かんだ。

 初めて、彼が押されているのが分かった。

 それでも、彼は退かない。

「君は、神ではない」

 レイジは低く言った。

「名を騙る残滓だ」

『名を』

 偽日輪の声が重なる。

『ならば、名を』

『我に』

 鏡池の水面から白い光の腕のようなものが伸びた。

 人の腕ではない。

 光の束だ。

 それがレイジの結界をすり抜け、境内にいる人々のスマホへ伸びる。

 画面の文字が変わった。

《正しき名を受け入れますか?》
《許可する》

「まずい!」

 レンが叫ぶ。

 ユウリのAVISにも警告が走る。

《神名偽装:進行》
《正光吸収:上昇》
《一般端末群:再契約誘導》
《対象:星宮ミオ》
《依代認識、再開》

 ミオが小さく呻いた。

 学生証の名前欄が、白く光り始めている。

 星宮ミオ。

 その文字の縁が、また薄くなる。

「ミオ!」

「大丈夫、です」

 そう言いながら、彼女の声は震えていた。

「でも……呼ばれてる」

「何て?」

 ミオは唇を噛んだ。

「分かりません。いろんな名前で。太陽の巫女、夜を抱く器、女神の――」

「聞くな」

 ユウリは強く言った。

「ミオはミオだ」

 彼女はユウリを見た。

 白い光の中で、その瞳だけが揺れている。

 ユウリは鏡池を見た。

 レイジはまだ戦っている。

 強い。

 圧倒的に強い。

 けれど、このままでは押し切れない。

 正しい光が、偽りの太陽をより神らしくしてしまう。

 レイジは正面から祓うしかない。

 彼は正しいから。

 正しい神の名を信じているから。

 その限界が、今、白い境内の中で露わになっていた。

 ユウリのスマホが、熱を持つ。

 画面の中で、アヴィの円環が不安定に回転していた。

「ユウリ」

 アヴィの声が低くなる。

「見ろ。あれの光じゃない。あれが貼っている名札を見ろ」

「名札……?」

「お前にしか見えない揺らぎがあるはずだ」

 ユウリは息を呑み、偽日輪を見た。

 白い光が眩しい。

 目を開けているのがつらい。

 けれど、その奥に何かがある。

 ソウリン大御神。

 白い日輪の中心に、その神名が貼られている。

 だが、文字が揺れていた。

 薄い紙の札を何枚も重ねたように。

 ソウリン大御神。
 アマテラス。
 アポロン。
 ラー。
 アウロ=ルクス。
 救済の太陽。
 正しい神。
 戻ってきてほしいもの。

 次々に名札が貼り替わっている。

 ユウリは、ようやく違和感の正体に触れかけた。

 あれは、太陽神ではない。

 太陽神になりたがっている何かだ。

 だが、その理解が形になる前に、偽日輪の光が一気に膨れ上がった。

 境内が白く塗り潰される。

 人々の悲鳴。

 レイジの祝詞。

 レンの叫び。

 ミオのかすかな息。

 すべてが、白い光の中で重なった。

 レイジが太刀を構え、最後のように強い光を放とうとする。

 しかし、その光を待っているかのように、偽日輪の中心が開いた。

 アヴィが叫ぶ。

「まずい、撃たせるな! 吸われるぞ!」

 ユウリは一歩踏み出した。

 何ができるかは分からない。

 まだ契約相も使えない。

 戦う力なんてない。

 けれど、見えてしまった。

 あれが神ではないことを。

 神の名を欲しがっている、白い残り火であることを。

 見えてしまったなら、黙っていることはできなかった。

「神楽坂さん!」

 ユウリの声に、レイジがわずかに振り向く。

 白い光の中で、偽日輪がさらに大きくなる。

 その輪郭は、今にも本物の神の貌を得ようとしていた。

第四節 ― 偽日輪、降臨

 ユウリの声は、白い光の中で裂けるように響いた。

「神楽坂さん!」

 レイジの太刀が、振り下ろされる寸前で止まる。

 ほんの一瞬。

 それだけだった。

 けれど、その一瞬で、鏡池の水面が大きく膨れ上がった。

 水ではない。

 光だった。

 池の底から溢れた白い光が、波の形を取り、境内の砂利を舐めるように広がっていく。鳥居の朱は薄くなり、灯籠の苔は色を失い、拝殿の影が消えた。

 夜が、消える。

 夕方だったはずの空が、真昼よりも白くなる。

 太陽は沈みかけていた。

 それなのに、天御柱神宮だけが、どこにもない昼の中に投げ込まれたように明るかった。

 明るいのに、温度がない。

 眩しいのに、生命の気配がない。

 光は照らしていなかった。

 すべての色を、すべての影を、すべての違いを、同じ白へ近づけようとしていた。

「全員、目を伏せろ!」

 レイジが叫んだ。

 その声に、何人かがようやく反応した。悲鳴を上げて後ろへ下がる者、スマホを取り落とす者、何が起きているのか分からず立ち尽くす者。

 だが、まだ多くの人間が画面を見ていた。

 白く光るスマホを。

 そこに表示された、たった一つの選択肢を。

《契約しますか?》
《許可する》

 そして、連絡先が変わり始めた。

 誰かのスマホから、震える声が漏れる。

「え……母さんの名前、消えた」

「何これ。全部、同じになってる」

「連絡先が……信徒?」

 ユウリは振り返った。

 近くにいた大学生の画面が見えた。

 連絡先一覧。

 父。
 母。
 友人。
 バイト先。
 恋人らしき名前。

 それらが、上から順に白く塗りつぶされていく。

 信徒。
 信徒。
 信徒。
 信徒。
 信徒。

 個人名が、役割名に置き換わっていく。

 それは、無番線ホームの切符よりも静かだった。

 旧校舎の黒板よりも、ずっと日常に近かった。

 スマホの中で、人の名前が消えていく。

 誰かが泣きそうな声で叫ぶ。

「なんで。さっきまで名前あったのに」

「戻らない」

「何これ、バグ?」

