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第1章 偽りの春

03 紅蓮楼に咲く噂

遊郭「紅蓮楼」で、欲と恐れに塗れた噂が花開く。

【二之幕】

 ここは遊郭「紅蓮楼」。
 かつての栄華と共に栄え、武士も町人も分け隔てなく迷い込む、夢と欲とが入り混じる廓の一角にその楼閣はあった。

 昼はひっそりと閉ざされた格子戸も、夜ともなれば紅の行燈に灯が入り、障子越しに浮かぶ女の影が男どもを誘う。
 その名の通り、紅の炎のごとく艶やかで、そして業火のように人の情を焼き尽くす楼である。

 娼妓たちは皆、己の名を偽り、過去を封じ、肌一つで世を渡る。
 笑うも泣くも芝居のうち。
 客の心も懐も、情けと裏腹に搾り尽くす、ここはまさしく地獄の一丁目──。

 そんな紅蓮楼の門を、ひとりの少女がくぐったのは、ある雨上がりの夜のこと。

 濡れ鼠のような身なりに、旅装を解かぬまま立ち尽くす少女。
 その頬は風に焼け、掌には農作業の痕が残る。
 まだ年若く、少女とも言えぬほどのか細い体つきであったが、その瞳には静かなる決意の光があった。

 帳場の奥より、ひたりひたりと近づいてきた影──
 やがて格子戸の向こうから現れたのは、一人の女。

「――あんたが、新しゅう来た子じゃな?」

 紺の着物に黒の帯を締め、艶やかな黒髪を高く結い上げたその女は、薄く笑みを浮かべながら少女を見下ろした。
 片眉をゆるりと上げ、どこか試すような眼差しを向ける。

 紅い唇が灯のように揺れ、白粉の奥のその肌は、夜の光をも弾くような艶を放っていた。
 すでに円熟の気配を忍ばせながらも、その所作ひとつひとつに凄みがある。

 それが姉御──元締め、お紺であった。

 紅蓮楼の主にして、遊郭でも、賭場でも、ひとたびその名を囁けば男たちが身を縮める、艶冶と残酷を併せ持つ女。
 廓の娘たちはお紺をして「地獄の女将」と呼び、客たちはその気配を感じるだけで背筋を正した。

 お千代は、しばしその視線に射抜かれ、足がすくむのを感じた。
 けれど、すぐに唇をきゅっと結び直し、俯きかけた顎を上げる。

 その瞳には、決して折れぬ意志が宿っていた。
 踏み込んではならぬ世界と知りながら、それでも尚、己の意思で門を叩いた娘の目であった。

 そして、低く、確かに名乗る。

「お千代と、申しやす」

 その眼には、かつての弱さを噛み殺すような、冷たい意志が宿っていた。

 お紺はその様をしばし見つめ、ふっと鼻で笑う。

「ほう……なかなか根性の据わった眼ぇしとるじゃないか。気に入ったよ。今宵から、うちの紅蓮楼の華となりな」

 臭いを嗅ぐような仕草でお紺はお千代の顔を睨めるように見る。

「けんど、どこかで見たような面じゃねぇか……?」

 細く切れた眼をさらに細め、流れるようにお千代を舐めるように見やった。

 傍らでは、親分の狐吉が腕組みしつつ、お千代を値踏みするような目を向けたが、やがて首を横に振った。

「知るかよ。うちは出入りが多ぇんだ。似たような面構えのひとりやふたり、覚えちゃおらん」

「そうかい……ふうん……」

 お紺は納得したような、しきらぬような顔をして肩をすくめた。
 そのまま軽やかに身を翻すと、柱に立てかけてあった高下駄をつま先で引き寄せ、つと履いて、すたすたと表へ出て行った。

「――ま、ええわ。こっち来な。案内してやる」

 媚びとも挑発ともつかぬ流し目を一つよこし、影のように路地へと消えてゆく。

「……え?」

 慌ててお千代が外に出るも、お紺の姿はすでに見えない。
 夕暮れもとっぷりと暮れ、通りは灯籠の明かりがちらほら灯るばかり。
 周囲に人の気配も少なく、不意に心細さが胸に広がる。

 ――その時。

「なにしてやがんだい、こっちだってんだよ」

 すうっと背後から囁くような声がした。
 振り返れば、建物と建物の狭間――人ひとり通るのがやっとの細道を、艶めいた女の後ろ姿がするりと歩んでいく。

 まるで、あやかしが月の下を誘うように――。

 娘は一瞬だけ躊躇したが、唇をきゅっと噛んで、その後ろ姿を追った。
 闇の中へ、音もなく吸い込まれていくように。

 人ひとりがようやくすり抜けられるほどの狭路――
 石垣と板壁に挟まれたその小径を抜けた先、突如として開けたるは、広々とした庭園であった。

 外の喧騒が嘘のように静まり返り、常夜燈に照らされた白砂と、枝垂れ桜の影が地を這う。
 古びた屋敷が月を背にして構え、まるで世間の時を忘れた隠れ里のようであった。

「……ほれ、こっちだよ」

 振り返りもせずに進んだお紺は、廊下を軋ませ縁側へ上がると、ぴたりと手をつき、障子越しに声をかけた。

「弥吉、弥吉! 耳が遠ぇのかい!」

 その声は、凛として通る。
 ただの女の声ではない。
 長年この屋敷を仕切ってきた者の、揺るがぬ支配の響きであった。

「へい、いま行きやす!」

 すぐさま内から返答があり、障子がすっと開く。
 そこから顔を覗かせたのは、お千代と同じくらいの年頃と思しき若い男――弥吉だった。
 この屋敷で使い走りや雑務を一手に担っている下働きのひとりだ。

