Episode 08

第8話 ― カフェ《ノーネーム》の名なし客

本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。

序節 ― 放課後のノーネーム

 放課後の神狭市は、昼と夜のあいだに置き忘れられたような色をしていた。

 駅前の大型ビジョンには、いつものように新作ゲームの広告と、学習塾の合格実績と、駅ビルのセール告知が順番に流れている。通学鞄を肩にかけた高校生たちが、笑い声とスマホの通知音を混ぜながら改札へ吸い込まれていく。会社員らしき人々は、夕方のまだ浅い疲労を顔に貼りつけて、足早にバス停へ向かっていた。

 世界は、何事もなかったような顔をしている。

 それが、ユウリには少しだけ不思議だった。

 ついこのあいだまで、神話なんてものは、動画で見るものだった。辞典で調べるものだった。ゲームや漫画や小説の設定を深読みして、レンとああでもないこうでもないと話すためのものだった。

 それが今では、スマホの画面越しに現実へ滲み出す。

 名前を奪う。
 神を呼ぶ。
 記録を裂く。
 人を、別のものとして分類する。

 そういう言葉を、ユウリはもう、空想の比喩としてだけは受け取れなくなっていた。

「……ユウリ?」

 呼ばれて、ユウリは足を止めた。

 横を歩いていたミオが、少し心配そうにこちらを見ている。制服のリボンが、夕方の風でかすかに揺れていた。ミオの表情は普段どおり静かだったけれど、目の奥に、まだどこか遠い水面のような光が残っている。

「大丈夫?」

「うん。ごめん。ちょっと考えてた」

「それ、いつものことじゃん」

 後ろからレンが言った。

 レンは両手を頭の後ろで組み、いかにも退屈そうな歩き方をしている。けれど、その目は何度もスマホへ落ちていた。画面には、いつものSNSではなく、AVISのログが開かれている。

 白紙カルテ診療所での一件から、まだ日が経っていない。

 三枝コウヤは、隔離回復室で眠っている。
 白羽根イツキは「経過観察」と言った。
 烏丸マシロは「記録提出」と言った。
 そしてユウリたちは、そのどちらの言葉にも、完全には安心できなかった。

 助けたのだと思う。

 少なくとも、あの場では。
 あの瞬間には。
 ユウリはそう信じたい。

 けれど、助けた人間が、その後どこへ連れていかれるのか。どんな記録に分類されるのか。どんな名前で呼ばれるのか。そこまで考えると、胸の奥に小さな棘が残る。

 ミオが、そっとユウリの歩調に合わせた。

「今日は、調査じゃないんだよね」

「うん。ただの寄り道」

「ほんとに?」

 ミオが念を押すように聞く。

 ユウリは少し笑った。

「ほんとに。……たぶん」

「たぶんって言った」

「いや、だって、最近ほんとに何も起きない日がないから」

「フラグ立てるなよ、ユウリ」

 レンがすかさず言った。

「こういう時に『今日は何も起きないよね』とか言うと、大体起きるんだよ。学校七不思議でも、駅の無番線でも、白紙カルテでも学んだだろ」

「じゃあ、なんて言えばいいんだよ」

「『今日は何か起きてもコーヒーだけは飲む』」

「それ、覚悟の方向がおかしくない?」

 ミオが小さく笑った。

 その笑い方が、あまりに普通だったので、ユウリは少しだけ息をつけた。

 ミオは、ここにいる。

 女神でも、器でも、理に触れた何かでもなく、星宮ミオとして。
 隣を歩いて、少し苦いものが苦手で、たまに言葉の端に不思議な静けさを宿す、同じ学校の生徒として。

 ユウリは、そのことを確かめるように名前を呼んだ。

「ミオ」

「うん?」

 すぐに返事があった。

 それだけで、少し安心する。

 ほんの少し前なら、名前を呼んで返事があることが、こんなに大事だなんて思わなかった。

 駅前の人波を抜け、三人は北口側へ回った。

 再開発された南側とは違い、旧北口商店街には古い空気が残っている。チェーン店の明るい看板は少なく、代わりに色褪せた庇、手書きの値札、閉じたシャッター、煤けた電飾、誰が置いたのか分からない植木鉢が道の端に並んでいた。

 夕方になると、ここは少しだけ時間の流れが遅くなる。

 駅前の騒音はまだ聞こえるのに、路地へ一歩入ると、音が薄い膜の向こう側へ押しやられる。
 古い喫茶店の扉。
 使われなくなった写真館の看板。
 店先に吊るされたままの風鈴。
 いつから閉まっているのか分からない時計店。

 神狭市は普通の街だ。

 けれど、その普通の街の隙間には、時々、何かが座っている。

 名前を忘れられたもの。
 誰かが昔、祈ったもの。
 もう誰も信じていないのに、形だけ残ったもの。

 ユウリのスマホが、ポケットの中でわずかに震えた。

 反射的に取り出す。

 AVISの画面には、まだ何も表示されていない。けれど、画面の端で、小さな青白い輪が一瞬だけ回った。

「反応?」

 レンが覗き込む。

「いや、たぶん違う。ノイズみたいなもの」

 画面の中で、アヴィ=シグルが眠そうな顔を出した。小さな精霊のような姿で、ウィンドウの縁に肘をついている。

『ノイズというより、店の癖だな』

「店の癖?」

『この辺りはログの残り方が悪い。位置情報も、会話記録も、照応候補も、ところどころ抜ける。普通のアプリならバグ。AVIS的には、すごく性格の悪い空白』

「それ、危険ってこと?」

『危険じゃない空白なんてあると思うか?』

 アヴィはそう言ってから、ちらりと前方を見た。

『ただ、今すぐ噛みついてくる類いじゃない。たぶん』

「たぶんって言った」

 ミオが、さっきのユウリと同じ言い方をした。

 アヴィは肩をすくめる。

『神狭市で断言するやつは信用するな。僕も含めて』

「自分で言うなよ」

 レンが呆れた声を出す。

 やがて、三人は一本の細い路地へ入った。

 そこに、その店はあった。

 カフェ《ノーネーム》。

 とはいえ、店名を大きく掲げた看板はない。軒先に吊るされた木製の小さなプレートには、何も書かれていなかった。白く塗られたその札は、文字を待っているようにも、文字を拒んでいるようにも見える。

 窓は曇り硝子。
 扉は古い木製。
 取っ手だけが、長く使い込まれて鈍く光っている。

 初めて来たとき、ユウリはこの店を少し怪しいと思った。
 二度目に来たとき、やっぱり怪しいと思った。
 そして三度目になる今日も、怪しいという印象は変わらない。

 ただ、その怪しさが不思議と嫌ではなかった。

 レンが扉の前で腕を組んだ。

「なあ、今さらだけどさ。この店、ほんとに普通のカフェで合ってる?」

「普通ではないと思う」

 ユウリは正直に答えた。

「じゃあ入っていいのか?」

「普通じゃないけど、入っていい場所ではあると思う」

「その判断基準、だいぶAVISに毒されてきてるぞ」

 ミオが扉の白い札を見上げる。

「名前がないお店」

「うん」

「でも、ここに来るって決めたら、ちゃんと見つかるんだね」

 その言葉に、ユウリは少しだけ引っかかった。

 見つかる。
 見つけるのではなく。
 呼ばれるのでもなく。

 ここに来ようと思えば、ちゃんと辿り着ける。
 けれど、何となく歩いていても、たぶん見つからない。

 そういう店なのかもしれなかった。

 ユウリが扉を押すと、からん、と鈴が鳴った。

 店内には、外の夕方とは違う、やわらかい琥珀色の光が満ちていた。

 木の床。
 古い丸テーブル。
 壁際に並ぶ本棚。
 小さな観葉植物。
 磨かれたカウンター。
 奥で静かに湯気を上げるコーヒーサーバー。

 客は数人いた。けれど、誰も大きな声を出していない。新聞を読んでいる老人。窓際でノートに何かを書いている女性。眠っているのか考え込んでいるのか分からない学生風の人物。

 誰も、こちらを不自然には見ない。

 そのことに、ユウリは逆に少しほっとした。

 カウンターの奥で、老紳士が静かに顔を上げる。

 白髪。
 整えられた口髭。
 古風なベスト。
 細い銀縁の眼鏡。
 そして、まるで舞台の上から客席を眺める役者のような、穏やかで底の知れない目。

「いらっしゃいませ」

 マスターは、柔らかく頭を下げた。

「お席はいつものあたりでよろしいでしょうか」

「いつものっていうほど来てないですけど」

 ユウリが言うと、マスターは微笑む。

「一度でも戻ってきた場所は、もう少しだけ“いつも”に近づくものです」

「相変わらず、言い方がいちいち怪しいな……」

 レンが小声で呟く。

 マスターは聞こえているはずなのに、何も言わなかった。ただ、カウンターの端に置かれた小さなベルを軽く鳴らす。

「当店では、お名前は伺いません。必要ございませんので」

「喫茶店で名前聞かれる方が珍しくないですか?」

 レンがすぐに返す。

「それは幸いでございます」

「何が?」

「世の中には、名を求められすぎる場所が多うございますから」

 マスターはそれだけ言って、三人を奥のテーブルへ案内した。

 そこは本棚に近い席だった。横には古いランプが置かれていて、淡い光がテーブルの木目を浮かび上がらせている。棚には、神話辞典、民俗学の本、古い詩集、外国語の聖典らしき本、そして背表紙の文字が消えた何冊もの本が並んでいた。

