Episode 05
第5話 ― 消えた保護対象
本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。
序節 ― 消えた保護対象
翌朝、神狭市は何もなかった顔をしていた。
駅前の大型ビジョンには、いつも通り化粧品の広告が流れている。昨日、一瞬だけ神話構文反応の警告を映した画面は、もう春でもない桜の花びらを散らしていた。
通学路の人々も同じだった。
傘を畳む会社員。
イヤホンをした大学生。
コンビニ袋を片手に走る中学生。
信号待ちでスマホを見ている高校生たち。
誰も、旧北口商店街に白い円環が浮かんだことなど覚えていないように見えた。
けれど、ユウリは知っている。
昨日、あの商店街では人の名前が白く塗られかけた。
雨宮ソウタという生徒が、自分は信徒ではないと泣きながら叫んだ。
マシロは彼を管理番号ではなく名前で呼び、白環補正は一時解除された。
そして、カフェ《ノーネーム》の窓の外で、白い線が黒く裂けた。
切られた。
その感覚だけが、左手の奥にまだ残っている。
神話の光でも、白環の補正でもない。
もっと冷たいもの。
何かと何かのつながりを、途中で終わらせる力。
「天瀬、顔やばいぞ」
昇降口で声をかけられて、ユウリは我に返った。
倉持ハルトだった。
彼は片手に購買のパンを持ち、もう片方の手で自分の顔を指差している。
「寝てない顔してる」
「まあ、ちょっと」
「またAVISか?」
その言い方に、少しだけ本気の怯えが混じっていた。
第2話の一件以来、倉持はAVIS一般版の話題に軽く乗れなくなっている。以前なら「俺、雷神タイプだったんだぜ」と笑っていたはずの彼が、今は画面を開く前に一度ためらう。
それも当然だった。
彼は、自分の名前を失いかけた。
完全には覚えていない。
けれど、体のどこかが覚えている。
「違う……と思う」
ユウリが答えると、倉持は少しだけ眉をひそめた。
「思う、なんだな」
「自信がない」
「そこは嘘でも『大丈夫』って言えよ」
冗談めかして言いながらも、倉持は笑いきれなかった。
その時、廊下の向こうからレンが歩いてきた。鞄を肩に引っかけ、スマホを見ながら早足で近づいてくる。顔色が悪い。
「ユウリ」
レンの声は低かった。
「第二図書準備室。今すぐ」
「何かあった?」
「たぶん、あった」
「たぶん?」
「起きたことの方が消えかけてる」
その一言で、ユウリの眠気は完全に飛んだ。
*
第二図書準備室は、朝の光の中でも少し薄暗かった。
古い棚に並ぶ学校新聞。創立記念誌。旧校舎の図面。誰が集めたのか分からない七不思議特集のスクラップ。放課後の欠席者の記録を調べた時と同じ場所なのに、今は別の意味で不穏に見えた。
ミオはすでに来ていた。
窓際の席に座り、学生証を両手で持っている。
ユウリが入ると、彼女は顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう。……大丈夫?」
「はい。昨日よりは」
そう言ってから、ミオは少しだけ目を伏せた。
「でも、少し静かです」
ユウリは息を止める。
第5話の前夜、トウマはまだミオの神話を切っていない。だからこの時点で「静か」というのは、昨日の白環管理区域の余波だろう。白く補正されかけたことで、ミオの内側の声が一時的に遠のいているのかもしれない。
あるいは、欠落街区の方から、すでに何かが近づいているのか。
ユウリはその考えを振り払った。
レンが机の上にスマホとタブレットを置く。
「昨日の白環相談所のログ、残ってたやつを整理してた」
「外部保存できなかったんじゃなかったのか」
「普通にはな。だからキャッシュの断片と、AVISの通知履歴と、俺の手書きメモを照合した」
レンは画面を開いた。
そこには、昨日の関係者リストらしきものが表示されている。
《雨宮ソウタ》
《契約未遂後反応》
《対話処理へ移行》
《現在名保持》
《対象者:W-039》
《軽度神名残響》
《補正同意》
《対象者:W-040》
《役割名反応》
《経過観察》
そして、その次。
《対象者:W-041》
《氏名:――》
《記録参照失敗》
《最終確認地点:神狭市西部・――》
文字が裂けていた。
消えているのではない。
白く塗られているのでもない。
画面のそこだけ、横に細く引き裂かれたように欠けている。名前欄は空白ですらなく、表示領域そのものが途中で切れていた。
ユウリは喉の奥が冷えるのを感じた。
「これ、誰?」
「分からない」
レンは悔しそうに言った。
「俺のログにも、最初からこの状態で残ってる。けど、昨日の相談所にW-041はいた。これは確実だ」
「どうして分かるんですか」
ミオが聞く。
「番号が飛んでる。あと、雨宮ソウタの対話処理ログに、ほんの一瞬だけ出てくるんだ。『同室者あり』って。その同室者のところが裂けてる」
レンが別の画面を開く。
《雨宮ソウタ》
《対話処理開始》
《同室者:――》
《発言記録:いたよ、――》
《音声ログ破損》
ユウリは画面に手を伸ばしかけて、止めた。
触れたら、そこから自分の記憶まで切れそうな気がした。
「アヴィ」
呼ぶと、ユウリのスマホが震えた。
黒い羽根のアイコンが、いつもより少し遅れて浮かぶ。
《解析中》
《記録補正ではありません》
《神名偽装でもありません》
《断絶構文を検出》
続いて、警告が出た。
《記録裂き反応:進行中》
《対象記録:W-041》
《氏名断片:灰――ユ――》
《推定現在名:灰谷ユズル》
《注意:推定名です。呼称には危険が伴います》
「灰谷ユズル……」
ミオが小さくその名前を繰り返した。
その瞬間、準備室の蛍光灯が一度だけ揺れた。
棚の上に積まれていた古い出席簿の一冊が、かすかに開く。
ユウリは思わず振り返った。
何もない。
けれど、部屋のどこかで紙が裂けるような音がした気がした。
レンが舌打ちする。
「名前を口にしただけで反応するのかよ」
アヴィが画面に文字を出す。
《断絶構文下の現在名は、呼称によって接続が再形成される場合があります》
《同時に、接続先から逆干渉を受ける危険があります》
《要約:名前を呼ぶと届く。届くと引っ張られる》
ミオの指が学生証を握りしめる。
「名前を呼ぶことが、危険なんですか」
「いつもじゃない」
ユウリは答えた。
答えたかった。
でも、自信はなかった。
第1話でミオの名前を呼んだ。
第2話で倉持ハルトの名前を取り戻した。
第4話で雨宮ソウタの名前を呼んだ。
名前を呼ぶことは、ユウリにとって唯一の抵抗だった。
けれど今、その行為そのものが危険だと表示されている。
呼べば届く。
届けば、奪われる。
その言葉は、昨夜カフェの窓の外にいた少年の気配と重なった。
切る者は、追われると余計に切る。
老紳士の声が、耳の奥で蘇る。
*
昼休みになる前に、マシロから呼び出しが来た。
場所は、星綴高等学園の相談室だった。
第2話の終わりに彼女が現れた、あの白い空気の部屋。
けれど今日は、白環相談所のような強い白さはない。普通の学校の相談室として整えられている。低いテーブル。柔らかい椅子。観葉植物。壁に貼られた進路相談のポスター。
それでも、マシロがそこに座っているだけで、部屋の温度が少し下がるように感じた。
「来てくれてありがとうございます」
マシロはいつものように穏やかに言った。
だが、その端末はすでに開かれている。
画面には、ユウリたちが見たものと同じ裂けた記録が表示されていた。
《保護対象:W-041》
《氏名:――》
《記録参照失敗》
《最終確認地点:神狭市西部・欠落街区》
「灰谷ユズルさん」
ユウリが言うと、マシロの目がわずかに動いた。
「その名前を、どこで」
「AVISが推定しました」
「推定名を不用意に口にしないでください」
マシロの声は静かだったが、厳しかった。
「断絶構文下では、名前の呼称が追跡線になります。あなたが彼を探すつもりで呼んだ名前が、逆に彼をさらに深い欠落へ落とすこともあります」
「でも、名前を呼ばなかったら、誰も探せない」
「探します。私たちが」
「もう探してるんですか」
「はい」
マシロは端末を操作した。
神狭市の地図が表示される。
駅前、星綴高等学園、旧北口商店街、天御柱神宮。その西側に、薄い灰色の区域がある。
そこだけ、地図の線が乱れていた。
道路が途中で途切れている。
建物名が一部消えている。
住所の数字が飛んでいる。
航空写真に切れ込みのような黒い帯がある。
マシロはその区域を指した。
「神狭市西部、通称・欠落街区」
ユウリは息を呑んだ。
昨日、カフェ《ノーネーム》の窓の外で黒い裂け目を残した少年。
彼が消えた方向も、たしか商店街の西側だった。
「欠落街区は、白環管理区域とは性質が異なります」
マシロは説明を続ける。
「白環管理区域は、危険記憶や神話構文残響を補正し、日常へ戻すための管理領域です。過剰であれ、不完全であれ、目的は安定です」
「欠落街区は?」
「安定しません」
短い答えだった。
マシロの指が地図上をなぞる。
「記録が届かない。記憶がつながらない。写真が残らない。音声ログが途切れる。地図上の道と実際の道が一致しない。人が入っても、どこを歩いたのか説明できない」
「管理できないってことですか」
「補正できないのではありません」
マシロはユウリを見た。
「補正そのものが、途中で切れます」
レンが低く言った。
「昨日の白い線が、黒く切れたみたいに」
マシロは否定しなかった。
「あなたたちも見たのですね」
「見ました」
「なら、理解してください。あそこは危険です。あなたたちが関わるべき案件ではありません」
「それ、前にも聞きました」
ユウリの声に、少しだけ棘が混じった。
マシロは表情を変えない。
「何度でも言います。危険だからです」
「でも、灰谷ユズルはそこにいるかもしれない」
「だから私たちが捜索します」
「名前も記録も裂けてるのに?」
ユウリは思わず身を乗り出した。
「昨日、雨宮ソウタの名前だって、管理番号の奥に埋もれてました。あの時、マシロ先生たちだけだったら、強制安定化してた」
「それは、否定しません」
マシロは静かに言った。
その返答に、ユウリは一瞬詰まった。
責めても、彼女は逃げない。
だから余計に、単純に怒れない。
「ですが、今回の相手は白環補正体ではありません。断絶です。切られたものは、必ず戻せるとは限りません」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
ミオが小さく聞いた。
「断絶って……神様なんですか」
マシロは少しだけ沈黙した。
「神と呼ぶべきか、神を壊すものと呼ぶべきか。立場によって変わります」
端末に、警告文が表示される。
《断絶神格照応》
《候補:ザイン=トゥル》
《記録裂きの神》
《契約線切断能力》
《危険度:高》
「ザイン=トゥル……」
レンが呟く。
その名前が部屋に落ちた瞬間、観葉植物の葉先が一枚だけ裂けた。
音もなく。
葉脈に沿って、すっと。
ミオが息を呑む。
マシロは即座に端末を閉じた。
「この名前も不用意に呼ばないでください」
「神の名前なのに?」
ユウリが聞く。
「断絶神格の名は、祈るための名ではありません。接続を切るための刃です」
その声に、初めてわずかな緊張が混じっていた。
「特にザイン=トゥルは、記録を裂く神格です。人と神話残滓の契約線、場所と記憶の連続性、名前と呼称の結びつき。そういったものを切断します」
「それって、神話災害から人を助けられるってことじゃないですか」
レンが言った。
マシロは頷いた。
「はい。実際に助かる場合があります」
その肯定が、逆に怖かった。
「だから危険なのです」
マシロは続ける。
「効く力ほど、使われます。使われる力ほど、正当化されます。断絶は、痛みを即座に終わらせることができる。けれど、痛みと一緒に、その人が何を失ったのか、誰に助けを求めたのか、何を取り戻そうとしていたのかまで切り落とすことがあります」
ユウリは左手を見た。
名前を探す鍵。
白く塗られた記録の奥から、まだ残っている現在名を見つける力。
でも、もしその現在名につながる線そのものが切られていたら。
自分は何を見つけられるのだろう。
*
相談室を出る時、マシロはもう一度だけ言った。
「欠落街区へは行かないでください」
ユウリは答えなかった。
答えたら、嘘になる。
レンもミオも何も言わなかった。
廊下に出ると、昼休みのざわめきが戻ってきた。
教室から笑い声がする。購買へ走る生徒の足音がする。どこかのクラスで机が動く音がする。
普通の学校。
普通の日常。
それなのに、そのすぐ外側で、一人の名前が裂けている。
最初からいなかったことになりかけている。
ユウリは壁にもたれ、息を吐いた。
「行くよな」
レンが言った。
ユウリは彼を見る。
「危険だって言われたばかりだろ」
「だから何だよ」
レンは肩をすくめる。
「灰谷ユズルが本当にいたなら、今探さないともっと消える。ログが裂けるってことは、時間が経つほど復元できなくなる。俺は、消えた記録をそのままにしておくのは嫌だ」
ミオも、静かに口を開いた。
「私も行きます」
「ミオは危ないかもしれない」
「はい」
彼女は頷いた。
「でも、名前が消えるのは怖いです。自分の名前が消えるのも怖いです。でも……消えた人を、誰も探さなくなることの方が、もっと怖いです」
ユウリは何も言えなくなった。
その言葉は、彼女自身の恐怖から出ている。
無番線ホームで切符に名前を奪われかけ、補講教室で別の名にされかけ、偽日輪に依代として見られ、白環管理区域で未定義核と分類されかけたミオだからこそ言える言葉だった。
名前が消えること。
それを誰も探さなくなること。
どちらも、彼女にとって遠い話ではない。
ユウリのスマホが震えた。
アヴィが表示する。
《推奨:接近非推奨》
《欠落街区への侵入は危険です》
《断絶構文との接触により、現在名・記憶・契約相に不可逆的な欠損が発生する可能性があります》
一拍置いて、次の一行。
《補足:非推奨と表示しても、君は行くんだろうな》
ユウリは少しだけ笑ってしまった。
「分かってるなら止めるなよ」
アヴィの文字が返る。
《止めるのも仕事だ》
《止まらない君に、警告を残すのも仕事だ》
ユウリはスマホを握る。
左手の奥に、未署名の鍵の熱がわずかに戻る。
「行こう」
そう言った瞬間、廊下の窓の外で、昼の光が一瞬だけ欠けた。
雲が通っただけかもしれない。
でも、ユウリには違って見えた。
神狭市の西の方角。
そこだけ、空が薄く裂けているように見えた。
