ナーショの書
 生まれては死んでいく世界。
 それは巡る廻る〈伝説の書〉へと続く物語。
 かの名はナーショの書。

 天は彼女に才能を与えた。
 多くの書を読み、多くを記憶していく。
 瞬く間にナーショは国中の書物を読み尽くし、すべてを記憶した。
 知の象徴として謳われ、地位と名声を手に入れたナーショだったが、彼女は知らなかった。
 知識とは宇宙の広がりに等しいことを――。
 彼女は国から一歩も出たこともなく、陽の下ですらあまり出歩かない。
 世界とは自分のいる場所と書の中だけ。
 盲目にもナーショはそれがすべてだと思いこんでいた。
 この国には彼女を咎める者はいない。
 しかし、そんなときに現れた旅人の男。
 旅人は〈伝説の書〉を求め旅をしているのだという。
 そしてたどり着いたのがナーショの元。
「〈伝説の書〉を知っているか?」
 旅人の問いにナーショは、
「そんなもの空想にすぎないわ!」
 とあざ笑った。
 旅人はひどく落胆したようすで、やがて冷笑を浮かべた。
「すべての書を知る者がここに居ると聞いたが、デマだったようだ」
 早々に旅人は姿を消してしまった。
 はじめナーショは謀れたのだと思った。
 旅人は嘘をついて自分をからかったのだと。
 それほどまでに自分の知識には自信を持っていた。
 しかし、やがて不安が過ぎるようになる。
 もしも本当に〈伝説の書〉なるものがあったら?
 それを知らないということは、自負心を傷つけられる恥である。
 今の自分があるのは、自分が誰よりも優れた知識を有しているからだ。
 やがて四六時中、〈伝説の書〉のことで頭がいっぱいになった。
 国中の書物を再読したが、すべて熟知した古い知識。
 国外からも次々と書物を取り寄せるが、それは無限とも思える途方なものとなった。
 ナーショは少しずつ恐ろしさに気づきはじめていた。
 いくら速読と暗記に秀でていても、知識の海に広く深く、溺れてしまいそうな感覚。
 神経症に陥りながらナーショは書を読みあさった。
 しかし、〈伝説の書〉は見つからない。
 以前はそんなものなどないという結論に達したが、今はその確証が持てなくなっていた。
 国外の書物に手を伸ばすようになってから、知識は膨張していった。
 それは許し難いことに、知らなかった知識があったことを示唆していた。
 ナーショは許せなかった。
 知らないことがあるということを。
 まだ知らぬ知識の中に、もしも〈伝説の書〉があると思うと、怖ろしくてたまらない。
 国交のある国外の書物を入手することが安易だが、それ以外となると希だった。
 未開の地には蛮人しか住んでおらず、文明と呼べるものもないとされている。
 少なくとも書で呼んだ限りの知識ではそうだ。
 けれど、知識が増えるにつれて、やがて疑いの芽が生まれる。
 ナーショは口に出すことはなかったが、神の存在ですら懐疑的になっていた。
 この国でそれを口にすることは異端であり、重い処罰の対象となるが、ナーショは疑わずにはいられなかった。
 やがてナーショは気づきはじめる。
 知識とはいったいなんなのか?
 ナーショは世界にあるものたちを知っている。
 見たことのない土地や、そこに咲く花の名を知っている。
 しかし、それは果たして本当に存在しているものなのだろうか?
 その思いは部屋にこもっていたナーショを、外の世界へ導くものだった。
 ついにナーショは国を旅立った。
 まずは近隣の国々へ。
 そこで知識と自分の目で見て体験をしたことを符合さえ、時に書の誤りに気づいて修正した。
 ナーショは自ら書をしたためた。
 旅の全てを漏らさず記していった。
 他人が記した書には懐疑心を抱いてしまうようになっていたが、自ら記した書には疑う余地などない。
 旅は過酷なものだった。
 はじめのうちは近隣の諸国を廻ったが、やがては未開の地にも足を踏み入れた。
 同行していた兵士や使用人たちも、母国から離れるにつれてその数を減らしていった。
 ナーショは旅によって逞しさを得ていた。
 部屋の中でワインを片手に書を読み漁っていたナーショの影はない。
 知識は別のものへ変わろうとしていた。
 しかし、ナーショはまだそれに気づかない。
 遠い異国の地でナーショはある男に出会った。
 それはあの日、〈伝説の書〉を求めてナーショを尋ねてきた旅人。
 旅人は言った。
「〈伝説の書〉は見つかったか?」
 ナーショはハッとした。
 めくるめく旅路の中で、そんなことなど喪失していた。
 切っ掛けは〈伝説の書〉だった。
 旅の中でナーショは幾星霜とも言える新たな書に出会った。
 しかし、まだ〈伝説の書〉は見つかっていない。
 ナーショは悔しそうに首を横に振った。
 はじめて出会ったときに旅人の冷笑をナーショは今でも覚えている。
 未だ〈伝説の書〉に出会えぬナーショを再び旅人は笑うのだろうか?
 だが、旅人はとても真摯な瞳をしていた。
 そして、興味深そうにナーショの持つ薄汚れた書を見つめた。
 旅人はその書をナーショから借り受けると、感心したように何度も頷きながら書を読みふけった。
 書を読んだ旅人は尋ねる。
「こんなおもしろい書は初めて読んだ。名前はなんと言う?」
 ナーショは戸惑った。
 名前などなかった。
「この書はわたしの旅の記録。名前なんてないわ」
 真実のみを記してきた世界に一つだけの書。
 旅人はさらに尋ねる。
「旅の記録はこれ一冊ではあるまい?」
「もう数え切れないくらい記してきたわ」
「……そうか。やがて君は〈伝説の書〉に辿り着くかもしれない。もしかしたら……いや、やめておこう」
「なにを言おうとしたの?」
「君は君の旅を続けていればいい。すでに君は知識ではなく、それに優る別のモノを得た」
 百聞は一見に如かずことをナーショは知っている。
 陽の温かさ、花の香しさ、雨の冷たさ。
 相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。
 物事をありのままに把握し、真理を見極める旅路。
 ナーショは旅人と別れてからも旅を続けた。
 それは永遠に思われた旅路であったが、ある日突然ナーショは旅をやめてしまった。
 世界にはまだ見ぬものがいくつもある筈だった。
 しかし、ナーショは旅をやめた。
 知識とは宇宙よりも広大であることをナーショは悟っていた。
 幾星霜の転生を繰り返しても、その知識を得ることは難しいだろう。
 帰国してからナーショは国を繁栄へと導いた。
 やがて栄光の煌めきは近隣諸国も照らしはじめた。
 多くの者がナーショを褒め称え、彼女のことを記した書が生まれた。
 何十年、何百年もの月日が経ったのち、もうすでにナーショはこの世にいない。
 けれど彼女のことを記した書は、今も多くの人に読まれ親しまれている。
 新興国の初代女王ナーショの名を知らぬ者はこの国にはいないだろう。
 そう、ナーショは伝説になったのだ。
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