Episode 09
第9話 ― 星綴高等学園と空席の出席簿
本文は原文を保持し、表示用に段落と節見出しを整えています。
序節 ― 一つ多い机
翌朝の星綴高等学園は、いつも通りに騒がしかった。
昇降口には、雨も降っていないのに傘を振り回す男子がいて、下駄箱の前では誰かが提出期限のプリントを探して鞄をひっくり返している。廊下の窓は朝の光を受けて白く光り、吹奏楽部の朝練の音が、校舎のどこか遠い場所からかすかに流れていた。
笑い声。
上履きの音。
机を引く音。
スマホの通知音。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
学校という場所は、名前でできているのだと、ユウリはふと思った。
出席番号。
座席表。
ロッカーの札。
テストの答案。
提出物の名簿。
呼ばれれば返事をして、いなければ欠席になる。
当たり前のことだった。
少し前までは、意識したこともなかった。
けれど、昨日のカフェ《ノーネーム》で、空欄のレシートを見た後では、その当たり前が少しだけ違って見える。
名前があること。
呼ばれること。
記録されること。
覚えられること。
それらは、ただ便利な仕組みではない。
人が世界の中に座っているための、細い糸のようなものなのかもしれなかった。
「ユウリ、靴箱の前で哲学するな。詰まってる」
後ろからレンに言われ、ユウリは我に返った。
「あ、ごめん」
「朝から顔が重いぞ。カフェイン足りてないんじゃないか?」
「昨日、飲んだだろ」
「昨日の分は昨日の分。今日の分は今日の分」
「それ、ただ飲みたいだけだよね」
レンは軽く肩をすくめる。
いつも通りの調子に聞こえる。
けれど、ユウリには少しだけ分かった。
レンは昨日から、いつもよりスマホを見る回数が減っている。
手持ち無沙汰になると、無意識にポケットへ指を伸ばす。けれど、すぐに手を止める。何かを検索したい。記録したい。確認したい。でも、昨日の紙ナプキンの言葉が、その指を一度止めている。
名前を晒すな。助ける時も。
レンが自分で書いたメモだ。
あれを財布に入れる時のレンの顔を、ユウリはまだ覚えていた。
「栞さん、今日も来るかな」
隣を歩いていたミオが、小さく言った。
彼女は下駄箱から上履きを出し、少しだけ視線を落としている。
その声は、ただ昨日のことを思い出しているだけではなかった。どこか、自分自身のことを確かめるようでもあった。
「カフェに?」
ユウリが聞くと、ミオはうなずいた。
「うん。あのレシート、持ってたよね。ちゃんと戻ってこられるかなって」
「戻ってこられると思う」
ユウリは答えた。
自信があるわけではない。
ただ、そうであってほしいと思った。
ミオは少しだけ笑う。
「ユウリ、昨日から“たぶん”を言わなくなったね」
「あ」
「今のは、いいと思う」
そう言って、ミオは先に廊下へ歩き出した。
朝の光の中で、彼女の横顔は普通の高校生に見えた。制服の袖、少し揺れる髪、鞄についた小さな星形のキーホルダー。けれど、その普通さを守ることが、今のユウリにはひどく大事に思えた。
星宮ミオ。
ユウリは、心の中でその名前をもう一度呼ぶ。
女神でも、器でも、理触者でもなく。
今、廊下を歩いている一人の少女の名前として。
教室へ入ると、いつもの朝のざわめきがあった。
窓際では女子たちが昨日の配信番組の話をしている。前の席では男子が小テストの範囲をめぐって騒いでいる。黒板には、日直が途中まで書いた日付と連絡事項があり、チョークの粉が朝日にきらきら浮いていた。
机の配置も、見慣れたものだった。
前から何列目。
窓際から何番目。
ユウリの席。
レンの席。
ミオの席。
当たり前の教室。
そのはずだった。
ユウリは、自分の席に鞄を置きかけて、ふと手を止めた。
何かが違う。
すぐには分からなかった。
黒板も同じ。
窓も同じ。
カーテンの端が少しほつれているのも同じ。
後ろの掲示板に貼られた進路希望調査の紙も、昨日と変わらない。
けれど、教室の奥行きが、ほんの少しだけ広い。
そんな気がした。
「……なあ」
隣でレンも同じように立ち止まっていた。
彼は鞄を肩にかけたまま、教室の後方を見ている。
「ユウリ。あそこ、前から机あったか?」
ユウリは、レンの視線を追った。
窓際。
後ろから二番目。
そこに、机が一つあった。
誰も座っていない机。
椅子はきちんと収められている。机の上には何もない。落書きもない。教科書もない。鞄もない。けれど、そこにだけ朝の光が少し強く当たっていて、天板の木目が妙に白く浮かんで見えた。
空席。
ただの空席だ。
そう思おうとした瞬間、ユウリの喉が少し乾いた。
教室に空席があること自体は珍しくない。欠席者がいれば空くし、掃除の後に机の位置がずれることもある。転校生用に余分な机を出しておくことだって、あるかもしれない。
けれど、その机は、最初からそこにあるような顔をしていた。
誰かが今朝運び込んだのではない。
教室が作られた時から、そこだけ空いていたような自然さで、そこにある。
「……分からない」
ユウリは正直に言った。
「昨日、あった?」
「なかった、と思う。いや、なかったよな。俺、後ろの席のやつにプリント借りた時、あのへん通ったし」
「じゃあ、誰か欠席?」
「欠席なら席は元からあるだろ。そうじゃなくて、机の数が……」
レンは途中で言葉を止めた。
数え始めたのだ。
机の数。
クラスの人数。
座っている生徒。
空いている席。
レンの眉間にしわが寄る。
「合わない」
「どう合わない?」
「机が一つ多い。たぶん。でも人数を数えると、合ってる気もする」
「どっちだよ」
「それが気持ち悪いんだよ。数え直すたびに、頭の中で勝手に補正される」
レンは自分の額を軽く叩いた。
「待て。これ、昨日のレシートと同じ系統じゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間、ユウリのポケットの中でスマホが震えた。
AVIS。
画面を開く前に、嫌な予感がした。
青白い円環が立ち上がる。
アヴィ=シグルが、眠そうな顔を出しかけ、教室の奥を見た瞬間に表情を変えた。
『……朝から何だよ』
「こっちが聞きたい」
ユウリは小声で答える。
画面に文字が走った。
《微弱神話構文反応》
《識別対象:空席》
《分類:未着席/未登録/未観測》
《対象名:なし》
《出席状態:保留》
《警告:視線固定を避けてください》
ユウリは、思わず目を逸らした。
「視線固定を避けろって」
レンもスマホを覗き込み、顔をしかめる。
「見るなってことか?」
『正確には、見続けるな、だな』
アヴィが言った。
『対象が“見られること”で輪郭を得るタイプの反応だ。観測されるほど、そこにある理由を作り始める』
「机なのに?」
『机とは限らない。今は机として見えてるだけだ』
その言い方に、ユウリは背中が少し冷えるのを感じた。
机として見えているだけ。
つまり、本当は別の何かかもしれない。
あるいは、まだ何にもなっていないのかもしれない。
ミオは、教室の入口に立ったまま、その空席を見ていた。
さっきまでの柔らかい表情が消えている。
目を凝らしているわけではない。むしろ、見たくないものを見てしまったような顔だった。
「ミオ」
ユウリが呼ぶ。
ミオは少し遅れて振り向いた。
「……あの席」
「何か感じる?」
「誰か、待ってる」
ミオは、ぽつりと言った。
「でも、誰を待ってるのか分からない。待ってるっていうより、空いていることが怖いみたい」
「空いていることが?」
ミオはうなずく。
「うん。ずっと空いていると、自分が何のためにあるのか分からなくなるから」
ユウリは、もう一度空席を見そうになり、慌てて視線を落とした。
見続けるな。
そう言われると、余計に気になる。
教室の中では、ほかの生徒たちが相変わらず普通に過ごしている。誰もその机を気にしていない。空席のすぐ近くで友人と話している生徒もいるのに、まるでそこだけ目に入っていないようだった。
いや、目に入っているのかもしれない。
入っているけれど、疑問に思わない。
それが一番気味悪かった。
「なあ、あそこって誰の席?」
レンが近くの男子に聞いた。
男子は振り向き、空席の方をちらりと見る。
「あそこ? 誰のって……」
彼は少し首を傾げた。
「転校生用じゃね?」
「転校生来るの?」
「知らね」
「じゃあ、なんで転校生用って思ったんだよ」
「え、だって……そういう席っぽくない?」
男子は自分で言いながら、少し困った顔をした。
別の女子にも聞いてみる。
「あの席? 前からなかったっけ」
「なかったと思う」
「そうだっけ。なんか、ずっと空いてる気がするけど」
「誰か休んでるんじゃない?」
「うちのクラス、今日欠席いる?」
「えっと……分かんない。何人だっけ、うち」
会話が、そこで曖昧にほどける。
誰もはっきり答えない。
けれど、誰も本気で不安がらない。
それは、記憶が抜けているというより、疑問を持つ手前で思考が丸め込まれているようだった。
昨日の栞は、誰にも覚えられなかった。
今日の空席は、誰にも不審がられない。
似ているようで、違う。
ユウリは、そう感じた。
やがてチャイムが鳴った。
朝のホームルームの時間。
生徒たちが慌ただしく席へ戻る。椅子が引かれ、机が鳴り、教室の空気が授業前の形へ整っていく。
空席は、やはり空いたままだった。
誰も座らない。
誰もそこが空いていることを気にしない。
担任が出席簿を持って入ってきた。
「はい、席つけ。朝から騒がしいぞ」
いつもの声。
いつもの足取り。
いつもの出席簿。
ユウリは、自分の席に座りながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
担任は黒板の前に立ち、出席簿を開く。
「じゃあ、出席取るぞ」
名前が呼ばれ始める。
一人目。
返事。
二人目。
返事。
三人目。
少し眠そうな声。
四人目。
欠席ではなく、遅刻気味に手を上げる声。
いつもの朝。
名前を呼ばれ、返事をする。
いることを確認される。
ユウリは、その単純なやり取りに妙な緊張を覚えていた。
名前は、呼ばれることで席に結びつく。
もし、呼ばれない名前があったら。
もし、名前のない席だけがあったら。
出席簿のページをめくる音がした。
担任の声が、途中で止まった。
「……」
ほんの一瞬。
けれど、ユウリにははっきり分かった。
担任が、何かの名前を読もうとして、読めなかった。
教室の空気が、薄く波打つ。
誰も気づいていないようで、数人がなんとなく顔を上げた。
ミオは机の上で指を握りしめている。
レンは口元だけを動かして、何かを数えている。
ユウリのスマホは、膝の上で微かに震え続けていた。
担任は眉をひそめ、出席簿を見下ろす。
「……ん?」
小さな声。
それから、何かをごまかすように咳払いをした。
