Episode 07
第7話 ― 白紙カルテへの紹介
本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。
序節 ― 白紙カルテへの紹介
翌朝、星綴高等学園の廊下は、いつも通りに騒がしかった。
昇降口では、上履きに履き替える生徒たちが列を作っている。廊下の奥からは、誰かが笑いながら走ってくる足音がした。教室の前では、昨日出た数学の課題について文句を言う声が重なり、窓際では女子生徒たちがスマホを見せ合っている。
普通の朝だった。
少なくとも、そう見えた。
「……普通すぎるだろ」
ユウリは、階段の踊り場で足を止めた。
昨日、旧北口商店街のゲームセンター《コンティニュー》で、あれだけのことがあった。
ランキングボードが生徒たちの名前を吸い上げ、AVIS一般版のβ機能が解放され、レンがヴァルガ=ライオスの契約相を展開し、ミラー・ランカーという集合観測型神話残滓を砕いた。
なのに、学校は普通に始まっている。
誰も、ゲームセンターの中で自分の名前がスコアに変えられかけたことを真剣に話していない。
何人かは「昨日の通信障害やばかったよな」と笑っている。
何人かは「AVISの新機能残ってるんだけど」と面白がっている。
何人かは、ただ疲れているように見えるだけだ。
世界は、何もなかった顔で続く。
それが、かえって怖かった。
「まあ、普通って便利だからな」
隣で、レンが言った。
いつも通りの軽い声に聞こえた。
だが、ユウリはすぐに気づいた。
レンの顔色が悪い。
目の下には薄い隈があり、唇の色も少し白い。階段を数段上がっただけなのに、呼吸が乱れている。本人は笑ってごまかしているが、肩の上下がいつもより大きい。
右手は、制服の袖の中に隠されていた。
「レン」
「何」
「手、見せろ」
「やだ」
「即答するな」
「人には見せられない秘密の右腕なんだよ。中二的に」
「中二で済むならいいけど」
ユウリがじっと見ると、レンは視線を逸らした。
「……大したことねえって」
「だったら見せられるだろ」
「論破してくんな」
レンは渋々、右手を袖から出した。
手首の内側に、薄い雷のような紋が残っていた。
昨日よりは薄い。けれど、消えていない。皮膚の下に青白い線が一本走っていて、心拍に合わせるようにわずかに明滅している。
レンは慌てて袖を下ろした。
「ほら、ちょっと残ってるだけ。タトゥーシールみたいなもん」
「タトゥーシールは脈打たない」
「最近のは高性能かもしれないだろ」
「ない」
「夢がないな、お前」
レンは笑った。
だが、その笑いは短く、すぐに咳のような息に変わった。
ユウリは眉を寄せる。
「保健室行くか」
「行かねえよ。昨日ゲーセンで雷出しましたって言うのか?」
「言わなくていいだろ」
「じゃあ何て言うんだよ。夜更かしで右腕に神紋出ました?」
「それも言わなくていい」
「病院向いてない会話だな、俺たち」
そう言って、レンは階段を上がろうとした。
その瞬間、膝が少し揺れた。
「レン!」
ユウリが腕を掴む。
レンはすぐに踏ん張った。
「大丈夫」
反射的に言う。
その言葉の速さが、逆に大丈夫ではないことを示していた。
少し離れたところで、ミオが立ち止まっていた。
彼女は、昨日よりさらに静かに見えた。表情は普段と変わらない。けれど、どこか輪郭が薄い。朝の光を受けているはずなのに、彼女の影だけが床に少し遅れて落ちているような錯覚があった。
「ミオ」
ユウリが呼ぶと、ミオはすぐに顔を上げた。
「はい」
返事は自然だった。
けれど、次に彼女が自分で言おうとした時、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。
「私は……」
その先が、出てこなかった。
ミオは胸元を押さえる。
ユウリは小さく息を呑んだ。
「無理しなくていい」
「いえ。大丈夫です」
ミオはゆっくり息を吸った。
そして、少しだけ時間をかけて言った。
「私は、星宮ミオです」
名前は言えた。
だが、言葉の途中に、薄い空白が挟まったように聞こえた。
名前を呼ばれれば反応できる。
けれど、自分で名乗る時に、一瞬だけ詰まる。
第5話で、トウマがミオの女神照応を一部切った。
その後、現在名安定率は一時的に上がった。
だが、内部照応欠落という警告は消えていない。
安定しているように見えて、何かが遠い。
ミオ自身も、それを感じているのだろう。
彼女は困ったように微笑んだ。
「変ですね。呼ばれると、ちゃんと分かるんです。でも、自分で言おうとすると、少しだけ……遠回りしている感じがします」
「遠回り?」
「はい。自分の名前なのに、どこかを通ってから戻ってくるみたいで」
ユウリは、何も言えなかった。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
AVISだ。
画面を開くと、アヴィの表示が並んでいた。
《契約相連続使用による肉体・記録負荷を検出》
《天瀬ユウリ:軽度》
《久遠レン:中度》
《星宮ミオ:内部照応欠落継続》
《専門診断を推奨》
ユウリは眉間を押さえた。
その動作をした瞬間、視界の端が白く欠けた。
ほんの一瞬。
教室の扉の端が、紙を破ったように白く抜けた。
廊下の掲示物の文字が、途中だけ空欄になる。
すぐに戻った。
だが、頭の奥に鈍い痛みが残る。
「……俺もか」
ユウリは小さく呟いた。
昨日、《未署名の観測翼》で公開情報の余白化を行った。
個人名を守るために、流れ出すログの中へ白い余白を挟み込んだ。
その時は必死だった。
だが、あれも契約相の使用だった。
力を使えば、何かが減る。
今さらのように、その当然のことが身体に返ってきた。
レンが画面を覗き込む。
「専門診断って何だよ。スマホが急に医者行けって言ってくるの怖すぎるだろ」
ユウリは画面に向かって聞いた。
「専門診断って、病院に行けってことか?」
アヴィの表示が切り替わる。
《通常医療機関では診断困難》
《神話構文障害、契約相負荷、現在名揺らぎ、内部照応欠落を総合的に確認可能な診療所あり》
ユウリは嫌な予感を覚えた。
「その言い方、普通の病院じゃないだろ」
《白紙カルテ診療所》
《医師:白羽根イツキ》
《契約神照応:メディカ=ヴェルム》
《専門:神話構文障害/AVIS契約者の肉体反応/神格権能使用後の後遺症》
レンが即座に言った。
「それ、絶対やばい医者だろ」
ミオも画面を見つめる。
「白紙カルテ……」
その声に、わずかな不安が混ざった。
白紙。
名前が書かれていないもの。
病名がまだ決まっていないもの。
何かを書き込まれるのを待つもの。
この数日を経験した後では、その言葉だけでも十分に不穏だった。
ユウリは画面をスクロールする。
さらに注意表示が続いていた。
《注意》
《治療対象としてではなく、症例として観察される可能性があります》
「ほら見ろ!」
レンが声を上げる。
「絶対やばい! 治療対象じゃなくて症例って何だよ。人を実験台みたいに見てるタイプじゃん」
「否定できないのが嫌だな」
「行かない」
レンは即答した。
「俺は行かない。医者嫌いだし、白紙とかカルテとか名前がもう怖いし、何より症例扱いが嫌だ」
「でも、手震えてる」
ミオが静かに言った。
レンは反射的に右手を背中へ隠す。
「震えてねえし」
「震えています」
「ミオ、そういう時だけ容赦ないよな」
「見えているので」
レンは言い返そうとして、やめた。
右手は確かに震えていた。
指先が細かく揺れている。本人が力を入れて止めようとしても、完全には止まらない。手首の雷紋が、淡く光るたびに筋肉が小さく跳ねていた。
ユウリは、昨日のレンを思い出す。
雷吼の荒冠。
ヴァルガ・ブレイク。
ランキングボードを貫いた一撃。
そして、崩れ落ちたレン。
格好よかった。
強かった。
けれど、それは無傷で使える力ではなかった。
「行こう」
ユウリは言った。
レンが顔をしかめる。
「だから俺は――」
「行くだけ行く。嫌なら診察を断ればいい」
「絶対丸め込まれるやつじゃん」
「レンが丸め込まれるとは思えないけど」
「そこは信用されてるんだな」
「うん」
「微妙に嬉しくない」
レンはぶつぶつ言いながらも、強く拒否はしなかった。
ミオが少し安心したように息を吐く。
「私も、診てもらった方がいいと思います」
「怖くないのか?」
ユウリが聞くと、ミオは少し考えた。
「怖いです。でも、分からないままの方が、もっと怖い気がします」
その言葉に、ユウリは頷いた。
分からないまま放っておく。
それが、どれほど危険かはもう知っている。
名前の異変も。
神話の残滓も。
契約相の負荷も。
最初は小さな違和感として始まる。
けれど、見ないふりをしている間に、取り返しがつかない形になる。
「放課後に行くか」
ユウリが言うと、レンは大げさにため息をついた。
「はいはい。白紙カルテツアーね。嫌な観光地だな」
アヴィが画面に一行だけ追加する。
《予約不要》
《ただし、紹介元候補:カフェ《ノーネーム》》
ユウリは、その表示を見て目を細めた。
カフェ《ノーネーム》。
旧北口商店街の奥にある、名前を聞かない店。
老紳士の店主。
黒いシルクハットと銀の杖。
知っているようで何も言わない男。
名を守った者は、次に名を預かりたがる者と出会うものだよ。
あの言葉が、また耳の奥で響いた。
すべてが偶然ではない。
そう思うことには、もう慣れ始めている。
*
放課後、三人は旧北口商店街へ向かった。
空は曇っていた。
雨が降りそうで降らない、白く重い雲が神狭市の上に広がっている。太陽の位置は分かるのに、光は薄い。街全体が、白い紙を一枚かぶせられたように見えた。
旧北口商店街は、いつも通り古かった。
シャッターの下りた店。
看板の文字が薄れた時計店。
昔ながらの薬局。
古書店の暗い窓。
カフェ《ノーネーム》から漏れる、柔らかな灯り。
だが、今日はそこを素通りした。
カフェの扉についた鈴は鳴らない。
老紳士も姿を見せない。
ただ、店の前を通り過ぎる時、ユウリは一瞬だけ視線を感じた。
窓の奥。
カウンターの向こう。
白髪の老紳士が、こちらを見ていたような気がした。
けれど、次の瞬間には誰もいない。
「……今」
「見た?」
レンも同じ方向を見ていた。
ミオは小さく首を振る。
「見えませんでした。でも、誰かが笑った気がします」
「やっぱり嫌な店だな」
レンが言う。
ユウリは否定できなかった。
商店街の外れへ向かうにつれて、人通りは少なくなった。
アーケードが途切れ、古い住宅と空き店舗が混ざる裏通りに入る。街灯はまだついていない。電柱には古い貼り紙が重なり、道端のプランターには枯れかけた花が残っていた。
スマホの地図では、目的地はすぐそこに表示されている。
だが、道は少し分かりにくかった。
普通なら見落としてしまいそうな細い路地。
白いブロック塀。
古い医院のような建物。
その前で、三人は足を止めた。
白い古い建物だった。
新しくはない。
むしろ、かなり年季が入っている。外壁はところどころくすみ、窓枠の塗装も少し剥げていた。けれど、不潔ではない。丁寧に手入れされている。古くても、放置されてはいない。
曇りガラスの扉。
その横に、小さな看板が出ている。
《白紙カルテ診療所》
文字は黒く、細い。
病院の看板にしては、少し静かすぎた。
受付時間も、診療科目も、院長名も書かれていない。
ただ、白い板にその名前だけがある。
白紙カルテ診療所。
ユウリは看板を見上げたまま、喉の奥が乾くのを感じた。
ここは、病院だ。
病気や怪我を診る場所。
それなのに、どこか神社や古書店に近い気配がある。
人の身体だけではなく、記録や名前や祈りまで診る場所。
レンが、無理に軽口を叩く。
「今なら引き返せるぞ」
「言い出した本人が一番帰りたそうだな」
「俺は常に正直者だから」
その右手が、また震えた。
今度は本人も隠しきれなかった。
ミオが静かに見つめる。
レンは観念したように息を吐いた。
「……分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
ユウリは曇りガラスの扉に手をかけた。
冷たい。
扉の奥から、匂いがした。
消毒液の匂い。
そして、古い紙の匂い。
病院の匂いと、図書館の奥にある書庫の匂いが混ざっている。
ユウリは一度だけ振り返った。
レンは嫌そうな顔をしている。
ミオは少し緊張した顔で、自分の胸元を押さえている。
アヴィの画面には、短い表示が出ていた。
《白紙カルテ診療所に到着》
《注意:治療と観察は分離されていません》
ユウリは小さく息を吸った。
名前を守るために戦ってきた。
神名を剥がし、管理を拒み、断絶に抗い、流れすぎる情報に余白を挟んだ。
けれど今度は、診られる。
自分たちの異常に、誰かが名前をつける。
それが治療になるのか。
新しい呪いになるのか。
まだ、分からない。
ユウリは扉を開けた。
奥で、小さなベルが鳴る。
ちりん、と。
それは、カフェ《ノーネーム》の鈴よりも少し乾いた音だった。
白い待合室の奥から、穏やかな男の声がした。
「どうぞ。白紙カルテ診療所へ」
扉の向こうで、紙をめくる音がした。
「あなた方の空欄は、まだ残してあります」
第一節 ― 待合室には神がいる
白紙カルテ診療所の待合室は、拍子抜けするほど普通だった。
正面に受付がある。
木目調のカウンター。古い診察券入れ。小さな呼び鈴。手書きの案内札には「初診の方は保険証をご用意ください」とだけ書かれている。
壁には、予防接種のお知らせが貼られていた。
インフルエンザ。風疹。高齢者肺炎球菌。