 レンは席に座るなり、メニューを開いた。

「えーと、今日は甘いやつある?」

「ございます。名を持たぬ菓子でよろしければ」

「なんで菓子まで名前ないんだよ」

「名前をつけた途端、好き嫌いが生まれますので」

「いや、材料は知りたいんだけど」

 ユウリは思わず笑った。
 ミオも、口元に少しだけ笑みを浮かべている。

 その空気が、心地よかった。

 戦闘の後の静けさ。
 病室の白さではなく、カフェの灯りの中にある静けさ。
 何かを審査される場所ではなく、ただ座っていていい場所。

 ユウリは、ようやく肩の力が少し抜けるのを感じた。

「ユウリ様は、いつものもので?」

「だから、いつものってほど来てないですって」

「では、これからいつものものになるかもしれないものを」

「それ、注文として成立してます?」

「もちろんでございます」

 マスターは楽しげに目を細めた。

 ミオにはミルクティー。
 レンには甘い菓子とカフェオレ。
 ユウリにはブレンドコーヒー。

 注文を取り終えると、マスターは音もなくカウンターへ戻っていった。

 レンは周囲を見回しながら、声を潜める。

「なあ、やっぱりこの店主、絶対ただ者じゃないよな」

「ただ者じゃないのは、もう分かってるだろ」

「いや、分かってるけどさ。分かってても、普通に接客されると反応に困るんだよ。こっちが警戒してるのがバカみたいになる」

「それが狙いかもしれない」

「やめろよ。コーヒー飲みに来たのに心理戦始めるな」

 ミオはカップが運ばれてくる前の空いたテーブルを、じっと見つめていた。

「こういう場所、少し不思議」

「不思議?」

 ユウリが聞く。

「うん。誰も、私を見てない」

「それは、普通じゃない?」

「普通なんだけど……最近、普通じゃなかったから」

 ミオの声は、静かだった。

 ユウリは返事に迷う。

 ミオは最近、見られすぎている。

 AVISに。
 管理機構に。
 神話構文に。
 レイジたちのような神を信じる者に。
 あるいは、もっと深い理の水面に。

 星宮ミオという一人の生徒ではなく、何かの器として。
 何かが顕れるための場所として。

「ここだと、少し楽かも」

 ミオはそう言って、視線を本棚へ移した。

「誰も名前を聞かないから?」

「うん。たぶん」

 その言葉に、ユウリは胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。

 名前を聞かれないことが、楽。
 それは分かる。
 けれど、分かってしまうことが少し怖い。

 名前は、呼ばれるためにある。
 でも、呼ばれすぎれば、役割になる。

 ミオ。
 星宮ミオ。
 女神の器。
 理触者。
 照応候補、過多。
 解析不能。

 どれが彼女を守り、どれが彼女を縛るのか。
 ユウリには、まだ分からなかった。

 やがて、マスターが飲み物を運んできた。

 ミオの前に置かれたミルクティーは、白い湯気を立てている。レンのカフェオレには、名前のない菓子が添えられていた。ユウリの前には、深い色のコーヒーが静かに置かれる。

「ごゆっくり」

 マスターが去ろうとした時、レンが声をかけた。

「あ、店主さん」

「はい」

「この店、ポイントカードとかないの?」

 ユウリは思わずレンを見る。

「急に何聞いてるんだよ」

「いや、通うならさ」

 マスターは実に真面目な顔で答えた。

「申し訳ございません。当店では、お客様を点数化する仕組みを採用しておりません」

「ポイントカードをそんな怖い言い方する人、初めて見た」

「来たい時に来ていただければ、それで十分でございます」

 レンは肩をすくめた。

「まあ、そういう店ならいいけど」

 マスターはそのままカウンターへ戻りかける。

 その時だった。

 カウンターの奥で、小さな機械音がした。

 ジジ、と紙が擦れる音。
 レシートプリンターの音だ。

 マスターは振り向かない。
 けれど、ユウリはなぜか、その音に意識を引かれた。

 何でもない音のはずだった。
 会計の時に鳴る、ごく普通の印字音。
 けれど今は、誰も会計をしていない。

 ユウリはカウンターの方を見た。

 プリンターから、白いレシートが一枚、ゆっくり吐き出されている。

 マスターがそれを手に取り、ちらりと見る。

 その横顔に、ほんの少しだけ、普段と違う影が落ちたように見えた。

「……何かありました?」

 ユウリが聞く。

 マスターは、いつもの微笑みを戻した。

「いえ。いつものことでございます」

「いつもの?」

「ええ。最近、少し困ったお客様がいらっしゃいまして」

 レンが身を乗り出す。

「クレーマー?」

「いいえ。非常に礼儀正しい方でございます」

「じゃあ何が困るんですか」

 マスターはレシートを指先で整え、カウンターに置いた。

「どなたも、その方を覚えておられないのです」

 店内の空気が、わずかに変わった。

 ミオがカップに伸ばしかけていた手を止める。
 レンの表情から、軽さが消える。
 ユウリは、ゆっくりと立ち上がった。

 カウンターの上のレシートを見せてもらう。

 印字は、途中まで普通だった。

 時刻。
 伝票番号。
 テーブル番号。
 注文内容。

 けれど、注文内容の欄が奇妙に揺れている。

 ブレンドコーヒー。
 ミルクティー。
 水。
 空欄。
 何も注文していない。

 同じ一枚の紙の中で、文字が定まっていないように見えた。

 そして、客名欄だけがぽっかりと白い。

 何も印字されていない。

 そこだけ、初めから文字が存在しない場所のようだった。

「……客名欄なんて、普通あるんですか?」

 ユウリが聞く。

「当店には、ございません」

 マスターは穏やかに答えた。

「では、これは?」

「ですから、困っているのでございます」

 その言葉の直後、ユウリのスマホが震えた。

 AVISが勝手に起動する。

 画面に青白い文字が走った。

《微弱神話構文反応》
《識別対象:空欄》
《対象名:未検出》
《現在名:記録不能》
《警告:呼称処理に失敗しました》

 アヴィ=シグルが、画面の端から顔を出した。

 その表情は、いつもの皮肉げなものではない。

『……ユウリ』

「何?」

『この店、やっぱり嫌いだ』

「理由は?」

『ログが残らないくせに、反応だけは濃い』

 レンが低く息を吐いた。

「ほらな。言っただろ。フラグ立てるなって」

 ミオは、白いレシートを見つめていた。

 その瞳が、ほんの少しだけ揺れている。

「……誰か、いる」

 ミオが呟いた。

「でも、呼べない」

 店の入口で、からん、と鈴が鳴った。

 三人が振り向く。

 扉は、確かに開いた。

 夕方の路地の空気が、店内へ細く流れ込む。
 白い無記名の札が、風に揺れる。

 けれど、入口には誰もいなかった。

 ただ、濡れてもいないはずの傘が一本、扉の横に立てかけられていた。

 ユウリは、それを見た瞬間、なぜか思った。

 誰かが、ここへ来た。

 そしてもう、自分はその人の顔を忘れかけている。

 マスターは、静かにカップを磨きながら言った。

「いらっしゃいませ」

 その声は、誰もいない入口へ向けられていた。

「お名前は、伺いませんので」

第1節 ― 誰も覚えていない客

 入口の鈴の音は、しばらく店内に残っていた。

 からん、と鳴ったはずの一音が、木の床と曇り硝子と古い本棚のあいだを、ゆっくり往復しているようだった。
 けれど、扉はもう閉まっている。
 外の路地から入り込んだ夕方の空気も、すぐにカフェの琥珀色の灯りへ溶けてしまった。

 入口には、誰もいない。

 ただ、傘が一本だけ立てかけられていた。

 黒い傘だった。
 けれど、完全な黒ではない。濡れた夜道のような、光を吸い込む灰色がかった黒。閉じた布の端から、雨粒が一滴、木の床へ落ちる。

 ぽたり。

 店の中に雨の匂いがした。

 ユウリは反射的に窓の方を見た。

 外は降っていない。
 路地の石畳も乾いている。
 さっきまで三人で歩いてきた旧北口商店街にも、雨の気配などなかった。

「……降ってたっけ?」

 レンが、ユウリの横で同じことを考えたらしく、低く呟いた。

「降ってない」

 ユウリは答えた。
 自分の声が、少し小さくなっているのが分かった。

 ミオは、入口の方を見つめている。
 傘ではない。
 傘の横に、誰かが立っていたはずの空間を見ている。

 そこには、誰もいない。

 けれど、ミオの瞳だけが、何かの輪郭を追っていた。

 マスターは、何事もなかったようにカウンターの向こうでカップを磨いている。白い布で磁器の縁を拭く指先は、先ほどとまったく同じ速さで、同じ優雅さを保っていた。

 それが余計に不気味だった。

「店主さん」

 ユウリは、カウンターの上のレシートから視線を外さずに言った。

「今の、誰ですか」

 マスターは、カップを磨く手を止めなかった。

「お客様でございます」

「見えてるんですか」

「見えている、という言い方が正しいかは、少々難しいところでございますな」

 レンが眉をひそめた。

「そういうの、今はいいんで。分かる範囲で教えてください」

「では、分かる範囲で」

 マスターは磨き終えたカップを棚に戻した。

「そのお客様は、一週間ほど前から当店にいらっしゃるようになりました」

「一週間前?」

「はい。来店時刻は、おおむね夕方。日が落ちきる前、けれど昼とは言い難い時刻でございます」

 マスターは、まるで常連客の好みを説明するような穏やかな口調だった。

「座席は毎回異なります。窓際の日もあれば、壁際の日もある。カウンターに座られたこともございました。注文も一定ではございません。珈琲、紅茶、水、時には何も頼まれないこともございます」

「何も頼まない客にもレシート出るんですか」

 レンが怪訝そうに言う。

「本来は出ません」

「じゃあ、あれは?」

 レンがカウンターのレシートを指さした。

 白い紙の上に、黒い印字が浮かんでいる。
 普通の会計記録の形式をしているのに、どこかがずれている。店名の欄は空白。客名欄も空白。注文内容は、目を離すたびに違う文字へ変わっているように見えた。

 ブレンドコーヒー。
 ミルクティー。
 水。
 空欄。
 何も注文していない。

 同じ場所に、別々の記録が重なっている。

 ユウリの目が疲れているわけではない。
 そう思いたかったけれど、AVISの画面はすでに小さく震えている。

 マスターは言った。

「お客様が残されたもの、と申し上げるべきでしょうな」

「残されたもの?」

「ええ。人は、席に座れば椅子をわずかに軋ませます。カップを持てば温度が移ります。言葉を発すれば、空気が震えます。たとえ名が残らずとも、来たという事実までは完全には消えません」

 マスターの声は静かだった。

「このレシートは、その痕跡でございます」

 ユウリは、白い紙を見つめた。

 痕跡。

 そこに誰かがいた。
 座って、何かを注文して、何かを飲んだ。
 けれど、名前だけがない。
 顔もない。
 声も残らない。

 いるのに、いない。

 その感覚が、胸の奥に冷たい指を差し入れてくる。

「他の人も、覚えてないんですか」

 ミオが小さく聞いた。

 マスターは、店内をゆっくり見渡した。

「そうですな。尋ねてみるのが早うございます」

 そう言って、彼はカウンターの脇を出た。

 その動きに合わせて、店内の静けさが少しだけ揺れる。新聞を読んでいた老人が顔を上げ、窓際の女性がペンを止め、奥の席で眠っていたように見えた学生風の人物がまばたきをした。