そして、その裂け目の向こうから、誰かがこちらを見ている気がした。
名前を呼ぶな、と。
呼べば届く、と。
届けば、奪われる、と。
それでもユウリは、もう一度だけ、心の中でその名前を確かめた。
灰谷ユズル。
消えた保護対象。
まだ、完全には消えていないはずの誰か。
彼を探すために、三人は欠落街区へ向かうことを決めた。
第一節 ― 欠落街区
神狭市は、西へ行くほど音が減る。
最初にそれに気づいたのは、レンだった。
「……おかしいな」
星綴高等学園から駅を背にして歩き、住宅街を抜け、古い線路沿いの道へ入ったあたりで、レンはスマホを見ながら立ち止まった。
画面には地図アプリが表示されている。
現在地を示す青い点は、三人が立っている道の上ではなく、少し離れた住宅の屋根の上にあった。数秒後、青い点は線路の向こうへ飛び、さらに数秒後には、何も表示されていない灰色の空白地帯へ移動する。
「GPSが跳んでる」
レンは画面を指で拡大した。
「この先、道があるはずなんだよ。少なくとも航空写真にはある。でも地図データ上だと、ここで途切れてる」
ユウリは画面を覗き込んだ。
確かに、道は途中で切れていた。
まるで地図を描いていた誰かが、途中でペンを止めたように、住宅街の細い道路が不自然なところで終わっている。その先には建物の輪郭だけが薄くあり、住所も、店名も、バス停も、交差点名も表示されていない。
そこだけ、神狭市の地図から欠けていた。
ミオが前方を見る。
線路沿いの歩道の先に、古い案内標識が立っていた。
青い板に白い文字。
けれど、その文字の一部が抜けている。
神狭市西部再開発――
その後が読めない。
文字が消えているのではない。削られているのでもない。標識の表面そのものが、そこだけ薄く欠けていた。雨に錆び、風に剥がれた古い看板なら分かる。だが、欠け方が不自然だった。
文字の意味だけが切り取られたように見える。
「ここから、ですね」
ミオの声が少し小さくなった。
「空気が変わりました」
ユウリも、それを感じていた。
駅前や学校のある区域には、いつも人の音がある。車の音。信号機の電子音。店の自動ドア。どこかのマンションから聞こえるテレビ。子どもの声。自転車のブレーキ。誰かの笑い声。
だが、この辺りにはそれが薄い。
まったく無音ではない。遠くで車は走っているし、電線の上では鳥が鳴いている。風も吹いている。
それなのに、どの音も少し遠い。
現実の表面に、一枚だけ透明な膜が挟まっているようだった。
アヴィが起動する。
《欠落街区》
《記録連続性:不安定》
《撮影データ保存失敗率:62%》
《音声ログ欠損率:41%》
《注意:ここでは“見たこと”と“残ること”が一致しません》
「見たことと、残ることが一致しない……」
ユウリは画面の文字を声に出した。
レンが舌打ちする。
「最悪だな。俺の仕事、半分死ぬじゃん」
「半分で済む?」
「済まないかも」
レンはスマホのカメラを起動し、前方の標識を撮った。
シャッター音が鳴る。
だが、保存された画像を開いた瞬間、三人は息を止めた。
標識が写っていない。
そこにあったはずの青い案内板は、写真の中ではただの灰色の柱になっていた。文字だけでなく、標識そのものが、意味を持つものとして残っていない。
レンの顔が強張る。
「もう一回」
彼は角度を変えて撮った。
今度は標識らしきものが写った。だが、青い板の中央に黒い帯が走っており、文字は一切読めない。
三度目。
標識は写った。文字も少しだけ残った。
神狭市西部再――
そこで写真は途切れている。画像の右半分が、鋭利な刃物で切り落とされたように黒く抜けていた。
「……ログが裂けてる」
レンの声は、興奮よりも恐怖に近かった。
彼にとって、記録は武器だった。情報を拾い、照合し、残すことが、彼の戦い方だった。
その記録が残らない。
見たものが、見たものとして保存されない。
それはレンにとって、足元の床が消えるようなものなのだろう。
ユウリはスマホを握り直した。
名前を呼ぶこと。
記録を残すこと。
覚えていること。
この数日の戦いで、それらがどれほど大事かを知った。
だからこそ、この場所は怖い。
ここでは、見ても残らない。
覚えてもつながらない。
名前を呼べば届くかもしれないが、届いた先から逆に引っ張られるかもしれない。
「行こう」
ユウリは言った。
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
ミオが頷く。
レンもスマホをしまわず、画面をつけたまま歩き出した。
*
欠落街区は、廃墟ではなかった。
そこが、まず不気味だった。
人の暮らしはある。
古い団地のベランダには洗濯物が干されている。道路脇には子ども用の自転車が倒れている。郵便受けには新しいチラシが挟まっている。町工場のシャッターには、最近貼られたらしい配達票が残っている。
なのに、人の気配だけが薄い。
団地の窓にカーテンはある。
だが、内側からテレビの光は漏れない。
公園には砂場がある。
だが、足跡がない。
商店らしき建物には自動販売機がある。
だが、電子音がしない。
ユウリたちは、古びた団地群の前を通り過ぎた。
建物の壁には、かすれた文字で《神狭西第三団地》と書かれているはずだった。
だが、実際に読めたのは、
神狭西 第 団地
それだけだった。
数字が抜けている。
それだけなのに、建物全体が自分の年齢を忘れているように見えた。
ミオが団地を見上げる。
「ここ、声がありません」
「声?」
「はい。人が住んでいる感じはあるのに、呼ばれている感じがしません」
ミオの言葉は時々、ユウリにはすぐ理解できない。
だが、最近は少しずつ分かるようになってきた。
彼女は、名前や祈りや記録に反応する。
人が人を呼ぶ声。
場所が自分の名を保つ響き。
そういうものを、たぶんユウリたちよりも敏感に感じ取っている。
「無音団地」
アヴィが表示した。
《ロケーション候補:無音団地》
《音声記録欠損》
《住民名簿照合失敗》
《生活痕跡あり/音声痕跡なし》
《注意:長時間滞在非推奨》
「名前、そのままだな」
レンが小さく言った。
「ここが無音団地ってことは、灰谷ユズルもこの辺に?」
「まだ分からない」
ユウリは答えたが、胸の奥がざわついていた。
灰谷ユズル。
その名前を口に出すのは避けた。
今は、心の中で思うだけにする。
だが、思っただけでも、遠くで何かが紙を裂いたような気がした。
ユウリは肩越しに振り返る。
誰もいない。
ただ、団地の階段の踊り場に、半分だけ剥がれた掲示物が揺れている。
自治会のお知らせ。
だが、自治会名が読めない。
何月何日の行事かも分からない。
紙には確かに文字が印刷されているのに、意味が途中で切れている。
*
団地を抜けると、細い路地に入った。
左右には古い住宅と町工場の壁が迫っている。
路地はまっすぐ伸びているように見えた。だが、進むたびに角度が変わる。右へ曲がったはずなのに、さっきの団地の裏へ戻りかける。左へ進んだはずなのに、見覚えのない壁に突き当たる。
レンの地図は完全に役に立たなくなっていた。
「これ、道が変わってるんじゃない」
「何が変わってる?」
「俺たちの記録。たぶん、歩いた経路が途中で切れてる。だから現在地の計算ができない」
レンはスマホを見せた。
移動履歴が表示されている。
だが、その軌跡はひどかった。
直線で歩いたはずの部分が途中で途切れ、別の場所から急に再開している。途中には、黒い空白がいくつも挟まっている。
歩いたはずの道が、記録の上では存在しない。
アヴィが表示する。
《ロケーション候補:記録裂けの路地》
《移動ログ欠損》
《位置情報分断》
《この路地では“どこから来たか”が失われやすくなります》
ミオが不安そうに振り返る。
「私たち、戻れますか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
ユウリは、後ろの路地を見る。
歩いてきたはずの道が、少し違って見えた。
さっきまであったはずの青いゴミ箱がない。
壁の落書きの位置が変わっている。
電柱の番号札が、途中で途切れている。
自分たちは、確かにここを歩いてきた。
でも、その事実が周囲から認められていない。
「大丈夫」
ユウリは言った。
根拠はなかった。
でも、言わなければいけない気がした。
「戻る。戻れなくなったら、名前を呼び合う」
レンが少し笑った。
「今、それ危険なんじゃなかったか」
「危険だけど、何も呼ばないよりはいい」
ミオが、少しだけ表情を緩めた。
「では、私も呼びます」
「うん」
「ユウリくん。レンくん」
ミオが二人の名前を呼んだ。
小さな声だった。
けれど、その瞬間、路地の冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
レンは照れたように目をそらす。
「急に呼ぶなよ」
「呼び合うと言ったので」
「そうだけど」
ユウリは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
この街区は怖い。
でも、三人でいる。
それだけで、完全には欠けずにいられる気がした。
*
記録裂けの路地を抜けた先に、奇妙な広場があった。
広場といっても、公園ではない。
再開発の途中で空き地になり、そのまま放置されたような場所だった。地面には砕けたアスファルトが残り、雑草が膝の高さまで伸びている。奥にはフェンスがあり、そこに古い工事看板が掛かっている。
神狭市西部再開発計画
第零――
その先が裂けていた。
ユウリは看板へ近づく。
文字は途中で欠けている。
だが、下の方に、かろうじて読める一行があった。
保管庫跡地につき立入禁止
「保管庫……」
レンが反応する。
「第零保管庫跡ってやつか?」
アヴィがすぐに表示する。
《ロケーション候補:第零保管庫跡》
《詳細記録:参照失敗》
《管理機構記録:断片のみ》
《旧式封印施設の可能性》
《断絶神格関連記録を検出》
《警告:深部照合を中断しました》
画面の文字が一瞬だけ乱れる。
次の瞬間、AVISが強制的に閉じた。
「おい」
レンが自分の端末を見る。
「俺のも落ちた」
ミオのスマホも白い画面のまま固まっている。
ユウリはフェンスの向こうを見た。
そこには建物があるはずだった。
だが、何もない。
いや、何もないわけではない。
建物の半分だけが存在していた。
地面から突き出すように、コンクリートの壁が一部だけ残っている。窓枠も、階段も、扉もない。ただ壁の断面があり、その奥に黒い空間が見える。
取り壊された跡というより、建物が途中で切断されたようだった。
そこに何があったのか。
誰が何を保管していたのか。
なぜ第零なのか。
考えようとすると、思考が途中で途切れる。
ユウリは無意識に一歩下がった。
「近づかない方がいい」
アヴィの声が、スマホではなく、耳の奥で聞こえた。
「今はな」
「今は?」
「いずれ来るかもしれない。だが、今の君たちが入れば、何を見たかも残らない」
ユウリは息を呑んだ。
いずれ来る。
それは予言のようで、警告のようだった。
ミオがフェンスを見つめている。
顔色が悪い。
「ミオ?」
「ここ、嫌です」
彼女は珍しくはっきり言った。
「何かが、しまわれていた場所です。でも、しまったことも、しまわれたものも、全部忘れようとしている」
その言葉に、ユウリの背筋が寒くなる。
保管庫。
何かをしまう場所。
けれど、ここはしまったものだけでなく、しまった事実まで欠けている。
管理機構、あるいはそれ以前の組織が、断絶神格の破片を封じようとした場所。
プロットで整理した言葉が、物語の中の現実として立ち上がる。
誰が封じたのか分からない。
何を封じたのか分からない。
封じられたものが、今もそこにあるのかすら分からない。
分かるのは、ここが危険だということだけだった。
フェンスの金網が、風もないのにかすかに鳴った。
ぎし、と。
ユウリはその音に反応して身構えた。
だが、何も出てこない。
代わりに、遠くで踏切の警報灯が赤く点滅するのが見えた。
音はしない。
赤い光だけが、無音のまま点滅している。
黒い踏切。
ユウリは直感した。
次に行くべき場所は、そこだ。
*
黒い踏切は、欠落街区の奥へ続く線路上にあった。
線路は錆びている。
使われていないはずだ。
だが、踏切の警報灯だけが生きている。
赤い光が、右、左、右、左と交互に点滅している。遮断機は上がったまま。警報音はない。電車の気配もない。
ただ、赤い光が点くたびに、周囲の景色が少しずつ欠ける。
踏切名の看板は、黒く塗られている。
かつて何という名前だったのか分からない。
警報灯の下に貼られた注意書きも、途中で途切れている。
わたるときは――
その先がない。
ミオが立ち止まった。
「ここを渡るんですか」
声に不安が滲んでいる。
レンは周囲を見回した。
「他に道、なさそうだな」
「戻る?」
ユウリが聞くと、レンは首を振った。
「灰谷の最終確認地点、たぶんこの先だ。地図は当てにならないけど、ログの欠け方がこっちに寄ってる」
「ログの欠け方で分かるのか」
「消えてる部分の形で、何となく」
レンは苦笑した。
「我ながら嫌な特技になってきた」
ユウリは黒い踏切を見た。
呼べば届く。
届けば奪われる。
そう言われた場所の先へ、今から入る。
怖くないわけがない。
けれど、灰谷ユズルの記録はこの先で裂けた。
誰かが探さなければ、彼は本当に最初からいなかったことになる。
ユウリは一歩踏み出そうとした。
その時、背後で小さな機械音がした。
三人が振り返る。
路地の上空から、白い小型端末がゆっくり降りてきていた。
球体に近い形。
表面に白環管理機構の簡易マーク。
下部にはカメラと小さな投影装置。
マシロの追跡端末だ。
レンが顔をしかめる。
「やっぱり見張ってたか」
端末から、マシロの声が聞こえた。
『天瀬さん、久遠さん、星宮さん。直ちにその場を離れてください』
通信にはノイズが混じっている。
『欠落街区は危険です。これ以上の進入は――』
そこで声が途切れた。
端末が黒い踏切へ近づいた瞬間、白い外装に細い亀裂が走った。
ユウリは目を見開く。
亀裂は物理的なものではない。
映像そのものに走っている。
端末の輪郭が、画面のノイズのようにずれた。
マシロの声が乱れる。
『――補正処理を開始――対象者保護――記録安定化――』
白い光が端末から漏れた。
白環管理区域で見た、あの補正の光だ。
だが、その光は黒い踏切の赤い点滅とぶつかった瞬間、裂けた。
