月の雫
 人間が神や妖精を身近に感じ、その存在を信じていた時代。
 自然豊かなその村には遥か古の時代からある掟が存在していた。
 禁断の森と呼ばれる村の近くに存在する森には、決して足を踏み入れてはいけないという掟が……。
 その掟は今日まで村の者は誰ひとり破ることなく守り続けられていた。
 しかし、禁断の森には決して足を踏み入れてはいけないという、その理由そのものを知る者は村には誰一人といない。理由は長い年月の間に人々の記憶から忘れ去られてしまっていた。
 禁断の森――そこは決して人間の足を踏み入れてはいけない秘境の地。
 今宵、満月の夜に掟のことなど全く知らない若い吟遊詩人の男が禁断の森に足を踏み入れてしまった。
 その男の名はギルバード、いつの間にかこの森に迷い込み出られなくなってしまったのだ。
 詩人は自分の真上を見上げた。空には青白い満月がぽかんと浮いている。森は静寂に満ち溢れていて、聞こえる音といったら自分の足音と時折吹く風に揺られざわめく木々たちのざわめきだけだった
 詩人は自身の金髪の髪の毛を風になびかせながら、立ち止まり耳を澄ます。すると、さわやかな風の音と共に水の流れる音が微かだが聞こえてくる。ちょうど咽の渇いていた詩人は風の便りを元に水のある場所を探すことにした。
 詩人が少し森の奥へと足を運ぶとすぐに小さな湖を見つけることができた。森の奥で誰にも知られることなくひっそりと存在している小さな小さな湖の表面は月明かりを反射してゆらら、ゆららとゆらめき、その反射した光が辺りを優しい光で包み込み、とても幻想的な静かな詩を奏でていた。
 詩人は水を飲もうと湖に近づいた。すると詩人の瞳に美しい女性の姿が映し出された。誰かが水浴びをしているらしいと思った詩人はすぐに木陰に身を潜めた。
 詩人は木陰から目を凝らして水浴びをしている美しい女性を見つめた。彼女はまだ詩人に気づいていないらしい。それにしてもなんと美しい女性なのだろうか、一糸纏わぬ姿で水浴びをしているその女性の身体は水に濡らされ、その白い透き通った肌に月明かりが照らされ、彼女の白銀に輝く長い髪から滴り落ちる水の雫はその一つ一つが宝玉のような輝きを放ち、身体を作るその曲線は妖艶さと崇美さを兼ね備えさせていた。
 詩人の心は彼女を一目見たときからその虜となってしまっていた。詩人はもっと近くで彼女を見たいという欲求に駆られ前へ出ようと足を一歩踏み出した途端に地面に落ちていた小さな小枝踏んづけてしまい、折られた小枝の音が澄んだ空気の乗って辺りに響き渡ってしまった。
 水浴びをしていた女性は小枝の折れた音を聴き取り、音のした方向へと近づいて来た。
 詩人は彼女が近づいて来たというのに逃げも隠れもしなかった。いや、出来なかったのだ、彼女の美しさに心を奪われ動くことすら出来なかったのだった。
 その間も女性は逸し纏わぬ生まれたままの姿で詩人の元へ近づいて来る。
 しかし、詩人はまだ動けない、彼女が近づいて来れば来るほどその身体はまるでバジリスクの瞳で睨み付けられたように石像と化してしまっていた。
 そして、ついに女性が詩人の目の前まで来た。詩人と女性の瞳が互いを見つめ合う。
 詩人は彼女に叫び声を上げられるのではないかと心配をしたのだが、彼女の反応は詩人の予想とはかけ離れたものであった。
 女性はその身体を少しも隠そうともせずその姿が当たり前であるかのように立ち振る舞い、そして、詩人に優しい笑顔を投げかけたのだ。
 その笑顔は神々しさに満ち溢れており、女神という者がこの世に存在するとしたならば彼女がそのお方に違いないと詩人はそう思った。
 そして、詩人は思わず女性にこう聞いてしまった。
「貴女は女神様なのですか?」
と、その言葉を聞いた女性はまた微笑みを浮かべ首を横に振った。その瞬間、彼女の髪からとても芳しい香が詩人の鼻に届いた。
 一瞬あまりの心地の良い香に惑わされ言葉を失ってしまった詩人であったがすぐに気を取り直し、言葉を続けた。
「では、貴女は何者なのですか、こんなにも夜深き時間に出歩くなんて……」
「私の名前はチュベローズ、この近くに住んでおります。貴方のお名前は何と言うのですか?」
「私の名前はギルバード、吟遊詩人をしております」
「まぁ、貴方は吟遊詩人さんでいらっしゃるの、本物を見るのは貴方が初めてだわ。どうか私に貴方の詩を聴かせて頂けないかしら?」
「私の詩を貴方に聴いて貰えるなど光栄です。しかし、その前に服を着て貰えませんか、先ほどから目のやり場に困ってしまって……」
「あら、それは気づかなくてごめんなさい、いつも裸でいることが多いもので気づきませんでしたわ。少し待って頂けますか、すぐに着替えて参りますから」
そう言って女性は森の木陰に姿消してしまった。
 しばらくして詩人の見つめる森の奥から、白い純白の大輪の花のようなドレスを身に纏った女性が詩人の目の前へと姿を現した。
「お待たせしてごめんなさい」
「いえいえ、それではさっそく私の詩をお聴かせしましょう」
そういうと詩人は腰にかけてあったハープを手に取り、白くしなやかなその指でハープをゆっくりと奏で始めた。

