Episode 06

第6話 ― 隠されたログ

本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。

序節 ― 隠されたログ

 第二図書準備室には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。

 古いガラス窓は少し曇っていて、外の校庭をぼんやりと滲ませている。部活へ向かう生徒たちの声、ボールの跳ねる音、吹奏楽部の音出し、廊下を走る誰かの足音。それらは全部、いつもの星綴高等学園の音だった。

 けれど、ユウリには、その日常の薄い膜の下で、何か別のものが蠢いているように感じられた。

 第一話の神狭駅。
 第二話の旧校舎。
 第三話の天御柱神宮。
 第四話の旧北口商店街。
 第五話の欠落街区。

 どれも終わったはずなのに、終わっていない。

 解決したはずなのに、どこかに傷跡だけが残っている。

 そして、その傷跡は記録に残らない。

「……また消えてる」

 準備室の奥で、久遠レンが低く呟いた。

 彼の前には、ノートパソコンが一台、スマホが二台、古い学校新聞の切り抜き、印刷された地図、神狭市の交通案内、そして、いくつものスクリーンショットを貼った紙が広げられていた。

 いつものレンなら、こういう作業をしている時はどこか楽しそうだった。

 新しい抜け道を見つけた時。
 削除済みのページをキャッシュから引っ張り出した時。
 学校のネットワークの変な癖を見抜いた時。

 そういう時のレンは、少し得意げに笑う。自分だけが見つけた隠し扉を、友達に見せびらかす子どもみたいに。

 でも今のレンは笑っていなかった。

 目の下に薄い影がある。
 机の上のエナジードリンクは、半分以上残ったまま温くなっている。
 キーボードを叩く指先は速いが、何度も同じキーを叩き直していた。

「何が?」

 ユウリが尋ねると、レンは画面をこちらに向けた。

 そこには、フォルダがいくつも並んでいる。

 《無番線ホーム》
 《星綴七不思議》
 《偽日輪》
 《白環管理区域》
 《欠落街区》
 《第零保管庫》
 《灰谷ユズル》
 《雨宮ソウタ》
 《玻璃川トウマ》

 だが、フォルダの中身はほとんど空だった。

 動画ファイルは破損している。
 画像は真っ白、あるいは黒い裂け目だけが写っている。
 音声ファイルはノイズしか残っていない。
 テキストログは、肝心な名詞だけが抜けている。

「これ、神狭駅のやつ。最初は地下通路の案内板が変わる瞬間が撮れてたんだよ」

 レンはファイルを開いた。

 画面には、神狭駅の地下通路が映る。

 人通り。広告ポスター。改札へ向かう階段。
 そこまでは普通だった。

 次の瞬間、画面が乱れる。

 音だけが残った。

 カン、と古い切符鋏のような音。

 しかし映像には何もない。

「ここ、本当は《無番線》って出たはずだろ」

 レンは画面を指で叩いた。

「でも消えてる。俺のスマホに一回保存した時には残ってた。バックアップも取った。なのに、翌朝にはこれだ」

 彼は次のファイルを開く。

 旧校舎の黒板。

 そこには本来、《本日の欠席者》と書かれていたはずだった。

 だが、画像には黒板だけが映っている。

 白いチョークの跡も、名前もない。

「これが出席簿の空席。倉持の名前も、綴白ナナセも、全部消えてる」

 レンは続けて別の動画を開く。

 天御柱神宮の鏡池。

 夜なのに白い日輪が浮かび、偽日輪が顕現した場所。

 だが、映っているのはただの暗い池だった。

 水面には街灯が揺れているだけ。
 あの白昼のような光も、レイジの契約相も、ユウリが神名偽装を剥がした瞬間も、どこにもない。

「これもだ。SNSに上がってた動画も、全部“通信障害”扱いで消されてる。残ってるのは『妙に明るかった気がする』とか『神社イベント中止?』みたいな曖昧な投稿だけ」

 レンの声に苛立ちが混ざる。

 ユウリは何も言えなかった。

 あの時の光を覚えている。

 偽日輪の熱。
 ミオの名前が薄れていく恐怖。
 レイジの光の太刀。
 未署名の観測翼が初めて立ち上がった感覚。

 自分の身体には、まだ残っている。

 でも、記録には残っていない。

 レンはさらにファイルを開いた。

 白環管理区域。

 旧北口商店街の舗道に浮かんだ白い円環。
 白環相談所。
 マシロの端末。
 管理対象という文字。
 白く塗りつぶされていく看板。

 そこも、記録には残っていなかった。

 画像には、ただの商店街が映っている。

 シャッター。古い時計店。看板の薄れた薬局。
 カフェ《ノーネーム》の入口だけが、なぜか妙にはっきり写っている。

 レンは唇を歪めた。

「白環のログは、たぶんマシロさん側が消してる。消したというより、補正してる。こっちの端末に残ってる画像まで、後から普通の景色に置き換わってる」

「そんなことまでできるのか」

「できるからやってんだろ」

 レンは乱暴に次のフォルダを開く。

 欠落街区。

 そこに入ると、さらにひどかった。

 画像そのものが保存されていない。
 フォルダ名だけが残って、中は空。
 いくつかのファイルはファイルサイズがあるのに、開くと真っ黒だった。

 《第零保管庫》のフォルダには、文字化けしたテキストが一つだけ残っている。

 開くと、そこには断片だけがあった。

《ザイン=トゥ――》
《禁忌名:ザイン=ロ――》
《表示を中断しました》
《記録そのものが――》

 その先は、黒く裂けている。

 ユウリの背中に冷たいものが走った。

 あの地下の空気を思い出す。

 半分だけ残った金属扉。
 破れた警告文。
 裂頁眷属。
 トウマの《裂頁の黒鋏》。
 そして、言いかけただけでアヴィが止めた禁忌名。

 記録そのものが失われる危険。

 あの文字だけは、今でも頭から離れなかった。

 ミオは机の端に立って、静かに画面を見ていた。

 彼女の顔色は、ここ数日の中では悪くない。

 第五話でトウマが女神照応を一部だけ切ったことで、現在名安定率は上がっている。けれど、ユウリは彼女が時々、自分の声を確かめるように小さく息を吸うのを知っている。

 前より楽。
 でも、自分の中の何かが遠くなった。

 その言葉が、まだユウリの胸に残っていた。

 ミオは、黒く裂けたログを見つめながら言った。

「消されたものって、本当に消えるわけじゃないんですね」

 レンが顔を上げる。

「どういう意味?」

「消えたところだけ、形が残っています」

 ミオは指先で、画面の黒い裂け目を指した。

「何があったかは分からない。でも、何かがあった場所だけは分かる。名前が消えた後に、名前があった場所だけが残るみたいに」

 ユウリは黙って頷いた。

 それは、灰谷ユズルの記憶にも似ていた。

 雨宮ソウタのことを完全には思い出せない。
 でも、その名前を聞くと胸が反応する。

 ゼロにはならなかった。

 けれど、完全に戻ったわけでもない。

「でも」

 ミオは続けた。

「残っているものだけでは、何があったのか分からなくなる」

 その言葉に、レンの表情が変わった。

 怒りではない。

 もっと深いところに、刺さった顔だった。

「……だろ」

 レンは小さく言った。

「そうなんだよ」

 彼は椅子にもたれ、天井を見上げた。

「消されたら分からない。分からなかったら、次に同じことが起きても止められない。駅で何が起きたのか、学校で何が起きたのか、神社で何が起きたのか、商店街で何が起きたのか、欠落街区で何が起きたのか。誰かが勝手に隠して、勝手に補正して、勝手に切って、それで『安全です』って顔する」

 レンの手が、机の上のマウスを強く握る。

「ふざけんなよ」

 その声は、準備室の古い本棚に低く響いた。

「誰もかれも、勝手に隠すなよ」

 ユウリはレンを見る。

 その怒りは、分かる。

 レンは最初から、隠されることを嫌っていた。

 第1話では、AVIS一般版の裏側を調べた。
 第2話では、学校の記録を追った。
 第3話では、偽日輪の拡散速度を見抜いた。
 第4話では、白環補正に苛立った。
 第5話では、欠落街区のログが切られることに抵抗した。

 レンは、見たものを残そうとしてきた。

 なかったことにされるのが嫌だった。

 それはきっと、正しい。

 でも、ユウリは同時にマシロの言葉も思い出していた。

 自由な神話など、爆弾を子どもに配るようなものです。

 そしてトウマの言葉も。

 神話に持っていかれるくらいなら、切る。

 隠すには理由がある。
 切るにも理由がある。
 それが分かってしまうから、ユウリは簡単にレンへ頷けなかった。

「レン」

「何」

「全部見えるようにすれば、本当に安全になるのか?」

 レンはすぐには答えなかった。

 その沈黙が、答えの代わりだった。

 彼だって、分かっている。

 全部を流せば危険なものまで流れる。
 ミオの名前が晒されれば、彼女は神話の素材にされるかもしれない。
 灰谷のような被害者の記録が広がれば、誰かが同じ儀式を真似るかもしれない。
 偽日輪の動画が拡散されれば、それを見る人の数だけ偽日輪は輪郭を取り戻すかもしれない。

 それでも。

 レンは低く言った。

「じゃあ、誰が決めんだよ」

 ユウリは言葉を失う。

「何を隠して、何を出して、誰が知ってよくて、誰が知らないままでいろって、誰が決めんだよ。マシロさんか? 神楽坂さんか? トウマか? 神様か? 管理機構か?」

 レンはユウリを見た。

「それとも、お前が決めんのか?」

 その問いは鋭かった。

 ユウリは息を呑む。

 決められない。

 まだ、決めたくない。

 でも、決めないことで誰かを危険に晒しているのかもしれない。

 その事実が、胸の奥に重く沈んだ。

 ミオが静かに言った。

「私は……全部を知られるのは怖いです」

 レンの顔に、わずかに痛みが走る。

 ミオは続ける。

「でも、何も知らないまま誰かが同じ目に遭うのも、怖いです」

 彼女の言葉は、レンを責めていなかった。

 ユウリを責めてもいない。

 ただ、自分の怖さをそのまま口にしていた。

 だからこそ、重い。

 準備室に沈黙が落ちる。

 窓の外では、校庭の照明が一つずつ灯り始めていた。

 夕方の空は、まだ青い。
 けれど、端の方から少しずつ夜が滲んでいる。

   *

 その日の夜。

 レンは自室の机に向かっていた。

 部屋は散らかっている。

 漫画、充電ケーブル、古いゲーム機、分解しかけのキーボード、飲みかけの炭酸飲料、部活で使ったタオル、そして、学校から持ち帰った資料のコピー。

 机の中央にはノートパソコン。

 画面には、匿名掲示板のログが流れている。

 普通の検索では出てこない場所だった。

 何度も閉鎖され、何度も別名で立ち上がる掲示板。都市伝説、怪異、神話考察、AVIS一般版の解析情報、削除済み動画の断片、管理機構らしき組織の噂。

 レンは数時間かけて、そこへ辿り着いた。

 ページタイトルは、飾り気のない白い文字で表示されている。

《神話板》

 その下に、細い文字が続く。

《削除された神話を、もう一度読む場所》

 レンは無意識に唇を噛んだ。

 削除された神話。

 それは、今のレンにとってあまりにも魅力的な言葉だった。

 掲示板にはスレッドが並んでいた。

【神狭駅】存在しないホームを見た人いる?
【星綴】放課後の欠席者、再発か
【天御柱】白い太陽の削除済み動画まとめ
【白環】旧北口商店街の白線について
【欠落街区】黒い踏切の向こうで忘れたもの
【AVIS】契約通知を拒否できない場合の対処
【検証】神格適性診断の裏パラメータ
【噂】星宮ミオって誰?