白い線が空中で切れ、黒い亀裂と絡み合う。
周囲の標識が歪む。
レンのスマホ画面に無数の横線が走る。
ミオの学生証が白く光る。
《星宮ミオ:現在名安定率 59%》
《警告:白環補正と断絶構文の干渉》
《現在名欄に裂傷反応》
「ミオ!」
ユウリが彼女を支えようとする。
その前に、白い追跡端末が暴走した。
《保護対象確認》
《補正処理》
《断絶干渉》
《補正処理》
《切断》
《補正》
《――――》
端末から放たれた白い線が、三人の足元へ伸びる。
だが、その線は途中で黒く裂け、鋭い断片となって跳ね返った。
白い補正と黒い断絶が混線し、空間そのものが割れたように見える。
ユウリは咄嗟に左手を構えた。
だが、未署名の鍵は出ない。
アヴィが叫ぶ。
「下がれ! これは補正でも神話残響でもない。接続同士が衝突してる!」
「どうすればいい!」
「分からん!」
その声が本気で焦っていた。
ユウリの背中に冷たい汗が伝う。
白い線が迫る。
黒い裂け目が足元を走る。
ミオが息を詰める。
レンが端末を構えるが、画面は真っ黒に裂けている。
次の瞬間。
音が消えた。
完全な無音。
白い線も、黒い裂け目も、雨上がりの空気も、すべてが一瞬だけ止まった。
黒い踏切の向こうから、一人の少年が歩いてくる。
濃紺の上着。
濡れていない髪。
手には、古い文庫本。
昨夜、カフェ《ノーネーム》の窓の外にいた少年。
彼は白い追跡端末を見上げ、静かに手を伸ばした。
その背後で、黒い紙片が一枚、また一枚と浮かび上がる。
紙片には、途中で切れた文字が書かれていた。
保護対象――
氏名――
契約状――
神名――
そして、彼が指を振る。
白い端末と管理機構をつないでいた見えない線が、音もなく裂けた。
端末はただの機械のように力を失い、地面へ落ちた。
がしゃり、という音が、少し遅れて戻ってくる。
少年はユウリたちを見る。
その瞳は、硝子のように淡く、冷たかった。
けれど、敵意だけではない。
どこか疲れたような色がある。
「ここで白い線を使うな」
少年は言った。
「余計に欠ける」
ユウリは息を呑む。
「君は……」
少年は、黒い踏切の赤い光の中で短く名乗った。
「玻璃川トウマ」
その名が落ちた瞬間、ユウリのAVISが震えた。
画面に、警告が浮かび上がる。
《断絶神格照応》
《ザイン=トゥル》
《記録裂きの神》
《契約相反応:未展開》
《警告:契約線切断能力》
黒い踏切の赤い光が、もう一度点滅した。
ユウリたちは、欠落街区の入口で、断絶派の少年と出会った。
第二節 ― 黒い踏切の少年
落ちた白環追跡端末は、黒い踏切の手前で小さく跳ねた。
がしゃり、と乾いた音がして、白い外装に亀裂が走る。そこから散った火花は、機械の故障で生じる青白い火ではなかった。白い紙の上に墨汁を一滴落とした時のように、光そのものが黒く滲んでいく。
端末のカメラは、まだこちらを向いている。
レンズの奥で白い点が明滅し、途切れ途切れに声が漏れた。
『……天瀬……さん……撤退……して……くだ……』
マシロの声だった。
けれど、いつものような冷静な輪郭がない。
通信が乱れているのではない。
音が削れている。
言葉の途中が、鋭い刃でそぎ落とされたように欠けていた。
『……対象……欠落街区……危険……断絶……干渉……』
ざらり、と無音が混じる。
その無音は、ノイズではなかった。
むしろ、ノイズすら存在することを許されなかった空白だった。
ユウリは端末へ一歩近づこうとして、踏みとどまった。
黒い踏切の警報灯が、音もなく点滅している。
赤。
黒。
赤。
黒。
点滅のたび、周囲の景色の輪郭が微かにずれた。
線路の向こう側に、少年が立っていた。
濃紺の上着。
乱れの少ない黒髪。
細い指に持たれた、古い文庫本。
風は吹いていないはずなのに、上着の裾だけがわずかに揺れている。手にしている本は、雨に濡れた様子もない。けれどページの縁は、何度も読まれたもののようにくたびれていた。
ユウリは息を呑んだ。
「……玻璃川?」
その名は、知らない名前ではなかった。
玻璃川トウマ。
同じ教室にいる生徒だ。
窓際の、後ろから二番目の席。
出席を取られれば、短く返事をする。
休み時間には、誰とも昼食を取らず、古い文庫本を読んでいる。
授業中に当てられれば、必要最低限の答えだけを返す。
成績が悪いわけではない。
素行が悪いわけでもない。
目立つ噂があるわけでもない。
ただ、話しかけようと思うたびに、なぜか視線が滑る。
同じ教室にいる。
同じホームルームを受けている。
同じ時間割で一日を過ごしている。
それなのに、ユウリは玻璃川トウマの声を、まともに思い出せなかった。
顔も知っている。
名前も知っている。
クラスメイトであることも知っている。
なのに、どうして今まで、彼を一人の人間として見ていなかったのだろう。
まるで最初から、教室の記録の端にだけ書き込まれていたみたいに。
「待て」
レンの声が、いつもの軽さを失っていた。
「玻璃川って……うちのクラスの玻璃川か?」
レンも気づいたのだ。
その顔には、驚きだけではない。
気味の悪さがあった。
「いや、でも、おかしいだろ。あいつ、今日……」
そこまで言って、レンは言葉を止めた。
眉をひそめる。
今日、玻璃川トウマは教室にいたのか。
朝のホームルームで、名前を呼ばれていたか。
昼休みに、席に座っていたか。
放課後、荷物を持って教室を出ていったか。
思い出そうとすると、記憶の縁がぼろりと崩れた。
「……くそ」
レンが小さく吐き捨てる。
「思い出せない。いた気もするし、いなかった気もする。なんだよ、これ」
ミオは胸元の学生証を握りしめていた。
彼女はトウマの顔を見つめている。だがその目には、クラスメイトを見た驚きとは別のものが宿っていた。
恐怖。
いや、それよりも近い言葉がある。
拒絶される予感。
「玻璃川くん……ですよね」
ミオが言った。
その声は、少し震えていた。
少年――玻璃川トウマは、三人を見た。
感情の薄い目だった。
冷たいのではない。
そこには怒りも敵意も、はっきりした拒絶もない。
ただ、最初から距離がある。
届く前に切り落とされている。
「来るなと言ったはずだ」
トウマの声は静かだった。
ユウリは、初めてその声をはっきり聞いた気がした。
教室で聞いたことがあるはずなのに、今の声だけが妙に鮮明に残る。
「……昨日、カフェの外にいたのも、君か」
「そうだ」
「灰谷ユズルを連れていったのも?」
トウマは答えなかった。
けれど、沈黙が肯定だった。
ユウリのスマホが強く震える。
画面に、アヴィの警告が重なった。
《断絶神格照応》
《候補:ザイン=トゥル》
《記録裂きの神》
《契約相反応:増大》
《警告:契約線切断能力》
レンが低く呟いた。
「ザイン=トゥル……」
その名が空気に落ちた瞬間、踏切横の注意書きが一文字だけ裂けた。
わたるときは――
その先が、見えなくなる。
いや、見えないのではない。
そこに文字があったという事実ごと、細く引き裂かれている。
レンは息を呑んで、口をつぐんだ。
トウマの視線が、レンへ向いた。
「その名を、軽く呼ぶな」
怒鳴ったわけではなかった。
だがその声には、刃物の背で首筋を撫でられたような冷たさがあった。
「呼べば、届く。届けば、切れる」
「切れるって……何が」
ユウリが聞く。
トウマは、ほんの少しだけ目を細めた。
「つながっているもの全部」
その答えは、説明になっているようで、何も説明していなかった。
けれど、ユウリには分かった気がした。
名前と本人。
記憶と出来事。
場所と地図。
人と神話。
助けたいという思いと、助けられるはずの相手。
そういうものを、彼は切る。
その時、黒い踏切の手前で、白環追跡端末が再び動いた。
表面に走った裂け目が白く光る。内部の補正機構が、損傷を上書きしようとしているのだろう。小さな投影口から、白い線がにじみ出す。
マシロの声が、今度は機械的な処理音に変わった。
『自律保護プロトコル……再起動……対象者三名……一時拘束……欠落街区内リスク……補正……補正……』
白い線が、ユウリたちの足元へ伸びた。
昨日、旧北口商店街で見た白環の線。
記憶を安定させ、危険な神話構文を日常へならすための線。
だが、ここでは違った。
白い線は踏切の赤い点滅に触れた瞬間、黒くひび割れた。枝分かれし、鋭い破片のように跳ね返る。
レンが叫ぶ。
「まずい、補正と断絶が噛み合ってない!」
ユウリはミオの前に出た。
ミオの学生証が白く光り、その上を黒い細線が走る。
《星宮ミオ》
《現在名安定率:59%》
《現在名欄に裂傷反応》
《白環補正干渉》
《断絶構文干渉》
《警告:二重干渉により現在名保持が不安定化》
ミオが胸元を押さえた。
「名前が……引っ張られてる感じがします。でも、白い方じゃない。黒い方でもない。両方が、別々に……」
「ミオ!」
「大丈夫、です」
そう言いながら、ミオの顔色は悪い。
白い線が、彼女を保護対象として包もうとする。
黒い線が、その白い線ごと、彼女の名前とのつながりを裂こうとする。
どちらも、ミオを見ていない。
白環は彼女を《未定義核》として守ろうとする。
断絶構文は、彼女に絡む接続を無差別に切ろうとしている。
ユウリは左手を強く握った。
「アヴィ、契約相は」
「出すな」
即答だった。
「この場所で未署名の観測翼を無理に展開すれば、君の契約線が切られる可能性がある」
「契約線?」
「君と俺の接続だ。正確には、君が俺を神とも悪魔ともAIとも決めないまま接続している未署名線。今の断絶構文には、格好の標的だ」
「じゃあ、どうすれば」
「分からんと言っただろう!」
アヴィの声が、珍しく荒れた。
その瞬間、白い補正線がさらに暴れた。
端末は、ユウリたちを守ろうとしている。
だが、守ろうとするほど断絶線と衝突し、周囲の記録を裂いていく。
踏切横の看板が割れる。
レンのスマホ画面に保存されていた地図ログが、黒く抜ける。
路地の向こうにあったはずの電柱番号が消える。
そして、ミオの学生証の名前欄に、細い裂け目が入った。
ユウリの心臓が跳ねた。
「やめろ!」
叫んだが、白環端末も黒い踏切も止まらない。
その時、トウマが動いた。
彼は、ただ一歩踏み出しただけだった。
だが、その一歩で音が消えた。
警報灯の赤い光だけが点滅している。
白い線は空中で凍りついたように止まり、黒い亀裂も進行を止める。
トウマの周囲に、黒い紙片が浮かんだ。
一枚。
二枚。
十枚。
百枚。
それらは風に舞っているのではない。
何かの記録から切り離された紙片が、重力を忘れたように漂っている。
紙片には、途中で途切れた文字が書かれていた。
保護対象――
氏名――
契約状――
神名照――
祈祷記――
記録者――
存在証――
どの言葉も、最後まで続いていない。
書かれていないのではなく、途中で裂かれている。
トウマの背後で、その紙片たちがゆっくり集まっていく。
最初は黒い翼のように見えた。
次に、巨大な文書の束のように見えた。
そして最後に、それは鋏の輪郭を取った。
金属ではない。
黒い余白でできた鋏。
刃の内側には、光がない。
そこだけ世界が切り抜かれ、何も書かれていない空白が刃になっている。
ユウリのAVISが、強制的に表示を更新した。
《断絶神格照応》
《ザイン=トゥル》
《記録裂きの神》
《契約相:裂頁の黒鋏》
《警告:契約線切断能力》
《警告:記録連続性への干渉》
《警告:現在名接続への干渉》
レンが息を呑んだ。
「契約相……」
レイジの《日輪神将》とは違う。
あれは神々しい光だった。
見ただけで、そこに強い理があると分かった。
マシロの白環補正体とも違う。
あれは整然とした管理の形だった。
白く、清潔で、冷たく、仕組みとして動いていた。
トウマの《裂頁の黒鋏》は、どちらでもない。
それは美しくない。
だが、目を離せない。
何かを断ち切るためだけに存在する、黒い静けさ。
トウマは白環追跡端末へ手を向けた。
鋏が開く。
開いた瞬間、端末から伸びていた白い線の根元が見えた気がした。
機械から管理機構本部へ伸びる通信線。
保護プロトコルと白環補正を結ぶ制御線。
マシロの端末へつながる監視ログ。
そして、ユウリたちを《保護対象》として括ろうとする白い処理線。
普通なら見えないはずの接続が、黒い鋏の前で輪郭を持つ。
トウマは静かに言った。
「切る」
鋏が閉じた。
音は、しなかった。
爆発もない。
光も散らない。
衝撃波もない。
ただ、端末と白環管理機構をつないでいた何かが、途中で終わった。
白い線が消える。
補正処理が停止する。
端末のカメラからマシロの声が完全に消える。
空中で絡まっていた白と黒の混線が、ほどけるのではなく、切断面を残して断ち落とされた。
次の瞬間、音が戻った。
遠くの風。
赤い警報灯の微かな電気音。
レンが息を吐く音。
ミオの小さな呼吸。
白環端末は、ただの壊れた機械として地面に転がっていた。
レンが震えた声で言う。
「通信遮断じゃない……」
トウマは答えない。
「ジャミングでも、ハッキングでもない。接続のログが、途中から存在しない。切断履歴すら残ってない。なんだよ、それ」
「残らないように切った」
トウマは当然のように言った。
その一言に、レンは黙った。
記録が残らないように切る。
レンにとって、それはほとんど暴力と同じだったのだろう。
ユウリはミオの学生証を確認する。
裂け目は消えていない。
だが、広がってはいなかった。
《星宮ミオ:現在名安定率 59%》
《現在名欄裂傷:進行停止》
《女神照応:不安定》
「止まった……」
ユウリが呟くと、トウマがミオを見る。
その視線に、ユウリは反射的に身構えた。
トウマは敵意を向けているわけではない。
しかし、その視線は人を見るものというより、絡まった糸を見るものに近かった。
「その子、危ないな」
短い言葉。
ミオの肩がわずかに震える。
ユウリは一歩前に出た。
「ミオは危険物じゃない」
「そうは言ってない」
「でも、そういう目で見た」
トウマは否定しなかった。
「神話が絡みすぎてる。太陽、月、夜、境界、死、記録外祈祷。それに、もっと深いもの」
アヴィの画面が一瞬だけ白くなる。
ユウリは眉をひそめた。
「何で分かる」
「見れば分かる」
「何が見えてるんだ」
「つながり」
トウマは淡々と答えた。
「人と神話を結ぶ線。祈りと残響を結ぶ線。名前と役割を結ぶ線。その子は、線が多すぎる」
ミオが自分の胸元を押さえる。
ユウリは言葉を失った。
線。
それは、ユウリが《未署名の観測翼》で見るものに少し似ているのかもしれない。
