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第2章 黄泉の夏
03 供花の谷
村外れの古宿で、骸花へ捧げられる祈りが語られる。
【二之幕】『供花の谷』
その夜――
お蝶と黒子は、篝火村の外れに佇む一軒の古宿へと身を寄せた。
道中、雪は途切れることなく降り続き、村の家々を覆う白は、かつての時を沈める棺のようであった。
その中で、この宿だけが奇妙に灯りを保っていたのは、かつてこの村が栄えていた名残であろうか。
だが、今や誰が住まい、誰を迎えているのか――その影すら見えぬ。
宿の門口に立ち止まり、お蝶は木造の佇まいをじっと見つめる。
屋根には厚く雪が積もり、柱には長年の風雪に晒された色褪せと亀裂が刻まれていた。
白粉の下の面に薄く影を宿し、そっと呟く。
「……なんやろなぁ。ここもまた、何ぞ……抱えとるような匂いがいたしますわ」
背後から吹き抜ける風が、朱の振袖を揺らし、どこか懐かしい雪の匂いを連れてくる。
その匂いは、まるで“過去”の衣の裾を引くようであった。
ぎぃ――
木戸を開けた音が、静寂を裂く。
灯籠に照らされた薄明かりが、二人を迎え入れる。
室内は簡素にして古びており、帳場の影には誰の気配も感じられない。
それでも火は絶えておらず、まるで“主なきまま、役目だけが残された”ような風情があった。
「誰ぞが待っていたような……それでいて、もう随分と、待たれてへんような……そんな空気やねぇ」
お蝶はそう囁くと、ゆるりと歩みを進め、奥の間へと踏み入る。
調度は古び、炉には微かな灰の残り香。
壁に掛けられた古絵図は色を失い、誰が描いたとも知れぬ風景が虚空を見つめていた。
黒子は黙して従い、葛籠を部屋の隅に下ろすと、扉の脇へと控える。
彼の沈黙は、この宿の気配と同化するように静かで、だが確かに、“何か”を警戒していた。
お蝶は、炉の傍らに膝をつき、少し息を吐く。
そしてゆるりと立ち上がり、窓辺へ向かうと、降りしきる雪を見やった。
「……今宵は、何かが、目覚めそうでなりませぬ」
その声には、艶も余裕もなく、ただ静かな覚悟がこもっていた。
かつての“こはる”の名、骸花の咲く野での異形、断たれた神楽の伝承。
すべてが雪の下に埋もれているのではなく、まだ眠っているにすぎぬのだ。
それを掘り起こすには、ここに宿る“過去”を知らねばならぬ――。
お蝶は窓に手を触れる。冷たい硝子が、掌を通して心に伝う。
「……きっと、春は来る。けれど、ただの春じゃない――誰かの痛みを越えてこそ、咲く春や」
その囁きは、自身に向けた誓いのようでもあり、闇の向こうの誰かへ届く祈りのようでもあった。
静けさが、再び部屋を満たす。
雪は止まぬまま、夜は深まってゆく。
篝火村の沈黙の奥、何かが、目を覚まそうとしていた。
――静寂の宿に、灯がひとつ、ほのかに揺れていた。
湯気の立ちのぼる湯釜のそば、藍染の薄衣をまとった女将がひとり、黙々と手を動かしていた。
その背は骨ばり、痩せ細り、灯火が照らすその姿はまるで“影”のよう。
頬はこけ、目元は落ち窪み、言葉少なに長い時を沈黙と共に過ごしてきたことが、ひと目で知れた。
その手が、何かを炊く音と、わずかに湿った木の軋みだけが、しんしんと降る雪の夜に響いていた。
戸が控えめに開かれ、お蝶と黒子がその場へ足を踏み入れたとき、女将はその気配にようやく気づいたように、わずかに肩を震わせた。
けれど、言葉はない。
ただ静かに、機械仕掛けの人形のように身を起こし、膳の支度へと移る。
ひとつ、ひとつ――無駄のない所作。
だがその背からは、どこか“怯え”に似た気配が滲み出ていた。
まるで、過去に焼き付けられた何かを忘れられず、なお今を生きることにためらっているような……。
お蝶は、その様を静かに見つめていた。
そして、そっと口を開く。
「……お心遣い、かたじけのうござんす」
優しく、相手を傷つけぬよう、あくまで丁寧に。
その声音には、花魁としての艶を抑え、ひとの心を探る繊細な響きが込められていた。
女将はゆるりと顔を上げる。
その瞳は虚ろで、まるで別の時代、別の場所を見ているかのようだった。
「……遠方より……お越しで……ござんすな」
かすれた声。
音の一つひとつが、石を吐き出すように重たい。
その口元は動いても、心までは決して届いていない。
それでも、礼だけは形式として口にするあたりに、かつての“女将”の面影が残っていた。
しかしそれ以上は、何も語られなかった。
手元に戻った女将の指は、なおも器を拭い続ける。
まるで、時を戻そうとでもするかのように――。
お蝶は微笑を浮かべ、ほんの少し身を傾けて言葉を継ぐ。
「ええ、少しばかり道のりが長ゅうござんした。けんど……こちらのお宿、静かで風情がござんすねぇ」
まるで、何気ない旅人の世間話のように。
だが、その言葉には探るような糸がひそんでいた。
