第2章 / 02 of 10
第2章 黄泉の夏
02 春告げの夢
こはるは、雪の底で春の気配と失われた声を夢見る。
【一之幕】『春告げの夢』
きしり――と、雪が鳴いた。
ひと足、またひと足。踏みしめるごと、凍てつく白にしずくのような音が落ちる。
風の音すら凍る深山の路に、二つの影が、まるで幻のごとくゆるやかに進んでいた。
一つは、紅の振袖に黒羽織、白粉の面(おもて)に艶を湛えた、花街の色香も凍りつくような女姿。
その歩みは、芝居でも踏んでいるかのように大仰に、されど優美にして艶やか。
振袖の裾が、雪に触れてはさらりと流れ、舞う雪さえも一瞬、ためらいを見せるように空へと消えてゆく。
艶姿の名は、お蝶。
世に名を知られた花魁――とは言うものの、ただの艶(いろ)ではない。
その言の葉は、まるで台詞のように格調高く、歩みのひと振りにすら、操りの気配がどこかちらつく。
まるで、誰かの手が時折、背に触れているような、あるいは、言葉の奥に、何か別の者の声がひそんでいるような――。
その芸は人か神か、夢か幻か。
見る者の心が揺らいだその刹那には、もう次の姿が雪を滑ってゆく。
お蝶の歩みに寄り添うのは、一片の影。
黒き装束に身を包み、雪をも欺く無音の歩み。
すっぽりと頭巾をかぶり、顔かたちはおろか、性別すらもあいまい。
衣の裾は風をも裂かず、足音も雪に吸われて、まるで影が這うかのごとく静か。
名を黒子という。
言葉を口にすることはなく、ただ黙して、お蝶の影に従う。
その身からは、熱も声も感じられず、ましてや瞳の色も、その奥の思いも見えはしない。
ゆえにこそ、その沈黙がなおさら、底知れぬ意図をにじませる。
風のない坂を登るふたりの後ろに、ただ白き雪が静かに降り積もる。
それはまるで、二人の歩みが、時を断ち切る鎌となり、世界に裂け目を穿つようにも見えた。
ふと、お蝶が立ち止まり、天を見上げる。
「……あら、奇麗な花が咲いていやすよ」
小さく、微笑を含んだような声。
されど視線の先にあるのは、吹き溜まりに首をもたげた、ひとひらの赤き草――この季(とき)には花など咲かぬはず。
誰かを呼ぶような、誰かに応えるような、口寄せの舞が始まるのは、いつもこういう静けさの中。
この坂を越えた先に、春を呑む鬼がいる。
眠る里、凍れる夜、そのモノノケの名をまだ知らぬまま、ふたりの影は進む。
春まだ遠き雪の峠に、骸花ひとひら、咲いていた。
雪は、なおも止む気配を見せなかった。
峠を越え、なお深く分け入ったその先、ようやく白き帳の切れ間より、ひっそりと村の影が覗いた。
――篝火(かがりび)村。
地図にも名の載らぬ、雪深き山中の寒村。
谷の奥底に沈むようにひっそりと佇み、まるで時の流れを閉ざすかのように冬を抱いたまま、春さえ届かぬ地。
白い息が空に溶ける。
風も音も途絶え、村はまるで永い眠りに沈んだようであった。
屋根には幾重もの雪が積もり、しなった梁が今にも軋みそうに身を沈めている。
空は低く垂れ、雲は山と空の境を消し去り、人の気配をさらに希薄にさせていた。
風が通らぬせいか、炭を焚いた細い煙が、家々の屋根から上がっては空に昇りきらず、凍てつく空気の中に留まっている。
その光景を、遠く峠の尾根から見下ろし、お蝶は足を止めた。
「……ここが、篝火村かえ」
その声は、氷を割るほどの鋭さもなく、ただ静かに、けれど確かに雪の空気を震わせた。
懐かしさを帯びた響きは、まるで時の彼方から呼ばれた名に応えるようであった。
お蝶の眼差しは、村の屋並みに留まらず、その奥へ――
記憶の影に棲む何かを見透かすように、遥かなものを射抜いていた。
「春だというのに、雪は深ぇ……屋根が重たそうに沈んでやすねぇ。まるで、時を止められた村のようだわ」
唇に微笑を浮かべながら呟いたその声に、返る言葉はない。
黒子は、ただ隣に立ち、黙している。
頭巾の下に隠された瞳が、何を映しているのか、それは誰にも分からない。
けれど、確かに同じものを、同じ重みで見つめていた。
村のはずれ、わずかに煙が立ち昇っている。
だがそれは命の気配というより、忘れられた記憶の残り香のように、空に届くことなく沈んでいるだけだった。
お蝶は白き指先をそっと宙に伸ばし、舞い落ちる雪を掬う。
「ふふ……まだ、春を拒んでいるような、そんな空気ですこと。まるで、過去が村を呑んでしまったようで……」