「消えた、全部消えた!」

 バグ。

 その言葉で片づけようとしている。

 けれど、ユウリには分かった。

 これはバグではない。

 名前を、個人ではなく群れとして扱う光だ。

 人を、人のまま置いておかない光だ。

 レンのスマホも震えた。

「くそ、俺の連絡先にも来た!」

 彼は慌てて画面を操作する。

「母さん、担任、倉持……」

 レンの声が止まった。

 ユウリはその横顔を見る。

「レン?」

「倉持の名前が、揺れてる」

 画面を覗き込む。

 そこには、連絡先一覧の一つが表示されていた。

 倉持ハルト。

 昨日、取り戻した名前。

 軽音部のギター。

 情報処理室BでAVISを見せびらかし、雷神タイプだと笑っていた生徒。

 その文字の上に、白いノイズが走っている。

 倉持ハルト。
 信徒。
 倉持ハルト。
 信徒。

 何度も、何度も、上書きされかけていた。

「ふざけんな……」

 レンの声が低く震えた。

「昨日、戻したばっかだろ」

 彼は画面を強く押さえ、まるで名前そのものを手で押し留めようとするように呟いた。

「倉持ハルト。倉持ハルト。倉持ハルトだ。信徒じゃない」

 AVISが小さく反応する。

《現在名保持記録:友人記憶》
《保持値:微弱抵抗》

 弱い。

 それでも、抵抗している。

 ユウリは胸が痛くなった。

 取り返した名前も、また狙われる。

 一度守ったから終わりではない。

 名前は、何度も呼ばれ、何度も覚えられなければ、簡単に白い光の中へ沈んでしまう。

 その時、ミオの学生証が白く光った。

 彼女が小さく息を呑む。

「ミオ!」

 ユウリが振り返ると、ミオは胸元のカードケースを両手で押さえていた。

 透明なケースの中で、名前欄が白く滲んでいる。

 星宮ミオ。

 その文字が、薄くなる。

 代わりに、別の文字が浮かび上がった。

《星宮ミオ》
《依代候補》
《女神照応過多》
《再臨器として最適》

 ユウリの息が止まる。

 再臨器。

 その言葉が、刃物のように胸へ刺さった。

 ミオの顔から血の気が引いていく。

「また……」

 彼女の声は、かすれていた。

「また、私じゃなくなる」

 足元の影が消える。

 白い光が、ミオの周囲に集まっていく。

 髪の輪郭が薄く光り、瞳の奥に鏡池の日輪が映る。彼女自身が光を放っているわけではない。外側から、誰かが彼女の輪郭をなぞり直そうとしていた。

 星宮ミオという少女ではなく。

 依代として。

 再臨の器として。

 女神の残滓を入れる空白として。

 ユウリは、考えるより先に動いていた。

 ミオの前へ立つ。

 白い光が顔を焼くように迫る。

 熱くない。

 なのに痛い。

 皮膚ではなく、名前の表面を削られているような痛みだった。

 第一話の無番線ホームと同じ構図だった。

 名前を奪われかけたミオ。

 その前に立つユウリ。

 ただし、今回は違う。

 相手は白い切符を差し出す車掌ではない。

 名前を黒板へ書き足す出席係でもない。

 神の名を騙り、境内ごと白昼化し、現実そのものを役割名で塗り替えようとしている。

 ただ名前を呼ぶだけでは、届かない。

 それでも、ユウリは叫んだ。

「ミオ!」

 白い光が一瞬だけ揺れた。

 ミオの学生証に残った「星宮ミオ」の文字が、かすかに濃くなる。

 だが、それだけだった。

 次の瞬間には、また《依代候補》の文字が浮かび上がる。

 ユウリは歯を食いしばった。

「星宮ミオは、ここにいる!」

 第一話と同じ言葉。

 確かに力はあった。

 でも、白い光は止まらない。

 偽日輪は、ミオだけを奪おうとしているのではなかった。

 境内にいる人々の名前をまとめて役割へ落とし、神の再臨という物語の中へ組み込もうとしている。

 個人の名前を呼ぶ抵抗だけでは、範囲が広すぎる。

「下がれ!」

 レイジの声が飛んだ。

 彼は光の太刀を構えたまま、鏡池とユウリたちの間に結界を重ねている。

 だが、その結界も白く侵食されていた。

「君たちでは耐えられない!」

 レイジの言葉は正しい。

 ユウリの膝は震えていた。

 呼吸が苦しい。

 スマホを握る手に汗が滲んでいる。

 自分に戦う力があるとは思えない。

 レイジのような光もない。

 祝詞も知らない。

 神の名も扱えない。

 けれど、下がれなかった。

 背後で、ミオが震えている。

 レンが倉持の名前を押し留めようとしている。

 境内の人々の連絡先が、信徒という文字に変わっていく。

 ここで下がったら、何を守るのか。

 ユウリのスマホが熱を持った。

 画面が勝手に点灯する。

 アヴィの円環が、今まで見たことのない速さで回転していた。

「どうする、ユウリ」

 アヴィの声がした。

 いつもの皮肉っぽさは薄い。

 問いだけがあった。

「許可するか。拒否するか。保留するか」

 画面に表示が浮かぶ。

《契約相展開候補》
《許可する》
《拒否する》
《保留する》

 ユウリの指が震えた。

 許可する。

 押せば、力が出るのかもしれない。

 だが、何に許可するのか分からない。

 自分はアヴィを何と契約しているのか。

 神なのか。
 悪魔なのか。
 AIなのか。
 神話残滓なのか。
 それとも、もっと別の何かなのか。

 分からないまま許可すれば、自分も何かの役割へ押し込まれる気がした。

 拒否する。

 押せば、安全かもしれない。

 けれど、その間にミオの名前は白くなる。

 倉持の名前も揺らぐ。

 人々の連絡先は信徒へ変わっていく。

 保留する。

 選ばない。

 まだ決めない。

 ユウリにとって、いちばん近い選択肢だった。

