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第1章 偽りの春

07 ふとん部屋の告白

古びた部屋で、踏みにじられた者たちの声がこぼれ落ちる。

【六之幕】

 薄明かりの灯る、古びたふとん部屋――畳はささくれ、襖は破れかけ、湿った空気が肌にまとわりつく。

 その小さき空間に、今宵は二つの影のみ。外には番兵が控え、扉の前には鈍く光る鉈が無造作に立て掛けられている。

 中では弥吉とお千代とが膝を突き合わせ、囁くような声で言葉を交わしていた。

「……これを」

 弥吉は懐から、布に包まれた小さな匕首を取り出した。細身ながら、よく研がれている。鞘の端には古い血の染みが黒ずんでいた。

 それをお千代の手へそっと渡す。

「おれの匕首だ。懐に忍ばせておけ。いざという時は……ためらうな」

 お千代は目を見開いたが、やがて静かに頷いた。その瞳には恐れも迷いもなかった。

「……承知。命に代えても、この刃、使わせていただくわ」

 弥吉はひとつ、かすれた息を吐き出すと、壁にもたれた。傷ついた身に無理を押してここまで辿りついたのだ、顔には疲労の色が濃い。

 お千代は手の中の匕首を、まるで自らの心のように、胸元にしっかと抱いた。

「――代官様が、今宵は屋敷にあたいを呼ぶと申されたの」

 小声ながら、確かな覚悟のこもったお千代の言葉に、弥吉は頷いた。

「いつもは料亭にお出向き遊ばすお方が、わざわざ自邸に女を招く……何かある。きっと今夜が、奴の油断の時だ」

「……ええ」

「あいつの懐に入ることができるのは、おめえだけだ。すべての裏を暴くには……今宵しかあるめえ」

 沈黙が、ふたりの間を流れた。

 やがて、お千代は座り直し、静かに息を整えた。白粉を薄く塗った顔に、決意が凛として浮かぶ。

「姉ちゃんの真実、そして……弥吉さん、あなたのためにも。あたい、参ります」

 弥吉はその言葉に、わずかに唇を歪めた。笑ったのか、泣いたのかは、闇に紛れて定かでない。

「おれも、行く」

「……でも」

「お紺姐さんが、おれにお千代を見張ってろと」

 弥吉は、死地と知りつつも立ち上がった。膝は震え、傷はうずいたが、その目に迷いはなかった。

 されど、お千代の胸の内には、ひとつ拭いきれぬ疑念が燻っていた。

「……どうして弥吉にあたいを?」

 ぽつりと、呟くように問うた声は、小夜風のように静かであったが、底には女の直感が鋭く光っていた。

 弥吉は一瞬だけ目を伏せ、やがて、苦い笑みとともに口を開いた。

「そうだな……おかしな話さ。逃げようとした女郎を、その共謀者であるおれに渡すだなんてな。道理で言やあ、おかしい」

「姐さんがそんな真似を……」

 お千代の瞳が鋭く細まる。

 弥吉は声を落とし、闇を確かめるように目を巡らせてから続けた。

「お紺姐さんってお人はな……なまじ情があるぶん、ひとの痛ぇところを見抜いて、それを抉るのが好きな御方よ。きっと、逃げようとしたお前を、おれの手で縛らせて……そのうえで、じわじわと苦しめたいのさ。あたしを裏切ったあの男の手で、ってな」