その声は誰に語るでもない。
けれど確かに、村の沈黙とどこか響き合っていた。
そしてふたりの影は、音もなく雪を踏みしめながら、静かに坂を下る。
篝火村は沈黙の中に閉ざされていた。
迎える者はなく、告げる鐘も鳴らぬ。
陽は傾き、空は薄紅に染まりはじめていた。
春の声など、ここには届かぬとでも言うように、白雪はなお厚く降り積もり、屋根という屋根を鈍く押し潰していた。
煙突から昇る煤煙すら、どこか淀んだ空へと吸い込まれてゆく。
その様を見下ろしながら、お蝶はふと足を止め、ぽつりと呟いた。
「……どうにも、妙じゃねぇか」
その声は風に紛れながらも、冷気を裂いて黒子の耳へと届く。
言葉にできぬ違和感。
踏みしめる雪音すらも吸い込まれるような静けさの底に、何かが蠢いている気配。
お蝶はじっと雪を見下ろした。
足元に刻まれた踏み跡は、獣か人か見分けもつかぬまま途中で消え、村へとは続いていない。
「まるで……生き物の気配が、せんじゃないか」
雪がすべてを覆い、隠している。
だが、その奥底に、何かが潜んで息を殺しているようにも見えた。
「……春とは、ここにはまだ訪れておらぬのね」
お蝶の声が、絹のようにやわらかく響き、その響きが村を包む霧のような空気に溶け込んでゆく。
ひとひら、またひとひらと雪が舞い落ちる。
封じられたものが目覚めを待つように、あるいは、何かが目覚めぬように祈っているように。
お蝶は、唇の端で再び呟いた。
「……春」
その一言は、空気の鍵を外すかのように、深く、静かに沈んでゆく。
「この村には、もう長らく春が訪れておらぬのかもしれない」
黒子は言葉を発さず、ただ隣に立ち、共に村の気配を見つめていた。その沈黙が、かえって多くを物語っていた。
「それにしても……この静けさ」
お蝶の視線は、村の入り口へ向く。
「誰もおらぬ。焚き火もない。犬の声ひとつせぬ……まるで、時が止まったようだわ」
その声音には、警戒と、わずかな怯えが滲む。
けれど、お蝶はすぐにその感情を押し隠し、凛とした声で言い直した。
「……恐れているのではない。あたしは、確かめたいだけさ」
黒子に視線を向けたお蝶の瞳には、過去を見据える者の厳しさと、未来へ踏み出す覚悟が宿っていた。
「この村に、何が残っているのか――それだけを、ね」
黒子はわずかに頷き、視線を村へ戻す。
その刹那、風の奥からかすかな音が耳を打った。
風か、獣か、あるいは――声か。
お蝶はふっと微笑んだ。
その微笑みにも、決して拭いきれぬ影が潜んでいる。
「行こうか。夜になる前に、宿を見つけねぇと……冷えるよ」
ふたりの足は、ついに篝火村の雪へと踏み入れた。
それはまるで、封印された記憶の扉を開けるように。
足音は、音もなく、村の静寂へと染み込んでいった。
篝火村の入口に吊された注連縄が、風にあおられていた。
かつては神を迎える清らかな標であったものも、今では色も力も抜け落ち、ただ垂れ下がるばかり。
まるで忘れられた神の名残が、そこに形だけ残されているかのようだった。
微かに揺れる縄の音は、長き沈黙に沈んだ村の呻きのように聞こえた。
「……こんなにも荒れ果てていたかえ」
お蝶が呟いたその声には、かつて見た景色との違いに対する痛みが滲んでいた。
その視線の先には、村の奥、一本の古びた杉の大木がある。
「まるで、見捨てられた村の墓標のようやねぇ……」
彼女は足を止め、その幹をじっと見つめる。
深く裂けた樹皮の隙間は、まるで何かが潜んでいるような不穏な気配を湛え、杉は軋むたびに過去の声を洩らす。
「……不吉な気配がするわ」
この地を護るはずだった神木は、もはや祟りの依代と化していた。
「神木の残響、やろか……けれど、もう崩れかけとる」
お蝶はふっと笑みを浮かべるが、それは冗談ではない。
哀しみと畏れが混ざり合った微笑だった。
「それでも……何かが、眠っとる気がするわ」
彼女は再び歩を進める。
村の中には、人の気配があった。
だがそれは、明るさも、活気もない。
まるで人々が、何かを避けるように、息を潜めて暮らしているようだった。
窓の奥から誰かがこちらを覗いている――が、その目には表情がなく、ただ虚ろ。
生きているというより、生かされている。
「……どうして、誰もこちらを見んのかしら」
お蝶の呟きには、苛立ちにも似た不安が滲んでいた。