 弥吉はお紺の後ろに立つ娘の姿を目にし、はっと息を呑んだ。
 次いで、何か言いかけたようにも見えたが、そのまま目を伏せて頭を下げた。

 お千代もまた、弥吉の顔を見つめ返したが、顔に浮かぶのは鋼のごとく無感情な仮面のみ。
 目に宿るのは、情の通わぬ冷ややかな光――語るべき過去を、すでに捨て去った者の眼差しであった。

「この子が新入りだよ」

 お紺は顎をしゃくり、ふたりの間を繋ぐように言葉を投げた。

「いろいろと手ほどきしてやっとくれ」

「……へい。ですが姐さん、今はどこの部屋も埋まっておりまして。おれの連れてきた新顔に部屋を空けたばかりでして」

 弥吉は困ったように眉を寄せて答える。

「ふむ……それなら、死んだ乱菊の部屋にでも――」

 そう言いかけたところで、お紺はふいと口を閉ざした。
 お千代の顔を一瞬だけ見ると、目を細め、言葉の調子を変える。

「いや、違ぇな。おりんを奥の納戸に移しな。空いた布団部屋を、この子に遣わせな」

「……承知しやした」

 弥吉が静かに頭を下げるのを見届けるでもなく、
 お紺はすでに廊下を振り返りもせず、ふわりと裾を翻して闇の中へと消えていった。

 残された弥吉とお千代のあいだには、言葉少なに、夜の帳が降りたような静寂が漂った。

 弥吉は黙して、お千代へと一瞥をくれると、軽く顎をしゃくった。
 言葉なくとも、その目にこもるものは、「ついて来い」と語っておった。

 廊下を抜け、幾度か曲がり角を経て辿り着いたのは、やはり布団部屋と呼ばれる小間であった。
 かつて下働きや客の寝所として使われたその一室は、古びた障子と干した藁の香が残る、つつましやかな隠れ家のような空間であった。

 弥吉は先にお千代を中へ招き入れると、周囲に誰の気配もないことを確かめ、音を立てぬよう気を遣いながらも、障子をぴしゃりと閉めた。
 しんと静まり返った部屋の内、ほのかに灯る行灯の光が、ふたりの影を畳に落とした。

 その刹那――
 弥吉が堪えきれぬ想いを爆ぜさせたかのように、突如としてお千代の両肩を掴んだ。

「……おれだよ、お千代。わかるだろ? おれのこと……!」

 声は震え、目には熱のようなものが滲んでいた。
 どこか夢を見ているかのような、懐かしさと焦燥が入り混じっている。

 されど――
 お千代はその肩を振り払うでも、涙を流すでもなく、ただ冷たき眼差しを伏せて呟いた。

「……ひと目見たときから、気づいてたさ」

 その声音は、まるで雨に濡れた白刃のように鋭く冷えておった。
 喜色を浮かべる弥吉とは対照的に、お千代は浮かべる感情の色ひとつ見せず、黙って隅に積まれた布団の上へと腰を下ろす。

 くたりと肩を落とし、俯き加減に吐き捨てるように言った。

「村を捨てて……やくざになってたなんてさ。……あんたはもう、あたいの知ってる弥吉じゃないよ」

 ぽつりと零れたその一言は、かつて共に過ごした幼き日々の温もりを、無情にも断ち切る刃のようであった。
 弥吉はその言葉に目を瞠き、しばし言葉を失った。

 灯明の炎が微かに揺れ、ふたりの間にできた影だけが、何かを語ろうとしていた。

 弥吉とお千代は、元は同じ村に生まれ育った幼馴染であった。
 藁葺き屋根の下、泥だらけになって遊んだ日々。時に喧嘩をし、時に助け合い、肩を並べて大人になるものと、誰もが思っていた。