 マスターはまず、新聞の老人の前へ立った。

「失礼いたします。ここ一週間ほど、夕方にいらっしゃるお客様をご存じでしょうか」

 老人は新聞を少し下ろした。

「ああ……あの人かい」

 ユウリたちは息を呑んだ。

 覚えているのか。
 そう思った次の瞬間、老人は眉間にしわを寄せた。

「あの人……いや、誰だったかな。いたような気はするんだがね。若い人だったか」

「男性でしたか。女性でしたか」

 マスターが穏やかに聞く。

「男……いや、女の人だったかもしれん。いや、そもそも若かったかな。帽子をかぶっていたような気もするが、髪が長かったような……」

 老人の声が、言葉を重ねるごとに頼りなくなっていく。

 最後には、困ったように笑った。

「すまんね。毎日来てるような気もするし、今日初めて聞いた話のような気もする」

「ありがとうございます」

 マスターは礼を言い、次に窓際の女性へ向かった。

 彼女はノートを閉じ、少し考え込むように視線を落とした。

「覚えているか、と聞かれると……困りますね」

「困る?」

 ユウリが思わず口を挟む。

 女性はユウリの方を見た。
 その表情には、怖がっているというより、自分の記憶が信用できなくなった時の戸惑いが浮かんでいた。

「その席に、誰かが座っていた気配は覚えています。カップの置き方とか、椅子の引き方とか。でも、顔を思い出そうとすると、そこだけ曇るんです」

「声は?」

 レンが聞いた。

「聞いたような気はします。けれど、どんな声かは……」

 女性は唇を閉じた。
 それから、ゆっくり首を振った。

「忘れたというより、最初から聞いていなかったことにされているみたい」

 その表現に、ユウリの背筋が少し冷えた。

 忘れるのではない。

 最初から、なかったことにされる。

 それは、ただの記憶違いとは違う。
 もっと深い場所で、記録の糸を抜き取られるような感覚だった。

 マスターは、さらに奥の席の学生風の人物にも尋ねた。

 その人物は眠そうな目をこすりながら、曖昧に答えた。

「いた、ような……いなかったような。すみません、よく分からないです。でも」

「でも?」

「その人が帰った後、なぜか椅子だけ冷たくなってるんです。冬でもないのに」

 レンが小さく舌打ちした。

「全員、記憶が抜けてる。でも物理的な痕跡は残ってる」

 ユウリはうなずいた。

「完全に消えてるわけじゃない」

「だな。存在はしてる。けど、個人として認識できない。顔、声、名前、性別、年齢、全部が固定されない」

 レンの目が、少しだけ輝いた。

 それは好奇心の光だった。
 危険なものを見つけた時の、レンらしい光。

「……面白い」

「レン」

 ユウリは思わず名前を呼んだ。

 レンは一瞬きょとんとして、それから「あ」と気づいたように口を閉じた。

「悪い。面白がる言い方じゃなかった」

「うん」

「でも、現象としてはかなり特殊だ。管理機構のログにも残らないなら、これ、匿名性どころじゃない。存在のトラッキング自体をすり抜けてる」

 レンはスマホを取り出した。

「店内の写真、撮っていいですか」

 マスターは微笑んだ。

「お客様のご迷惑にならない範囲であれば」

「迷惑をかける相手が写らないんだけどな」

 レンはそう言いながら、店内を数枚撮影した。

 入口。
 カウンター。
 空席。
 本棚の横。
 窓際。
 誰もいないテーブル。

 シャッター音は鳴らない設定にしているはずなのに、ユウリには一枚撮るごとに、何か薄い膜が破れるような気配がした。

 レンは撮影した画像をすぐに確認する。

「……ん?」

「どうした?」

 ユウリが覗き込む。

 画面には、さっき撮った店内の写真が映っていた。

 最初の写真は入口。
 白い札。
 濡れた黒い傘。

 次はカウンター。
 マスターがカップを磨いている。

 次は本棚の横の席。
 誰も座っていない。
 ただ、テーブルの上に白いカップが置かれていた。

「これ、さっきなかったよな」

 レンの声が少し低くなる。

 ユウリは実際の席を見た。

 本棚の横。
 丸いテーブル。
 椅子が一脚、わずかに引かれている。

 けれど、カップは置かれていない。

 写真の中にだけ、白いカップがある。

 しかも、飲みかけだった。

 縁に、かすかな口紅の跡のようなものがある。
 いや、口紅ではないかもしれない。影かもしれない。カップの白に滲んだ、誰かの体温の名残のようなもの。

「写真には写ってる。でも現物にはない」

 レンは画面を拡大した。

「いや、違う。カップの位置が写真ごとに違う」

 彼は続けて数枚を表示する。

 同じ席。
 誰もいない。
 でも、ある写真にはカップがある。
 別の写真にはグラスがある。
 さらに別の写真には、何もない代わりに、テーブルの木目だけが濡れている。

 水滴の輪。
 カップの底が残した丸い跡。

 そこに誰かがいた、という証拠だけが、記録の隙間に残っている。

「……ユウリ」

 ミオの声がした。

 振り向くと、ミオは本棚の横の席を見つめていた。

 顔色が少し悪い。
 唇から血の気が引いている。

「ミオ?」

 ユウリが呼ぶと、ミオは返事をしなかった。

 彼女の視線は、空席に固定されている。

 そこには誰もいない。

 少なくとも、ユウリにはそう見える。

 けれど、ミオには違うものが見えているのだと、すぐに分かった。

 ミオの瞳が、見えない誰かの動きを追っている。
 椅子の高さより少し上。
 テーブルの向こう側。
 白いカップを持つ位置。

 ミオの指先が、かすかに震えた。

「……手が」

「手?」

「細い指。カップを持ってる。でも、すぐ消える」

 ミオは、ゆっくり呼吸をした。

「何か言おうとしてる。口が動いてる。でも、声が出ない。名前を言おうとして……言えない」

 ユウリは空席を見た。

 やはり、誰もいない。

 けれど、ミオの言葉を聞いた瞬間、ユウリの頭の中にも、一瞬だけ像が浮かんだ。

 白いカップを両手で包む細い指。
 少し俯いた顔。
 髪が頬にかかっているのかもしれない。
 けれど、その顔の中心だけがどうしても結ばれない。

 目も、鼻も、口もあるはずなのに、思い出そうとした瞬間、白い紙で覆われる。

 いや。

 思い出す以前に、見た記憶そのものが作られない。

「ミオ」

 ユウリはもう一度、少し強く呼んだ。

「ミオ」

 ミオの肩が、びくりと揺れた。

 それから、遅れてユウリの方を見る。

 焦点が戻るまでに、ほんの一拍あった。

「……うん」

 ミオは小さく息を吸った。

「大丈夫」

「本当に?」

「うん。今、呼んでくれたから」

 その言葉が、ユウリの胸に刺さった。

 今、呼んでくれたから。

 ミオは、そう言った。

 名前を呼ばれて、戻ってきた。
 まるで、さっきまで何かに引かれていたみたいに。

「ごめん」

 ユウリは、反射的にそう言った。

 ミオは首を振る。

「謝らないで。呼んでくれたから、戻れた」

 レンが黙って二人を見ていた。

 いつもの軽口はなかった。
 スマホを持つ手だけが、少し強く握られている。

 ユウリのポケットの中で、スマホが震えた。

 AVISの画面が自動で立ち上がる。

 青白い円環UIが、黒い背景の上で不安定に回転していた。
 文字列が一度表示されては消え、別の候補に置き換わる。

《微弱神話構文反応》
《識別対象:空欄》
《分類:人間/残滓/記録欠損》
《判定不能》
《呼称固定に失敗》
《現在名:未検出》

 アヴィ=シグルが画面の中に現れた。

 いつものように偉そうに腕を組んでいるが、顔はあまり余裕がない。

『この店、やっぱり嫌いだ』

「さっきも言ってた」

『何度でも言う。ログが残らないくせに、反応だけは濃い。しかも、対象が逃げる。名前も、輪郭も、分類も、こっちが掴もうとすると全部ずれる』

「人間なの?」

 ユウリは聞いた。

 アヴィは少し黙った。

『候補には入ってる』

「候補?」

『人間、神話残滓、記録欠損、都市伝説型の半顕現、あとは……マスター系の悪戯』

 アヴィはちらりとカウンターのマスターを見た。

 マスターは、まるで視線に気づいていないふりをして、穏やかにカップを並べている。

『どれも少し当たっていて、どれも決定打じゃない。こういうのが一番面倒だ』

「分類できないってこと?」

『分類すると壊れる可能性があるってこと』

 その言い方に、ユウリは息を止めた。

「壊れる?」

『名前も分類も、対象を固定する。固定できる状態なら便利だ。でも今の対象は、固定されないことで何かから逃げているように見える』

 アヴィの声が、少しだけ低くなる。

『無理に呼ぶな。無理に記録するな。たぶん、引っかかる』

「引っかかるって、何に」

『それが分かれば苦労しない』

 レンが、スマホの画面を見つめたまま言った。

「でも、ログを取らないと何も分からない」

 ユウリはレンを見る。

 レンの表情は真剣だった。
 軽い好奇心だけではない。怖さもある。責任感もある。それでも、目の奥には、何かを解析しようとする熱が残っていた。

「記録しないと、また同じことが起きるかもしれない。AVIS一般版か、管理機構の監視漏れか、あるいは再臨派の実験か。原因があるなら拾わないと」

「でも、アヴィは無理に記録するなって」

「無理に名前を取るわけじゃない。現象ログだけ残す」

 レンは自分のスマホを操作した。

 画面に、録画アプリとAVIS一般版の解析補助ツールが並んでいる。
 レンが自分で組んだらしい簡易ログ保存画面も見えた。

「映像、音声、位置情報、温度、電波の揺らぎ。個人情報に触れない範囲なら――」

「それ、本当に触れないって言い切れる?」

 ユウリの声が、思ったより強く出た。

 レンが指を止める。

 店内の空気が、わずかに固まった。

 ユウリは、すぐに言い過ぎたかもしれないと思った。
 レンは悪意でやっているわけではない。
 むしろ、助けるために、知るために、繰り返さないために記録しようとしている。