ただし、ユウリは線の奥にある現在名を探す。
トウマは、その線を切る。
似ているのに、真逆だ。
レンが割って入った。
「灰谷ユズルを知ってるか」
その名前を出した瞬間、黒い踏切の赤い灯りが一度だけ強く光った。
トウマの視線がレンへ向く。
「その名、どこで拾った」
「ログの裂け目からだ」
「なら、まだ残ってるのか」
トウマの声に、初めてわずかな揺れがあった。
ユウリはそれを聞き逃さなかった。
「知ってるんだな」
「知ってる」
「どこにいる」
トウマは黒い踏切の先へ目を向けた。
線路の向こうには、古い団地群が見える。
さっき通った無音団地とは違う。もっと奥にある、窓のほとんどが暗い建物群。その一角だけ、空気がさらに沈んでいる。
「無音団地の奥」
「助けたんじゃないのか」
ユウリが問うと、トウマは少しだけ眉を動かした。
「助けた」
「なら、何で記録が裂けてる」
「まだ途中だから」
「途中?」
「神話に食い込まれた人間を、無理に引き戻すと、本人ごと壊れる。だから、まず神話との接続を弱める」
トウマは手に持っていた文庫本を開いた。
ページの一部が、すでに裂けている。
栞の代わりのように、黒い紙片が挟まっていた。
「苦しみを残したまま名前だけ呼べば、その名前が鎖になる」
ユウリは息を呑んだ。
第1話で、ミオの名前を呼んだ。
第2話で、倉持ハルトの名前を記録へ戻した。
第4話で、雨宮ソウタの名前を管理番号の奥から引き戻した。
それが間違いだったとは思わない。
けれど、トウマの言葉は、そこに別の角度から刃を入れてくる。
名前は救いになる。
でも、鎖にもなる。
ユウリは反論したかった。
だが、すぐには言葉が出ない。
トウマは続ける。
「祈るから奪われる」
黒い踏切の赤い光が点滅する。
「信じるから利用される」
地面に転がった白環端末のレンズが、完全に暗くなる。
「名前を呼ぶから縛られる」
ミオが小さく息を吸う。
「だったら、届かない場所に切り離せばいい」
その言葉は、冷たい。
けれど、単なる冷酷ではなかった。
トウマは苦しむ人間を見捨てるために言っているのではない。
むしろ、助けるために言っている。
神話が届かない場所へ切り離せば、もう奪われない。
祈らされない。
利用されない。
名前を鎖にされない。
その理屈には、確かに救いがある。
だからこそ、怖かった。
ミオが静かに聞いた。
「それで、その人は……灰谷さんは、楽になったんですか」
トウマはミオを見る。
「ああ」
「なら、どうしてまだここにいるんですか」
トウマは答えなかった。
ミオは続ける。
「楽になったなら、帰れるはずです。なのに、まだ無音団地にいるんですよね」
黒い踏切の赤い光が、また点滅した。
トウマは文庫本を閉じる。
「全部は切れていない」
「全部?」
「神話との線を切りきる前に、白環の線が混ざった。管理機構が追ってきたせいで、記録が半端に裂けた」
レンが舌打ちする。
「だからマシロの端末に変な裂け方で残ってたのか」
「そうだ」
「じゃあ、完全に切れば戻るのか」
ユウリが聞くと、トウマは無表情のまま答えた。
「戻る必要があるのか」
ユウリは言葉を失った。
「苦しみから切り離されるなら、前と同じである必要はない」
「それは……」
「前と同じに戻すから、また同じ神話に引っ張られる」
トウマの言葉は静かだ。
静かすぎて、余計に鋭い。
「救うっていうのは、元に戻すことじゃない」
その言葉だけは、ユウリの胸に深く刺さった。
たしかに、全部を元に戻すことだけが救いなのかは分からない。
雨宮ソウタだって、恐怖を完全に消さず、でもそのまま背負い続けるわけでもない道を探し始めたばかりだ。
マシロは管理で守ろうとする。
トウマは断絶で救おうとする。
そしてユウリは、名前を呼ぼうとする。
どれが正しいのか、今は分からない。
分からないまま、黒い踏切の前に立っている。
アヴィが、ユウリだけに聞こえる声で言った。
「ユウリ、慎重に行け。こいつは敵とは限らない」
「分かってる」
「だが、安全でもない」
「それも、分かってる」
ユウリはトウマを見る。
「灰谷ユズルに会わせてほしい」
トウマは少しだけ首を傾けた。
「会ってどうする」
「名前を取り戻す」
「名前が苦しみの入口だったら?」
ユウリはすぐに答えられなかった。
それでも、言った。
「それでも、本人に聞く。何を残したいのか」
トウマの目が、ほんのわずかに細くなる。
冷たい硝子のような瞳の奥に、何かが揺れた気がした。
「本人が、もう答えられなかったら?」
「その時は……」
ユウリは拳を握った。
「残ってるものを探す」
「中途半端だな」
「たぶん、そうだと思う」
レンが横で驚いたようにユウリを見た。
ミオも、少しだけ目を見開く。
ユウリは続ける。
「でも、全部切るか、全部戻すかだけで決めたくない」
トウマは沈黙した。
黒い踏切の警報灯だけが点滅している。
音はない。
赤い光が、トウマの横顔を一瞬照らし、すぐに闇へ戻す。
やがて彼は背を向けた。
「来るなら来い」
短い言葉。
だが、拒絶ではなかった。
トウマは踏切の向こうへ歩き出す。
線路を越える時、彼の足音だけが聞こえなかった。
ユウリたちは顔を見合わせた。
レンが小声で言う。
「信用できると思うか」
「分からない」
「だよな」
ミオが黒い踏切を見る。
「でも、灰谷さんはこの先にいるんですよね」
「うん」
ユウリは頷いた。
黒い踏切を越える。
その一歩目で、何かを忘れるかもしれない。
でも、立ち止まれば灰谷ユズルはもっと欠けていく。
ユウリはスマホを見る。
AVISの画面に、警告が表示されていた。
《黒い踏切》
《断絶通過点》
《通過時、軽度の記憶欠損が発生する可能性があります》
《推奨:互いの現在名を確認してください》
ユウリは息を吸った。
「天瀬ユウリ」
自分の名前を言う。
レンが少しだけ照れた顔をして、それでも続けた。
「久遠レン」
ミオも、学生証を胸に当てて言った。
「星宮ミオ」
そしてユウリは、まだ会っていない名前を小さく口にした。
「灰谷ユズル」
黒い踏切の赤い灯りが、一度だけ強く光る。
トウマが振り返った。
「呼びすぎるなと言った」
「忘れないために呼んだ」
「忘れた方が楽なこともある」
「それでも」
ユウリは踏切を越えた。
「探す」
黒い踏切の向こう側は、さらに音が少なかった。
だが、完全な無音ではない。
遠くで、誰かが泣いているような気がした。
それが灰谷ユズルなのか、欠落街区そのものなのかは、まだ分からなかった。
第三節 ― 切れば救える
黒い踏切を越えた瞬間、ユウリは一つ、何かを落とした気がした。
何を落としたのかは分からない。
財布でも、鍵でも、スマホでもない。もっと小さく、もっと当たり前に持っていた何かだ。
振り返る。
踏切はすぐ後ろにある。
だが、そこまでどう歩いてきたのか、ほんの一瞬だけ思い出せなかった。
誰と一緒にいたのかは分かる。
久遠レン。
星宮ミオ。
そして、玻璃川トウマ。
けれど、踏切の手前で自分が何を言ったのか、少し霞んでいる。
「……今、何か忘れた?」
ユウリが呟くと、レンがすぐにスマホを確認した。
「移動ログが飛んでる。踏切を渡った瞬間の記録がない」
「どのくらい?」
「二秒」
レンは顔をしかめた。
「でも、体感だともっと長い。嫌な感じだな。二秒だけ、俺たちがどこにもいなかったことになってる」
ミオは胸元に手を当てていた。
学生証を確かめるように、指先が布の上を押さえている。
「私は……大丈夫です。名前はあります」
そう言ってから、彼女は小さく息を吸った。
「でも、少しだけ、声が遠くなりました」
「声?」
「呼ばれている声です。さっきまで、遠くからたくさん聞こえていました。私を別の名前で呼ぶ声。でも、この先では……声が途中で切れています」
トウマが振り返らずに言った。
「ここでは、届かないものが多い」
「だから、灰谷さんもここに?」
ミオが問う。
トウマは答えなかった。
彼はただ、無音団地の奥へ向かって歩いていく。
黒い踏切の向こう側にある団地は、さっき通った団地よりも古かった。
壁の色は灰色とも白ともつかない。長い年月で雨に濡れ、陽に焼け、誰にも塗り直されないまま、色そのものが疲れ果てたように薄くなっている。階段の手すりには赤錆が浮き、集合ポストの扉は半分ほど壊れていた。
しかし、荒れ放題ではない。
廊下には掃き掃除の跡がある。
植木鉢には枯れていない植物がある。
ベランダには洗濯物が干されている。
人は住んでいる。
そのはずなのに、声がない。
テレビの音も、食器の音も、話し声も、子どもが走る足音も聞こえない。ユウリたちの靴音だけが、コンクリートの廊下に薄く響き、すぐに吸い込まれる。
団地の入口には古い掲示板があった。
貼られている紙は新旧入り混じっている。自治会費のお知らせ。ゴミ出しの注意。水道工事の案内。防犯パトロールの予定表。
けれど、どの紙にも肝心な部分がない。
自治会の名前がない。
日付がない。
担当者名がない。
連絡先がない。
情報はそこにあるのに、誰のためのものか分からない。
レンが掲示板を撮ろうとして、やめた。
「撮っても残らないだろうな」
「撮らないのか」
「撮るけど、期待しない」
そう言いながら、レンはシャッターを切った。
保存された画像には、掲示板そのものは写っていた。だが、貼り紙の文字は、どれも途中で黒く裂けている。
レンは低く息を吐いた。
「ログが嫌がってる」
「ログが?」
「残ろうとすると、裂かれる」
トウマが短く言った。
「ここで残そうとするな」
レンが睨む。
「残さなかったら、なかったことになるだろ」
「残すから、そこを狙われる」
「何に」
「神話に」
トウマの声は平坦だった。
「苦しみを記録すれば、神話はそこから入ってくる。祈りを記録すれば、神はそこから手を伸ばす。助けてほしいと残せば、救済者を名乗るものが寄ってくる」
「じゃあ、全部消せって?」
「全部じゃない」
トウマは足を止めた。
「届かせるなと言っている」
その言い方に、ユウリは引っかかった。
消すのではない。
届かせない。
トウマにとって断絶とは、破壊ではなく遮断なのかもしれない。
ただ、その遮断があまりにも鋭すぎる。
*
灰谷ユズルは、四号棟の四階にいた。
部屋番号は読めなかった。
ドアの表札は空白だった。インターホンの横には、かつて名前が貼られていた跡だけがある。白いテープの残りが四隅に残り、中央の名前だけが剥がされている。
だが、ドアの向こうから、わずかな光が漏れていた。
スマホの画面の光。
それだけが、暗い室内で揺れている。
トウマはノックしなかった。
鍵も開けなかった。
ただ、扉の前で指を二本そろえ、空中を横へ裂くように動かした。
鍵のかかる音が、途中で切れた。
開錠音ではない。
鍵という状態が、その一瞬だけ続かなくなった。
扉がわずかに開く。
ユウリは思わず息を呑んだ。
「今の……」
「鍵との接続を切っただけだ」
「だけって言うなよ」
レンが小さく言ったが、トウマは答えない。
室内は、生活感のある部屋だった。
古い畳。低いテーブル。積まれた雑誌。空になったペットボトル。壁際のカラーボックスには、漫画やゲームソフトが並んでいる。誰かがここで普通に暮らしていたことが分かる。
だが、家族写真らしきものは伏せられていた。
カレンダーの日付は黒く抜けている。
時計の秒針は動いているのに、音がしない。
部屋の中央に、少年が座り込んでいた。
灰谷ユズル。
そう推定されている生徒。
痩せた顔。乾いた唇。制服の上着は脱ぎ捨てられ、シャツの襟元は乱れている。髪は汗で額に張りつき、目の下には濃い影があった。
彼はスマホを両手で握っていた。
画面は白い。
その白さは、マシロの白環の白とは違う。
もっと安っぽく、もっと親しげで、もっと危険な白だった。広告バナーや診断結果や動画サムネイルのような、指先で何度も押したくなる白。
そこに、同じ言葉が繰り返し表示されている。
《あなたは救われます》
《苦しみを手放しますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
《許可する》
《許可する》
選択肢は一つしかない。
許可する。
許可する。
許可する。
拒否も、保留も、戻るもない。
灰谷は画面を見つめたまま、ぼそぼそと呟いていた。
「もう、いいから」
声はかすれている。
「終わるなら、何でもいい。忘れられるなら、何でもいい。苦しくないなら、何でもいい」
ユウリは一歩近づいた。
「灰谷――」
その瞬間、トウマの手がユウリの胸元を遮った。
「呼ぶな」
声が低かった。
「その名前ごと、向こうに引っ張られる」
ユウリは唇を噛む。
名前を呼ぶな。
それは、ユウリにとって「助けるな」と言われているのに近かった。
だが、灰谷の周囲に何かがいた。
人影のようなもの。
白くぼやけた輪郭が、部屋の隅や天井近くに浮かんでいる。顔はない。腕も足もはっきりしない。だが、祈るように手を組んでいる影があり、スマホを掲げる影があり、跪く影がある。
彼らは神ではない。
たぶん、人でもない。
ユウリのAVISが震えた。
《信徒残響》
《存在しない神への救済願望が集合》
《神格未成立》
《契約誘導残滓》
《危険:同調した場合、仮信徒化》
「存在しない神……」
ミオが小さく呟いた。
その声に、信徒残響たちが一斉にこちらを向いた。
顔がないのに、見られたと分かる。
灰谷のスマホ画面が、さらに白く光った。
《あなたも救われます》
《苦しみを手放しますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
ユウリのスマホにも、通知が飛び込んできた。
《苦しみを手放しますか?》
《迷いを手放しますか?》
《選ばなくてよい救済を受け入れますか?》
《許可する》
ユウリの指が、一瞬だけ硬直した。
選ばなくてよい救済。
それは、今のユウリにとってあまりにも悪意のある言葉だった。
レイジの「神々の理を選べ」。
マシロの「管理を受け入れろ」。
トウマの「神話ごと切れ」。
どれにも答えられないユウリの迷いを、白い通知は正確に突いてきた。
許可すれば、楽になるのか。
選ばなくてよくなるのか。
その瞬間、アヴィが怒鳴った。
「押すな、ユウリ!」
画面が黒い羽根で埋まり、通知が弾かれる。
ユウリは息を吸った。
喉がからからに乾いていた。
隣で、ミオも苦しそうに胸元を押さえている。
彼女の画面にも通知が来ていた。
《あなたは何者でもなくてよい》