その隣には、子ども向けの歯みがき啓発ポスターがある。色褪せた動物のイラストが、にこにこと歯ブラシを持っていた。
長椅子は古いが、よく磨かれている。
棚には絵本と週刊誌。
隅には血圧計。
空気清浄機が静かに唸っている。
ここだけ見れば、少し古い町医者だった。
けれど、ユウリは一歩入った瞬間に、背中の奥がざわつくのを感じた。
病院の匂いがする。
消毒液。
アルコール。
古い紙。
薬品棚にしまわれたガラス瓶の匂い。
それに混じって、ほんのかすかに、焦げた羽根のような匂いがした。
レンが小さく鼻を鳴らす。
「……何か、普通っぽいのが逆に怖いな」
「普通の病院に見える」
「見えるだけだろ、絶対」
レンは右手首を袖の中に隠したまま、待合室を見回した。
その視線が、長椅子に座っている人々のところで止まる。
配達員らしい青年がいた。
制服の上着を着たまま、膝の上にヘルメットを置いている。まだ二十代前半くらいだろうか。どこか眠そうな顔をして、足元を気にしている。
靴紐の先から、小さな羽根のような光が漏れていた。
白い羽根ではない。
透明に近い、風の形をした光。
青年はそれを指で押さえようとしているが、押さえるたびに靴紐の結び目からふわりと浮かぶ。まるで、走り出したがっているみたいだった。
その隣には、年配の女性が座っていた。
膝の上に、布で包んだ弁当箱を抱えている。買い物帰りのような服装で、髪はきちんとまとめられていた。見た目だけなら、近所の内科へ薬をもらいに来た人にしか見えない。
だが、弁当箱の隙間から、小さな火が見えていた。
赤く、暖かい火。
炎なのに、布を燃やしていない。
女性は困ったように両手で包み込み、時々「しずかにね」と子どもをあやすように呟いている。
別の長椅子には、中学生くらいの少女が座っていた。
制服姿。
膝の上に通学鞄。
俯いたまま、背中を気にしている。
肩甲骨のあたりに、白い線が浮いていた。
服の上からでも見える。細い光の筋が二本、背中の内側から押し出されるように滲んでいる。羽根、と言うにはまだ形がない。けれど、そう呼ばれてしまえば、たぶん羽根になる。
少女はそれを知っているのか、知らないのか、何度も背筋を丸めて隠そうとしていた。
さらに奥には、スーツ姿の男がいた。
清潔なシャツ。整えられた髪。膝の上には黒い鞄。社会人らしい落ち着きがある。だが、耳元につけた小型端末に、ほんの一瞬だけ文字が流れた。
《白環管理局》
ユウリは目を細める。
男はすぐに端末を指で押さえた。
こちらを見た。
目が合う。
男は、何も言わずに視線を逸らした。
知らないふりをした。
それが、かえって知っている証拠のように見えた。
ユウリは小声で呟く。
「……ここ、普通の病院じゃない」
ポケットの中で、AVISが震えた。
画面を開くと、アヴィがすぐに表示を出す。
《神格権能使用者反応:複数》
《AVIS非経由接続者:推定二名》
《管理機構関係者:一名》
《未分類神話構文障害:待合室内に六件》
レンが顔を引きつらせた。
「六件って、待合室で?」
声が大きくなりかけたので、ユウリは肘で軽く小突いた。
「声」
「いや、だって六件だぞ。普通、待合室でそんな数字出るか?」
「普通の待合室じゃないからだろ」
「納得したくねえな、それ」
ミオは、待合室の人々をじっと見ていた。
怖がっているというより、不思議そうだった。
彼女は、小さな声で言う。
「みんな、普通に座ってますね」
ユウリは、その言葉に少しだけ息を止めた。
そうだ。
彼らは怪物ではない。
敵でもない。
誰かを襲おうとしているわけでも、街を壊そうとしているわけでもない。
配達員の青年は、自分の靴紐から出る羽根の光に困っているだけだ。
年配の女性は、消えない火を弁当箱の中に収めようとしているだけだ。
中学生の少女は、背中の違和感を誰にも見られたくなくて縮こまっているだけだ。
スーツ姿の男でさえ、何かを管理する側でありながら、今は患者としてここに座っている。
順番を待っている。
診てもらうために。
治してほしいのか。
名前をつけてほしいのか。
あるいは、自分が何になりかけているのかを知りたいのか。
ユウリは、待合室に満ちる静けさを聞いた。
それは神殿の静けさではなかった。
戦場の緊張でもなかった。
怪異の気配でもない。
病院の静けさだった。
咳を我慢する音。
椅子が軋む音。
受付の奥で紙をめくる音。
誰かが自分の症状を抱えながら、呼ばれるのを待つ音。
神話構文災害は、もう事件だけではない。
無番線ホームで起きる異変。
旧校舎の七不思議。
神社の偽日輪。
商店街の白環。
欠落街区の断絶。
ゲームセンターのミラー・スコア。
それらは、ユウリたちにとっては一つ一つの事件だった。
けれど、この待合室では違う。
症状だ。
街の裏側で、すでに病気のように扱われている。
誰かが権能を使いすぎた後遺症。
誰かが契約しかけた傷。
誰かが神名に触れた反動。
誰かが祈りでもAVISでもない古い経路で神とつながってしまった名残。
それらを抱えた人々が、普通の顔をして順番を待っている。
ユウリは、背筋が冷えるのを感じた。
自分たちは、特別な物語の主人公になったのではない。
すでにある裏側へ、ようやく足を踏み入れただけなのだ。
受付の奥で、扉が開く音がした。
白衣の男が出てきた。
背は高すぎず、低すぎない。三十代後半から四十代前半ほどに見える。髪は黒に近いが、光の当たり方によって灰色が混じる。清潔な白衣。襟元はきちんとしていて、首から聴診器を下げている。
薄い手袋をしていた。
医療用の手袋に似ているが、素材が少し違う。紙のようにも、薄い皮膜のようにも見える。
胸ポケットには、銀のペンライトと、薄青い薬瓶。
白衣の内側からは、細い銀の鎖が一瞬だけ見えた。先端に何がついているのかは分からない。
彼は穏やかに微笑んだ。
優しそうだった。
それだけなら、町医者として信用できる笑顔だった。
けれど、ユウリはすぐに分かった。
この人は、見ている。
患者を見る目だ。
同時に、症例を見る目でもある。
体温。顔色。呼吸。歩き方。名前に反応するまでの間。手首の神紋。ミオの輪郭の遅れ。ユウリの視界に残る白い欠け。
すべてを、静かに読んでいる。
白衣の男は、三人の前で立ち止まった。
「天瀬ユウリさん、星宮ミオさん、久遠レンさんですね」
穏やかな声だった。
「お待ちしていました」
レンが一歩引いた。
「待たれてた。やっぱり帰らないか?」
「ここまで来て?」
「ここまで来たからこそ、引き返す勇気ってあるだろ」
ユウリはレンを軽く睨み、それから白衣の男へ向き直る。
「どうして名前を?」
少し強い声になった。
この数日で、名前を知られていることの怖さを知りすぎた。
名前を呼ばれることは、救いにもなる。
だが、奪われる入口にもなる。
分類され、登録され、契約され、管理される始まりにもなる。
白衣の男は、その警戒を不快がる様子もなく受け止めた。
むしろ、当然の反応だと言うように、少しだけ目を細める。
「患者さんの名前を把握していない医者は、あまり信用できないでしょう?」
「俺たちは、まだ患者になるって決めたわけじゃありません」
「ええ。ですから、診察の前に説明します」
男は軽く会釈した。
「白羽根イツキです。この診療所の院長をしています。表向きは内科、小児科、簡易外科、心療相談。裏向きには、神話構文障害、AVIS契約者の肉体反応、神格権能使用後の後遺症を診ています」
あまりにも自然に言った。
まるで、風邪や腹痛の診療科目を説明するように。
レンが顔をしかめる。
「裏向きって自分で言う医者、初めて見た」
「隠す必要がある相手には言いません」
「俺たちは言っていい相手なんですか」
「もう知っているでしょう?」
イツキは、レンの右手首へ視線を落とした。
「久遠さん。右手を無理に隠すと、神経反応が余計に強くなります。袖の圧迫は避けてください」
レンがぎくりとした。
「見ただけで分かんのかよ」
「かなり分かりやすい症状です」
「症状って言うな」
「では、反応と呼びましょう」
「それも嫌だな」
イツキは穏やかに微笑む。
相手の拒絶に、いちいち傷つかない。
それは医者としての余裕にも見えるし、感情の距離にも見えた。
次に、イツキはミオを見た。
その視線は、レンの時より少しだけ深かった。
「星宮さんは、立っているだけで疲れませんか」
ミオは瞬きをした。
「少しだけ」
「床が遠く感じることは?」
「……あります」
「自分の名前を言う時、一拍遅れる」
ミオは答えなかった。
代わりに、胸元をそっと押さえる。
ユウリは思わず前に出た。
「先生」
イツキはすぐに視線を戻した。
「失礼。診察前に踏み込みすぎました」
謝罪は早かった。
ただ、その目の奥には、消えない興味が残っている。
ユウリは、それが嫌だった。
ミオを見る目。
理触者。
未定義核。
依代候補。
女神残滓保持者。
そういう言葉をつける前の目。
イツキは、ユウリへ向き直る。
「天瀬さん」
「はい」
「あなたは、頭痛がありますね」
ユウリは言葉に詰まった。
「……あります」
「視界の端が白く欠ける?」
ユウリは、答える前に少しだけ警戒した。
けれど、隠しても無駄だと思った。
「はい」
「契約相を使った後に、情報の輪郭が残る。特に名前、ログ、選択肢、空欄に反応しやすい」
「そこまで分かるんですか」
「分かるというより、似た症例を見たことがあります」
その一言が、ユウリの胸に引っかかった。
似た症例。
自分と似た誰かが、前にもいたのか。
聞こうとした時、待合室の奥で中学生の少女が小さく呻いた。背中の白い線が強く光る。
イツキはすぐにそちらを見た。
「三番の方、少し姿勢を変えましょう。肩を閉じすぎると、羽根ではなく痛みとして固定されます」
少女が怯えた顔で頷く。
看護師らしき女性が奥から出てきて、少女の背中に薄い布をかけた。その布には、肉眼では見えにくい細かな罫線が入っている。カルテの罫線のようだった。
ユウリは、その様子を見て言葉を失った。
ここでは、そういうことが当たり前に行われている。
火を押さえる女性。
羽根を漏らす配達員。
白環管理局の端末を隠す男。
背中に痛みを抱える少女。
そして、自分たち。
イツキは三人に向かって、静かに言った。
「驚くのは当然です。ですが、ここでは皆さん、患者です。神格権能使用者でも、AVIS契約者でも、理触疑いでも、管理対象でも、観測者でもありません」
ユウリは少しだけ息を緩めた。
だが、次の言葉でまた身構えることになる。
「ただし、患者である以上、記録は取ります」
レンが即座に言った。
「ほら出た」
イツキは笑みを崩さない。
「治療には記録が必要です」
「人を症例って見るんだろ」
「見ます」
あまりにあっさり認めたので、レンが黙った。
イツキは続ける。
「ですが、症例であることと、人間であることは矛盾しません。少なくとも、この診療所では」
ユウリは、イツキの目を見た。
嘘をついているようには見えない。
けれど、安心できる言葉でもなかった。
この人は助ける。
たぶん、本当に治療する。
だが、記録も取る。
興味も持つ。
必要なら、身体だけでなく名前や反応まで読む。
マシロとは違う。
トウマとも違う。
レイジとも、レンとも違う。
また一人、新しい種類の大人が現れた。
イツキは受付の奥へ手を向けた。
「では、順番に診ましょう。まずは久遠さん。神格反動が強い。放置すると、右腕だけ再展開を起こす可能性があります」
「右腕だけ再展開って何だよ、怖すぎるだろ」
「怖いから診ます」
「言い方」
レンは文句を言いながらも、もう逃げようとはしなかった。
右手の震えが、少し強くなっている。
イツキは診察室の扉を開けた。
中から、さらに濃い消毒液と古い紙の匂いが流れてくる。
そして、何かが擦れる音。
紙の上を、蛇が這うような音。
アヴィが、ユウリのスマホに短く表示した。
《契約神照応:メディカ=ヴェルム》
《白紙の医神》
《カルテの神》
《病名を待つ神》
ユウリは画面を見た。
病名を待つ神。
その言葉が、ひどく不吉に思えた。
イツキは振り返る。
「どうしました?」
ユウリはスマホを伏せた。
「いえ」
「大丈夫です。今日は、すぐに病名をつけたりはしません」
イツキは穏やかに言った。
「まずは、どこを空欄のまま残すべきかを診ます」
そう言って、彼は診察室の中へ入った。
レンが小さく呟く。
「やっぱり、やばい医者じゃん」
ユウリは答えなかった。
否定できなかったからだ。
それでも、三人は診察室へ向かった。
待合室では、消えない火を抱えた女性が小さく会釈した。
配達員の青年の靴紐から、羽根の光がまた一枚こぼれた。
中学生の少女は、背中に布をかけられたまま、少しだけ楽そうに息を吐いている。
神は、待合室にいた。
だがそれは、祈られる神ではなかった。
人の身体に残った熱。
名前の奥に刺さった棘。
日常の中で隠されている小さな異常。
それらが、順番待ちの札を持って、静かに座っていた。
第二節 ― 白羽根イツキ
診察室は、待合室よりもさらに白かった。
けれど、病院特有の無機質な白ではない。
壁は白。
机も白。
カーテンも白。
診察台に敷かれた紙も白。
それでも、そこには温度があった。棚には薄青い薬瓶が並び、古い木製のカルテ棚が壁一面を占めている。医療機器のそばには、見慣れない装置がいくつも置かれていた。小型の心電計に似たもの。銀色のペン型ライト。細い透明な管。古い万年筆のような器具。そして、診察机の中央には、白いタブレット端末が置かれている。
ただのタブレットではなかった。
画面の端に、AVISの羽根型アイコンがある。