 お千代の肩が、ぞくりと震えた。

「そんな……あたいと、弥吉と、ふたりを同時に弄んで……」

「そういう人だ。だがな――」

 弥吉は、静かに、しかし燃えるような目をして、少女を見つめた。

「ならこっちも、逆手に取ってやろうじゃねぇか」

 お千代は目を見開き、弥吉の顔をじっと見つめ返した。その顔に、怯えはなく、ただ真っ直ぐな意志だけが浮かんでいた。

「……ええ、そうね。そうしましょう」

「おれが一緒に、代官様のお屋敷までついて行けるってのは、向こうの油断だ。つまり、絶好の機会だってことさ。お前になにかあれば、すぐ飛び込む」

「弥吉……ありがとう」

 そう口にしたお千代の声音は、どこか儚く、どこか危うい。だが、確かな感謝の情が滲んでいた。

 ――ただ、その感情が真実を覆い隠した。

 お千代は知らぬ。真相は、その言葉の裏にこそある。

 弥吉が魂を売ったことを。
 そしてその魂が、いかなる契りによって、お紺の掌に握られているのかを。

 女は信じた。男を。
 男は、黙して――己の業火に焼かれ続けていた。

◇ ◇ ◇

 暮れ六つ近くの道中、代官屋敷へと向かう一行の足取りは、重くも静かに響いた。お千代と弥吉の両脇には、無骨な面の組の者が二人。いずれも、お紺の差し金であろう。まるで護衛を装いながらも、その実、二人の動きひとつひとつを監視する目であった。

 陽はすでに西へと傾き、町筋に長く影を落としていた。残暑なお残るものの、風にはほのかに秋の匂い。汗ばむ肌にすうっと吹く夕風が、心細さを誘う。

「……姉ちゃんも、この道を通ったのか」

 お千代の胸中に浮かぶのは、消えた姉――お千佳の面影。あのひとも、あの晩、同じようにこの道を歩いたのだ。無念と悔恨を噛みしめるように、唇を噛んだ。

 やがて、一行は代官屋敷の長屋門前に至る。黒塗りの門扉は閉ざされたまま、迎えの気配もなく、しばし立たされた。門の向こうでは、虫の音ばかりがやけに高く響いていた。

 そのときであった。弥吉が、何気ない風を装い、お千代の耳元に低く囁いた。

「……いいか、何かあったら、すぐ逃げろ。何があってもだ」

 その言葉、決して大仰ではなかったが、お千代の心の奥へ、火のように沁み入った。うなずきたい気持ちをぐっと堪え、表情ひとつ動かさぬまま、そっと瞳を伏せる。すでに女中が現れ、お千代を呼びに来ていたのだ。

 女中の手に引かれ、玄関の奥へと歩を進めるお千代。その姿を見送りながら、弥吉は奥歯を噛みしめる。

 ――この娘も、姉のように呑まれてしまうのか。

 何もできぬまま、ふたたび、己は女を売るのか。

 風が吹いた。唐突に、門前の竹林がざわめいた。秋の初風が、まるで何かの兆しのように。

 お千代は振り返らない。振り返れば、心が折れると知っているから。
 姉と同じ道――その言葉の重みに、足が震えそうになるのをこらえ、ただ前へ、前へと歩いた。

 闇は、すでにその足元まで忍び寄っていた。

◇ ◇ ◇

 長き廊下を静かに進むうち、お千代はふと、うなじのあたりにむず痒さを覚えた。しのび手をのばし、細き指でそっと撫でると、そこには薄紫の痣――あの夜、代官がまるで蛇のごとく、吸い付いた接吻の痕が残っていた。

 まるで所有の印のように、それは彼女の白い肌に、妖しくも生々しい影を落としていた。

 燈火の明かりが揺らめくなか、女中が一枚の障子の前で立ち止まる。

「……こちらでございます」

 頭を下げる女中の声は、どこか翳りを帯びていた。お千代は無言で一礼し、静かに障子へと手をかける。

 その一瞬、胸の裡に去来したのは――
 遠く故郷に残してきた老いた母の面影。干し物の匂いのする背中、薄暗い土間の灯。
 そして、別れの朝に見送った姉、お千佳の瞳――あれが、最期の別れとなるとは知りもせず、微笑みだけを残して消えていった、あのひとの顔。