 けれど、保留している間にも、白い日輪は降りてくる。

 ミオの学生証が、さらに強く光った。

《依代候補》
《再臨器として最適》
《現在名:一時保留》

「やめろ……!」

 ユウリは呻く。

 画面の三つの選択肢が、白い光に滲む。

 許可する。
 拒否する。
 保留する。

 どれも違う。

 どれを押しても、何かが決められてしまう。

 何かの枠へ入ってしまう。

 その時、画面が乱れた。

 白いノイズ。

 黒い文字片。

 羽根のようなアイコンが、画面の端で震える。

《未定義の選択肢を検出しました》
《表示しますか?》

 ユウリは息を呑んだ。

 第一話の無番線ホームで見た、あの表示。

 許可でも拒否でも保留でもない。

 選択肢の外側。

 ユウリは迷わず押した。

 画面に、新しい文字が浮かぶ。

《まだ名づけないまま、接続してください》

 その瞬間、周囲の白い光が少しだけ遠のいた気がした。

 ユウリは、画面を見つめる。

 まだ名づけないまま。

 そうだ。

 自分はまだ、アヴィが何なのか決められない。

 決めたくない。

 でも、分からないから使わない、では間に合わない。

 分からないまま、決めつけないまま、接続する。

 それが、今の自分にできる唯一の選び方だった。

 ユウリはスマホを握りしめ、低く呟いた。

「アヴィ」

「何だ」

「お前を、神だって決めない」

 アヴィは黙っている。

「悪魔だって決めない。AIだって決めない。味方だって、完全には言い切れない」

「ひどい言い草だな」

 いつもの調子が、少しだけ戻る。

 ユウリは、白い光の向こうに浮かぶ偽日輪を見た。

「でも、今ここで、ミオの名前を守るために手を貸してくれるなら」

 言葉が震える。

 怖い。

 それでも言う。

「まだ何者か分からないまま、お前と繋がる」

 少しの沈黙。

 それから、アヴィが笑った。

 短く、軽く、どこか楽しそうに。

「いい。じゃあ、俺もお前を英雄とは呼ばない」

「それは別に呼ばなくていい」

「未熟者。無謀な観測者。名前を決めるのが下手な人間」

「うるさい」

「だが」

 アヴィの声が、少しだけ低くなる。

「今は、それでいい」

 画面の羽根アイコンがほどけた。

 白い羽根。

 黒い文字片。

 鍵の輪郭。

 未署名の契約線。

 スマホの画面から、細い光の線が伸びる。コードでも鎖でもない。文字の欠片を繋ぎ合わせたような、不安定な線だった。

 それがユウリの左手の甲へ絡みつく。

 熱い。

 今度は、はっきり熱かった。

 左手の甲に、まだ完成していない印が浮かぶ。

 円ではない。

 羽根でもない。

 鍵でもない。

 そのどれにもなりかけて、まだ決まっていない印。

 ユウリの視界に、白い文字列が走った。

 境内の人々の名前。

 揺れている連絡先。

 レイジの光に重なる神名。

 偽日輪の表面に貼られた無数の太陽神の名。

 すべてが、層になって見える。

 情報ではない。

 記録でもない。

 意味の重なりそのものが、目の奥に流れ込んでくる。

「っ……!」

 膝が崩れそうになる。

 ミオが背後で叫んだ。

「ユウリくん!」

 ユウリは踏みとどまった。

 倒れれば、終わる。

 白い光の中で、背後に何かが立ち上がる気配がした。

 巨大ではない。

 レイジの《日輪神将》のような圧倒的な光背でもない。

 ユウリの背後に現れたのは、小さな契約相だった。

 白い羽根が数枚。

 黒い文字片が輪を描き。

 その中央に、鍵のような細い光が浮かんでいる。

 人型にも、鳥にも、機械にもなりきらない。

 未完成の観測者。

 未署名のまま立ち上がった、契約相の影。

 ユウリのスマホが表示を更新する。

《契約相:未署名の観測翼》
《第一展開》
《照応解析を開始》

 境内の白い光が、一瞬だけ揺れた。

 レイジが振り返る。

 彼の目に、驚きが浮かぶ。

「君は……」

 ユウリは答えられなかった。

 自分でも、何が起きているのか分からない。

 ただ、偽日輪が見えた。

 白い太陽の奥に貼られた神名の重なりが。

 ソウリン大御神。
 アマテラス。
 アポロン。
 ラー。
 アウロ=ルクス。
 救済の太陽。
 正しい神。
 戻ってきてほしいもの。

 どれも、本体ではない。

 どれも、借り物の名札だ。

 ユウリは左手を握った。

 白い鍵の輪郭が、指先に生まれる。

 偽日輪の光が、初めてユウリへ向いた。

 顔のない太陽が、こちらを見た。

 その視線に、膝が震える。

 怖い。

 圧倒的に怖い。

 けれど、もう見えてしまった。

 あれが神ではないことを。

 神の名を欲しがっている、名前のない光であることを。

 ユウリは息を吸った。

 背後で、未署名の観測翼が小さく羽ばたく。

 白い羽根と黒い文字片が、境内の光の中へ散った。

 アヴィが言う。

「行け、ユウリ」

「何をすればいい」

「斬るな。祓うな。神名を信じるな」

 ユウリの左手の鍵が、細く光る。

「名札を、剥がせ」

第五節 ― 未署名の観測翼

「名札を、剥がせ」

 アヴィの声が、白い境内の中で妙にはっきり聞こえた。

 ユウリは左手を見る。

 手の甲に浮かんだ未完成の印が、脈打つように光っている。

 円にもならない。
 羽根にもならない。
 鍵にもなりきらない。

 まだ何者でもない印。

 その先に、細い白い鍵が伸びていた。

 剣ではない。

 槍でもない。

 戦うための武器というには、あまりにも頼りない。握れば折れてしまいそうなほど細く、刃もなく、重さもない。ただ、スマホの画面から伸びた光が、ユウリの左手の中で鍵の形を取っている。