 されど――五年前。
 弥吉は何も告げず、村を飛び出した。
 家にも、親にも、そしてお千代にも別れの言葉ひとつ残さず。

 いまこうして、小さな布団部屋の片隅でふたりは再び向き合っているが、過ぎた歳月が心に落とした澱は、容易には拭えなんだ。

 弥吉は、気まずさに視線を逸らしながら、肩を落とし、壁にもたれ掛かった。
 その表情はどこか投げやりで、けれど後悔の色が滲んでいった。

「……仕方なかろう。百姓の倅で、学も芸もねぇ。手に職もなけりゃ、人様に誇れるもんもねぇ。そんなおれが、まっとうに生きられる道なんざ、どこにもなかったんだ」

 お千代はしばし無言のまま、じっと弥吉を見つめていたが、やがてぽつりと呟くように言う。

「だったら、帰ってくればよかったじゃないか……」

 その声は、寂しさを押し隠すように低く、細かった。
 が、弥吉は鼻で笑い、ふいと顔を背ける。

「一度飛び出した家に、のこのこ帰れるかよ。親父には、『この家の名を汚すな、今すぐ出ていけ』って言われた。……あの一言で、道は戻れなくなっちまったんだ」

 言葉を失うお千代。
 部屋には、しんとした沈黙が降りた。

 外では風が梢を揺らし、障子越しに笹の葉が擦れる音が聞こえてくる。
 まるで、時の流れそのものが音を立てて過ぎていくようであった。

 再会とは、いつも華やかで喜ばしいものとは限らぬ。
 五年という歳月は、心に溝を穿ち、思い出の面影すら朧にしてしまう。

 ふたりの間にあったはずの絆も、今は遠き春の幻のように――薄れゆくばかりであった。

 俯いていた弥吉が、ふと顔を上げた。
 その眼には迷いと焦りと、どこか救いを乞うような色が浮かんでいた。

「……おい、おれが手引きしてやる。今宵のうちに、ここを出よう。逃げるんだ、お千代」

 その言葉に、お千代はすぐには応えなかった。
 ただじっと、弥吉の顔を見据え、やがてゆっくりと視線を外し、口を開いた。

「……足抜け、しろってのかい?」

 その声は、かすれ、震えていたが、芯は強かった。

「そんなこと、するもんか。あたいは逃げるためにここに来たんじゃないよ」

「だがな……!」

 弥吉は声を荒げたが、お千代の眼差しに言葉を飲み込んだ。
 再び口を開いた時には、その声音は低く、苦しげな響きを帯びていた。

「……ここの元締め、さっきのお紺姐さんはな、人を人とも思っちゃいねぇ。使えるだけ使って、潰れりゃそれまでだ。無理させられて、倒れた者がどれほどいたか……それに――」

「それに?」

 お千代が眉をひそめて問い返すと、弥吉は唇を噛み、しばし口を閉ざした。
 その表情には、言うべきか、黙すべきかの葛藤がにじんでおった。

「……なんでもねぇよ」

 弥吉はそう言って、目を逸らした。
 だが、その態度には、何か大きな秘密を隠していることが、明白であった。

 部屋の外からは、下働きの者が立てる足音や、笑い声、遠くの三味線の音がかすかに響いてくる。
 だが、この小さな部屋の空気は重く、まるで息をひそめているかのようであった。

 お千代は、積まれた布団の上に置いた手を強く握りしめ、じっと弥吉の横顔を見つめた。
 その目は、どこか決意の色を帯びていた。

 ――逃げるのはたやすい。
 されど、それでは何も変わらぬ。

 お千代の胸には、何かしらの覚悟が芽生えつつあった。

「この店――この女郎屋には、悪い噂があるんでしょ?」

 お千代の声は静かであったが、胸の奥底から搾り出すような張りがあった。

 弥吉は、ぴくりと眉を動かしたものの、すぐに視線を外し、低く答えた。

「……おれはなんも、知らねぇ」

 その声音は、あまりにも不自然に平坦であった。

 そう口にすると、弥吉は踵を返し、部屋を出ようとした。
 まるで、その場にいるのが耐えきれぬとでも言うように。

 だが、お千代の細い手が、するりと伸びてその腕を掴んだ。

「……ほんとうは、知ってるんでしょう?」

 弥吉は黙したまま、顔を前に向けている。
 目を合わそうとはしなかった。

 お千代は、震える指で彼の腕を強く引いた。
 半ば強引に、真正面から睨みつけるように眼を合わせた。

「あたいの目を見て言いなよ。嘘はいやよ。姉ちゃんのこと――なにか知ってるなら、ちゃんと話して」

「……おれは、嘘なんて――」

「お願い。姉ちゃんがどうなったのか、知ってることがあるなら、聞かせて。たとえ残酷でも、知らぬままでいるよりましだよ……!」

 お千代の眼には、言葉よりも鋭い真剣が宿っていた。

 弥吉は唇を噛み締め、拳を握りしめた。
 そして次の瞬間――

「知らねぇって言ってるだろうがッ!」

 怒鳴るように叫びながら、弥吉は腕を振り払い、お千代の細い体を突き飛ばした。

 お千代は、その勢いで畳に崩れ落ち、尻もちをついた。
 着物の裾が乱れ、解けかけた髪が頬にかかる。
 その大きな瞳には、こらえきれぬ涙が滲み、溢れそうになっていた。

 それでも、お千代は唇を噛み、懸命に声を絞り出した。

「……あたいは、姉ちゃんのことが……知りたくて……。誰かに言われたわけじゃない、自分で、ここに来るって決めたの。覚悟を決めて、この場所に足を踏み入れたんだよ!」

 震える声には、強い意志と深い哀しみが混じっていた。

 弥吉は、その場に立ち尽くし、拳をぶるぶると震わせた。
 その眼には悔しさと、どうしようもない憤りが宿っていた。

「……おれだって、ずっと探してたさ。あいつは、おれにとっても――大事な人だった……。けど、ある日、突然……なんの前触れもなく、この店から……いなくなっちまったんだ」