《女神でなくてよい》
《少女でなくてよい》
《苦しみを手放しますか?》
《許可する》
ミオの瞳が揺れる。
「何者でもなくていい……」
ユウリはすぐに言った。
「ミオ、見ないで」
ミオははっとして、画面を伏せた。
だが、白い光はまだ指の隙間から漏れている。
レンのスマホにも通知が来ているらしい。彼は歯を食いしばりながら、画面を裏返した。
「ふざけんな……。ログ消せば楽になるとか、そういうことかよ」
灰谷は、そんな三人の反応にも気づいていない。
彼はただ画面を見つめ続けている。
「俺、何したんだっけ」
涙が落ちた。
「何が怖かったんだっけ。誰といたんだっけ。何で、こんなに……」
彼の指が、画面の《許可する》へ近づく。
ユウリは思わず叫びそうになった。
その名前を。
だが、トウマが先に動いた。
「もういい」
彼の背後に、黒い紙片が浮かび上がる。
《裂頁の黒鋏》。
部屋の空気が、一段冷えた。
信徒残響たちは、祈るような姿勢のまま一斉に震えた。彼らにはトウマの契約相が見えているのだろう。あるいは、見える以前に、切られることを本能的に理解しているのかもしれない。
灰谷の胸元から、細い光の線が伸びていた。
ユウリには、最初それが見えなかった。
だが、トウマが鋏を開いた瞬間、輪郭が浮かぶ。
灰谷のスマホから、灰谷の胸へ。
灰谷の胸から、部屋に漂う信徒残響へ。
信徒残響から、もっと遠く、存在しない神の空白へ。
それは、まだ契約ではない。
でも、すでに食い込んでいる。
灰谷の中に、救われたいという願いを楔のように打ち込んでいる。
「待って」
ユウリは言った。
トウマは止まらない。
「切る」
「切ったら、何が残るんだ」
トウマの手が止まった。
ほんの一瞬。
彼はユウリを見た。
「苦しみが消える」
「それ以外は?」
問い返すと、トウマは黙った。
その沈黙が答えだった。
ユウリは灰谷を見る。
苦しんでいる。
今この瞬間、灰谷ユズルは確かに苦しんでいる。これ以上待てば、彼は《許可する》を押すかもしれない。存在しない神に救済を求め、仮信徒になるかもしれない。
トウマの断絶は、今すぐ効く。
でも。
ユウリは雨宮ソウタの顔を思い出す。
いたよ。灰谷。俺と一緒に相談所にいた。
あの言葉だけが、灰谷の存在を現実につなぎ止めていた。
もし、それまで切られたら。
「ユウリ」
アヴィが低く言った。
「止めるなら、君も契約相を展開する必要がある。だが、今の状況では危険だ」
「じゃあ、どうすれば」
「選べ」
アヴィの声は苦かった。
「今は、表示されているもの以外にも選択肢があるとは言えん。時間がない」
ユウリは拳を握る。
その間に、灰谷の指がさらに画面へ近づく。
トウマが鋏を閉じた。
音はない。
ただ、灰谷と白い通知を結んでいた線が、途中で終わった。
スマホの画面が黒くなる。
信徒残響たちが、声もなく崩れる。
祈る手がほどけ、白い輪郭が紙の灰のように散り、部屋の隅へ吸い込まれていく。
灰谷の体が、がくんと前へ倒れた。
ユウリは慌てて支えようとしたが、トウマが先に肩を押さえた。
灰谷は、荒い息を吐いた。
一度。
二度。
三度。
そして、顔を上げる。
目の焦点が、さっきよりはっきりしていた。
「あ……れ」
彼は周囲を見回した。
「俺、何してたんだっけ」
声に、さっきまでの切迫した苦しみはない。
呼吸も落ち着いている。手の震えも止まっている。
彼は本当に、楽になっていた。
ユウリはその事実に、何も言えなくなる。
救われた。
少なくとも、今は救われた。
灰谷はスマホを見た。
画面は真っ黒だ。
AVIS一般版の通知も、白い救済文も、すべて消えている。
「何か……変な夢見てたみたいだ」
灰谷は額を押さえた。
「頭、軽い。さっきまで、ずっと何かに言われてた気がする。救われるとか、許可しろとか……でも、もう聞こえない」
ミオが小さく息を吐いた。
「よかった……」
その言葉は自然に出たものだった。
ユウリも、ほんの一瞬だけ安堵しかけた。
だが、レンが尋ねた。
「雨宮ソウタ、覚えてるか」
灰谷はレンを見た。
目に、何の反応もなかった。
「雨宮?」
ユウリの胸が冷える。
灰谷は首を傾げた。
「誰?」
部屋の空気が、静かに沈んだ。
レンが一歩近づく。
「昨日、白環相談所にいただろ。お前と同じ部屋にいた。あいつ、お前のこと覚えてたんだよ。灰谷がいたって。みんなが忘れかけてたのに、あいつだけが――」
「相談所?」
灰谷は困ったように笑った。
「俺、そんなとこ行ったっけ」
「偽日輪事件は?」
「何それ」
「AVISで契約しかけたのは?」
「AVIS……は、入れてたかも。でも、あんまり覚えてない」
レンの表情が強張る。
灰谷は本当に分かっていない。
嘘をついているわけではない。
怖がっているわけでもない。
ただ、そこだけが抜けている。
苦しみが切られた。
同時に、苦しみにつながる記憶も切られた。
その中には、雨宮ソウタとのつながりも含まれていた。
ユウリはトウマを見る。
「何で」
声が震えた。
「何で、雨宮のことまで」
トウマは灰谷から手を離した。
「残っていたら、また引っ張られる」
「だからって」
「その記憶は、神話と一緒に絡んでいた」
トウマは淡々と言う。
「偽日輪。白環相談所。仮信徒化。雨宮ソウタ。全部、同じ束に絡まっていた。一本だけ残せば、そこからまた侵食する」
「でも、雨宮は灰谷を心配してたんだぞ」
「心配が鎖になることもある」
その言葉に、ユウリは強く反発したかった。
だが、灰谷を見ると、言葉が詰まる。
彼は本当に楽そうだった。
さっきまで、救済通知に囚われ、泣きながら《許可する》を押しかけていた少年が、今は落ち着いて呼吸している。
もし雨宮のことを思い出させれば、また苦しむのかもしれない。
また通知が戻るのかもしれない。
また、存在しない神の信徒残響が寄ってくるのかもしれない。
それでも。
ユウリは思う。
それでも、全部切っていいのか。
灰谷は立ち上がろうとして、少しふらついた。
ミオが慌てて支える。
「大丈夫ですか」
「うん。ありがとう。えっと……君たち、誰?」
その一言が、また胸に刺さった。
ユウリたちは彼を探しに来た。
雨宮が彼の存在を証言してくれた。
レンはログの裂け目を追った。
ミオは名前が消える恐怖を知っているから、ここまで来た。
でも、灰谷にはその全部がない。
彼にとっては、知らない誰かが突然部屋にいるだけだ。
トウマは言った。
「帰れるなら帰れ。ここに長くいるな」
「帰るって……どこに?」
灰谷が周囲を見回す。
その目に、不安が戻る。
「ここ、俺の部屋じゃないよな」
レンが端末を見る。
「住所ログがない。保護対象記録も裂けてる。学校の出席情報も欠けてる。こいつ、自分の帰る場所も一部切られてるかもしれない」
灰谷の顔色が変わった。
「何それ。俺、家どこだっけ」
トウマが少しだけ目を伏せる。
それは、ほんの一瞬の反応だった。
だが、ユウリは見た。
トウマも、分かっている。
切れば苦しみは消える。
でも、切断面の向こうに何が残るか、完全には制御できない。
トウマは万能ではない。
それでも、切るしかないと思っている。
灰谷は自分のポケットを探り、学生証を取り出した。
そこには名前が残っていた。
灰谷ユズル。
だが、住所欄の一部が薄い。
緊急連絡先の欄は、黒く裂けている。
灰谷はそれを見て、笑おうとした。
失敗した。
「なあ、俺……助かったんだよな?」
誰もすぐには答えられなかった。
最初に答えたのは、トウマだった。
「助かった」
短い断言。
灰谷は少しだけ安心したように息を吐く。
「そっか」
だが、ユウリにはその言葉が重すぎた。
助かった。
たぶん、それは嘘ではない。
でも、何から助かったのか。
何を失って助かったのか。
誰がその失ったものを覚えているのか。
その答えは、部屋のどこにもなかった。
ミオが、灰谷の学生証を見つめながら小さく言った。
「名前は、残っています」
「うん」
ユウリは頷く。
「でも、名前だけじゃ足りない」
第2話で学んだことだった。
名前は本人だけのものではない。
呼ぶ人がいて、覚えている人がいて、残っている場所があって、初めて現在に留まる。
灰谷ユズルという名前は、まだ学生証にある。
でも、雨宮ソウタとの記憶が切れている。
相談所にいた記録が裂けている。
帰る場所の一部が欠けている。
それは本当に「残っている」と言えるのか。
トウマはユウリを見た。
「まだ名前があるならいい」
「それだけで?」
「それだけ残せれば十分な時もある」
「十分じゃない時は?」
トウマは答えなかった。
その沈黙が、部屋の無音と混ざる。
遠くで、踏切の赤い光がまた点滅した気がした。
音は聞こえない。
だが、灰谷のスマホが一瞬だけ震えた。
画面は黒いまま。
それでも、そこに白い文字が一行だけ浮かぶ。
《切断を確認》
《救済処理:中断》
《未回収信徒:一名》
《再接続候補を検索中》
レンが叫んだ。
「まだ終わってない!」
トウマの表情が初めて険しくなる。
部屋の隅で、崩れたはずの信徒残響の欠片が、白い灰のように集まり始めていた。
完全には消えていない。
灰谷の苦しみは切った。
だが、存在しない神の側は、まだ灰谷を諦めていない。
しかも今度は、切断された線の断面から入ろうとしている。
アヴィが表示する。
《警告》
《切断面に残響集積》
《欠落街区深部へ反応波及》
《第零保管庫跡:反応》
「第零保管庫……」
ユウリが呟いた瞬間、団地の床が低く震えた。
まるで、建物の下で巨大な紙束が裂けるような音がした。
トウマは扉の方を見る。
「まずいな」
「何が」
「ここで切ったせいで、奥が起きた」
その言葉と同時に、廊下の先から黒い紙片が一枚、ひらりと流れ込んできた。
紙片には、途中で切れた文字が書かれていた。
――保管庫。
ユウリは、その紙片を見つめる。
灰谷は救われた。
でも、救いの切断面から、もっと深い欠落が開き始めていた。
第四節 ― 第零保管庫の裂け目
黒い紙片は、廊下の空気をゆっくり泳いでいた。
紙でも、影でもない。
そこに文字があるから紙に見えるだけで、実際には記録の破片なのだとユウリは直感した。
――保管庫。
その文字だけが、欠けた紙片の中央に残っている。
紙片は一度、灰谷ユズルの前で止まった。
灰谷は息を呑み、後ずさる。
「な、何だよ、これ」
彼の声は震えていた。
さっきまで存在しない神の救済通知に囚われていたことを、彼はもうほとんど覚えていない。だが、怖いという感覚だけは身体に残っているのだろう。記憶がなくても、恐怖の形だけが骨に染みついている。
ミオが彼の前に立った。
「見ないでください」
「え?」
「見すぎると、引っ張られます」
ミオ自身も顔色が悪い。それでも灰谷をかばうように手を伸ばした。
ユウリは、その背中を見て胸が詰まる。
彼女もずっと引っ張られている。別の名前へ。女神へ。依代へ。未定義核へ。
それでも、誰かが引っ張られそうになると前に出る。
トウマは廊下へ出て、黒い紙片を指で摘んだ。
指先に触れた瞬間、紙片の文字がかすかに震える。
――保管庫。
その下に、もう一行が浮かびかけた。
――第零。
トウマは目を細める。
「起きたな」
「起きたって、何が」
ユウリが問うと、トウマは紙片を放した。
紙片は床に落ちる前に、音もなく裂けて消えた。
「ここで切ったせいで、奥の記録が反応した」
「灰谷を助けたから?」
「助けたからじゃない。切ったからだ」
トウマの声には、責める響きも、後悔もない。
ただ事実を述べているだけだった。
レンが廊下の奥を見た。
「奥って……第零保管庫跡か?」
トウマは答えない。
その沈黙が肯定だった。
アヴィの表示が、ユウリのスマホに浮かぶ。
《欠落街区深部反応》
《第零保管庫跡:接続浮上》
《断絶神格関連記録:部分開示》
《警告:対象区域への侵入は推奨されません》
「また非推奨かよ」
レンが言った。
アヴィはすぐに返す。
《今回は本当に非推奨だ》
《補足:毎回本当に非推奨ではある》
「余計な補足やめろ」
そう言いながらも、レンの顔は強張っていた。
廊下の奥から、冷たい風が吹いてくる。
団地の廊下のはずなのに、その風には土とコンクリートと古い紙の匂いが混ざっていた。地下室の匂い。誰にも開かれない書庫の匂い。封じたものを、封じたまま忘れようとした場所の匂い。
灰谷が小さく言う。
「俺、帰っていい?」
その声に、ユウリは振り返った。
当然だと思った。
彼はもう十分巻き込まれている。何を覚えているかも曖昧で、自分の家の一部すら思い出せない。これ以上連れていくべきではない。
だが、トウマが言った。
「一人で戻れば、また拾われる」
「拾われるって……」
「今のお前は、切断面が開いたままだ。存在しない神の残響も、白環の追跡も、欠落街区の奥も、お前を見つけやすい」
灰谷の顔から血の気が引いた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
トウマは短く答える。
「俺の後ろを歩け。名前を呼ばれても返事をするな。知ってる声でも、振り向くな」
「知ってる声って、誰の」
灰谷が聞いた時、廊下の奥から声がした。
かすかな声。
『灰谷』
灰谷の体が硬直する。
ユウリも反射的に身構えた。
それは、雨宮ソウタの声に似ていた。
けれど、ユウリはすぐに違和感を覚えた。
似ているだけだ。
声の温度がない。心配している声の形だけを真似ている。第4話で雨宮が必死に灰谷の存在を証言した、あの切実さがない。
『灰谷、いたよな』
『一緒に相談所にいたよな』
『思い出せよ』
灰谷の唇が震える。
「雨宮……?」
トウマが言った。
「返事をするな」
声は続く。
『思い出せば、戻れる』
『思い出せば、助かる』
『こっちだ』
レンが歯を食いしばった。
「あれ、雨宮の言葉を使ってるのか」
アヴィが表示する。
《切断面残響》
《既存記憶音声の模倣》
《目的:現在名接続の再誘導》
《注意:本人の声ではありません》
灰谷は両耳を塞いだ。
「やめろよ……知らない。俺、知らないんだって」
知らない。
そう言わなければ耐えられないのだろう。
けれど、その「知らない」は彼を守る壁であると同時に、雨宮とのつながりをさらに遠ざける。
ユウリは何も言えなかった。
今ここで「思い出せ」と言えば、灰谷はまた引っ張られるかもしれない。
でも、思い出さないままでいいのか。
その答えは、まだ出ない。
「行くぞ」
トウマが歩き出した。
ユウリたちは、灰谷を間に挟むようにして、その後に続いた。
*
廊下を曲がると、そこはもう団地ではなかった。