だが、ユウリたちのスマホに入っているものとは少し違う。羽根の形が蛇のように細く曲がり、その下に、薄い青色の十字にも似た記号が刻まれていた。
イツキはそれを軽く指で叩く。
「医療用に調整したAVISです。こちらでは《AVIS-Med》と呼んでいます」
「医療用って……そんなのあるんですか」
ユウリが聞くと、イツキは椅子に座りながら答えた。
「表向きにはありません」
「出た。裏向き」
レンがぼそっと言う。
イツキは気にした様子もない。
「神話構文障害は、通常の検査では拾えないものが多い。脳波、心拍、血液検査だけでは不十分です。名前への反応、契約線の残留、神格照応の揺れ、記録負荷、観測痕。そうしたものを同時に見る必要があります」
「説明されても、やばさしか分からないんですけど」
「分かりやすく言えば、あなた方の身体が神話にどれだけ無茶をされたかを診ます」
「さらに嫌になった」
レンは診察椅子に座らされて、あからさまに顔をしかめた。
イツキは薄い手袋をはめ直す。手袋の表面に、細かな罫線のような模様が走った。カルテの紙面に引かれた線のようにも、蛇の鱗のようにも見える。
「久遠さん。右腕を出してください」
「拒否権は?」
「あります。拒否する場合、今日は鎮痛薬だけ出して帰っていただきます。ただし、その場合、今夜から明日にかけて右腕の雷風反応が再燃する可能性があります」
「……脅しじゃん」
「説明です」
「医者の説明って怖いな」
レンは渋々、右腕を机の上に置いた。
袖を捲る。
手首から肘にかけて、薄い雷紋が浮いていた。
学校で見た時よりも濃い。青白い線が皮膚の下を走り、時折、小さく跳ねる。そのたびにレンの指先がぴくりと震えた。
イツキは顔色ひとつ変えず、銀のペンライトを取り出した。
光を当てる。
すると、雷紋が反応して淡く輝いた。
レンが顔を歪める。
「っ……!」
「痛みますか」
「痛いっていうか、熱い。いや、痺れる。いや、何だこれ、全部」
「痛覚が遅れて戻っていますね」
イツキは《AVIS-Med》を起動した。
画面に白いカルテが開く。
文字が、ひとりでに浮かび上がった。
《白紙診断開始》
《対象:久遠レン》
《現在名:保持》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《契約相:雷吼の荒冠》
《症状候補:神格反動熱》
《症状候補:雷風神経負荷》
《症状候補:荒神性筋繊維過負荷》
《症状候補:契約相使用後の痛覚遅延》
「うわ、長い」
レンが嫌そうに画面を睨む。
「神格反動熱って何。名前からして発熱してんじゃん」
「発熱だけではありません。神格の権能が身体を通過した際に、神経、筋肉、記録野に残る熱です。あなたの場合は雷風系の負荷が強い。身体がまだ戦闘状態を解除できていません」
「だから体がだるいのか」
「ええ。あと、無理に動くと、身体が勝手に《まだ戦闘中》と判断します」
「身体が勝手に?」
「契約相を初めて大きく展開した方によくあります」
イツキは、レンの手首に小さな透明シートを貼った。
シートには細い青い線が入っている。貼られた瞬間、雷紋の明滅が少し弱まった。
レンが驚いたように手を見る。
「……ちょっと楽になった」
「仮の鎮静です。根本的な治療ではありません」
「いや、充分すげえけど」
「ありがとうございます。では、ログを取ります」
「勝手に人の体をログにすんな」
レンはすぐに顔をしかめた。
イツキは平然と答える。
「治療には記録が必要です」
「その言い方がもう嫌なんだよ。俺、昨日も情報流して失敗してんだぞ」
レンの声が少しだけ低くなった。
ユウリは、その横顔を見る。
軽口の下に、まだ昨日のことが残っている。
自分が流したログ。
開けすぎた扉。
ミラー・ランカー。
AVIS一般版のβ機能。
レンは、笑っているだけではない。
イツキもそれを見ていた。
「記録は、流すためだけにあるのではありません」
彼は静かに言った。
「治療のために閉じる記録もあります。患者本人の許可がなければ、外へ出さない記録もある」
「本当に?」
「少なくとも、私はそうしています」
「管理機構には?」
「必要な分だけ」
「必要な分って誰が決めるんだよ」
「私と、患者です」
レンは少し黙った。
完全には信用していない顔だった。
けれど、さっきよりは強く拒絶していない。
イツキはカルテに数行、手書きのような文字を加えた。
レンには見えない角度だったが、ユウリには一瞬だけ読めた。
《治療方針:過剰展開抑制》
《開放衝動の否定は逆効果》
《段階的使用制限を推奨》
イツキはレンの腕からシートを剥がさず、その上から細い包帯のようなものを巻いた。
「今日明日は、契約相の再展開を避けてください」
「避けろって言われて避けられるものなんですか」
「避けてください」
「避けます」
レンは即答した。
そのあまりの早さに、ユウリは少し笑いそうになる。
「今、笑ったろ」
「笑ってない」
「顔が笑いそうだった」
「さっきの仕返しだ」
レンは不満そうにしたが、少しだけ表情が緩んでいた。
腕の痛みが軽くなったのだろう。
それだけで、ユウリも少し安心した。
けれど、その安心は長く続かなかった。
「では、次は星宮さん」
イツキがそう言った瞬間、診察室の空気が変わった。
ミオは椅子へ座った。
姿勢はいつも通り静かだ。
けれど、膝の上で重ねた手が、わずかに強く握られている。
イツキは、さっきよりも慎重な動作で《AVIS-Med》を操作した。
白いカルテが開く。
ミオの名前が表示される。
《対象:星宮ミオ》
《現在名:星宮ミオ》
《現在名:保持中》
そこまでは、普通だった。
次の瞬間、画面が沈黙した。
文字が出ない。
白紙のまま、数秒が過ぎる。
診察室の空調音が妙に大きく聞こえた。
レンも黙る。
ユウリは息を止める。
ミオは、自分の名前が表示された画面を見つめている。
ようやく、文字が浮かんだ。
《内部照応欠落あり》
《複数女神残滓:低活性》
《外部切断痕:確認》
《理触性――》
そこで、文字が乱れた。
《診断保留》
イツキの目つきが変わった。
ほんの一瞬。
医師の目ではある。
患者を心配する目。
症状を見逃すまいとする目。
だが、そこにもう一つ混ざった。
研究者の興味。
珍しいものを見た時の、静かな高揚。
長年探していた症例に出会ったような、抑えた熱。
ミオが、少しだけ身を引いた。
ユウリはその動きを見逃さなかった。
「先生」
気づけば、ユウリは一歩前に出ていた。
「ミオを、そんな目で見ないでください」
診察室が静かになる。
レンも、口を挟まずにイツキを見る。
イツキは数秒、ユウリを見つめた。
怒りはしなかった。
むしろ、自分の視線の意味を自覚しているように、ゆっくり瞬きをした。
「失礼」
彼は静かに言った。
「けれど、珍しい症例です」
「症例じゃないです」
ユウリはすぐに返した。
声が少し強くなる。
ミオが自分の胸元を押さえているのが見えた。
彼女は怒っていない。
でも、少し怖がっている。
分類されることに。
自分ではない名前をつけられることに。
依代。
未定義核。
理触者。
女神残滓保持体。
そのどれもが、彼女を星宮ミオから遠ざける。
イツキは答えた。
「患者でもあります」
「だからって」
「ええ。だからこそ、言葉を選ぶ必要がある」
イツキは《AVIS-Med》の画面を一度伏せた。
表示が消える。
ミオの名前だけが、白紙の上に残り、それもすぐに閉じられた。
「星宮さん」
イツキは、今度は画面ではなく、ミオ本人へ向き直った。
「今の診断候補は、まだ確定しません。確定させるべきでもない。あなたの状態には、切断されたものと、残っているものと、まだ名前をつけてはいけないものが混在しています」
ミオは静かに聞いていた。
「治りますか」
その質問は、小さかった。
だが、診察室の空気をまっすぐ切った。
イツキはすぐには答えなかった。
安易に大丈夫とは言わない。
それが優しさなのか、残酷さなのか、ユウリには分からなかった。
「治る、という言葉をどう定義するかによります」
イツキは言った。
「以前とまったく同じ状態へ戻す、という意味なら、難しい。すでに外部から切断された照応があります。戻せば、別の負荷が出る可能性が高い」
ユウリの胸に、トウマの言葉が蘇る。
神話ごと切れ。
ミオを助けたいなら。
あの時、ミオの現在名安定率は上がった。
けれど、彼女の内側には欠落が残った。
「ですが」
イツキは続ける。
「今のあなたが、星宮ミオとして日常を保つための補助はできます。内部の欠落を無理に埋めず、外部からの照応を遮りすぎず、現在名が自分の声へ戻る経路を保つ」
ミオは少しだけ目を伏せた。
「自分の声へ戻る経路……」
「自分で名乗る訓練が必要です。誰かに呼ばれて反応するだけではなく、あなた自身が、あなたの名前を発すること」
ユウリは、隣でミオを見る。
ミオは小さく頷いた。
「分かりました」
イツキは薄青い薬瓶を一本取り出した。
「薬ではありません。反応安定用の記録水です。飲むものではなく、名前を言う前に手首へ一滴落としてください」
「名前を言う前に?」
「ええ。身体が現在名へ戻るための目印になります」
ミオは薬瓶を両手で受け取った。
その小さな瓶の中で、薄青い液体が静かに揺れている。
まるで、水面のようだった。
ユウリは、なぜか胸がざわついた。
白い水面。
底のない空。
沈みかける名前。
まだ見たことのない景色が、一瞬だけ頭の奥に触れた気がした。
「天瀬さん」
イツキの声で、ユウリは我に返った。
「次はあなたです」
ユウリは診察椅子に座った。
座った瞬間、妙な緊張があった。
レンやミオを診られている時は、警戒しながらも見ていられた。
だが、自分が診られる番になると、急に落ち着かない。
自分の中に何があるのか。
何と診断されるのか。
病名をつけられるのか。
自分が何者かを、他人の言葉で示されるのが怖かった。
イツキは《AVIS-Med》を再び起動する。
白いカルテが開いた。
《白紙診断開始》
《対象:天瀬ユウリ》
《現在名:保持》
《契約相:未署名の観測翼》
《症状候補:未署名観測反応》
そこまでは出た。
次の行が、出ない。
画面は白いまま。
カルテの病名欄が、空白のまま点滅している。
イツキは眉をわずかに上げた。
指先で画面をなぞる。
《余白構文――》
文字が出かけて、消える。
《診断不能》
《病名欄:空白》
白紙。
完全な白紙だった。
レンが横から覗き込む。
「お前だけ結果が白紙って、ずるくない?」
「ずるいのか?」
「いや、怖い」
「同感」
ユウリは画面を見つめた。
病名欄が、埋まらない。
それは安心なのか。
異常なのか。
分からない。
イツキは、興味深そうに微笑んだ。
ミオを見た時とは少し違う興味だった。
珍しい症例を見つけたというより、書こうとした文字が紙に拒まれるのを面白がっているような顔。
「君は、症状が出ているというより、病名が拒否されている」
ユウリは嫌な予感を覚えた。
「それ、どういう意味ですか」
「そのままです。あなたの反応は確かにある。契約相の負荷もある。視界の欠け、頭痛、情報輪郭の残留。症状として扱える要素は複数あります」
イツキは白紙のカルテを指差す。
「ですが、それらをひとつの病名にまとめようとすると、病名そのものが定着しない」
「定着しない?」
「あなたの構文が、確定を拒んでいる」
ユウリの背中に冷たいものが走った。
確定を拒む。
それは、アヴィが何度も示した未定義選択肢に似ている。
許可する。
拒否する。
保留する。
その外側。
表示されている選択肢だけではない場所。
「普通は、病名をつけることで治療方針を決めます」
イツキは言った。
「ですが、あなたの場合、急いで名づけると、むしろ壊れる可能性がある」
「壊れる?」
「病名に合わせて、あなたの反応が歪む。未署名の観測翼も同じです。あれはまだ、何者でもないから機能している。無理に神格名や能力名へ固定すると、今の柔軟性を失うかもしれません」
ユウリは、自分の手を見た。
何の変哲もない手だった。
少なくとも、見た目は。
この手で、ミオの名前を呼んだ。
偽日輪の神名を剥がした。
白環の中から現在名を探した。
切断面の縁を拾った。
公開情報に余白を挟んだ。
どれも、同じ力のようで違った。
戦う力ではない。
癒やす力でもない。
管理でも断絶でも解放でもない。
では、何なのか。
ユウリ自身にも、分からない。
「じゃあ、俺はどうすれば」
「しばらくは、白紙のまま観察します」
「それ、治療なんですか」
「場合によっては、最も安全な治療です」
イツキは穏やかに答えた。
「人は、何でもすぐに名づけたがる。病気も、才能も、危険も、神も、自分自身も。けれど、早すぎる名づけは、時に症状を固定します」
彼の声は、医師のものだった。
だが、その奥にはやはり別の熱がある。
白紙を前にした者の熱。
まだ書かれていないものを見つめる者の目。
「天瀬さん」
イツキは言った。
「あなたのカルテは、今のところ空欄を残します」
「今のところ?」
「ええ。空欄は、いつか埋まるかもしれません。あるいは、埋めないまま保つことが治療になるかもしれない」
ユウリは、イツキの顔を見た。
「先生は、それを知りたいんですか」
「もちろん」
イツキは、隠さなかった。
「同時に、あなたを壊したくもありません」
「本当に?」
「壊れた症例は、治療が難しい」
「そういう言い方が信用できないんです」
イツキは少しだけ笑った。
「正直でよろしい」
レンが横から言う。
「先生、患者に信用される気あります?」
「ありますよ。だから嘘をつかない」
「嘘つかないタイプのやばい人だ」
「その評価はよくいただきます」