 最後のスレッドを見て、レンの指が止まった。

 画面の白い光が、彼の顔を照らしている。

「……もう名前出てんのかよ」

 声が低くなる。

 クリックはしなかった。

 したくなかった。

 でも、見なければ分からない。
 分からなければ止められない。

 レンは短く息を吐いて、スレッドを開いた。

 内容は、まだ噂の域を出ていなかった。

 星綴高等学園に転校してきた女子生徒。
 神狭駅の騒動と同日に目撃。
 天御柱神宮の白い光の現場にいたらしい。
 AVIS一般版で照応値が異常表示されたという未確認情報。
 女神候補。依代。月神型。未定義核。神狭の女神。

 そこには、本当のことが少しだけ混ざっていた。

 だからこそ、気持ち悪かった。

 レンはすぐにブラウザを閉じかける。

 だが、その前に別の投稿が目に入った。

個人名は伏せろ。
確定してない一般人を神話素材にするな。

 それを書き込んだ匿名ユーザーに、すぐ別の返信がついていた。

だったら情報出せよ。
隠すから妄想が増えるんだろ。

 レンの手が止まる。

 隠すから、妄想が増える。

 それは、否定できなかった。

 空白は勝手に埋められる。
 ミオの空白に女神の名が流れ込むように。
 記録の空白に、誰かの勝手な神話が入り込む。

 なら、正確な情報を出せばいいのか。

 でも、正確な情報を出せば、ミオの名前まで晒される。

 レンは頭を抱えた。

「あー……くそ」

 自分が嫌になる。

 マシロの隠蔽を責めるのは簡単だった。
 トウマの断絶を危ないと言うのも簡単だった。
 レイジの神々の理に反発するのも簡単だった。

 でも、いざ自分が情報を握る側に回ると、急に分からなくなる。

 何を出していいのか。
 何を伏せるべきなのか。
 伏せることは、隠蔽と何が違うのか。

 それでも、レンは指を動かした。

 新規投稿画面を開く。

 ハンドルネームは、いつも使っているものではない。

Rai_404

 本文欄に、彼は書き始める。

 神狭駅の無番線について。
 星綴高等学園の出席簿異常について。
 天御柱神宮の偽日輪について。
 白環管理区域について。
 欠落街区で記録が裂ける現象について。

 ただし、個人名は伏せた。

 星宮ミオの名前は出さない。
 ユウリの契約相も詳しく書かない。
 灰谷と雨宮の名前も伏せる。
 場所も、時間も、少しずつぼかす。

 これなら大丈夫だ。

 そう思いたかった。

 投稿ボタンの上で、指が止まる。

 画面に自分の顔がうっすら映っている。

 軽口担当。解析役。便利な友達。

 自分は本当に、それだけでいいのか。

「隠されるくらいなら」

 レンは小さく呟いた。

「こっちから出す」

 彼は投稿した。

 数秒後。

 返信がついた。

情報提供感謝。
欠損箇所を補完中。

 さらに数秒。

神狭駅ログと照合。
星綴高校七不思議スレと接続。
天御柱の削除動画キャッシュ確認。
欠落街区の座標候補を取得。
関連人物を推定中。

「は?」

 レンの背筋が冷えた。

 速すぎる。

 誰かが手作業で読んでいる速度ではない。

 複数のユーザー、あるいは自動化された解析ボットが、彼の投稿した断片を一瞬でつないでいく。

 伏せた場所が推測される。
 ぼかした時間が補完される。
 消したはずの個人名に、候補が並び始める。

 レンは慌てて削除しようとした。

 だが、投稿はもう引用されている。

 スクリーンショットが貼られている。
 別スレに転載されている。
 考察画像が作られている。
 誰かが、AI生成らしき“神狭の女神”の画像を貼った。

 白い少女。
 月の輪。
 水面。
 名前のない後光。

 それはミオとは違う。

 違うのに、どこか似ている。

 レンは、画面を睨んだ。

「やめろよ」

 声が漏れる。

「そういうことじゃねえだろ」

 けれど、流れは止まらない。

 神話板のトップに、新しい告知が現れた。

《神格適性ランキング実験》
《Mirror Score β》
《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》
《今夜、解放》
《あなたの神話を、スコア化します》

 レンのスマホが震えた。

 AVIS一般版ではない。

 ユウリたちが使う特殊なAVISでもない。

 神話板からの通知。

《貢献ログを検出》
《Rai_404》
《構文解放率:上昇》

 レンはしばらく動けなかった。

 自分は、隠されたログを開こうとした。

 ただ、それだけだった。

 それなのに、画面の向こうで何かが笑った気がした。

 検索され、貼られ、語られ、補完され、拡散されていく神話が。

 まだ神でも怪異でもない何かが、レンの投稿した断片を踏み台にして、ゆっくり目を開いた。

第一節 ― 神話板

 レンは、画面を閉じられなかった。

 夜の部屋は静かだった。

 窓の外では、遠くを走る車の音が薄く流れている。机の横に積んだ漫画の背表紙も、床に転がった充電ケーブルも、飲みかけの炭酸飲料も、いつも通りのもののはずだった。

 けれど、ノートパソコンの画面だけが違っていた。

 そこには、神話が流れていた。

 神話、というにはあまりにも軽い。

 匿名のハンドルネーム。
 短い投稿。
 雑な考察。
 煽り混じりの返信。
 出所不明の画像。
 削除済み動画の断片。
 そして、誰かが面白半分で作ったとしか思えないまとめ画像。

 だが、その中に本物が混じっている。

 本物の欠片がある。

 レンはそれが分かってしまう。

【神狭駅】存在しないホームを見た人いる?
【星綴】放課後の欠席者、再発か
【天御柱】白い太陽の削除済み動画まとめ
【白環】旧北口商店街の白線について
【欠落街区】黒い踏切の向こうで忘れたもの
【AVIS】契約通知を拒否できない場合の対処
【検証】神格適性診断の裏パラメータ
【噂】星宮ミオって誰?

 その最後の一行を、レンはもう一度見た。

 見なければいい。

 そう思うのに、視線が離れない。

 スレッドは、まだ大きく伸びてはいなかった。書き込みの大半は、いい加減な噂と憶測だった。

 星綴に最近転校してきたらしい。
 神狭駅の騒動の日にいたらしい。
 天御柱神宮の白い光の現場にもいたという目撃情報。
 AVISの照応値が異常だったとか。
 女神候補。
 依代。
 神狭の女神。
 月神型。
 未定義核。
 白い水面の少女。

 レンの指が、マウスの上で止まる。

「違うだろ」

 声が漏れた。

 それは、ミオではない。

 ミオは、転校初日に好きな飲み物を聞かれて少し困った顔をした少女だ。
 空が近いですね、と言った少女だ。
 自分の名前が薄れていくことを怖がった少女だ。
 灰谷をかばって手を伸ばした少女だ。
 自分で「星宮ミオです」と言おうとしている少女だ。

 女神候補でも、依代でも、未定義核でもない。

 なのに画面の中では、もう別の名前を貼られ始めている。

 レンは歯を食いしばった。

 投稿欄を開く。

個人名を出すな。
確定してない一般人を神話素材にするな。

 書いて、送信する。

 すぐに返信がついた。

だったら情報出せよ。
隠すから妄想が増えるんだろ。

 レンは画面を睨んだ。

 その通りだ。

 認めたくないのに、その通りだった。

 空白は埋められる。

 記録が消されれば、そこに勝手な物語が入る。
 名前が伏せられれば、そこに神の名が貼られる。
 動画が削除されれば、誰かが復元し、補完し、再構成する。

 マシロの管理が白く塗りつぶした隙間に。
 トウマの断絶が切り落とした断面に。
 レイジたちが表に出さない神社の記録の外側に。

 人は、勝手に神話を作る。

 だったら、どうすればいい。

 全部隠すのか。

 それとも全部出すのか。

 レンは、新規投稿画面を開いた。

 カーソルが白い空欄で点滅している。

 少し前なら、迷わなかったかもしれない。

 見たものは残す。
 消されたものは復元する。
 隠されたものは暴く。

 それが正しいと思っていた。

 今でも、間違っているとは思えない。

 ただ、ミオの名前が画面に出ているだけで、こんなにも腹の底が冷えるとは思わなかった。

 レンは、文章を打ち始めた。

 神狭駅で発生した無番線ホームらしき現象。
 星綴高等学園で確認された出席簿異常。
 天御柱神宮における白色日輪反応。
 旧北口商店街に展開された白環状の認識補正。
 欠落街区で確認された記録破断現象。

 淡々と書く。

 感情を入れない。
 誰かを特定できる情報は削る。
 時間はぼかす。
 場所は広めに書く。
 個人名は出さない。
 星宮ミオに関わる部分は、削る。

 それでも、投稿は長くなった。

 レンは一度読み返した。

 足りない。

 肝心な部分を削っているから、何が起きたのか伝わりきらない。

 でも、削らなければ危険だ。

 レンは舌打ちした。

「めんどくせえ……」

 それは愚痴だった。

 けれど、その面倒くささこそが、たぶん必要なのだと頭のどこかでは分かっていた。

 情報は、ただ流せばいいものではない。
 けれど、閉じれば安全になるものでもない。

 レンは投稿ボタンを押した。

 数秒。

 画面が更新される。

情報提供感謝。
欠損箇所を補完中。

「……は?」

 レンは眉をひそめた。

 次の返信が、ほとんど同時に並ぶ。

神狭駅ログと照合。
駅構内カメラ稼働時刻を確認。
星綴高校七不思議スレと接続。
天御柱の削除動画キャッシュ確認。
白環目撃投稿と位置情報を照合。
欠落街区座標候補を取得。
関連人物を推定中。

 レンの背筋が冷えた。

「速すぎるだろ」

 これは掲示板の反応ではない。

 人間が文章を読んで返している速度ではない。裏側で何かが動いている。複数のボットか、自動解析か、あるいはAVIS一般版のログを吸っているのか。

 投稿した断片が、勝手につながれていく。

 レンが伏せた時間が、誰かの投稿した写真のタイムスタンプで補われる。
 ぼかした場所が、削除済み動画の背景と照合される。
 消した個人名が、星綴高等学園の噂と結びつけられていく。

 レンは慌てて削除操作をした。

 だが、すでに引用されていた。

 転載されていた。
 スクリーンショットが貼られていた。
 別スレにまとめられていた。

 さらに、誰かが画像を投稿した。

 白い水面に立つ少女。
 背後に月輪。
 足元に駅のホーム。
 手には出席簿。
 頭上に白い日輪。
 キャプションには、こうあった。

神狭の女神イメージ。
目撃情報から生成。

「やめろ」

 レンは低く言った。

 自分の部屋にいるのに、声が届くはずもないのに。

「そういうことじゃねえだろ」

 その少女はミオではない。

 違う。

 けれど、素材がミオの周囲の出来事から作られているのが分かる。
 無番線ホーム。
 出席簿。
 偽日輪。
 水面。
 白い空白。

 全部、現実に起きたことの断片だ。

 断片だから、誰かが勝手に組み合わせる。

 レンは初めて、自分の怒りが少しだけ戻ってくるのを感じた。

 マシロが隠す理由。
 トウマが切る理由。
 レイジが正しい神名にこだわる理由。

 分かりたくないのに、分かってしまう。

 それでも、レンは画面を閉じられない。

 掲示板の上部に、新しい告知が表示された。

《神格適性ランキング実験》
《Mirror Score β》
《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》
《今夜、解放》
《あなたの神話を、スコア化します》

 その下に、レンの投稿IDが紐づけられている。

《貢献ログを検出》
《Rai_404》
《構文解放率:上昇》

 レンは椅子の背にもたれた。

 天井を見上げる。

 蛍光灯の丸い光が、妙に遠い。

「……やっちまったか」

 誰も答えない。

 スマホだけが震える。

 通知は、神話板からだった。

《Mirror Score β 参加ログを同期中》
《あなたの開示は、扉を開きました》

 レンはしばらくその文字を見つめた。

 扉。

 その言葉に、なぜか胸の奥がざわついた。

 開けたい。

 閉じられたものを開けたい。
 隠されたものを暴きたい。
 誰かが勝手にしまいこんだ記録を、もう一度表に出したい。

 それは怒りであり、好奇心であり、正義感でもあった。

 けれど、その扉の向こうにいるものが、必ず人間に優しいとは限らない。

 レンは、ようやくノートパソコンを閉じた。

 部屋が暗くなる。

 だが、瞼の裏にはまだ掲示板の白い文字が残っていた。

   *

 翌朝。

 星綴高等学園は、いつもより少し浮ついていた。

 朝の教室には、制服の袖をまくった生徒たちの声が飛び交っている。机の上にはスマホ。画面を覗き込みながら笑っている者、友人に結果を見せている者、通知を待って何度も画面を更新している者。