 お千代の目が大きく見開かれた。

「やっぱり……なにか、あったんだね」

 弥吉は、うなずく代わりに、低く、重く呟いた。

「遣り手婆に聞いたさ。足抜けしたって言われた。……でもな、それきりだ。遺品もねぇ、文もねぇ。まるで初めからいなかったみてぇに、誰も話したがらねぇ」

「親分は……?」

「知らねぇ、の一点張りだった。お紺姐さんに聞け、ってよ」

 その名を聞いた瞬間、お千代の背筋が寒気を帯びたように震えた。

 ――お紺。
 あの艶やかな眼差しの奥に潜む、底知れぬ闇。

 もはや、ただの噂では済まされぬ。姉の影は、この屋敷のどこかに、きっと沈んでいる。

 お千代は、そっと立ち上がり、着物の裾を整えると、ぬぐった涙の跡を隠すように顔を上げた。

「あたいが調べるわ。どんなに怖くても。姉ちゃんがここで、なにをされたのか……この手で掘り起こしてみせる」

 弥吉は、何も言えず、その背を見つめていた。

 ――それは、今よりおよそ一年前のことだった。

 突如、姿を消した女郎のひとりがいたという。
 その名を「さくらぎ」――本名を「お千佳」と言った。

 年の頃は二十を少し越えたばかり、肌理細やかな白粉の下に、どこか憂いを帯びた面差しを隠し持った女だったと、もっぱらの噂であった。

 そのお千佳こそ、他ならぬお千代の姉であったのだ。

 弥吉は、畳の上に静かに立ち尽くしながら、睨むとも、憐れむともつかぬまなざしで、お千代を見据えた。

 その眼には、言葉にできぬ葛藤と焦燥が、影となって滲んでいる。

「……おまえは、はよう此処を出て行け。こんな場所に長くいていい娘じゃねぇ」

 声は低く、絞り出すようであった。

 されどお千代は、きっぱりと首を振り、その場を動こうとはせなんだ。

「嫌だよ」

 短くも揺るぎない返事である。

「お千佳は、おれが探す。だから……おまえまで、いなくなるようなことには、なってほしくねぇ」

「それでも、嫌だよ。あたいは覚悟を決めて、ここに来たんだもの。姉ちゃんのために、この手で何かを掴むって決めたの。後悔はしないよ」

 小さくとも、凛としたその声音に、弥吉は眉をひそめた。

「……なら、せめて――お代官様には近づくな」

「……お代官様?」

 お千代の声が、かすかに緊張を帯びる。

「なにか、あるのかい?」

「いや……別に……」

 弥吉は視線を泳がせた。
 だが、嘘のつけぬ性根は、すぐにその曖昧さを打ち砕いた。

「弥吉。あんた、あたいには隠せないよ。代官がなにかに関係あるんでしょ?」

「みんなお代官様がなにか知ってるって噂してる。けどよ、相手はお代官様だぜ、どうこうできる相手じゃねぇんだ」

「意気地なし!」

 お千代の一喝が、部屋にぴんと響いた。

 弥吉は顔を歪め、唇を噛みしめた。

「そういうことじゃねぇだろ、畜生……!」

 言葉を吐き捨てるように吐き、弥吉は、早口にまくし立てた。

「とにかく、お代官様には近づくな。それから……お紺姐さんにも用心しろ。あの姐さんはな、馬鹿みてぇに勘が鋭ぇんだ。ちょっとの動きも見逃しゃしねぇ。……無理は、するなよ。あばよ」

 その言葉を最後に、弥吉はお千代が何か言う間も与えず、戸を開けて、さっと出て行ってしまった。

 部屋に残されたのは、ぽつねんと座り込むお千代ひとり。

 静寂の中、ふと、部屋の空気が重たく感じられた。
 積まれた布団の匂い。
 煤けた壁。軋む床。

 ――ここに、姉もいたのだろうか。

 この部屋に、姉が横たわった夜があったのかもしれぬ。
 そう思うと、肌を撫でる空気さえも、姉の残り香のように感じられた。

「……姉ちゃん」

 かすれた声が、誰に届くともなく零れた。

 だが、ひとつだけ、胸の内に火が灯っていた。
 それは――味方がいる、という確かな思いである。

 たとえ寡黙でも、不器用でも、あの弥吉は、己を案じてくれていた。
 だからこそ、彼の言葉の中にあった恐れは、決して空言ではない。

 代官とお紺。
 その名が、暗雲のごとく、お千代の胸中に重くのしかかった。

 だが、退くことなど、できはしない。
 ここで立ち止まれば、姉の行方は永久に闇へと沈む。

 お千代は、静かに、しかし確かに、拳を握った。

◇ ◇ ◇

 石灯籠に淡く火が灯ってはおるものの、夜の帳は深く、庭の隅々までは見通せなんだ。
 風もなく、虫の声ひとつせぬ闇の中――そこに身を半ば乗り出し、じいと目を凝らす女がひとり。