 月光舞う天の主は
 地に白き輝きを落とし
 そして貴女を映す出す

 私の詩は風に乗り大地駆け抜け
 巡り巡りて大気を満たし
 いつかきっと貴女の耳に

 心満たされ天に昇る水は
 貴女と私を知り
 巡り逢わせ
 久遠の時を今なお刻む

 大切な生命の源は
 熱き血潮を吹き上げ
 至福の時を肥やすでしょう

 私と貴女が巡り逢ったこの時に
 神の祝福があるように
 ここに祈りを捧げましょう

 詩人の美しい美声は彼の詩と共に風に抱かれ静かな湖畔に響き渡った。
「素敵な詩をありがとう、貴方の詩は私の耳にしっかりと風が運んで来てくれました。外の世界にはこんなにも素晴らしい詩があるのね」
「外の世界?」
「私、この森から一歩も出たことがないの」
その言葉に詩人は声を荒げてしまった。
「えっ、一歩もですか?」
「ええ、一歩も出たことがありません。あ、そうだ詩人さん」
「何ですか?」
「もし宜しければ私をこの森の外に連れて行ってくれませんか?」
「ええ、私で宜しければ」
詩人は即答し、優しい微笑みを女性に投げかけると、女性も輝くような笑みを浮かべこう言った。
「ありがとう、ございます」
その時だった、森が突然騒がしくなったのは……。
 森には突然強い風が吹き荒れ木々たちは激しくざわめき始め、遠くの方からは獣たちの遠吠えが聴こえて来た。
「どうしたのでしょうか、森が急に騒がしくなったような」
詩人は辺りを見回しながら言った。
 女性の表情は不安の色がどんどん濃くなっていき、何かに怯えるようだった。
「お爺様がお怒りになられたのだわきっと、私が森の外に出るなんて言ったから」
「お爺様?」
女性は詩人の問いかけを聞かなかったかのように無視をして、笑顔で詩人の顔を見つめた。
「私は外に出ると決めたの。さぁ詩人さん行きましょう」
そう言って女性は詩人の手を引き駆け出した。
 森を抜け出そうと走り出した彼らであったが、彼らの行く手は木々たちがまるでそれを阻むかのように立ちふさがり、なかなか森を抜け出すことができなかった。
「他の道は無いのですか?」
詩人は前を走る女性に問い掛けた。しかし、彼女の答えは不思議なものであった。
「今はどこも同じです。森を出るまで木々たちは私たちの行く手を阻むでしょう」
「どういうことですか?」
「動物のように植物もちゃんと自分の意思を持っているのよ」
「私には貴女の言っていることがさっぱりとわからないのですが」
「この森は他の森よりも意思を強く持っているの。人間と同じで考えて行動することができるのよ」
「そんなまさか!」
詩人は声を少し張り上げた。そんなことありえるはずがない、考えることのできる森があるなど、とても信じがたいことだった。
 しかし、詩人は自分の考えを改めた。なぜならば彼女が言うことはどんなことでも真実のような気がしたからだ。
 そんなことを考えていた詩人の瞳に衝撃的なことが映し出された。
 木々たちが詩人にも明らかにわかるように動き出したのだ。木の枝はぐんぐんと伸びていき女性の体に大蛇のように巻きつき、そのまま女性の身体を持ち上げ宙吊りにしていまった。
 女性は声を張り上げ詩人に助けを求めた。
「詩人さん、早く助けて!」
助けを求められた詩人は困惑の表情を浮かべた。
「私は体を動かすことが不得意で貴女をどうやって助けたらいいのやらわかりません」
「だいじょうぶ、貴方ならきっと私を助けられるでしょう……!?」
女性が詩人に手を伸ばした瞬間、彼女の身体が不意に後ろに引かれた。
「きゃーっ!」
「あっ!」
詩人は差し伸ばされた女性のしなやかな手を掴もうとしたが、あと一歩というところで空を掴んでしまった。
 女性の身体は木の枝に引きずられ、その姿は闇の奥へと消えていく。詩人は女性を見失わないように懸命に後を追い、そして詩人が辺りの様子に気づいた時には彼はコバルトブルーに輝く木々たちに囲まれた広場にいた。
「ここは……?」
詩人が小さく呟くと、何処からとも無く老人の声が聞こえた。
「禁断の森の最深部、決して人間の足を踏み入れてはいかん場所じゃ」
詩人はしゃがれた声がした方向を振り向いた。するとそこには、あの女性ともうひとり、杖を持ち立派な白ひげを蓄えた小柄な老人が立っていた。
 女性の身体はもうすでに木の枝から開放され自由の身となっている。
 詩人は老人に問うた。
「貴方は?」
「わしはこの森の長でおり、この森に住む全てのモノの父じゃ」
「詩人さん、森の外に出る夢はもう叶わないみたいだわ」
女性は悲しそうな瞳で詩人を見つめた。
「どうしてですか?」
「森の外に出ることはわしが許さん」
きっぱりと断言した老人に詩人が食って掛かる。
「彼女は外に出たがっている、その夢を貴方は何故叶えてあげないのですか?」
「森の外に出ることはこの森の掟に反する」
その言葉を聞いた詩人は突然、女性の手を掴み走り出した。
 女性と老人は突然のことに目を白黒させてしまった。