「見た? ミラー・スコア」

「昨日の夜から出てるやつだろ」

「神格適性ランキングって何だよ」

「俺、雷神型らしい」

「絶対嘘じゃん」

「コンティニュー行くと、契約相体験版できるって」

 その言葉に、ユウリは顔を上げた。

 コンティニュー。

 旧北口商店街にあるゲームセンターの名前だ。

 第6話の事件がまだ起きていない朝の教室は、何も知らない。

 ただ、新しいアプリ連動イベントが来たくらいの軽さで騒いでいる。

 ユウリは胸騒ぎを覚えた。

 ポケットの中でAVISが震える。

《神話板由来の公開ログ拡散を検出》
《Mirror Score β:稼働準備中》
《警告:神格適性スコアは遊戯情報ではありません》

「……またか」

 ユウリは小さく呟いた。

 隣の席で、ミオがスマホを見つめている。

 彼女の画面は白い。

 AVISの表示が静かに浮かんでいた。

《公開観測リスク:上昇》
《現在名:星宮ミオ》
《注意:神話対象化を避けてください》

 ミオは画面を伏せた。

 表情は落ち着いているように見える。けれど、指先が少しだけ強張っている。

「ミオ、大丈夫?」

 ユウリが聞くと、ミオは頷いた。

「はい。ただ……見られている感じがします」

「見られてる?」

「誰かに直接見られているわけじゃないんです。でも、私のことじゃない私の話が、どこかで増えているような」

 ユウリは言葉に詰まった。

 その感覚は、おそらく間違っていない。

 レンがまだ登校していなかった。

 いつもなら、ホームルーム直前に駆け込んできて、適当に謝って席へ滑り込む。だが今日は、チャイムが鳴っても姿が見えなかった。

 担任が出席を取り始めた頃、後ろの扉が開いた。

「すんませーん」

 レンが入ってくる。

 いつもの調子の声だった。

 けれど、ユウリはすぐに気づいた。

 顔色が悪い。

 目の下に薄い影。
 髪も少し乱れている。
 そして、スマホを握る右手に、力が入りすぎている。

 担任が軽く注意する。

「久遠、遅刻ギリギリだぞ」

「いやー、目覚ましが神隠しに遭いまして」

「言い訳が毎回違うな」

 教室が少し笑う。

 レンも笑った。

 だが、その笑いは薄かった。

 ユウリは、昼休みを待たずにレンを廊下へ引っ張り出した。

   *

 階段の踊り場は、人通りが少なかった。

 窓の外には校庭が見える。体育の授業を受ける一年生たちが、準備運動をしている。遠くから教師の笛の音が聞こえた。

 ユウリは、レンの前に立った。

「何かした?」

 レンは一瞬だけ視線を逸らした。

「何かって?」

「ミラー・スコア。神話板。コンティニュー」

 その三つを並べると、レンの顔から冗談が消えた。

 少しの沈黙。

 レンは、手すりにもたれた。

「……見たのか」

「AVISが警告出してる」

「だよな」

 レンは苦笑した。

「昨日、神話板に入った」

 ユウリは息を呑む。

 ミオも、少し離れた場所で立ち止まった。彼女も一緒に来ていた。レンはそれに気づいて、気まずそうに目を伏せる。

「ミオの名前、出てた」

 レンは言った。

 ミオの肩がわずかに揺れる。

「だから、止めようとした。個人名を出すなって。でも、隠すから妄想が増えるって返されて……それで、俺が持ってるログの一部を出した」

 ユウリの胸が冷えた。

「ミオのことは?」

「出してない。個人名も伏せた。場所も時間もぼかした。危ないところは削った。俺なりに、かなり気をつけたつもりだった」

 レンの声が低くなる。

「でも、足りなかった」

 彼はスマホを取り出し、画面を見せた。

 神話板のスレッド。
 無数の返信。
 復元された動画のサムネイル。
 推定位置情報。
 そして、“神狭の女神”と題された生成画像。

 ミオはそれを見て、息を止めた。

 画像の少女は、ミオに似ていない。

 だが、ミオを材料にしたものだと分かる。

 ユウリは画面を伏せさせた。

「もういい」

 レンは唇を噛む。

「悪い」

 その言葉は、いつもの軽さを失っていた。

「ごめん、ミオ。俺、出してないつもりだった。でも、つながれた」

 ミオはしばらく黙っていた。

 怒ってもいい場面だった。
 責めてもいい場面だった。

 けれど彼女は、静かに首を横に振った。

「レンくんだけのせいじゃないと思います」

「でも、俺が扉を開けた」

「そうかもしれません」

 その正直な返しに、レンは苦しそうに笑った。

 ミオは続けた。

「でも、私も……何も知られないままでいたいわけではないです。知られないままだと、また誰かが、私ではない名前をつける気がします」

 ユウリはミオを見る。

 その横顔は、まだ少し青白い。

 それでも、彼女は自分の言葉で話していた。

「でも、全部知られるのは怖いです」

 レンは頷いた。

「……だよな」

 階段の下から、生徒たちの声が聞こえる。

「放課後コンティニュー行こうぜ」

「ミラー・スコアやる?」

「契約相体験版って、絶対映えるだろ」

 その軽い声に、三人は同時に視線を向けた。

 もう、広がっている。

 夜の掲示板で始まったものが、朝の学校に届いている。
 ネットの文字列が、生徒たちの日常会話になっている。

 神話が、噂として歩き始めている。

 ユウリのAVISが震えた。

《Mirror Score β》
《稼働予測地点:ゲームセンター《コンティニュー》》
《公開観測者数:増加中》
《警告:イベント開始前に介入してください》

 レンは画面を見て、息を吐いた。

「行く」

 ユウリはすぐに言った。

「俺も行く」

 ミオも頷く。

「私も」

 レンは一瞬、何か言いかけた。

 危ないから来るな、と言いたかったのかもしれない。
 自分のせいだから自分だけで行く、と言いたかったのかもしれない。

 だが、その言葉は飲み込んだ。

 代わりに、いつものように笑おうとした。

 少しだけ、失敗した笑いだった。

「じゃあ、放課後な」

 ユウリは頷く。

 その時、レンのスマホに新しい通知が浮かんだ。

《Mirror Score β》
《今夜、解放》
《会場:ゲームセンター《コンティニュー》》
《あなたの神話を、スコア化します》
《Rai_404:貢献ログ確認済》

 レンは画面を握りしめた。

 指先に、ほんの一瞬、青白い火花が散った。

 ユウリはそれを見た。

「レン、今の」

「静電気だろ」

 レンはそう言って笑った。

 けれど、ユウリのAVISには別の表示が出ていた。

《未契約神格照応:微弱発生》
《雷風系統》
《対象:久遠レン》
《警告:感情反応により接続値上昇》

 レンは気づいていない。

 あるいは、気づかないふりをしている。

 ユウリは胸の奥に、嫌な予感が沈むのを感じた。

 隠されたログを開こうとしたレン。

 開いたログに飲み込まれ始めた神狭市。

 そして、レン自身の中で目を覚まそうとしている何か。

 放課後のゲームセンターで、何かが始まる。

 それはもう、ただの噂でも、ただのアプリイベントでもなかった。

第二節 ― ゲームセンター《コンティニュー》

 放課後の旧北口商店街は、昼と夜のあいだに沈んでいた。

 アーケードの透明な屋根には、夕方の光が薄く残っている。シャッターの下りた店の前を、自転車に乗った中学生が通り過ぎる。古い総菜屋からは揚げ油の匂いがして、時計店のショーケースには止まったままの腕時計がいくつも並んでいた。

 その中で、ゲームセンター《コンティニュー》だけは、妙に明るかった。

 入口の上にあるネオン看板は、ところどころ文字が欠けている。
 《CONTINUE》の最後のEだけが少し暗く、代わりに日本語の小さな看板が貼られていた。

 ゲームセンター《コンティニュー》。
 もう一度、続けますか?

 そんなふうに読めて、ユウリは足を止めた。

「どうした?」

 レンが振り返る。

「いや……名前が、ちょっと嫌だなって」

「ゲーセンの名前に文句つけんなよ。昔からこれだぞ」

 レンはいつもの調子で言った。

 けれど、その声は軽くない。

 朝からずっと、レンは無理に普段通りでいようとしている。笑い方も、歩き方も、言葉の速さも、全部いつも通りに寄せている。だが、ふとした瞬間に目が沈む。

 神話板。

 Mirror Score β。

 Rai_404。

 その言葉が、彼の背中に貼りついているようだった。

 ミオは入口のガラス扉を見上げていた。

 ガラスには、三人の姿が映っている。

 ユウリ。
 レン。
 ミオ。

 けれど、一瞬だけ、ミオの輪郭の周りに白いノイズのようなものが走った。

「ミオ?」

「大丈夫です」

 ミオはすぐに頷いた。

「ただ……人の声が多いところに入ると、少しだけざわざわします」

 彼女は胸元に手を当てた。

「私の名前じゃないものが、遠くで呼ばれているみたいで」

 ユウリは何も言えなかった。

 昨日までなら、「じゃあ戻ろう」と言ったかもしれない。

 でも、もう戻るだけでは済まない。

 神話板にミオの名前が出ている。
 誰かが彼女を“神狭の女神”として描いている。
 ゲームセンターでは、Mirror Score βが稼働しようとしている。

 ここに来なければ、何が始まるのか分からない。

 分からないまま広がることが、一番怖い。

「入ろう」

 ユウリが言うと、レンは短く頷いた。

 自動ドアが開く。

 音が、溢れた。

 クレーンゲームの軽い電子音。
 音ゲーの激しいリズム。
 対戦ゲームの勝利ボイス。
 プリクラ機から流れる明るすぎる案内音声。
 ガチャガチャのカプセルが落ちる音。
 誰かの笑い声。
 誰かの悔しがる声。

 そこは、あまりにも日常だった。

 神話も、管理も、断絶も、理もない。

 ただの放課後の遊び場。

 部活帰りの生徒たちが鞄を床に置き、スマホを片手に画面を覗き込んでいる。制服姿の女子たちがプリクラ機の前でポーズを相談している。クレーンゲームの前では、一年生らしい男子がぬいぐるみの位置を真剣に見つめていた。

 その光景を見て、ユウリは一瞬だけ気が緩みそうになった。

 ここでは何も起きていない。

 そう思いたかった。

「お、天瀬」

 声をかけてきたのは、倉持ハルトだった。

 彼は音ゲー筐体の横に立っていた。首からイヤホンをぶら下げ、片手には炭酸飲料のペットボトルを持っている。

 第2話で、名前を奪われかけた生徒。

 綴白ナナセという空白の名前に上書きされ、旧校舎の補講教室に取り込まれかけた生徒。

 今は、そこにいる。

 倉持ハルトとして。

 それだけで、ユウリは少しほっとした。

「倉持。来てたのか」

「来てたのかって、ここ地味にたまり場だろ。軽音部のやつらもたまに来るし」

 倉持はレンを見る。

「久遠もいるじゃん。お前、今日は顔死んでるぞ」

「寝不足」

「いつものことじゃん」

「今日は高級な寝不足」

「何だそれ」

 倉持は笑い、それから少しだけ声を低くした。

「なあ、今日は大丈夫なやつだよな?」

 ユウリは眉を寄せる。

「大丈夫って」

「俺、もう名前消える系は勘弁なんだけど」

 冗談めかした口調だった。

 けれど、その目は笑っていなかった。

 倉持自身、あの日のことを完全には覚えていない。けれど、忘れたはずの恐怖だけがどこかに残っているのだろう。自分の名前を誰も呼べなくなる感覚。机があって、持ち物があって、自分だけが欠席扱いになる感覚。

 ユウリはすぐに「大丈夫」とは言えなかった。

 その代わりに、できるだけはっきり言った。

「危なくなったら、すぐ離れて」

 倉持は一瞬だけ真顔になり、それから肩をすくめた。

「その言い方、全然大丈夫じゃないやつじゃん」

「だから先に言ってる」

「正直でよろしい」

 倉持はペットボトルを振った。

「俺、今日はランキングだけ見に来たんだよ。ミラーなんとか。神格適性スコアだっけ」

 レンの表情が硬くなる。

「もう出てるのか」

「ん? ああ、さっきからみんな見てるぞ。まだ本格稼働前っぽいけど」

 倉持は店の奥を指した。

 そこには、大型ランキングボードがあった。

 壁一面に据え付けられた横長の液晶パネル。普段は対戦ゲームの週間ランキングや音ゲーのハイスコア、クレーンゲームのイベント告知が流れている場所だ。

 上部には、古びた金色の文字で名前がついている。

 《Hall of Names》

 名を刻む場所。

 ユウリは、その名前を見た瞬間、嫌な感覚を覚えた。

 ゲームセンターなら、ただの洒落だ。
 ランキングに名前を載せる場所。
 プレイヤーネームを競う場所。

 でも、今の神狭市では、名前はただの表示ではない。

 名は、現実に触れる。

 ユウリのスマホが震えた。

《周辺筐体群に異常同期反応》
《AVIS一般版:複数端末接続中》
《神話板由来外部ログを検出》
《注意:ランキングボードは記録媒体として機能しています》

 アヴィの声が、イヤホン越しではなく、スマホの小さな振動の中から聞こえた。

「ユウリ、嫌な場所だ」

「分かってる」

「いや、たぶん君が思っているより嫌な場所だ。ここは名前を遊びとして扱う。遊びは悪くない。だが、遊びは人の警戒心を下げる」

 ユウリはランキングボードを見つめた。

 画面には、通常のハイスコア一覧が流れている。

 プレイヤーネーム。
 得点。
 達成率。
 称号。
 連勝数。

 生徒たちは、それを当たり前のように眺めている。

 自分で名前を入力し、誰かに見られ、順位を競う。

 それは楽しい。

 でも、もしその名前が本名に触れたら。

 もしその順位が神話照応に接続されたら。

 もし「上位者」という言葉が、依代や契約者の選別へ変わったら。

「レン」

 ユウリが呼ぶと、レンはもうスマホを操作していた。

 画面には、接続先のログが高速で流れている。

「店のシステムじゃない」

 レンが言った。

「《Hall of Names》の表示システムに、外から何か噛んでる。AVIS一般版の端末を踏み台にして、店内の筐体群と同期してる」

「止められる?」

「今は無理。構造が分からない。ていうか、これ……」

 レンの声が詰まる。

「これ、神話板のデータ使ってる」

 ミオが小さく息を吸う。

「昨日の……?」

「俺の投稿だけじゃない。掲示板全体のログ、削除動画、考察画像、AVIS診断の公開値、たぶんSNSの検索履歴まで食ってる」

 レンは唇を噛んだ。

「遊び用のランキングに見せて、実際は神話照応のスコア化をしてる」

 その時だった。

 店内の音が、一瞬だけ落ちた。

 完全な無音ではない。

 ただ、音の芯が抜けた。

 音ゲーのリズムが一拍遅れ、対戦ゲームの勝利ボイスが途中で引き伸ばされる。クレーンゲームのアームがぴたりと止まり、プリクラ機の画面が白く瞬いた。

 そして、《Hall of Names》の表示が切り替わった。

 通常のランキングが消える。

 黒い背景。

 白い文字。

《Mirror Score β》
《神格適性スコア測定中》
《プレイヤー名を入力してください》
《上位者には契約相体験版を解放します》

 店内が、一瞬静かになった。

 次の瞬間、歓声が上がる。

「おお、来た!」

「これか、ミラー・スコア!」

「神格適性って何?」

「やってみようぜ!」

「契約相体験版ってやばくね?」

「AVISの新機能?」

「スコア高かったら動画映えるじゃん」

 生徒たちが一斉にスマホを出す。

 AVIS一般版のアイコンが、いくつもの画面で光っていた。

 ユウリは喉が乾くのを感じた。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 でも、自分も少し前なら、同じように面白がったかもしれない。