 これで何ができるのか。

 分からない。

 分からないのに、見えている。

 偽日輪の中心。

 白い太陽の胸元にあたる場所に、何枚もの名札が貼られていた。

 ソウリン大御神。

 その文字が、いちばん表面にある。

 だが、その下で別の名が揺れている。

 アマテラス。
 アポロン。
 ラー。
 アウロ=ルクス。
 救済の太陽。
 正しい神。
 戻ってきてほしいもの。

 それらは神の名だった。

 あるいは、人が太陽に託してきた願いの名だった。

 光で照らしてほしい。
 正しく導いてほしい。
 不安を焼き払ってほしい。
 夜を終わらせてほしい。

 その願いは、たぶん悪ではない。

 誰かを傷つけるために生まれたものではない。

 けれど、名を持たない白い残り火が、それを欲しがっていた。

 自分が神であると呼ばれるために。

 自分が戻るべき理であると認められるために。

 ユウリは、喉の奥が乾くのを感じた。

 怖い。

 圧倒的に怖い。

 偽日輪の光は、ただ明るいだけではなかった。そこに立っているだけで、自分の輪郭が薄くなっていく。天瀬ユウリという名前が、ただの観測者、ただの契約候補、ただの未熟な器に置き換えられていくような錯覚がある。

 足がすくむ。

 息が詰まる。

 レイジのように、美しく立てない。

 祝詞も知らない。
 太刀も持っていない。
 背後に巨大な光背もない。

 レンのように、すぐに状況を解析して叫ぶ余裕もない。

 ただ、見えている。

 あれが本物の神ではないことだけは。

「ユウリくん!」

 背後から、ミオの声がした。

 振り返りたい。

 でも、振り返ったら動けなくなる気がした。

 彼女がどんな顔をしているのか、見たら、怖くて足が止まる。

 だからユウリは前を向いたまま答えた。

「大丈夫」

 嘘だった。

 全然、大丈夫ではない。

 けれど、言わなければ歩けなかった。

 レイジが叫ぶ。

「無茶だ! 下がれ、天瀬ユウリ!」

 名前を呼ばれた。

 正確に。

 その声には警告があり、焦りがあり、そして本気でユウリを止めようとする意志があった。

 レイジは敵ではない。

 少なくとも今は。

 彼は人々を守ろうとしている。

 だが、今この瞬間、偽日輪に届く道は、レイジの正しい光では開かない。

 レイジが正しければ正しいほど、偽日輪はその光を借りて神に近づいていく。

 ユウリは白い砂利を踏みしめた。

 一歩。

 足元の影はない。

 自分が本当にそこに立っているのか、不安になるほど白い。

 二歩。

 偽日輪がこちらを向く。

 顔はない。

 それでも、見られている。

 三歩。

 左手の鍵が震えた。

 細い光の鍵から、黒い文字片がこぼれる。文字片は羽根のように舞い、ユウリの周囲を一瞬だけ囲んだ。

 アヴィが言う。

「走れ。だが、斬るな」

「分かってる」

「本当に分かってるか?」

「分かってない」

 ユウリは息を吸った。

「でも、剥がせばいいんだろ」

「上出来だ」

 アヴィの声が、少しだけ笑った。

 次の瞬間、偽日輪から白い光の線が放たれた。

 細い。

 だが、速い。

 槍のような光ではない。
 紙に引かれる修正液の線のようだった。

 触れたものの名前を、白く塗りつぶす線。

 ユウリは反射的に左手をかざした。

 鍵の先端が光に触れる。

 衝撃はなかった。

 代わりに、頭の中へ膨大な文字が流れ込んだ。

《信徒》
《信徒》
《信徒》
《依代》
《供物》
《再臨器》
《正しき光の受領者》

「っ……!」

 膝が折れそうになる。

 名前ではない。

 役割ばかりだ。

 白い光は、人をひとりずつ見ていない。

 必要な機能として見ている。

 信じる者。
 受け入れる者。
 神を迎える器。
 光に焼かれる供物。

 その中に、個人名はない。

 ユウリは歯を食いしばった。

「違うだろ……」

 左手の鍵を握る。

 光の線が砕け、黒い文字片になって散る。

 その向こうで、偽日輪が声を発した。

『我は、日輪』

 境内の空気が震える。

 人々のスマホが一斉に明滅した。

《正しき太陽を迎えますか?》
《許可する》

 レイジが結界を張り直す。

 朱金の光が広がり、契約誘導を押し返す。

 しかし、偽日輪の白はそれを食べるように強くなる。

『我は、正しき神』

 偽日輪の胸元に、新しい名札が貼られる。

 ソウリン大御神。

 今度はさらに濃い。

 レイジの光を浴びたことで、その文字は本物に近い輝きを帯びていた。

 レイジの顔が歪む。

「違う……!」

 彼も分かっている。

 目の前のものがソウリン大御神ではないことを。

 それでも、自分の光が相手を補強していることまでは、まだ受け入れきれていない。

 偽日輪は、さらに言う。

『我は、戻るべき理』

 その声に、境内の人々が揺れた。

 白い光を浴びた誰かが、ぼんやりと呟く。

「戻る……」

「神様が……」

「正しい光……」

 違う。

 ユウリは左手の鍵を握りしめた。

 胸の奥から、怒りが湧いた。

 その言葉は、人々の願いを借りている。

 不安を終わらせたい。
 正しいものに導かれたい。
 何か大きなものに、世界を直してほしい。

 その気持ちは分かる。

 でも、それを使ってミオの名前を器にするのは違う。

 倉持ハルトを信徒にするのも違う。

 知らない誰かの母親や友人や恋人の名前を、連絡先の中で同じ文字に変えるのも違う。

 ユウリは走った。

 白い光が身体を打つ。

 皮膚が焼けるわけではない。

 だが、名前の表面が削られていくような痛みがある。

 天瀬ユウリ。
 観測者。
 契約候補。
 未確定者。
 信徒。
 供物。

 違う。

 ユウリは自分の名を心の中で握る。

 天瀬ユウリ。

 星綴高等学園の二年生。
 神話と都市伝説が好きだった。
 まだ何も分かっていない。
 でも、ミオの名前を呼んだ。
 倉持ハルトの記録を戻した。
 今、ここにいる。