まるでこの村全体が、何かに押し潰され、生気を失っている。
ふと、村の奥に目をやると、崩れかけた古寺が見えた。
かつて祈りの声を受け止めたであろうその場所は、今や過去を封じた石の箱のように、息を潜めている。
「この村……囚われとるわ。何かに」
お蝶の声は低く、冷たい。
「忘れられた何か……恐ろしいもんが、今もここに息づいとる」
窓越しの人々は、ただ外を見ているのではない。
目だけを動かし、声も、感情も持たず、何かを恐れるように身じろぎもしない。
「……うちらは、いったい何を探っとるんやろね」
お蝶は空を見上げた。
白い風が髪を揺らし、吐息が空へと消えてゆく。
「でも……きっと、何かが残っとるはず。見つけ出さな、あかん」
その声には、凛とした決意が宿っていた。
お蝶の瞳は、村に満ちる沈黙と虚無を突き破ろうとする光を湛えていた。
雪が深くなるにつれ、ふたりの足音は次第に沈黙へと溶けていった。
霧のような白い寒気が村を覆い、空気はさらに重く淀んでいく。
そのなかで、お蝶はふと背に視線を感じ、振り返った。
しかし、目が合うことはない。
ただ、家々の奥にひそむ人影の気配が、ひたひたと心を打つ。
言葉にならぬ想いが、虚ろな目越しに確かにこちらへと届いていた。
お蝶はわずかに肩をすくめ、小さく呟く。
「……どこかで、あたしらを待っとる者がおるのかもしれへんね」
その声は、風に乗って静かに広がる。
遠くの誰かに、あるいは過去に眠る記憶へと届くことを願うように。
立ち止まったまま、視線を伏せて言葉を続けた。
「あたしらがこの村に来た理由、それは……きっと、偶然なんかやあらへん」
歩みを再開すると、その足音が、先ほどよりも深く雪を踏みしめた。
「ここには……解かんならん謎がある。それを知るために、あたしらはここにおるんや」
お蝶の瞳には、薄暗い空の下でも消えぬ意志が灯っていた。
真実の中心へと向かうその歩みは、揺るぎなく、確かだった。
しばしのあいだ、ふたりは無言で村道を歩き続けた。
ただ足音だけが、静寂に滲むように響いていた。
村人たちは気配を潜め、家々の窓から、影のように双つの背を見つめていた。
それは恐れか、それとも……何かを託す期待なのか。
やがて、お蝶がふと足を止めた。
風に揺れる赤き袖が、雪の中で淡く舞う。
その視線の先にあったのは、一軒の古びた家だった。
他の家々が雪に埋もれて沈黙しているなかで、その家だけが、どこか異質な空気を纏っていた。
「……なんやろなぁ、あの家。どこか……違うような気ぃ、せぇへんか?」
お蝶は小さく、けれど真剣な声音で呟いた。
微かに黒子を見やる横顔には、艶やかな微笑の影に、不安の色が揺れていた。
「門もすっかり錆びついて……長いこと、誰も通っとらん証拠やろね」
そう言って、お蝶は扇子を指先で撫でるようにひと振りし、囁くように続ける。
「せやけど……なんや、妙やわ。あのお家の奥……誰ぞの気配が、微かに漂う気ぃするんや」
冷たい風が、音もなく吹き抜ける。
けれど、お蝶の言葉が空気を裂いたかのように、その場の緊張が高まる。
「ただの風やあらへん……何か……何かがおる。あの奥に、息を潜めてなぁ……」
扇を閉じ、胸元に収める。
彼女の瞳は、まっすぐに家の扉を射抜くように見据えていた。
そして、ふいに踏み出す。
「行きまひょ」
その声には、覚悟と決意が滲んでいた。
「恐れてばかりじゃ、真実には辿り着かれへん。……せやろ?」
お蝶の後ろ姿は、赤き装いを雪に映し、凛と背筋を伸ばして歩を進める。
その歩みの先、朽ちた家の扉が、静かにふたりを迎えようとしていた。
それは、封じられた過去の扉。
いま、音もなく開かれようとしていた。
ふたりは、古びた門の前に静かに立ち止まった。
その場所に漂う空気は、まるで時の流れが止まってしまったかのように凍てついていた。
お蝶は深く息を整え、慎重に一歩を踏み出す。
その刹那、門の隙間から微かな音が漏れ聞こえた。
――かすかに物を動かす音、あるいは遠くから響く囁き声のような、それは聞き取れぬほど淡く、しかし確かに存在していた。
吸い寄せられるように、お蝶の足はその家へと向かっていた。
踏みしめる雪の音は、ひとつひとつが耳に心地よく響いたが、その内側では不安がじわじわと広がっていた。