 でも。

 さっきの白いレシート。
 空欄の客名。
 ミオの「今、呼んでくれたから」という声。

 それらが、ユウリの中で引っかかっていた。

「ごめん」

 ユウリは言った。

「ログが必要なのは分かる。でも、この人……人なのかどうかも分からないけど、もしかしたら、記録されないことで助かってるのかもしれない」

 レンは黙った。

 ミオも、空席を見たまま小さくうなずく。

「私も、そう思う」

 レンは唇を噛んだ。

「……分かった。録画はしない。スクショも一旦やめる」

 そう言って、スマホを伏せた。

 けれど、完全に納得した顔ではなかった。

 ユウリは、その表情を見逃せなかった。

 レンは間違っていない。
 ユウリも、正しいと言い切れるわけではない。
 記録しないことで、救えなくなるものもある。
 記録することで、壊してしまうものもある。

 どちらか一つで片づく話ではない。

 そのことが、ユウリには少し苦しかった。

 マスターが、静かに三人のテーブルへ歩いてきた。

 手には、新しいカップがひとつ載ったトレイ。

 誰の注文でもない。
 白いカップ。
 中には、湯気の立つ透明な飲み物が入っている。

「それは?」

 ユウリが聞く。

「お客様のものです」

 マスターはそう言い、空席のテーブルへ向かった。

 本棚の横。
 誰もいない席。

 そこに、マスターは白いカップを置いた。

 カップの底が木のテーブルに触れた瞬間、かすかな音がした。

 ことり。

 その音だけは、はっきり聞こえた。

 ミオが息を呑む。

「……今、手が伸びた」

 ユウリには見えなかった。

 けれど、カップの湯気が一瞬だけ揺れた。
 誰かが、そこに顔を近づけたように。

 レンも無言で見ている。

 アヴィの画面には、文字化けしたログが走っていた。

《対象名:――》
《対象名:未登録》
《対象名:空欄》
《対象名:》
《対象名:》
《対象名:》

 表示されては消える。

 まるで、誰かが自分の名前から逃げているように。

 その時だった。

 入口のベルが、もう一度鳴った。

 からん。

 ユウリたちは一斉に振り向いた。

 扉が開いている。

 今度は、確かに誰かが入ってきた。

 そう思った。

 白い札の向こう、夕方の路地を背に、細い人影が立っていた。
 制服のようにも、私服のようにも見える服。
 濡れていないはずなのに、肩だけが雨を含んだように暗い。
 髪の長さは、分からない。
 顔は、見えたはずだった。

 ユウリは、その人と目が合った気がした。

 ほんの一瞬だけ。

 何かを言いたそうな目。
 助けてほしいような。
 見ないでほしいような。
 名前を呼んでほしいような。
 呼ばれたら終わってしまうような。

 次の瞬間、レンが小さく息を吸った。

「……誰だ?」

 その言葉で、ユウリの中の像が崩れた。

 顔が消える。
 髪の長さが分からなくなる。
 服の色が思い出せなくなる。
 男だったのか、女だったのか。
 若かったのか、大人だったのか。
 立っていたのか、座っていたのか。

 記憶の輪郭が、濡れた紙のインクみたいに滲んでいく。

 ユウリは慌てて目を凝らした。

 けれど、入口にはもう誰もいなかった。

 扉は閉まっている。
 白い札が揺れている。
 その下に、濡れた黒い傘だけが残っていた。

 さっきもあった傘なのか。
 今置かれた傘なのか。
 それすら、分からない。

 ミオが、胸元を押さえていた。

「……いた」

 その声は震えていた。

「今、いたよね」

 ユウリは答えようとした。

 いた。
 確かにいた。

 そう言いたかった。

 けれど、喉の奥で言葉が一瞬止まった。

 本当にいたのか。

 自分は、誰を見たのか。

 その顔を、なぜもう思い出せないのか。

 レンが伏せていたスマホを見た。

 画面は、いつの間にか真っ黒になっていた。
 バッテリーは残っている。電源も入っている。
 なのに、録画も写真も、何も残っていない。

 アヴィ=シグルだけが、ユウリのスマホ画面の中で、珍しく黙っていた。

 マスターは、空席に置かれた白いカップを見つめている。

 カップの中身は、少しだけ減っていた。

 誰かが、確かに飲んだように。

 マスターは静かに頭を下げた。

「ご来店、ありがとうございます」

 誰に向けた言葉なのか、ユウリには分からなかった。

 ただ、カウンターの奥でレシートプリンターが動き出す。

 ジジ、と白い紙が吐き出される。

 マスターがそれを取るより先に、ユウリは印字を見た。

本日の客:

 その後ろには、何もなかった。

 空欄。

 けれど、その空欄だけが、まるで誰かの悲鳴のように見えた。

第2節 ― 空欄のレシート

 空欄は、文字がないだけの場所ではなかった。

 ユウリは、カウンターの上に置かれたレシートを見下ろしながら、そう思った。

 白い紙。
 黒い印字。
 ありふれた感熱紙の薄さ。
 指で触れれば、少しだけ熱の名残がある。

 けれど、そこに空いた名前の欄だけは、紙よりも深く見えた。

 何かが書かれていないのではない。
 何かを書こうとした痕跡ごと、くり抜かれている。

 カフェ《ノーネーム》の中は、まだ穏やかだった。古いランプの灯りは揺れず、窓際の客はまたノートへ目を戻し、新聞の老人も紙面を開き直している。日常の続きに戻ろうとしているのは、たぶん人間の本能なのだと思う。

 見なかったことにする。
 聞かなかったことにする。
 覚えていられないなら、最初から気にしない。

 けれど、ユウリたちはもう、そういうふうには戻れなかった。

 空席のテーブルには、白いカップがある。

 さっきまでなかったはずのカップ。
 マスターが運び、誰もいない席に置いたもの。
 中身は少しだけ減っている。

 湯気が細く上がっていた。

 その湯気の向こう側に、誰かがいる。

 そう思った瞬間だけ、輪郭が見えそうになる。
 けれど、視線を正面から向けると、消える。
 見ようとすればするほど、何もいなかったことになる。

 ユウリは、自分の目が信用できなくなっていく感覚に、奥歯を噛んだ。

「……そこに、いるんだよな」

 レンが低く言った。

 さっきまで伏せていたスマホを、もう一度そっと持ち上げる。

「レン」

 ユウリが呼ぶと、レンは画面から目を離さないまま言った。

「分かってる。録画はしない。ログも保存しない。ただ、画面越しに見えるか確認するだけ」

「それでも――」

「見るだけだ」

 レンの声は、いつもより硬かった。

 ユウリはそれ以上止められなかった。

 レンがスマホのカメラを起動する。

 画面には、店内が映った。

 カウンター。
 ランプ。
 本棚。
 白いカップ。
 そして、その向かいの椅子に、薄い人影。

 ユウリは息を呑んだ。

 肉眼では見えない。
 けれど画面越しには、確かに何かが映っていた。

 それは人に見えた。
 たぶん、座っている。
 肩を丸め、両手を膝の上か、テーブルの下に置いている。
 髪の色は分からない。服の色も分からない。顔は、やはり結ばれない。

 画面の中だけで、人影は砂嵐のように揺れていた。

 レンは無言で数秒だけ画面を見つめ、それから録画ボタンには触れず、スクリーンショットだけを試みた。

 カシャ、という音はしなかった。

 けれど画面が一瞬だけ白く瞬く。

「保存された?」

 ユウリが聞く。

「された。……はず」

 レンは写真フォルダを開いた。

 今撮った画像が一番上にある。サムネイルでは、確かに空席の向こうに人影があった。けれど、画像を開いた瞬間、その影だけがざらついたノイズへ変わった。

 白と黒の粒が、そこに座っていたものの形を真似ている。

 顔の位置だけが、特にひどく乱れていた。

 レンは画像を拡大する。

 ノイズの中に、一瞬だけ文字のようなものが浮かんだ。

 名前ではない。
 あるいは、名前だったのかもしれない。
 しかし、ユウリが読もうとした瞬間、文字は潰れた。

「……だめだ。写ってるけど、残らない」

 レンは奥歯を噛んだ。

「録画なら?」

「やめよう」

「でも、映像なら時間軸で――」

「レン」

 ユウリは、今度は強く呼んだ。

 レンの指が止まる。

 その横顔に、苛立ちが浮かんでいた。自分が止められたことへの苛立ちではない。分からないものを分からないまま置いておかなければならないことへの、レンらしい苛立ちだった。

「分かってるよ」

 レンは小さく吐き捨てるように言った。

「分かってる。けどさ、目の前で起きてるのに、記録できないの、すげえ気持ち悪いんだよ」

「うん」

「記録できないってことは、あとで誰かに説明できないってことだ。証明もできない。対策も立てづらい。これがAVIS一般版のバグなのか、管理機構のやらかしなのか、神話残滓なのか、それとも――」

 レンは一瞬、マスターの方を見た。

 マスターは、まるで自分の名前が会話に出るのを待っていたかのように、静かに微笑んだ。何も言わない。その沈黙が、かえって答えのようにも、挑発のようにも見える。

 レンは視線を戻した。

「分からないまま放っておくの、危ないだろ」

「分からないまま触る方が、もっと危ないこともある」

 ユウリが言うと、レンは口を閉じた。

 その時、ユウリのスマホが震えた。

 AVISの画面が開く。

 アヴィ=シグルは、画面の中で眉間にしわを寄せていた。いつもの偉そうな態度は残っているが、その翼のような光の輪郭が不安定に揺れている。

『対象、解析中』

 青白い文字が、画面を走る。

《対象名:未登録》
《対象名:削除済》
《対象名:保留》
《対象名:――》
《対象名:未登録》
《対象名:削除済》
《対象名:》
《対象名:》

 表示が定まらない。

 未登録。
 削除済。
 保留。
 空欄。

 そのどれもが、同じ対象を指しているはずなのに、どれひとつとして留まらない。

 アヴィが小さく舌打ちした。

『ちょっと待て。対象名がログの中で逃げてる』

「逃げてる?」

『比喩じゃない。こっちが“対象”として固定しようとすると、直前のログから滑り落ちる。未登録として扱えば削除済みになる。削除済みとして扱えば保留になる。保留にすれば空欄になる。空欄を確定しようとすると、対象そのものが一瞬、画面外へ逃げる』