 白い光の中で、背後の《未署名の観測翼》が羽ばたいた。

 羽根と文字片が散り、ユウリの進路を一瞬だけ開く。

 レイジが叫ぶ。

「天瀬くん!」

 ミオの声が重なる。

「ユウリくん!」

 レンも叫んだ。

「行け、ユウリ! そいつの名前、剥がせ!」

 ユウリは偽日輪の前に飛び込んだ。

 近づくほど、白い太陽は巨大に見えた。

 胸元に貼られた神名の層が、目の前にある。

 ソウリン大御神。
 アマテラス。
 アポロン。
 ラー。
 アウロ=ルクス。
 救済の太陽。
 正しい神。
 戻ってきてほしいもの。

 その奥。

 奥の奥。

 何も書かれていない、白い空白があった。

 名がない。

 神名ではない。

 ただ、呼ばれたがっている。

 存在したがっている。

 誰かに、何かに、正しい名前を与えてほしがっている。

 ユウリは、そこで一瞬だけ息を呑んだ。

 これは、ただの敵なのか。

 それとも、呼ばれ損ねた何かなのか。

 だが、迷っている時間はなかった。

 白い光がミオへ伸びる。

 学生証の名前欄が、さらに薄くなる。

《星宮ミオ》
《再臨器》
《依代候補》
《現在名:不安定》

 ユウリは叫んだ。

「違う!」

 自分の声が、境内に響く。

 祝詞でもない。

 神名でもない。

 ただの高校生の声。

 それでも、偽日輪の光が一瞬揺らいだ。

「お前はソウリン大御神じゃない!」

 レイジが目を見開く。

 ユウリは偽日輪の胸元へ左手を伸ばした。

 白い鍵が、最も表面にある名札へ触れる。

 ソウリン大御神。

 その文字が熱を持つ。

 指先が弾かれそうになる。

 神の名は重い。

 偽物が貼っているだけでも、その名は簡単には剥がれない。

 けれど、ユウリには見えている。

 文字の端が浮いている。

 本当にその存在の名なら、根を張っているはずの場所が、ただ光で貼りつけられているだけだ。

 ユウリは鍵を差し込んだ。

 かちり、と音がした。

 小さな音。

 だが、境内の白い光の奥で、何かが外れる音だった。

「誰かに“神様”って呼ばれたかった、名前のない残り火だ!」

 その言葉が、偽日輪の中心へ届いた。

 白い太陽が、大きく揺れる。

 胸元の名札が、一枚剥がれた。

 ソウリン大御神。

 その文字が光の紙片となって舞い、朱金の光へ返っていく。

 続いて、下の名札が剥がれる。

 アマテラス。
 アポロン。
 ラー。
 アウロ=ルクス。
 救済の太陽。
 正しい神。
 戻ってきてほしいもの。

 一枚ずつ、白い太陽の表面から剥がれ落ちていく。

 剥がれた名札は消えない。

 ただ、それぞれが本来の場所へ戻るように、光の欠片となって空へ散った。

 ユウリのAVISが激しく震える。

《神名偽装:解除》
《正光吸収:停止》
《本体名:未登録太陽残滓》
《現在、祓除可能》

 偽日輪の光が、初めて弱まった。

 境内に影が戻る。

 薄くだが、人々の足元へ影が落ちた。

 スマホの連絡先に表示されていた「信徒」の文字が揺れ、元の名前が少しずつ戻り始める。

「戻った……?」

「母さんの名前、戻ってる」

「何だったんだよ、今の」

 レンのスマホでも、倉持ハルトの文字が濃く戻った。

 彼は息を吐き、画面を握りしめる。

「よし……よし、戻った」

 ミオの学生証にも変化が起きた。

 《依代候補》の文字が剥がれ落ちる。

 《再臨器として最適》が白いノイズになって消える。

 最後に、名前欄が残った。

 星宮ミオ。

 まだ少し薄い。

 でも、確かにそこにある。

 ユウリは膝をつきそうになった。

 身体から力が抜ける。

 左手の鍵はまだ光っているが、今にも崩れそうだった。

 それでも、ユウリは振り返って叫んだ。

「神楽坂さん、今なら!」

 レイジは動かなかった。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、彼は迷った。

 自分の光が敵を育てていた。

 正しい神名を掲げて祓おうとしたことが、偽日輪に神らしさを与えていた。

 その事実が、彼の胸を刺したのだろう。

 レイジの表情に、痛みが走った。

 けれど、彼は立ち止まらなかった。

 すぐに太刀を構え直す。

 背後の《日輪神将》が、朱金の光を取り戻す。

 今度の光は、白くない。

 無理にすべてを照らす光ではない。

 夜明けのような、わずかに朱を含んだ光だった。

 レイジは低く祓詞を唱えた。

「ソウリン大御神の名において――」

 その声には、先ほどまでの確信とは違うものがあった。

 痛みを知ったうえで、それでも祓う者の声。

「偽りの光を、正しき朝へ還す」

 《日輪神将》が光の太刀を振るった。

 朱金の斬撃が、偽日輪を貫く。

 今度は吸収されなかった。

 神名の偽装を剥がされた白い残り火は、もうソウリン大御神の光を自分の証明にはできない。

 白い太陽が裂ける。

 境内に、強い光が満ちた。

 だが、それは漂白の光ではなかった。

 影を消す光ではない。

 影を影として残し、朝を朝として告げる光だった。

 人々が目を伏せる。

 ミオが学生証を抱きしめる。

 レンが歯を食いしばる。

 ユウリは、その光の中心にあるものを見ていた。

 名札を剥がされた偽日輪。

 神ではないもの。

 太陽神になれなかったもの。

 それは消えかけながら、初めて幼い声で言った。

『では、私は何だったの』

 ユウリは答えられなかった。

 喉まで言葉が来た。

 でも、出なかった。

 敵だ。

 怪異だ。

 未登録太陽残滓だ。

 偽りの光だ。