家の奥から響いてくる声は、柔らかく、切実な響きを帯びていた。
まるで、何かを強く願い祈るような、言葉にならぬ想いが、音となって空間を満たしていた。
お蝶はその声に導かれるように、静かに歩みを進める。
やがて、木造の扉がわずかに開き、そこから漏れ出す灯りが、薄暗い室内に揺れる影を映し出していた。
かすかな風が、家の中から吹き出してくる。
それは鈴の音のような、澄んだ響きをかすかに孕んでいた。
扉の向こう、祭壇の前に、ひとりの老婆が膝をついて祈っていた。
その背は丸く、身じろぎもしない。
両の手を胸元で組み、瞼を閉じたまま、深く静かな祈りを捧げていた。
お蝶は、その姿に目を奪われた。
時を超えてそこに留まり続けているような、厳かな重みを湛えた姿。
細身の肩は震えていたが、その瞳は遠いどこかを見据えていた。
しんとした空気の中で、なぜかお蝶は違和感を覚えた。
それが何であるか、まだ掴めずにいた。
そのとき、老婆の唇がかすかに動き、言葉とも吐息ともつかぬ声が、風に乗ってお蝶の耳元へ届いた。
「……“こはる”を、どうか……どうか、返しておくれ……」
その名に、お蝶の目が大きく見開かれる。
――こはる。
胸奥に、確かな記憶がよみがえる。
出会いは秋の嵐の夜。
山中の庵での短い逢瀬。
二度目の出会いは、再び嵐の夜。
女郎屋から逃げ出した少女を、悪漢から救い出した。
そしてその後、かどわかされ、燃える屋敷の中から命懸けで救い出した少女――それが、こはるだった。
雪のように白い肌、怯えた瞳、名を呼び、そして去り際に告げたあの言葉。
――お蝶さま。旅の途中に、わたしの村へお寄りくださいませ。母も、村の皆も、きっと心より歓迎いたします。
あの娘だ。
あの“こはる”だ。
「……あの娘……こはるに、なにかあったのかい……?」
震えるような声が、唇からこぼれる。
もとより、この村に立ち寄ったのは、ふとその約束を思い出したからだった。
だが、近づくにつれて風に混じる奇妙な噂、肌に忍び寄る異変――それらに導かれるように、お蝶は吹雪の中、この村へと足を向けた。
お蝶は、すぐさま老婆に身を寄せた。
「おばあさま……こはるは、いずこに? おられるのかい?」
老婆の肩にそっと手を添え、問いかける。
しかし、老婆はうなだれたまま、うわ言のように呟くばかりだった。
「……こはる……春に、連れていかれて……骸花に……春……」
言葉は混濁し、焦点の合わぬ目が宙をさまよう。
問いは届かぬまま、心はすでに遠きところにあるようだった。
「おばあさま……こはるは、生きておるのですか?」
問いかけに応じる返答はなく、空虚な響きだけが残る。
お蝶は唇を引き結び、痛みを押し殺すように息をのむ。
「……この村で、何が起きたのか……こはるに、何が……」
想いが、重く胸を満たしていく。
かつて救った命。
その後の道を見届けられなかった悔い。
今、再びその名を呼ばれたことの重みが、鋭く胸を刺す。
「こはる……」
その名を、そっと呟く。
雪が舞い、お蝶の肩にひとひら止まった。
老婆は祈るように、何事かを口の中で唱え続けていた。
こはる――その名が、凍てついた村に確かに生きている。
お蝶は目を伏せ、深く息を吐いた。
まだ、遅くはない。
この村の闇の中にこそ、あの娘の手がかりがある。
あの春が、まだ――どこかに。
◇ ◇ ◇
老婆の祈る声を背に残し、お蝶と黒子は静かにその家をあとにした。
外は相変わらずの雪景色。
しかし、村の空気には微かなざわめきが生まれ始めていた。
遠く、広場の方から響く太鼓の音。人々の声。仄かな香の煙が、吹雪の合間を縫って漂ってくる。
何やら、村では“祭り”の支度が始まっているようだった。
お蝶は黒子とともに坂を下り、集落の一角に設けられた広場を見下ろす。
そこには村人たちが集い、薪を組み、布を結び、何やら大きな櫓のようなものを準備していた。
「……春告げの、祀り……?」
耳にしたのは、ふたりの若者が交わす言葉だった。
「今年は、無事に春が来るだろうかのう」
「巫女さまさえおれば……ああ、こはる様……」
お蝶は目を細め、懐から白銀の糸を取り出すと、指先でそっと宙に浮かべた。
風に乗る糸は音を拾い、まるで糸電話のように、村人たちの声を耳元へと誘った。
――今年の巫女は、こはるだったらしい。
――でも、こはるはもう……春に連れていかれた。