「次、天瀬」
「はい」
ユウリは返事をした。
自分の名前が呼ばれた瞬間、少しだけ体が戻ってくる感覚があった。
出席簿に自分の名前があり、それを教師が読み、自分が返事をする。
ただそれだけで、自分がこの教室に座っていることが確かになる。
そのことが、少し怖かった。
名前を呼ばれない席は、どうなるのだろう。
担任はそのまま出席を取り続けた。
ミオの名前も呼ばれる。
「星宮」
「はい」
ミオの返事は、ほんの少しだけ遅れた。
ユウリは思わず振り向く。
ミオは大丈夫、というように小さくうなずいた。けれど、その顔色はよくない。
出席が終わり、担任が連絡事項へ移る。
文化祭準備の予定。
進路希望調査の再提出。
保健室からの注意。
どれも普通の連絡だった。
ただ、担任の指先が、ずっと出席簿の同じ位置を押さえていた。
まるで、そこにある空欄が勝手に開かないようにしているみたいに。
ユウリは、教室の後方へ視線を向けそうになった。
その瞬間だった。
「見るな」
低い声がした。
ユウリは反射的に振り向く。
教室の後ろ側。
窓とは反対の列。
玻璃川トウマが、机に肘をついたまま、こちらを見ていた。
黒に近い髪。
白い肌。
いつも少し眠たげにも、不機嫌にも見える目。
教室の中にいながら、どこか一人だけ温度が低い。
トウマは、空席を見ていなかった。
見ないようにしているのだと、ユウリには分かった。
「トウマ?」
レンが小声で言う。
トウマは、レンには答えなかった。
ユウリだけを見る。
「見ていると、座らせられる」
その言葉に、ユウリの背筋が凍った。
「座らせられるって、誰が」
「知らない」
トウマは短く言った。
「でも、空いてる席っていうのは、たいてい誰かを待ってる。待ってるものに、むやみに目を合わせるな」
ミオが、少しだけ息を呑んだ。
トウマの視線が、一瞬だけミオへ動く。
その目に、奇妙な感情が浮かんだ。
警戒。
苛立ち。
それから、ほんのわずかな痛み。
けれど、トウマはすぐに顔を背けた。
「特に、名前が不安定なやつは」
ミオの肩が、かすかに揺れる。
ユウリは思わず言った。
「ミオは不安定なやつじゃない」
声が少し強くなった。
トウマは、冷めた目でユウリを見る。
「じゃあ、守れよ」
それだけ言って、前を向いた。
ユウリは言葉を失った。
怒りたいのに、怒れなかった。
トウマの言い方は冷たい。
でも、その言葉の中には、ただ突き放すだけではない何かがあった。
守れよ。
それは、挑発のようでもあり、忠告のようでもあった。
ホームルームが終わるチャイムが鳴る。
担任が出席簿を閉じ、教室を出ていく。
生徒たちはすぐにざわめきを取り戻した。
その瞬間、ユウリのAVISが一段強く震えた。
画面に、新しい表示が出る。
《出席簿変動を検出》
《空欄行:活性化》
《対象:空席》
《出席状態:保留》
《記入待機中》
ユウリは、教卓の上を見た。
担任が置き忘れたのか、出席簿がまだそこにあった。
いや、さっき担任は持って出ていったはずだ。
なのに、そこにある。
黒い表紙の出席簿。
少し開いたページ。
誰も触れていないのに、紙が一枚、ふわりとめくれた。
ユウリは立ち上がる。
「ユウリ」
ミオが呼ぶ。
「見るだけ」
そう言って、ユウリは教卓へ近づいた。
レンも後ろからついてくる。
トウマは動かない。けれど、こちらを見ている気配だけはあった。
出席簿のページには、クラスの名前が並んでいる。
天瀬ユウリ。
久遠レン。
星宮ミオ。
ほかの生徒たちの名前。
そして、その途中。
一行だけ、名前の欄が空白になっていた。
空欄。
けれど、欠席欄でも備考欄でもない。
まるで、誰かの名前が入るために、最初からそこだけ空けられていたような一行。
ユウリが見つめていると、その空欄の横に、薄く文字が浮かんだ。
出席の印。
黒いインクではない。
紙の奥から滲み出すような、淡い灰色の一文字。
在
ユウリの喉が、かすかに鳴った。
いる。
名前はない。
でも、いる。
教室の後ろで、椅子が小さく軋んだ。
誰も座っていないはずの空席から、音がした。
ユウリは振り向きそうになった。
その直前、トウマの声が鋭く飛んだ。
「見るなって言っただろ」
ユウリは、息を止めた。
教室のざわめきの中で、空席だけが、確かに誰かを待っていた。
第1節 ― 出席番号、空欄
休み時間になると、教室はすぐにいつもの音を取り戻した。
椅子を引く音。
机の横をすり抜ける足音。
誰かが購買のパンを予約していたかどうかで騒ぐ声。
次の授業の小テスト範囲を確認する声。
スマホを見ながら笑う声。
ホームルームの間に教室を覆っていた、あの薄い膜のような緊張は、チャイムと同時にほどけたように見えた。
けれど、ユウリには戻っていなかった。
担任が置いていったはずの出席簿は、いつの間にか教卓から消えていた。持って出たのか、最初からそこになかったのか、もう分からない。ただ、ユウリの目には、さっき空欄の横に浮かんだ一文字が焼きついている。
在。
いる。
名前はないのに、出席している。
それは昨日の栞とは違う不気味さだった。栞には、薄くても声があった。怖がっていた。逃げていた。こちらの問いに、答えようとしてくれた。
けれど、あの空席には声がない。
待っているという気配だけがある。
「……なあ、本気で数えるぞ」
レンが、机の端に腰を預けながら低く言った。
「数えるって?」
「人数。机。椅子。出席番号。こういうのは、まず物理からだ」
いつものレンなら、すぐにスマホを構え、写真を撮り、スプレッドシートかメモアプリにでも数値を並べ始めただろう。
でも今朝のレンは、一拍置いた。
ポケットの上からスマホに触れる。
そこで、指が止まる。
昨日、カフェ《ノーネーム》で紙ナプキンに書いた言葉を思い出しているのだと、ユウリには分かった。
名前を晒すな。助ける時も。
レンは一度だけ小さく舌打ちし、スマホではなく、自分の指で机を数え始めた。
「一、二、三……」
声には出さず、口元だけが動く。
ユウリも一緒に数えた。
前列から順に。
黒板側から。
窓際から。
空席を飛ばすか、含めるかで、数が変わる。
含めると、一つ多い。
飛ばすと、なぜか生徒の数と合う。
ユウリは眉をひそめた。
「……変だ」
「変だよな」
レンも同じ顔をしていた。
「机は一つ多い。けど人数を数えると、合ってる気がする。いや、合ってないのに、合ってるって脳が勝手に処理する」
「認識補正?」
「たぶん。前回の栞さんは、対象の個人情報が記録から抜けてた。今回は逆だ。席の方が、クラスの構造に最初からあったみたいに割り込んでる」
レンは、教室の後ろを見ないようにしながら、目だけで周囲を探った。
「おい、佐伯」
近くを通りかかった男子に声をかける。
「うちのクラスって、今何人だっけ」
「え? 何人って……三十……何人?」
「何人だよ」
「いや、急に聞かれると分かんないって。出席番号は三十六までじゃなかった?」
「三十五じゃなかったか?」
「そうだっけ?」
佐伯は首をひねった。
その様子は、ふざけているようには見えなかった。本当に、数字が手の中からこぼれているような顔をしている。
レンは続けて聞く。
「じゃあ、窓際後ろから二番目の席、誰の席?」
「あそこ?」
佐伯は何気なく空席の方を見た。
ユウリは思わず息を止める。
見るな。
トウマの声が頭をよぎった。
けれど佐伯は、何も異変を感じていないようだった。
「あれ? 前からなかったっけ」
「なかったと思う」
「そうだっけ。転校生用じゃない?」
「転校生、来るの?」
「知らね」
「知らないのに、なんで転校生用って言ったんだよ」
「いや……なんか、そういう感じするじゃん」
佐伯は自分の答えに納得できないような顔をした。けれど、それ以上考えるのをやめたように肩をすくめる。
「ていうか、次の小テストの範囲知らない? そっちの方が怖いんだけど」
そう言って、彼は別の友人の方へ行ってしまった。
レンは苦い顔をした。
「だめだ。疑問が持続しない」
ミオは、自分の席に座ったまま、空席の方を見ないようにしていた。けれど、見ないことで逆にそこを意識しているのが分かる。机の上で両手を重ね、指先だけを小さく動かしている。
ユウリはそっと声をかけた。
「ミオ、大丈夫?」
「うん」
返事はすぐに返ってきた。
それだけで、ユウリは少し安心する。
ミオは自分の手元を見たまま言った。
「あの席、悪いものって感じはしない」
「悪くないの?」
「うん。でも、怖い」
ミオは言葉を探すように目を伏せた。
「泣いている子どもが、誰かの袖を掴んでるみたい。悪気はないけど、掴まれた方は動けなくなる」
ユウリは空席を見そうになって、目を伏せた。
泣いている子ども。
その比喩が、妙に嫌だった。
悪意があるなら、戦えばいい。
危険なら、遠ざければいい。
けれど、寂しがっているだけなら。
待っているだけなら。
それをどう扱えばいいのか。
「ちょっと、女子にも聞いてみる」
レンが言って、近くの女子グループに声をかけた。
「あのさ、窓際の空いてる席って、誰の?」
「え、誰のって……」
一人が振り返る。
もう一人も釣られて見る。
「誰か休んでるんじゃなかった?」
「今日、欠席いたっけ?」
「いないんじゃない?」
「じゃあ、あの席なんなの?」
「えー、知らない。予備?」
「でも予備の席って、あそこに置く?」
「さあ……っていうか、うちのクラスって何人だっけ」
同じところに戻る。
人数が分からない。
席の由来が分からない。
なのに、それをおかしいと思い続けられない。
教室の中で、空席だけが、自然な顔をして不自然を押し通している。
レンは戻ってくると、小さく息を吐いた。
「全員、曖昧。しかも曖昧なことに危機感がない」
「トウマは?」
ユウリは、教室の後ろ側をちらりと見た。
玻璃川トウマは、自分の席で文庫本を開いていた。黒いカバーがかかった本で、タイトルは見えない。彼はページを読んでいるように見えるが、視線は文字の上に落ちていない。
見ないようにしている。
空席も、ユウリたちも、教室のざわめきも。
全部まとめて距離を置いているようで、それでも耳だけは明らかにこちらを向いている。
「完全に無関係って顔してるな」
レンが言う。
「でも、さっき警告してくれた」
「警告だけして放置するタイプだろ、あれ」
レンの言い方は少し雑だったが、ユウリには否定しきれなかった。
トウマは助けるために近づいてくる人間ではない。
でも、知らないふりをして本当に無視できる人間でもない。
その距離感が、ユウリにはまだ掴めない。
「……一枚だけ撮る」
レンが低く言った。
ユウリは彼を見る。
「レン」
「分かってる。拡散しない。クラウドにも上げない。位置情報も切る。顔が入らない角度にする。空席そのものじゃなくて、座席表だけ」
「座席表?」