「よくもらうなよ」
ミオが、少しだけ笑った。
その笑みを見て、ユウリの緊張がほんの少し緩む。
だが、診察室の白さは変わらない。
イツキは三人のカルテを並べた。
レンのカルテには、雷風神経負荷。
ミオのカルテには、内部照応欠落と診断保留。
ユウリのカルテには、空白の病名欄。
三枚とも、普通ではない。
でも、どれもまだ閉じられてはいない。
イツキは三人を見渡して、静かに言った。
「今日の診察で分かったことを伝えます」
その声に、ユウリたちは自然と背筋を伸ばした。
「久遠さん。あなたの力は、開く力です。閉じていたものを破り、封鎖を解除し、道を作る。強力ですが、開ける対象を選ばなければ、危険なものまで流れます」
レンは黙って聞いていた。
「星宮さん。あなたは外部から名づけられやすい状態にあります。現在名は保持されていますが、内部に欠落がある。誰かに呼ばれるだけではなく、自分で名乗る訓練をしてください」
ミオは小さく頷く。
「天瀬さん」
イツキは、最後にユウリを見る。
「あなたは、確定を遅らせる。名づける前の余白を見る。その力は、今の神狭市では貴重です」
ユウリは、嫌な予感を強めた。
「貴重って、また症例としてですか」
「もちろん、それもあります」
「先生」
「ですが、それだけではありません」
イツキは、白紙のカルテを閉じた。
「今、神狭市では、神話構文障害が急増しています。AVIS一般版の拡散、白環補正の副作用、断絶処理の痕跡、神話板の情報流出。これらが重なって、病名をつける前の異常が増えている」
彼は少しだけ声を低くした。
「早すぎる名づけは危険です。けれど、名づけなければ治療できないものもある。その境目を見られる人間は、多くありません」
ユウリは何も言えなかった。
また、何かを期待されている。
再臨派には、神名を扱う者として。
管理機構には、危険な観測者として。
断絶派には、神話を切るべき相手として。
構文解放派には、余白を公開情報へ挟む者として。
そして今度は、医師にまで。
病名を拒む症例として。
ユウリは、膝の上で拳を握った。
「俺は、先生の研究対象になるつもりはありません」
「それで構いません」
イツキは穏やかに言った。
「患者として来てください。研究対象になるかどうかは、その都度相談しましょう」
「普通、相談することじゃないと思います」
「神話構文医療に普通はあまり残っていません」
その言葉は、冗談のようで冗談ではなかった。
診察室の外から、待合室の音が聞こえる。
消えない火を抱えた女性の小さな咳。
配達員の青年が靴を動かす音。
中学生の少女が、背中の布を直す気配。
普通ではない患者たち。
それでも、普通に順番を待っている人たち。
ユウリは、カルテの白さを見つめた。
診断されることは怖い。
でも、診られないまま壊れていくことも怖い。
どちらか一つを選べば済む話ではない。
また、保留。
また、余白。
けれど今は、それを逃げだとは思わなかった。
イツキが立ち上がる。
「では、応急処置は済みました。もう少し経過を見たいので、三人とも今日は激しい神話接続を避けてください」
「避けたいですけど、向こうから来るんですよ」
レンがぼやく。
イツキはにこりと笑った。
「その場合は、逃げてください」
「医者らしい」
「医者ですから」
その時だった。
受付の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
看護師らしき女性の声。
「先生、急患です」
イツキの表情が変わる。
穏やかさは残っている。
だが、目が一瞬で医師のものになった。
「症状は?」
「名前に反応しません。ですが、プレイヤーネームには反応します。皮膚にステータス表示のようなものが出ています」
ユウリたちは顔を見合わせた。
レンの顔から血の気が引く。
「……ミラー・スコアか?」
診察室の扉の向こうで、誰かが運び込まれる音がした。
車輪付きの簡易ベッド。
押し殺した声。
若い男子の、うわごとのような呟き。
「スコア……下がった……まだ、コンティニュー……」
イツキは白衣の袖を整えた。
「診察は一旦ここまでです」
そして、ユウリたちを見る。
「ですが、あなた方にも見ておいてもらった方がいいかもしれません」
レンが低く呟く。
「俺が開けた扉の続きかよ」
誰も答えなかった。
白紙のカルテが、机の上でひとりでに一枚めくれた。
まだ何も書かれていない病名欄が、診察室の白い光を受けて、静かに待っていた。
第三節 ― 病名のない患者
急患として運び込まれてきたのは、制服姿の男子生徒だった。
星綴高等学園のブレザー。
一年生の学年章。
ネクタイは緩み、シャツの襟元には汗が滲んでいる。顔色は悪い。けれど、意識はあるようだった。目は開いているし、手足も動いている。
ただ、その目が、どこも見ていなかった。
待合室の空気が、静かに変わる。
消えない火を抱えていた年配の女性が、弁当箱を抱く手に力を入れた。
靴紐から羽根の光を漏らしていた配達員の青年が、足を引いた。
背中に白い線を浮かべた中学生の少女は、布をかぶったまま、怯えた目で処置室の入口を見つめている。
ここにいる人たちは、異常に慣れている。
それでも、急患には反応する。
神話構文障害も、病気なのだ。
誰かが悪いことをしたからではなく、誰かが選ばれたからでもなく、ある日突然、身体や名前や記録に異常が出る。
そういう場所なのだと、ユウリは改めて思い知らされた。
「処置室へ」
イツキの声は短かった。
さっきまでの穏やかな調子は消えている。冷たいわけではない。ただ、迷いがなかった。
看護師らしき女性が、簡易ベッドを処置室へ押し込む。ユウリたちも、イツキに促されるままその後に続いた。
処置室は、診察室よりも実用的だった。
中央にベッド。
壁際に薬品棚。
天井から下がる処置灯。
脇の台には、銀色の器具と、白い紙束が積まれている。
普通の病院の処置室に見える。
だが、壁には見慣れない細いスリットがいくつもあり、そこから白い紙片のようなものが少しだけ覗いていた。カルテが壁そのものに収納されているようにも見える。
ベッドの上で、男子生徒が小さく呻いた。
「スコア……下がった……」
レンの顔色が変わった。
「おい」
ユウリも息を呑んだ。
聞き覚えがある言葉だった。
昨日、ゲームセンター《コンティニュー》で、生徒たちはスコアを見ていた。
名前を入力し、適性値を測られ、ランキングへ載せられ、契約相体験版という言葉に釣られていた。
ミラー・スコア。
砕いたはずの異常。
けれど、完全には消えていなかった。
イツキは生徒の瞳孔を確認し、首元へ指を当てる。
「名前は」
看護師が手元の端末を見る。
「三枝コウヤさん。星綴高等学園一年C組。昨日、《コンティニュー》に居合わせています。保護者とは連絡中です」
ユウリは思わず一歩前に出た。
「星綴の生徒……」
ミオが小さく呟く。
「一年生……」
レンは、まるで自分の喉を押さえるように右手を握った。
その右手首で、雷紋が淡く光る。
「三枝くん」
看護師が呼びかけた。
「三枝コウヤくん、聞こえますか?」
男子生徒は、反応しなかった。
目は開いている。
耳に届いていないわけではないはずだ。
けれど、その名前は彼の中へ入っていかない。
「三枝くん」
もう一度。
反応しない。
イツキは、眉を少しだけ動かした。
「現在名への反応が鈍い」
そして、看護師へ短く言う。
「AVIS一般版の画面は?」
看護師が、男子生徒のスマホを透明な袋に入れたまま見せた。
画面には、まだ消えていない表示が残っていた。
《Koya_Score17》
《神格適性:不足》
《契約相解放率:17%》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
レンの唇が白くなる。
「……昨日のやつだ」
イツキは、スマホの画面に表示されたプレイヤーネームを静かに読み上げた。
「Koya_Score17」
その瞬間、ベッドの上の男子生徒が顔を動かした。
反応した。
ゆっくりと、声の方を見る。
目の焦点が、イツキではなく、スマホの画面へ合っている。
「……はい」
かすれた声だった。
ユウリの胸が冷たくなる。
自分の名前ではなく、プレイヤーネームに反応した。
三枝コウヤではなく、Koya_Score17として。
三枝は、唇を小さく動かした。
「スコア、下がった……。まだ契約できる。コンティニューしないと……」
「三枝くん」
ユウリが思わず呼んだ。
けれど、三枝は反応しない。
「三枝コウヤ!」
少し強く呼んでも、届かない。
その代わり、三枝の首筋から手首にかけて、薄い文字が浮かび上がった。
皮膚の上に、ステータス画面のような文字列が出る。
《神格適性:不足》
《契約相解放率:17%》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
《契約しますか?》
ミオが口元を押さえる。
「名前より、スコアの方が強くなっている……?」
アヴィがユウリのスマホに表示を出した。
《ミラー・スコア残留反応》
《プレイヤーネーム依存》
《現在名反応低下》
《危険:仮名が現在名を上書き中》
レンは、処置室の壁に背中をつけた。
ふらついたのだ。
ユウリが支えようとすると、レンは首を振った。
「違う」
声が震えていた。
「これ、俺のせいかよ」
誰もすぐには答えられなかった。
ユウリは、言いたかった。
全部がレンのせいじゃない。
神話板にログを流したのはレンだけではない。
ミラー・スコアを作ったのもレンではない。
AVIS一般版を拡散したのも、構文解放派の実験を仕掛けたのも、彼一人ではない。
でも、レンが開けた扉はあった。
昨日、レン自身もそれを分かってしまった。
だから、軽く否定できなかった。
レンは、自分で自分を許す場所にまだ立っていない。
イツキが言った。
「責任の所在は後で考えましょう」
その声は、静かだが強かった。
「今は患者を読みます」
読みます。
治します、ではない。
助けます、でもない。
まず読む。
その言い方に、ユウリはイツキという医師の性質を見た気がした。
症状を読んで、構文を読み、名前と病名のずれを見る。
人間を紙のように扱っているわけではない。
けれど、彼にとって治療は、たぶん読解に近い。
イツキは《AVIS-Med》を処置台へ置いた。
白いカルテが開く。
同時に、壁のスリットから数枚の記録紙が滑り出した。風もないのに、紙が自動的に机の上へ並ぶ。
薄い手袋をしたイツキの指が、その上をなぞった。
《白紙診断開始》
《対象:三枝コウヤ》
《現在名反応:低下》
《仮名反応:優位》
《未分類神話熱》
《ミラー・スコア残留》
《仮名依存反応》
《契約通知内在化》
三枝の呼吸が少し荒くなる。
「再挑戦……できる……まだ……」
皮膚の表示が明滅する。
《契約しますか?》
ユウリはその表示を見た瞬間、嫌な記憶が蘇った。
無番線ホーム。
白い切符。
偽日輪。
ミラー・ランカー。
そして、選択肢が一つしかない画面。
《許可する》しかない契約通知。
今、三枝の身体の中に、それが入り込んでいる。
スマホの画面ではなく、皮膚に。
外部通知ではなく、本人の反応として。
「内在化って……」
ユウリが呟くと、イツキは処置を続けながら答えた。
「契約通知が、外部アプリの表示ではなく、本人の身体反応として残っています。簡単に言えば、頭ではなく身体が《契約しなければならない》と誤認している」
「そんなこと、あるんですか」
「あります。特に神話構文は、強い言葉を身体へ残す。誓い、契約、名乗り、敗北、救済。繰り返し表示され、観測され、本人が受け入れかけたものは、症状として定着することがある」
レンが低く呟いた。
「俺たち、昨日それを壊したはずだろ」
「本体は砕けたのでしょう」
イツキは言う。
「ですが、砕けた破片が患者に残ることはあります」
レンは何も言えなくなった。
イツキは三枝の手首に指を当て、銀のペンライトを照らす。
薄青い光が、三枝の皮膚に浮かぶ文字を一つ一つ照らしていく。
白紙カルテには、さらに文字が浮かぶ。
《処置候補:仮名分離》
《処置候補:契約通知鎮静》
《処置候補:現在名再導入》
《病名欄:未確定》
その時だった。
カルテの病名欄が、勝手に揺れた。
イツキの指が止まる。
白紙だった病名欄に、別の文字が浮かび始めた。
《敗北者》
ユウリは息を呑んだ。
文字はすぐに塗り替わる。
《未契約者》
さらに変わる。
《神格適性不足》
また変わる。
《再挑戦可能》
最後に、見慣れた一文。
《契約しますか?》
イツキの表情が険しくなる。
「カルテ側へ侵入したか」
「侵入?」
レンが顔を上げる。
イツキは、手元の白紙カルテを押さえた。
「症状が、診断欄を利用して自己固定しようとしています」
「何言ってるか分かんねえけど、やばいってことは分かる」
「ええ。やばいです」
イツキがそう言った瞬間、処置室の壁がざわめいた。
壁のスリットに収められていた記録紙が、一斉に震え出す。
かさかさ。
かさかさ。
かさかさ。
乾いた音。
紙が紙を擦る音。
カルテがめくられる音。
誰かが病名を探す音。
処置灯が一瞬だけ点滅した。
ミオが胸元を押さえる。
「……紙の音が、声みたいです」
ユウリにも聞こえた。
紙が何かを言っている。
病名を。
診断を。
分類を。
誰かを何者かに決めるための言葉を。
壁の記録紙が、次々とスリットから飛び出した。
処置室の空中へ舞い上がる。
白い紙。
空欄のカルテ。
まだ何も書かれていない病名欄。
患者名のない紙束。
それらが、空中で絡み合い始めた。
