ハンター
 パリ市街の地下を走る電車は、徐々にスピードを落としながら駅に停車した。
 その駅で下車しようとしていたルイーズの目の前でドアが開く。
 次の瞬間、視界を奪うほどの霧が車内に流れ込んできて、ルイーズは思わず後ずさりをした。
 窓もドアも霧で覆われ、ホームがまったく見えない。
 乗客たちが火事ではなかいかと騒ぎはじめると、何事もないように霧の中から老婆が車内に乗り込んできた。
 老婆がルイーズと目を合わせ薄気味悪く笑った瞬間、銃声と共に老婆は脳漿を噴いて倒れた。
 撃ったのはルイーズだった。
 乗客の何人かは叫び声をあげたり、中には一目散に電車を降りて霧の中へ。
 慌ててルイーズは降りた乗客に手を伸ばすが、すでに霧の中に消えてしまった。
「待って逃げないで!」
 ルイーズの制止も虚しく、遠い霧の向こうから聞こえてきたのは絶叫。誰の叫びかは言うまでもない。
 乗客たちはドアとルイーズから逃げるように、反対側の席へと急いで移動していた。
 ルイーズはハンドガンを床に向けて、敵意がないことを示して事情を説明しようとするが、乗客たちの目は明らかに恐怖と疑心でルイーズを見ていた。
 しかし、ルイーズを取り巻く状況は一変した。
 老婆の屍体の異変に気づいた女が、口元を押さえたが間に合わず、堪らず車内に嘔吐してしまった。
 そこにあった屍体は老婆とは似ても似つかない、毛むくじゃらの何か。猿にも似ているが、根本的に別の生物であり、見ているだけで胸がむかつくほど醜悪で、さらには悪臭を放っている。
 ルイーズへの殺人の疑いは晴れたが、老婆の変貌は新たな恐怖を生むことになった。
 乗客たちの視線はルイーズに説明を求めているようだった。
「大丈夫、心配ないから。あたしこの手の専門家だから」
 何の専門家かはわからないが、事情が飲み込めない乗客たちにとって、ルイーズの存在は大きい。
 ルイーズは異形の屍体を外へ引きずり出そうとした。
「ちょっと誰かが手伝って?」
 乗客たちは顔を背けた。
 得体の知れない見るも耐えない生物の屍体に触れることも、近づくことすら嫌なのが正直な気持ちなのだろう。
 仕方がなくルイーズは一人で屍体をドアのすぐ外に引きずり出した。
「仲間の屍体を見せしめに置いとけば、雑魚は不用意に近づいてこないから。ああ見えても奴らは用心深いのよ」
 奴らということは、霧の向こうにまだ仲間がいるということか?
 その矢先、霧の中から影が車内へ乗り込んできた。
 すぐにルイーズは銃口を影に向けたが、老婆のような結末にはならなかった。
 驚いたようすでルイーズは声をあげる。
「どうしてここに!?」
 そこに立っているサングラスの男はミシェル、ルイーズとは知り合いだった。
「家出少女の探索をしていたら偶然この場に巻き込まれた」
「家出少女だなんて、あたしを子供みたいに言わないで。少し疲れたから田舎に帰ろうと……」
「しかし運命からは逃れられない」
 その言葉にルイーズは嫌そうな顔をしてうなずいた。
 ルイーズとミシェルは乗客を1ヶ所に集めることにした。乗客は1車両分。合わせて20人弱。
 別の車両の人々はどうなったかというと、そこにいなかった。
 正確には、隣の車両と繋がっているはずのドアを開けると、そこには霧が広がるばかりで、車両が消失していたのだ。おそらく今いる車両のほうが隔離されたと考えるのが正しい。
 乗客の中にはルイーズたちの指示に従わない者もいたが、無理強いをするつもりはない。
「勝手に死ねば?」
 とルイーズは言い放った。
 生と死がせめぎ合っている状況だった。
 下手な行動をすればすぐに死が訪れそうだった。
 だが、本当に死が訪れるかは、乗客の誰にもわからなかった。
 車両を飛び出していった人々は帰ってこない。ただ絶叫だけが聞こえた。
 老婆の屍体が醜い生物に成り果てたことや、隣の車両が消失してしまったこと、不可解な出来事が起きているのはたしかだが、果たしてルイーズたちを信用していいものか?
 乗客の男が考え深く尋ねる。
「あんたらいったい何者なんだ?」
 ミシェルは答える仕草も見せずルイーズが口を開くことにした。
「国家公務員よ、害虫駆除専門の」
 ただの害虫でないことはすでに明らかだろう。
 ルイーズは車両の窓から見える霧を眺めた。
「たぶん魔層化よね。ねえミシェル、出口わかる?」
「いや、気づいたらすでにこの霧の中にいた」
「こんなとこでじっとしててもラチが明かないわ。ちょっと魔層化の原因を突き止めに行ってくるわ!」
「よせ、戦力を分散するのはよくない。それに俺一人でここにいる人間たちを守れるかどうか……」
「謙遜なんてらしくないわ。本当にミシェル? ……なんてね」
 ルイーズは笑って見せた。
 しかし、その笑みが急速に凍り付いていく。
 目の前でミシェルだったものが、黒い毛むくじゃらの悪鬼に変貌していくではないか!