 神格適性。
 契約相体験版。
 ランキング。
 限定機能。

 言葉だけなら、ただのゲームイベントだ。

 それが人の名前を奪い、神話へ接続し、契約通知を押しつけるものだと、誰が最初から分かるだろう。

 倉持もスマホを取り出しかけて、ユウリの顔を見て手を止めた。

「……やめた方がいい感じ?」

「絶対やめて」

 ユウリは即答した。

「絶対って言われると逆に気になるんだけど」

「倉持」

 ユウリが真顔で名前を呼ぶと、倉持は肩をすくめてスマホをしまった。

「分かったよ。名前消え経験者の勘を信じるわ」

 その横で、別の生徒たちはもう入力を始めていた。

「プレイヤーネームでいいんだよな?」

「本名じゃなくてよくね?」

「俺、KAMINARIでいく」

「お前さっき雷神型って出て調子乗ってんだろ」

「ミラーってことは、自分の適性が映るってこと?」

 画面に名前が次々と表示される。

《KAMINARI》
《LUNA_22》
《SUN_BOY》
《Mika☆》
《HARUTO_Gt》
《NO_DAMAGE》
《RESTART》

 倉持の顔が引きつる。

「おい、俺まだ入れてないぞ」

 ランキングボードの下の方に、《HARUTO_Gt》の文字が確かに出ていた。

 倉持が普段ゲームで使っている名前だ。

「何で出てんだよ」

 彼の声がかすれる。

 ユウリのAVISが警告を出す。

《過去筐体ログからプレイヤーネームを自動取得》
《本名との照合を開始》
《注意:プレイヤーネームと現在名の混線リスク》

「レン!」

「見てる!」

 レンは画面を睨みつけている。

「店の過去ログまで吸ってる。プレイヤーネーム、スコア履歴、来店記録……いや、そんな権限あるわけないだろ。AVIS一般版が仲介してるのか?」

 アヴィが割り込む。

《ゲーム筐体群とAVIS一般版が同期》
《神話板由来の外部ログを検出》
《警告:スコアは遊戯記録ではありません》
《名前入力を推奨しません》
《既入力データの撤回を推奨》

「撤回ってどうやるんだよ」

 ユウリが聞く。

 アヴィは、少し間を置いた。

《撤回方法:未表示》
《Mirror Score β側が撤回処理を実装していません》

「また選択肢なしかよ……」

 ユウリは拳を握った。

 第一話の無番線ホーム。
 第三話の偽日輪。

 いつもそうだ。

 向こうは選ばせるふりをする。
 でも、本当の選択肢を隠している。

 ミオのスマホが白く光った。

 彼女は画面を見て、すぐに息を詰める。

「ユウリくん」

 画面には、まだランキングに載っていないはずの文字が浮かんでいた。

《観測対象候補》
《星宮ミオ》
《神話照応値:測定準備中》
《公開登録を待機》

 ユウリはミオのスマホを覗き込み、体が冷えるのを感じた。

「登録するな」

 低く言った。

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。アプリか、ランキングか、神話板か、この場の空気そのものか。

 ミオはスマホを胸に抱えた。

「見られてます」

 その声は小さい。

「さっきより、近いです。私の名前じゃないものが、ここに集まってきている感じがします」

 レンが唇を噛む。

 彼のスマホにも、通知が出ていた。

《Rai_404》
《貢献ログ:検出》
《構文解放率:上昇》
《Mirror Score βへの開示協力を確認》
《ランキング構築に寄与》

 レンの顔から血の気が引いた。

「……俺のログだ」

 ユウリはレンを見る。

 レンは画面を見つめたまま、動かない。

「俺が出したやつが、使われてる」

 店内では、生徒たちの歓声がまだ続いていた。

「うわ、俺、太陽照応だって!」

「月影適性Bって何?」

「契約相解放率三パーって低くね?」

「ランキング上位、誰だよ」

「NO NAMEって出てる!」

 大型ボードの表示が更新される。

 名前が並ぶ。

 スコアがつく。

 称号がつく。

 その下に、レンのハンドルネームが小さく表示される。

《Rai_404》
《貢献ログ:検出》
《構文解放率:上昇》

 まるで、イベント協力者のように。

 まるで、彼が扉を開けたことを褒めるように。

 レンは一歩後ずさった。

 その背中が、対戦ゲームの筐体にぶつかる。

「違う」

 彼は呟いた。

「俺は、こんなことをしたかったんじゃない」

 ユウリはレンに近づく。

「レン」

「隠すなって思っただけだ。消すなって。勝手になかったことにするなって。誰かが次に巻き込まれる前に、分かるようにしたかっただけで」

 レンの声が震える。

 怒りではない。

 後悔でもない。

 その両方が混ざって、うまく形にならない声だった。

「ミオを晒したかったわけじゃない。倉持みたいなやつを遊びに使わせたかったわけじゃない。灰谷みたいな被害者のログを材料にしたかったわけじゃない」

 その瞬間、《Hall of Names》がまた点滅した。

 中央に、大きな文字が浮かぶ。

《Mirror Score β》
《観測者数:増加》
《神話照応ランキング生成中》
《プレイヤー名と現在名の照合を開始》

 店内のスマホが、一斉に震えた。

 生徒たちが笑う。

「通知来た!」

「本格スタートだ!」

「やば、俺の本名出そうになったんだけど」

「え、これキャンセルどこ?」

「ちょっと待って、戻れなくね?」

 笑い声の中に、少しずつ不安が混じり始める。

 クレーンゲームの音楽が、半音ずれて聞こえた。

 プリクラ機の画面に、撮影前の案内ではなく、白い選択肢が浮かぶ。

《続けますか?》

 音ゲー筐体の譜面に、見慣れない文字が流れ始める。

《契約しますか?》

 対戦ゲームの勝敗画面に、赤い文字が重なる。

《敗北時、神格補助を受けますか?》
《許可する》

 ユウリの背中に冷たい汗が伝った。

 まだ始まりにすぎない。

 ここまでは、ただの入口だ。

 アヴィが警告する。

《Mirror Score β:第一同期完了》
《名前入力済みプレイヤーの神話構文化を開始》
《星宮ミオ:公開登録まで残り短時間》
《久遠レン:構文解放貢献者として識別済》
《早急な介入を推奨》

 レンは、画面を握りしめた。

 指先に青白い火花が散る。

 今度は、ユウリだけでなくミオも見た。

「レンくん、その手……」

 レンは自分の右手を見る。

 手首の内側に、細い雷のような紋が浮かんでいた。

 それは一瞬だけ光り、すぐに消える。

 けれど、完全には消えなかった。

 皮膚の下で、何かが目を覚まそうとしている。

 レンは笑おうとした。

 できなかった。

「……最悪だ」

 その声は、ゲームセンターの騒音に飲み込まれかけた。

 だが、ユウリには確かに聞こえた。

 そして、《Hall of Names》の最上段に、新しい名前が表示される。

《NO NAME》
《神格適性スコア:測定不能》
《契約相解放率:100%》
《全プレイヤーを接続します》

 店内の照明が、一瞬だけ白く反転した。

 続きますか。

 コンティニューしますか。

 契約しますか。

 その問いが、ゲームセンターのすべての画面に浮かび上がった。

第三節 ― ミラー・スコア

 最初に変わったのは、音だった。

 ゲームセンター《コンティニュー》に満ちていた雑多な電子音が、一つの拍に揃い始める。

 音ゲーのリズム。
 クレーンゲームの待機音。
 対戦筐体の効果音。
 プリクラ機の案内音声。
 ガチャガチャのカプセルが落ちる音。

 それぞれ別々だったはずの音が、いつの間にか同じ間隔で鳴っている。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 まるで、心電図のように。

 まるで、何か巨大なものが、店内すべての機械を使って呼吸を始めたように。

「……やばい」

 レンが呟いた。

 その声は、騒がしい店内でも不思議とはっきり聞こえた。

 《Hall of Names》の表示が、さらに切り替わる。

 通常のランキング画面は完全に消えた。黒い背景に、白い枠線。中央に鏡のような銀色の円が浮かび、その周囲を数字と文字列が回っている。

《Mirror Score β》
《第一同期完了》
《神格適性スコア測定中》
《プレイヤー名と現在名の照合を開始》
《観測者数:増加》

 その文字が出た瞬間、店内の筐体が一斉に反応した。

 音ゲーの画面では、流れてくる譜面のノーツが一つずつ文字に変わっていく。

 アマテラス。
 スサノオ。
 ツクヨミ。
 アポロン。
 ラー。
 ロキ。
 ルシファー。
 ソウリン大御神。
 アウロ=ルクス。

 神名らしき言葉が、音に合わせて流れてくる。

 プレイヤーの女子生徒が、笑いながら叩いた。

「何これ、隠し譜面?」

 だが、彼女が神名のノーツを叩いた瞬間、筐体のスピーカーから祝詞とも呪文ともつかない音が漏れた。

 彼女のスマホが震える。

《月影適性:C》
《照応候補:夜/反射/夢見》
《契約可能性:低》

「え、何か出た!」

 彼女は面白がって友人に画面を見せる。

 その足元の影が、一瞬だけ月の形に歪んだことには気づいていない。

 対戦ゲームの画面では、キャラクターたちの背後に光輪や獣影が重なり始めていた。炎をまとった格闘キャラの頭上に《太陽照応》と表示され、雷を使うキャラクターには《雷神型》の文字がつく。

 プリクラ機の中では、撮影後の落書き画面に勝手に称号が書き込まれていた。

《小さき巫女》
《風読み》
《再臨候補》
《依代候補》
《契約可能》

「やだ、何これ可愛い!」

「勝手に肩書きついてる!」

「私、依代候補だって。何それ強そう」

 笑い声が響く。

 誰も分かっていない。

 依代という言葉の重さを。
 再臨候補という言葉の危うさを。
 契約可能という表示が、どれほど危険な扉なのかを。

 ユウリは叫びたくなった。

 触るな。
 笑うな。
 名前を入れるな。

 けれど、どこから止めればいいのか分からない。

 相手は一体の怪異ではない。
 一台の端末でもない。
 店内のすべての筐体、すべてのスマホ、すべてのランキング、すべてのプレイヤーネームが、ひとつの大きな網になって動き始めている。

 アヴィが画面に表示する。

《Mirror Score β:本格稼働》
《ゲーム筐体群、AVIS一般版、神話板ログが同期》
《遊戯記録と現在名の境界が不安定化》
《注意:スコアは遊戯記録ではありません》

「分かってる!」

 ユウリは思わず言った。

 分かっている。

 けれど、分かったところで止め方が分からない。

 倉持が、青ざめた顔で自分のスマホを見ていた。

「おい、天瀬」

「どうした?」

「俺のやつ、勝手に更新されてる」

 画面には、倉持のプレイヤーネームが表示されていた。

《HARUTO_Gt》
《本名照合中》
《倉持ハルト》
《過去事象:出席簿異常》
《名前喪失耐性:中》
《契約可能性:未定》

 ユウリは息を呑む。

「過去事象まで拾ってるのか」

「何だよ、名前喪失耐性って。ゲームのステータスみたいに言うなよ」

 倉持は笑おうとしたが、声が震えていた。

「俺、もうそういうのマジで無理なんだけど」

「スマホを閉じて。画面を見るな」

「閉じても通知が出るんだよ!」

 倉持のスマホ画面に、新しい選択肢が浮かぶ。

《過去の欠落を補正しますか?》
《契約相体験版を使用しますか?》
《許可する》

 倉持の親指が、画面へ引き寄せられるように動いた。

 ユウリはその手首を掴んだ。

「押すな!」

 倉持がはっとする。

「……悪い。今、勝手に」

「分かってる」

 ユウリは倉持のスマホを取り上げるようにして伏せた。

 その瞬間、別の場所から悲鳴が上がった。

 音ゲーをしていた女子生徒が、筐体の前で膝をついている。友人が慌てて肩を支えていた。彼女の周囲には、青白い文字が浮かんでいる。

《月影適性:Bへ上昇》
《観測者数増加》
《照応補助を開始》

 彼女の髪の先が、月光を浴びたように淡く光っていた。

 対戦ゲームの前では、男子生徒二人が画面に向かって笑っていたはずなのに、その笑い声が少しずつ荒くなっている。

「おい、俺のキャラ、勝手に強化入った!」

「俺も! 何か神格ブーストって出た!」

 画面の中のキャラクターだけではない。

 彼らの腕にも、赤い線や青い線が浮かび始めていた。

 痛みを感じているのか、ひとりが顔をしかめる。

 しかし、次の瞬間には笑う。

「すげえ、ダメージ表示出てる!」

 彼の頬に、薄い数字が浮かんだ。

《12》

 殴られたわけではない。

 ゲームの中のダメージが、現実の身体へ薄く写っている。

「アヴィ!」

 ユウリが叫ぶ。

《現実輪郭の遊戯化を確認》
《プレイヤー状態がゲーム内ステータスに同期》
《危険度:上昇》

「止め方!」

《現在解析中》
《Mirror Score βは複数端末を媒介とする集合観測型構文》
《単一端末の停止では無効化困難》

「つまり?」

《店内の観測者を減らす必要があります》
《または中核ランキングを遮断してください》

 観測者を減らす。

 簡単に言う。

 だが、店内の生徒たちはもう画面を見ている。面白がり、不安がり、それでも目を離せずにいる。ランキングは、人の視線を引き寄せる。

 見られることで強くなる。
 競われることで輪郭を得る。
 名前を入力されることで、現実に触れる。

 ミラー・スコア。

 名前の鏡。

 ユウリは《Hall of Names》を睨んだ。

 ランキングボードに、新しい項目が増えていく。

《神格適性ランキング》
1位 《NO NAME》 測定不能
2位 《Rai_404》 構文解放率:高
3位 《HARUTO_Gt》 名前喪失耐性:中
4位 《LUNA_22》 月影適性:B
5位 《SUN_BOY》 太陽照応:C
6位 《Mika☆》 依代候補:低