 紅を引いた唇が、ふとほころんだ。

「桜の下にゃ屍が埋まっておる、てぇ、よう申したもんでございやすなァ……」

 どこか艶めき、どこか挑むような声音である。
 花魁――お蝶。
 白粉に浮かぶ艶やかな眼差しは、ただの飾り女のそれではなかった。

 そのまま廊下をしずしずと戻ると、畳に膝を落とし、正座のかたちを整える。
 ぱん、と涼やかな音を立てて手を打ち合わせた。

「こりゃ、こりゃ、失敬つかまつりやした。あっし、どうやら思い違いをしておりやした。屍の話といやァ、柳の下でございやしたなァ……」

 言い直した唇の端には、笑みとも皮肉ともつかぬ色が浮かんでいた。

 その座敷は、紅玉楼の奥、いつもは使われぬ上座の間。
 今日ばかりは特別に設えられていた。

 お蝶と連れの黒子が、この間に通されたのは、元締めであるお紺姐さんの口添えによるものであった。

 相対するは、代官のお付きの侍ども。

 黒紋付の裃を着た二人の武士は、居住まい正しゅう座しながらも、盃を片手に酒をゆるりと口に運んでいる。
 とはいえ酔いは最小限、顔色一つ変えぬまま、気配だけは研ぎ澄まされていた。

 隣の座敷では、当の代官様が、江戸から招いた噺家や三味線持ちを囲み、どんちゃんと酒宴の真っ最中。
 そのご機嫌次第で、花魁どもが呼ばれるか否かが決まるという寸法である。

 この付人の侍たちに芸を認められ、気に入られれば、後日、お代官様の御前に上がることも叶う――
 つまりは、今宵の席こそが、見えぬ品定めの場。

 お蝶は、内心でその空気を読み切っていた。

 侍のひとりが目を細め、酒を口に含みながら低く問うた。

「うむ……して、そなたらの芸とやら、いかほどのものか、見せてもらおうか。退屈凌ぎにも足らぬとなれば、無礼と心得よ」

 お蝶はにっこりと、けれど艶の裏に何かしらの鋼を忍ばせた微笑みで応じた。

「そりゃあ、せっかちなことでござんすなァ。されど、退屈もまた、色のうちにてぇことでござんしょ? 今宵はたんと、骨の髄までご堪能いただきとうございやす」

 背後に控える黒子が、静かに衣擦れを立てて立ち上がった。
 かすかな香の香りがふわりと座敷に漂いはじめる。

 さて、これよりが真の幕開け。
 芸か幻か、それとも毒か――

 お蝶の眼差しが、柳の下の闇のように、じわりと座敷を包みはじめていた。

 黒子は尚も無言のまま、葛籠の蓋に手を添えたまま、身じろぎひとつせず正座していた。
 薄闇に溶けこむようなその姿は、まるで人形に魂が宿るのを待つ陰陽師のようでもある。

 対してお蝶は、濃紅の唇を弦に寄せながら、ぽろりぽろりと三味線の音を爪弾いた。
 まだ唄も舞も始めぬうちから、どこか禍々しい音色が座敷に忍び入り、武士たちの耳を撫でる。

 ふと、お蝶が目を伏せたまま問いかける。

「さてさて――お武家様方は、身の毛もよだつような、血の香り漂う怪しき噺は、お嫌いではござんせんか?」

 その艶めいた花魁口調に、一人の侍がくつくつと笑った。

「ふふっ、これはまた結構なことだ。お代官様も、そういった奇っ怪な噺がお好みだったな」

 もう一人の侍もそれに頷き、盃を置いた。

「うむ。あの御方は、夜な夜な噺家を集めては、血腥い因縁や、禍福の裏返る話を噺を好まれたわ」」

 お蝶はその言葉にゆるりと笑みを浮かべた。
 伏し目がちに微笑む様は、まるで春の桜が散る間際、儚くも艶やかなひとひらのよう。

「おそれ入谷の鬼子母神。こりゃまた結構な御趣味でござんすなァ……。実は今しがた、外の桜の古木を眺めておりやして――。ひとつ、よろしき噺を思い出しやした」

 侍たちの視線が、一斉にお蝶の唇へと注がれた。

「今は秋。桜の花はひとひらも咲いちゃおりやせんが……。これより語りますは、春の宵に咲いた、いっそ毒花のような、悲しゅうて恐ろしゅうて、美しき――そんな噺でございやす」