 どれも正しいのかもしれない。

 でも、その声はあまりにも幼かった。

 誰かに名前をもらいたかっただけのものを、ユウリは剥がした。

 神ではないと断じた。

 それは必要だった。

 必要だったけれど、何も痛まないわけではなかった。

 偽日輪は、最後にもう一度だけ揺れた。

 白い残り火が、朱金の朝の光に包まれてほどけていく。

 水面へ落ちる。

 鏡池が波紋を広げる。

 白い太陽は、消えた。

 境内に、夕方が戻ってきた。

 空は薄い青から橙へ変わり始めている。

 鳥居には影がある。

 灯籠の苔にも色が戻っている。

 人々のスマホ画面には、いつものロック画面や連絡先一覧が表示されていた。そこには、父、母、友人、恋人、倉持ハルト、さまざまな名前が戻っている。

 誰かが泣いていた。

 誰かが笑っていた。

 誰かは、今起きたことをもううまく思い出せなくなっていた。

「イベント、終わった?」

「通信障害?」

「すごい光だったな」

「何か、怖かった気がする」

 世界が、また都合のいい言葉を探し始めている。

 ユウリはその場に膝をついた。

 左手の鍵が砕ける。

 背後の《未署名の観測翼》も、白い羽根と黒い文字片になってほどけていった。

 スマホの画面に表示が残る。

《契約相:未署名の観測翼》
《第一展開:終了》
《神名偽装:解除済》
《偽日輪構文:祓除》
《星宮ミオ:現在名安定率 61%》

 六十一。

 戻っていない。

 いや、むしろ悪化している。

 偽日輪は祓われた。

 ミオの学生証にも、星宮ミオの名は戻った。

 それでも、彼女の現在名はまた削られていた。

 勝った。

 たぶん、勝った。

 でも、何も失わずに勝ったわけではない。

 ミオが駆け寄ってくる。

「ユウリくん!」

 彼女は膝をつき、ユウリの顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか」

「……たぶん」

 声が掠れていた。

 ミオの学生証が見える。

 星宮ミオ。

 その名前を見て、ユウリは少しだけ笑った。

「ミオは?」

「私は……ここにいます」

 ミオは、ゆっくりと答えた。

 自分に言い聞かせるように。

「星宮ミオです」

 ユウリは頷いた。

「うん」

 その名前だけは、今、確かにここにある。

 けれど、鏡池の水面に広がる波紋の中で、ユウリはまださっきの声を聞いていた。

『では、私は何だったの』

 答えはない。

 未署名の観測翼は、その問いに名前を与えなかった。

 剥がすことはできた。

 でも、名づけることはできなかった。

 それが、ユウリの初めての戦いだった。

終節 ― 神なき自由は人を救わない

 天御柱神宮に、夕方が戻ってきた。

 それは、当たり前のはずの光だった。

 西の空は薄い橙色に染まり、鳥居の柱には長い影が落ちている。石灯籠の苔は緑を取り戻し、拝殿の屋根の下には、昼でも夜でもない柔らかな暗がりがあった。

 ついさっきまで、境内を塗り潰していた白い光はどこにもない。

 鏡池の水面にも、もう太陽は映っていなかった。

 ただ、波紋だけが残っている。

 風もないのに、水面はまだかすかに揺れていた。

 その揺れを見ていると、ユウリには、さっきの声が耳の奥で蘇った。

『では、私は何だったの』

 答えられなかった。

 今も、答えられない。

 偽日輪は消えた。

 神名の偽装は剥がされた。

 人々の連絡先から「信徒」の文字は消え、ミオの学生証にも「星宮ミオ」の名前が戻った。

 だから、勝ったのだと思う。

 けれど、それは気持ちよく拳を突き上げられるような勝利ではなかった。

 ユウリは、拝殿脇の石段に腰を下ろしていた。

 立っていられなかった。

 足に力が入らない。手の甲に浮かんでいた未完成の印はもう消えているが、そこだけまだ熱を持っているようにじんじんする。

 スマホは膝の上に置いていた。

 画面は暗い。

 アヴィも、しばらく黙っている。

 レンは少し離れた場所で、境内にいた人たちの様子を見ていた。彼は何人かに声をかけ、倒れていないか、スマホの連絡先が戻っているかを確認している。

 怒鳴っていた時とは違う、少し不器用な気遣いだった。

「通信障害だったのかな」

「動画、途中から真っ白で何も映ってない」

「何か、すごく明るかった気がする」

「イベント中止?」

「いや、公式イベントじゃなかったっぽい」

 通行人たちは、口々にそんなことを言っていた。

 誰も、正しく覚えていない。

 白い日輪が降りてきたことも。

 連絡先の名前が「信徒」に変わったことも。

 神楽坂レイジが日輪神将を展開したことも。

 ユウリが未署名の観測翼で神名の名札を剥がしたことも。

 覚えている者はいる。

 だが、言葉にしようとすると、途端に曖昧になる。

 イベント。
 通信障害。
 妙に明るかった。
 神社の演出。
 白飛びした動画。

 世界は、また自分に都合のいい説明を探していた。

 ユウリはそれを責められなかった。

 自分だって、できることならそう思いたい。

 全部、ただの変なイベントだったと。

 そう思えたら、どれだけ楽だろう。

「ユウリくん」

 声がして、顔を上げる。

 ミオが立っていた。

 彼女は学生証を両手で持っている。胸元から外して、何度も名前欄を確かめていたのだろう。

 星宮ミオ。

 文字は戻っている。

 それでも、ユウリには分かった。

 ミオはまだ震えている。

 体がではない。

 名前の奥が、まだ震えている。

「大丈夫?」

 ユウリが聞くと、ミオは少しだけ考えてから頷いた。