「何で俺が二位なんだよ」

 レンが呟いた。

 声が乾いていた。

 ランキングの二位に表示された《Rai_404》。

 それはレンが神話板で使ったハンドルネームだ。
 彼自身が入力したものではない。
 だが、神話板のログから拾われている。

 その横に、見慣れない項目が増える。

《開示貢献者》
《扉を開く者》
《解放候補》

 レンの手首に、また青白い火花が走った。

 今度は隠しきれないほど強い。

「レン、離れて」

 ミオが言った。

 レンは首を振る。

「離れたら止めらんねえだろ」

「でも、その表示、あなたを呼んでいます」

 ミオの声は震えていた。

「たぶん、私が“依代”って呼ばれるのと同じです。レンくんを、“解放する人”にしようとしている」

 レンは一瞬、何も言えなくなった。

 自分が呼ばれている。

 それは、ミオの言う通りだった。

 画面の中の文字が、ただの表示ではなく、どこかから伸びる手のように感じられる。

 扉を開く者。
 解放候補。
 構文解放率:上昇。

 その言葉は、レンの怒りに似合いすぎていた。

 隠すな。
 閉じるな。
 全部見えるようにしろ。

 自分が思っていたことを、都合よく名前にされている。

 レンは奥歯を噛んだ。

「勝手に決めんな」

 低く言った。

 しかし、その声はランキングボードの光に飲まれた。

 その時、ミオのスマホが白く輝いた。

 ユウリは反射的に振り向く。

 画面には、すでに表示が始まっていた。

《星宮ミオ》
《女神照応過多》
《内部照応欠落あり》
《神話公開価値:測定不能》
《ランキング登録――》

「駄目だ!」

 ユウリはミオのスマホを掴んだ。

 だが、表示はスマホだけではなかった。

 《Hall of Names》の下部に、ミオの名前が浮かび始めている。

《星宮ミ――》
《照応候補:月/夜/母性/境界/死/記録外祈祷/理》
《公開観測準備中》

 ユウリの喉が詰まる。

 これまでの危機とは違う。

 第1話では、ミオの名前が切符に印字され、持っていかれかけた。
 第2話では、空白の名前に上書きされかけた。
 第3話では、偽日輪に依代として見られた。
 第4話では、管理対象として分類されかけた。
 第5話では、神話ごと切られかけた。

 そして今、ミオは公開されようとしている。

 店内の生徒たち。
 神話板の匿名ユーザーたち。
 AVIS一般版の観測ログ。
 ネットの向こうにいる誰か。

 無数の視線が、星宮ミオという現在名に向かおうとしている。

 それは名前を奪うのとは違う。

 名前を広げすぎることだ。

 その名前が、本人の手を離れて神話の記号になってしまうことだ。

 アヴィが警告する。

《星宮ミオの公開登録は危険》
《観測者数増加により現在名が神話化します》
《神話対象化が進行すると、本人の現在名保持が困難になります》

「止めろ!」

 ユウリはスマホに向かって叫んだ。

《現在、未署名処理を試行中》
《公開登録を完全遮断できません》
《原因:観測者数過多》

 観測者。

 見ている者が多すぎる。

 ユウリは周囲を見た。

 店内の生徒たちは、ミオの名前が出かけていることにまだ気づいていない。だが、ランキングが更新されれば必ず見る。誰かがスクリーンショットを撮る。神話板に貼る。名前が拡散される。

 星宮ミオは、神狭の女神になる。

 本人が望まないまま。

「レン!」

 ユウリは叫んだ。

「ランキング、止められないのか!」

「やってる!」

 レンは汗を浮かべながら、スマホと筐体の接続ログを追っていた。

「でも中核が分からない。店のサーバーじゃない。神話板でもない。AVIS一般版でもない。全部が互いに鏡みたいに反射してる。どこ切ればいいのか――」

 その時、《Hall of Names》の最上段が強く光った。

 ランキング一位。

《NO NAME》
《神格適性スコア:測定不能》
《契約相解放率:100%》
《全プレイヤーを接続します》

 黒い背景に白い文字。

 名前はない。

 だが、その空白が、店内のすべての名前を見下ろしていた。

 アヴィが表示する。

《暫定名:ミラー・ランカー》
《分類:集合観測型神話残滓》
《構成要素:入力名/匿名ログ/削除済み目撃情報/生成画像/AVIS診断データ》
《危険度:上昇中》

「神なのか?」

 ユウリが聞く。

《否定》
《神格としては未成立》
《人間の検索・投稿・遊戯・ランキング化により発生した疑似神話残滓》
《俗称:スコアの神話》

 スコアの神話。

 ユウリは、その言葉にぞっとした。

 誰かが信じたから生まれたのではない。
 誰かが祈ったから来たのでもない。
 誰かが救いを求めたから形になったわけでもない。

 検索された。
 投稿された。
 ランキング化された。
 面白がられた。
 補完された。
 再生成された。

 それだけで、神話になりかけている。

 レンは画面を見つめていた。

「俺たちが……作ったのか」

 その声に、ユウリは答えられなかった。

 レンだけではない。

 神話板の匿名ユーザーたち。
 AVIS一般版で遊んだ生徒たち。
 動画を見た者。
 画像を生成した者。
 噂を広げた者。
 そして、止めるためにここまで来たユウリたちの視線さえも。

 全部が、これを形にしている。

 ミラー・ランカーは、誰か一人の悪意ではない。

 だからこそ、厄介だった。

 店内の全画面に、同じ選択肢が表示される。

《続けますか?》
《コンティニューしますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
《許可する》
《許可する》

 ユウリの胸が締めつけられた。

 まただ。

 また、選択肢が一つしかない。

 第1話、無番線ホームでミオが切符を受け取りかけた時。
 第3話、偽日輪が人々に契約を迫った時。
 そして今、ゲームセンターの画面が、軽い電子音とともに同じ罠を出している。

 選ばせるふりをしている。

 けれど、選べない。

「ふざけるな」

 ユウリは言った。

 だが、画面は答えない。

 代わりに、生徒たちのスマホが一斉に震える。

「え、何これ」

「許可しかないじゃん」

「押していいの?」

「戻るボタン効かないんだけど」

「ちょっと怖くない?」

 最初の笑い声が、不安に変わっていく。

 倉持が震える手でスマホを押さえている。

「天瀬、俺、指が勝手に動く」

「見るな! 名前を呼べ、倉持ハルトって自分で言え!」

「倉持、ハルト……俺は、倉持ハルト」

 倉持は必死に自分の名前を繰り返す。

 それでも画面の《許可する》は消えない。

 ミオの名前は、《Hall of Names》にさらに濃く浮かび始めていた。

《星宮ミオ》
《ランキング登録まで:準備完了》
《公開観測を開始します》

 ユウリは歯を食いしばった。

 未署名の観測翼を使うべきか。

 だが、相手は一つの名前ではない。
 一つの神名偽装でもない。
 何百もの画面と、何百もの視線と、ネットの向こう側の観測者が絡んでいる。

 自分だけで止められるのか。

 その迷いを、レンが見た。

「ユウリ」

 レンの声がした。

 ユウリは振り向く。

 レンは、震える右手を見つめていた。

 雷の紋が、今度ははっきり浮かんでいる。

 彼のスマホ画面には、ミラー・ランカーからの表示が出ていた。

《Rai_404》
《扉を開く者》
《構文解放候補》
《契約しますか?》
《許可する》

 レンは、笑った。

 いつもの軽い笑いではなかった。

 怖くて、悔しくて、それでも前に出る時の顔だった。

「俺が、開けたんだよな」

「レン、待て」

「待ってる間に、ミオの名前が出る」

 レンは一歩前に出た。

 その足元で、床のタイルに青白い亀裂のような光が走る。

「俺が流した。俺がつないだ。俺が扉を開けた」

 ユウリは手を伸ばす。

「ひとりで背負うな!」

「ひとりで背負うとかじゃねえよ」

 レンは振り返った。

 その目に、雷のような光が宿っていた。

「閉じたくないって言ったの、俺だろ」

 ミラー・ランカーの画面が、彼に向かって明滅する。

《契約しますか?》
《許可する》

 レンは画面を睨みつけた。

 そして、低く言った。

「許可、じゃねえ」

 空気が鳴った。

 店内の電子音が、一瞬で雷鳴のように歪む。

 レンのスマホ画面に、文字化けした選択肢が走った。

《未承認入力》
《選択肢外操作を検出》

 レンは叫んだ。

「こじ開ける!」

 その瞬間、ユウリのAVISが警告を超えた表示を出した。

《未契約神格照応:急上昇》
《対象:久遠レン》
《雷風系統》
《荒神性反応》
《契約神候補――》

 表示が一瞬だけ乱れる。

 次の文字は、青白い雷光の中で浮かび上がった。

《ヴァルガ=ライオス》

 ゲームセンターの照明が、すべて白く弾けた。

第四節 ― ヴァルガ=ライオス

 光が、爆ぜた。

 白ではない。

 レイジの《日輪神将》が放った、祓いのための白金の光ではなかった。
 マシロの白環管理区域に満ちていた、整いすぎた冷たい白でもなかった。

 青白く、荒く、まっすぐで、耳の奥を殴るような光だった。

 雷。

 ユウリがそう認識するより早く、ゲームセンター《コンティニュー》の床を、青い筋が走った。

 音ゲー筐体の足元。
 対戦ゲームの配線。
 クレーンゲームのガラスケース。
 プリクラ機のカーテンの裾。
 《Hall of Names》へ伸びる壁の中のケーブル。

 それらすべてを、雷光が一瞬でなぞっていく。

「レン!」

 ユウリは叫んだ。

 だが、その声は雷鳴に弾かれた。

 レンは、ランキングボードの光の前に立っていた。

 制服の裾が、見えない風に煽られている。髪が逆立ち、右手首から肘にかけて、稲妻に似た神紋が走っていた。スマホの画面は真っ白に発光し、その中央に、知らない文字列が浮かび上がっている。

《契約神照応》
《ヴァルガ=ライオス》
《荒雷英雄神》
《契約相:雷吼の荒冠》
《第一展開》

 レンの背後に、巨大な影が立ち上がった。

 獣のようで、英雄のようだった。

 四肢を持つ獣影が雷雲の中から身を起こし、その頭部には荒々しい冠のような角が見える。背中には風を裂く翼にも、破れたマントにも見えるものが広がっていた。顔ははっきり見えない。ただ、眼だけがあった。

 青白い、獣の眼。

 それは神々しいというより、危険だった。

 祈りたくなる光ではない。
 跪きたくなる威厳でもない。
 ただ、そこにあるものを全部ぶち破って進む、嵐そのものの気配だった。

 ユウリは息を呑む。

 レイジの契約相を見た時は、圧倒された。
 神の理とはこういうものなのかと思った。
 マシロの白環を見た時は、冷たさに背筋が凍った。
 トウマの《裂頁の黒鋏》を見た時は、音が消える恐怖を知った。

 だが、レンのこれは違う。

 うるさい。

 荒い。

 速い。

 痛そうで、強い。

 そして、ひどくレンらしかった。

「……何だよ、これ」

 レン自身が、半分だけ笑う。

 その笑みは震えていた。怖がっている。けれど、引いてはいない。

 《Hall of Names》が応えるように明滅した。

《久遠レン》
《Rai_404》
《開示貢献者》
《解放者》
《拡散者》
《責任者》
《契約しますか?》

 レンのスマホ画面に、三つの選択肢が浮かぶ。

《許可する》
《拒否する》
《保留する》

 レンはそれを見て、鼻で笑った。

「許可、じゃねえ」

 画面が乱れる。

《未承認入力》
《選択肢外操作を検出》

 レンは、右手を握った。

 雷紋が一気に濃くなる。

「こじ開ける!」

 次の瞬間、レンの足元から風が巻き上がった。

 床に散らばっていたレシートが舞う。ガチャガチャの空カプセルが転がり、クレーンゲームのぬいぐるみがガラスの内側で揺れた。照明の光が青く滲み、店内のすべてのモニターが一拍遅れて震える。

 ミラー・ランカーが動いた。

 音ゲー筐体から、ノーツが飛び出す。

 白い丸い光だったはずのそれは、空中で鋭い線へ変わった。譜面の軌道そのままに、雷の槍のようにレンへ飛ぶ。

「レンくん!」

 ミオが叫ぶ。

 レンは避けなかった。

 右足を踏み込む。

《雷牙起動》

 レンの右腕に雷がまとわりつく。

 拳が、飛んできたノーツを正面から砕いた。

 轟音。

 火花が店内に散り、何人かの生徒が悲鳴を上げて床に伏せる。

 しかし、壊れたのはノーツだけだった。筐体そのものは割れていない。レンの拳が触れた瞬間、攻撃として現実化していた神話構文だけが砕かれている。

「すげえ……」

 倉持が呟いた。

 その声には恐怖と興奮が混ざっている。

 だが、驚く暇はなかった。

 今度は、対戦ゲームの画面が歪む。

 画面内で戦っていたキャラクターたちが、影になってモニターから抜け出した。炎をまとった格闘家。雷を背負う剣士。翼のある仮面の騎士。どれもゲームのキャラクターだったはずなのに、背中に神格照応のラベルが浮かんでいる。