「黒板の端に貼ってあるやつ。あれなら個人名は映るけど、もうクラスに公開されてるものだし、空席の位置だけ確認できる。あとで歪みが出るか見る」
ユウリは迷った。
昨日なら、レンはここまで説明しなかったと思う。
撮ってから考えたはずだ。
今は違う。
撮る前に、自分で危険を言葉にしている。
記録することが何を固定するのか、それを考えようとしている。
その変化を、ユウリは見た。
「……分かった。でも、変な反応が出たらすぐ消して」
「分かってる」
レンはスマホを取り出し、設定を確認した。クラウド同期を切り、位置情報を切り、余計な自動保存機能も閉じる。その手つきは速いが、いつもより慎重だった。
黒板横の座席表へスマホを向ける。
画面に、クラスの座席配置が映る。
名前が並んでいる。
ユウリの名前。
ミオの名前。
レンの名前。
ほかのクラスメイトたちの名前。
そして、窓際後ろから二番目。
そこだけ、名前欄がない。
空白の四角。
レンが写真を撮る。
次の瞬間、スマホ画面が白く乱れた。
「うわ」
レンが思わず声を漏らす。
ユウリが覗き込む。
撮影された画像には、座席表が映っていた。
けれど、空席の部分だけが白いノイズに覆われている。
紙の上に印刷された空欄ではない。
画像データの中で、そこだけ雪のような粒子が渦巻いている。
そのノイズは、見ている間にも少しずつ形を変えた。
四角くなり、丸くなり、椅子の背もたれのようになり、またただの白い乱れへ戻る。
「これ、昨日と似てるけど違うな」
レンが呟く。
「昨日は人影がノイズになった。今日は空白そのものがノイズになってる」
ユウリのスマホが震える。
アヴィ=シグルが画面に出る。
まだ眠たげな顔をしていたが、解析表示はすでに走り始めていた。
《対象:空席》
《人間ではありません》
《神格ではありません》
《残滓ではありません》
《可能性記録の浮上反応》
《警告:着席判定に注意》
《観測固定率:上昇中》
「可能性記録?」
ユウリが聞く。
アヴィは腕を組んだ。
『簡単に言うと、“そうなったかもしれない記録”だな』
「未練とか、幽霊とかじゃなくて?」
『似てるが違う。幽霊は、基本的には“いたもの”の残りだ。これは“いたかもしれないもの”の浮上に近い』
「いたかもしれないもの……」
『誰かが座るはずだった席。誰かが来るかもしれなかった教室。呼ばれなかった名前。選ばれなかった出席番号。そういう、確定しなかった記録が、神話構文に押されて現実側へ出てきてる』
レンが眉をひそめる。
「じゃあ、人間じゃない?」
『少なくとも今は人間じゃない。神格でもない。神話残滓でもない。ただ、形を得る前の記録が、席という器に入ってる』
「だから“着席判定に注意”か」
『座る、という行為は強い。学校では特にな。席に座れば、その席の人間として扱われる。出席簿に紐づく。クラスの構造に登録される』
アヴィは、少しだけ声を低くした。
『誰かが座れば、席は“空席”ではなくなる。問題は、その時、座ったやつが何として登録されるかだ』
ミオの指が、机の上で止まった。
ユウリはそれに気づく。
「ミオ?」
「……呼んでる」
「空席が?」
ミオはうなずく。
「でも、名前では呼んでない。席があるよって。ここなら、別のものになれるよって」
その言葉に、ユウリの胸がざわついた。
別のものになれる。
それは、誘惑のようにも聞こえる。
救いのようにも聞こえる。
そして、ミオにとっては危険な言葉だった。
星宮ミオではない何か。
女神の器。
理に触れた存在。
まだ名前の定まらない席。
ユウリは思わず言った。
「近づかない方がいい」
「うん」
ミオはうなずいた。
けれど、その視線は空席から完全には離れない。
ユウリは、トウマの方を見た。
彼はまだ文庫本を開いている。
けれど、もう読んでいるふりすらしていなかった。目線は伏せたままだが、顎の角度が少しだけ硬い。
ユウリは席を立った。
レンが小声で言う。
「行くのか?」
「うん」
「噛みつかれるぞ」
「犬じゃないんだから」
「いや、似たようなもんだろ」
そのやり取りが聞こえたのか、トウマの眉がわずかに動いた。
ユウリは、トウマの席の横に立った。
「トウマ」
「何」
即答だった。
顔は上げない。
「さっきの空席のこと、何か知ってるの?」
「知ってるわけじゃない」
トウマは短く答えた。
「じゃあ、なんで見るなって言ったの」
「見たらまずいと思ったから」
「どうして?」
トウマは文庫本を閉じた。
ぱたん、という小さな音が、妙にはっきり聞こえる。
彼はようやくユウリを見上げた。
「お前、昨日の件で何を学んだ?」
「昨日?」
「名前を呼ぶことは、救いにもなるし、鍵にもなる。そういう話だったんだろ」
ユウリは息を呑んだ。
「……見てたの?」
「見てない。聞いてない。けど、お前たちの顔を見れば分かる」
トウマの声は冷たい。
けれど、的を外していなかった。
「空いてる席も同じだ。席は、人を呼ぶ。名前のない席は、名前のあるやつを欲しがる」
ユウリは黙った。
トウマは続ける。
「席っていうのは、ただの家具じゃない。学校では特にそうだ。そこに座るやつの名前、出席番号、成績、友人関係、教師からの認識。全部つながる。空席は、つながる相手がいない状態だ」
「だから、誰かを座らせようとする?」
「そうだ」
トウマは視線を空席へ向けないまま言った。
「悪意があるかどうかは関係ない。空いてる穴は埋まろうとする。埋めるものがなければ、近くにあるものを引っ張る」
「近くにあるものって」
「名前が揺らいでるやつ。居場所に迷ってるやつ。別の何かになりかけてるやつ」
その言葉が、ミオに向けられているのは明らかだった。
ユウリは、声を落とす。
「ミオのこと?」
トウマは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「じゃあ、どうすればいいの」
「近づけるな。見せるな。触らせるな。できれば、席ごと消す」
「消すって」
「切る」
その一言は、妙に冷たかった。
切る。
それは比喩ではないように聞こえた。
ユウリは、トウマの横顔を見た。彼の表情は変わらない。けれど、その瞳の奥には、硬く閉じた扉のようなものがある。
「トウマは、前にもこういうのを見たことがあるの?」
聞いた瞬間、トウマの目が細くなった。
空気が少しだけ冷えた。
「ない」
短い答え。
でも、嘘だと思った。
少なくとも、何か似たものを知っている。
空いた席。
痕跡だけ残る誰か。
名前のない場所。
トウマは、それを知っている顔をしていた。
ユウリがさらに聞こうとした時だった。
ミオの小さな声がした。
「……これ」
振り向くと、ミオが空席の近くに立っていた。
ユウリの心臓が跳ねる。
「ミオ!」
「近づかないって言っただろ!」
レンも声を上げる。
ミオはびくりとして、こちらを見た。
「ごめん。でも、落ちたの」
彼女の足元に、一冊のノートが落ちていた。
いつ落ちたのか分からない。
空席の机の中から滑り出したのだろうか。
それとも、最初から床にあったのに、誰も気づかなかったのか。
表紙は白い。
名前欄はある。
けれど、何も書かれていない。
ユウリは慌てて近づこうとして、トウマに腕を掴まれた。
「触るな」
「でも、ミオが」
「だから止めろ」
トウマの声には、明らかな焦りが混じっていた。
ミオは、まだノートには触れていなかった。
ただ、しゃがみ込んで、表紙を見つめている。
白いノート。
新品のようにも見える。
けれど、紙の端は少し黄ばんでいて、古い匂いがしそうだった。
ミオは、ゆっくり手を伸ばした。
「ミオ、待って」
ユウリの声が届くより早く、ミオの指先がノートの角に触れた。
その瞬間。
教室の音が消えた。
ざわめきも、廊下の足音も、遠くのチャイム予鈴も、すべて水の中へ沈んだように遠ざかる。
窓から差し込んでいた昼の光が、青黒く変わった。
ユウリは息を止めた。
教室全体が、夜になっていた。
天井がない。
いや、天井はある。
蛍光灯もある。
けれど、その向こう側に深い夜空が透けて見える。
無数の星が、黒板の上、窓の外、床の反射、机の天板にまで散っている。まるで教室そのものが、星空の中に沈んでいるようだった。
生徒たちは動かない。
笑っていた姿勢のまま。
歩きかけた足のまま。
ページをめくる手のまま。
すべてが薄い星明かりの中で静止している。
動けるのは、ユウリ、ミオ、レン、トウマだけだった。
そして、空席。
空席の机の上に、白いノートが開いている。
ミオの指先が、まだそのページに触れていた。
ユウリは駆け寄り、ノートを見た。
最初のページに、文字があった。
わたしは、今日からこのクラスにいます。
その下に、名前欄。
名前:
空白。
何も書かれていない。
けれど、その空白はただの白紙ではなかった。
そこに、誰かの名前が入るのを待っている。
ミオの指先が、名前欄のすぐそばにある。
ユウリは思わずミオの手を掴んだ。
「ミオ、離して」
「うん……」
ミオは答えた。
けれど、声が遠い。
彼女の瞳には星が映っている。
黒い夜空と、いくつもの名前にならなかった光。
トウマが低く舌打ちした。
「だから触るなって言った」
「今それ言ってる場合かよ!」
レンが叫ぶ。
彼もスマホを手にしていたが、画面は星の砂嵐で埋まっている。AVIS一般版も、カメラも、時計も、全部が星明かりのノイズになっていた。
ユウリのスマホだけが、かろうじて動いている。
アヴィ=シグルの声が、途切れ途切れに響いた。
『……着席判定、上昇……まずい、名前欄に触れさせるな……』
「分かってる!」
ユウリはミオの手を引いた。
その時、黒板にチョークの音がした。
誰もいない黒板。
そこに、白い文字がひとりでに浮かんでいく。
かり、かり、かり。
乾いた音が、星空の教室に響く。
次に座るのは、だれ?
文字が書かれた瞬間、空席の椅子が、きい、と小さく動いた。
まるで、誰かに席を譲るように。
あるいは、誰かを招くように。
ユウリはミオの手を強く握った。
「ミオ」
名前を呼ぶ。
ミオの瞳が、少しだけ揺れた。
「星宮ミオ」
もう一度呼ぶ。
ミオの唇が震える。
「……ユウリ」
その声が戻った瞬間、ユウリは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
けれど、夜の教室はまだ消えない。
黒板の文字は、星明かりの中で白く浮かんでいる。
次に座るのは、だれ?
トウマが、ユウリの横に立った。
彼は空席を見ていない。
黒板も見ていない。
ただ、ノートだけを睨んでいる。
「このまま放っておくと、名前を入れられる」
「誰の?」
ユウリが聞く。
トウマは、短く答えた。
「一番、空いているやつの」
その視線が、一瞬だけミオへ向いた。
ユウリは、ミオの手を離さなかった。
第2節 ― 紙魚の巣の虫食い名簿
黒板に浮かんだ文字は、しばらく消えなかった。
次に座るのは、だれ?
