blood〜「夜」「追憶」「月」〜
 ――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した。

 その夜は前日に比べ気温も低く、この年一番の冷え込みを記録したのではないかと思える。
 こんな夜に外に出たくない。いや、そもそもこんな夜更けに外を出歩く者も少ないだろう。もし、外に出て冷気に身をさらすようなことがあれば、その瞬間に刺すような寒さが身体全身を襲い、心臓も凍りついて止まってしまいそうだ。
 吐く息は当然、吹雪のように白いのだろうが、傘も差さずに雨の中にいたのではわからなかった。
 ――雨の中に〈それ〉はいた。
 〈それ〉は傘も差さずに雨の中にいたのだった。
 ヒトではない。
 姿形はヒトと同じモノであったが、誰もが〈それ〉を感じたときから、ヒトでないことに気づき、畏れることもあるだろう。
 闇に溶ける黒いロングコートを纏った〈それ〉は、濡れた前髪をかき上げて、前方にある古めかしい屋敷を遠い眼差しで見つめた。
 森の奥に聳え立つ今は廃屋。
 優雅なる栄華を極め、夜な夜な舞踏会が繰り広げられていた、あの頃が懐かしまれる。
 誰も訪れることのない廃屋から聴こえてくる美しい歌声。けれども、そのことに気づくものは誰一人としていない。今は忘れられた楽園。
 屋敷を見つめる〈それ〉の瞳は紅く燃えるようで、蒼白い肌についた口も薔薇の蕾のように紅く――そして濡れていた。
 〈それ〉は美の女神すらも気狂いを起すほどの美貌の持ち主だった。もはやこれは人外の美。やはり〈それ〉は人ではありえぬのだ。
 空虚から降り注ぐ星屑は地上に堕ちてもなお輝いていた。
 〈それ〉は雨の中を急ぐでもなく、見惚れてしまいそうな優雅な足取りで歩き、屋敷の玄関に立った。そして、〈それ〉が玄関の取っ手に手を掛けようとしたとき、扉は〈それ〉が触れてもいないのに、〈それ〉を通すために自ら口を大きく開けた。
 ――招かれる客。
 屋敷の中は暗く、明かりすら灯っていない。
 昼間ならば玄関ホールで美しい調度品の数々が客人を迎えてくれたことだろう。しかし、今は漆黒の闇の中。
 静かなこの場に雨の音だけが鳴り響く。どうやら先ほどよりも雨の激しさが増したようだ。時折、聞こえてくる雷鳴とともに稲光が屋敷の窓を通して紅い絨毯を彩る。
 しばらくして〈それ〉の足音が屋敷内に響き渡った。〈それ〉は暗闇の中を明かりもなしに歩いていた。しかも、その歩みに全くの迷いはない。〈それ〉は〈存在〉を感じて歩いているのだ。
 やがて長い廊下を歩いた〈それ〉は、ある扉の前で歩みを止めた。〈それ〉は知っていた。このドアの向こうに〈存在〉がいることを――。
 雷が鳴り響き、窓から差し込む稲光が〈それ〉の横顔を照らした。
 ――〈それ〉は微笑んでいた。まるで氷でできた三日月のような微笑を〈それ〉は浮かべていたのだ。
 ドアノブに手を掛けて〈それ〉が扉を開けた瞬間、甘い香りと鬼気が激しい風とともに、部屋の外に嘆きながら逃げ出していった。
 燃え揺れる瞳を持つ〈それ〉の視線の先に、〈存在〉は確かにいた。
 そこに脚を組んで座る〈存在〉は、夜のようなドレスのスリットから覗く艶かしい脚を組み替えた。
 真っ赤なルージュを塗った上唇を舐めた〈存在〉は、この世ならぬ魅惑の声を発する。
「……愛しい人」
 甘い空気が場を満たすが、それはすぐに凍ることになった。
「私を元の身体に戻してもらおう」
 氷のように鋭い〈それ〉の声が低く響き渡り、どこからか冷たい風が部屋に吹き込んだ。
 場は凍りついたとしても〈存在〉は変わることなく、妖艶とした空気の羽衣を身体に纏い、甘い声を漏らした。
「妾は貴方に永久の美を与えた。それのなにがご不満?」
 童女のように無邪気に笑う〈存在〉は、椅子に座りながら脚をぶらつかせ、しばらくしてから勢いをつけて立ち上がった。
「妾がせっかく永久を与えたのに……」
「永久などいらない。私は限られた時間の中を生きたかった」
「でも、元に戻してあげない」
 悪戯な口元を魅せた〈存在〉は、自分よりも背の高い長身の〈それ〉の前に立ち、〈それ〉の顎に白い手を伸ばし、そのまま唇と唇を重ね合わせた。
 甘くて紅い林檎。あの時もそうだった。差し出された禁断の紅い果実を口にしたときから……。
 〈それ〉の顔から離れた〈存在〉は無邪気に笑った。
 だが、〈それ〉の表情は白い月のように、無表情のまま〈存在〉を見据えていた。
「私を元に戻す気はないのか?」
 〈それ〉の目的は元の身体に戻ること。それだけが望み。それを叶えるためにここにいる。
 目をゆっくりと閉じた〈それ〉の脳裏に過去の懐かしい日々が思い出される。
 望みもしない永久を手に入れた〈それ〉は、多くのものを失い、壊され、嘆いた。
 〈存在〉が〈それ〉の両手を優しく掴み、紅い唇を歪めながら嗤い、踵を軽やかに弾ませた。
「ねえ、二人だけの舞踏会をしましょう?」
「断る」
 鋼の声で強く断られた〈存在〉は目に涙を浮かべて頬を膨らませた。
「ねえ、踊りましょうよ。ずっとずっと二人だけの世界で……」
「もう一度だけ問う。私を元の身体に戻す気はないか?」
「ワルツ? それともジルバで夜を明かしましょうか?」
「……それが貴女の答えか」
 〈それ〉の手が激しくも美しく動き、鮮血が部屋を鮮やかに染め、鈍い音を立てながら嗤う頭が床に堕ちた。
 胴から切り離された首は微笑みながら〈それ〉を愛しく見つめていた。決して放さないと言わんばかりに。
「貴方ったら、最後まで意地悪なヒト」
 〈それ〉は手にしっかりと握っていた白木の杭を、首のない身体の内でまだ激しく脈打つ心臓の上で振り上げた。

 ――そして、彼は彼女の胸に力強く杭を突き刺した。

 その刹那、床に転がっていた頭についた口から大量の黒血が噴き出され、〈存在〉は耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げた。
 ――こうして戦慄の舞台のひと幕は閉じることになったのだった。
 屋敷を後にした〈それ〉は、そこでようやく自分の顔についた返り血に気がつき、手で拭い去ると、真っ赤の染まった手をしばらくの間眺めていた。
 そして、手についた血を舌で艶かしく舐め取ると、空を見上げて微笑んだ。
 先ほどまで降っていた雨はすでに止んでおり、雨雲の切れ目から白い満月が顔を出して嗤っていた。

 Fin

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