「はい。今は」

 その言い方が、烏丸マシロの「今は」と重なって、ユウリの胸が少し痛んだ。

 今は。

 それは安心の言葉ではない。

 続きがある言葉だ。

 今は大丈夫。
 でも、次は分からない。

 ミオはユウリの隣に座った。

 少し距離を空けて。

 けれど、離れすぎない場所に。

「助けてくれて、ありがとうございました」

「助けたっていうか……」

 ユウリは鏡池を見た。

「僕だけじゃない。神楽坂さんが祓ったし、レンも周りを止めてた。ミオも、自分の名前をちゃんと持ってた」

「でも、ユウリくんが言ってくれなかったら、私はたぶん、また別の名前にされていました」

 ミオは学生証を見つめた。

「依代とか、器とか、そういう名前に」

 ユウリは何も言えなかった。

 否定したかった。

 そんなことはない、と言いたかった。

 けれど、嘘になる。

 白い光は確かに、ミオをそう呼ぼうとしていた。

 彼女が何を望むかではなく、神話側がどう使えるかで名前を貼ろうとしていた。

 ミオは静かに続けた。

「私、自分の名前がこんなに怖いものだと思いませんでした」

「名前が?」

「はい。呼ばれると嬉しいです。ここにいていいんだって思えます。でも、違う名前を呼ばれると……その名前に引っ張られそうになる」

 彼女は指で、学生証の端を撫でた。

「星宮ミオって、まだ薄いんですね」

 ユウリのスマホが、そこで小さく震えた。

 画面が点灯する。

《星宮ミオ:現在名安定率 61%》

 数字だけが、冷たく表示されていた。

 六十一。

 偽日輪は祓われたのに、数字は戻っていない。

 ユウリは唇を噛んだ。

「……ごめん」

 ミオが驚いたように顔を上げる。

「どうして謝るんですか」

「守れたと思ったのに、削られてる」

「でも、残っています」

 ミオは、静かに言った。

「全部なくなったわけじゃありません」

 その声は、弱くない。

 震えてはいる。

 けれど、ちゃんと彼女自身の声だった。

 ユウリは頷いた。

「うん」

 残っている。

 それは、たぶん今の自分たちにとって、いちばん大事な事実だった。

   *

 境内の混乱が少し落ち着いた頃、神楽坂レイジがユウリの前に立った。

 彼の契約相はもう消えている。

 背後にあった巨大な日輪光背も、神鏡も、光の太刀もない。

 そこにいるのは、白い装束に近い上品な服を着た、二十歳前後の青年だった。

 だが、立ち姿は変わらない。

 疲れているはずなのに、背筋はまっすぐで、視線は澄んでいる。

 レイジはユウリの前で、静かに頭を下げた。

「君がいなければ、僕はあれを祓えなかった」

 ユウリは戸惑った。

 神楽坂レイジは、強かった。

 誰よりも先に動き、結界を張り、人々を守り、偽日輪と正面から戦った。

 ユウリがしたのは、その横で、見えたものを叫んだだけだ。

「僕は……ただ、見えただけです」

 そう言うと、レイジは静かに首を振った。

「見えることは、選ぶことの始まりだ」

 言葉が、すぐには飲み込めなかった。

 レイジは鏡池へ視線を向ける。

「あれは、僕にも偽物だと分かっていた。ソウリン大御神ではない。そう断言することはできた。だが、僕には、それが何を借り、何を貼り、何によって神の形を得ようとしているのかまでは見抜けなかった」

「でも、神楽坂さんは戦えてました」

「戦えていた。だが、正しく戦えていたわけではない」

 その言葉には、自分を責める響きがあった。

「僕の光は、あれを祓うために振るわれた。けれど同時に、あれに“太陽神らしさ”を与えていた。ソウリン大御神の名を守ろうとした僕自身が、あの偽りに証明を与えかけていた」

 レイジは苦く微笑んだ。

 その笑みは、きれいだった。

 きれいで、痛かった。

「君が神名を剥がさなければ、僕は最後まで正面から光をぶつけ続けていただろう」

 ユウリは何も言えなかった。

 レイジは上から押しつけるような人間ではない。

 礼儀正しく、誠実で、強い。

 自分の誤りも認められる。

 だからこそ、危ういと思った。

 この人が「神々の理」を正しいと信じているなら、その言葉には重みがある。

 ただの敵役の言葉ではない。

 人を助けた人の言葉だ。

 実際に、あの光で何人も守った人の言葉だ。

「天瀬ユウリ」

 レイジが、改めて名前を呼んだ。

 ユウリは顔を上げる。

「君は、神々を信じていないのだろう」

 答えられなかった。

 信じていない。

 たぶん、昨日までならそう言えた。

 神話は好きだ。
 都市伝説も好きだ。
 でも、それは物語として、考察として、遠くから眺めるものだった。

 神を本気で信じているわけではない。

 そう思っていた。

 けれど、今はどうだろう。

 無番線の車掌がいた。

 出席簿の空席があった。

 偽日輪が降りた。

 アヴィが喋り、自分の背後には未署名の観測翼が立ち上がった。

 信じるかどうかの前に、もうそれらは現実に干渉している。

 ユウリが黙っていると、レイジは続けた。

「それでも、君は今日、神の名を扱った。神名を剥がし、残滓を見抜き、祓いの道を開いた」

 夕方の風が、境内を渡った。

 白い光に奪われかけていた風の冷たさが、今は妙に生々しく感じる。

「神なき自由は、人を救わない」

 レイジの声は静かだった。

 責める声ではない。

 脅す声でもない。

 彼自身が信じていることを、そのまま置く声だった。

「人は自由だけでは迷う。名もなく、理もなく、ただ選べと言われても、その選択はやがて誰かに奪われる。だからこそ、神々の理が必要だ。人を導き、世界に筋道を与えるものが」