「画面外?」

『AVISの解析範囲の外側だ。普通はそんな場所、ない』

 アヴィは顔をしかめた。

『この店、ほんとに嫌いだ』

「それも何度目だよ」

 レンが言う。けれど声には笑いがなかった。

 ミオは、さっきからずっと空席を見つめていた。

 ただ、今度は目を凝らしているのではない。
 まるで、音のない音を聞いているようだった。

 ユウリはミオの横顔を見た。

「ミオ?」

 呼ぶと、ミオはすぐには返事をしなかった。

 けれど、さっきのように遠くへ引かれているわけではない。意識はここにある。ただ、どこか別の層に触れている。

 やがてミオは、胸元に手を当てた。

「怖がってる」

 小さな声だった。

「誰が?」

「あの人」

 ミオは空席を見たまま言う。

「怖い。でも……戻りたくない」

 その言葉に、ユウリは眉を寄せた。

「戻りたくない?」

「うん。見つけてほしいって思ってる。でも、名前を呼ばれたくない。気づいてほしいのに、探されたくない。ここにいるって分かってほしいのに、連れていかれたくない」

 矛盾した感情。

 けれど、ミオの声には確信があった。

 ユウリは、空席を見た。

 白いカップ。
 揺れる湯気。
 誰もいない椅子。

 そこにいる人は、確かに助けを求めている。
 けれど、普通の助け方をされたら壊れてしまう。

 そんなふうに思えた。

「……近づいても、大丈夫かな」

 ユウリが呟く。

 アヴィが即座に言った。

『無理に触るなよ』

「分かってる」

『分かってなさそうだから言ってる』

「分かってるって」

 ユウリはゆっくり立ち上がった。

 レンが何か言いかけて、やめる。
 ミオも止めなかった。
 マスターだけが、静かにユウリを見ていた。

 その目には、やはり答えがない。

 ただ、問いだけがある。

 あなたは、どうするのか。

 ユウリは空席へ向かった。

 一歩近づくたび、見えない輪郭が少しだけ揺れる。近づけば見えるわけではない。むしろ、近づくほど、脳が勝手に補正しようとして失敗する。

 誰かがいる。
 でも、いない。
 いないことにされている。
 けれど、そこにいることだけは消せない。

 テーブルの向かい側に、もう一脚椅子があった。

 ユウリは、そこへ座らなかった。

 真正面に座れば、相手を問い詰める形になる気がした。
 近すぎると、逃げ場を塞ぐ気がした。

 だから、同じテーブルの少し斜め。
 視線がぶつからない距離に、もう一脚の椅子を静かに引いた。

 木の脚が床を擦る音が、小さく響く。

 ユウリは腰を下ろした。

 白いカップの湯気が、少しだけこちらへ流れた。

「話したくなかったら、話さなくていいです」

 ユウリは、空席に向かって言った。

 自分でも、変な言い方だと思った。

 話したくなかったら、話さなくていい。
 けれど、自分はここに座る。
 見えていなくても、いると思っている。
 名前がなくても、相手がいることを前提にする。

 沈黙が落ちた。

 店内の時計の音が、聞こえた気がした。
 でも、この店に時計などあっただろうか。

 白いカップの湯気が、また揺れる。

 そして、声がした。

「……名前を」

 ひどく小さな声だった。

 若いようにも聞こえた。
 年老いているようにも聞こえた。
 少女のようにも、少年のようにも、大人のようにも。
 音としては聞こえているのに、聞いた直後から印象が削られていく。

 ユウリは、息を止めた。

 声を逃がさないように。

「名前を、聞かないんですか」

 その言葉だけは、なぜか残った。

 名前を聞かないのか。

 ユウリは少し考えてから、静かに答えた。

「聞いたら、困りますか」

 空席は黙った。

 カップの湯気が細くなる。

 ユウリは続けた。

「名前を聞いた方がいいなら、聞きます。でも、聞かない方がいいなら、聞きません」

「……変な人」

 声が言った。

 ユウリは少しだけ笑った。

「最近、よく言われます」

「普通は、聞くのに」

「普通は、そうかもしれない」

「誰なのか、確かめたがる。何なのか、決めたがる。名前を呼んで、そこにいるって決める」

 その声は、震えていた。

 怒っているのかもしれない。
 泣いているのかもしれない。
 安心しているのかもしれない。

 どれも違う気がした。
 どれも少しずつ当たっている気もした。

「私も、そうした方がいいのかなって思いました」

 ユウリは正直に言った。

「名前を取り戻せば、助かるのかなって。でも、たぶん、それだけじゃないですよね」

 また沈黙。

 今度の沈黙は、さっきより少し柔らかかった。

 遠くの席で、新聞の紙がめくられる音がした。
 レンは離れた場所で、スマホを持ったまま動かずにいる。
 ミオは両手で自分のカップを包み、ユウリと空席を見守っていた。

 やがて、声がゆっくり話し始めた。

「最初は、ただのアプリだった」

 ユウリは何も言わずに聞いた。

「みんな入れてた。都市伝説みたいに言われてて。神が見えるとか、契約できるとか、適性診断が当たるとか。怖いけど、面白そうで」

 AVIS一般版。

 ユウリは、胸の中でその言葉を反芻した。

 レンが、少しだけ身じろぎする気配がした。

「最初は、何も起きなかった。ただ、通知が来るだけ。あなたの神話属性は何とか。照応候補は何とか。よくある診断アプリみたいだった」

 声はそこで一度止まった。

 白いカップの縁に、見えない指が触れたような気がした。

「でも、夜に通知が来た」

 ユウリのスマホが、かすかに震えた。

 まるで、その通知の残響に反応したみたいに。

 空席の前に、薄い青白い文字が一瞬だけ浮かんだ。
 ユウリのAVIS画面ではない。
 空気そのものに、過去の画面が投影されているようだった。

《あなたに適した神話役割を検出しました》
《役割名を受諾しますか》
《許可する》
《拒否する》

 ユウリの背中に冷たいものが走った。

 自分のAVISにも、似たような選択肢が出たことがある。
 許可する。
 拒否する。
 保留する。
 そして、自分だけが見た未定義の選択肢。

 けれど、この人にはたぶん、それがなかった。

「怖くて、拒否した」

 声は言った。

「そしたら、世界が私の名前を探し始めた」

 店内の灯りが、一瞬だけ暗くなった。

 いや、暗くなったのではない。
 ユウリの視界に、別の場所の光が重なったのだ。

 駅前ビジョン。
 白い広告塔。
 夜の神狭駅。
 大きな画面に、見知らぬ広告の文字が流れている。

 その中に、一瞬だけ名前が出る。

 誰かの本名。

 けれど、ユウリが読もうとすると、黒く塗りつぶされる。

 次に、スマホの通知欄。

《――さん、役割受諾が未完了です》
《――さん、供物登録を確認してください》
《――さん、応答してください》

 次に、匿名掲示板のスレッド。

【神狭】供物候補、見つけた
名前:――
役割:――
接続地点:――

 文字がぐちゃぐちゃに潰れる。

 それでも、ユウリには分かった。

 その人の名前が、あちこちに書かれていた。
 本人の意志とは関係なく。
 知らない誰かの画面に。
 知らない誰かの投稿に。
 知らないシステムの記録に。

「誰かが、私を供物って呼んだ」

 声が震えた。

「最初は、冗談だと思った。でも違った。駅で知らない人が振り向いた。スマホが鳴った。広告に名前が出た。アプリを消しても、通知が来た。拒否したのに、拒否したから、もっと探された」

 ユウリは拳を握った。

 名前が、追跡用のタグになる。
 呼ばれるたびに、役割へ近づく。
 記録されるたびに、逃げ場がなくなる。

 名は、その人を守るものではなかった。
 その時だけは、捕まえるための鍵だった。

「逃げて、逃げて……この店に来た」

 声が続ける。

「どうやって来たのか、覚えてない。看板もなかった。でも、扉があった。白い札があった。入ったら、誰も名前を聞かなかった」

 白いカップの湯気が、静かに揺れる。

「その瞬間、通知が止まった。広告にも出なくなった。掲示板からも消えた。誰も、私の名前を呼ばなくなった」

 声は、そこでかすかに笑ったようだった。

 けれど、その笑いはすぐに崩れた。

「助かったと思った」

 ユウリは、何も言えなかった。

「でも、それから、誰も私を覚えてくれなくなった」

 店内のどこかで、古い木が軋んだ。

「ここに来れば座れる。飲み物も出してもらえる。でも、帰ると忘れられる。話しても、次の日には忘れられる。顔も、声も、性別も、年齢も。たぶん、私の方も少しずつ分からなくなってる」

 声が小さくなる。

「自分の名前は、まだ覚えてる。たぶん。でも言えない。書けない。打てない。思い出そうとすると、外から見つかる気がする」

「外から?」

「名前を探しているものがある」

 その言葉に、アヴィが画面の中で顔を上げた。

『……やっぱり、役割索引か』

「役割索引?」

 ユウリが小声で聞く。

『AVIS一般版の正式機能じゃない。少なくとも表向きは。人間の願望や恐怖、神話照応の傾向を読み取って、“適した役割”に接続する裏側の処理だ。普通は診断で終わる。だが、神話構文濃度が高すぎると、診断が契約の前段階になる』

「じゃあ、この人は……」

『拒否した。だが、拒否したことで“未受諾の役割”として残った。役割側が、適合者を取り戻そうとしている可能性がある』

 レンが顔を上げた。

「それ、証拠として残した方がよくないか」

 声は抑えていたが、言葉には強い力があった。

「AVIS一般版の危険性、これでかなり――」

「残したら」

 ユウリは、レンの言葉を遮った。

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

「この人の名前も一緒に拾われるかもしれない」

 レンは言い返しかけて、止まった。

 ユウリは続けた。

「ログを取るってことは、この人がここにいるって、どこかに残すってことだよね。役割索引っていうのがまだ探してるなら、そのログから見つけるかもしれない」

「でも、何も残さなかったら――」

「分かってる」

 ユウリはレンを見た。

「それじゃ対策できないかもしれない。後で証明できないかもしれない。レンが間違ってるって言いたいんじゃない」

 レンの顔が、少し歪んだ。

 悔しさ。
 焦り。
 善意の行き場を失った戸惑い。

「じゃあ、どうすんだよ」

 レンは小さく言った。

「記録しなきゃ、助けられないことだってあるだろ」

「うん」

「でも記録したら危ないって言うなら、俺たち、何もできないじゃん」

 ユウリは、すぐには答えられなかった。

 正論だった。

 記録しないことは、優しさだけではない。
 忘れることにもなる。
 なかったことにすることにもなる。

 でも、今この人にとって、記録は刃物に近い。

 助けるために差し出した手が、そのまま首輪になることもある。

 それを、ユウリは三枝コウヤの件で少しだけ知ってしまった。

 保護。
 隔離。
 観察。
 記録提出。

 どれも正しい言葉の顔をしている。
 けれど、その正しさの中で、人の名前が別の欄に書き換えられることがある。

 ユウリは空席へ向き直った。

「今は、残さない」

 はっきり言った。

「少なくとも、本人が嫌だって言ってる間は」

 空席から、かすかな息の音がした。

 それが安堵なのか、恐怖なのか、ユウリには分からなかった。

 レンは何も言わなかった。

 けれど、スマホの画面を閉じた。
 机の上に、伏せて置く。
 指先だけが、まだ少し震えている。

「……分かった」

 レンは言った。

「今は、残さない」

 ミオがほっとしたように息をついた。

 その瞬間だった。

 カウンターの奥で、レシートプリンターが動き出した。

 ジジ。

 白い紙が吐き出される。

 マスターが手を伸ばすより早く、また一枚。

 ジジ。
 ジジ。
 ジジ。

 プリンターは止まらなかった。

 静かな店内に、紙を焼くような小さな印字音が連続する。
 カウンターの上に、白いレシートが次々と落ちていく。

 マスターの表情から、初めて笑みが薄れた。

 ユウリは立ち上がった。

 レンも、ミオも同時に振り向く。

 吐き出されたレシートには、すべて同じ文字が印字されていた。

本日の客:

 空欄。

 また一枚。

本日の客:

 空欄。

 また一枚。

本日の客:

 空欄。

 また一枚。

本日の客:

 空欄。

 名前のないレシートが、白い舌のように吐き出され続ける。

 空席のカップが、小さく震えた。
 中の透明な飲み物に、波紋が広がる。

 ミオが両手で耳を押さえた。

「呼んでる……」

「誰が?」

「外。外から、呼んでる。でも名前がないから、呼べなくて……だから、欄だけ増やしてる」

 アヴィの画面に警告が走る。

《外部索引反応》
《対象照合中》
《対象照合中》
《対象照合中》
《未登録存在を検索しています》

 レンが顔を青ざめさせる。

「これ、まさか……今の会話で反応したのか」

『違う』

 アヴィが短く言った。

『最初から探してた。店の中に入れなかっただけだ。今、空欄を手がかりにし始めた』

 レシートプリンターが、ひときわ強く音を立てた。

 ジジジ、と長く紙が吐き出される。

 最後の一枚。

 それだけ、印字の黒が濃かった。

 ユウリは、息を止めてその紙を見た。

本日の客:回収対象

 空席の向こうで、見えない誰かが、声にならない悲鳴を上げた気がした。

第3節 ― 名前を戻すとは限らない

 回収対象。

 その四文字が印字された瞬間、カフェ《ノーネーム》の空気が変わった。

 それまで店内に満ちていた琥珀色の灯りが、少しだけ白く冷えたように見えた。ランプの光は変わっていない。カウンターの奥で湯気を上げるコーヒーサーバーも、壁際の本棚も、窓辺の古い鉢植えも、何ひとつ動いていない。

 けれど、店の外側から、何かが近づいている。

 ユウリは、そう感じた。

 それは足音ではなかった。
 人の気配でもない。
 もっと無機質で、冷たく、角ばったもの。

 スマホの通知音が、店内のあちこちで一斉に鳴った。

 窓際の女性が、驚いて自分のスマホを見る。
 新聞の老人も、胸ポケットから古い端末を取り出す。
 奥の席の学生風の人物は、眠たげだった目を見開いた。

 けれど、誰の画面にも、はっきりした通知は出ていないようだった。
 画面は一瞬だけ白く光り、すぐに元の待ち受けへ戻る。
 何かが届いたはずなのに、届いた事実だけが消されている。

 ユウリのスマホだけは、違った。

 AVISの画面が勝手に立ち上がる。

 青白い円環が高速で回転し、今までよりも強い警告音が短く鳴った。

《未登録存在を検出》
《管理機構索引との照合開始》
《白環管理区域:外部監査ログ反応》
《分類候補:保護対象/隔離対象/削除候補》
《危険度評価:保留》
《現在名:未検出》

 文字列は、冷たい。

 保護対象。
 隔離対象。
 削除候補。

 それらは、どれも人間に向ける言葉のようで、人間に向けるべきではない言葉だった。

 ユウリは、奥歯を噛んだ。

 空席のカップが、小さく震えている。透明な飲み物の表面に、細かな波紋が何度も広がっていた。テーブルの向こうにいるはずの誰かが、息を殺しているのが分かる。

 見えない。

 けれど、怯えている。

「まずい」

 アヴィ=シグルの声が、画面の中で低く響いた。

 小さな相棒の顔から、いつもの皮肉が消えている。

「名前はないのに、危険度だけが登録されかけてる」

「危険度だけ?」

 ユウリは聞き返した。

「そうだ。対象名が空欄のまま、存在反応と構文濃度だけを拾われてる。名前がないから追跡不能、じゃない。名前がない異常存在として扱われ始めてる」

 レンが、真っ青な顔でカウンターのレシートを見ていた。

「名前がないから、余計に危険判定されるのかよ」

「管理側から見れば、正体不明の構文反応だからな。人間かどうかも判定できない。保護するか、隔離するか、消すか。あいつらは、その三択に落とし込もうとしてる」

 アヴィの声が、かすかに苛立つ。

「分類できないものを、分類できないまま置いておくのが下手なんだ」

 ユウリは、レシートの文字を見た。

 回収対象。

 その言葉が、カフェの中にあるはずの温度を奪っていく。

 空席の向こうから、細い声がした。

「……いや」

 さっきよりも、はっきり聞こえた。

 けれど、聞いた直後から輪郭が薄れる。
 声質も、年齢も、性別も定まらない。
 ただ、怯えだけが残る。

「いや。連れていかれたくない」

 カップが震える。

「名前を戻したら、見つかる。戻さなくても、見つかる。じゃあ、どうすればいいの」

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 自分自身に向けた問い。
 店の空気に投げ出された、行き場のない声。

 ユウリは立ち上がりかけて、動けなかった。

 本名を取り戻す。

 それが、いつもなら正解に見えた。
 名前を失った人に名前を返す。
 誰にも覚えられない人を、もう一度この世界へつなぎ直す。

 でも今、それをすれば、この人は外側から捕捉される。

 管理機構に見つかる。
 役割索引に見つかる。
 あるいは、本人が言っていた「名前を探しているもの」に見つかる。

 では、名前がないままにするのか。

 そうすれば、今度は誰にも覚えてもらえない。
 ここに来ても、帰れば忘れられる。
 話しても、声が残らない。
 席に座っても、レシートは空欄のまま。

 助かるために、誰にも呼ばれないまま生きる。

 それが救いだとは、ユウリにはどうしても思えなかった。

 でも、呼ぶことが暴力になるなら。

 名づけることが檻になるなら。

 何をすればいい。

 店の外で、また何かが鳴った。

 電波ノイズのような、遠くの踏切の警報音のような、あるいはサーバー室の低い駆動音のような音。窓の曇り硝子が、わずかに白く滲む。外の路地には誰もいないはずなのに、ガラスの向こうに四角い光がいくつも走った。

 白環管理区域。

 神狭市南部にある、白い施設群。
 管理機構の影が濃い場所。
 記録、監視、補正、隔離。

 その方向から、見えない糸が伸びてきているようだった。

 レンが窓に近づきかける。

「外、確認してくる」

「だめ」

 ミオが即座に言った。

 普段のミオからは考えられないほど、強い声だった。

 レンが足を止める。

「なんで」

「外から見られる」

 ミオは、両手で自分の腕を抱いていた。

「今、店の外に出たら、レンも一緒に引っかかる。たぶん、ログを持ってる人として」

 レンの顔がこわばった。

 自分がさっき撮ろうとしたこと。
 記録しようとしたこと。
 それが、今になって重みを持って戻ってきたのだと、ユウリにも分かった。

 レンは何か言おうとして、結局、言わなかった。

 その時、カウンターの奥から、静かな陶器の音がした。

 ことり。

 老紳士のマスターが、ユウリたちのいるテーブルへ歩いてきた。

 手には、湯気の立つコーヒーカップがひとつ。

 この状況で、あまりにも場違いに見えるほど、いつも通りの所作だった。背筋はまっすぐで、歩く音はほとんどしない。皺の刻まれた手は、震えも迷いもなくカップを運んでいる。

 マスターは、ユウリの前ではなく、空席のテーブルの少し端にそのカップを置いた。

 さっきの透明な飲み物とは別に、深い色のコーヒーが湯気を立てる。

「サービスでございます」

 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 けれど、その声に、空席の向こうの気配がわずかに揺れた。