白いチョークの線で書かれたその一文は、星明かりの中で妙に生々しかった。
誰かが冗談で書いた落書きではない。
そこには意志があった。問いかけの形をしているのに、答えを待っているというより、答えを奪いに来るような圧があった。
ユウリはミオの手を握ったまま、黒板から目を逸らせなかった。
見てはいけない。
そう分かっているのに、目が吸い寄せられる。
机。
椅子。
ノート。
空欄。
名前欄。
学校にあるものは、どれも当たり前の道具だったはずなのに、今はそのすべてが、誰かを定義するための装置に見えた。
席に座る。
出席簿に名前が載る。
教師に呼ばれる。
返事をする。
それだけで、人は「このクラスの誰か」になる。
では、名前のない席に座ったら。
名前欄が空白のノートに触れたら。
その時、人は何になるのだろう。
「ユウリ」
ミオの声がした。
か細いけれど、確かにミオの声だった。
ユウリははっとして、彼女を見る。
ミオの瞳にはまだ星が映っている。けれど、焦点は戻っていた。さっきまで空席へ引かれていたような危うさは、少し薄れている。
「大丈夫?」
ユウリが聞くと、ミオは小さくうなずいた。
「うん。呼んでくれたから」
まただ。
その言葉を聞くたびに、ユウリは胸の奥が締めつけられる。
自分がミオの名前を呼ぶこと。
それが、彼女をこちら側に引き戻す糸になっている。
それは嬉しいことでもあり、怖いことでもあった。
もし自分が呼び遅れたら。
もし声が届かなかったら。
もし、ミオが別の名前に座らされてしまったら。
「おい」
トウマの声が、それを断ち切った。
彼はノートに近づき、ミオの指が触れていたページを睨んでいる。顔色は変わっていないように見える。けれど、目の奥だけが鋭くなっていた。
「手、離せ」
「もう離してる」
ミオが答える。
「違う。意識の方だ」
トウマは低く言った。
「まだ見てる。あの席を、頭の中で見てるだろ」
ミオは、少しだけ息を呑んだ。
図星だったのだろう。
ユウリはミオの手を握り直した。
「ミオ、こっち見て」
ミオがユウリを見る。
「星宮ミオ」
もう一度、名前を呼ぶ。
ミオの肩から、少し力が抜けた。
その瞬間、教室を満たしていた星明かりが揺らいだ。
黒板の文字がかすれる。
机の上に散っていた星の光が、チョークの粉のように薄くなっていく。
凍りついたように止まっていたクラスメイトたちの輪郭が、少しずつ元の昼の光に戻っていく。
レンが息を吐いた。
「戻る、のか?」
アヴィ=シグルの声が、ユウリのスマホからノイズ混じりに聞こえた。
『一時的にだ。ノートから手を離したのと、ミオの現在名が呼称固定された。着席判定が下がってる』
「着席判定って言い方、ほんと嫌だな」
『僕も嫌だ』
アヴィが珍しく同意した。
星空は、次第に教室の天井へ吸い込まれていった。蛍光灯の白い光が戻り、窓の外には昼の校庭が現れる。遠くで体育の授業をしている別クラスの声が聞こえ、廊下から誰かの笑い声が流れ込んだ。
何事もなかったように。
それが、かえって怖かった。
クラスメイトたちは、さっきまでの星空を覚えていないようだった。
止まっていた時間が、何の継ぎ目もなく動き出す。女子の笑い声も、男子の小テストへの悲鳴も、すべて元の場所へ戻る。
ただ、空席だけは残っていた。
そしてミオの足元に、白いノートが落ちている。
トウマが素早くしゃがみ込み、直接触れないようにハンカチ越しにノートを閉じた。
その仕草は慣れていた。
ユウリは、そのことに気づいてしまった。
「トウマ」
「今は聞くな」
トウマは短く言った。
ノートを持ち上げると、表紙の名前欄が一瞬だけ淡く光る。けれどトウマが睨むと、その光はふっと消えたように見えた。
「これ、どうするんだよ」
レンが聞く。
「捨てる」
「捨てて済むのか?」
「済まない」
「じゃあなんで捨てるんだよ」
「少なくとも、ミオの近くには置かない」
トウマはそれだけ言って、自分の鞄にノートを突っ込んだ。
「ちょっと待って」
ユウリは思わず止めた。
「持ってて大丈夫なの?」
「お前たちよりは」
「そういう問題じゃ――」
「じゃあ、誰が持つ? ミオか? お前か? それとも、何でも記録したがるそいつか?」
トウマの視線がレンへ向く。
レンは言い返そうとして、口を閉じた。
昨日の件があるからだ。
そして今日も、撮影しようとした座席表にノイズが出た。
今のレンには、自分が不用意に触れれば事態を進めてしまうかもしれないという自覚がある。
それをトウマは見逃さなかった。
「持つだけなら、俺が一番マシだ」
「理由は?」
ユウリが問う。
トウマは、ほんの少しだけ間を置いた。
「空席に好かれる趣味はない」
答えになっていない。
でも、それ以上は何も言わなかった。
そのまま予鈴が鳴り、次の授業が始まった。
教室は普通に戻った。
教師が来て、教科書を開き、生徒たちは退屈そうにノートを取る。
けれど、ユウリは授業の内容がほとんど頭に入らなかった。
空席は、窓際後ろから二番目にある。
見ないようにしても、そこにあることが分かる。
視界の端に、白い空白が引っかかる。
ミオは、いつもより背筋を伸ばして座っていた。
眠そうでも、ぼんやりしているわけでもない。けれど、ときどき自分の名前を確かめるように、教科書の余白に小さく「星宮ミオ」と書いていた。
ユウリはそれを見て、胸が痛くなった。
レンは、ノートを取るふりをしながら、別の紙に何かを書いていた。数式でも英単語でもない。机の配置図。矢印。観測、固定、着席判定、記録危険、という言葉。
記録しないと決めても、考えることまでは止められない。
それがレンだった。
トウマは、授業中ずっと窓の外を見ていた。
けれど、それはぼんやり外を眺めているのではない。窓際の空席を見ないために、あえてその向こう側だけを見ているようだった。
昼休みを過ぎても、空席は消えなかった。
むしろ、教室になじんでいくように見えた。
誰かが空席の机にプリントを置きかける。
すぐに「あれ、ここ誰の席だっけ」と首を傾げる。
別の生徒が「そこ、空いてるから置いとけば」と言う。
そして、置かれたプリントはいつの間にかなくなる。
空席が、クラスの中で少しずつ役割を得ている。
予備の席。
転校生用の席。
誰かが休んでいる席。
荷物を置く席。
何でもない席。
その曖昧さが、かえって不気味だった。
放課後になった時、レンが机に突っ伏した。
「無理。ネットで調べる」
「今?」
ユウリが聞く。
「今。少なくとも星綴の過去に何かある。学校怪談とか、前身校とか、事故とか、転校生とか、空席とか、出席簿とか。検索ワードは山ほどある」
「記録するなって話は?」
「外部に出すわけじゃない。調べるだけ」
レンはスマホではなく、学校の情報処理室へ行こうとした。
「校内端末の方が履歴が追いやすいし、学校の公式アーカイブにも入れる」
ユウリたちは、放課後の廊下を通って情報処理室へ向かった。
トウマは来ないだろうと思っていた。
けれど、教室を出る時、彼は無言で鞄を持ち、少し離れた後ろからついてきた。
「来るんだ」
レンが言う。
「ノート持ってるからな」
「それだけ?」
「それだけだ」
トウマは、やはり短く答えた。
情報処理室には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。ずらりと並んだモニターの黒い画面に、窓の外の校庭がぼんやり映っている。放課後の校舎特有の、少し埃っぽい静けさがあった。
レンは端末を起動し、学校の公式サイトを開いた。
「まず沿革」
星綴高等学園の公式サイト。
見慣れた校章。
校長挨拶。
教育方針。
進路実績。
そして沿革。
レンは画面をスクロールする。
「創立は……前身校から数えるとかなり古いな。星綴学舎、星見台女学校、星綴中等部、統合、校名変更……」
彼の指が止まった。
「ここ」
ユウリが覗き込む。
沿革の途中に、不自然な空白があった。
年度が飛んでいる。
何年から何年までの記録が、まるで最初から存在しないかのように抜けている。普通なら改行の余白に見えるかもしれない。けれど、その空白だけ、画面の白さが少し違った。
昨日のレシート。
今日の出席簿。
同じ白。
「これ、表示バグ?」
ミオが聞く。
「一応、ソース見る」
レンはキーボードを叩いた。
画面にHTMLのコードが流れる。
けれど、沿革の空白部分だけ、コメントアウトも欠番もない。ただ、本当に記述が抜けている。
「おかしい。年度が飛んでるのに、コード上では連続してる。見た目だけじゃなくて、情報そのものがない」
「学校側が消した?」
「可能性はある。でも、普通に削除したなら痕跡が残る。これは、削除というより……最初から電子化されなかったみたいな抜け方だ」
レンは、さらに検索を続けた。
星綴高等学園 空席。
星綴 出席簿 怪談。
星見台 未着席。
星綴学舎 欠番。
神狭市 星の裏側。
いくつか検索結果は出る。
けれど、開くとリンク切れ。
キャッシュなし。
古い掲示板はスレッド番号だけ残り、本文がない。
画像検索には、校舎の写真が出るのに、集合写真らしきものだけが白く抜ける。
レンは椅子の背にもたれた。
「だめだ。電子記録が虫食いになってる」
「虫食い?」
ユウリが聞く。
「比喩。いや、比喩じゃないかも。必要なところだけ、食われてるみたいに抜けてる」
その時、ユウリのスマホが震えた。
AVISが起動する。
アヴィ=シグルは、画面の中で少し真面目な顔をしていた。
《電子記録:欠損》
《校内アーカイブ:該当期間欠落》
《外部検索:回収不能》
《紙媒体記録:残存可能性あり》
《推奨調査地点:旧北口商店街/古書店《紙魚の巣》》
「紙魚の巣?」
レンが画面を覗き込む。
「古書店だ」
アヴィが言った。
「旧北口商店街の奥。神話、郷土資料、民俗学、学校文集、閉店した店のチラシ、誰も読まない冊子、そういうものが山ほど集まってる。電子化されなかった紙の記録なら、あそこに残ってる可能性がある」
「なんでそんな店知ってるの」
ユウリが聞く。
アヴィは少し目を逸らした。
「AVISの検索候補に出た」
「今、目逸らしたよね」
「気のせいだ」
ミオが小さく言った。
「そこに行けば、分かるかな」
「分かるかどうかは別として」
レンは立ち上がった。
「ネットがだめなら紙だ。紙なら、電子ログみたいに一括で消されてないかもしれない」
トウマは、情報処理室の入口近くに立ったまま、何も言わなかった。
けれど、古書店の名前を聞いた瞬間、ほんの少しだけ反応したように見えた。
「トウマも来る?」
ユウリが聞く。
「ノートを持ってる」
「それはもう聞いた」
「なら分かってるだろ」
彼はそう言って、先に廊下へ出た。
旧北口商店街へ向かう頃には、空は夕方に傾いていた。
第8話でカフェ《ノーネーム》へ行った時と同じ道。けれど、今日の目的地はさらに奥だった。商店街のアーケードは半分ほどしか明かりがついておらず、古い金物屋、閉じた文具店、昔ながらの惣菜屋、よく分からない占いの張り紙が残るシャッターが並んでいる。
その奥。
人通りがさらに細くなる路地に、古書店《紙魚の巣》はあった。
看板は、木製だった。