 夜の闇はその深さを増し、月明かりを纏った森は幻想的に輝き、そして蠢く。
 詩人は女性の手を引きどこまでも続く深き森の中を走る、力の続くまで……。それを森が阻む、森に住む全てのモノが彼らを、彼らの行く手を阻み苦しめる。
 木々がざわめき、枝が伸び彼らに遅いかかる。しかし、彼らの足は止まることなく、傷つきながらも大地を蹴り走り続けた。
 そして、ある時、彼らの行く手を阻む森の戦士たちが姿を現した。狼だ、狼の群れが二人を取り囲んだのだった。
 狼のひとりが言った。
「その娘を森の外に連れ出すことは許しがたき大罪である」
他の狼も口を開き言葉を紡ぎ出した。
「森の掟を破る者は万死に値する」
狼たちが声を合わせ合唱する。
「《咎人に死を……咎人に死を……》」
「なぜです、なぜこの人を連れ出してはいけないのですか!」
詩人の問いに狼たちはまた合唱を始めた。
「《おまえは知らぬ……悲劇を悲しみを……森の苦しみを……この森で起きた過去の記憶を……森を出た者は幸せになれはしない……咎人に死の償いを!》」
狼たちが詩人に一斉に牙を向け爪を立て襲い掛かる。詩人の身体は傷つき、鮮血がとめどなく滴り落ち大地を潤す。詩人は大地に身体を埋めた。
 女性は詩人に覆い被さるように彼を守りこう叫んだ。
「やめて!! もう、やめてくだい」
女性の叫びが静かな森に響き狼たちの動きを止めた。そして、女性は言葉を続けた。
「そのひとは悪くありません、悪いのは私、森の外に連れ出してくれるように誘ったのは私なのだから」
狼のひとりが口を開いた。
「娘よ、時間は久遠ではない。この先には悲劇が待つ、それでも行くのか?」
「行きます」
狼のひとりが口を開いた。
「ならば行け」
別の狼が反論を唱えた。
「それは許せぬ、森を出る娘に死を与えよ!」
狼のひとりが女性に襲い掛かり、その鋭い爪でドレスを裂き、左胸が裂け、白磁の肌からは鮮血が噴出し純白のドレスを紅く染めた。
 詩人の口元が微かに動く。
「お…おかみ…たちよ、私の声を聞け!」
詩人はゆっくりと身体を起こし、息を切らしながらも言葉を詩を歌い始めた。