レンが立ち上がろうとする。
「くそ、またかよ……!」
しかし、右腕に痛みが走ったのか、顔を歪めた。
ユウリが止める。
「レン、無理するな!」
「でも――」
「今のお前が契約相使ったら、余計悪化するって言われただろ!」
レンは悔しそうに歯を食いしばった。
イツキは処置台の前に立った。
「久遠さんは動かないでください。天瀬さん、星宮さん、三枝さんから離れすぎないように」
「先生、これは何ですか」
ユウリが聞く。
答えたのは、イツキではなく、アヴィだった。
ユウリのスマホが震える。
《未分類症例体を検出》
《暫定名:未記名症例》
《分類:未分類神話構文障害体》
《発生源:ミラー・スコア残滓/AVIS一般版β機能/白紙カルテ診断構文》
《注意:病名を与えると固定されます》
「病名を与えると固定……?」
ユウリは画面を見つめる。
その間にも、白紙のカルテ束は形を取り始めていた。
最初はただの紙の渦だった。
だが、やがて腕ができた。
脚ができた。
胴体ができた。
頭らしきものが持ち上がる。
人型。
顔はない。
白い紙が重なってできた、のっぺりとした顔。目も鼻も口もない。ただ、顔の中央に細い罫線だけが走っている。
胸のあたりに、病名欄があった。
四角い空欄。
そこだけが、妙にくっきりと見える。
未記名症例は、音もなく立った。
処置室の床に足をつけているはずなのに、足音がない。
紙の縁だけが、かさりと鳴った。
三枝がベッドの上で小さく呻く。
「まだ……契約……できる……」
未記名症例の胸の病名欄に、文字が浮かぶ。
《神格適性不足者》
その文字が三枝の皮膚へ移ろうとする。
イツキが即座に白い紙片を投げた。
紙片は空中で細い帯になり、三枝の腕に浮かぶ文字を覆う。文字の転写が一瞬止まった。
「病名を受け取らせないでください」
イツキの声は鋭かった。
「受け取ったらどうなるんですか」
「三枝コウヤさんは、その病名に閉じ込められます」
イツキは未記名症例を見据える。
「神格適性不足者。契約失敗者。再挑戦待機者。そういう名前の患者として固定される」
「それって……」
ミオが青ざめる。
「その人自身の名前ではなくなる、ということですか」
「近いです」
イツキは答えた。
「病名は治療の入口ですが、呪いにもなる。特に神話構文においては」
未記名症例が、ゆっくりと腕を上げた。
腕と呼ぶには曖昧な、紙の束。
その先端から、細いカルテ片が伸びる。
それは三枝だけではなく、レンへも向いた。
レンの皮膚に、文字が浮かびかける。
《拡散加害者》
レンの顔がこわばった。
ユウリは反射的に前へ出た。
「違う!」
言葉が出た。
だが、カルテ片は止まらない。
未記名症例は、レンに病名をつけようとしている。
拡散加害者。
レン自身が一番恐れている言葉を。
レンは動けない。
右腕の雷紋が暴れ、包帯の下で青白い光を漏らしている。けれど、今の彼が力を使えば、もっと危ない。
ミオの方にも、別のカルテ片が伸びた。
《理触者》
《未定義核》
《女神残滓保持体》
ミオが一歩下がる。
ユウリの胸に、熱い怒りが込み上げた。
病名。
分類。
診断。
管理名。
役割名。
それらが、またミオを遠ざけようとしている。
今度は神ではない。
管理機構でもない。
断絶派でもない。
ただの白紙のカルテが、彼女に名前をつけようとしている。
イツキが、処置台の前で手を上げる。
その背後で、《AVIS-Med》の画面が白く光った。
「下がってください」
イツキの声が、低く響く。
「ここからは、医療行為です」
白い処置室の空気が、さらに白く変わる。
消毒液と古い紙の匂いの奥から、別の気配が立ち上がった。
白い蛇。
空欄のカルテ。
銀のメス。
薄青い薬瓶。
そして、病名を待つ神。
ユウリのスマホに、アヴィの警告が表示された。
《契約神照応上昇》
《メディカ=ヴェルム》
《契約相展開予兆》
《注意:診断は攻撃ではありません》
《注意:診断は呪いにもなります》
未記名症例の胸の病名欄が、空白のまま輝いた。
まるで、誰かがそこに言葉を書き込むのを待っているように。
イツキは、銀のペンライトをメスのように構えた。
「白紙診断を開始します」
その声と同時に、処置室のすべてのカルテが、いっせいに開いた。
第四節 ― 未記名症例
処置室のカルテが、いっせいに開いた。
紙の音が、壁から、棚から、机の上から、天井の奥から降ってくる。
かさり。
かさり。
かさり。
まるで、この部屋そのものが巨大なカルテ棚で、今この瞬間、何か一つの症例を探すために、何百枚もの記録をめくっているようだった。
未記名症例は、その中心に立っていた。
白いカルテの束でできた人型。
顔は空白だった。
目もない。
口もない。
鼻もない。
ただ、紙を重ねて人の輪郭だけを作ったような姿で、胸のあたりに四角い欄がある。
病名欄。
そこだけが、妙にはっきりしていた。
ユウリは、無意識に息を止めていた。
怪物、と呼ぶには静かすぎる。
これまで見てきた異変は、もっと分かりやすく危険だった。
無番線の車掌は、ミオへ切符を差し出した。
七不思議の出席係は、名前を欠席へ変えようとした。
偽日輪は、神の名を騙って世界を白く塗り替えようとした。
白環補正体は、記憶を整えすぎた。
断絶眷属は、記録の縁を切ろうとした。
ミラー・ランカーは、名前をスコアに変えた。
けれど、目の前のこれは違う。
襲ってくるのではない。
診断しようとしている。
誰かを傷つけるためではなく、誰かを何者かに決めるために、そこに立っている。
未記名症例は、三枝コウヤの眠るベッドへ一歩近づいた。
足音はしない。
紙の端だけが床に触れて、かすかな摩擦音を立てる。
三枝の皮膚に浮かんだ文字が、弱々しく点滅した。
《神格適性:不足》
《契約相解放率:17%》
《敗北状態》
《再挑戦可能》
三枝はうわごとのように呟く。
「まだ……できる……まだ、コンティニュー……」
未記名症例の胸の病名欄に、文字が浮かんだ。
《神格適性不足者》
その文字は、病名欄の中で黒く濃くなっていく。
次に、塗り替わる。
《契約失敗者》
さらに。
《再挑戦待機者》
その一語一語が、三枝の身体へ向かって伸びていく。
まるで、白い紙から黒いインクが糸になって垂れ、患者の皮膚へ染み込もうとしているようだった。
「やめろ!」
レンが叫んだ。
だが、動こうとした瞬間、右腕に痛みが走ったのだろう。彼は歯を食いしばり、机の縁を掴んだ。
包帯の下から、青白い雷紋が漏れる。
イツキが鋭く言う。
「久遠さん、展開しないでください」
「分かってるよ!」
レンの声は荒かった。
「でも、あいつ、このままだと――」
「分かっています」
イツキは未記名症例から目を離さない。
その手にある銀のペンライトが、いつの間にか細いメスの形へ変わっていた。刃ではない。光そのものを薄く研いだような器具だった。
《AVIS-Med》の画面が白く染まる。
通常のAVISの羽根アイコンとは違う、蛇のように曲がった羽根が開いた。
《AVIS-Med 接続》
《契約神:メディカ=ヴェルム》
《契約相:白紙診神》
《白紙診断、開始》
診察室の白が、変わった。
マシロの白環管理区域で見た白とは違う。
あの白は、整っていた。
清潔で、無駄がなく、間違いを許さない白。
人間の記憶や不安や余分な傷を、全部きれいに塗りつぶすための白。
けれど、今ここに広がる白は、空欄の白だった。
書かれていない紙の白。
まだ病名が決まっていないカルテの白。
消すためではなく、読み取るために残された余白の白。
イツキの背後に、白い長衣をまとった影が立ち上がった。
医神相。
人の形をしているが、人間ではない。顔は薄い布のような白で半ば隠れ、その奥に銀青色の目だけが静かに光っている。肩から腕にかけて、白い蛇が絡んでいた。蛇は生きているように首をもたげ、空気を嗅ぐように舌を出す。
周囲には、空欄のカルテが何枚も浮かんでいる。
そのどれにも、まだ病名は書かれていない。
医神相の右手には、銀のメス。
左手には、薄青い薬瓶。
足元には、罫線だけの紙片が円を描くように回っていた。
レンが息を呑む。
「これが……契約相か」
レイジの《日輪神将》は、荘厳だった。
トウマの《裂頁の黒鋏》は、音を消した。
レン自身の《雷吼の荒冠》は、荒々しく、うるさく、速かった。
イツキの《白紙診神》は、そのどれとも違った。
静かだ。
だが、怖い。
手術前の静けさに似ている。
検査結果を告げられる直前の沈黙に似ている。
まだ何も決まっていないのに、次に言われる言葉で、自分の未来が決まってしまうような怖さ。
イツキは未記名症例へ向けて、メスを振り下ろさなかった。
攻撃しない。
代わりに、白蛇が動いた。
イツキの肩から離れた蛇は、空中を泳ぐように未記名症例の周囲を巡る。音もなく、しかし確かにそこにある気配で、紙の人型を一周した。
未記名症例は動かない。
ただ、胸の病名欄に文字を浮かべ続けている。
《神格適性不足者》
《契約失敗者》
《再挑戦待機者》
白蛇がその文字の周囲をなぞった。
《AVIS-Med》の画面に診断ログが流れる。
《白紙診断》
《症例:外部スコア依存》
《症例:仮名固定未遂》
《症例:契約通知内在化》
《症例:病名欄自己侵入》
《診断名:保留》
「保留?」
レンが叫んだ。
「何で保留なんだよ! 早く治せよ!」
その声には、苛立ちだけではなく、焦りがあった。
三枝の苦しみが、自分のせいだと思っている。
だから、今すぐ解決してほしい。
今すぐ、治ったと言ってほしい。
イツキは、振り返らなかった。
ただ、静かに答える。
「病名をつけた瞬間、固定される。これは、そういう種類の異常です」
「じゃあ、何もしないのかよ!」
「違います」
イツキの声は低かった。
「診断名をつけずに、症状だけを読む。病名に閉じ込めず、反応を分ける。それが今できる治療です」
レンは歯を食いしばった。
「分かんねえよ、そんなの」
「分からなくていい。今は動かないでください」
その言葉は厳しかった。
レンは悔しそうに拳を握る。
包帯の下の雷紋が、また強く光った。
ユウリはレンの前に半歩出た。
「レン、今は先生に任せよう」
「任せて大丈夫なのかよ」
「分からない」
ユウリは正直に言った。
「でも、今の俺たちが無理にやったら、たぶん三枝くんまで巻き込む」
レンは何も言えなかった。
その間にも、未記名症例は三枝へ近づいていく。
イツキの白蛇が病名欄を囲んでいるため、文字の転写は遅くなっている。だが、完全には止まらない。
三枝の首元に、黒い文字が浮かびかけた。
《契約失敗――》
イツキは銀のメスを横へ滑らせた。
切る、というより、線を引く動作だった。
空中に白い罫線が現れる。
その罫線が三枝の身体と病名欄の間に挟まり、文字の転写を遮った。
イツキが言う。
「病名と現在名の間に、空欄を置きます」
ユウリはその言葉に反応した。
空欄。
未署名の観測翼が扱ってきたものと似ている。
名前を消すのではない。
決定を遅らせる。
確定させる前に、一拍の余白を置く。
医療としての空欄。
イツキは続ける。
「三枝コウヤさんは、今という仮名と、《神格適性不足者》という病名候補に挟まれています。どちらも彼自身ではない」
ミオが小さく言った。
「名前と、病名と、仮名……」
「ええ」
イツキは頷く。
「どれも必要になることがあります。仮名は、時に人を守る。病名は、治療への道を開く。ですが、どちらも現在名を飲み込んではいけない」
その言葉は、処置室に重く響いた。
ユウリは、自分たちがこれまで見てきたものを思い出す。
ミオは、女神と呼ばれかけた。
管理機構は、彼女を未定義核と分類しかけた。
トウマは、神話ごと切れと言った。
レンのログは、誰かの名前をスコアへ変えかけた。
そして今、病名が三枝を閉じ込めようとしている。
名前ではないものが、人を定義する。
それは、どれも少しずつ似ていた。
未記名症例の胸の病名欄が、再び強く光る。
《神格適性不足者》
今度は、三枝だけではなく、処置室の中にいる者たちへ向かって、紙片が伸びた。
最初に向かったのはレンだった。
細いカルテ片が、レンの胸元へ貼りつこうとする。
《拡散加害者》
《開放依存》
《荒神反動患者》
レンの表情が凍った。
その言葉は、彼を刺した。
特に、拡散加害者。
レン自身が、心のどこかでそう思っている言葉だった。
だからこそ、入り込みやすい。
ユウリはレンの前に出た。
「レンは、そんな名前じゃない!」
叫んだ瞬間、カルテ片の動きが少しだけ鈍った。
だが、剥がれない。
未記名症例の力は、ただ外から名前を貼っているのではない。
本人の内側にある不安や罪悪感を、病名として引き出している。
ミオの方にも、紙片が伸びる。
《理触者》
《女神残滓保持体》
《未定義核》
《依代候補》
ミオの顔が青ざめた。
彼女は後ずさる。
その足元に、薄い水面のような光が一瞬だけ広がった。
ユウリが呼ぶ。
「ミオ!」
その声に、ミオは反応した。
だが、自分で言おうとした時、喉が詰まる。
「私は……」
続かない。
カルテ片が、彼女の肩へ触れかけた。
イツキが白蛇を飛ばす。
白蛇がカルテ片に巻きつき、病名候補を一時的に遮断した。
「星宮さん、自分の名前を」
イツキが言う。
ミオは震えながら、薄青い薬瓶を握った。
瓶の蓋を開け、手首へ一滴落とす。
小さな水滴が、皮膚の上で淡く光った。
ミオは息を吸う。
「私は……星宮ミオです」
今度は、言えた。
カルテ片が一歩、退いた。
ユウリは胸を撫で下ろす。
だが、その隙を突くように、別の紙片がユウリへ伸びた。
そこには、文字が浮かんでいる。
《未署名観測者》
《診断不能》