《太陽照応》
《雷神型》
《戦神候補》
《契約相体験版》

 それらが、レンへ向かって襲いかかる。

 レンは笑った。

 今度は少しだけ、いつもの彼に近い笑いだった。

「ゲームから出てくんな!」

 床を蹴る。

《嵐走り》

 レンの姿が掻き消えた。

 速い。

 ユウリの目では追いきれなかった。青白い線だけが店内を駆け抜ける。音ゲー筐体の前から対戦ゲームの横へ、プリクラ機の前を抜け、ランキングボードの下へ、まるで閉じた回路を逆向きに走る電流のように。

 影のキャラクターたちが、次々に弾き飛ばされる。

 ただ殴っているわけではない。

 レンが通った跡で、彼らにまとわりついていた《太陽照応》《雷神型》《契約相体験版》という文字だけが剥がれていく。ゲームの影は力を失い、ただの薄いノイズになって画面へ戻る。

 生徒たちのスマホに出ていた契約通知が、次々に割れた。

《契約しますか?》
《許可――》

 文字が弾ける。

 ある女子生徒が、はっとしたようにスマホを落とした。

「え、私、何見てたの……?」

 対戦ゲームの前で腕に赤い線を浮かべていた男子生徒が、よろめいて台に手をつく。

「痛っ……何で腕痛いんだよ」

 少しずつ、ミラー・スコアの支配が剥がれていく。

 ユウリは胸の奥に、一瞬だけ希望を感じた。

 レンは強い。

 そう思った。

 レイジのように整った強さではない。
 トウマのように鋭く切る強さでもない。
 マシロのように場を制圧する強さでもない。

 レンの強さは、閉じ込められた場所をぶち破る強さだった。

 だから、今この場には必要だった。

 けれど。

 アヴィの表示が、ユウリのスマホに浮かぶ。

《注意》
《ヴァルガ=ライオスの権能は封鎖解除型》
《ランキング結界への干渉に成功》
《ただし、対象を選別しない封鎖解除は危険です》
《閉じていた危険ログも解放される可能性があります》

「危険ログ?」

 ユウリが聞く。

《神話板の未公開実験ログ》
《AVIS一般版の制限機能》
《削除済み神話構文データ》
《過去災害の観測断片》
《これらは現在、ミラー・スコア中核内に封鎖されています》

 ユウリは血の気が引くのを感じた。

 レンが壊しているのは、ミラー・ランカーの結界だけではない。

 同時に、その奥に閉じ込められているものまで開きかけている。

「レン!」

 ユウリは叫んだ。

「全部壊すな! 開けていいものと、開けちゃいけないものがある!」

 雷光の中で、レンが振り向いた。

 汗をかいている。

 息が荒い。

 右手の神紋は、さらに肩口まで伸びていた。

「そんなの」

 レンは叫び返す。

「誰が決めんだよ!」

 その声が、店内の電子音と雷鳴の中で響いた。

「マシロさんか? 神楽坂か? トウマか? アヴィか? お前か? 誰が、これは開けていい、これは駄目って決めるんだよ!」

 ユウリは言葉に詰まった。

 それは、朝から続いている問いだった。

 何を隠すのか。
 何を公開するのか。
 誰の名前を守るのか。
 誰の知る権利を止めるのか。

 簡単な答えはない。

 でも、今は。

「少なくとも!」

 ユウリは叫ぶ。

「名前を入力しただけの生徒が、勝手に契約させられるのは違うだろ!」

 レンの目が揺れた。

 その一瞬を、ミラー・ランカーは逃さなかった。

 《Hall of Names》から、無数の順位線が伸びる。

 ランキングの順位を示す白い横線が、空中で鎖のように変形し、レンの腕と足へ巻きついた。

《Rai_404》
《2位》
《開示貢献者》
《解放候補》
《責任者》

 文字が鎖の一つ一つに刻まれている。

 レンの本名とハンドルネームが、交互に点滅する。

《久遠レン》
《Rai_404》
《久遠レン》
《Rai_404》
《解放者》
《拡散者》
《責任者》

「ぐっ……!」

 レンの体が引かれる。

 ランキングボードへ。

 ミラー・ランカーは、レンを取り込もうとしていた。

 彼を“扉を開く者”として固定しようとしていた。

 ミオが一歩前に出る。

「レンくんの名前を、変えないで」

 その声は大きくなかった。

 だが、不思議と届いた。

 ミオの足元で、白い水面のような光が一瞬だけ広がる。

 彼女自身も危うい。
 ランキングには、まだ《星宮ミオ》の文字が浮かびかけている。

 それでも、彼女は言った。

「レンくんは、Rai_404じゃありません。解放者でも、責任者でもありません」

 ユウリが続ける。

「久遠レンだ!」

 ユウリのスマホが光る。

 未署名の観測翼の羽根アイコンが、薄く震えた。

 だが、今回はユウリが前に出るより早く、レン自身が顔を上げた。

「……そうだよ」

 レンは、歯を食いしばる。

「俺は、久遠レンだ」

 雷の神紋が、鎖の下で激しく光った。

「情報オタクで、軽口担当で、寝不足で、ちょっと調子乗ってて、でも――」

 彼は息を吸う。

「勝手に誰かを神話の素材にしたかったわけじゃねえ!」

 レンの背後で、ヴァルガ=ライオスの獣影が咆哮した。

 それは音というより、空気そのものを裂く圧力だった。

 ランキングの鎖に亀裂が入る。

 レンが右腕を引いた。

《雷吼の荒冠》
《出力上昇》
《ヴァルガ・ブレイク》

「うおおおおおッ!」

 レンが拳を振り抜いた。

 青白い雷が、ランキングの鎖を一気に砕く。

 砕けた文字が、火花のように散った。

 《責任者》
 《解放者》
 《拡散者》
 《Rai_404》

 それらが割れ、最後に《久遠レン》だけが残る。

 レンはその名前を掴むように、拳を握った。

 そのまま床を蹴り、《Hall of Names》へ向かって一直線に走る。

「レン、待て!」

 ユウリが叫ぶ。

 だが、レンは止まらない。

 彼の前に、ミラー・ランカーが作った最後の結界が立ち上がる。

 銀色の鏡のような壁。
 そこには、店内にいる生徒たちの名前、プレイヤーネーム、スコア、称号、神格適性が無数に映っていた。

 自分を見る鏡。

 自分を順位に変える鏡。

 自分の名前を、他人の視線の中で固定する鏡。

 レンは、それに拳を叩き込んだ。

《ヴァルガ・ブレイク》

 轟音。

 鏡の結界が砕ける。

 店内のすべての画面が、同時に白く弾けた。

 生徒たちのスマホから、契約通知が剥がれていく。
 プリクラの称号が消える。
 音ゲーの譜面から神名が落ちる。
 対戦ゲームの影が画面へ戻る。
 倉持の《名前喪失耐性》という表示が消える。
 ミオの《ランキング登録》も、一瞬だけ止まる。

 ユウリは息を吐きかけた。

 だが、アヴィが叫んだ。

「駄目だ、ユウリ!」

 スマホ画面に、赤い警告が走る。

《ランキング結界:破砕》
《封鎖ログ:解放開始》
《未公開機能群へのアクセス経路が開放されます》
《危険ログ流出まで――》

 数字が表示される。

《3》
《2》
《1》

 レンが振り返る。

 その顔に、勝利の笑みはなかった。

 彼も気づいたのだ。

 自分が、今度は別の扉まで開けてしまったことに。

 砕けた鏡の奥から、黒と白の文字列が溢れ出す。

 削除済み動画。
 神話板の実験ログ。
 AVIS一般版の制限機能。
 偽日輪の観測断片。
 欠落街区の破損座標。
 第零保管庫の禁忌名の欠片。
 そして、見たことのない言葉。

《契約相体験版》
《神格適性測定》
《近傍神話層接続》
《再臨候補検索》

 ユウリは画面を見つめた。

 レンは、生徒たちを救った。

 確かに救った。

 でも、同時に、街へ向かう新しい扉が開いた。

 その向こうから、まだ形を持たない神話の気配が、ゆっくりと流れ出していた。

第五節 ― 開けすぎた扉

 砕けた鏡の奥から、文字が溢れた。

 それは光ではなかった。

 光の形をした情報だった。

 白い文字列。黒いノイズ。動画の断片。画像のサムネイル。誰かの書き込み。削除済みのキャッシュ。AVIS一般版の診断ログ。神話板のスレッド番号。神社の監視カメラに映っていた白い揺らぎ。欠落街区で保存に失敗したはずの黒い座標。駅の地下通路に一瞬だけ現れた無番線への経路。

 それらが、割れた《Hall of Names》から店内へ噴き出した。

 風のように。

 雨のように。

 あるいは、閉じていた水門が壊れたように。

「何だよ、これ……!」

 倉持ハルトが、床に座り込んだまま声を上げた。

 彼のスマホには、さっきまで出ていた《契約しますか?》の文字が消えている。代わりに、別の通知が次々に浮かんでいた。

《AVIS一般版:β機能を解放しました》
《契約相体験版》
《神格適性測定》
《近傍神話層接続》
《再臨候補検索》
《ミラー・スコア連携》

「待て待て待て、増えてんじゃん! 消えたんじゃなくて増えてんじゃん!」

 その声は、店内のあちこちから上がる混乱と重なった。

「何これ、勝手にアップデートされた!」

「β機能って何?」

「契約相体験版、残ってるんだけど」

「さっきのランキング消えたのに、アプリの中に入ってる!」

「近傍神話層接続って押していいやつ?」

「押すな!」

 ユウリは思わず叫んだ。

 何人かがびくりとして手を止める。

 だが、全員ではない。

 混乱している者。面白がっている者。恐怖で動けない者。さっきまでの契約通知から解放されて泣きそうになっている者。

 それぞれのスマホに、新しい機能が花火のように咲いている。

 レンは《Hall of Names》の前で膝をついた。

 肩で息をしている。制服の袖は雷で焼けたように焦げ、右腕の神紋はまだ青白く明滅していた。彼の背後に立っていたヴァルガ=ライオスの獣影は薄くなっているが、消えてはいない。

 荒い呼吸の合間に、レンは画面を見た。

 自分が壊した。

 そういう顔だった。

「……止まったんじゃ、ねえのかよ」

 その声はかすれていた。

 ユウリはレンへ駆け寄りかけたが、足を止めた。

 店内を飛び交う文字列が、ただの表示ではないと分かったからだ。

 流れ出したログのいくつかは、生徒たちのスマホへ向かっている。
 いくつかは、店の外へ伸びる通信回線へ流れている。
 いくつかは、まだランキングボードの残骸にまとわりつき、消えずに形を作ろうとしている。

 それだけではない。

 文字列の中に、名前が混ざっていた。

 倉持ハルト。
 音ゲーをしていた女子生徒の名前。
 対戦ゲームの前にいた男子生徒の本名。
 プリクラ機に入っていた二人組の名字。
 過去のプレイヤーネーム。
 学校名。
 クラス。
 診断履歴。
 照応候補。

 そして、薄く、しかし確かに浮かびかける文字。

《星宮ミオ》

 ユウリの体が冷えた。

 ミオはまだランキング登録されていない。

 レンの一撃で、公開登録は寸前で止まった。

 けれど、ミラー・スコアの裏側に溜まっていたログが開いたことで、今度は別の経路から名前が流れ出そうとしている。

 ミオ自身がスマホを抱え、震える指で画面を押さえていた。

「ユウリくん……名前が、外へ行きそうです」

 その言葉は奇妙だった。

 けれど、ユウリには意味が分かった。

 名前が外へ行く。

 自分の手から離れて、誰かの画面に表示され、誰かの言葉になり、誰かの解釈になり、誰かの神話になる。

 星宮ミオという現在名が、ミオ自身のものではなくなってしまう。

 アヴィが、ユウリのスマホに赤い警告を連ねる。

《封鎖ログの流出を確認》
《個人名・現在名に直結する情報を複数検出》
《神話板への自動転送経路あり》
《Mirror Score β残存部が情報拡散を継続》
《警告:完全遮断は困難》

「遮断できないのか」

《完全遮断には管理機構級の白環補正、または断絶処理が必要です》
《ただし、いずれも副作用大》

 マシロの白環。

 トウマの断絶。

 どちらも浮かんだ。

 白く塗りつぶす。
 あるいは切り落とす。

 たしかに、それなら止まるかもしれない。

 流れを消し、経路を塞ぎ、記録をなかったことにする。
 あるいは、流れそのものを裂き、二度と戻らないようにする。

 けれど、それは違う。

 ユウリはそう思った。

 たぶん、今なら少しだけ分かる。

 マシロは間違っていない。
 トウマも間違っていない。
 レンも間違っていない。

 だが、どれか一つだけで押し切れば、そこから落ちるものがある。

 隠せば、誰も知らないまま同じ罠にかかる。
 切れば、助かったことさえ忘れる。
 開けば、誰かの名前が素材になる。

 なら。

 なら、自分は何をする。

 ユウリはスマホを握った。

 画面の中で、羽根のアイコンが震えている。

 未署名の観測翼。

 それは、まだ名前の決まらない契約相だ。

 神でも悪魔でもAIでもないアヴィと、英雄でも救世主でもないユウリのあいだに立ち上がった、未確定の力。

 斬るための力ではない。
 祓うための力でもない。
 管理するための力でも、切断するための力でもない。

 見る力。

 名前を貼られる前の、余白を見る力。

「アヴィ」

「何だ、ユウリ」

「完全に隠すんじゃなくて、完全に流すんでもない方法はあるか」

 アヴィは一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙の間にも、ログは流れ続けている。

 神話板の断片。
 偽日輪の削除動画。
 無番線ホームの座標。
 第零保管庫の破損データ。
 AVIS一般版のβ機能。
 生徒たちの名前。

 アヴィが答えた。

《理論上は可能》
《公開情報から個人名・現在名への直結経路を未署名化》
《情報そのものは残し、特定個人への接続のみ曖昧化する》
《ただし、精密な観測が必要》

「つまり?」

「情報を消さずに、名前だけを守れ。公開された文章の中に、余白を作るんだ」

 ユウリは息を吸った。

 できるかどうか分からない。

 でも、できるかどうか分からないことばかりだった。

 第1話で、ミオの名前を呼んだ時も。
 第3話で、偽日輪の神名を剥がした時も。
 第4話で、白い補正の中から現在名を探した時も。
 第5話で、切断面に残った縁を拾った時も。