古い紙に滲んだ墨のような文字で、《紙魚の巣》と書かれている。店先には均一本の箱が積まれていたが、並んでいるのは文庫本だけではない。古い郷土史。学校文集。誰かの卒業アルバムらしきもの。神社の祭礼記録。廃業した喫茶店のメニュー表。色褪せた地図。
店の扉を開けると、紙の匂いがした。
埃っぽいのに、不思議と嫌ではない。
古い本棚、黄ばんだ紙、乾いた糊、インク、少しだけ湿気を吸った木材。
店内は狭い。
けれど、奥行きがあるようにも見える。入口から見るとただの古本屋なのに、一歩入ると棚が迷路のように枝分かれしていた。天井近くまで積まれた本。床に置かれた木箱。ラベルの剥がれた資料ファイル。背表紙が読めない革装本。民俗学、神話、都市伝説、宗教史、郷土資料、学校史、個人の日記、古い旅行パンフレット。
本棚の隙間から、何か小さな白いものが動いた気がした。
「虫?」
ミオが小声で言う。
「紙魚だろ」
レンが答える。
「本当にいるのかよ」
「店名だからな」
その時、奥から声がした。
「いますよ。紙を食べるものは、紙に食べられたものも覚えますから」
ユウリたちは一斉に振り向いた。
カウンターの奥に、一人の女性が座っていた。
年齢は分かりづらい。二十代にも見えるし、もっと年上にも見える。長い髪は灰色がかった黒で、毛先だけが淡く銀に抜けている。丸い眼鏡の奥の目は眠たげだが、こちらを見た瞬間だけ妙に鋭かった。
白いブラウスに、黒い長いカーディガン。
首元には、本の栞のような細い紐飾り。
指には薄い紙片が何枚も挟まっている。
彼女は、読んでいた本を閉じた。
「いらっしゃいませ。探し物ですか。それとも、探され物ですか」
レンが眉をひそめる。
「普通に探し物です」
「普通の探し物なら、普通の棚にあります。普通でない探し物なら、普通でない棚にあります」
「またそういうタイプの店かよ……」
ユウリは既視感に頭を抱えたくなった。
旧北口商店街には、どうしてこういう店ばかりあるのか。
女性は、ユウリたちを順番に見た。
ユウリ。
ミオ。
レン。
最後に、トウマ。
トウマを見た時だけ、ほんの少し目を細めた。
「星綴の空席でしょう」
いきなり言われて、レンが警戒したように一歩前へ出た。
「なんで知ってるんですか」
女性は平然と答えた。
「空いたところは、紙が先に覚えますから」
レンは返答に詰まった。
ユウリは、慎重に尋ねる。
「あなたは?」
「紙魚原ツヅリ」
女性は名乗った。
「この店の店主です。紙が覚えていることを売ったり、紙が忘れたことを預かったりしています」
「それ、古本屋の説明として合ってます?」
「だいたい合っています」
ツヅリは淡々と言い、カウンターの下から古い鍵束を取り出した。
「星綴高等学園。前身校。第零席。未着席。星の裏側へ落ちた名。どれから見ますか」
レンがユウリを見る。
ユウリも、ミオを見る。
ミオは少しだけ緊張した顔でうなずいた。
「全部、見せてもらえますか」
ユウリが言うと、ツヅリは目を細めた。
「全部は危険です。紙は、読む人を選ぶことがありますから」
「じゃあ、安全な範囲で」
「安全な範囲が知りたいなら、図書館へ行くべきですね」
「……危なくない範囲で」
「それなら、少しだけ」
ツヅリは立ち上がり、棚の奥へ歩いていった。
ユウリたちは、その後を追う。
店の奥は、入口から見たよりずっと深かった。棚の間を抜けるたびに、外の商店街の音が遠ざかっていく。薄暗い電球がいくつも吊られ、その下に古い紙束が眠っていた。
ツヅリは一番奥の棚の前で止まり、鍵を使って小さな木箱を開けた。
中から出てきたのは、一冊の古い出席簿だった。
黒い表紙。
角は擦り切れ、背は割れかけている。
表紙には、かろうじて読める文字で「星綴学舎」と書かれていた。
ツヅリは白い手袋をはめ、慎重にページを開く。
紙は黄ばんでいる。
ところどころに虫食いの穴があり、文字が欠けていた。名前の一部が食われ、日付の一部が消え、欠席欄に穴が開いている。
けれど、その穴がただの劣化ではないことは、すぐに分かった。
虫食いの形が、文字の周りだけ不自然に避けている。
あるいは、文字を隠すために食われたようにも見える。
ツヅリはページの中ほどを指した。
「ここです」
そこには、通常の出席番号とは別に、奇妙な項目があった。
第零席
未着席
星の裏側へ落ちた名のために空けること
ユウリは息を止めた。
「第零席……」
「一番目ではなく、零番目。誰かの前にある席。まだ来ていない者、来なかった者、来るかもしれなかった者のための席です」
ツヅリは、静かに説明する。
「星綴高等学園のある丘は、もともと星見の丘と呼ばれていました。昔、この辺りでは、子どもが生まれる前、あるいは旅人が帰る前、まだ決まっていない未来のために、席をひとつ空ける儀礼があったそうです」
「誰かを呼ぶため?」
ミオが聞く。
「半分は」
ツヅリは答えた。
「もう半分は、呼びすぎないためです」
「呼びすぎない?」
「未来を名指ししすぎると、未来はその名に縛られます。だから、席だけを空けておく。誰が来てもいい。誰も来なくてもいい。来るべき者を決めつけないための余白です」
ユウリは、第8話のカフェを思い出した。
席を空けていただけ。
あのマスターの言葉。
けれど、今目の前にある空席は、ただ穏やかな余白ではない。
誰かを座らせようとしている。
「でも、今の空席は危険です」
ユウリが言うと、ツヅリはうなずいた。
「余白は、いつも優しいわけではありません」
彼女は出席簿の虫食い穴に指を近づけた。
「空いているということは、何かが入れるということです」
ミオが、かすかに身を震わせた。
レンは腕を組む。
「じゃあ、なんで今になって現れたんですか。昔の儀礼なら、ずっと前からあったはずだ」
「条件が重なったのでしょう」
ツヅリは、淡々と言った。
「AVIS一般版の拡散。神狭市全体の神話構文濃度の上昇。星綴高等学園が持っていた古い観測構文の再活性化。そして」
彼女はユウリを見る。
「最近、誰かが“真名ではない現在名”を成立させた」
ユウリの心臓が、どくんと鳴った。
「栞さんのこと……知ってるんですか」
「知っているわけではありません」
ツヅリは、どこかで聞いたような言い方をした。
「紙の揺れで分かるだけです。名前を戻さず、呼び名だけを置いた。そういう処理は、余白に響きます」
アヴィが、スマホ画面の中で気まずそうに目を逸らした。
『……理屈としてはあり得る』
「アヴィ」
『責めるな。お前の選択が間違いだったとは言ってない。ただ、余白を守る選択は、別の余白を起こすことがある。構文は隣の空白に共鳴する』
ユウリは、言葉を失った。
栞を助けたことが、今回の空席を呼び起こしたのか。
そう考えた瞬間、胸が重くなる。
ミオが、そっと言った。
「ユウリのせいじゃない」
「でも」
「違う」
ミオは、はっきり言った。
「栞さんは、あの時、呼ばれてもいい名前を選んだ。それは悪いことじゃない」
ユウリは、ミオを見る。
彼女の声は柔らかいが、揺れていなかった。
レンも口を挟む。
「そうだろ。原因の一つではあるかもしれない。でも、原因と責任は違う」
「レン……」
「責任を考えるなら、AVIS一般版をばらまいたやつとか、管理機構の監視とか、神狭市そのものの構文濃度とか、他にも山ほどある。ユウリ一人で背負うな」
レンは少し照れたように顔をそらした。
「あと、今は落ち込むより調べる方が先」
「うん」
ユウリは小さくうなずいた。
ツヅリは、そんな三人のやり取りを黙って見ていた。
「よい友人ですね」
ぽつりと言う。
レンが少し警戒した顔になる。
「急に褒められると怖いんですけど」
「では、怖がってください」
「そういう返しも怖い」
ツヅリは表情を変えず、出席簿の別のページを開いた。
「第零席は、本来、空けておくための席でした。誰かを座らせるためではない。ですが、観測構文が歪むと、空白は“埋めるべき欠落”として振る舞います」
「だから、ミオを引っ張った」
ユウリが言う。
「ミオさんだけではありません」
ツヅリは、ちらりとミオを見る。
「名前が揺らいでいる者。居場所が揺らいでいる者。別の可能性を強く抱えている者。そういう人は、空席にとって座りやすい」
ミオは唇を結んだ。
ユウリは、その横顔を見て、もう一度決める。
守る。
でも、どう守るのか。
消せばいいのか。
切ればいいのか。
空けておけばいいのか。
まだ答えは出ない。
その時、トウマが無言で出席簿のページに手を伸ばした。
「触らないでください」
ツヅリの声が、初めて少しだけ鋭くなった。
トウマの指が止まる。
「見るだけだ」
「見るだけでも、紙は見返します」
「知ってる」
そう言って、トウマはページを覗き込んだ。
ユウリは、トウマの横顔を見る。
彼の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
動揺。
それは本当に一瞬だった。
でも、確かにあった。
トウマの目が、虫食いだらけの名簿のある箇所に固定される。
ユウリも、その視線を追った。
ページの端。
名簿の下段。
虫に食われて、ほとんど読めなくなった名前の横に、かすかに残った文字がある。
玻璃川。
ユウリは息を呑む。
玻璃川、の後ろは食われている。
名は読めない。
性別も、学年も、出席番号も分からない。
ただ、姓だけが、紙の端に引っかかるように残っていた。
トウマの手が、出席簿の表紙を掴む。
「トウマ……?」
ユウリが声をかけるより早く、トウマは名簿を閉じた。
ぱたん、と乾いた音が、店の奥に響く。
ツヅリは何も言わなかった。
レンも、ミオも、言葉を失っている。
トウマは出席簿から手を離し、低く言った。
「もういい」
声が、いつもより硬い。
「あの席は、切る」
第3節 ― 座ってはいけない席
「切る?」
ユウリは、思わず聞き返した。
紙魚原ツヅリの店の奥は、古い紙の匂いに満ちていた。さっき閉じられた出席簿の表紙が、棚の低い灯りを吸って黒く沈んでいる。虫食いだらけの紙片も、星綴学舎という古い名も、そこにかすかに残っていた「玻璃川」の文字も、まだユウリの目の奥に焼きついていた。
トウマは、こちらを見なかった。
「ああ」
「どうやって」
「裂く」
短い答えだった。
けれど、その一言は、ただ乱暴な比喩には聞こえなかった。
空席を片づける。
怪異を祓う。
記録を消す。
そういう言い方ではない。
裂く。
紙を破るように。
つながっているものを、つながっていない状態に戻すように。
レンが顔をしかめた。
「それ、簡単に言ってるけどさ。空席が可能性記録ってやつなら、切った瞬間に何が起こるか分かんないだろ」
「放っておく方が分からない」
「だからって――」
「誰かが座る前に切る」
トウマの声は冷たかった。
でも、その冷たさは無関心ではなかった。
むしろ逆だった。
何かをこれ以上近づけないために、刃物のように冷たくしている。
ツヅリは、閉じられた出席簿に手を添えたまま、静かに言った。
「空白を裂けば、紙は裂け目を覚えます」
「覚えられるのは慣れてる」
トウマは答えた。
ツヅリの目が、眼鏡の奥でわずかに細くなる。
「慣れていることと、傷つかないことは違います」
トウマは何も言わなかった。
その沈黙が、返事の代わりだった。
ユウリは、胸の中のもやもやを押さえながら言った。