 さらに霧の中から次々と這い出てくる黒い影。
 いつの間にか辺りは奴らに囲まれてしまっていたのだ。
 ルイーズはすぐさま銃を抜いたが、同時にイカのような触手によって銃が弾かれ床に。
 乗客の悲鳴があがる。
 朱色の鮮血が窓にほとばしる。
 ルイーズはなんとか床から銃を拾い上げたが、引き金が引けない。
「なんでジャムるの!」
 銃がなんらかの理由でジャミングを起こしてしまったのだ。
 あいにくルイーズはバックアップガンを装備していない。もしも持っているなら床に落とした銃を拾う手間を省いている。
 ルイーズが手こずっている間にも辺りは惨劇に見舞われ、乗客はひとり残らず得体の知れない悪鬼たちの餌食になった。
 もはやルイーズは逃げることしかできなかった。
 血の海に足を取られて転びそうになるが、どうにか車両を飛び出して霧の中へ逃げた。
「また誰も救えなかった!」
 ルイーズは唇を噛みしめながら走った。
 まさか過去にも同じようなことはルイーズの身に?
 霧は視界を奪う。こんな視界の悪い場所で走っていては、いつ目の前になにかが現れても寸前まで気づけない。
 案の定、目の前に毛むくじゃらの何かが!
 思わず突き出した両手で毛を触れると、まるで汚泥に手を突っ込んだように、何かが手にべっとりとついてしまった。
 ルイーズは慌てて飛び退いて辺りを見回すと、霧の中から続々と黒い影が這い出てくる。
 もう逃げられない。
 霧が引き裂かれるように晴れていく。その中から現れる黄金の翼。
 鳥のような黄金の翼を背中に生やしたヒトのような者が現れた。その顔は微笑みをたたえ、男とも女ともつかない中性的で美しいものだった。
 毛むくじゃらの悪鬼たちは畏怖するように地面にひれ伏した。
 敵か味方か、ルイーズにはわかっていた。
 その神々しい姿はまるで……しかし、その瞳の奥にあるのは邪悪。
 ルイーズは最後の最期まで悪あがきをするつもりだった。
 持っている銃は引き金が動かない。
 だが投げることはできる!
 ルイーズの手から離れた銃は回転しながら黄金の者に向かって飛んだが、あと少しというところで見えない力によって弾かれてしまった。
 毛むくじゃらの波がルイーズに押し寄せてくる。
 武器もない逃げ場もない
 ルイーズがその身一つで戦いに挑もうとしたとき、連続した銃声が鳴り響いた。
 次々と黒い影が倒れていく。
 コートの裾を靡かせながら華麗に銃を撃つ男の影。
 サングラスを直す男の姿を見てルイーズが叫ぶ。
「ミシェル、今度こそ本物よね!」
 その証拠にミシェルは次々と異形の者たちを仕留めていった。
 微笑みをたたえていた黄金の者の顔が一変して鬼の形相となり、ヒトとも獣ともつかぬ叫び声をあげた。
 神々しかった跡形もなく醜悪な存在となったそれは、涎を垂らしながらミシェルに襲いかかってきた。
 目の前に牙を剥いた醜悪な顔が迫る。
 ミシェルはすぐそこにある巨大な口の中に銃口を突っ込んだ。
 放たれる銃弾。
 それも連続して何発もの銃弾が喉の奥から後頭部を抜けていった。
 時が少しの間、流れることを止めた。
 そして、ミシェルが銃を口から抜くと同時に動き出し、異形の存在は崩れながら地面に倒れた。
 地面に倒れたそれは、もはやヒトの形すらしておらず、毛の生えた何千匹ものミミズの塊のようであった。
 ルイーズが歓喜の声をあげながら、両手を広げてミシェルに駆け寄った。
「助かったわ。でもどうしてミシェルがここに!?」
「家出少女捜索の任務だ」
 その言葉を聞いてルイーズは顔を強ばらせた。
「本当にミシェル?」
 問いかけなどミシェルは聞いておらず、すでに前を歩いていた。
 慌ててルイーズはミシェルを追いかけた。
「待って相棒を置いてく気?」
「一生経ってもお前を相棒にする気はない」
「そんなツレないこと言わないでよ」
 プイッとそっぽを向いたルイーズの瞳に黒い影が映った。
「わぉ、あっちから敵が来た!」
「向こうからもだ」
「あたし武器持ってない!」
「俺の相棒を貸してやる」
 そう言いながらミシェルは予備の銃をルイーズに手渡した。
 黒い軍勢が蠢きながら押し寄せてくる。
 数え切れない敵を前にして、たった二人でなにができるのか?
 ミシェルの銃が吼えた。
「残らず始末するぞ」
「いつも通りにね」
 ルイーズはにっこりと笑った。
 そして、二人は――。
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