 いつも、先に答えがあったわけではない。

 選択肢は、表示されているものだけとは限らない。

 ユウリはスマホを掲げた。

「展開」

 画面から、白い羽根が一枚浮かび上がる。

 それは光の羽根ではなかった。
 紙片にも似ていた。
 未署名の契約書の切れ端にも似ていた。

 羽根がほどけ、文字のない細い線になり、ユウリの背後で翼の輪郭を作る。

《契約相:未署名の観測翼》
《第三用途:公開情報の余白化》
《個人名保護》
《現在名の晒出を抑制》

 ユウリの視界が変わった。

 店内が、いつもの景色ではなくなる。

 人の姿が線で見える。
 スマホから伸びる通信経路が糸のように見える。
 筐体から漏れ出すログが流れとして見える。
 ランキングボードの残骸からは、割れた鏡の破片のようなものが無数に浮かび、それぞれがどこかの名前を映している。

 その中で、特に濃い線があった。

 ミオの名前へ向かう線。

 それは、何本もある。

 神話板の“神狭の女神”画像から。
 AVIS一般版の照応診断から。
 天御柱神宮の削除動画から。
 無番線ホームの目撃ログから。
 白環管理区域の観測記録から。
 欠落街区の破損データから。

 すべてが、星宮ミオへ向かおうとしている。

 ミオを説明しようとしている。

 ミオを神話化しようとしている。

 ユウリはその線へ手を伸ばした。

 触れた瞬間、頭の中に無数の言葉が流れ込む。

女神候補。
依代。
未定義核。
理触疑い。
月神型。
神狭の女神。
救済者。
災厄。
公開価値測定不能。

「違う」

 ユウリは歯を食いしばった。

 声を出さなければ、押し流されそうだった。

「違う。これは、ミオの説明じゃない」

 羽根が震える。

 名前へ向かう線が、少しだけほどけた。

 ユウリは叫んだ。

「隠すんじゃない!」

 店内の何人かが、ユウリを見る。

 でも、ユウリは構わない。

「でも、晒すのも違う!」

 未署名の観測翼が広がる。

 ミオの名前に向かう線の途中に、白い空白が挟まっていく。

 削除ではない。

 黒塗りでもない。

 そこに何かがあったことは分かる。

 だが、それが誰なのかは、勝手には届かない。

 神狭駅の無番線に巻き込まれた少女。
 星綴高校の出席簿異常に関わった生徒。
 天御柱神宮の偽日輪事件で依代候補とされた人物。
 白環管理区域で未定義核と分類されかけた対象。
 欠落街区で女神照応を切断された人物。

 情報は残る。

 だが、《星宮ミオ》へ直結しない。

 ユウリは、さらに声を張った。

「この人たちは、神話の素材じゃない!」

 その言葉と同時に、倉持の名前へ伸びていた線も見えた。

 《HARUTO_Gt》
 《倉持ハルト》
 《出席簿異常被害者》
 《名前喪失耐性:中》

 ユウリはその線にも手を伸ばす。

 倉持が、自分の名前を握りしめるように胸元を押さえた。

「俺のも?」

「守る!」

 ユウリは叫ぶ。

 倉持だけではない。

 音ゲーの女子生徒。
 対戦ゲームの男子生徒。
 プリクラ機にいた二人。
 軽い気持ちでプレイヤーネームを入力した生徒たち。

 全員が、自分の名前をランキングへ渡したつもりなどなかった。

 ゲームをしたかっただけだ。
 面白そうなイベントを覗いただけだ。
 診断結果で笑いたかっただけだ。

 それを、神話の材料にされていいはずがない。

 ユウリは、流れ出すログの中から個人名に直結する部分だけを拾い上げ、白い余白で包んでいく。

 完全には止められない。

 神話板へ流れる情報は残る。
 ミラー・スコアがあったことも残る。
 AVIS一般版のβ機能が解放されたことも消えない。

 だが、人の名前は守る。

 現在名だけは、勝手に素材へ変えさせない。

 その作業は、想像していたより苦しかった。

 白環のように一括で塗りつぶせば楽だった。
 断絶のようにまとめて切れば早かった。
 レンのように一気に壊せば、きっと気持ちはよかった。

 けれど、ユウリがしていることはそのどれでもない。

 一つ一つ見る。
 一つ一つ選ぶ。
 消さない。
 でも、晒さない。
 残す。
 けれど、勝手には使わせない。

 手間のかかる、面倒なやり方だった。

 それでも。

「これが……俺のやり方だ」

 ユウリは呟いた。

 その声を、アヴィが拾った。

「いいんじゃないか。英雄らしくはないが、君らしい」

「褒めてるのか」

「分類保留」

 ユウリは少しだけ笑いかけた。

 だが、次の瞬間、《Hall of Names》の残骸が激しく震えた。

 ミラー・ランカーが、まだ残っている。

 ランキングボードの奥に、銀色の円が再び浮かび上がった。

《NO NAME》
《神格適性スコア:測定不能》
《契約相解放率:100%》
《全プレイヤーを再接続します》

 その文字は、先ほどより薄い。

 しかし、消えてはいない。

 ユウリが個人名を守ったことで、ミラー・ランカーは人の名前を直接使えなくなった。だが、まだ匿名ログとスコアと遊戯記録を材料に、形を保とうとしている。

 レンが、ゆっくり立ち上がった。

「レン、動けるのか」

 ユウリが聞くと、レンは肩で息をしながら笑った。

「正直、足ガクガク」

「じゃあ無理するな」

「でも、あれ」

 レンは《NO NAME》を見上げた。

「あれは俺が開けた」

「レン」

「分かってる。ひとりで背負うとかじゃねえ」

 レンは、ユウリを見た。

 その目には、さっきのような焦りはなかった。

 痛みはある。後悔もある。だが、その奥に、いつものレンの意地が戻っていた。

「お前が名前を守るなら、俺は道を開ける。今度は、開ける場所を間違えない」

 ユウリは一瞬だけ黙り、それから頷いた。

「分かった」

 ミオが、二人を見た。

「私も」

 彼女は自分のスマホを胸から離した。

 画面にはまだ、《星宮ミオ》の現在名安定率が表示されている。

《星宮ミオ:現在名安定率 69%》
《公開観測リスク:低下中》
《内部照応欠落:継続》

 ミオは唇を結び、ランキングボードを見つめた。

「私は、私の名前を、ここに渡しません」

 その声は、静かだった。

 でも、はっきりしていた。

 ユウリの未署名の観測翼が、ミオの言葉に反応して白く揺れる。レンの雷紋が、足元で再び輝いた。

 《NO NAME》が、最後の抵抗を始める。

 店内のすべての画面に、もう一度選択肢が表示された。

《続けますか?》
《コンティニューしますか?》
《契約しますか?》
《許可する》
《許可する》
《許可する》

 ユウリは羽根を広げる。

「選択肢が一つしかないなら」

 レンが笑う。

「増やせばいい」

 雷が走った。

《雷吼の荒冠》
《出力再上昇》
《ヴァルガ・ブレイク》

 レンが駆けた。

 今度は、ただ壊すためではない。

 ユウリの白い羽根が、レンの走る道を示す。
 開いてはいけないログを避ける。
 人の名前に直結する線を避ける。
 ミラー・ランカーの中核だけへ続く、細く危険な道を見つける。

 レンはその道を走った。

 クレーンゲームの横を抜け、音ゲー筐体を飛び越え、対戦ゲームの光の残滓を踏み砕き、《Hall of Names》の前で拳を引く。

 青白い雷と風が、彼の右腕に集まる。

「終われ!」

 拳が、銀色の円を貫いた。

 雷と風が、ランキングボードの奥へ突き抜ける。

 《NO NAME》の文字が歪んだ。

《神格適性スコア:測定不能》
《契約相解放率:100%》
《全プレイヤーを――》
《接続――》
《再構成――》
《名前――》

 文字が砕ける。

 銀色の円が割れ、黒い背景が裂けた。

 ミラー・ランカーの中心にあったものは、神像でも怪物でもなかった。

 無数のランキング表。
 無数の空欄。
 無数のプレイヤーネーム。
 無数の「誰かに見られたい」という欲望。
 無数の「名前を残したい」という小さな願い。

 それらが絡まり合い、神話になりかけていた。

 レンの一撃が、それを砕いた。

 店内に轟音が響く。

 すべての画面が、一斉に暗転した。

 数秒。

 完全な静寂。

 それから、非常灯のような通常照明が戻った。

 ゲームセンター《コンティニュー》は、ただのゲームセンターに戻っていた。

 音ゲーの筐体は再起動中の画面になっている。
 対戦ゲームのモニターにはエラーコード。
 プリクラ機は「メンテナンス中」と表示されている。
 クレーンゲームのぬいぐるみは、何事もなかったようにアームの下で揺れている。

 生徒たちは、呆然としていた。

 泣いている者もいる。
 スマホを投げ出している者もいる。
 何が起きたのか理解できず、ただ周囲を見回している者もいる。

 倉持が、床に座ったまま自分の胸を叩いた。

「……倉持ハルト」

 小さく確認する。

「俺は、倉持ハルト」

 その声に、ユウリはほっとした。

 ミオも、自分の学生証を取り出す。

 名前欄には、はっきりと文字があった。

 星宮ミオ。

 消えていない。

 公開されてもいない。

 彼女は小さく息を吐いた。

「戻ってます」

 レンは、その場に膝をついた。

 今度こそ立っていられなかった。

 ユウリが慌てて支える。

「レン!」

「……勝った?」

 レンが掠れた声で聞く。

 ユウリはランキングボードを見た。

 暗転した画面。

 砕けた《NO NAME》。

 消えたミラー・スコア。

 そのはずだった。

 だが、ユウリのスマホに、アヴィの表示が浮かんだ。

《ミラー・ランカー:本体崩壊》
《Mirror Score β:停止》
《個人名流出:抑制成功》
《残存ログ:一部拡散》

 ユウリの胸が沈む。

 まだ終わっていない。

 アヴィの表示は続く。

《接続先不明》
《ネットワーク深層へ逃走した断片あり》
《ログ・オリュンポス関連断片を検出》
《照合不可》

「ログ……オリュンポス?」

 ユウリが呟く。

 その言葉は、初めて聞くはずだった。

 なのに、どこかで聞いたことがあるような気がした。

 ネットの奥。
 無数の神話名が集まる場所。
 検索され、描かれ、語られ、再生成された神々の断片が流れ込む、まだ形を持たない神殿。

 そのイメージが、一瞬だけ脳裏をよぎる。

 レンも画面を見た。

 疲れ切った顔で、苦く笑う。

「勝ったけど、逃げられたってやつか」

「……たぶん」

「最悪だな」

 そう言って、レンは天井を見上げた。

 だが、その声には、ほんの少しだけ安堵も混ざっていた。

 少なくとも、目の前の生徒たちは救えた。

 ミオの名前も守れた。

 倉持の名前も残っている。

 完全な勝利ではない。

 けれど、ゼロではない。

 ユウリは、暗くなったランキングボードを見つめた。

 神話は、もう神殿や古い書物の中だけにあるのではない。

 掲示板にある。
 ゲームセンターにある。
 診断アプリにある。
 ランキングにある。
 誰かの投稿にある。
 誰かの生成画像にある。
 誰かの軽い「面白そう」にある。

 そして、それは簡単に消せない。

 ユウリはスマホを握りしめた。

 隠すのではなく。
 切るのでもなく。
 開きすぎるのでもなく。

 名前を守りながら、残す。

 その難しさが、初めて骨の奥まで分かった気がした。

終節 ― 隠すな、でも流しすぎるな

 ゲームセンター《コンティニュー》は、少しずつ普通の店に戻っていった。

 最初に戻ったのは、照明だった。

 白く反転していた天井灯が、蛍光灯特有の少し疲れた色に戻る。非常灯の赤が壁際に細く残り、停止していた筐体の画面には、順番に再起動中のロゴが浮かび始めた。

 音ゲーのスピーカーから、短い起動音が鳴る。
 対戦ゲームの筐体には、メーカー名とエラーコード。
 プリクラ機は「メンテナンス中」の文字を出し、クレーンゲームのアームはぬいぐるみの上で頼りなく揺れていた。

 さっきまで、ここに神話がいた。

 名前をスコアに変え、プレイヤーネームと現在名をつなぎ、生徒たちを契約へ誘導しようとした何かが、確かにいた。

 けれど、今の店内を見ただけなら、ただの機械トラブルにしか見えない。

「停電?」

「通信障害じゃね?」

「イベント演出……にしては怖すぎたんだけど」

「何か、めっちゃ疲れた」

「俺、何で床に座ってんの?」

 生徒たちは、口々にそう言いながら立ち上がっていく。

 何が起きたのかを、はっきり覚えている者は少ない。
 だが、何かが起きたという疲労だけは残っている。
 肩をさする者。スマホを見て首を傾げる者。友人の名前を確かめるように呼ぶ者。