コンクリートの壁が、いつの間にか学校の廊下の壁に変わっている。
剥がれかけた掲示板。割れた防火扉。古い水飲み場。窓ガラスの向こうには校庭が見えるはずなのに、そこには黒い空き地が広がっていた。
レンが息を呑む。
「玻璃川廃校……?」
アヴィが表示する。
《ロケーション照合》
《玻璃川廃校》
《廃校記録:不完全》
《所在地記録:複数矛盾》
《第零保管庫跡との空間重複を検出》
「廃校と保管庫が重なってるのか」
「違う」
トウマが言った。
「廃校の下に、保管庫の半分が残っている」
「半分?」
「もう半分は、記録ごと切れている」
その言葉が終わるのと同時に、廊下の床が途切れた。
物理的に崩れているわけではない。
床の続きが、そこだけ存在していない。
廊下の中央に、黒い断面がある。まるで建物を巨大な刃で斜めに切断し、その切断面の向こう側だけを世界から外したようだった。
ユウリは断面を覗き込んだ。
下に、地下施設が見える。
白い壁。
古い金属扉。
薄緑色の非常灯。
学校の廃校とは明らかに違う構造だった。
管理機構の白とは少し違う。もっと古い。もっと無機質で、もっと祈りから遠い白。神話を信じないためではなく、神話を危険物として保管するための白。
その地下施設が、廃校の床の下に半分だけめり込んでいる。
階段はない。
だが、トウマは何も言わず、黒い紙片を数枚浮かべた。
紙片が空中に並び、階段のような形になる。
「足元だけ見ろ。壁の文字は読むな」
レンが眉をひそめる。
「読むなって言われると読みたくなるんだけど」
「読めば欠ける」
「何が」
「読んだものが」
レンは口を閉じた。
ユウリたちは、黒い紙片の階段を慎重に降りた。
一歩踏むたびに、紙片は足裏でわずかに軋む。紙の感触ではない。何かの記録を踏んでいるような、嫌な抵抗があった。
地下へ降りると、空気がさらに冷たくなった。
壁には古い警告文が貼られている。
トウマは読むなと言った。
だが、読まないようにしても、文字の方から目に入ってくる。
《断絶神格封印記録》
《ザイン=トゥル》
《深層禁忌名――》
《照合禁止》
《喪失反応確認》
《記録そのものが失われる危険あり》
ユウリは途中で視線を逸らした。
それでも、文字の一部が頭に残る。
記録そのものが失われる危険あり。
記憶ではない。名前でもない。記録そのもの。
何かを忘れるのではない。
忘れたことすら残らない。
ミオが足を止めた。
「ここ、すごく……冷たいです」
彼女の声は細かった。
「神様の場所じゃない。でも、神様を閉じ込めようとした場所でもない。もっと……神様が来られないように、祈りを切った場所」
トウマが少しだけ彼女を見る。
「よく分かるな」
「分かりたくないです」
ミオは小さく答えた。
灰谷はずっと黙っていた。
両手で自分の学生証を握りしめ、名前欄を何度も確かめている。緊急連絡先はまだ黒く裂けたままだ。
レンは、壁の警告文を見ないようにしながらも、端末で何かを確認していた。
「ログが取れない。いや、取れてるけど、保存した瞬間にファイル名が欠ける」
画面には、保存ファイルが並んでいる。
だが、その名前はどれも途中で切れていた。
log_
ha_
zero_
――
「これ、外に出たら全部消えるかもな」
「残すなと言った」
トウマは前を見たまま言う。
レンは苛立ったように返した。
「残さなかったら、ここで何が起きたか誰にも分からない」
「分からない方がいいこともある」
「それ、管理機構と同じじゃないか」
トウマの足が止まった。
空気が少し硬くなる。
レンも、自分の言葉が思ったより鋭く刺さったことに気づいたのか、口を閉じた。
トウマは振り返らないまま言った。
「管理は、危険なものを預かる」
声は静かだった。
「断絶は、届かないようにする。似ているようで違う」
「でも、どっちもこっちに選ばせない」
ユウリが言った。
トウマが、ゆっくりとユウリを見る。
「選ばせた結果が、あれだ」
彼は灰谷を見た。
灰谷が怯えたように肩をすくめる。
「AVIS一般版。偽日輪。存在しない神。救済通知。選択肢がひとつしかない契約。あれも選択だと言うのか」
ユウリは答えられなかった。
灰谷は選んでいない。
選ばされかけた。
そして、その選択肢は最初から一つしかなかった。
だからトウマは、選択肢が出る前に線を切る。
それは乱暴だ。
でも、何もできずに見ているより、ずっと速くて確実だった。
ユウリのスマホが震える。
AVISが、勝手に解析を始めていた。
《警告》
《ザイン=トゥル深層貌に接近》
《禁忌名:ザイン=ロ――》
《表示を中断しました》
《これ以上の照合は推奨されません》
画面が黒く沈む。
アヴィの声が、低くなった。
「ユウリ。その先は見るな」
「ザイン=ロ……?」
ユウリが言いかけた瞬間、トウマの手が伸びた。
彼はユウリのスマホの上に指を置いた。
画面に出かけていた文字が、細く裂けて消える。
ユウリは息を呑んだ。
「何するんだ」
「言うな」
トウマの声は、これまでで一番強かった。
「その名前は、言うな」
「知ってるのか、その名前を」
トウマはしばらく黙っていた。
地下施設の非常灯が、じじ、と細く鳴る。
遠くのどこかで、水滴が落ちたような音がした。だが、次の瞬間には、その音が本当にあったのか分からなくなる。
やがて、トウマは答えた。
「知らない方がいい」
「知ってるんだな」
「知れば、切りたくなる」
その言葉に、ユウリは背筋が冷えた。
切りたくなる。
危険だから切るのではない。
怖いから切るのでもない。
知った者に、切ることを望ませる名前。
それはもう、神というより、思考そのものに入り込む刃に近い。
ミオが胸元を押さえた。
「その名前、聞こえません。でも……水面の底が、少し揺れました」
ユウリは彼女を見る。
「大丈夫?」
「はい。でも、嫌です。私の中の何かが、その名前を知らないふりをしようとしています」
知らないふり。
それは、忘れているのとは違う。
知ってはいけないから、知らないことにしている。
ミオの内側に流れ込んだ複数の女神残滓。そのどれかが、その禁忌名を避けているのかもしれない。
アヴィが短く言った。
「ここは長居するな。トウマの言う通りだ。あれは今の段階で照合していい名じゃない」
「ザイン=トゥルの奥に、別の神がいるのか」
「神という言い方が正しいかは分からん。だが、ザイン=トゥルは裂く。奥にあるものは……」
アヴィの声が、一瞬途切れた。
画面にノイズが走る。
「失わせる」
その一語だけが、残った。
ユウリは口の中が乾くのを感じた。
裂くなら、まだ切断面がある。
切られたと分かる。
そこにあったものが、途中で途切れたと気づける。
でも、失わせるものは。
失ったことすら、残らないのではないか。
*
地下通路の奥に、重い金属扉があった。
扉の上半分は存在していなかった。
正確には、そこだけ世界から切り抜かれている。扉の下半分だけが床に残り、上半分は黒い断面となって、何もない空間へつながっている。
扉の残った部分に、古い管理プレートが貼られていた。
《第零保管庫》
《断絶神格関連資料》
《開封禁止》
《記録者名:――》
《承認者名:――》
《封印日:――》
すべての名前と日付が裂けている。
誰がここを作ったのか。
誰が封じたのか。
いつ閉じたのか。
何も残っていない。
トウマが扉の前に立つ。
彼の背後に、黒い紙片がまた浮かんだ。
だが、今度は鋏の形を取らない。
紙片たちは震えている。
まるで、この場所そのものを恐れているように。
「開けるのか」
ユウリが聞くと、トウマは首を振った。
「開いている」
「でも、扉が」
「閉じているのは、形だけだ」
その言葉の直後、扉の向こうから紙が擦れる音がした。
さらさら。
さらさら。
無数のページを、見えない手がめくっているような音。
レンが一歩下がる。
「何かいる」
アヴィが表示する。
《裂頁眷属反応》
《分類:断絶神格周辺残滓》
《目的推定:記録線切断》
《警告:直接接触を避けてください》
黒い断面の奥から、一枚の紙片が出てきた。
次に、もう一枚。
さらに十枚、百枚。
紙片は空中で集まり、人型の輪郭を作る。
頭部はない。
顔もない。
胴体は破れた出席簿。腕は切れた卒業証書。足元には半分だけの名札がぶら下がっている。胸のあたりには、途中で終わった契約書の文面が貼りついていた。
それは人を殺すために作られた怪物ではない。
もっと静かで、もっと嫌なものだった。
人がここにいた証拠を、切るもの。
ユウリのスマホが震える。
画面に契約相展開の表示が出る。
《契約相展開》
《許可――》
《拒――》
《保――》
《――――》
文字が途中で切れている。
許可する、拒否する、保留する。
その選択肢が、最後まで表示されない。
ユウリの指が止まった。
「アヴィ、これ」
「ユウリ、気をつけろ!」
アヴィの声が叫ぶ。
「こいつら、選択肢そのものを裂いてくる!」
裂頁眷属が、音もなく一歩進む。
その足元で、灰谷の学生証が震えた。
名前欄の端に、細い亀裂が入る。
ミオの学生証も光る。
レンの端末から、ログファイルがひとつずつ消える。
そして、ユウリのAVIS画面では、未署名の観測翼の展開文字が、さらに短く裂けていった。
《契約相――》
《未署――》
《観測――》
《――》
トウマが前に出る。
背後で《裂頁の黒鋏》が開きかける。
だが、その刃の影に、第零保管庫の奥からさらに多くの紙片が反応した。
切れば、もっと出る。
ユウリにもそれが分かった。
この場所では、断絶の力そのものが呼び水になる。
アヴィが低く言った。
「次は、ただ切るだけじゃ足りない」
裂頁眷属が腕を伸ばす。
狙いはユウリたちの体ではない。
名前。
記録。
選択肢。
現在へつながる細い線。
ユウリは、表示の欠けたAVISを握りしめた。
まだ選択肢は完全には消えていない。
なら、残っている部分を探すしかない。
黒い紙片の群れが、第零保管庫の裂け目からあふれ出した。
第五節 ― 裂け目に残る現在名
黒い紙片の群れは、音もなくあふれ出した。
最初は、破れた紙が風に舞っているだけに見えた。
だが違う。
一枚一枚が、何かの記録だった。
裂けた出席簿。
破れた卒業証書。
半分だけ残った名札。
顔の部分だけが黒く抜けた写真。
途中で文面が終わっている契約書。
誰かの名前が書かれるはずだった空欄。
日付だけが残り、出来事の方が欠けた報告書。
それらが第零保管庫の裂け目から流れ出し、地下通路の空気を黒く染めていく。
紙片は床に落ちない。
空中で折れ、曲がり、重なり、関節のようなものを作る。頭部のない人型。腕の長すぎる人型。胸に名札の欠片を貼りつけた人型。背中から破れたページを翼のように垂らした人型。
顔はない。
声もない。
それでも、何をしようとしているのかは分かった。
切りに来ている。
ユウリたちが現在につながっている線を。
「下がれ」
トウマが前に出た。
背後で《裂頁の黒鋏》が開く。
黒い余白でできた巨大な鋏が、地下通路の薄い非常灯を呑み込むように広がった。刃が開いた瞬間、裂頁眷属たちの体から伸びる細い記録線が見える。
廃校の床へ。
欠落街区の地図へ。
灰谷ユズルの学生証へ。
ユウリたちのスマホへ。
そして、第零保管庫のさらに奥へ。
トウマは迷わず手を振った。
鋏が閉じる。
音はしない。
先頭の眷属が、途中で終わった。
倒れたのではない。壊れたのでもない。最初からその先の頁が存在しなかったかのように、胴体の途中で黒く切れ、紙片へ戻る。
続けて二体目、三体目。
トウマの動きは速い。
派手な光も、轟音も、爆発もない。
ただ、彼が指を振るたびに、何かが途中で終わる。
断絶。
それは戦闘というより、文を途中で打ち切る行為に似ていた。
レンが息を呑む。
「強すぎだろ……」
だが、ユウリはすぐに気づいた。
眷属が切られるたびに、周囲も欠けている。
地下通路の壁に貼られていた警告文の一部が消える。
非常灯の番号が飛ぶ。
床に描かれていた避難経路の矢印が途中で途切れる。
レンの端末に残っていたログファイル名が、さらに短くなる。
そして、灰谷ユズルの学生証。
彼が両手で握っているそのカードの端に、黒い裂け目が走った。
「灰谷!」
ユウリが叫ぶと、灰谷は学生証を胸に抱え込んだ。
「何だよ、これ。俺、もう助かったんじゃないのかよ!」
その声は、子どもみたいに震えていた。
トウマは振り返らずに言う。
「動くな。お前の切断面に寄ってきている」
「切断面って何だよ!」
「神話との線を切った跡だ」
「そんなの知らねえよ!」
灰谷の叫びが、地下通路に吸い込まれる。
その声に反応したように、裂頁眷属の一体が灰谷へ腕を伸ばした。腕は破れた契約書でできている。そこには、同じ文面が何度も書かれていた。
《許可する》
《許可する》
《許可する》
灰谷が顔を引きつらせる。
ユウリは咄嗟に前へ出た。
だが、その前にトウマの鋏が閉じる。
契約書の腕は黒い紙片になって散った。
同時に、灰谷の学生証の緊急連絡先欄が、さらに薄くなる。
「トウマ!」
ユウリは叫んだ。
「切れば切るほど、灰谷の記録まで裂けてる!」
「放っておけば食われる」
「でも、このままじゃ――」
「なら、お前が止めるのか」
トウマが初めて振り返った。
その目は冷たい。
けれど、怒っているだけではない。
本気で問いかけている。
「呼んで戻すのか。名前をつなぐのか。苦しみも、契約通知も、存在しない神の残響も、全部一緒に戻るかもしれない。それでもやるのか」
ユウリは答えられない。
その一瞬の沈黙を、裂頁眷属たちは待ってくれなかった。
地下通路の奥から、さらに紙片があふれ出す。
破れた写真の眷属が、レンへ向かう。
レンのスマホ画面に、保存されたはずの画像が次々と黒く抜けていく。
「くそっ!」
レンは端末をかざし、必死にログを別フォルダへ移そうとする。
だが、フォルダ名そのものが裂ける。
《log_ha》
《log_》
《――》
「ふざけんな。残れよ。消えるな!」
レンの声に焦りが滲む。
彼にとって、記録は抵抗だ。
見たものを、なかったことにさせないための武器だ。
その武器が、今まさに削られている。
ミオの方でも異変が起きていた。
裂頁眷属の一体が、彼女へ手を伸ばす前に、彼女の周囲の空気が白く揺れた。
月のような輪。
夜のような影。
水面のような光。
母の腕に似た輪郭。
死者の帳に似た薄布。
境界を示す白い線。
いくつもの女神の影が、ミオの背後に重なった。
ミオが苦しそうに息を詰める。
「やめて……私は……」
声が揺らぐ。