――儀式を終えぬまま、骸花も咲かず……このままじゃ村が……。
お蝶は唇を引き結ぶ。
「……巫女、こはる……春に連れ去られた……?」
こはるの名を、村人たちは畏れと悲しみの混じった声で口にしていた。
どうやら“春告げの祀り”とは、この村に春を呼ぶための祭事。
それが、ある“巫女”の存在によって成立するというのだ。
――口寄せ神楽は、巫女に選ばれた者が舞うと決まっておる。
篝火村に春を告げる――その名も〈春告げの祀り〉。
しかしその由来も本義も、村人たちは頑なに語ろうとはしなかった。
言い伝えについて訊ねても、曖昧に笑っては話を逸らし、年寄りは目を伏せ、若い者は首を横に振るのみ。
あたかも、それを口にすれば災いを招くかのように。
ならば、とお蝶と黒子は村に残された古い石碑をあたった。
だが、石面に刻まれていたはずの文様は、まるで意図的に削り取られたように歪んでいた。
風化ではなく――誰かが、その伝承の記憶を封じようとしたのだ。
その沈黙こそが、この村を覆う“闇”の証。
「……よっぽど、知られたうない何かが、隠されてると見えますなぁ」
お蝶は唇に笑みを浮かべながらも、目には険しさを宿していた。
そこでふたりは、祀りの準備が行われている社――風哭きの社――へと夜陰に紛れ忍び込むことを決意する。
凍てつく空気のなか、雪を踏みしめながら辿り着いた社は、既に祀りの支度が整えられていた。
堂内には、巫女装束が整然と掛けられ、真新しい白の衣と緋の袴が淡く燈された灯明に照らされていた。
壁際には、神楽面とともに、精緻な装飾が施された鈴――神楽鈴が置かれている。
お蝶は、巫女装束にそっと手を添え、眉をひそめた。
「……これは、今年の巫女の衣……こはるが着るはずだったものでしょうねぇ」
その言葉に、黒子が無言で頷く。
お蝶は神楽鈴へと手を伸ばした瞬間、身体がぞくりと総毛立つような妖気に包まれるのを感じた。
鈴の中に、澱のように沈む――強い〈念〉が宿っていたのだ。
「……この鈴、ただの神具やない……〈記憶〉が、染み込んでやす」
お蝶は懐から一本の糸を取り出す。
それは彼女が自在に操る妖糸――魂に触れ、過去の“残留思念”を紡ぐ糸。
鈴に絡めたその糸がかすかに震え、鈴の内より“音”が立ち上がる。
その音は、耳ではなく魂に直接触れてくる囁き。
お蝶の瞳が閉じられ、そこに〈記憶〉が流れ込んできた。
刹那、景色が滲む。
――視界が、夜の広場へと変わっていた。
夜、村の広場に火が灯された。
風のない静けさのなか、焚かれた薪の煙が真っ直ぐ天へ昇る。
その中央に据えられた円形の舞台――古木で組まれた仮の舞台は、村に伝わる祈りの場。
村人たちは言葉少なに、しかし確かに集っていた。
誰もが、胸のどこかで怯えているのが、空気の張り詰めに滲んでいた。
そして、静かに始まる。
口寄せ神楽(くちよせかぐら)。
それは、巫女が舞を通して“魂”と“記憶”を結ぶ古き祈りの儀。
今は廃れ、かつての意味を知る者も少ない。
だがこの篝火村では、春を呼ぶ唯一の手段として、今も形ばかりが伝え残されている。
祭壇の前にひとりの少女が立つ。
薄紅の衣をまとい、瞳を伏せたまま。
それは去年のこと。
舞台に立っていたのは、こはるではなかった。
名も知れぬ少女。
まだ幼さを残した顔立ちに、無理に化粧を施されたその姿は、どこか痛々しさすら漂っていた。
少女の身体は小刻みに震え、それを隠すように舞を始める。
笛の音が始まる。
やがて太鼓が、それに応じて打たれる。
巫女の舞が始まる。
腕を広げ、指先をそっと空へ差し出す。
旋回するようにひとたび舞えば、衣の裾が夜風に揺れ、焚き火の火花が一陣の春嵐のように舞い上がる。
その舞には、はっきりとした型がある。
一度、死者の名を唱える。
次に、骸花を想う旋律が重なる。
最後に、鬼へと祈りを捧げる。
「春を喰らいし鬼よ」
「願わくば、我らが骸を咲かせよ」
「その花を喰らい、春を呼びたまえ」
お蝶は舞台の端、仄暗い影に立っていた。
艶やかな着物の袖に妖糸を纏わせ、まばたきもせず、ただ舞を見つめる。
耳元で、無数の声がささやく。
――巫女は、春を呼ぶのではなく……春に喰われる……
――骸花が咲けば……春が来る……巫女の命で……
お蝶は目を見開き、冷気のなかに静かに立ち尽くした。
「……やはり、そうだったかい」