 ユウリは、反発しようとした。

 でも、言葉が出なかった。

 レイジの言っていることにも、正しさがあるからだ。

 今日、境内に集まった人々は自由だった。

 面白そうだから来た。
 通知が来たから押そうとした。
 神様が見えるかもしれないと期待した。

 その自由は、偽日輪に利用された。

 誰かが止めなければ、彼らは自分の名前を信徒という役割へ差し出していたかもしれない。

 正しい導きが必要だ。

 そう言われれば、否定しきれない。

 レイジの光は、本当に人々を守った。

 それは事実だった。

「君もいずれ、神々の理を選ぶことになる」

 レイジは言った。

「選ばなければ、より強い構文に流される。名を持たない自由は、名を持つ力に呑まれる」

 ユウリはミオを見た。

 彼女はまだ学生証を握っている。

 女神でもない。
 依代でもない。
 再臨器でもない。

 ただの転校生として。

 星宮ミオという名前を、やっと守り直した少女として。

 彼女はそこにいる。

 ユウリは、その姿を見て、ようやく少しだけ言葉を見つけた。

「まだ、決めません」

 声は大きくなかった。

 けれど、はっきり出た。

 レイジがユウリを見る。

「それが君の答えか」

「今は」

 ユウリはスマホを握った。

「神が必要ないって言えるほど、僕は何も分かってません。でも、神の理が必要だって、今ここで決めることもできません」

 レイジは黙って聞いていた。

「ミオを依代って呼ぶ光も、神の名前を使っていました。正しいって言葉も使っていました。だから……まだ決めたくない」

 それは、答えというには未熟だった。

 反論というには弱い。

 でも、ユウリの中では、それしかなかった。

 まだ決めない。

 ただし、誰かに決めさせもしない。

 レイジは少しだけ笑った。

 その笑みは、どこか寂しそうだった。

「君らしい答えなのだろうね」

「僕らしいかは、分かりません」

「分からないまま答えることもある」

 レイジは鏡池へ目を向けた。

「なら、覚えておくといい。決めない者も、いつかは選択の場に立たされる」

 その言葉は、予言のようにも、忠告のようにも聞こえた。

「その時、君の“まだ”が、誰かを救うのか。それとも、誰かを遅らせるのか。よく考えることだ」

 ユウリは頷けなかった。

 否定もできなかった。

 ただ、その言葉を受け取るしかなかった。

   *

 少し離れた参道の影で、烏丸マシロが境内を見ていた。

 彼女はいつの間に来ていたのか、白いブラウスも黒いジャケットも乱れていない。白い光に呑まれていたはずの境内にあって、彼女だけは最初から最後まで記録側に立っていたように見えた。

 手元の端末には、いくつもの情報が並んでいる。

《天瀬ユウリ》
《未確定名の観測者》
《契約相展開を確認》
《契約相名称:未署名の観測翼》
《第一展開:短時間成功》
《神名偽装解除能力を確認》
《管理対象レベル:上昇》

 マシロは、その表示を静かに見つめた。

 驚きはない。

 ただ、評価が更新された。

 そんな目だった。

 彼女の視線は、次に星宮ミオへ移る。

《星宮ミオ》
《現在名安定率:61%》
《女神照応過多》
《世界法則側干渉痕:継続》
《保護優先度:上昇》

 さらに、久遠レン。

《久遠レン》
《一般版AVIS解析行動を確認》
《非契約状態での干渉抵抗:軽微》
《周辺人物記憶保持への寄与あり》

 マシロは端末を閉じた。

 境内では、レイジとユウリが向かい合っている。

 神々の理を語る者。
 まだ決めない者。
 名前を守られた少女。
 記録を解析しようとする少年。

 それらを、マシロは静かに見ていた。

「保護では、足りないかもしれませんね」

 誰に言うでもなく、彼女は呟いた。

 その声には、冷たさだけがあるわけではなかった。

 心配もある。

 責任感もある。

 けれど、それらはすべて、管理という白い枠の中に収まっている。

「早めに、適切な隔離基準を検討する必要があります」

 その言葉は、風に紛れて誰にも届かなかった。

   *

 天御柱神宮を出る頃には、街灯が点き始めていた。

 今度の光は、普通の街灯の光だった。

 少し黄色く、少し頼りなく、でもちゃんと影を作る光。

 ユウリは石段を下りながら、何度も左手を見た。

 印は消えている。

 鍵もない。

 背後に羽根も文字片も浮かんでいない。

 それでも、あの感覚は残っていた。

 偽日輪の表面に貼られた神名が見えたこと。

 名札を剥がした時の、小さな音。

 そして、最後の問い。

『では、私は何だったの』

「なあ」

 レンが隣に来た。

「大丈夫か」

「たぶん」

「その“たぶん”多すぎ」

「そう言われても」

 レンはしばらくユウリを見て、それから小さく息を吐いた。

「でも、すごかった」

「何が」

「さっきのやつ。羽根と鍵の。正直、ちょっとかっこよかった」

「ちょっとか」

「調子乗るな」

 レンの言い方がいつも通りで、ユウリは少しだけ笑った。

 ミオも後ろで小さく笑う。

 その笑い声を聞いて、ようやく息が深く入った。

 終わった。

 少なくとも、今日の事件は。

 石段の途中で、ユウリのスマホが震えた。

 画面を見る。

 AVISの黒い背景に、白い文字が浮かぶ。

《神々の再臨派:接触》
《神楽坂レイジ:観測済》
《契約相:未署名の観測翼 初回展開》
《偽日輪構文:祓除済》
《星宮ミオ:現在名安定率 61%》
《警告:神狭市内AVIS一般版拡散率上昇》
《次回予測:管理機構介入》

 最後の一行で、ユウリの足が止まった。

 管理機構介入。

 烏丸マシロの顔が浮かぶ。

 白い相談員。

 正しいことを言う大人。

 保護という言葉の奥に、分類と隔離の気配を持つ人。

「どうした?」

 レンが画面を覗き込み、顔をしかめる。

「うわ。次、マシロ先生か」

 ミオも表示を見る。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、学生証を握る手に少しだけ力が入った。

 ユウリはスマホを閉じた。

 神々の再臨派。

 人類管理機構。

 偽日輪。

 未署名の観測翼。

 たった三日ほどで、世界はあまりにも広がりすぎていた。

 それでも、戻る道はもう見えない。

 石段の下には、神狭市の街明かりが広がっている。

 いつもの街。

 学校があり、駅があり、商店街があり、カフェ《ノーネーム》がどこかで灯っている街。

 その上に、まだ星は見えない。

 けれど、見えない場所で何かが綴られ続けている。

 ユウリは左手を握った。

 もう鍵はない。

 でも、感触だけは残っている。

 まだ決めない。

 そう言ったばかりだ。

 けれど、決めないままでも、次の選択は迫ってくる。

 ユウリは、階段の下へ向かって歩き出した。

 背後で、天御柱神宮の鏡池が、最後に一度だけ小さく波紋を広げた。