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第2章 黄泉の夏
01 春を呑む鬼
篝火の里に語り継がれる、春を奪う影の伝承。
【序幕】『春を呑む鬼』
山あいの寒村、篝火(かがりび)の里。
そこには、春の訪れなど影も形もなく、冬の呪いが今も村を縛りつけていた。
雪はなおも絶えることなく降り続け、せせらぎは凍り、土の奥底に眠る命の鼓動すら、まるで凍てついたまま閉じ込められているようであった。
木々の枝は霜をまとい、空は終日、鉛色の雲に覆われている。
風は鳴くことなく、ただ沈黙の冷気が村を包み込んでいた。
村は、まるで時の流れから見放されたようであった。
――春が呑まれた村。
そう呼ばれて久しい。
そして、この村には、古くから語り継がれる言い伝えがある。
――骸花(むくろばな)が咲けば、春が来る。
されど、なぜ咲くのか、どうすれば咲くのか、誰も知らない。
ただ、骸花の咲く時、何かが始まり、何かが終わる。
その朝、こはるは夢を見ていた。
現と幻の境をゆらゆらと揺蕩う、不思議で懐かしい夢であった。
見知らぬ野に、春風がそよぐ。
桃の花びらが空を満たし、柔らかな陽光が降りそそぐ中、こはるはひとり、何かを――否、“誰か”を待っていた。
花嵐の中、ひとり白装束の巫女が舞っていた。
口寄せ神楽。
その神楽にのせて、風に紛れた声が耳元に届く。
「……こはる……」
その声は、懐かしく、温かく、胸の奥をきゅうと締めつける。
思わず振り返るが、そこには誰の姿もなかった。
風が、香りを伴ってこはるの髪を優しく撫でた。
こはるは声の主を求めて走る。
だが、足元の花が突如、波紋のように渦を巻き、視界を桃色に塗り潰していった。
名前を叫ぼうとするが、声にならない。
喉がつまる。
代わりに、ひと筋の涙が頬を伝った。
その刹那――
春の景色は、凍てつく冬へと姿を変えた。
〈春を呑む鬼〉
それはこの地に伝わる“影”。
春の訪れとともに現れ、骸花を咲かせる者。
命を喰らい、花を咲かせ、村に祟りをもたらす存在。
だが、口寄せ神楽の唄は語る。
「その鬼はただ恐るべき存在にあらず。凍てつく季節に命の循環をもたらす者なり」と。
桃色の花吹雪の中に、確かにその“影”があった。
異形の姿を隠し、春の色に紛れて、じっとこちらを見ている。
こはるはひとり、その影に向かって歩み出す。
それは雪か花吹雪か、その中に“影”があった。
こはるは一歩踏み出した。
「……あなたは、鬼の呪縛に囚われているの……?」
問いかけに答えはない。
ただ、風が花を舞い上げるだけ。
気づけば、こはるの周囲からすべてが消えていた。
花も、風も、声も、霧のように消え去っていた。
はっとして目を覚ましたこはるは、なお夢の余韻に胸を震わせていた。
額には汗がにじみ、胸の奥で鼓動が高鳴っていた。
「……また……あの夢……」
小さく呟き、こはるは布団からそっと身を起こす。
薄明かりの部屋の隅には、小さな桐の箱。
中に眠るのは、亡き母の遺した簪。
緋色の金細工に、桜の意匠。
冷たい金属の奥に、ひそかなぬくもりが宿っていた。
それは呪いか、祝福か――どちらともつかぬ想いが、そこにはあった。
こはるは簪をそっと掌に包み、空を仰ぐ。
まだ夜は明けきらず、空は墨を溶かしたように淡く滲んでいる。
春が来る。
けれど、それはただの季節の巡りではない。
――骸花がなぜ咲くのか。
――あの夢の“影”の正体。
――そして、〈春を呑む鬼〉とは何か。
それを確かめるために。
こはるは、静かに歩きはじめる。
春告げの夢は、まだ終わらない。
真の春は、これから始まるのだから。