Magical 80's pop street
 80番通りにある安っぽいレストランカフェ。
 客もまばらな昼過ぎに、この店のウエイトレスが、雑誌の取材に答えていた。
「ええ、そのことだったらよ〜く知ってるわよ。でもまさか彼がまた雑誌に載る時がくるなんてね。そう、あそこが彼の特等席よ」
 ウエイトレスが指さしたのは、今は誰もない窓際の席だった。

 その日も“男”は独りっきりでその席に座り、コーヒー1杯で何時間も粘っていた。
 この店に来始めたころは、ファンと名乗る人々がその“男”に声を掛けもした。それもいつしか、からかう者ばかりが声を掛けるようになり、やがては誰も声すら掛けなくなってしまった。
 誰もがその“男”のことを忘れていた。
 時代は流れ、いったい“男”が何者だったのか、すっかりみんな忘れている。
 少し陽が落ちはじめたころ、急な通り雨が地面を激しく叩いた。
 傘も持たずに店に駆け込んできた若い女性。
 濡れてしまった髪や服をハンカチで拭いながら、空いている席を探して店の奥まで歩いてきた。
 そこで彼女は“男”と目が合った。
 運命の出逢い。
 まるで世界から人々が消え、二人っきりになってしまったような感覚。
 瞳を丸くした女性はその“男”に声を掛けた。
「わたしあなたのファンなんです!」
 “男”は少し煙たそうな顔をして、目を背けてしまった。
 人に声を掛けられたのは久しぶりだった。けれど、それは嬉しいことではなく、華やかな昔を思い出してしまう嫌なことだった。
 “男”も自分で分かっているのだ。もう自分は過去の人間なのだと――。
 しかし、女性は嫌な態度を取っている“男”に声を掛け続けた。
「レコードも全部持ってます。今でもたまに聴いたりするんですよ、本当に良い曲ばっかりですよね」
 そう、“男”はポップス歌手だった。
 何か心に響くことでもあったのか、“男”は顔を上げて微笑んだ。
「そこの席座りなよ」
 “男”は自らの前の席を女性に勧めた。
「本当にいいんですか、ご一緒して?」
 女性は本当に嬉しそうな顔をして、落ち着かない様子で席に着いた。
 当時は、誰もが“男”に憧れ、遠い曇の上の存在だった。その“男”が今こうして、女性の目の前の席に座ってコーヒーを飲んでいる。
「本当に大ファンなんです。特にメンバーの中ではあなたのことが大好きで、だってとっても格好良くて、歌声も素敵で……あのぉ、今でもぜんぜん変らないんですね、見た目が。まるで時間が止ってしまったみたい」
 “男”はニッコリと微笑んだ。その笑顔は今でも輝いていて、あの頃のままだった。
 女性は少し頬を紅くして目線を逸らすと、急に慌てたそぶりを見せながら、手帳を取り出して広げた。
「あの、サイン……もらってもいいですか?」
「いいよ」
 “男”は女性からペンを受け取ると、快くサインを書きはじめた。
 久しぶりに書いたサインだったが、これまで何万回と書いてきたサイン。手が自然と動く。
 女性が身を乗り出した。
「ジーナへって書いてもらってもいいですか?」
「キミの名前?」
「はい」
 このあとも二人は店の片隅で楽しそうに話した。
 夕立が止んだ頃には、すっかり町は夜陰に包まれ、冷え冷えする風も吹いていた。
 店を出たジーナと“男”は夜の町を歩き出す。
 月明かりが不気味な影を映し、路地に足音が木霊する。
 そして、どこからか聞えてくる野犬の遠吠え。
 ジーナは“男”に身を寄せた。
 静かな夜なのに、ざわざわとする感じは、まるで何かが忍び寄って来るような……。
 足早に墓地の横を通り過ぎようとしたとき、前方から人影が近づいてきた。それも1つ2つの影ではなく、たくさんの影がゆっくりと押し寄せてくる。
 恐ろしくなったジーナが背後を振り返ると、後ろからも人影が近づいてくる。
 助けを求めようとジーナは“男”の顔を覗き込んだ、その時!