 目頭が熱くなるのを抑え、唇をきつく結んだ。

 ――帰らねばならぬ。このまま終わるわけにはいかぬ。

 指先に力を込め、障子を、静かに、開け放つ。

 その先に待つものが地獄であれ、鬼であれ、
 お千代は、姉の無念を背負い、闇の奥へと踏み込んだ――。

 ギィ……と、障子が軋む音が、まるでこの世ならぬ帳のあいだから聞こえてきたように思えた。

 畳敷きの座敷、その奥。燭台にともされた火は赤黒く揺れ、煤けた壁に長く人影を落としている。

 座卓の向こうに一人、代官・矢部備前守。年の頃は七十をとうに越え、干からびた鰯のように皺深く、頬は削げ落ち、瞼は半ば落ちかけている。

 されどその目元――闇に潜む獣のごとき光を湛え、すぐさま獲物を見定める毒蛇のようであった。

「近う寄れ……酌を頼もうかの」

 ぞわりと耳の奥に這うようなその声。まるで濡れた布を擦るように、湿り気を帯びておった。

 お千代は一歩も怯まず、代官の横にはつかず、あえて真正面へと出て正座した。畏れも気後れも、今の彼女にはなかった。

「恐れながら、お代官様に申し立てがございまする」

「なんじゃ? 申してみよ」

 代官の声は枯れ木の軋みの如く、そしてどこか芝居がかっておった。

「消えた女郎衆――その行方、どこでございましょうや?」

 直裁に問いを放つお千代。その眸には一分の迷いもない。

 代官は、しばし口を噤み、やがてゆっくりと杯を置いた。

「女郎が……消えたとな?」

 惚けたふりか、はたまた真に呆けておるのか。
 皺に埋もれた顔に浮かぶのは、実に頼りなげな虚ろな笑み。
 ――だがその奥、細く閉じた瞼の下に、異様な光が宿る。

 野犬の目、獣の目、いや、それ以上の……人の皮を被った何かの目。

 お千代は目を逸らさぬ。まっすぐ、心の奥で睨み返す。

「ここに痣をつけられた者に限り、忽然と姿を消しておりまする」

 言いながら、お千代はそっと襟を引き、白磁のごとき首筋をさらす。そこには紫がかった斑の痕――代官の吸い痕が、まるで呪印のように浮かんでいた。

 代官は、それを見て……喉の奥で嗤った。
 ――ククク……と、まるで地の底からわき上がるような、痰まじりの嗤い。

「そうよのう……確かに、儂は知っておる。あの女郎どもがどこへ消えたかをの……」

 そう言って、代官はゆるりと己の腹を、干からびた指で叩いた。

 ぴちゃり――と、異様な湿音が、そこから鳴ったように聞こえた。

「ここじゃよ。女郎は……この腹の内におる」

 お千代は目を見開いた。

「な、なにを……申されまする……?」

 代官は歪んだ笑みを深め、真っ黄色に濁った眼をひとつ細めた。

「生き血よ……女の生き血を、儂は呑むのじゃ。柔き肌の下を流れる、ぬくとい紅……それがこの老骨に力をくれる。お千佳も、初花も、乱菊も……皆、ええ血をしておったわ……」