 我はいく…… 自らのために
 我はいく…… この身が傷つこうと
 我はいく…… 貴女との約束を守るため

 私は許さない…… あなた方を
 私は許さない…… 自分自身の無力さを
 私は許さない……
 そのために我はいく……
 全てを敵に回しても

 狼たちの半分が合唱した。
「《ならば行くがいい!》」
狼たちの残り半分が反論した。
「《許さぬ》」
「彼らは行かせる。否と言うのなら我らが相手になろう。さぁ娘を連れて行くが良い」
詩人は女性の手を引き大地を強く蹴った。しかし、狼たちがそれを阻もうと彼らの前に立ちはだかる。だが、残り半分の狼がそれを許さない。
 詩人は女性の手を引き無我夢中で走った。決して後ろは振り返らない、狼があのあとどうなったのか詩人は知らない。知っているのは全てを見届ける月光のみだった。
 森が彼らの行く手を阻むことは無くなり、そして、程なく二人は森の出口が見える場所に辿り着くことが出来た。
「もうだめだわ、身体が言うことを聞かないの」
彼女の息遣いは乱れ今にも倒れてしまいそうな青白い顔をしていた。
 彼女はそれでも詩人に手を引かれ歩き続けた。
「もうすぐです。ほら森の出口が見えて来ました」
「ごめんなさい、やっぱり私森の外には行けそうにないわ」
詩人の手から彼女の手の感触が消えた。詩人は思わず後ろを振り返ったがそこにはもう彼女の姿はなかった。
 詩人は一生懸命辺りを隈なく見回したが彼女の姿はどこにもなかった。
 詩人は肩をがっくりと落としうつむき下を見たするとそこには一輪の花が、純白大輪の花が落ちていた。
 詩人は落ちている花を拾い上げ鼻に近づけた。
 その花の芳しい匂いはあの時のそれだった。詩人と女性が初めて出逢った時に彼女の髪から風に乗って来た香と同じものだった。
 花の香は詩人の鼻を伝わり身体全体を満たしていった。そして、詩人の目からは大粒の涙が頬を伝い地面に零れ落ちた。
 すると、地面に零れ落ちた涙の跡が突然まばゆく輝き始め、いつの間にかその輝きは辺りを埋め尽くし、詩人は優しい光に包まれていた。
 その光景を見た詩人の目からは大粒の涙が幾つも幾つも止め処なく零れ落ち、地面を潤した。
 詩人を包み込み優しく光輝くものの正体は純白大輪の花を咲かせた月下美人の花たちであった。そう、あの時の女性の正体は月下美人の花の精だったのだ。
 詩人は手に持った月下美人の花を抱きしめ地面膝を付き倒れ込んだ。そして、彼は精一杯の気持ちを込めて詩を歌った。

 月の奇麗な夜だから
 出逢いの夜だから
 別れの夜だから
 この闇の中で星は瞬き私に何かを語りかけている
 けれど今の私にはわからない
 もう何もわからない
 月の光に導かれ天に昇る
 私は貴女が消えないように
 強く強くその手を握りしめていたのに
 貴女は私の指をすり抜け消えてしまった
 私の流した涙が地面を濡らす

 貴女の汚れを知らぬ瞳はもう私を映さない
 果てしなく遠く大地を見つめる
 美しい貴女の声はセイレーンのように
 私を夢の中へ惑わす
 だけど貴女はもう……

 星の奇麗な夜だから
 淋しい夜だから
 哀しい夜だから
 月の光に導かれ
 私は貴女を忘れない
 貴女の声が私を放さない
 貴女が消えないように
 強く強く握りしめていた手
 けれど貴女は逝ってしまった
 さよならは言えなかった
 さよならなんて言わない
 私は貴女に捧げます
 心の底からの信愛の気持ち
 そしてありがとう

 空を見上げた詩人の身体を月光が優しく包み込み、彼の瞳からは大粒の涙が頬を伝わり地面に零れ落ちた。
「私も貴方に逢えて良かったわ、ありがとう」
そんな言葉が風に乗って詩人の耳に届いたような気がした。

 〜Fin

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