《余白構文反応》
《病名欄:空白》
ユウリは思わず動きを止めた。
他の二人とは違う。
そこには、攻撃的な言葉がない。
責める言葉でも、神話化する言葉でもない。
ただ、診断できないことそのものが、病名のように差し出されている。
空白。
それさえも、名前にされかけている。
イツキの声が飛ぶ。
「天瀬さん、受け取らないでください」
「受け取るって、どうすれば――」
「自分の異常を、病名として納得しないでください」
ユウリは、伸びてくるカルテ片を見た。
未署名観測者。
余白構文反応。
病名欄:空白。
その言葉は、確かに自分に近い。
近いからこそ、危険だった。
これが自分だと思ってしまえば、そこで固定される。
ユウリは歯を食いしばる。
「俺は……」
言葉を探す。
英雄ではない。
神の使徒でもない。
管理対象でもない。
断絶者でもない。
解放者でもない。
病名でもない。
何者か分からない。
でも、だからこそ。
「俺は、まだ決めてない」
その言葉と同時に、ポケットのスマホが震えた。
アヴィの表示が浮かぶ。
《未定義選択肢を確認》
《病名固定を拒否》
《現在名保持:天瀬ユウリ》
カルテ片の先端が、わずかに白く溶けた。
イツキが、興味深そうに目を細める。
「なるほど」
「先生、今それ言う場面ですか」
ユウリが睨むと、イツキは少しだけ口元を緩めた。
「失礼。非常に参考になる反応でした」
「だからそういうところが信用できないんです!」
「後で謝ります。今は続けます」
イツキは《白紙診神》の前へ一歩出た。
背後の医神相が、銀のメスを構える。
だが、やはり斬らない。
メスの先で、空中に線を引く。
一つ。
二つ。
三つ。
処置室に浮かぶカルテ片と、未記名症例の病名欄と、三枝の皮膚に浮かぶステータス表示の間に、細い白い罫線が挟まっていく。
イツキが静かに告げる。
「診断名、保留。症状、分離。現在名、保持」
白蛇が三枝のベッドを一周する。
三枝の皮膚に浮かんでいた《契約しますか?》の文字が、少し薄くなった。
だが、未記名症例は消えない。
胸の病名欄に、今度は新しい文字が浮かぶ。
《未分類》
それは、一見安全な言葉に見えた。
だが、イツキの表情がさらに険しくなる。
「まずい」
「未分類もだめなんですか?」
ユウリが聞く。
「未分類のまま固定されると、治療対象から外れます」
イツキは答えた。
「分類できないものとして、放置される。あるいは、管理機構なら隔離判断に回すでしょう」
ユウリはマシロの顔を思い出した。
危険なら隔離する。
分からないものは、管理する。
守るために預かる。
それもまた、正しい部分がある。
けれど、三枝は今、目の前にいる。
放置していい患者ではない。
隔離名で終わらせていい人間でもない。
レンが低く言った。
「……三枝コウヤだ」
ユウリが振り向く。
レンは、震える右腕を左手で押さえながら、三枝を見ていた。
「そいつ、三枝コウヤだろ。スコアじゃない。失敗者でもない。未分類でもない」
レンの声がかすれる。
「昨日、ゲーセンにいただけだ。遊んでただけだ。俺たちと同じで……ただ、巻き込まれただけだ」
その言葉に、三枝のまぶたがわずかに揺れた。
未記名症例の病名欄が乱れる。
イツキがすぐに言う。
「現在名反応、微弱に回復」
レンはさらに言おうとして、咳き込んだ。
右腕の雷紋が強く光る。
ユウリが支える。
「もういい、レン」
「よくねえよ」
レンは息を荒げながら言う。
「俺が開けたせいで残ったなら、せめて……名前くらい、戻せよ」
その言葉は、誰に向けたものか分からなかった。
三枝へ。
イツキへ。
ユウリへ。
それとも、自分自身へ。
未記名症例が動く。
今度は、三枝だけでなく、処置室全体へ病名欄を広げようとしていた。
壁のカルテが一斉にめくれる。
浮かぶ言葉。
《患者》
《症例》
《未分類》
《契約者》
《依代》
《管理対象》
《加害者》
《被害者》
《失敗者》
《治療不能》
その言葉たちが、空中を埋める。
ユウリは、圧迫されるような感覚を覚えた。
言葉が多すぎる。
どれも、何かを説明するための言葉だ。
だが、増えすぎると、人が見えなくなる。
イツキの《白紙診神》が、静かに前へ出た。
白い長衣が揺れる。
白蛇が低く身をくねらせる。
銀のメスが光る。
イツキは言った。
「白紙診断は、病名を与えるためだけのものではありません」
その声は、処置室の紙音を押しのけるように響いた。
「病名を、まだ与えないためにもある」
医神相が、銀のメスを横に引いた。
未記名症例そのものを斬るのではない。
その胸の病名欄と、周囲に散らばる言葉たちの間に、一本の空白を引いた。
白い線。
余白。
言葉と言葉の間に、まだ何も書かれていない場所が生まれる。
未記名症例が、初めて揺れた。
顔のない頭部が、ほんの少し傾く。
まるで、病名をつけられないことに戸惑っているようだった。
しかし、すぐにまた紙片が集まる。
病名欄が広がる。
イツキの額に、うっすら汗が浮かんだ。
レンが低く言う。
「先生でも、止めきれねえのか」
イツキは否定しなかった。
「診断名を保留することはできます。ですが、現在名を戻すには、本人につながる記録が必要です」
ユウリはその言葉に反応した。
第二話の旧校舎。
出席簿の空席。
倉持ハルトを戻した時と同じだ。
名前だけでは足りなかった。
今ここにいる証明が必要だった。
イツキは、ユウリを見る。
「天瀬さん。あなたの力は、病名と現在名の間に余白を作れるかもしれない」
アヴィが同時に表示を出す。
《未署名の観測翼:展開候補》
《用途:病名固定の余白化》
《現在名と診断名の分離》
《警告:医療記録領域への干渉》
ユウリはスマホを握る。
頭痛が、また視界の端を白く欠けさせた。
それでも、目を逸らさなかった。
三枝はまだ、ベッドの上で呟いている。
「コンティニュー……まだ……」
未記名症例は、病名欄を空白のまま開いている。
そこに何かを書き込めと迫っている。
イツキは、静かに言った。
「治療には、記録が必要です」
ユウリは答えた。
「でも、記録で決めつけたらだめなんですよね」
「ええ」
イツキの目が、わずかに細まる。
「だから、あなたの出番です」
処置室の白い紙片が、再び舞い上がった。
病名が迫る。
現在名が薄れる。
その間に残された細い空欄へ、ユウリは手を伸ばした。
第五節 ― 白紙診神と未署名の観測翼
ユウリが手を伸ばした先で、白い紙片が乱れた。
空中に浮かんだ病名たちは、まるで獲物を見つけた虫の群れのように向きを変える。三枝コウヤのベッドへ伸びていたカルテ片の一部が、ユウリたちへ向き直った。
まず、レンへ。
《拡散加害者》
《荒神反動患者》
《開放依存》
《情報災害源》
「……っ」
レンの喉が詰まった。
紙片は、ただの文字ではない。
それはレン自身が、昨日から胸の奥で見ないようにしていた言葉だった。
自分がログを流した。
自分が神話板へ断片を渡した。
自分が閉じられたものを開けた。
自分がヴァルガ=ライオスの力で、閉じていた危険な機能までこじ開けた。
だから、三枝がこうなった。
その思考の隙間へ、病名が入り込もうとしている。
紙片はレンの胸元へ貼りつきかけた。
「レン!」
ユウリが叫ぶ。
だが、レンは動けなかった。
右腕に巻かれた包帯の下で、雷紋が青白く脈打っている。ヴァルガ=ライオスの荒い熱が、まだ身体の奥に残っているのだろう。彼が力を使おうとすればするほど、神経が悲鳴を上げる。
レンは歯を食いしばった。
「違う、って……言い切れねえんだよ」
その声は、普段の軽さを失っていた。
「俺が、開けたんだ。俺が、流した。俺が――」
紙片の文字が、さらに濃くなる。
《拡散加害者》
その瞬間、ユウリの胸の奥が熱くなった。
怒りだった。
レンに対してではない。
レンの罪悪感を、診断名のように貼りつけようとするものに対して。
「違う!」
ユウリはレンの前へ出た。
「レンは、三枝くんを傷つけたくてログを流したんじゃない!」
紙片が一瞬だけ止まる。
だが、完全には消えない。
次に、ミオへ向かう。
《理触者》
《女神残滓保持体》
《未定義核》
《依代候補》
《神話接続点》
ミオの顔から血の気が引いた。
その言葉たちは、彼女をずっと追いかけてきたものだった。
再臨派は、彼女を女神の器として見ようとする。
管理機構は、未定義核として隔離しようとする。
断絶派は、神話接続点として切ろうとする。
構文解放派は、公開すべき神話価値として扱おうとする。
誰も、最初から彼女を星宮ミオとして見ていない。
紙片がミオの肩へ触れかけた。
ミオは、反射的に身を縮める。
彼女の足元に、薄い水面のような光が広がった。白く、静かで、底の見えない水面。まだ開いてはいけない場所の気配が、処置室の床に一瞬だけ滲む。
イツキの白蛇が素早く動いた。
蛇はミオの周囲を一周し、紙片との間に白い輪を作る。カルテ片はその輪に触れて、かすかに焼けるように縮んだ。
「星宮さん」
イツキの声が飛ぶ。
「名前を」
ミオは震える手で、薄青い薬瓶を握った。
瓶の口から一滴、手首へ落とす。
小さな水滴が、肌の上で淡い光を作った。
ミオは目を閉じる。
ほんの一拍。
その一拍が、とても長く感じられた。
「私は……」
言葉が詰まる。
紙片の文字が、また強くなる。
《未定義核》
ミオの唇が震えた。
ユウリは、彼女の名を呼びそうになった。
けれど、寸前で止めた。
呼べば、ミオは反応できる。
ユウリが呼べば、彼女は戻ってこられるかもしれない。
でも、それだけでは足りない。
イツキが言った通りだ。
呼ばれるだけではなく、自分で名乗ること。
ミオ自身の声で、星宮ミオへ戻ること。
ユウリは、喉まで出かかった声を押し戻した。
代わりに、ただ見ていた。
ミオはもう一度、息を吸う。
「私は、星宮ミオです」
今度は、言えた。
弱い声だった。
けれど、確かに彼女自身の声だった。
ミオへ伸びていた紙片が、少しだけ後退する。
その時、最後の紙片がユウリへ向かった。
《未署名観測者》
《余白構文反応》
《診断不能》
《病名欄:空白》
言葉が、ユウリの視界の端で白く欠けた。
それは責める言葉ではなかった。
むしろ、今のユウリに近い。
未署名。
余白。
診断不能。
空白。
何者でもないこと。
決められないこと。
確定しないこと。
それはユウリがここまで選んできたものでもある。
だからこそ、危険だった。
この言葉を受け入れれば、ユウリは「未署名の観測者」という病名に閉じ込められる。
自分はそういう存在なのだと、決まってしまう。
ユウリの頭痛が強くなった。
視界の端が白く欠ける。
処置室の壁が、紙のように薄く見える。
イツキの白衣も、ミオの輪郭も、レンの包帯も、すべてが病名欄の中へ押し込まれそうになる。
アヴィの声が、スマホから響いた。
「ユウリ、受け取るな」
「分かってる……!」
「いや、分かってない。近い言葉ほど危ない。自分に似た名前は、呪いになりやすい」
ユウリは歯を食いしばった。
近いから危ない。
それは、この数日で何度も見てきた。
偽日輪は、本物の太陽神に似ていたから人々を惹きつけた。
白環管理区域は、保護に似ていたから拒みにくかった。
断絶は、救いに似ていたから怖かった。
構文解放は、自由に似ていたから危うかった。
病名も同じだ。
自分に近い言葉ほど、人を閉じ込める。
ユウリは、伸びてくる紙片を見据えた。
「俺は……」
紙片が迫る。
《未署名観測者》
「俺は、それで決まりじゃない」
言葉にした瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面が勝手に開く。
《契約相展開候補》
《用途:病名固定の余白化》
《現在名と診断名の分離を開始しますか?》
選択肢が出る。
《許可する》
《拒否する》
《保留する》
ユウリは画面を見つめた。
いつもなら、ここで選択肢の外側を探す。
だが、今回は少し違った。
医療行為。
診断。
患者。
病名。
現在名。
すべてを拒否すれば、治療できない。
すべてを許可すれば、病名に固定される。
保留するだけでは、三枝は飲み込まれる。
ユウリは、震える指で画面に触れた。
選んだのは、三つのどれでもなかった。
空白の部分。
選択肢と選択肢の間にある、何も書かれていないわずかな余白。
画面が乱れる。
《未定義操作を検出》
《医療記録領域への限定接続》
《契約相:未署名の観測翼》
《用途:病名固定の余白化》
《現在名と診断名の分離を開始》
ユウリの背後に、白い羽根が開いた。
以前よりも、はっきりしている。
けれど、翼と呼ぶにはまだ不完全だった。白い羽根の間に、黒い文字片が混じっている。鍵の輪郭が浮かび、未署名の契約線が細く揺れる。羽ばたくたびに、空気中の文字が一瞬だけほどけた。
イツキの《白紙診神》が、ユウリの背後の契約相を見た。
銀青色の目が、静かに細まる。
「なるほど。診断名を拒むだけではなく、診断名と現在名の間に空白を差し込む」
イツキの声に、わずかな興奮が混ざった。
「先生!」
ユウリが睨む。
「今、観察してる場合じゃないですよね!」
「ええ。ですが、観察しなければ治療できません」
「そういうところが本当に――」
「信用できない、でしょう?」
イツキは微笑んだ。
だが、その手は止まっていなかった。
《白紙診神》の白蛇が、未記名症例の胸にある病名欄へ向かう。
未記名症例は、初めて抵抗するように身体を広げた。
白紙のカルテが四方へ伸びる。
壁の記録紙が舞い、処置室の床を覆う。
病名欄がいくつも増殖する。
《敗北者》
《契約失敗者》
《神格適性不足者》
《再挑戦待機者》
《未分類》
それらの言葉が、三枝の身体へ降り注ぐ。