「でも、あの席は本当に誰かを傷つけたいわけじゃないかもしれない」
「傷つけたいかどうかは関係ない」
トウマが、初めてユウリを見た。
「人を消すものが、全部悪意を持ってると思うなよ」
その言葉に、ユウリは言い返せなかった。
悪意がなくても、人は傷つく。
助けるつもりでも、記録が刃になる。
名前を呼ぶことも、席を空けることも、時には誰かを縛る。
昨日から、ユウリはそれを何度も見ている。
それでも。
「……学校に戻ろう」
ユウリは言った。
「切るかどうかは、見てから決める」
「見るなって言っただろ」
「見ないと、何を残すのかも分からない」
トウマの眉が、わずかに動いた。
レンが、少しだけ驚いた顔でユウリを見る。
ミオも、静かに頷いた。
ツヅリは、小さく息をついた。
「なら、急いだ方がいいです」
「どうしてですか」
「学校の席は、放課後にいちばん空きますから」
その言葉が、妙に重く響いた。
放課後。
生徒が帰り、教室が空になる時間。
誰も座っていない机が、ただ机として残る時間。
空席が、自分の意味を強く持つ時間。
ユウリたちは、古書店《紙魚の巣》を出た。
旧北口商店街は、夕暮れに沈みかけていた。店先の明かりがぽつぽつと灯り、閉じたシャッターの金属面に赤い空が映っている。いつもならどこか懐かしく見える景色が、今は少しだけ紙の上に描かれた背景のように薄く見えた。
トウマは、先頭を歩いていた。
鞄の中には、白いノートが入っている。
名前欄のないノート。
今日からこのクラスにいる、と書かれたノート。
それが近くにあるせいか、ユウリのスマホは時々小さく震えた。
AVISは何も言わない。
ただ、画面の端に青白い輪が滲んでは消える。
星綴高等学園に戻る頃には、校舎はすっかり夕方の色を帯びていた。
部活動の声が校庭から聞こえる。
吹奏楽部の音階練習。
体育館から響くバスケットボールの音。
廊下を走って叱られる生徒の声。
学校はまだ日常の中にあった。
けれど、教室のある階へ近づくにつれて、その日常の音が少しずつ遠ざかっていく。
廊下の窓から射し込む夕陽は、赤というより、淡い金色だった。教室のドアのガラスに、誰もいないはずの机の影が映っている。
ユウリは、扉の前で足を止めた。
中から、声が聞こえる。
数人の生徒が残っているらしい。
帰り支度をしている声。
部活へ行く前に雑談している声。
いつもの放課後の教室。
でも、その隙間に、別の音があった。
椅子が軋む音。
誰も座っていないはずの椅子が、誰かを待つように、小さく鳴っている。
「開けるぞ」
レンが言った。
ユウリは頷く。
扉を開けると、放課後の教室があった。
夕陽が机の列を斜めに照らしている。
黒板には次の日の予定が書かれ、チョークの粉が棚に積もっている。数人のクラスメイトが残っていて、鞄を持ったまま話していた。
そして、窓際後ろから二番目。
空席は、そこにあった。
朝よりも、はっきりしている。
机の天板に、夕陽が妙に白く反射している。
椅子はきちんと引かれている。
誰かが今から座るために、少しだけ空間を空けているように見えた。
「……なんか、朝より強くないか」
レンが小声で言う。
アヴィがユウリのスマホ画面に現れる。
『観測固定率が上がってる。放課後で教室の着席状態が解除されたせいだな。全員が席を離れる時間は、あの席にとって都合がいい』
「都合がいいって?」
『空いてるのが自分だけじゃなくなる。空席が増えれば、自分も紛れやすい』
その言葉の直後、教室に残っていた女子の一人が、空席の方を見た。
ほんの一瞬だった。
彼女は友人と話しながら、何気なく視線を向けただけだ。
けれど、その表情が止まった。
「……あれ」
彼女は小さく呟いた。
「どうしたの?」
友人が聞く。
「いや、なんか……私、吹奏楽部に入ってた気がして」
「え? あんた帰宅部じゃん」
「そうなんだけど」
女子は空席を見つめたまま、少しだけ笑った。
「でも、今、すごくはっきり見えた。私、あそこで楽譜に名前書いてて……コンクールの前で、すごい泣いてて」
友人は笑った。
「何それ、夢?」
「分かんない。でも、懐かしい感じがした」
ユウリは背筋が冷えるのを感じた。
別の自分。
部活に入っていたかもしれない自分。
その女子は、もう一度空席を見ようとした。
トウマが低く言う。
「見るな」
声は小さかった。
でも、異様に通った。
女子はびくりとして、視線を逸らした。自分でもなぜ注意されたのか分からない顔をしている。
次に、教室の前方にいた男子が空席へ目をやった。
彼の顔が、ぼんやりと緩む。
「俺……告ってたかも」
「誰に?」
友人がからかうように聞く。
男子は答えなかった。
ただ、空席を見つめながら、耳まで赤くなっていく。
「いや、なんでもない。変な感じしただけ」
笑いで流そうとしている。
けれど、その目はまだ空席から離れない。
レンが低く呟いた。
「未来の幻視か?」
『正確には、選ばなかった可能性の反射だ』
アヴィが答える。
『あの席は“座らなかった未来”を映している。席に座っていれば、こうだったかもしれない。別の部活、別の告白、別の進路、別の名前。そういう未確定の分岐を、本人に見せてる』
「悪意で?」
『たぶん違う』
アヴィは珍しく慎重だった。
『ただ、見せてる。席という器は、座る理由が欲しいんだろう』
ミオが、空席を見ないようにしながら、小さく言った。
「寂しいんだ」
ユウリはミオを見る。
「分かるの?」
「うん。奪いたいって感じじゃない。ただ、ずっと空いてるのが怖い。誰かに座ってほしい。でも、誰がいいのか分からない」
ミオの声は、少し震えていた。
「だから、近くにいる人の“座らなかった未来”を見せる。ほら、ここもあったよって。あなたには、こういう席もあったよって」
その時、ユウリの視界が揺れた。
見ないようにしていたはずなのに、空席が視界の端に入った。
ほんの一瞬。
それだけで、ユウリは見てしまった。
自分が、普通に教室で笑っている。
AVISを起動していない自分。
神話構文も、管理機構も、栞も、空席も知らない自分。
レンとくだらない話をして、ミオをただクラスメイトとして見て、放課後にコンビニで新作アイスを買うかどうかだけで悩んでいる自分。
軽い。
あまりにも軽い未来だった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
欲しかったわけではない。
でも、そこにあったかもしれないと思うと、失った気がする。
「ユウリ」
ミオの声で、ユウリは戻った。
「大丈夫?」
「……うん」
ユウリは頷く。
けれど、手のひらに汗をかいていた。
レンも、表情を硬くしていた。
「俺も見た」
「何を?」
「言いたくない」
レンは短く答えた。
その横で、トウマだけは空席を見ていなかった。
けれど、ユウリは気づいた。
トウマの背後に、ほんの一瞬、別の景色が重なっていた。
普通に笑っているトウマ。
教室の中で、誰かと並んで座っている。
今より少し幼く、今よりずっと穏やかな顔で。
隣の席に誰かがいる。顔は見えない。けれど、トウマはその誰かに向かって、今の彼からは想像できないくらい自然に笑っていた。
次の瞬間、その景色は消えた。
トウマの目が、さらに冷たくなる。
「もう十分だ」
彼は低く言った。
その時だった。
教室に残っていた男子の一人が、ふらりと空席へ歩き出した。
さっき告白していたかもしれない自分を見た男子だった。
「おい」
レンが声をかける。
男子は振り向かない。
空席だけを見ている。
「ちょっと座るだけ」
彼は呟いた。
「なんか、分かる気がする。あそこに座ったら、思い出せる」
「やめろ!」
ユウリが叫んだ。
男子の手が、椅子の背に触れる。
その瞬間、黒板の横に貼られていた座席表が、かすかに光った。
男子の名前が薄れる。
インクが消えるように。
紙に染み込んでいた文字が、水に溶けるように。
ユウリの心臓が跳ねた。
名前が、消えかけている。
トウマが動いた。
彼は鞄から白いノートを取り出した。
表紙の名前欄は空白のまま。けれど、トウマが触れた瞬間、その空白が黒く軋むように歪んだ。
同時に、彼のスマホが勝手に起動する。
AVISの画面ではない。
あるいはAVISでありながら、通常の画面とは違う。
文字が壊れている。
《■■構文接続》
《対象:空席》
《記録線:検出》
《断章裂貌:部分起動》
画面が黒く割れた。
いや、画面だけではない。
トウマの足元から、教室の床へ細い黒い線が走った。紙にカッターを入れたような、まっすぐで冷たい裂け目。そこから、黒い紙片のようなものがふわりと舞い上がる。
トウマの背後に、影が浮かんだ。
人の形ではない。
破れた紙片。
欠けた仮面。
裂けたページの断面。
顔のようで顔ではないもの。
目の位置に、黒い空白だけがある。
契約相。
ユウリは、本能的にそう理解した。
《断章裂貌》。
名乗られたわけではない。
けれど、壊れたAVISの表示と、その影のあり方が、そう告げていた。
トウマは、空席へ手を伸ばした。
黒い裂け目が、机の脚へ向かって走る。
「待って!」
ユウリは叫び、男子の方へ駆け寄った。
「座ろうとした人まで巻き込むかもしれない!」
トウマは止まらない。
「巻き込まれる前に切るんだよ」
声は冷たかった。
でも、その奥に焦りがあった。
「名前が消えてからじゃ遅い。席に座ってからじゃ遅い。痕跡だけ残ってからじゃ、どうにもならない」
黒い裂け目が、床を走る。
男子の手は、まだ椅子の背に触れている。
座席表の名前は、さらに薄くなっていく。
ユウリは男子の腕を掴んだ。
「こっち見て!」
男子の目は虚ろだった。
「思い出せるんだ」
「何を!」
「言えなかったこと」
その一言で、ユウリの胸が痛む。
空席は、彼を騙しているのではない。
彼自身の中にあった後悔を映している。
だからこそ危険だった。
ミオが、両手で胸元を押さえた。
「違う」
彼女の声が、教室に響く。
「違う。あの席、奪いたいんじゃない」
トウマが一瞬だけ視線を向ける。
ミオは、苦しそうに息をしながら続けた。
「ただ、ずっと空いているのが怖いんだと思う。誰も座らないまま、何のためにあるのか分からなくなるのが怖い。だから、見せてる。ここに座れば、なれたかもしれないものを」
「だから何だ」
トウマの声が荒くなった。
「怖ければ、誰かの名前を欲しがっていいのか」
その言葉は、空席へ向けられているようで、別の誰かへ向けられているようでもあった。
ミオが怯む。
ユウリは男子の腕を引きながら、トウマを見た。
「トウマは」
言葉が勝手に出た。
「誰かの席を見たことがあるの?」
黒い裂け目が止まった。
ほんの一瞬。
教室の空気が凍る。
トウマは答えない。
けれど、その沈黙が、あまりにも重かった。
破れた紙片が、彼の背後でゆっくり舞っている。仮面の欠片のような影が、黒い空白の目で空席を見ている。
トウマは、低く言った。
「痕跡だけ残るのが、一番きついんだよ」
ユウリは、何も言えなかった。
痕跡だけ。
席だけ。
名簿の虫食いに残った姓だけ。
いたかもしれない誰かの跡だけ。
それを見たことがある人間の声だった。
その時、空席の椅子が大きく軋んだ。
きい、と。
それは教室の椅子の音ではなかった。