 言いながら、代官は舌なめずりをした。唇の端から赤黒い汁が一筋、垂れた。

「女の血は、酒より旨い。儂にとっちゃあ、それが……命の美酒よ」

 お千代の背筋を、悪寒が這い上がる。
 吐き気すらこみ上げた。けれど、怯えてなどいられぬ。

 ――姉も、呑まれたのか。姉の血も、この老いさらばえた化け物に……。

 強く、奥歯を噛みしめる。懐の匕首の冷たさが、胸の決意を思い出させてくれる。

 ――今宵こそ、因果を断つ。

「……許せぬ……この人でなしが!」

 お千代の指が、懐に忍ばせし匕首をついと掴んだ。
 白刃が一筋、燭火を裂いて閃く。

「おぬしのような外道、生かしてはおけぬ!」

 怒声と共に、お千代は座敷を疾風のごとく駆け、代官へと斬りかかった。

 ――だが。

 刹那、代官の老いさらばえた肉体が、まるで獣のそれのように跳ねた。

 ひらりと身を翻し、床の掛台にあった打刀を一閃に抜き放つや、その切っ先は、風の音もなくお千代の喉元にピタリと突きつけられていた。

「……ほう、やるではないか。だがの、娘、まだまだ修行が足らぬわ」

 代官の声音は湿りを帯び、ぞわりと背に這う。

 お千代は腕をいっぱいに伸ばすが、匕首の刃は代官の皮一枚にすら届かぬ。
 心は燃えても、力は叶わぬ。無念の涙が滲む。

「くっ……!」

 一歩、二歩と後ずさる。
 だが、背が何か――いや、誰かに触れた。人肌のぬくもり、背後にあったのは――

「――え?」

 次の瞬間、お千代の両腕は左右から強く引かれ、ぎり、と背中から羽交い締めにされる。

 腕はねじられ、手から落ちた匕首が畳に突き刺さり、鈍い音を立てた。

「放せっ! 放しやがれッ……!」

 身を捩り、もがくお千代。その涙混じりの視線が、ふいに振り返った先――

 そこにあったのは、見紛うはずもない男の顔。

「……弥吉……?」

 声は、絞り出すように、かすれた。

 その男――弥吉は、唇を噛みしめ、苦渋に歪んだ顔で、お千代の腕を締め上げている。

「なんで……なんで、あんたが……!」

 弥吉は答えぬ。ただ、唇を震わせ、苦しげに目を伏せている。

 代官が嗤う。
 喉の奥で煮えたぎるような、どす黒い嗤いを漏らしながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「ほっほっほ……お千代よ。所詮は、女一人では仇など討てぬのじゃ。人の心とは脆いものよ……」

「弥吉……どうして……どうしてなのっ……!」

 お千代の叫びは、空しく座敷に響くばかり。
 その瞳に、滲んだ涙が、ぽたりと畳に落ちた。

 弥吉はようやく口を開いた。

「すまねぇ……すまねぇ、お千代……」

 嗚咽混じりの声。その顔に宿るのは、後悔とも絶望ともつかぬ影。

 ――お紺の手先として、長く裏の世に身を沈めてきた弥吉。
 だが今回ばかりは、代官とお紺の狭間で揺れ、ついに魂を折られたのだ。

「お紺姐さんが……あいつが、あいつが心底怖い……!」

 その告白に、お千代の瞳が震えた。

「だからって……だからって、あたしいを売ったのかい……?」

 ――信じていた。信じていたのに。

 膝から力が抜け、がくりと崩れ落ちるお千代。

 その横で、代官は嗤っていた。
 薄気味悪く、勝ち誇ったように、干からびた舌で唇を舐めながら――。

 ――真実ばかりを追うあまり、目の前の男の闇に気づかなかった。
 それが弥吉であると気づいたときには、すでに遅かった。

 あれほど近くにいた男が、何より遠い存在となっていた。

 腹の底から、煮えたぎるような感情がふつふつと湧き上がる。
 胸が焼けつくように熱い。頭の芯がぐらぐらと揺れる

 憎悪。

 憎悪。

 憎悪。

「この……この、狗畜生めがッ!」

 喉を裂くような叫びを上げ、お千代は我を忘れた。
 怒りに目を血走らせ、羽交い締めにされていた弥吉の腕をふりほどき、畳を蹴って、素手のまま代官のもとへと飛び掛かった。