 倉持ハルトは、しばらく自分の手のひらを見つめていた。

 それから、ふと思い出したように言った。

「倉持ハルト」

 自分の声で、自分の名前を確認する。

 ユウリが見ると、倉持は照れ隠しのように笑った。

「いや、念のため」

「うん」

「笑うなよ」

「笑ってない」

「顔が笑いそうだった」

「悪い」

 ユウリが素直に謝ると、倉持は少しだけ肩の力を抜いた。

 そのスマホには、もう《契約しますか?》の表示はない。
 《HARUTO_Gt》と《倉持ハルト》を結んでいた危険な線も、ユウリの視界からは消えていた。

 ただし、完全に元へ戻ったわけではない。

 倉持のAVIS一般版には、まだ見慣れない項目が一つ残っている。

《β機能:一部利用可能》
《神格適性測定:制限中》

 倉持は画面を見て、顔をしかめた。

「これ、消した方がいいやつ?」

「今は触らない方がいい」

「触らない方がいいアプリが、勝手に入って勝手に機能増やすの、普通にホラーじゃね?」

「だから触るなって」

「はいはい」

 軽口は戻っている。

 けれど、倉持の指は、画面から少し距離を置いていた。

 怖さを覚えている。

 細部は忘れても、押してはいけないものがあった感覚だけは残っている。

 それだけでも、まだましなのかもしれない。

 店内の奥では、店員が困り果てた顔でブレーカーを確認していた。生徒たちは「今日はもう営業無理っぽい」と言いながら、少しずつ外へ出ていく。誰かが「ミラー・スコア、結局何だったんだよ」と言い、別の誰かが「バグイベントじゃね」と答える。

 その言葉は、普通の日常に戻ろうとするための仮の札だった。

 設備トラブル。
 通信障害。
 変なイベント。
 バグ。

 そう呼べば、怖くなくなる。

 ユウリは、それを責められなかった。

 人は、理解できないものに名前をつけて安心する。

 ただ、その名前が誰かを傷つけることもあるのだと、今はもう知っている。

   *

 店の外に出ると、旧北口商店街の空気は冷たかった。

 アーケードの灯りが、雨上がりのように濡れた舗道を薄く照らしている。実際には雨など降っていないのに、地面はどこか光を含んでいて、さっきまでの雷と画面の白さがまだ残っているように見えた。

 《コンティニュー》の入口脇には、短い階段がある。

 レンはそこに座っていた。

 膝に肘を置き、右手をだらりと下げている。手首には、まだ薄く雷の紋が残っていた。青白い線はもう激しく光っていないが、皮膚の下に細く焼きついたように見える。

 本人は平気な顔をしようとしていた。

 だが、顔色は悪い。

 唇の色も薄い。
 呼吸も少し荒い。
 いつもなら余計な一言を先に言うはずなのに、今は黙って空を見ている。

 ユウリは、隣に腰を下ろした。

 階段のコンクリートは冷たかった。

 少し離れて、ミオが立っている。彼女は二人の会話に入るでもなく、離れるでもなく、見守る距離を選んでいた。

 レンはしばらく何も言わなかった。

 それから、ぽつりと呟いた。

「隠して守るのは違うって、思ってた」

「うん」

「今でも、思ってる。マシロさんみたいに、全部白くして、知らなかったことにするのは違う。トウマみたいに、危ないから切るっていうのも、やっぱ怖い」

 レンは右手首の雷紋を見る。

「でも、俺が流したせいで、誰かが危険になるのも分かった」

 その声は、いつものレンより少し低かった。

 後悔している。

 けれど、自分を全否定しているわけでもない。

 だから、ユウリはすぐに慰めなかった。

 軽く「お前のせいじゃない」と言えば、楽かもしれない。
 でも、レンはそれを望んでいない気がした。

 たぶん、レン自身も分かっている。

 全部が自分のせいではない。
 それでも、自分が開けた扉があった。

 その両方を見なければいけない。

「たぶん」

 ユウリは言った。

「全部を閉じるのも、全部を開けるのも違う」

 レンは、横目でユウリを見る。

「お前、ほんと保留ばっかだな」

「そうかも」

「そこは否定しろよ」

「でも、保留しないと見えないものもある」

 レンは少し黙った。

 それから、疲れたように笑った。

「何か、今のちょっと主人公っぽい」

「茶化すな」

「茶化してねえよ。半分くらい」

「半分は茶化してるだろ」

「バレたか」

 やり取りは軽かった。

 けれど、以前と同じではない。

 二人の間には、今日のことがある。
 レンが神話板へログを流したこと。
 ミラー・スコアが暴走したこと。
 レンがヴァルガ=ライオスと照応し、《雷吼の荒冠》を展開したこと。
 ユウリが、公開情報の余白化で人の名前を守ったこと。

 それらを、なかったことにはできない。

 それでも、友情が壊れたわけではなかった。

 むしろ、少しだけ重くなった。

 軽口だけで済ませられない分だけ、簡単には切れないものになった気がした。

 ミオが、そっと近づいてきた。

「レンくん」

「ん?」

「さっき、名前を守ってくれて、ありがとうございました」

 レンは困ったように笑った。

「いや、俺が危なくしたんだけど」

「それでも、最後は守ろうとしてくれました」

「……そう言われると、逆に刺さる」

 ミオは小さく首を傾げた。

「刺すつもりはありません」

「ミオって、たまに天然で強いよな」

 その言葉に、ミオは少しだけ笑った。

 薄い笑みだったが、確かに笑った。

 ユウリは、その表情を見て少し安心する。

 ミオの学生証には、まだ名前が残っている。

 星宮ミオ。

 それだけで、今は十分だった。

 レンのスマホが震えた。

 短い通知音。

 レンの表情が、ほんのわずかに変わった。

 彼は反射的に画面を見て、それからすぐに伏せようとした。

 ユウリは気づいた。

 見えてしまったわけではない。

 だが、レンの手の動きが早すぎた。

「レン?」

「何でもない」

 レンはそう言った。

 あまりにも早く。

 ユウリは、そこで追及しなかった。

 けれど、伏せられる前の画面に、わずかに白い文字が映っていた。

《Mirror Score β:観測完了》
《雷吼の荒冠:記録》
《久遠レンを構文解放候補として認識》
《次の扉は、地下にあります》
《Club MISLEAD》

 Club MISLEAD。

 その名前だけが、ユウリの頭に引っかかった。

 地下。

 次の扉。

 構文解放候補。

 レンはスマホをポケットにしまう。

 視線を合わせない。

 ユウリも、今は何も言わなかった。

 言えば、レンはきっと誤魔化す。
 あるいは、話す準備ができていないまま話すことになる。
 それは、今のレンに必要なことではない気がした。

 ただ、覚えておく。

 それだけにした。

   *

 同じ頃。

 旧北口商店街から少し離れた路地に、白い車が一台停まっていた。

 外から見れば、医療相談車か、行政の巡回車のようにも見える。目立つロゴはない。窓には薄いスモークがかかっており、中の様子は見えない。

 その車内で、烏丸マシロは端末を見ていた。

 白い画面に、神狭市の簡略地図が表示されている。旧北口商店街の一点が、薄く点滅していた。

 マシロの表情は、いつも通り静かだった。

 怒っているようにも、驚いているようにも見えない。

 ただ、目だけがひどく冷静だった。

《ゲームセンター《コンティニュー》異常収束》
《Mirror Score β:停止》
《ミラー・ランカー本体崩壊》
《残存ログ:拡散》
《神狭市内AVIS一般版:β機能拡散中》

 マシロは指先で画面を送る。

《久遠レン:情報拡散リスク上昇》
《契約相展開を確認》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《分類:封鎖解除型/高拡散リスク》

 次の項目。

《天瀬ユウリ:公開情報余白化を確認》
《契約相:未署名の観測翼》
《第三用途:個人名保護》
《評価:管理機構方式とは異なる抑制処理》
《要監視》

 さらに次。

《星宮ミオ:公開観測リスク増大》
《現在名保持:継続》
《内部照応欠落:未解消》
《隔離推奨レベル:再評価中》

 マシロは、そこで指を止めた。

 星宮ミオ。

 未定義核。
 依代候補。
 理触疑い。
 複数女神残滓流入。

 分類はできる。

 危険度も測れる。

 だが、天瀬ユウリは今日、その分類へ白い余白を挟んだ。

 完全に隠したわけではない。
 完全に流したわけでもない。
 個人名だけを神話の素材から外した。

 それは、管理機構の方法ではない。

 効率が悪い。
 再現性が低い。
 担当者の判断に依存する。
 大規模災害には向かない。

 それでも、今回に限れば効果があった。

 マシロは静かに息を吐いた。

「保護では、足りない」

 以前、自分でそう言った。

 その認識は変わらない。

 ただ、保護以外の方法が存在しないとは、もう言い切れない。

 マシロの端末に、新しい通知が浮かぶ。

《アーカイヴ・ノア中央記録》
《白環管理区域再展開の申請準備》
《対象:旧北口商店街/星綴高等学園/AVIS一般版ユーザー群》
《承認待機》

 マシロは、それを見つめた。

 すぐには承認しなかった。

   *

 旧北口商店街の階段では、レンがようやく立ち上がろうとして失敗していた。

「うわ、足に来てる」

「無理するなよ」

「いや、立てる。俺は立てる男」

「膝笑ってるけど」

「これは膝が楽しくなってるだけ」

「意味分からない」

 ユウリが肩を貸すと、レンは不満そうにしながらも体重を預けた。

「借り一な」

「助けてる側が借り作るのかよ」

「俺のプライド保護費」

「高いな」

 ミオが、二人の横で少し笑う。

 その時、ユウリのスマホが震えた。

 アヴィだ。

 画面には、いつもより硬い文字が並んでいた。

《警告》
《契約相連続使用による肉体・記録負荷を検出》
《天瀬ユウリ:軽度》
《久遠レン:中度》
《星宮ミオ:内部照応欠落継続》
《専門診断を推奨》

 ユウリは眉を寄せた。

「専門診断?」

 レンも画面を覗き込む。

「何それ。病院行けってこと?」

 アヴィの表示が更新される。

《通常医療機関では診断困難》
《神話構文障害、契約相負荷、現在名揺らぎ、内部照応欠落を総合的に確認可能な診療所あり》

 ユウリは嫌な予感を覚えた。

「それ、まともな場所なんだよな?」

 少し間があった。

 アヴィが答える。

《白紙カルテ診療所》
《医師:白羽根イツキ》
《契約神照応:メディカ=ヴェルム》
《専門:神話構文障害/AVIS契約者の肉体反応/神格権能使用後の後遺症》

 レンが顔をしかめる。

「白紙カルテって、名前からして嫌なんだけど」

「同感」

 ミオは小さく呟いた。

「白紙……」

 その言葉に、少しだけ不安が混ざる。

 名前が書かれていないもの。
 空白のままの記録。
 書き込まれるのを待つ紙。

 今のミオには、あまり優しい響きではなかった。

 アヴィの表示は、さらに続いた。

《注意》
《白羽根イツキは治療可能性あり》
《同時に、対象を症例として観察する傾向あり》
《治療対象としてではなく、症例として扱われる可能性があります》

 ユウリは画面を見つめた。

「つまり、いい医者だけど、いい人とは限らない?」

《概ね正確》

 レンが乾いた笑いを漏らした。

「この街、そんなやつばっかじゃね?」

 ユウリは否定できなかった。

 神々を信じるレイジ。
 守るために管理するマシロ。
 救うために切るトウマ。
 開くことで危険を広げたレン。
 名前を守るために、まだ答えを出せない自分。

 そして今度は、治すために観察する医師。

 誰も単純な悪人ではない。

 だから、厄介だった。

 ユウリはスマホを閉じかけて、もう一度画面を見た。

《白紙カルテ診療所》
《所在地:旧北口商店街裏通り》
《診療時間:不定》
《初診受付:要紹介》
《紹介元候補:カフェ《ノーネーム》》

 その最後の行を見て、ユウリは思わず顔を上げた。

 旧北口商店街の奥に、カフェ《ノーネーム》の灯りが見える。

 店名のない入口。
 真鍮の札。
 名前を聞かない老紳士。
 黒いシルクハットと銀の杖。

 名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ。

 老紳士の声が、ふと耳の奥に蘇った。

 ユウリは息を吐く。

「……行くしかないか」

 レンが隣で呻いた。

「できれば明日以降で。今行ったら、俺たぶん診察台で寝る」

「今日は帰ろう」

 ミオが言った。

 その声は、柔らかかった。

「今日は、帰ってもいい日だと思います」

 ユウリは少し考えて、頷いた。

「うん。帰ろう」

 その言葉を言った瞬間、胸の奥に少しだけ日常が戻った気がした。

 帰る。

 ただ、それだけのことが、今は妙に大切だった。

 旧北口商店街の灯りの下を、三人はゆっくり歩き出す。

 レンはユウリの肩を借り、ミオはその少し横を歩く。誰も多くは話さない。だが、沈黙は悪くなかった。

 その背後で、ゲームセンター《コンティニュー》の看板が、弱々しく点滅している。

 もう一度、続けますか。

 その問いに、ユウリは振り返らなかった。

 今日は続けない。

 今日は帰る。

 けれど、街のどこかでは、開けすぎた扉の向こうから、まだ誰かがこちらを見ている。

 神話板の深層。
 地下へ続く次の扉。
 Club MISLEAD。
 白紙カルテ診療所。
 そして、ネットのさらに奥で照合不能のまま残った言葉。

 ログ・オリュンポス。

 まだ名づけられていない次の災害が、神狭市の夜の下で、静かに読み込まれ始めていた。