お蝶の瞳は、遠く過去を見つめるように細められていた。
「この祀りは、供養なんかじゃない。……命を喰らわせるための“生贄の舞”だよ」
黒子が静かに影から身を寄せる。
彼の瞳もまた、舞台を見つめたまま動かない。
巫女の舞は最高潮へと達し、炎の揺らめきが天を焦がす。
だが、その“祈り”の先にあるのは――
希望か、絶望か。
「さすれば、こはるが……“春を迎える供物”として選ばれた、ちゅうことですかい」
しかし、こはるは祀りの前に姿を消した。
いったいどこへ消えたのか。
儀式の幕は下りぬ。
だが、真実の舞は、これから幕を上げる。
「さぁて……この神楽に込められた“真実”、次は舞で暴いてみましょうか」
お蝶の目が、わずかに潤んだように見えた。
その胸中にあるのは、あの娘の名。
――こはる。
春告げの神楽は、哀しき魂を呼び起こす。
静かに、静かに、春が近づいていた。
やがて、それは“鬼”をも目覚めさせる。
神に捧げるはずの舞が、いつしか“贄”を選ぶ儀式へと変わったのならば――
その歪みを見つけ出し、暴くのが、お蝶たちの役目である。
お蝶が神楽鈴を懐に収めると、
――そこはすでに現実だった。
「口寄せ神楽」
それは古き巫女が神に捧げたという舞であった。
魂の声を呼び、記憶と記憶をつなぐ儀式。
その舞の中で、骸花は咲き、鬼は現れ、春は訪れる――そう伝えられている。
しかし。
その伝承の奥には、どうやら大きな誤解が含まれているようだった。
現在の村の伝承では、「骸花」は冬の化身。
それを“春を呑む鬼”が食らうことで、ようやく春が訪れるという。
だが、実際には――
「……骸花は、人の命と想いが咲かせる、鎮魂の花」
お蝶はそっと呟いた。
「その花を穢す者がいるとすれば……それは“春を呑む鬼”のほうさ」
こはるが選ばれた。
巫女として。
その魂が、いまも村のどこかに囚われている。
お蝶は踵を返す。
雪がまた、静かに降り始めていた。
「黒子、急ごうか。あの娘を、春の中から――救い出さなければねぇ」
◇ ◇ ◇
風哭きの社からの帰路――
お蝶と黒子は、社の裏手に続く獣道のような細い小道を見つけた。
地図にも載らぬその道は、雪に埋もれながらも、かすかに踏み跡が続いている。
まるで何者かがかつて通った記憶だけが、道の形を保ち続けているかのようだった。
「……こっち、誰かが通った形跡がありやすねぇ」
お蝶の声に、黒子は無言で頷き、影のように続く。
やがて、木立を抜けた先に、空が開けた。
そこは、吹きさらしの野であった。
雪原の中に突如として現れたその空間に、風の音が静かに吸い込まれる。だが、それ以上に目を引いたのは――
「花……?」
冷たい霧のなか、ひとつ、またひとつと、赤紫の花が開いてゆく。
その花弁は曼珠沙華にも似ていながら、より妖しく、より艶やかにして、どこか艶(えん)を孕んだ艶花。
常の陽のもとでは決して咲かぬ――命が絶え、魂が彷徨い、祈りにも届かぬ未練が、地を這うようにして昇華され、ひとつの“形”となったもの。
――骸花。
花弁は厚く、絹のような光沢を帯び、濡れたような艶をたたえて夜露に輝く。
中心には緋のように濃い黒紫の芯が脈打ち、まるで心臓のように脈動していた。
その周囲を、触手のように螺旋を描いて伸びる花柱が取り巻き、風にそよぐたび、誰かの声を吸い上げるかのように微かに震える。
咲く音さえ聞こえるような錯覚に陥るほど、花々はひとつの意思を持ったかのように呼応し、共鳴していた。
そして――そこは骸花の群生地。
山あいの谷間、忘れられた神域の奥深く。
人が踏み入ることも許されぬ、死者の夢の終わりにのみ拓かれる骸の野。
「……これは、ただの花畑やないわ」
一面に咲き乱れる骸花の群れは、まるで朱と紫の海。
「返して」「ここにいるの」「まだ……終わらない」
風にのって、誰のものとも知れぬ声が、耳の奥に染み込む。
月の光が届かぬ闇夜にあっても、骸花は自ら仄かな光を放ち、薄紅と紫の幻灯のように辺りを照らしていた。
それは神聖というにはあまりに妖しく、忌まわしいというにはあまりに美しい。
まさに“呪い”と“祈り”の狭間に咲く、禁断の華。
その中央――ただ一輪、白銀に染まった骸花が咲いていた。
まるで誰かの魂が、清められ、昇華され、最期の祈りとして咲いたかのように。
なぜ骸花は咲くのか?