「殺してやるッ……! みんな殺して、地獄へ落としてくれるわッ!」

 だが、悲劇はその刹那に訪れた。

 鈍く光る一筋の輝線。
 代官が下げていた刀が、迷いもなく突き出された。

 その切っ先は、寸分違わず、お千代の胸を貫いた。

「――っ!」

 呼吸が止まる。
 口をついて出たのは血混じりの吐息。
 白襟に、紅が滲む。

 刃を滴る紅い鮮血が、柄に溜まっては、ぽたりぽたりと畳に堕ちる。

 だが、それでも――

 お千代は倒れぬ。
 いや、倒れてはならぬと、己を支える。

 震える脚に力を込め、己から刀をさらに深く――
 お千代は歯を食いしばり、自らを突き立てるように、一歩、また一歩と、自ら前へ進み刀を深く躰に突き刺した。

 そして、震える両の手で、細い代官の首を、鷲掴みにする。

「あんただけは……生かしておかぬッ!」

 爪を立て、指を食い込ませる。
 お千代の指先が、代官の乾いた皮膚に喰い込んでいく。
 血で濡れた手で、なおもその首を絞める。

 だが――代官の顔には、あろうことか下卑た嗤いが浮かんでいた。

「くく……ええ顔じゃ……その目が、たまらぬのう……」

 嗤っている。
 まるで、快楽に酔いしれる獣のように、にやにやと。
 死の淵にあっても、その瞳は濁らぬ。

 お千代は――お千代の手は、もう力が入らなかった。

 握るつもりの指が、だらりと解けていく。
 血が抜けすぎた。意識が遠のいていく。

 手足が痺れ、視界が霞み、世界が傾く。
 だが、それでも――。

「姉さん……あたい、ここまで……来たよ……」

 その唇が、誰にも聞こえぬほどの細い声で呟いたとき、お千代の身は、がくりと膝から崩れ、刃を咥えたまま、代官の胸に寄りかかるようにして倒れ伏した。

 お千代が最期に見たものは、醜悪な代官が近づくその時だった。
 その面に浮かぶ笑みは、ただ一片の人間らしさを欠いた歪なもの。

 そして、目の前でひしゃげたその姿が、急速に近づいてきた時、お千代の瞼はひとたび重く閉じられた。

 息も絶え絶えに、薄い唇から漏れる微かな息が、宙を切った。
 それを感じながら、お千代は最後の瞬間を迎えようとしていた。

 その直後――
 醜悪な男の乱杭歯が、やつれた首筋に喰い込んだ。

「ぐっ……」

 その音が、耳を刺すように響いた。
 女の肌に引き裂かれる音、そして、血潮がすうっと啜られる様は、まさに鬼気迫るものだった。
 お千代は震えながら、ただ目を閉じ、最期を覚悟した。

 代官は血を啜りながら、その目を細め、まるで饗宴でも味わうかのように快楽に耽る。その姿はあまりに異様で、視覚を捉えた者を絶望の淵へと引きずり込む。

 その光景を、弥吉はただ呆然と、無言のまま見守っていた。
 目を逸らすことなく、その異常な行為を視線に焼き付けていた。

 心の中では、何かが砕け散り、砕けたものがまた新たに強くなる――
 そんな不吉な兆しすら感じながらも、彼の口元はゆっくりと歪み、嗤い声を漏らした。

 クツクツと、不気味に嗤うその声が、座敷の静けさを打ち破った。
 その声には、もはや人間らしさは無かった。
 背中を震わせながら、弥吉は無言で座敷を後にした。

 その足取りは、まるで魂を失ったかのように重く、足音さえもどこか虚ろだった。
 彼の顔は、まるで幽鬼のように蒼白く、精神を蝕まれていた。
 彼の胸の中には、あの裏切りの記憶が、うねりを上げて響いているのだろう。
 お千代を裏切ったこと、そしてその結果、彼女が無惨に命を落としたこと――。
 その苦しみを、もう引き受けることはできなかった。

 ふらふらと歩を進めるその姿は、もはや人のものではない。
 歩幅は不安定で、まるで足元が見えていないかのようだった。

 弥吉はどこへ行くのか。
 何を求めて歩いているのか、誰にもわからない。

 だが、確かなことはひとつだけだ。

 弥吉を信じたお千代は死んだ。
 憎しみを胸に抱いたまま……死んだ。

 その死に様には、何の救いも、何の希望もなかった。

 お千代が死に際に抱いていた無念。
 彼女が残したもの。それは、深い憎しみと、絶望だけだった。

 弥吉はその無念を胸に抱きながら、ひとしきり歩き続けた。

 そして、その足取りはやがて暗闇の中に消えていった。