 そう言って、お蝶はゆるりと姿勢を正し、三味線を強くかき鳴らした。

 その瞬間、黒子が音に呼ばれたように葛籠を開け、一体の女形の人形を取り出した。

 絹の着物、うるんだ瞳、しなやかな手。
 けれどその顔にはどこか虚ろな影が差している。

 示し合わせたわけでもないのに、まるで台本があったかのような呼吸。
 お蝶の唄と黒子の舞台が、ぴたりと重なり合ってゆく。

 唄は、ある男の噺であった。

 かつて、ひとりの田舎侍が、都の女郎に恋をした。
 金も身分もないその男は、ただ真心だけを差し出した。

 女郎は笑った。「馬鹿なひと」と。

 けれど、いつしかその真心にほだされ、女もまた、恋に落ちた。

 だがその恋は、決して許されぬもの。

 男は借金を背負い、女は心を売り、やがて運命の歯車がきしむ音を立てた。

「ひと目会いたい。せめて、ひと目……」

 唄に合わせて、黒子の操る人形が、障子の方へとふらふらと歩き出す。

 ――その瞬間。

 座敷の外、空が唸った。

 ざぁ、と雨が落ち、突風が庭の桜の枝を叩いた。
 稲光が、障子に女の影を焼きつける。

 刹那、三味線の音が高鳴ると同時に、雷鳴が轟き渡った。

 その轟きに、侍たちの背筋がぴんと張る。
 だが、お蝶は動じない。

 唄を続ける声は、なお艶やかに、なお切なく――

「……されど、恋しき人の影は、夜桜のごとく儚く消え……残されたは、ただひとひらの血染めの簪――」

 三味線が、ぴたりと止まった。

 静寂が座敷を包み、黒子の人形もまた、動きを止めて膝を折る。
 まるでそこに、女の魂がふっと抜けたかのように。

 ……雨の音だけが、しとしとと響いていた。

◇ ◇ ◇

 時を同じくして――。

 帳に包まれた渡り廊下を、そろりそろりと歩いている女の影があった。
 その傍らには、黒羽織をまとった紅蓮楼の元締め――お紺の姿。

 連れられているのは、まだ年若き娘――お千代。
 見習いとはいえ、紅も薄く、目元にあどけなさを残した美しい娘であった。

 お千代は、ふと立ち止まる。
 今しがた通り過ぎた座敷から、三味線の音が響いてくる。
 幽かに唄声も混じる――それはお蝶の唄。
 どこか艶やかで、どこか哀しき音色。

 されど、お紺は振り向きもせず、手を取るようにして隣の座敷の前で膝をついた。

「……参りましょうに」

 ふたり、廊下に正座し、静かに一礼。
 お紺が障子に手をかけて、すうっと開け放った。

「失礼つかまつりまする」

 開けられたその座敷では、豪奢な帳が吊られ、香が焚かれ、酒の匂いと女の笑いが渦巻いていた。
 座敷の奥、畳に胡坐をかいた枯れ木のような男。
 代官――沼渕主水(ぬまぶちもんど)が、どっぷりと仰け反って酒を煽っている。