 ユウリはマスターを見上げる。

「今、それどころじゃないんですけど」

「それどころ、とは何を指すのでございましょう」

 マスターは穏やかに言った。

「外部からの監査か、空欄のお客様か、それとも、あなたが今選ぼうとしている答えのことでございますか」

 ユウリは言葉に詰まった。

 この人は、いつもそうだ。

 何も知らないふりをしている。
 ただの喫茶店のマスターの顔をしている。
 けれど、問いの置き方だけが、妙に深いところへ届いてくる。

「……知ってたんですか」

 ユウリは聞いた。

「何をでございましょう」

「この人が、追われてること」

 マスターは少しだけ目を伏せた。

「当店へいらっしゃるお客様には、それぞれ事情がございます」

「答えになってません」

「ええ。答えではございませんので」

 レンが、苛立ったように口を開く。

「あのさ、今そういう問答してる場合じゃ――」

「本名とは」

 マスターは、レンの言葉にかぶせるでもなく、ただ静かに言った。

「必ずしも人を救うものではございません」

 店内が、また少し静かになった。

 ユウリは、マスターの顔を見る。

 老紳士は穏やかに微笑んでいる。
 けれど、その目は笑っていない。
 冷たいわけではない。
 怖いわけでもない。
 ただ、長い時間を知っている目だった。

 たくさんの名前が呼ばれ、忘れられ、書き換えられ、奪われるところを見てきたような目。

「本名があれば、人は探されます。記されます。証明されます。愛されることもございましょう。守られることもある」

 マスターは、空席のカップから立つ湯気を見た。

「ですが、縛られることもございます。追われることもございます。分類され、役割を与えられ、その名でしか生きられなくなることも」

 ユウリの胸の奥が痛んだ。

 星宮ミオ。
 理触者ミオ。
 女神の器。
 現在名。
 照応候補、過多。

 同じ人を指す言葉なのに、呼び方ひとつで、その人の扱われ方が変わる。

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 ユウリは、思わず聞いた。

「名前を戻したら見つかる。戻さなかったら、誰にも覚えてもらえない。どっちも、救いには見えない」

 マスターは、すぐには答えなかった。

 コーヒーの湯気が、ゆっくり薄れていく。

 窓の外では、白いノイズがさらに強まっている。
 AVISの警告は止まらない。

《管理機構索引との照合継続》
《分類候補:保護対象》
《分類候補:隔離対象》
《分類候補:削除候補》
《対象名:未検出》
《対象名:未検出》

 その画面の光が、ユウリの手元を青白く照らしていた。

 マスターは、ようやく言った。

「わたくしが答えを申し上げたなら、それはあなたの選択ではなくなります」

「こんな時に、選択とか」

「こんな時だからこそ、でございます」

 マスターの声は、柔らかい。

「誰かに正解を渡されれば、人はその正解に従えます。従えば、迷わずに済む。責任も少し軽くなる。ですが、あなたは先ほど、そちらのお客様におっしゃいましたな」

 ユウリは、息を止める。

「話したくなかったら、話さなくていい、と」

 マスターの視線が、空席へ向く。

「ならば、次に問うべきことも、あなたが決めるのではございません」

 その言葉は、ユウリの中にゆっくり沈んだ。

 名前を戻す。
 管理機構に渡す。
 断絶する。
 ログを公開する。

 どれも、こちら側の選択だ。

 助ける側が、相手をどう扱うか決める選択。

 けれど、この人はまだ、何も選ばせてもらっていない。

 役割を受け入れるか、拒否するか。
 その二択を突きつけられ、拒否したら追われた。
 名前を呼ばれるか、忘れられるか。
 その二択に追い込まれて、今ここにいる。

 ならば、ユウリがするべきことは、新しい答えを押しつけることではない。

 選べる余地を作ること。

 どちらかではない場所を、少しだけ開けること。

 ミオが、静かに空席へ近づいた。

 ユウリは振り向く。

「ミオ?」

「大丈夫」

 ミオは、かすかに微笑んだ。

 けれど、その顔色はまだ白い。彼女自身も、さっきから何かに触れ続けているのだろう。名なし客の感情なのか、自分の中の理の水面なのか、あるいはその両方か。

 ミオは、ユウリが座っていた席の少し後ろに立った。近づきすぎない。けれど、離れすぎもしない。

 彼女は、空席に向かって言った。

「私も、別の名前で呼ばれそうになることがある」

 白いカップの湯気が揺れた。

 名なし客が、ミオを見たのだと分かった。

 ミオの声は、静かだった。

「私の名前は、星宮ミオ。でも、そうじゃない名前で見られることがある。女神とか、器とか、照応候補とか。たぶん、これからもっと増える」

 ユウリは胸が詰まった。

 ミオが、自分でそれを言うのを聞くのは、思っていたより苦しかった。

 ミオは、少しだけ自分の胸元を押さえる。

「そういう名前で呼ばれると、私が私じゃなくなる気がする。みんなが見ているものが、私の顔じゃなくなっていくみたいで、少し怖い」

 空席の気配が、微かに震える。

「でも」

 ミオは、ユウリを見た。

「ユウリが呼ぶと、戻ってこられる。星宮ミオって。そう呼ばれると、私は私だったって思い出せる」

 ユウリは何も言えなかった。

 それは、自分がしていたことの意味を、ミオ本人から渡されたような感覚だった。

 ただ名前を呼んでいただけ。
 でも、それが彼女をこの場所に留めるものになっていた。

 ミオは、また空席へ視線を戻した。

「だから……本当の名前じゃなくても、戻ってこられる呼び方があればいいのかもしれない」

 店内の空気が、ほんの少しだけ温かさを取り戻した気がした。

 外のノイズはまだ消えない。
 AVISの警告も続いている。
 管理機構の索引は、今もこの場所を探っている。

 けれど、空席の向こうから伝わる怯えに、別の感情が混ざった。

 迷い。

 それから、ほんのわずかな期待。

 ユウリは、ゆっくり空席へ向き直った。

 今度は、迷わなかった。

「本当の名前じゃなくていいです」

 声が震えないように、でも強くなりすぎないように、ユウリは言った。

「今、呼ばれてもいい名前はありますか」

 空席は、長く黙った。

 長い沈黙だった。

 外のノイズがまた一段強まる。
 レシートプリンターが、短く呻くような音を立てる。
 カウンターの上の「回収対象」と印字された紙が、風もないのにわずかに動いた。

 レンはじっと拳を握っていた。
 スマホには触れない。
 けれど、目はずっと空席に向けられている。

 ミオは、祈るように両手を重ねていた。
 アヴィは画面の中で、何かを解析し続けている。
 マスターは、カウンターの奥で静かに見守っている。

 誰も答えを急かさなかった。

 名なし客の視線が、ゆっくり動いた気がした。

 白いカップから、本棚へ。

 ユウリも、その視線を追った。

 本棚の中段に、古い本が一冊、少しだけ開いたまま差し込まれている。背表紙の文字は消えかけていて、題名は読めない。ページのあいだには、細長い紙片が挟まれていた。

 栞だった。

 薄い生成り色の紙。
 角は少し丸まり、紐の部分は褪せた青。
 そこには何の文字も書かれていない。

 ただ、ページの途中を示すためだけに、そこにあった。

「……栞」

 声が言った。

 小さく。

 けれど、今度は消えなかった。

 ユウリは、その音を聞いた。

 しおり。

 それは、本名ではない。
 真名でもない。
 誰かが登録した名前でも、システムが割り当てた役割でもない。

 ページの途中に置かれる目印。
 読み終わっていない物語へ、また戻ってくるためのしるし。

 ユウリは、ゆっくり聞き返した。

「栞さん?」

 その瞬間、空席の向こうの輪郭が、ほんの少しだけ結ばれた。

 顔はまだ見えない。
 年齢も、性別も、服装も、はっきりしない。
 でも、そこに座っている誰かが、ほんのわずかに肩の力を抜いたのが分かった。

 カウンターの上で、レシートが一枚、光を帯びる。

 それまで空欄だった紙の上に、黒い文字がじわりと浮かんだ。

本日の客:栞

 店内の誰もが、その文字を見た。

 新聞の老人が目を細める。
 窓際の女性が、思わずノートに手を伸ばしかけ、途中で止める。
 レンが息を呑む。
 ミオが、静かに微笑む。

 ユウリのスマホが震えた。

 AVISの画面に、新しい表示が走る。

《現在名を検出》
《真名ではありません》
《仮名ではありません》
《本人許諾済み呼称》
《現在名:栞》
《呼称固定:一時成功》
《外部索引照合:停止》

 アヴィが、ぽかんとした顔をした。

「……止まった」

 レンが、窓の外を見る。

 白いノイズが薄れていく。
 曇り硝子の向こうに走っていた四角い光が、すっと消える。
 外の路地が、普通の夕方の暗さを取り戻す。

 レシートプリンターも、沈黙した。

 さっきまで吐き出され続けていた白い紙は、カウンターの上で静かに重なっている。

 その一番上にだけ、名前がある。

 本日の客:栞。

 ユウリは、その文字を見つめた。

 これは、本名ではない。
 この人がどこから来たのかも、何から逃げているのかも、まだ分からない。
 管理機構の照合も、完全に消えたわけではない。
 ただ一時的に止まっただけだ。

 でも、今この瞬間。

 空欄ではなくなった。

 回収対象でもなくなった。

 ここに座っている誰かは、少なくともこの店の中で、ユウリたちの前で、栞さんと呼ばれることを選んだ。

「……栞さん」

 ミオが、もう一度呼んだ。

 空席の向こうで、かすかに声がした。

「はい」

 その返事は、まだ薄かった。

 けれど、今度は確かに残った。

終節 ― 本日の客、栞

 沈黙は、さっきまでの沈黙とは違っていた。

 名前を奪われた空白ではない。
 何かを待つための余白だった。

 カウンターの上で、レシートプリンターはもう動いていない。白い紙の束は、吐き出されたまま重なっている。そこには何枚もの空欄があり、一枚だけ「回収対象」と印字されたものがあり、そして一番上に、さっき生まれたばかりの文字があった。

本日の客:栞

 たったそれだけの文字だった。

 けれど、その文字があるだけで、店内の空気は少し変わっていた。

 窓の外を走っていた白いノイズは消えている。曇り硝子の向こうには、旧北口商店街の夕暮れだけが戻っていた。古い街灯のひとつが、まだ完全には暗くなっていない路地に、薄い黄色の輪を落としている。

 新聞の老人が、何か言いたげにカウンターを見ていた。

「栞……さん、か」

 老人は小さく呟いた。

 その声は、すぐに曖昧になった。
 たぶん、店を出たら忘れてしまうのだろう。

 でも今は、覚えている。

 窓際の女性も、ノートの上にペンを置いたまま、空席の方を見ていた。彼女は何かを書こうとして、しばらく迷い、結局ページを閉じた。

「書かない方がいいことも、あるんですね」

 誰に向けたわけでもない声だった。

 マスターは、静かにうなずいただけだった。

 ユウリは、空席を見た。

 そこには、まだはっきりした人影はない。
 輪郭は淡く、光の角度によっては椅子だけが空っぽに見える。顔も分からない。髪の長さも、服装も、年齢も、性別も、まだ定まらない。

 けれど、さっきよりは確かに、そこにいる。

 白いカップを包む指先のようなものが見えた。
 細く、かすかに震えている。
 それは完全な手ではなく、光と記憶が少しだけ結び直されたような輪郭だった。

「……栞さん」

 ユウリがもう一度呼ぶと、空席の向こうで、小さく息を呑む気配がした。

 返事は、少し遅れて返ってきた。

「はい」

 その声は薄い。
 聞いたそばから輪郭がほどけそうになる。
 それでも、今度は消えなかった。

 ユウリは胸の奥にたまっていた息を、ゆっくり吐いた。

 助かったのだろうか。

 そう問われたら、まだ分からない。

 栞は、本名を取り戻したわけではない。
 役割索引と呼ばれるものから完全に逃げ切れたわけでもない。
 管理機構の索引も、ただ一時的に止まっただけだ。

 店の外へ出れば、きっと多くの人はまた栞を忘れる。
 栞自身も、自分がどんな声で笑っていたのか、どんな顔だったのか、少しずつ分からなくなるのかもしれない。

 それでも。

 この店にいる間は、彼女には席がある。
 呼ばれてもいい名前がある。

 それは、完全な解決ではない。
 でも、何もないよりは、ずっと人間に近い。

 マスターが、カウンターの上のレシートを一枚取った。

 何枚も重なっていた空欄の中から、迷いなく一番上の紙を抜き取る。

本日の客:栞

 その文字を、彼は丁寧に指でなぞった。
 それから、まるで大切な伝票を渡すように、空席のテーブルへ向かう。

 ことり、と小さな音を立てて、レシートが白いカップの横に置かれた。

「こちら、お客様の控えでございます」

 空席の向こうで、指先が揺れた。

 栞は、恐る恐るその紙に触れた。

 最初は、紙の端が少し浮いただけだった。
 次に、淡い指の輪郭が現れた。
 細い指が、感熱紙をそっとつまむ。

 ユウリは、その動きを見ていた。

 たった一枚のレシートを受け取るだけの仕草なのに、栞はひどく慎重だった。
 触れたら消えてしまうのではないか。
 持っていたら誰かに見つかるのではないか。
 それでも手放したくない。