彼女の学生証が白く光り、名前欄の上で文字が何度もぶれる。
星宮ミオ。
別の神名。
星宮ミオ。
女神の名。
星宮ミオ。
世界の理。
星宮ミオ。
《星宮ミオ:現在名安定率 51%》
《女神照応過多》
《欠落街区内の空白に反応》
《複数残滓が現在名を補填しようとしています》
《警告:現在名上書きの危険》
「ミオ!」
ユウリが駆け寄る。
ミオは膝をついた。
顔が青い。額には汗が浮かび、指先が震えている。
「空いているところに……入ってくるんです」
「何が」
「名前じゃないもの。祈りみたいなもの。私じゃないものが、私の空いているところを埋めようとして……」
彼女の声の後ろに、いくつもの声が重なって聞こえた。
優しい声。
冷たい声。
母のような声。
夜のような声。
月のような声。
死者を呼ぶような声。
どれも美しい。
だからこそ怖い。
それらはミオを傷つけようとしているわけではない。
むしろ、欠けた場所を埋めようとしている。彼女を安定させようとしている。何者でもない不安から、女神や依代や境界者という意味を与えようとしている。
だが、それはミオ本人の名前ではない。
星宮ミオではない。
トウマがミオの前に立った。
「切る」
ユウリは反射的に彼の腕を掴んだ。
「待て!」
「待てば上書きされる」
「でも、ミオの中のものまで切るかもしれないだろ!」
「まとわりついている神話だけを切る」
「本当に区別できるのかよ!」
トウマは答えなかった。
その沈黙で、ユウリは分かってしまう。
完全には、できない。
トウマは強い。
断絶は効く。
だが、切るべきものと残すべきものを、必ず正確に分けられるわけではない。
ミオが、震える手でユウリの袖を掴んだ。
「ユウリくん」
「ミオ?」
「少しだけ……遠ざけてください」
ユウリの心臓が止まりそうになる。
「でも」
「怖いです。私が、私じゃないものに埋まっていくのが……怖い」
彼女は苦しそうに息を吸った。
「全部は嫌です。でも、今だけ……少しだけ、静かにしたいです」
その言葉に、ユウリは何も言えなくなった。
ミオ自身が望んでいる。
神話を切られることを、完全にではなく、一時的にでも望んでいる。
ユウリが止め続けることは、彼女の苦しみを長引かせることでもある。
トウマはミオの周囲に伸びる光の線を見ていた。
「深い線は切らない。表層だけだ」
「本当に?」
「約束はしない」
冷たい答えだった。
でも、嘘ではなかった。
ユウリは拳を握る。
「ミオの名前は切るな」
「名前は狙わない」
「もし切ったら」
「その前にお前が止めろ」
トウマはそう言って、《裂頁の黒鋏》を細く開いた。
今までのように大きく断ち切る動きではない。
針に糸を通すように、ミオの背後に絡む光の線のうち、外側のものだけを見極める。
月の影。
夜の帳。
母性の輪郭。
境界の白線。
記録外の祈り。
その一部が、ミオの現在名へ絡みついている。
トウマの指が、静かに動く。
鋏が閉じた。
ミオの背後で、いくつかの女神影が遠ざかる。
完全に消えたわけではない。
ただ、声が遠くなる。
ミオは大きく息を吸った。
地下通路の空気が、少しだけ軽くなる。
AVISが表示する。
《星宮ミオ:現在名安定率 72%》
《女神照応:一時低下》
《現在名干渉:軽減》
数字だけなら改善だ。
ユウリは安堵しかけた。
だが、ミオは胸に手を当てたまま、静かに言った。
「……静かです」
彼女の声は、安心しているようには聞こえなかった。
「でも、私の中の何かまで、遠くなった気がします」
ユウリは息を呑む。
「ミオ」
「怖い声も遠くなりました。でも……大事だったかもしれないものも、遠くなった気がします」
彼女の瞳が揺れる。
「それが何だったのか、もう分からないんです」
その言葉は、灰谷の「雨宮? 誰?」と重なった。
切れば楽になる。
苦しみは遠ざかる。
でも、その苦しみの中に、本人の一部が混ざっていたら。
切ったものが、恐怖だけではなかったら。
ユウリは、ようやく理解した。
トウマの力は救いだ。
だが、救いの形をした喪失でもある。
*
裂頁眷属たちは、まだ止まっていなかった。
むしろ、トウマがミオの線を切ったことで、さらに反応したように見えた。
地下通路の壁が裂ける。
廃校の床へ、欠落街区の路地へ、無音団地の廊下へ、黒い紙片が広がっていく。
ここだけの異変ではなくなっている。
欠落街区全体へ、断絶眷属が広がっている。
レンが画面を見ながら叫ぶ。
「街区全体のログが欠け始めてる! このままだと灰谷の記録だけじゃなくて、この辺り一帯の住所も、建物名も、全部飛ぶぞ!」
「切れば止まる」
トウマが言う。
「切りすぎたら、何が残るんだ!」
ユウリは叫んだ。
その声に、トウマの動きが一瞬止まる。
裂頁眷属の一体が、灰谷へ伸びる。
灰谷は学生証を握りしめたまま、床に座り込んでいた。目の焦点が揺れている。自分の家の場所も、相談所にいたことも、雨宮のことも曖昧なまま、ただ恐怖だけが戻ってきている。
ユウリは彼を見る。
名前だけでは足りない。
でも、全部戻せばまた苦しむかもしれない。
なら。
全部ではなく、残すべきものを探す。
切られた断面の中に、まだ残っている縁を見つける。
ユウリはスマホを握った。
画面の表示はまだ裂けている。
《契約相――》
《未署――》
《観測――》
《――》
選択肢は完全ではない。
許可するも、拒否するも、保留するも、途中で切れている。
けれど、完全に消えてはいない。
ユウリは画面に触れた。
「アヴィ」
「無理に展開すれば、君の契約線も裂かれる」
「なら、全部出さない」
「何?」
「倒すためじゃない。見るために使う」
一瞬、アヴィが黙った。
そして、笑うような声がした。
「……そう来るか。未署名らしいな」
画面に黒い羽根が浮かぶ。
羽根は途中で裂けかけ、白い文字片がこぼれる。だが、こぼれた文字片が完全に消える前に、ユウリの左手へ集まった。
剣ではない。
鍵でもない。
今回は、細い輪郭だけの翼だった。
片翼。
しかも、羽根の何枚かは欠けている。
それでも、ユウリの背後に白と黒の文字片でできた小さな翼が立ち上がった。
《契約相:未署名の観測翼》
《第二展開応用》
《切断面観測》
《現在名の残存縁を検索》
世界の見え方が変わった。
裂頁眷属たちは黒い紙片の塊ではなく、無数の切断面として見えた。
トウマの《裂頁の黒鋏》が切った跡。
白環補正が途中で断たれた跡。
灰谷ユズルと存在しない神を結んでいた契約線の切断面。
ミオの女神照応が遠ざけられた跡。
その中で、ユウリは探した。
灰谷ユズルを、今に留めているもの。
学生証の名前ではない。
AVISのログでもない。
管理機構の保護番号でもない。
もっと細く、もっと弱く、でもまだ切れきっていないもの。
見えた。
灰谷の胸元から、ほとんど消えかけた糸が一本伸びている。
その先は、白環相談所。
昨日の旧北口商店街。
白い椅子。
緊張した生徒たち。
マシロの端末。
管理番号。
そして、雨宮ソウタの声。
いたよ。灰谷。俺と一緒に相談所にいた。
その言葉だけが残っていた。
ほとんど切れている。
だが、まだゼロではない。
ユウリは息を吸った。
トウマが気づく。
「やめろ」
「まだ残ってる」
「戻せば、また苦しむ」
「全部は戻さない!」
ユウリは叫んだ。
観測翼の欠けた羽根が、切断面へ伸びる。
「でも、全部切るな!」
その声が、地下通路に響いた。
裂頁眷属たちが一斉にこちらを向く。
灰谷が顔を上げる。
トウマの目が、初めて大きく揺れた。
ユウリは残った糸を掴むように左手を伸ばした。
「灰谷ユズルは、雨宮ソウタと一緒に白環相談所にいた!」
声が、切断面へ届く。
黒い紙片が一斉に震えた。
存在しない神の残響が、灰谷へ再び伸びようとする。
だが、ユウリはそれを戻さない。
契約通知も、救済誘導も、仮信徒化の痛みも、全部ではない。
雨宮の名前だけ。
灰谷を心配した誰かがいたという事実だけ。
その細い縁だけを、切断面のこちら側へ引き戻す。
灰谷が頭を抱えた。
「う……」
ミオが駆け寄ろうとするが、ユウリは叫ぶ。
「灰谷! 全部思い出さなくていい!」
自分で言っていて、胸が痛かった。
でも、それが今できる精一杯だった。
「でも、一人じゃなかったことだけは、忘れるな!」
灰谷の唇が震える。
「一人……じゃ」
「雨宮ソウタが言ってた! お前はいたって! 一緒にいたって!」
雨宮の声が、今度は偽物ではなく、ほんの少しだけ形を取り戻す。
いたよ。
灰谷。
俺と一緒に相談所にいた。
灰谷の目から涙が落ちた。
「雨宮……?」
名前が戻る。
すべてではない。
記憶の風景も、会話の細部も、偽日輪事件の恐怖も、白環相談所の空気も、まだ曖昧だ。
それでも、その名前だけは、灰谷の内側に小さく灯った。
「そうだ……俺、あいつと……一緒にいた気がする」
その瞬間、灰谷の学生証の黒い裂け目が、ほんのわずかに塞がった。
緊急連絡先は戻らない。
住所欄も完全ではない。
でも、名前欄の下にあった亀裂が止まる。
《灰谷ユズル》
《現在名接続:微弱回復》
《関連名:雨宮ソウタ》
《記憶復元:限定》
《仮信徒化再発:抑制》
レンが息を吐いた。
「……戻った。少しだけ」
ミオが胸元を押さえながら、小さく頷く。
「ゼロじゃ、ないです」
ユウリの観測翼が崩れかける。
肩に重い痛みが走った。頭の奥で、何かが裂けるような感覚がする。
アヴィが怒鳴った。
「ユウリ、展開を閉じろ! それ以上見るな!」
ユウリは歯を食いしばり、左手を下ろした。
未署名の観測翼が文字片となってほどける。
視界が普通に戻る。
裂頁眷属たちは、灰谷へ伸ばしていた腕を失った。
だが、まだ完全には消えない。
トウマが無言で前へ出る。
今度は、大きく切らなかった。
灰谷やミオにつながる線を避けるように、眷属たちの外側だけを断つ。
一体、二体、三体。
黒い紙片が散る。
地下通路の裂け目が、少しずつ奥へ引いていく。
第零保管庫の扉の向こうに、紙片の群れが戻っていく。
トウマの動きは、さっきより慎重だった。
ユウリはそれに気づいた。
彼は、切り方を変えた。
全部を断ち落とすのではなく、残すべき線を見ながら切っている。
やがて、最後の眷属が黒い紙片へ戻り、扉の奥へ吸い込まれた。
地下通路に、静けさが戻る。
ただし、その静けさは最初よりも重い。
灰谷は床に座り込んだまま、ぼんやりと呟いた。
「雨宮……ソウタ」
その名前を、確かめるように。
ミオは壁にもたれ、目を閉じている。
現在名安定率は上がった。
けれど、彼女の中の何かは遠ざかったままだ。
レンは壊れかけたログを必死に確認している。
何かを残そうとしている。
ユウリは、息を整えながらトウマを見た。
トウマもまた、ユウリを見ていた。
冷たい硝子のような瞳。
だが、その奥に初めて、はっきりとした感情があった。
警戒。
苛立ち。
そして、理解できないものを見た時の戸惑い。
「中途半端だ」
トウマが言った。
ユウリは頷いた。
「そうだと思う」
「戻すなら戻せ。切るなら切れ。半端に残せば、また苦しむ」
「それでも、残ったものがある」
ユウリは灰谷を見た。
灰谷は雨宮の名前を何度も小さく繰り返している。
完全ではない。
でも、ゼロではない。
「俺は、それを探す」
トウマは黙った。
地下通路の非常灯が、じじ、と鳴る。
その音は、今度は消えなかった。
トウマは視線を外し、第零保管庫の裂け目を見る。
「そんなことを続けていたら、いつか全員壊れる」
「全部切ったら、壊れたことも分からなくなる」
ユウリが言うと、トウマの瞳がわずかに揺れた。
返事はなかった。
ただ、彼はもう一度、灰谷の学生証を見た。
そこに残った小さな名前の灯りを。
そして、何かを言いかけて、やめた。
その沈黙が、第零保管庫の冷たい空気の中に、しばらく残った。
終節 ― 神話ごと切れ
第零保管庫の裂け目は、完全には閉じなかった。
裂頁眷属たちが奥へ引いていったあとも、扉の向こうには黒い断面が残っていた。そこから風は吹いていない。音もない。だが、ユウリには、その奥でまだ何かがこちらを見ているように思えた。
見られているのではない。
見たことにされかけている。
あるいは、見なかったことにされかけている。
「出るぞ」
トウマが言った。
彼の声はいつも通り平坦だった。だが、ほんの少しだけ息が乱れている。第零保管庫の裂頁眷属を切り、ミオの女神照応を一部だけ断ち、さらにユウリが残した縁を避けて眷属を処理した。その負荷がまったくないわけではないのだろう。
それでも、彼は弱みを見せなかった。
黒い紙片が足元に集まり、地下施設から廃校の廊下へ戻るための階段を作る。
灰谷ユズルは、その階段を見て明らかに怯えた。
「これ、乗って平気なのかよ」
「平気ではない」
トウマは即答した。
灰谷の顔が引きつる。
「じゃあ何で乗せるんだよ」
「ほかに道がない」
「そういうの、もう少し言い方ないのかよ……」
灰谷は泣きそうな顔で文句を言いながらも、学生証を握りしめて立ち上がった。足元はふらついている。ユウリが支えようとしたが、その前にミオがそっと手を差し出した。
「ゆっくりで大丈夫です」
「……あ、ありがとう」
灰谷はミオの手を取った。
その瞬間、ミオの指先がほんの少し震えた。
ユウリは見逃さなかった。
「ミオ?」
「大丈夫です」
ミオは笑おうとした。
だが、その笑みは薄い。
さっきトウマに表層の女神照応を切られてから、彼女の周囲の空気は確かに静かになっている。けれど、その静けさは安心とは違った。嵐が過ぎたあとではなく、音の一部だけがなくなった部屋のような静けさ。
ユウリのAVISが、彼女の状態を表示する。
《星宮ミオ:現在名安定率 72%》
《補足:安定率上昇》
《女神照応:一時低下》
《警告:内部照応欠落あり》
数字は上がっている。
けれど、警告は残っている。
ユウリは画面を見つめたまま、胸の奥が冷えるのを感じた。
助かったのか。
それとも、何かを失って安定しただけなのか。
今は、まだ分からない。
*
廃校の廊下に戻ると、窓の外には黒い空き地が広がっていた。
しかし、来た時よりも景色が少し変わっている。
砕けたアスファルトの先に、古いフェンスが見えた。フェンスの向こうには、欠落街区の路地と団地がある。無音団地。記録裂けの路地。黒い踏切。
現実の街が、少しずつ戻ってきている。
完全ではない。
だが、第零保管庫の反応が退いたことで、街区全体に広がりかけていた断絶は一時的に収まったようだった。
レンは歩きながら、何度も端末を確認していた。
「ログ、少し残ってる」