ここは、命が終わり、想いが咲く場所。
お蝶が一歩踏み出すと同時に、風が凍るような音を立てて止まる。空気が変わった。何かが、ここに在る――。
突如として、地を這う呻き声が耳に届く。数知れぬ女たちの悲鳴、痛み、怒り、哀しみ……言葉にならぬ魂の叫びが空気を満たす。
風が鳴いていた。
それはただの山風ではなかった。
吹きすさぶ音のなかに、確かに――声が混じっていた。
「……かえして……おかあ……さん……」
微かな囁きが、木々の枝を震わせる。
風にのって流れる声は、まるで森そのものが泣いているような調べを孕み、耳の奥にじわりと沁み込んでくる。
「……あたし、まだ……生きたかった……」
それはひとりの少女の声。
いや、ひとりではない。
ふたり、みたり、十人、百人――
どれも名もなく、顔もなく、ただ悲鳴だけが重なり合い、山全体を軋ませるようにして木霊していた。
「やだ……いや……いたい……いたい、いたい……っ」
嬲られ、切り裂かれ、血を滴らせながらも声にならぬ呻きを上げた娘たち。
その叫びは骸花の根を這い、瘴気となって吹き上がり、やがて風と化す。
耳を塞ごうにも無駄なこと。
声は風に紛れ、脳裏に直接流れ込む。
そのひとつひとつが、痛みと絶望に満ちていた。
「……おねえちゃん……わたし……こわいよ……」
「どうして……どうして、わたしなの……?」
「みんな、いなくなる……次は……あたし……?」
祈りにも似たその声は、けれど決して救われることなく、永遠に同じ言葉を繰り返す。
風が鳴くたび、骸花が揺れる。
その揺らめきは、まるで花自身が呻いているようであった。
「……かえして……この身体、かえして……!」
「あたし……まだ、春を見てないの……っ」
その叫びは、かつて社に捧げられ、封じられ、忘れられた者たちの記憶。
誰にも届かず、祈りの場も与えられぬまま、供物とされ、ただ“春を呼ぶため”に屠られた少女たちの魂。
「うそつき……神さま、うそつき……!」
風が凪いだ刹那――
一瞬だけ、誰かの笑い声が、耳元で嗤った。
それは幼子のような、無垢な声色。
けれど、あまりに冷たく、あまりに壊れていた。
骸花の野に吹く風は、春の便りなどではなかった。
それは、過去の罪を吹き起こす“風哭き”――
語られぬ犠牲の呻きであり、決して鎮まりきらぬ怨嗟の連なりであった。
そして、声は次第に一つに重なっていく。
「――かえして……命を……春を……わたしの、生を……」
その声が、風となって、夜を裂いた。
骸花の咲き乱れる野――そこはもはや現世ならぬ、黄泉の入り口であった。
夜の帳が下り、月の光すら届かぬ闇の中、花々は風もないのに揺れていた。
花弁は艶やかに濡れ、黒紫の色は血のごとく深く、妖艶に輝いている。
その根元より、這い出すようにして湧き上がる瘴気――それは、闇色に咲いた骸花が呼び覚ました、犠牲となった少女たちの怨念であった。
しん……と、空気が沈む。
と、次の瞬間――
「かえして……」
「いたいの……」
「おかあ、さ……」
風のような囁きが、耳の奥をなぞる。
「……ッ!」
お蝶の肩が微かに揺れた。
その声は、耳に響くのではない。
魂を軋ませるように、心の底へ染み込んでくる。
足元の骸花が一斉に呻き、無数の赤紫の花弁が空へと舞い上がった――
瘴気が渦を巻き、空間がねじれる。
やがて、そこから“それ”は現れた。
少女たちの断末魔を縫い合わせたような、異形の存在。
顔はなく、あるいは複数の顔が蠢いている。
細く白い腕が何本もぶらさがり、全身は血に濡れた喪服のような布で包まれていた。
その姿に、お蝶は薄く笑みを浮かべた。
「ふふ……おぞましくも、ようできた姿だねぇ」
かんざしを抜き放ち、右手に妖糸を絡ませる。
紅と黒の衣が風になびき、花の海のなかに一輪の艶が咲いた。
「来な――“春を食らう怨み”ども」
次の瞬間、異形の群れが一斉に蠢いた。
瘴気をまとった無数の腕が、お蝶に向かって襲いかかる!