 脇には白粉濃き芸者たちが、唄い、舞い、扇を振って取り巻いていた。
 だが、障子が開かれるや否や、主水の目玉がぎょろりと動いた。

「ほほう……これはまた……」

 お千代の姿に目を止めるや、その目は舐めるようにその細身を見下ろした。

「こっちじゃ、はよ寄れ」

 主水は濁声でそう言い、胡坐の傍に空の猪口を突き出す。

 お千代は一礼し、膝をにじらせて主水の横へ。
 手慣れぬ所作ながらも、酒をそっと注ぎ入れる。

 と、その横顔に主水の鼻が寄る。
 吐きかけるような息が、お千代の頬を撫でた。

「上玉じゃのぅ……。肌がまだ、桃のように瑞々しゅうて」

 主水の手が、まるで蛇のようににゅるりと伸びかけたが、お千代は微かに身を引いた。

 その様を見て、主水はにたりと笑い、こう言った。

「もうよういらぬ。下がれ、下がれ。ほかの者どもも皆、出て行け。わしはこの娘と、ゆるりと杯を交わすゆえ」

 その声に、唄い踊っていた芸者たちがぴたりと動きを止めた。

 扇を閉じ、帯を直し、無言のまま廊下へと出てゆく。
 女たちの足音も、どこか沈みがちである。

 最後に残ったのは、お紺。

 彼女はお千代の横顔に、何かを試すような目を向けたのち――
 口元に不気味な艶笑を浮かべ、ひとこと。

「どうぞ……ごゆるりと……」

 その言葉を残し、障子を音も高く、ぴしゃりと閉めた。

 ――こうして、お千代と代官、ふたりきりの座敷が出来上がった。

「ほぅ……若うてええ躰じゃ。まこと、ええ肌をしとるわ……」

 主水は酒に濡れた唇をぬぐいもせず、にやりと嗤う。
 そして、膝をにじると同時に、裾の間より枯れ枝のごとく節くれだった指先が、するりと這い出した。

 その指が、お千代の着物の裾を押し分け、白魚のような太腿へと這い寄っていく。
 初めは布越しであったが、やがては直接、肌へと触れた。

「……っ!」

 お千代の躰がびくりと跳ねた。
 恐怖に血の気が引き、白粉の下の肌が青ざめてゆく。

 だが、主水は意に介さぬ。
 強引に顔を寄せ、震えるお千代の頬へとその顔を擦りつけた。

「怖がることはない。儂はな、女を悦ばす術、よう心得ておるわ」

 そのとき、お千代の頬を、ぬらりとした何かが這った。
 粘つき、ねっとりと動く、それは――蛞蝓にも似た主水の舌であった。

「ひ……っ」

 お千代は咄嗟に顔を背ける。
 しかし主水の舌は、首筋を伝い、耳の裏へと舐め上げた。

「ほれ、甘い音が出ておるぞ……。まだ嬢(おなご)になりきっておらぬ娘の肌……たまらぬわい……」

 息を荒げ、言葉を押し殺すように震えるお千代。
 それでも、主水の手は執拗に迫る。
 肩を抱き、帯に指をかけ、次第に身体ごと覆いかぶさらんとする。

 お千代は、逃げた。
 畳を滑るようにして身を引き、懐紙のように軽やかな所作で離れようとする。

 だが――主水はまるで大蛇のごとく、ずるりと追ってきた。

「ふふ……儂が怖いか?」

 その声は低く、粘りつくようで、まるで這い寄る怨霊のようでもあった。

 お千代は、言葉を返せぬ。
 ただ、表情だけが何かを訴えていた。恐怖と羞恥、そして――己への嫌悪。

「……良い顔じゃ……そちの、その恐れに引きつった面……なんと甘美なことよ」

 主水の顔が笑い崩れ、目は見開き、頬をひくひくと痙攣させる。
 欲望に溺れた男の醜態が、そこにあった。

「いや……まだ……心の覚悟が……」

 お千代の声は、蚊の鳴くような囁きであった。
 だが、それすらも主水は悦楽と受け取った。

「覚悟など、女にゃいらん。黙って抱かれておればええのじゃ。……大人しく、儂のものになれ」

 その言葉と同時に、主水の腕が伸び、帯を引き解こうとしたその刹那――

「いや……いやでございます……。あまりにも緊張いたしまして……こ、これ、ひとまず厠に……」

 声も震え、身を竦めながら、お千代は両の手で必死に主水の躰を押し退けた。
 白粉の下の肌が青ざめ、指先は冷たくなるほどに恐怖していた。

 それでも、気力を振り絞り、背後の障子へと身を翻す。

「すぐに戻って参りまする! 嘘など申しませぬ、すぐに……」

 震える声でそう言い置き、障子を開けて廊下へと飛び出す。

 だがその背に、怒号が響いた。

「こらッ! 逃がさんぞッ!」

 主水が血走った目で立ち上がり、濁った吐息を撒き散らしながら身を起こす。
 その足が畳を鳴らした瞬間――お千代は迷いなく、廊下を駆けた。

 簪が揺れ、帯がはためく。
 遠く、お蝶の唄声と三味線の音が微かに聞こえるが、今はそれも遥か遠く――。

 お千代は、走った。
 その小さな足で、必死に、逃げるようにして、夜の廊下を――。

 そしてようやく、ひとつの木戸の前で足を止めた。

 そこは、本当に厠であった。
 見張りもなければ、声もない。
 お千代は震える手で戸を開き、中へと滑り込む。

 中はひんやりとした空気に包まれていた。
 月の光が板戸の隙間から射し、わずかに闇を裂いている。

 お千代は背を戸に預け、肩で荒く息をした。
 頬に触れた指先は冷え切り、心拍ばかりが煩く鳴っていた。

「……はぁ……はぁ……」

 自らを抱くように腕を回し、震えを抑える。
 だが、全身が痙攣し、喉の奥からは嗚咽が漏れそうになる。

 そのまま、ゆるりと裾を捲り上げ、懐から忍ばせていた小布を取り出した。
 誰にも見せられぬ仕草で、自らの股座へと手を伸ばす。

 ――冷たく、湿っていた。

「ぐっ……」

 その瞬間、口を噤み、奥歯を強く噛み締めた。
 こみ上げるものを堪え、目を閉じる。
 だが、目頭からはどうしても――一筋、涙が零れ落ちた。

 涙は静かに頬を伝い、小布に落ちた。
 雨音も聞こえぬほど、厠の中は静まり返っていた。

 厠を出たお千代が、濡れた石畳を踏みしめて廊下へ戻ると、ちょうどそこへ、お蝶が歩み寄って来た。
 宵の帳は濃く、薄紅の灯に照らされる二人の影が障子に映る。