三枝は苦しげに息を吐いた。
「まだ……契約……しないと……」
ユウリは、未署名の鍵を握った。
鍵と言っても、実体はない。
スマホの画面から伸びる細い白い線。
その先端が、文字と文字の間に差し込まれる。
ユウリは叫んだ。
「三枝コウヤは、スコアじゃない!」
羽根が震え、空中の《Koya_Score17》という仮名が一瞬止まった。
「契約できなかったやつでもない!」
《神格適性不足者》の文字が、病名欄から剥がれかける。
「病名で決めるな!」
その声と同時に、《未署名の観測翼》から白い羽根が何枚も舞った。
羽根は文字を消さない。
隠しもしない。
ただ、その文字と三枝の名前の間に挟まっていく。
病名が、彼を直接掴めないように。
診断が、現在名を飲み込まないように。
レンが、壁に手をつきながら前へ出た。
「三枝!」
今度は、名字だけではなかった。
レンは、自分の右手首を押さえながら、声を張った。
「三枝コウヤ! 聞こえろ!」
ベッドの上の男子生徒の瞼が揺れた。
レンは苦しそうに息を吐き、それでも続ける。
「そいつは、俺たちと同じ店にいただけだ。ゲームしてただけだ。神様の素材じゃねえ!」
レンの声は震えていた。
けれど、その震えは逃げではなかった。
「俺が流したログで巻き込まれたなら、俺が言う。三枝コウヤは、スコアじゃない。契約候補でもない。ランキングの数字でもない!」
レンの右手首から、雷紋が淡く光った。
イツキがすぐに注意する。
「久遠さん、展開はしないでください」
「しねえよ!」
レンは叫んだ。
「今日は、声だけだ!」
その言葉に、ユウリは少しだけ笑いそうになった。
こんな状況なのに。
レンらしいと思った。
ミオも一歩前へ出る。
まだ顔色は悪い。
けれど、手首に落とした記録水の光が、彼女の声を支えていた。
「名前を、病名にしないでください」
ミオの声は静かだった。
でも、処置室に確かに届いた。
「病名は、必要かもしれません。治すために、知るために。でも、それがその人の名前になってしまったら……きっと、戻れなくなります」
彼女は胸元を押さえながら、続ける。
「私は、星宮ミオです。理触者でも、未定義核でも、女神の器でもなくて……まず、星宮ミオです」
その言葉に、ユウリの《未署名の観測翼》が強く光った。
レンの言葉。
ミオの言葉。
ユウリの余白。
イツキの診断。
それらが、三枝コウヤの周囲で重なっていく。
未記名症例の病名欄が激しく揺れた。
イツキが動く。
「今です」
《白紙診神》の白蛇が、未記名症例の胸の病名欄へ巻きついた。
白蛇の身体には、細い銀の文字が浮かんでいる。薬名にも、祈りにも、診断コードにも見える文字列だった。
銀のメスが、空中に糸を引く。
切るのではない。
縫う。
いや、綴じる。
白いカルテの胸元にある病名欄を、空白のまま閉じていく。
銀の綴じ糸が、病名欄の四隅を結ぶ。
《診断名:保留》
《病名欄:空白保持》
《現在名:三枝コウヤ》
《仮名:Koya_Score17 分離》
《契約通知:鎮静》
三枝の皮膚に浮かんでいた文字が、薄れていく。
《神格適性:不足》
消える。
《契約相解放率:17%》
消える。
《敗北状態》
消える。
《再挑戦可能》
最後まで残った。
三枝が苦しげに喉を鳴らす。
「コン……ティニュー……」
ユウリは、ベッドの横へ歩み寄った。
頭痛が強い。
視界の端が白く欠ける。
それでも、三枝の顔を見た。
「三枝コウヤ」
今度は、ゆっくり呼んだ。
「もう、続けなくていい」
三枝の目が、わずかに動いた。
「……だれ」
かすかな声。
ユウリは答えた。
「同じ学校の先輩。天瀬ユウリ」
レンが続ける。
「久遠レン。昨日、ゲーセンにいたやつ」
ミオも静かに言う。
「星宮ミオです」
三枝の唇が震えた。
「……げーせん」
その言葉と同時に、《再挑戦可能》の文字が薄くなった。
完全には消えない。
けれど、皮膚から剥がれるように淡くなる。
イツキが銀の綴じ糸を最後に引いた。
「仮綴じ完了」
白蛇が病名欄を一周し、口を閉じる。
未記名症例の身体がほどけ始めた。
人型だった紙束が崩れる。
腕が紙に戻り、脚が紙に戻り、空白の顔が薄くなっていく。
最後に残ったのは、胸の病名欄だけだった。
そこには、何も書かれていない。
空白のまま。
銀の糸で、静かに閉じられている。
それは一枚の白紙カルテになった。
ひらりと落ちる。
イツキがそれを受け止めた。
処置室の紙音が、少しずつ収まっていく。
壁の記録紙がスリットへ戻り、空中に浮かんでいた病名たちは消えていった。
三枝の呼吸が、少し落ち着く。
看護師がすぐに脈と呼吸を確認する。
「反応、安定しています」
イツキは頷いた。
「現在名は?」
看護師が三枝の耳元で呼ぶ。
「三枝コウヤさん」
三枝の瞼がわずかに動いた。
「……はい」
とても小さな返事だった。
でも、確かに反応した。
レンが大きく息を吐いた。
そのまま床に座り込みそうになり、ユウリが肩を支える。
「無理するなって言っただろ」
「声だけって言ったろ」
「声だけでも無理してる」
「うるせえ」
レンは顔をしかめたが、その目は少しだけ潤んでいた。
ミオは、胸元に手を置いたまま、三枝を見ている。
「戻ったんですか」
ユウリが聞くと、イツキは白紙カルテを見つめたまま答えた。
「いいえ」
その言葉に、ユウリたちは一斉にイツキを見た。
イツキは落ち着いていた。
「治したんじゃない」
彼は、銀の糸で閉じられた空白のカルテを掲げた。
「まだ読めるように、ページを仮留めしただけだ」
処置室に、静かな沈黙が落ちる。
「三枝コウヤさんは、一時的に現在名へ反応できる状態に戻りました。ですが、ミラー・スコアの残留と仮名依存は完全には抜けていません。病名も、まだつけられない。しばらく経過観察が必要です」
「つまり、またあれが出るかもしれないってことですか」
レンが聞く。
「あります」
イツキは隠さなかった。
「ただし、今度は読める。何が三枝さんを固定しようとしているのか、どこで現在名と病名が混ざりかけるのか。それが分かれば、次はもっと早く止められる」
「……そういうもんなんですか」
「医療は、だいたいそういうものです。一度で奇跡的に治ることもありますが、多くは観察と処置の繰り返しです」
レンは黙った。
派手な勝利ではなかった。
未記名症例は完全に倒したわけではない。
三枝の症状も、治ったわけではない。
ただ、病名に閉じ込められることを防いだ。
まだ読めるようにした。
まだ戻れるようにした。
それは、これまでの戦いとは違う勝利だった。
ユウリは、自分の背後を見る。
《未署名の観測翼》は、もう消えかけていた。白い羽根がほどけ、黒い文字片がスマホの画面へ吸い込まれていく。だが、完全に消える直前、翼の先に一枚だけ白紙の羽根が残った。
何も書かれていない羽根。
それは、病名欄の空白に少し似ていた。
アヴィが表示する。
《未署名の観測翼:医療記録領域への限定干渉を終了》
《用途記録:病名固定の余白化》
《注意:連続使用による負荷あり》
《天瀬ユウリ:軽度から中度へ変動》
ユウリは、こめかみを押さえた。
「……また増えた」
レンが顔を上げる。
「お前も診てもらえよ」
「今、診てもらったばっかなんだけど」
「追加診療だな」
「嫌な言葉だ」
ミオが少し笑った。
その笑みは、まだ弱かったけれど、確かにそこにあった。
イツキは白紙カルテを専用の透明ケースへ入れた。
ケースの表面には、何も書かれていない。
患者名も、病名も、番号も。
ただ、銀の糸が中で静かに光っている。
ユウリはそれを見て聞いた。
「そのカルテ、どうするんですか」
「保管します」
「名前を書かずに?」
「今は書きません。書けば、また固定される可能性があります」
「じゃあ、どうやって分かるんですか」
イツキは微笑んだ。
「医者ですから」
「答えになってないです」
「では、こう言い換えましょう」
イツキはケースを棚へ収めた。
「読めば分かります」
レンが小さく呟く。
「やっぱ、やばい医者だな」
今度は、ユウリも少しだけ同意した。
けれど、そのやばい医者がいなければ、三枝は病名に閉じ込められていたかもしれない。
イツキは危うい。
研究者としての目を持っている。
症例を見る。
記録を取る。
読もうとする。
でも、彼は治療する。
その事実もまた、否定できなかった。
処置室の扉の向こうで、待合室の時計が時刻を刻んだ。
普通の町医者のような音。
けれど、ここでは神も、病も、名前も、カルテの上に並べられる。
ユウリは、三枝の落ち着いた呼吸を聞きながら思った。
神話構文災害は、倒せば終わる敵ばかりではない。
時には、病名をつけないまま抱えるしかない傷もある。
そして、その傷を読む大人たちが、すでに街の裏側にいる。
自分たちは今日、その一端を見たのだ。
終節 ― 空欄のカルテ
三枝コウヤは、隔離回復室で眠っていた。
処置室の隣にある小さな部屋だった。壁は白く、天井も白い。けれど、処置室ほど鋭い白ではない。窓には薄いカーテンが引かれ、ベッドの脇には小さな機械が置かれている。心拍を測るものに似ていたが、画面には脈拍の波形だけでなく、細い文字列が時折流れていた。
《現在名反応:微弱回復》
《仮名依存:鎮静中》
《契約通知内在化:低下》
《病名欄:保留》
三枝は、静かに呼吸している。
さっきまで皮膚に浮かんでいたステータス表示は、もう見えなかった。ただ、首筋のあたりに、うっすらと白い跡が残っている。日焼けの跡にも、絆創膏を剥がした跡にも見える、頼りない痕跡だった。
レンは、ガラス越しにそれを見ていた。
廊下の壁に背中を預け、右手首を左手で押さえている。包帯の下の雷紋は、さっきより薄い。けれど、完全には消えていなかった。
「……寝てるだけ、だよな」
誰に聞いたのか分からない声だった。
ユウリは隣に立ったまま、答えを探した。
寝ているだけだ、と言いたかった。
もう大丈夫だ、と言いたかった。
けれど、言えなかった。
三枝コウヤは助かった。
少なくとも、病名に閉じ込められることは防げた。
だが、治ったわけではない。
イツキの言葉が残っている。
まだ読めるように、ページを仮留めしただけだ。
「……まだ、経過を見るって先生が言ってた」
ユウリがそう言うと、レンは小さく息を吐いた。
「便利な言葉だな、経過を見るって」
「医者っぽい」
「医者だからな。やばいけど」
レンは軽く笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
ミオは、廊下の反対側で手首を見つめていた。薄青い記録水を落とした場所に、まだ小さな光が残っている。
彼女は自分の名前を言えた。
それは確かに前進だった。
けれど、その一歩がどれほど細い足場の上にあるのか、ユウリには見えてしまっていた。
その時、診療所の入口側から靴音がした。
静かで、乱れのない足音。
待合室の話し声が、すっと小さくなる。
ユウリは振り返った。
白いブラウス。
黒いジャケット。
整った髪。
清潔感のある笑顔。
烏丸マシロが、廊下の奥に立っていた。
彼女の後ろには、白環管理局の職員らしき男性が二人いる。どちらも表情は薄く、手には薄い端末を持っていた。
マシロは三人を見た。
ユウリ。
ミオ。
レン。
それから、隔離回復室の中で眠る三枝へ視線を移す。
「三枝コウヤさんですね」
声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、ユウリには少し冷たく聞こえた。
「星綴高等学園一年C組。AVIS一般版β機能およびミラー・スコア残留による神話構文障害。現在名反応低下、仮名依存、契約通知内在化の疑い」
マシロは端末を見ながら、淡々と言う。
「エデン・セルの回復区画へ移送します」
レンが顔を上げた。
「は?」
ユウリも思わず一歩前に出る。
「今、眠ったばかりです」
「だからです」
マシロは静かに返した。
「症状が鎮静している間に、安定した環境へ移す必要があります。この診療所の設備では、再発時に隔離が不十分です」
「ここで助けたんですよ」
「応急処置としては評価します」
その言い方に、レンの顔が険しくなった。
「評価って何だよ」
マシロはレンを見る。
「久遠さん。あなたは現在、神格反動熱と情報拡散リスクを抱えています。感情的な判断は避けてください」
「感情的で悪いかよ」
「悪いとは言っていません。危険だと言っています」
レンが言い返そうとした時、診察室側の扉が開いた。
白羽根イツキが出てきた。
白衣の袖を整えながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。だが、目だけは笑っていなかった。
「烏丸さん」
「白羽根先生」
二人の声が、廊下で静かにぶつかった。
声を荒げているわけではない。
けれど、空気が張る。
病院の廊下が、一瞬で会議室のようになった。
「三枝コウヤさんは、今夜一晩、こちらで経過を見ます」
イツキが言った。
「許可できません」
マシロは即答した。
「症状はミラー・スコア残留に由来します。一般診療所での保管は不適切です」
「一般診療所ではありませんよ」
「白紙カルテ診療所が特殊医療拠点であることは認めます。しかし、今回の症例は管理機構案件です」
「患者です」
イツキの返答は短かった。
マシロの目が、わずかに細まる。
「患者である前に、神話構文災害の二次発症者です。再拡散の可能性があります」
「再拡散を避けるためにも、急な移送は避けるべきです。彼は今、現在名と仮名を分離した直後です。環境を変えれば、仮名依存が再燃する」