「本当か」
「断片だけどな。灰谷、雨宮、白環相談所、第零保管庫……名前だけは残った。画像はほぼ壊滅。音声はノイズだらけ。でもゼロじゃない」
その言い方には、疲労と同じくらい強い執着があった。
ユウリは小さく頷く。
「ゼロじゃないなら、後でつなげる」
「お前、簡単に言うなよ」
レンは苦笑した。
「でも、まあ……そうだな。ゼロじゃないなら、まだやれる」
灰谷が、ぽつりと言った。
「雨宮ってやつに、俺、会った方がいいのかな」
ユウリたちは足を止めた。
灰谷は自分の学生証を見ていた。
名前欄は残っている。住所欄はまだ薄い。緊急連絡先は黒く裂けたままだ。だが、その下に、AVISが補助表示のように出した小さな関連名だけは残っていた。
《関連名:雨宮ソウタ》
「思い出したわけじゃないんだ」
灰谷は言った。
「顔も分からない。声も……さっき聞こえたのが本物じゃないってのは、何となく分かる。でも、その名前を見てると、胸のあたりが変な感じになる」
「怖い?」
ミオが聞いた。
灰谷はしばらく考えてから、首を横に振った。
「怖い、とは違うかも。申し訳ない、みたいな。たぶん、俺、そいつに何か心配かけたんだろ」
ユウリは胸が詰まった。
全部は戻っていない。
でも、雨宮ソウタという名前だけは、灰谷の内側に小さく残った。
それが救いなのかどうかは分からない。
けれど、少なくとも完全な断絶ではなかった。
トウマは何も言わずに先を歩いている。
その背中は細く、冷たく、どこか遠い。
ユウリは、その背中を見ながら思った。
トウマは灰谷を救った。
ユウリだけでは、灰谷をあの白い通知から助けられなかったかもしれない。
でも、トウマだけだったら、雨宮の名前は戻らなかったかもしれない。
どちらが正しいのか。
たぶん、まだ答えは出ない。
*
黒い踏切の手前まで戻ると、そこにはマシロがいた。
白いブラウスに黒いジャケット。いつもの落ち着いた立ち姿。だが、表情はいつもより硬い。彼女の後ろには、白環管理機構の職員らしき者が二名立っている。いずれも白い端末を持っていたが、踏切より内側へは入ってこない。
いや、入れないのだろう。
黒い踏切の赤い警報灯が、無音で点滅している。
その境界の手前で、マシロは待っていた。
「灰谷ユズルさん」
彼女は、まず灰谷の名前を呼んだ。
管理番号ではない。
保護対象でもない。
灰谷ユズル。
ユウリは、その一点だけで少しだけ息を吐いた。
マシロも学んでいる。
彼女のやり方を完全には信じられない。だが、昨日の白環管理区域での対立が、何も残さなかったわけではない。
灰谷は戸惑いながら返事をした。
「……はい」
「保護します。身体検査と記録安定処理が必要です。ただし、強制的な記憶補正は行いません。現在名と関連名の保持を優先します」
関連名。
それは、おそらく雨宮ソウタのことだ。
灰谷は不安そうにユウリたちを見た。
「行って、大丈夫なのか」
ユウリはマシロを見る。
マシロの目は静かだった。
嘘は言っていない。だが、すべてを任せてよいとも言いきれない。
「俺たちも後で確認する」
ユウリはそう言った。
「雨宮にも、ちゃんと伝える」
灰谷は小さく頷いた。
「……頼む」
その声には、まだ記憶の裏打ちはない。
でも、名前に対する反応だけはあった。
灰谷ユズルは、完全には戻っていない。
それでも、自分の名前で返事をした。
職員の一人が灰谷を支え、踏切の外側へ連れていく。灰谷が境界を越える瞬間、赤い警報灯が一度だけ強く光った。
だが、彼の名前は消えなかった。
ユウリは心の中で、もう一度その名を確かめた。
灰谷ユズル。
雨宮ソウタ。
消さない。
全部は戻せなくても、ゼロにはしない。
*
マシロの視線が、トウマへ向いた。
「玻璃川トウマさん」
トウマは返事をしない。
マシロは続けた。
「あなたの断絶処理により、灰谷さんの仮信徒化は停止しました。その点については認めます」
「礼ならいらない」
「礼ではありません」
マシロの声が少しだけ冷たくなる。
「断絶処理は、管理よりも取り返しがつきません」
空気が硬くなった。
レンが息を呑む。
ミオはユウリの隣で静かに立っている。
トウマは、まるで予想していた言葉を聞いたかのように、わずかに目を細めた。
「管理しても救えなかったから、ここに来たんだろ」
マシロは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
白環相談所で保護されたはずの灰谷は、記録から裂け、欠落街区へ落ちた。管理は間に合わなかった。あるいは、管理の線が混ざったことで、余計に記録を裂いた。
トウマの言葉は乱暴だ。
だが、完全な誤りではない。
「それでも」
マシロは静かに言った。
「人の記憶、関係、現在名につながる記録を、本人の同意なく切断することは許容できません」
「同意を取っている間に、神話に食われる」
「だからといって、切断後に何が残るか確認しないまま処理してよい理由にはなりません」
「確認している間に、救えない」
「救うことと、残すことは両立させるべきです」
「両立できるなら、最初から誰も欠けない」
短い応酬だった。
だが、その一つ一つが重かった。
ユウリは二人の間に立っている自分に気づいた。
マシロは守るために預かる。
危険を封じ、記憶を整え、日常へ戻す。
それはきっと、必要なことだ。
危険な神話を何も知らない人々が、そのまま巻き込まれれば、偽日輪のような事件は何度でも起きる。
トウマは救うために切る。
神話との接続を断ち、苦しみを止め、神々や残滓が届かない場所へ逃がす。
それもまた、必要なのかもしれない。
灰谷は、トウマの断絶がなければ、存在しない神の信徒になっていたかもしれない。
どちらも正しい部分がある。
そして、どちらも怖い。
マシロの白は、人の記憶を日常へ戻す代わりに、名前の輪郭まで白く塗る。
トウマの黒は、苦しみを断つ代わりに、つながりまで切る。
ユウリは拳を握った。
「二人とも、間違ってるって言えない」
マシロとトウマが同時にユウリを見る。
ユウリは続けた。
「でも、どっちかだけに任せたら、何かが消える」
マシロは目を伏せた。
トウマは何も言わない。
「俺はまだ、答えを出せない」
ユウリの声は小さかった。
でも、逃げるための言葉にはしたくなかった。
「でも、灰谷の雨宮って名前は、残したかった。ミオの名前も、勝手に預けたくない。切られたくもない」
ミオが隣で息を呑む。
ユウリは少しだけ振り返った。
彼女は何も言わなかった。
ただ、自分の学生証を両手で握っている。
星宮ミオ。
その名前は、まだそこにある。
けれど、今は少し静かすぎる。
トウマの視線が、ミオへ向いた。
ユウリは反射的に身構える。
トウマはその反応を見ても、表情を変えなかった。
「その子は、もう長くは保たない」
ミオの肩が小さく震えた。
ユウリの胸に、熱が走る。
「何でそんなことが分かる」
「見れば分かる」
「またそれかよ」
「神話が絡みすぎてる」
トウマは淡々と言った。
「女神だろうが、理だろうが、残滓だろうが、全部同じだ。触れている限り、いつか持っていかれる」
「同じじゃない」
ユウリは即座に言った。
「ミオは女神じゃない。理でも、残滓でも、依代でもない」
「そう呼んでも、向こうはそう見ない」
トウマの声は冷たい。
だが、そこには悪意がない。
「向こうは、その子の意思を待たない。空いているところがあれば埋めに来る。名前が揺れれば、別の名前を入れに来る。神話はそういうものだ」
ユウリは言葉を失った。
その通りだと思ってしまったからだ。
無番線ホームも、出席簿の空席も、偽日輪も、白環補正も、欠落街区も。
すべて、本人の意思を待ってくれなかった。
ミオは静かに言った。
「私は……持っていかれたくありません」
声は震えていた。
それでも、はっきりしていた。
「でも、全部切られるのも怖いです。さっき、少し静かになって……楽になりました。でも、私の中の何かまで遠くなった気がしました」
彼女はトウマを見る。
「それが本当にいらないものだったのか、私にはまだ分かりません」
トウマはしばらくミオを見ていた。
冷たい硝子のような瞳。
その奥で、何かがほんの少し動く。
「分からないまま持っていれば、いつかそれに飲まれる」
「分からないまま切ったら、何を失ったかも分からなくなります」
ミオの言葉に、トウマは初めて返事をしなかった。
ユウリはその沈黙を覚えておこうと思った。
トウマは怖い。
けれど、何も感じていないわけではない。
彼もまた、何かを切りすぎたことがあるのかもしれない。
何かを残せなかったことがあるのかもしれない。
*
黒い踏切の赤い光が、また点滅した。
トウマは視線を外し、踏切の向こう側へ歩き出した。
「待て」
ユウリが呼ぶと、彼は足を止めた。
「お前は、どうしたいんだ」
トウマは振り返らない。
「神話を切る」
「全部?」
「必要なら」
「人の記憶も、つながりも、名前も?」
「神話に奪われるくらいなら」
ユウリは歯を食いしばった。
「それで残った人は、本当にその人なのか」
トウマの背中が、ほんの少しだけ揺れた。
だが、彼は振り向かなかった。
「神話に持っていかれたら、その人ですらいられない」
「だから、切るのか」
「そうだ」
そして、彼はミオの方を一度だけ見た。
「ミオを助けたいなら、神話ごと切れ」
その言葉は、黒い踏切の赤い光の中で落ちた。
重く、冷たく、逃げ場がない。
ユウリは答えられなかった。
切れば、ミオは楽になるかもしれない。
数字も上がった。
現在名安定率は、確かに改善した。
でも、彼女の中に欠落が残った。
ミオ自身が、それを感じている。
切れば救える。
しかし、切ったものが本当に不要なものだったのか、誰が決めるのか。
ユウリには、まだ分からない。
トウマはそれ以上何も言わず、黒い踏切を越えた。
赤い灯りが一度、彼の姿を照らす。
次の瞬間、彼の輪郭が少し薄れる。
遮断機は下りていない。電車も来ていない。警報音も鳴らない。
それでも、トウマは踏切の向こう側へ消えていった。
まるで、街の記録から一行だけ切り取られたように。
ユウリのAVISが震える。
《玻璃川トウマ》
《契約神:ザイン=トゥル》
《断絶派接触》
《契約相:裂頁の黒鋏》
《警告:彼は敵ではありません》
《追加警告:敵ではないことは、安全を意味しません》
ユウリはその表示を見つめた。
敵ではない。
その言葉が、かえって重い。
レイジも敵ではなかった。
マシロも敵ではなかった。
トウマも敵ではない。
でも、誰の正しさにも、何かを失わせる力がある。
マシロが静かに言った。
「天瀬さん」
ユウリは振り返る。
「灰谷さんの件は、こちらで引き継ぎます。雨宮さんとの接触については、慎重に進めます」
「補正は?」
「必要最低限にします」
その言い方に、ユウリは少しだけ眉を寄せた。
マシロは続けた。
「今の私に約束できるのは、そこまでです」
正直な言葉だった。
だからこそ、簡単には頷けない。
でも、今ここでマシロを拒絶しても、灰谷を安全に保護する手段はユウリたちにはない。
「確認しに行きます」
ユウリは言った。
「灰谷のことも、雨宮のことも」
「分かりました」
マシロは頷いた。
その顔には、疲労が見えた。
白環管理機構の現場管理官。
正しい大人。
でも、彼女もまた完全ではない。
*
欠落街区を出る頃には、空が夕方に変わっていた。
どれくらい中にいたのか分からない。
レンの端末では、時間記録が一部飛んでいた。ユウリのスマホも、踏切を越えた前後のログが欠けている。ミオの学生証には名前が残っているが、指でなぞると少しだけ冷たかった。
星綴高等学園へ戻る道で、三人はしばらく黙って歩いた。
誰もすぐには話せなかった。
灰谷は助かった。
でも、完全には戻っていない。
ミオは安定した。
でも、何かが遠くなった。
ユウリは未署名の観測翼を応用できた。
でも、見えたものの重さに、まだ息が詰まっている。
レンがようやく口を開いた。
「なあ」
「うん」
「俺、ログを残すの、やめないからな」
ユウリは少しだけ笑った。
「うん」
「切られても、壊れても、断片だけでも残す。全部残せなくても、残ったやつをつなげる」
「それ、頼りにしてる」
レンは少しだけ照れたように目を逸らした。
「まあ、俺がやらないと誰もできないしな」
ミオが小さく笑った。
その笑みは薄い。
でも、確かにミオのものだった。
ユウリはそれを見て、ほんの少しだけ安心する。
「ミオ」
「はい」
「今、どんな感じ?」
ミオは少し考えた。
「静かです」
やはり、その言葉が出た。
ユウリの胸が沈む。
だが、ミオは続けた。
「でも、ユウリくんとレンくんの声は聞こえます」
ユウリは顔を上げる。
「それなら、大丈夫です。今は」
今は。
その言葉は、希望でもあり、保留でもあった。
ユウリは頷いた。
「じゃあ、何度でも呼ぶ」
ミオは少し驚いた顔をして、それから微かに笑った。
「はい」
彼女は自分の学生証を見た。
「私も、言います」
そして、小さな声で名乗った。
「星宮ミオです」
風が吹く。
神狭市の夕方の音が戻ってくる。
車の走る音。遠くの店のシャッター。子どもの笑い声。信号機の電子音。
欠落街区の無音とは違う。
現実の街の音。
その中で、ユウリのスマホが最後にもう一度震えた。
《第5話事象記録》
《欠落街区:一時沈静》
《第零保管庫跡:未解決》
《灰谷ユズル:保護移行》
《関連名:雨宮ソウタ 微弱回復》
《星宮ミオ:現在名安定率 72%》
《警告:内部照応欠落あり》
《玻璃川トウマ:断絶派接触済》
《次回予測:構文解放派ネットワーク反応》
ユウリは画面を閉じた。
また、次が来る。
神々の再臨。
人類管理。
断絶。
そして、まだ見えていない別の勢力。
どれも、ミオを、灰谷を、神狭市を、自分たちの正しさへ引っ張ろうとしている。
ユウリは空を見上げた。
夕方の空には、星はまだ見えない。
それでも、どこかで何かが綴られている気がした。
切られた頁の端に。
白く補正された余白の奥に。
検索され、拡散され、まだ神にも物語にもなりきっていない言葉の群れの中に。
ユウリは、まだ答えを出せない。
けれど、ひとつだけ決めた。
消えかけた名前を、簡単には手放さない。
切れば終わるものでも、預ければ守られるものでも、祈れば救われるものでもない。
その間に残る、細い縁を探す。
たとえそれが、中途半端だと言われても。
ユウリは歩き出した。
ミオとレンが、その隣に並ぶ。
後ろでは、神狭市西部の空が、ほんの少しだけ黒く裂けたままだった。