ひゅっ、と風を斬って妖糸が走る。
一本、二本、十本――空間を操るような精妙な糸が、怨念の化身たちの首筋や関節に絡みつき、軌道を歪めて投げ飛ばす。
ごぼ、と黒い体液を撒き散らし、ひとつが爆ぜる。
「甘いねぇ――あたしは花魁、けれど舞うだけじゃありゃしないよ」
続けざまに投げ放たれるかんざしが、まるで流星のごとく夜を裂き、骸の腕を切り裂いていく。
金属の閃きが花弁を散らし、血飛沫の代わりに魂の残響が弾ける。
「やめてぇぇぇぇええええ!!」
「いたい……いやぁぁああッ!!」
声が風となり、周囲を渦巻く。
その叫びは、まるで攻撃そのもの。
脳を焼くような圧力が襲いかかるも、お蝶は一歩も退かぬ。
「泣くのは、ようござんす。けどね……それは生きてる娘の特権さ。あんたたちにはもう、涙を流す目もないじゃないかい――!」
お蝶は地を蹴り、舞う。
艶やかな着物が翻り、まるで空を斬るように妖糸が閃く。
複数の化け物の脚を絡め取ったかと思えば、天井を貫く勢いでそのまま引き裂く!
ズドンッ!
地響きと共に、骸花の根が裂け、怨念が悲鳴を上げる。
「みんな……みんな、ころされた……わたしも……ッ!」
嗚咽が空に満ちる中で、お蝶は息一つ乱さぬまま、正面を見据えて言い放った。
「そんなに悔しいなら……自分の声で訴えてごらんな。人に喰らわれるためじゃない。あんたたちは、“生きてた”んだろう?」
一瞬、風が止む。
そして、最も大きな化身――まるで少女の姿を象った巨大な影が、ゆるりとお蝶に向かって這い寄る。
お蝶はその真ん前に立ち、かんざしを掲げた。
「やはり、説得は無理でありんすか」
糸が一閃。
骸花の花畑が、咆哮とともに震えた。
お蝶の動きは、艶やかでありながら殺意に満ちていた。
蹴り、打ち、妖糸で縛り、かんざしで穿つ。
だが、異形は切っても、斬っても、呻きながら再生を繰り返す。
お蝶の背に月が昇り、無数の花弁が雪のように舞い落ちる。
その花一枚一枚が、誰かの名残であり、誰かの涙であった。
黒子は背の葛籠をそっと地に下ろし、雪に座したまま動かない。
影のように、ただお蝶を見つめている。
徐々にお蝶が押されはじめた。
されど、黒子は未だ動かず。
苦戦――否、そうではない。
お蝶は知っていた。
この異形は“敵”ではない。
ただ、滅ぼすべき存在ではない。
苦しみに囚われた魂の寄せ集め。
黒子は未だ動かない。
ここで葛籠を開けば、〈闇〉の力で消し飛ばすことはたやすい。
されど、それは成仏ではない。
永劫に苦しませるだけの、力による強制だ。
「あたいじゃ、まだ……あの子らを救えない」
お蝶の声が震える。
妖糸が異形に絡みつき、だが切る手は止められた。
魂を、穢れを、癒す力が、今の自分には足りない。
祈りでは届かない。
悼む心だけでは、救えない。
その刹那、異形の呻きが空を割り、骸花の花弁が散る。
「引くよ――」
お蝶は衣を翻し、黒子に退却の合図を送った。
黒子は何も言わず、葛籠を背負い直すと、お蝶の後を追う。
ふたりは再び森の闇へと姿を消す。
骸花の花畑には、ただ赤き花弁と、消えぬ嗚咽の気配だけが、いつまでも揺れていた。
――次こそは、この魂たちを、春へと還すために。