もっと古い木の音。
長い時間、誰にも座られなかった椅子が、ようやく誰かを見つけた時の音。
男子の名前が、座席表からほとんど消える。
ユウリは叫んだ。
「レン!」
「分かってる!」
レンは男子のもう片方の腕を掴み、力任せに引いた。
男子の手が椅子から離れる。
その瞬間、彼は糸が切れたように膝をついた。
座席表の名前が、薄いままだが戻る。
完全ではない。けれど、消えてはいない。
トウマの裂け目は、空席の机の脚の手前で止まっていた。
ユウリは息を切らしながら言う。
「まだ、切らないで」
「甘い」
トウマは吐き捨てた。
「それでも」
ユウリは、まっすぐ見返した。
「まだ、分からない」
「分かってからじゃ遅いものもある」
「分からないまま消したら、戻せないものもある」
トウマの目が、鋭くなる。
二人の間で、空気が張り詰める。
その時、教室の窓の外が暗くなった。
夕方の光が消えたのではない。
教室そのものが、別の場所へずれ始めていた。
床が軋む。
壁の色が変わる。
白い現代的な壁紙が、古い木造校舎の板壁へと滲んでいく。蛍光灯が消え、代わりに古い裸電球のような淡い光が天井から下がる。
机が増えた。
一つではない。
二つ。
三つ。
十。
数えきれないほどの机が、教室の奥へ奥へと並んでいく。
どれも空席だった。
椅子はきちんと引かれ、机の上には何もない。
ただ、誰かが座るのを待っている。
ミオが小さく悲鳴を飲み込んだ。
レンが周囲を見回す。
「旧校舎……なのか?」
アヴィの声が、ノイズ混じりに響く。
『空席反応、増殖……いや、これは過去の教室構造だ。前身校の記録に引きずられてる』
トウマが舌打ちする。
「だから、切るって言ったんだ」
その時、黒板に白い文字が浮かび始めた。
かり、かり、かり。
チョークが走る音。
誰も書いていない。
けれど、文字は勝手に増えていく。
本日転入:星宮ミオ
ユウリの心臓が、止まりかけた。
ミオの身体が、ふっと空席の方へ傾く。
「ミオ!」
ユウリは彼女の手を掴む。
けれど、今度は強い。
見えない何かが、ミオの名前を黒板の文字へ、空席の机へ、古い出席簿の空欄へ引き寄せている。
ミオの瞳に、星空が映る。
彼女は抵抗しようとしている。
でも、その足が一歩、空席の列へ向かって動いた。
黒板の文字が、さらに濃くなる。
本日転入:星宮ミオ
空席の一つが、ゆっくり椅子を引いた。
そこへ座れ、と言うように。
終節 ― 空席は空けておく
黒板の文字が、白く濃くなっていく。
本日転入:星宮ミオ
それは、ただの文字ではなかった。
名前が書かれるということ。
席に紐づけられるということ。
この教室の一員として、記録されるということ。
そのすべてが、黒板の上で一つの処理になっていた。
旧校舎の教室は、もうユウリたちの知っている星綴高等学園の教室ではなかった。壁は古い木板に変わり、床は歩くたびに乾いた音を立てる。窓枠は黒く、硝子の向こうには夕方でも夜でもない、薄い星空が広がっている。
机が、いくつも並んでいた。
全部、空席だった。
椅子は少しだけ引かれ、机の上には何もない。
けれど、どの席も待っている。
誰かが座るのを。
誰かの名前が書かれるのを。
誰かの未来を、自分の上に置いてもらえるのを。
その無数の空席の中で、一つの椅子だけが、ミオに向けて開かれていた。
「ミオ!」
ユウリは、彼女の手を強く握った。
けれど、ミオの足は前へ出ようとしている。
彼女自身が進みたいわけではない。そう分かる。ミオは必死にこちらへ戻ろうとしている。それでも、見えない糸が彼女の名前を引いていた。
黒板の文字が、さらに濃くなる。
本日転入:星宮ミオ
ミオの周囲に、薄い光の文字が浮かび始めた。
それは日本語だけではなかった。
アルファベットのようでもあり、古い神名の断片のようでもあり、知らない文字体系の破片のようでもあった。
アマテラス。
アルテミス。
ヘカテー。
ムーミスト。
イザナミ。
名前が、ミオの周囲を巡る。
どれも彼女そのものではない。
けれど、どれも彼女に触れている。
光、月、夜、境界、死、沈黙、再生、理。
ミオの中に流れ込んだ女神たちの残滓が、空席の呼びかけに反応していた。
空席は、人間の席だけを求めているのではない。
未確定のもの、まだどこにも座っていないもの、どの名前にも完全には収まっていないものを呼んでいる。
だから、ミオは危険だった。
星宮ミオという一人の少女である前に、神々の名の断片が彼女を取り囲み、空席の方へ押し出そうとしている。
「星宮ミオ」
ユウリは呼んだ。
声が震えた。
でも、止めなかった。
「星宮ミオ!」
ミオの瞳が揺れる。
星空を映していた目に、ほんの少しだけ焦点が戻る。
「……ユウリ」
「こっち。こっちを見て」
「戻りたい」
ミオの声は、細かった。
「でも、呼ばれる。たくさんの名前が、座っていいって言ってる。ここなら、どれかになれるって」
「ならなくていい」
ユウリは即座に言った。
「ミオは、ミオでいい」
その言葉が届いたのか、ミオの足が止まる。
けれど、空席の椅子がさらに大きく引かれた。
きい、と古い木が鳴る。
黒板の文字が増える。
本日転入:星宮ミオ
出席番号:第零席
着席確認:未了
レンが、真っ青な顔で叫んだ。
「アヴィ、止められないのか!」
ユウリのスマホ画面で、アヴィ=シグルが歯を食いしばっている。
『無理だ。対象が学校記録に食い込んでる。教室、出席簿、座席表、本人の未確定名、全部が接続されてる。外から切るか、上位の記録で上書きするかしないと――』
「だったら俺が切る」
トウマが一歩前へ出た。
彼の足元から、黒い裂け目が再び走る。
旧校舎の床に、紙を裂くような線が伸びる。
彼の背後で、《断章裂貌》の影が濃くなる。
破れた紙片が舞う。
仮面の欠片が浮く。
黒い空白の目が、ミオを呼ぶ空席を見据える。
トウマは手を上げた。
その指先に、裂け目が集まる。
「今度こそ、根元から――」
「待って!」
ユウリは叫んだ。
「待てない」
トウマの声は低い。
「名前が黒板に出た。席が決まる。次は出席簿だ。そうなったら、星宮ミオが星宮ミオとして戻れる保証はない」
「でも、今切ったらミオまで巻き込む!」
「巻き込まれる前に切るしかないって言ってるだろ!」
トウマの声が、初めて怒鳴り声に近くなった。
その一瞬、ユウリは見た。
トウマの顔に浮かんだものは、怒りだけではなかった。
恐怖だった。
誰かがまた席に取られることへの恐怖。
痕跡だけ残ることへの恐怖。
名前が読めない名簿を、もう一度見ることへの恐怖。
ユウリは言葉を失いかけた。
その時だった。
「全員、そこから離れてください」
穏やかな声が、旧校舎の教室に響いた。
有無を言わせない声だった。
教室の扉が開いている。
そこに、烏丸マシロが立っていた。
白いブラウスに、整った制服風のジャケット。髪はいつも通り乱れなく結ばれている。放課後の旧校舎という異常な空間に立っているのに、彼女だけがまるで会議室へ入ってきたような顔をしていた。
「烏丸……?」
レンが呟く。
マシロは教室内を一瞥した。
無数の空席。
黒板の文字。
ミオを取り囲む女神名の断片。
トウマの足元に走る黒い裂け目。
ユウリのスマホに表示されたAVISの警告。
そのすべてを、彼女は一瞬で記録するように見た。
「状況を確認しました」
「なんでここに」
ユウリが聞く。
「学内相談員として、本日付で臨時巡回を行っています」
「それ、本当?」
「書類上は」
マシロは淡々と答えた。
嘘ではない。
けれど、すべてでもない。
彼女は一歩、教室に入った。
その瞬間、空気が変わった。
白い線が、教室の四隅に走る。
旧校舎の木板の壁を、白いフレームが囲む。
床の上に、四角い記録領域のような枠が浮かび上がる。
マシロの背後に、何かが現れた。
完全な神格顕現ではない。
しかし、確かに契約相の片鱗だった。
白い記録板が、空中に並ぶ。
薄い審判札が、羽根のように浮遊する。
承認、却下、保留、隔離。
冷たい光文字が、紙ではなく空気そのものに刻まれていく。
《記録審天》。
その名を、ユウリはAVISの表示で知った。
《契約相反応》
《識別候補:記録審天》
《属性:記録/審判/管理/欠番処理》
《警告:上位記録補正が発生しています》
マシロの周囲に、白い文字列が展開される。
《未登録席を確認》
《学内記録からの隔離を申請》
《欠番処理:承認待機》
《対象範囲:教室/出席簿/座席表/関係記憶》
「欠番処理……?」
ユウリの声がかすれる。
マシロは、ミオの方を見た。
「星宮さんへの着席要求を確認しました。このままでは、本人の現在名に干渉します。対象席を学内記録から隔離し、関連する記憶を補正します」
「補正って、みんな忘れるってこと?」
「必要な範囲で」
「それ、なかったことにするってことじゃないですか」
「危険な記録を残すより安全です」
マシロの声に迷いはない。
白い記録板の上で、欠番処理の文字が点滅する。
《欠番処理:承認待機》
トウマが、黒い裂け目を少しだけ下げた。
「それで、席は消えるのか」
「学内記録からは」
「記憶も?」
「補正します」
「なら早くやれ」
ユウリはトウマを見た。
「トウマ」
「これが一番安全だ」
トウマは言った。
「席も、記憶も、痕跡も消える。誰も座らない。誰も引っ張られない。残しておく理由がない」
その言葉は、トウマ自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
痕跡だけ残るのが、一番きつい。
彼はそう言った。
だから、痕跡を消す方を選ぼうとしている。
マシロは、ユウリを見た。
「天瀬さん。あなたも離れてください。今なら、星宮さんへの干渉を最小限にできます」
ミオの手が、ユウリの手の中で震えている。
空席はまだ、彼女を引いている。
黒板の文字は消えない。
本日転入:星宮ミオ
白いフレームが、教室を囲う。
黒い裂け目が、床を走る。
無数の空席が、静かに待っている。
消す。
それが一番安全なのかもしれない。
空席を欠番にする。
みんなの記憶から補正する。
なかったことにする。
そうすれば、ミオは助かる。
クラスメイトも危険から遠ざかる。
トウマの言う通り、痕跡も残らない。
でも。
ユウリは、昨日のカフェを思い出した。
栞が持っていたレシート。
「本日の客:栞」と印字された紙。
席を空けていただけだ、と言ったマスターの声。
空いているものを、すべて埋める必要はない。
でも、すべて消してしまえば、そこに何かがあったことすら分からなくなる。
空席は危険だ。
でも、空席はただ誰かを奪いたかったわけではない。
待っていた。
怖がっていた。
自分が何のためにあるのか分からなくなっていた。
それを、ただ欠番として処理していいのか。
「消すんじゃなくて」
ユウリは言った。
声は震えていた。
それでも、言葉にした。
「空けておく」
マシロの目が、わずかに細くなる。
トウマが、苛立ったように振り向いた。
「何言ってるんだ」
「誰かを座らせる席じゃなくする。誰も奪わないための席にする」
ユウリは、ミオの手を握ったまま続けた。
「空いていることを、欠落じゃなくて保留にする。誰かが座らなきゃいけない席じゃなくて、誰も無理に座らなくていい席にする」