 お千代は一瞬、目を伏せて通り過ぎようとしたが――

 その手首を、お蝶がすっと掴んだ。

「……おやおや、どこぞで手をお痛めかえ? まさか、誰かに乱暴でもされたんじゃありんせんか?」

 艶やかな花魁口調は、しかし冷ややかに響いた。
 お蝶の瞳が、お千代の指先から先、赤く汚れた手のひらに注がれている。

 お千代はわずかに肩を震わせ、小さく首を横に振った。

「いえ……何でもございません……ほんの、ちょっと、転んだだけでございます……」

「そいつぁ結構。けんど、血ぃ垂らしたまんまじゃ、どこぞの鬼に嗅ぎつけられちまいやすぜ。ほれ」

 そう言って、お蝶は懐より白き手巾を取り出すと、お千代の手をそっと包み込むように拭った。
 まるで、幼子をあやすような、優しい手つきであった。

 血と共に、お千代の震えまでも吸い取るような、ぬくもり。
 だが、お蝶はそれ以上、何も訊ねぬまま、手巾を懐に戻すと、静かに視線を外した。

 ――手から流れた血ではなかった。

「さァ、行きなせぇ。今宵の座敷は、あんたにしか務まりゃしねぇ。……背ぇ伸ばして、お行きなせぇ」

 お千代は、ふとお蝶の横顔を見上げると、小さく頭を垂れ、再び足を進めた。

 ――そして、再びあの座敷へ。

 障子をそっと開ければ、酒と香の匂いが渦巻いている。
 正座したまま、主水は待ち構えていた。

「遅かったのう、小娘。逃げおうたかと思うたが……戻ってきおったか。見上げた根性よのう」

 お千代は畳の上に膝をつき、深々と額を下げた。

「……お待たせいたしました。先ほどは……未熟ゆえ、覚悟が定まりませなんだ。されど……今は、心の準備が整うております」

 その声は澄み渡り、怯えの色ひとつ無かった。
 顔を上げたお千代の瞳は凛として、何かを秘めていた。

 主水は愉悦の笑みを浮かべ、空いた盃を投げ捨てる。

「よう申した。女の癖に、肝が据わっておるわ……ますます気に入ったぞ」

 そして、蝋燭が吹き消された。
 部屋は淡い闇に包まれ、外では風が雨戸を叩き、雷鳴が空を引き裂く。

 雷光が、主水の顔を照らす――
 その顔は獣の如く歪み、舌なめずりをしながら、お千代に滲み寄る。

 お千代は、その忌まわしい表情を、まっすぐに見つめ――
 やがて目を閉じた。

 身を任せ、声も出さず、ただ傀儡のように、為すがままに。

 感情を失くし、涙も流さず。
 魂の置き場所を遠くに移し、ただ、身を晒すだけの存在と化して。

 そんなお千代に、主水は嘲るように囁いた。

「ほほぅ……話では生娘と聞いておったが――」

 その指が股座に伸びた。
 だが、すぐに眉をひそめ、何かを感じ取るように手を引いた。

 血に染まった指先を舐める主水。
 だが、それが何を意味するかまでは気づいていない。

「……ふん、なまぐさき匂いがするのう。今宵は、格別じゃ」

 主水はなおも歪んだ笑みを浮かべていた。

 されど、その血の意味を知るのは――
 この世で、ただ一人、お千代のみ。

 心を押し殺し、唇を噛み締めたお千代の胸奥には、まだ消えぬ火が、静かに燃えていた。

◇ ◇ ◇

 ――ふと我に返れば、そこはもう料亭の外であった。

 長き悪夢から醒めたお千代の頬を、容赦なき雨が打つ。
 空より落ちるは涙か、祟りか。土砂降りの雨は地を穿ち、心をも濡らしていた。

 ぼんやりと立ち尽くすその背に、男の声が響いた。

「お千代っ!」

 名前を呼ばれて、はっと振り向く。
 そこに居たのは、番頭見習いの弥吉であった。傘を差し、息を切らして立っている。

「弥吉……? なして、ここに?」

「お千代が、お代官様のお座敷に呼ばれたって聞いたんだ。気が気じゃなくてよ……お紺姐さんに、傘届けてくるって言い訳して、飛んできたんだよ」

「……お紺姐さんは?」

「おれが傘渡したら、『あとはお前の役目さ』って、さっさと帰っちまったよ」

 お千代は何も答えず、ぽつりと視線を落とし、そのままふらふらと歩き出した。
 傘もささず、雨に打たれるまま、よろける足取りで夜道を進もうとする。

「こら、待てって!」

 慌てて駆け寄った弥吉は、自分の傘を傾け、お千代の肩を包んだ。
 だが、その肩は細く、冷たく、まるで人の温もりを忘れた抜け殻のようであった。

「……大丈夫かよ?」

「……平気、さ」

 小さく呟いた声には、力がなかった。
 そのまま、お千代はぐらりと前のめりになり――

「おっと!」

 咄嗟に弥吉が傘を放り出し、両腕でお千代の身を抱きとめた。

「おいっ、お千代! しっかりしろって!」

 その頬に触れると、肌は冷たく、目の焦点も虚ろ。
 だが――弥吉の目に映ったのは、項垂れた首筋に浮かぶ青き痣。

「……ッ、畜生が……!」

 悔しさに奥歯を噛みしめた。
 それは、代官に目をつけられた女に刻まれる、業の印。

 無念さを滲ませながらも、お千代はもう何も言わず、静かに意識を手放していた。

「大丈夫だ、お千代……もう、誰にも触らせやしねぇ……!」

 弥吉は、お千代の身を背に負った。
 幼き頃、共に遊び、笑い合ったあの面影はもうそこにはない。
 背中に感じる重みは、知らぬ間に女へと成長したお千代の、哀しみと覚悟の重みであった。

 雨は止まず、風は肌を刺すように吹いていた。
 弥吉はぬかるむ夜道に足を取られながらも、黙々と歩みを進める。

 放られた傘と共に、行燈も壊れて使い物にならない。
 暗き夜道に、灯りは無し。
 だが、弥吉の目に迷いはなかった。

 その背に預けられた命の重さが、彼を支えていた。

 そして――
 離れの屋根下、格子の影より、その様をじっと見つめる者がいた。

 お蝶である。

 紅を引いた唇を引き結び、瞳の奥に、言葉にせぬ哀しみと怒りを宿したまま。
 雨にも濡れず、声もあげず、ただ黙って二人の背を見送っていた。

 やがて二つの影は、闇の帳に飲まれていった。

 ――誰にも見えぬ夜の底へ。