「キャーーーーッ!」
 そこにあったのは恐ろしい怪物の顔だった。
 牙を剥いて襲いかかってくる“男”を突き飛ばしてジーナは逃げようとした。
 だが、周りは亡霊だらけ。腐乱した体を引きずりながらゾンビが近づいてくる。
 次々と墓場から這い出してくるゾンビ。
 ジーナは必至になって逃げ出した。
 行方を阻むゾンビを突き飛ばすと、ベットリと得体の知れない粘液が手にこびり付き、ゾンビは手足を崩しながら倒れた。
 背後からジワジワと追いかけてくる亡霊たち。
 ジーナの背筋が、冷たい汗で凍る。
 脇目もふらず逃げ回ったジーナは、明かりも点いていない家に逃げ込んだ。
 玄関は鍵も掛っておらず、家の中には人の気配がなかった。
 代わりにあったのはゾッとするような気配。
 窓の割れる音!
 すぐに振り向くと、ゾンビが窓から入ってくる。
 さらにドアが破壊され、“男”が部屋に入ってきた。
 追い詰められたジーナは床に尻餅を付ながら後ずさった。
 恐ろしい顔をした“男”が両手を伸ばしながら、ジーナに襲いかかる!
 もうダメだと思ったジーナは目を強くつぶった。
 そして――。
「大丈夫? 少し飲みすぎたんじゃないの?」
 ジーナの肩を叩きながら、掛けられた優しい声。
 恐る恐るジーナが目を開けると、部屋の明かりはいつの間にか点けられ、目の前には優しい顔をした“男”の姿。怪物なんてそこにはいなかった。
 “男”に手を借りながらジーナは立ち上がり、ほっと胸をなで下ろした。
 きっと悪い夢でも見たのだろう。
 “男”はジーナの背後から包み込むように抱きしめた。
 ジーナも恐怖が解けて気が緩んだのか、そのまま身を任せて瞳を閉じた。
 だが、急に寒気が走ったジーナは目を見開いた。
 目の前の鏡に映る自分と――背後で牙を剥く怪物の姿!
「キャーーーーッ!」
 怪物の魔の手を振り切ってジーナは逃げた。
 キッチンに駆け込んでナイフを手にするジーナ。
「イヤーーーーッ!!」
 ナイフを強く握ってジーナは“男”に突進した。
「ギャァァァァァッ!!」
 怪物の断末魔が鼓膜を振るわせた。
 心臓にナイフを突き立てながら、“男”は床に倒れて痙攣した。
 そして、やがて“男”は動かなくなった。
 血しぶきを顔に浴びたジーナは、放心したまま床にへたり込んでしまった。
 何が起ったのかわからない。
 だが、これですべて終わったのだ……。
 動かなくなった“男”の屍体。
 その顔がジーナの気付かないところで、牙を剥いて笑った。
「キャーーーーッ!」

 ウエイトレスは話し終えると、あっけらかんと笑った。
「なんて話なんだけど、安っぽいB級ホラーでしょう?」
「いや〜、うちの雑誌にはもってこいの話ですよ」
 取材はゴシップ紙の都市伝説特集だった。
 もう何年も前の話になるが、この辺りで何人もの女性が行方不明になるという事件が起きた。それが最近になってまた一人、女性がこの店を最後に行方を消したのだ。
 記者は頭を掻きながらウエイトレスにあることを尋ねた。
「それで、その“男”の名前は何ていうんですか?」
「なんだったかしらね〜」
「バンドの名前でもいいんで思い出してくれませんか?」
「それがぜんぜん思い出せないのよね。たしかその人、ヤク中になって自殺しちゃったって聞いたけど……」
「そんな歌手いましたっけ?」
 結局、その“男”が何者だったのか、誰も思い出すことができなかった。
 取材を終えた記者が帰ったあと、ウエイトレスはとある席に向かってニッコリと微笑みかけた。
 そこにはいつもの席でコーヒーを飲む人影が……。
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