「エデン・セルには、そのための設備があります」
「設備はあります。ですが、彼のページはまだ仮留めです」
イツキは静かに言った。
「閉じたばかりの本を、乱暴に運べば綴じ糸が切れる」
マシロは黙った。
その比喩を理解したのか、理解した上で納得しなかったのか、表情からは分からない。
やがて、彼女は端末を下ろした。
「一晩だけです」
「ええ」
「明朝、再評価します」
「その時の状態によります」
「白羽根先生」
マシロの声が少しだけ硬くなった。
「今回の記録は、必ず提出してください」
「必要な範囲で」
「すべてです」
「それは患者のためですか。機構のためですか」
廊下が沈黙した。
レンも、ミオも、ユウリも黙った。
マシロはすぐに答えなかった。
それが、答えのようにも見えた。
マシロは三枝の眠る部屋を見た。
その目には、冷たさだけがあるわけではない。
守ろうとしている。
本当に。
被害を広げないために。
三枝自身を、そして周囲を危険から遠ざけるために。
だが、その守り方は、やはり名前より先に分類を見る。
危険度。
移送対象。
再発リスク。
管理区分。
それは必要なのかもしれない。
必要なのだろう。
それでも、ユウリは胸の奥がざわつくのを止められなかった。
「提出範囲については、患者本人の状態が安定してから相談します」
イツキが言った。
「未成年です。保護者同意も必要になる」
「管理機構の緊急権限が優先される場合があります」
「その場合も、私は医師として記録します」
イツキは微笑んだ。
「何を提出し、何を空欄に残したかを」
マシロはしばらくイツキを見ていた。
やがて、端末を閉じる。
「……分かりました。一晩だけです」
そして、ユウリたちへ視線を向けた。
「あなたたちも、これ以上の独自行動は控えてください。特に久遠さん。あなたの契約相は、神話構文災害の拡大因子になり得ます」
レンは唇を噛んだ。
ユウリが言い返そうとした時、マシロは先に続けた。
「責めているのではありません。事実を言っています」
「事実なら、何を言ってもいいんですか」
ユウリは思わず言った。
マシロの目が、ユウリを見る。
静かで、揺れない目。
「いいえ」
彼女は言った。
「だから、言うべきことだけを選んでいます」
その言葉に、ユウリは反論できなかった。
マシロは間違っていない。
けれど、正しいだけでは、痛みは消えない。
彼女は小さく会釈し、職員たちを連れて診療所を出ていった。
入口の扉についた鈴が、かすかに鳴る。
待合室の空気が、少しずつ元に戻った。
イツキは三枝の眠る部屋を確認してから、ユウリたちへ向き直った。
「では、あなた方のカルテを作っておきましょう」
レンが即座に顔をしかめる。
「今の流れで?」
「今の流れだからです」
「絶対嫌な予感しかしねえ」
「倒れた時に何も分からない方が、もっと嫌でしょう」
「それは……まあ……」
レンは反論しきれず、顔をそむけた。
三人は診察室へ戻った。
さっきまで未記名症例が暴れていた処置室とは違い、診察室は静かだった。机の上には、三枚の白紙カルテが並べられている。
イツキは椅子に座り、一枚目を手に取った。
「久遠レンさん」
カルテに文字が浮かぶ。
《現在名:久遠レン》
《契約神照応:ヴァルガ=ライオス》
《契約相:雷吼の荒冠》
《神格反動熱》
《雷風神経負荷》
《契約相使用後の痛覚遅延》
《開放衝動:経過観察》
レンが眉をひそめる。
「最後のやつ、何か嫌なんだけど」
「重要です。あなたの場合、閉じているものを見ると開けたくなる傾向がある」
「性格診断かよ」
「症状と性格は、時々近い場所にあります」
「やめろ。刺さる」
イツキは二枚目を手に取る。
「星宮ミオさん」
白紙の上に、慎重に文字が浮かんだ。
《現在名:星宮ミオ》
《現在名:保持》
《内部照応欠落》
《外部切断痕》
《複数女神残滓:低活性》
《理触性反応:診断保留》
《自発名乗り訓練:継続》
ミオはそのカルテを見つめた。
理触性反応。
診断保留。
その言葉に、少しだけ肩が強張る。
ユウリは隣で見ていたが、口は出さなかった。
ミオ自身が、カルテから目を逸らさなかったからだ。
「……私の名前は、ちゃんと最初にあるんですね」
ミオが言った。
イツキは頷く。
「ええ。あなたのカルテですから」
「未定義核とか、依代候補とかじゃなくて」
「それらは、少なくともこのカルテの主見出しではありません」
ミオは、ほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
最後に、イツキは三枚目を手に取る。
「天瀬ユウリさん」
ユウリは無意識に背筋を伸ばした。
カルテに文字が出る。
《現在名:天瀬ユウリ》
《契約相:未署名の観測翼》
《症状候補:未署名観測反応》
《余白構文――》
《診断不能》
その下。
病名欄は、白紙のままだった。
何も書かれない。
ただ、空欄がある。
イツキはそれを見て、少し楽しそうに微笑んだ。
「君のカルテは、しばらく白紙のままにしておきましょう」
ユウリはすぐに警戒した。
「勝手に記録しないでください」
「同意のない記録はしません」
「本当に?」
「本当に」
イツキは穏やかに答える。
「ただし、君たちが倒れた時に助けるには、最低限の記録が必要です。久遠さんの雷風神経負荷も、星宮さんの現在名反応も、天瀬さんの余白構文反応も。何も残っていなければ、次に処置が遅れる」
ユウリは黙った。
記録。
その言葉には、もう無条件で安心できない。
記録は、人を守る。
名前を残す。
今ここにいる証明になる。
けれど同時に、人を分類する。
管理する。
病名に閉じ込める。
神話の素材にする。
マシロの管理は嫌だ。
トウマの断絶も嫌だ。
レンの全開放も危うい。
レイジの再臨にも乗れない。
でも、治療は必要だった。
三枝を見た後では、それを否定できなかった。
ユウリは、白紙の病名欄を見つめた。
空欄は、怖い。
何が書かれるか分からないから。
でも、今はその空欄が、少しだけ必要にも見えた。
「記録していいです」
ユウリは言った。
レンが驚いたようにこちらを見る。
ミオも静かにユウリを見る。
ユウリは続けた。
「でも、病名を勝手に決めないでください」
イツキの微笑みが、ほんの少し深くなった。
「よい条件です」
彼は、ユウリのカルテの病名欄に何も書かず、ただ小さく線を引いた。
記入欄を閉じる線ではない。
空欄を空欄として残すための、細い罫線。
「では、空欄を残しましょう」
*
夜が深くなってから、イツキは一人で地下へ降りた。
診療所の奥にある扉は、普段は薬品庫に見える。だが、棚の一番下にある古いカルテ箱を少しずらすと、床に細い継ぎ目が現れる。
そこから地下へ続く階段が開いた。
白い階段ではない。
古いコンクリートの階段。
湿気を含んだ空気。
消毒液と、さらに濃い紙の匂い。
イツキは手袋をはめ直し、ゆっくりと降りていく。
地下は、カルテ保管庫だった。
壁一面に棚がある。
棚には紙のカルテ、透明ケースに入った記録紙、封印された薬瓶、名前のないファイルが並んでいる。
照明は薄い青色だった。
まるで、深い水の底にある図書館のようだった。
棚の見出しには、無数の症例名が並んでいる。
《名称沈降症候群》
《断絶性記憶剥離》
《神格反動熱》
《契約通知内在化》
《仮名依存反応》
《理触性意識混濁》
《再臨器官化未遂》
《白環補正後遺症》
《記録裂傷》
《余白構文未確定反応》
イツキは、三枝コウヤの白紙カルテを透明ケースに入れたまま、棚の一角へ収めた。
ケースには名前を書かない。
ただ、銀の綴じ糸が中で静かに光っている。
「仮留め症例、ひとつ追加」
彼は独り言のように呟いた。
声は、保管庫の紙に吸い込まれる。
ここは治療記録の場所だった。
同時に、研究資料の場所でもある。
そして、イツキにとっては宝物庫だった。
救えたもの。
救えなかったもの。
病名をつけられたもの。
つけないまま残したもの。
治療のために必要だった記録。
記録したことで、取り返しがつかなくなったかもしれない記録。
そのすべてが、ここに眠っている。
イツキは棚の奥へ進んだ。
一番古い区画。
そこだけ、扉がついている。
白い蛇の刻印があり、その目に薄青い石が嵌め込まれていた。
彼は鍵を使わなかった。
手袋をした指で蛇の頭に触れると、扉が静かに開いた。
中には、古いカルテが一枚だけ置かれていた。
紙は黄ばんでいる。
端は少し傷んでいる。
だが、保存状態は悪くない。
患者名の欄は、黒く塗りつぶされていた。
上から塗られたのではない。
名前そのものが、紙の内側から滲んで消えたような黒だった。
病名欄には、何も書かれていない。
空白。
ただ、備考欄に一行だけ残っている。
《理の水面に接触》
《星宮ミオとの照応可能性あり》
イツキはその一文を、しばらく見つめていた。
いつもの穏やかな微笑みはない。
医師の目。
研究者の目。
そして、ほんのわずかに、何かを悔やむ者の目。
「……まだ早い」
彼は静かに言った。
「だが、近づいている」
カルテを元の場所へ戻し、扉を閉じる。
白蛇の刻印の目が、一瞬だけ薄青く光った。
*
診療所を出る頃には、旧北口商店街の夜はすっかり深くなっていた。
シャッターの下りた店が並ぶアーケード。
遠くで、カフェ《ノーネーム》の灯りがまだ点いている。
雨は降っていないのに、敷石は少し湿って見えた。
レンは診療所の入口で大きく伸びをしようとして、右腕の痛みに顔をしかめた。
「痛っ……」
「無理するなって何回言えばいいんだよ」
ユウリが言うと、レンはばつが悪そうに笑った。
「いや、つい。体が元気なふりをしたがる」
「それも診てもらった方がいいんじゃないか」
「性格まで治療されたら困る」
ミオが小さく笑った。
その笑い声は、昼より少しだけ安定していた。
けれど、彼女が自分の名前を言う時の一拍は、まだ完全には消えていない。
ユウリはスマホを見た。
AVISが静かに表示を出す。
《白紙カルテ診療所:協力拠点登録》
《白羽根イツキ:接触》
《契約神:メディカ=ヴェルム》
《契約相:白紙診神》
《警告:治療と観察は分離されていません》
《神狭市内:未分類神話構文障害、増加中》
《契約相使用者反応:市内複数検出》
《次回予測:日常異変の多発》
ユウリは、その表示をしばらく見つめた。
契約相使用者反応。
市内複数。
レイジ。
マシロ。
トウマ。
レン。
イツキ。
そして、待合室にいた人々。
配達員の青年。
消えない火を抱えた年配の女性。
背中に白い線を浮かべた中学生の少女。
白環管理局の端末を隠したスーツの男。
神々の権能を使う者は、特別な誰かだけではなかった。
街の裏側には、もうたくさんいる。
ただ、ユウリたちが知らなかっただけだ。
レンがスマホを覗き込む。
「日常異変の多発って、嫌な予報だな」
「アヴィ、もうちょっと言い方ないのか」
ユウリが言うと、スマホに短く文字が出た。
《では、言い換えます》
《これから忙しくなります》
「もっと嫌だ」
レンがぼやいた。
ミオは夜空を見上げる。
星はほとんど見えない。
けれど、彼女はしばらくその空を見ていた。
「ユウリくん」
「何?」
「今日、名前を言えました」
ユウリは頷いた。
「うん」
「でも、少し怖かったです。自分の名前なのに、言う前に確かめないといけないみたいで」
ユウリは、何と答えるか迷った。
大丈夫だ、と言うのは簡単だった。
でも、たぶん違う。
「じゃあ、また確かめればいい」
ユウリは言った。
「何回でも。言えるまで」
ミオはユウリを見た。
少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷く。
「はい」
レンが二人を見て、軽く肩をすくめた。
「じゃあ俺も、しばらく右腕が爆発しないか確かめながら生きるわ」
「爆発はしないだろ」
「しないって言い切れないのが、今の俺たちの嫌なところだよな」
ユウリは苦笑した。
確かにそうだ。
言い切れないことばかりだ。
神を信じるか。
管理を受け入れるか。
断絶するか。
解放するか。
治療するか。
記録するか。
空欄を残すか。
どれも、簡単には決められない。
けれど、今日ひとつだけ分かった。
病名をつける前に、名前を呼ぶこと。
診断する前に、その人がそこにいることを見失わないこと。
それは、たぶん必要だ。
診療所の曇りガラスの向こうで、白羽根イツキの影が動いた。
彼はまだ仕事をしている。
白紙のカルテをめくり、病名をつけるか、つけないかを考え続けている。
治療と観察を分けきれないまま。
それでも、誰かが病名に閉じ込められないように。
旧北口商店街の灯りが、ぽつぽつと夜に沈んでいく。
その中で、白紙カルテ診療所だけは、まだ白く灯っていた。
名前を失いかけた者。
神話に触れてしまった者。
契約相の反動に苦しむ者。
まだ病名のない者。
そういう人々が、これからも扉を叩くのだろう。
そして、ユウリたちもまた、その待合室へ戻ってくる。
患者として。
協力者として。
あるいは、まだ名前のついていない何かとして。
ユウリはスマホを閉じた。
「帰ろう」
そう言うと、レンが大げさに頷いた。
「賛成。今日はもう神様も病名もお腹いっぱいだ」
ミオも静かに頷く。
「はい。帰りましょう」
三人は並んで歩き出した。
背後で、診療所の扉についた鈴が小さく鳴った。
誰かが入ったのか。
誰かが出たのか。
それとも、カルテのページが一枚めくられただけなのか。
振り返っても、扉は閉まっていた。
ただ、曇りガラスの奥で、白い光が揺れている。
空欄のまま残されたカルテのように。
まだ病名のない夜が、神狭市の上に静かに広がっていた。