マシロは静かに問う。
「空けておくことが、次の被害を生むとしても?」
ユウリは、すぐには答えられなかった。
その通りだった。
空けておくことは、危険を残すことでもある。
次にまた誰かが引き寄せられるかもしれない。
ミオがまた狙われるかもしれない。
トウマの言うように、分かってからでは遅いかもしれない。
でも、消せばいいという答えにも、今のユウリはうなずけなかった。
「……危険があるなら、止める方法を作ります」
「抽象的です」
「でも、消したら終わりです。何があったのかも、何が危なかったのかも、誰も分からなくなる」
「記憶を残すことが、再発の原因になる場合もあります」
「それでも」
ユウリは、空席の列を見た。
「これは、誰かを消すための席じゃなかったはずです。最初は、まだ来ていない誰かのために空けておく席だった。未来を決めつけないための余白だった」
マシロは黙っている。
トウマは、苦々しい顔をしていた。
ユウリは続けた。
「なら、今もそういう席に戻せるかもしれない。誰かを座らせる席じゃなくて、誰も奪わないための席にする」
沈黙。
黒板の文字が揺らぐ。
ミオの周囲を巡っていた女神名の断片が、少しだけ薄くなる。
アヴィが画面の中で低く言った。
『理屈としては、処理可能かもしれない』
「本当?」
『ただし、ユウリ一人じゃ無理だ。あの席の拡散を止める記録枠がいる。人の名前に接続する線を断つ刃もいる。そして、空席そのものを別の扱いで観測する宣言がいる』
レンが、すぐに顔を上げた。
「記録枠は烏丸。接続線はトウマ。観測宣言はユウリってことか」
『そうだ。すごく嫌な組み合わせだが、今はそれしかない』
マシロは、静かにユウリを見ていた。
やがて言う。
「条件があります」
「条件?」
「学内への拡散は止めます。ですが、欠番処理を完全には解除しません。監視対象として記録します」
「監視……」
「必要です」
ユウリは唇を噛んだ。
マシロはさらに続ける。
「あなたの言う“余白”が、実際には危険な未登録領域である可能性は消えません。私はそれを見逃せません」
その声は冷たい。
でも、感情がないわけではなかった。
彼女もまた、彼女の立場で守ろうとしている。
管理という方法で。
記録という方法で。
トウマが、低く言った。
「俺は接続だけ裂く。席がまた誰かを引いたら、次は丸ごと切る」
「トウマ」
「譲歩してるんだ。文句言うな」
そう言って、彼はミオの方を見た。
「星宮を離すのが先だ」
ユウリは頷いた。
「分かった」
マシロが右手を上げる。
白い記録板が、教室の四隅で展開する。審判札のような光片が宙に並び、空席の列を囲む。
《対象範囲を限定》
《学内拡散を停止》
《記録枠:旧校舎一室へ収束》
《欠番処理:部分保留》
トウマの足元から、黒い裂け目が走る。
今度は机を切り裂くのではない。
空席から伸びていた見えない線だけを狙っていた。
黒板の文字からミオへ伸びる線。
出席簿の空欄からミオの名前へ伸びる線。
女神名の断片が、席へ接続されようとする線。
黒い裂け目が、それらを断つ。
ぱきん、と音がした。
紙を破る音ではない。
名前に絡んだ細い糸が切れる音だった。
ミオの身体が、ユウリの方へ倒れ込む。
「ミオ!」
ユウリは彼女を抱きとめた。
ミオは息を荒くしていたが、目は戻っている。
「……ユウリ」
「うん。ここにいる」
「私、座ってない?」
「座ってない」
ユウリは強く言った。
「ミオは、星宮ミオのまま」
ミオは、ほっとしたように目を閉じた。
次に、ユウリは空席を見た。
見てはいけない。
でも今は、見る必要がある。
誰かの名前を入れるためではない。
誰かを座らせるためでもない。
その席を、席としてではなく、保留として観測するために。
「これは」
ユウリは言った。
声が教室に響く。
「人の名前じゃない。真名でも、人格名でもない」
AVISが震える。
アヴィが小さく頷いた。
『続けろ』
「誰かが座らなきゃいけない席じゃない。誰かを奪うための空白じゃない」
黒板の文字が薄れていく。
本日転入:星宮ミオ
その文字が、少しずつ白い粉になって崩れる。
ユウリは、最後に言った。
「現在指定――保留席」
スマホ画面に、青白い表示が走る。
《対象:空席》
《真名ではありません》
《人格名ではありません》
《現在指定:保留席》
《着席要求:停止》
《吸引構文:断裂》
《学内拡散:一時停止》
旧校舎の教室が、大きく揺れた。
無数の空席が、一つずつ薄れていく。
机の列が消え、椅子が消え、黒板の文字が消える。
星空が、窓の向こうへ遠ざかる。
けれど、完全には消えない。
最後に、一つだけ机が残った。
旧校舎の奥の教室。
誰も使っていないはずの一室。
そこに、机が一つ。
椅子はきちんと収められている。
机の上には、名前のない出席簿が置かれている。
誰も座らない。
でも、誰かを奪うこともない。
静かな席だった。
教室の隅に、いつの間にか紙魚原ツヅリが立っていた。
店から出てきたのか。
それとも、紙の記録を辿ってここへ来たのか。
ユウリには分からなかった。
ツヅリは、残された机を見て静かに言った。
「よい落としどころです。空白を白紙に戻さず、穴のまま綴じた」
レンが、疲れた声で言う。
「いつからいたんですか」
「紙が呼んだ時から」
「それ、答えになってないんですよ」
「よく言われます」
トウマは、不満そうに残された机を見ていた。
「甘いな」
ユウリは、ミオを支えたまま答える。
「そうかもしれない」
「そうかも、じゃない」
トウマは、ユウリを見る。
その目には、まだ怒りがあった。
でも、さっきのような切迫した恐怖は少しだけ薄れている。
「その甘さで、誰かが消えたらどうする」
ユウリは、答えられなかった。
答えたいと思った。
消させない、と言いたかった。
絶対に守る、と言いたかった。
でも、その言葉は出なかった。
絶対なんて言えない。
今日だって、ミオは危なかった。
ユウリ一人では助けられなかった。
マシロの記録枠があり、トウマの断絶構文があり、レンが状況を読み、ミオが戻ろうとしてくれたから、どうにかなっただけだ。
ユウリの選択は、正解ではない。
ただ、消さない道を選んだだけだ。
「……分からない」
ユウリは、正直に言った。
「でも、消せばよかったって答えだけには、まだしたくない」
トウマは舌打ちした。
「本当に甘い」
けれど、それ以上は言わなかった。
マシロが、白い記録板を消しながらユウリを見る。
「あなたは、危険を残す選択をしました」
「危険じゃなくて、余白です」
ユウリは言った。
マシロは、静かに返す。
「その二つは、とてもよく似ています」
その言葉は、責めているようでもあり、忠告のようでもあった。
白いフレームが消える。
黒い裂け目も床から消え、《断章裂貌》の影もトウマの背後へ沈む。
旧校舎の教室は、静かになった。
机が一つ。
出席簿が一冊。
誰も座らない席。
そこだけが、残った。
翌日。
星綴高等学園の教室は、いつも通りだった。
机の数は元に戻っている。
窓際後ろから二番目には、本来の生徒の机だけがあり、余分な空席はない。座席表にも空欄はない。担任はいつも通り出席を取り、誰の名前でもない沈黙に引っかかることもなかった。
クラスメイトたちは、何も覚えていない。
「あれ、昨日なんか変なことあったっけ?」
「さあ。小テストが終わったことしか覚えてない」
「それは忘れたい」
そんな会話が、普通に流れていく。
女子は吹奏楽部に入っていたかもしれない自分を覚えていない。
男子は告白していたかもしれない自分を覚えていない。
座りかけた生徒も、昨日の放課後に何があったのか、曖昧にしか思い出せないようだった。
でも、ユウリたちは覚えていた。
ユウリ。
ミオ。
レン。
トウマ。
四人だけが、教室の空気が少しだけ違うことを知っている。
ミオは、自分のノートの端に小さく「星宮ミオ」と書いていた。昨日より筆圧は強い。けれど、その横に、小さな星のマークも描いている。
レンは、スマホに残さなかった。
代わりに、紙のメモに一言だけ書いた。
空席は、埋める前に意味を疑え。
そして、それを昨日の紙ナプキンのメモと一緒に財布へ入れた。
トウマは何も言わなかった。
けれど、ホームルームの間、彼は一度だけ窓際の席を見た。
そこに余分な机がないことを確認するように。
あるいは、消えてしまった何かの痕跡を探すように。
放課後。
ユウリたちは、旧校舎の奥へ行った。
星綴高等学園には、今はほとんど使われていない旧校舎の一角がある。正式には資料保管室扱いになっているらしいが、廊下の窓は古く、床は軋み、空気には紙と木の匂いが残っていた。
その奥の教室。
扉を開けると、机が一つだけあった。
昨日残した保留席。
机の上には、名前のない出席簿。
ページを開くと、そこには何も書かれていなかった。
ただ一行だけ、薄い灰色の文字がある。
第零席:保留
ユウリは、その文字を見て、少しだけ息を吐いた。
消えていない。
でも、誰かを呼んでもいない。
今は、それでいい。
ミオが机の少し離れた場所に立ち、静かに言った。
「もう、呼んでない」
「本当に?」
「うん。ただ、あるだけ」
レンが慎重に出席簿を覗き込む。
「これ、紙魚原さんに預けた方がいいんじゃないか?」
扉の外から声がした。
「紙が望めば、いずれ来ます」
ユウリたちが振り向くと、廊下の影に紙魚原ツヅリが立っていた。いつ来たのか、足音はなかった。
レンが額を押さえる。
「だから、急に現れないでください」
「古書店主は、だいたい急に現れるものです」
「そんなルールないです」
ツヅリは、机の上の出席簿を見た。
「今はここでよいでしょう。学校の中に残るべき紙です」
トウマは、扉の近くで腕を組んでいた。
彼は机には近づかなかった。
ユウリはスマホを取り出す。
AVISが静かに起動した。
今度は警告音ではない。
未定義ログとして、淡い青白い文字が表示される。
《空席反応:安定》
《現在指定:保留席》
《真名復元:未実行》
《欠番処理:未承認》
《断絶構文:部分介入》
《記録審天:照合済》
《警告:次回着席候補を検出》
ユウリの指が止まった。
次回着席候補。
文字が、もう一行だけ浮かぶ。
《候補名:星宮ミオ》
それは一瞬だった。
すぐに表示は消え、画面には通常のAVIS待機画面だけが残る。
けれど、ユウリは確かに見た。
スマホを握る手に、力が入る。
「ユウリ?」
ミオが振り返った。
その顔は、いつものミオだった。
少し心配そうで、静かで、けれどちゃんとここにいる。
ユウリは、スマホを伏せた。
「……何でもない」
嘘だった。
でも、今ここで言えば、ミオを不安にさせるだけだと思った。
トウマが、ユウリの手元をちらりと見た。
何かに気づいたのかもしれない。
けれど、彼も何も言わなかった。
旧校舎の窓の外では、夕方の空が淡く暮れていく。
西の端に、まだ細い光が残っていた。
その上に、一番星が小さく光っている。
誰かが来るための席。
誰も奪わないための席。
危険と余白のあいだに置かれた、保留された机。
ユウリは、その机をもう一度見た。
正しかったのかは分からない。
でも、今はまだ、空けておくしかない。
星の光が、名前のない出席簿の上に、静かに落ちていた。