 そんなふうに見えた。

「これ……持っていてもいいんですか」

 栞の声がした。

 マスターは、いつもの穏やかな調子で答える。

「もちろんでございます」

 栞の指が、紙を少し強く握る。

「でも、持ってたら……また見つかるかもしれない」

「その紙は、本名を記したものではございません」

 マスターは言った。

「あなたを縛る記録ではなく、あなたがここへ戻るための目印でございます」

 栞は黙った。

 マスターは、少しだけ目を細める。

「当店では、お客様の忘れ物はお預かりいたしますが」

 そこで一度、静かに言葉を切った。

「お客様自身を、忘れ物にはいたしません」

 栞の指が震えた。

 レシートの端が、かすかに揺れる。

 声は聞こえなかった。
 けれど、泣きそうになっているのだと、ユウリには分かった。

 ミオが、そっと空席に近づいた。

 近づきすぎない。
 怖がらせない距離を保ったまま、彼女は小さく微笑む。

「また会えたら、呼ぶね」

 栞の気配が、ミオの方を向く。

 ミオは、ゆっくり言った。

「栞さんって」

 しばらく、返事はなかった。

 けれど、白いカップの湯気が小さく揺れた。
 栞がうなずいたのだと思った。

「……うん」

 その声は、か細かった。

「また、呼んで」

 ユウリは、その一言を忘れないように、胸の中で繰り返した。

 また、呼んで。

 それは、本名を取り戻したいという願いではない。
 世界に記録されたいという願いでもない。
 ただ、誰かに呼ばれたいという、小さくて切実な願いだった。

 レンは、少し離れた席でスマホを見つめていた。

 画面には、さっき撮ったノイズ画像が残っている。
 人影だったものは、もうほとんど黒と白の砂嵐に変わっていた。それでも、中央に何かが座っていた痕跡だけは残っている。

 レンは、しばらくその画像を見ていた。

 指が削除ボタンの上で止まる。

 ユウリは何も言わなかった。

 ミオも見守っている。

 レンは、ゆっくり息を吐いた。

「……くそ」

 小さく呟いて、削除を押した。

 画面から画像が消える。
 さらに、最近削除した項目からも消す。
 クラウド同期も確認する。
 バックアップに残っていないかまで、妙に丁寧に見ていく。

 それはレンらしかった。

 削除すると決めたら、徹底的にやる。
 半端に残せば、それが危険になると分かっているから。

 最後に、レンはスマホを閉じた。

 そして、カウンターに置かれていた紙ナプキンを一枚取る。

「メモくらいは、いいよな」

 ユウリは少し迷った。

 レンはそれを察したように、言葉を足す。

「名前は書かない。現象も詳しく書かない。俺が忘れないためだけ」

 ユウリは、うなずいた。

「うん」

 レンはペンを借り、紙ナプキンの端に短く書いた。

名前を晒すな。助ける時も。

 それだけだった。

 レンはそれを折りたたんで、自分の財布に入れた。

 どこか照れくさそうに、けれど真剣な顔で。

「忘れそうだから」

「レンが?」

「俺が」

 レンは、苦い顔で笑った。

「たぶん俺、すぐ記録したくなる。証拠残したくなる。誰かに説明できる形にしたくなる。それが必要な時もある。でも、今日みたいな時は違うって、覚えとく」

 ユウリは、少しだけ笑った。

「うん」

「笑うなよ」

「笑ってない」

「笑ってる」

 ミオも、少し笑った。

 その笑いで、ようやく店の空気が本当に戻ってきた気がした。

 重苦しい神話構文の圧力ではなく、古いカフェの夕方。
 コーヒーの香り。
 木の床。
 湯気。
 少し冷めたミルクティー。
 名前のない菓子。

 栞は、レシートを大切そうに持っていた。

 まだ顔は見えない。
 でも、さっきよりは確かに、そこに座っていることが分かる。

 やがて、ユウリたちは席を立った。

 外はもう、夕方から夜へ変わりかけている。
 旧北口商店街の店先には、小さな灯りがぽつぽつと点き始めていた。

 会計を済ませる時、マスターは何も言わず、いつものようにカップを片づけていた。

 ユウリは少し迷ってから、カウンター越しに尋ねた。

「あの人を、この店に置いていたんですか」

 マスターは、手を止めない。

 白い布でカップの縁を拭きながら、穏やかに答える。

「置いていたのではございません」

 ユウリは黙って続きを待った。

「席を空けていただけでございます」

「それ、同じじゃないんですか」

「少し違いますな」

 マスターは、磨き終えたカップを棚へ戻した。

「人を置くとは、居場所を決めること。席を空けるとは、来るかどうかを相手に委ねること」

 ユウリは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。

 確かに、ここには席があった。
 名前を聞かない席。
 誰にも覚えられない人が、それでも座っていられる席。

 でも、それを用意していたのなら、この人は最初から分かっていたのではないか。

 ユウリは少しだけ不満を込めて言った。

「やっぱり、知ってたんですね」

 マスターは、静かに微笑んだ。

「知らないふりをすることにも、作法がございます」

「……ずるいです」

「よく言われます」

「誰にですか」

「覚えておりませんな」

 そう言って、マスターは何食わぬ顔で新しいカップを棚から出した。

 ユウリは、ますます不満そうな顔をした。

 けれど、怒ることはできなかった。

 この人は、助けたのかもしれない。
 見ていただけなのかもしれない。
 ユウリたちが来るのを待っていたのかもしれない。
 それとも、栞が自分で選ぶまで、ただ席を空けていただけなのかもしれない。

 どれも、違う。
 どれも、少し合っている。

 そういう人なのだと思うしかなかった。

 店を出る直前、ユウリのスマホが震えた。

 AVISの画面が開く。

 今度の表示は、警告ではなかった。

《現在名保持:成功》
《対象:栞》
《真名復元:未実行》
《管理索引:一時回避》
《役割索引:再接続保留》
《余白反応:微弱上昇》

 アヴィ=シグルが、画面の端に現れた。

 小さな相棒は、どこか納得がいかないような、けれど少し感心したような顔をしている。

『お前、また変な解決をしたな』

「そう?」

『そうだ。普通は、名前を取り戻すか、対象を隔離するか、構文を切断するか、どれかだ』

「普通はね」

『名前を戻さずに、呼び名だけ置いた。真名でも仮名でもない、本人許諾済みの現在名。……そんな処理、普通はない』

 ユウリは、画面の中のアヴィを見る。

「じゃあ、失敗?」

 アヴィは少し黙った。

 そして、ふいっと目を逸らす。

『悪くない』

「褒めてる?」

『解析結果を述べている』

「分かりにくいなあ」

『分かりやすい神話構文なんて、だいたい罠だ』

 ユウリは少し笑った。

 そして、扉に手をかける。

「普通じゃなくていいよ。たぶん」

 アヴィは、それ以上何も言わなかった。

 カフェの扉を開けると、夜の匂いがした。

 旧北口商店街は、昼間よりもずっと細く見える。閉じたシャッターの前に置かれた植木鉢、古い看板、斜めに伸びた電線、誰もいない路地。街灯の明かりが、乾いた石畳に淡い円を作っている。

 さっきまで店内にあった圧力は、もう外には残っていなかった。

 それでも、ユウリは一度だけ振り返った。

 カフェ《ノーネーム》の白い札が、扉の横で静かに揺れている。
 そこには、やはり何も書かれていない。

 ミオが、隣に並んだ。

「栞さん、また会えるかな」

「会えると思う」

 ユウリは答えた。

「たぶん」

 レンがすぐに言う。

「また、たぶんって言った」

「神狭市で断言する人は信用するなって、アヴィが言ってたし」

「便利に使うなよ、相棒の名言を」

 ミオが小さく笑った。

 その笑いが、夜の商店街に柔らかく溶けた。

 三人は、駅の方へ歩き出す。

 その時だった。

 ユウリは、遠くの街灯の下に誰かが立っているのを見た気がした。

 細い路地の先。
 古い時計店のシャッターの前。
 街灯の輪の外側。

 人影がひとつ。

 管理機構の誰かかもしれない。
 欠落街区に関わる誰かかもしれない。
 ただの通行人かもしれない。

 あるいは、あのマスターの別の顔かもしれない。

 ユウリが目を凝らすと、人影はすっと路地の影へ溶けた。

「ユウリ?」

 ミオが呼ぶ。

「何かいた?」

「……分からない」

 ユウリは、少しだけ足を止めた。

 ポケットの中で、スマホが小さく震えたが、画面は点かなかった。
 AVISも、今回は何も言わない。

 ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残る。

 今日の事件は終わった。
 けれど、神狭市のどこかでは、また別の空欄が開きかけている。

 そういう予感がした。

 三人が路地を抜けた後。

 カフェ《ノーネーム》の店内では、マスターが空席のカップを片づけていた。

 白いカップの横には、もうレシートはない。
 栞が持っていったからだ。

 けれど、カウンターの奥で、レシートプリンターがもう一度だけ動いた。

 ジジ、と短い音。

 マスターは手を止め、ゆっくり振り返る。

 誰も会計していない。
 誰も注文していない。
 それでも、白い紙が一枚、静かに吐き出されていた。

 マスターは、その紙を手に取る。

 印字されていたのは、たった一行。

次回予約:空席

 老紳士のマスターは、それを見て、困ったように、あるいは楽しむように微笑んだ。

「おや」

 そして、誰もいない店内へ向けて、静かに言う。

「また、お席を空けておかねばなりませんな」