この女将の沈黙の奥――それが、篝火村に積もる“過去”とつながっている気がしてならなかったのだ。
黒子は一歩下がった位置で黙して立ち、何も言わず。
その沈黙すら、この場の一部となる。
ふと、女将が小さく首を傾けた。
だが、視線はやはりお蝶を見てはいない。
代わりに、どこか遠い記憶の中にある“誰か”の姿を、心の内に浮かべているようだった。
――この宿もまた、なにかを喪ったのだ。
お蝶は静かに膳の前に座り、黙してその沈黙に寄り添った。
言葉は、焦らずともよい。
雪はなお降り続けている。
その白さが、すべてを隠すように村を包みながら、明かされぬ記憶をそっと照らしていた。
膳の並ぶ音が、静けさの中に微かに響く。
灯の光は淡く、座敷の壁に揺れる影を映し出していた。
その中で、女将は黙々と動いていた。
まるで“何か”を振り払うように、無言のまま器を置き、布巾で端を拭い続ける。
お蝶はその姿を見つめながら、膝を正す。
膳の香りは慎ましく、だがどこか胸の奥を締めつけるような、哀しみを帯びていた。
言葉は、そっと、やさしく――。
「ようこそと仰ってくれたこと、嬉しゅうござんす。……けんど、この宿の空気は、どこか、よう哀しゅうて……」
その声には、氷解を促すような、ゆるやかな熱がこもっていた。
女将は応えることなく、ただ器を並べる手を止めぬ。
それでも――
沈黙の奥で、何かが少しだけ軋んだような気配があった。
やがて、膳をすべて並べ終えたそのとき。
女将の手がふと止まり、ゆっくりとした動作で、炉の側に腰を落とす。
そして、ぽつりと、呟いた。
「……春が来るたびに、娘がひとり、消えるのです」
その言葉は、まるで宿の空気ごと凍らせるかのように、張りつめていた。
お蝶は一瞬、息を呑んだが、すぐに視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「それは……何者かが、娘御たちを攫うのでござんすか?」
声は穏やかでありながら、核心に踏み込む鋭さを含んでいた。
女将の背がわずかに揺れ、震える指先が膝の上で絡んだ。
「……“春を呑む鬼”がいると申します。むかしから、あの山に……」
その言葉の響きは、もはや迷信や噂の域を越えていた。
まるで幾度となく耳にし、そして幾度となく失ってきた者の声。
「けど……その名を口にすれば、祟りがある。……だから皆、黙って祈るしか……」
女将は顔を伏せる。
目は見えずとも、その瞼の奥にどれだけの涙が閉じ込められているか――お蝶には、わかった。
しばしの沈黙ののち、お蝶がそっと言葉を継いだ。
「……あの祭壇。やっぱり、ただの飾りやない……誰ぞの無事を祈るための、もんでござんしたか」
真実を探る言葉でありながら、それはあえて“知らぬふり”をした優しい嘘。
けれど、その嘘に女将の手が止まり、かすかに背を向けたまま声を落とす。
「……何も……求めてはおりません。ただ……祈ることしか……それしか、出来ないのです」
それはあまりにも静かで、あまりにも深い声。
春を喪い、娘を喪い、時を喪った者だけが辿り着ける声だった。
そしてその夜、お蝶はふたたび、炎の揺らぎの中に沈む女将を見つめながら、ひとつの決意を深めた。
「……なら、うちらが確かめてみせましょう。春が、なぜ喰われるのか。誰が喰うのか……そして、あの娘が、今どこにいるのかを」
女将は何も答えなかった。
ただ、静かに炉の灰がぱちりと弾けた音だけが、部屋の隅に転がっていった――。
宿の囲炉裏には、ぱちりと小さな火が灯っていた。
湯気の立つ釜の音だけが静寂を刻む中、女将は薄くなった唇を震わせていた。
「……昔、この村には“鬼”に抗おうとした者たちもおりました」
ぽつりと漏れた言葉は、まるで凍てつく夜に灯された松明のように、部屋の空気を一瞬で変える。
お蝶は、静かに息を詰めた。
女将はしばし言葉を探すように目を伏せ、そして吐息のように続けた。
「……けれど、みな……」
言葉はそこで途切れ、彼女は深く息を吸い込んだ。
まるで、胸の奥底から沈んだ想いを掘り起こすように。
「みな、より大きな祟りを招いたのです」
その一言は重く、まるで石を投げ込んだかのように、場の静けさを波立たせた。
お蝶と黒子は言葉を交わさず、ただその声に耳を澄ます。
女将は続ける。
「だから今では、誰も口にせず、誰も抗おうとはしません。そうするより他、ないのです……」
それは諦念ではなく、恐怖そのものだった。
お蝶は目を細め、あえて低く、静かな声で尋ねた。
「……春が来るたび、娘が消える。いったい、何がその春とともに現れるのでござんしょう」
女将は答えず、小さく首を振るばかり。
「それは、わかりません。ただ、春になると、何かが村を訪れる……皆、それを“鬼”と呼ぶしかないのです」
まるで、名を与えることでしかその存在に形を与えられぬかのように。
その語り口には、伝承にすがるしか術のなかった人々の切実さが滲んでいた。
お蝶は俯きかけた面を上げ、虚空へ目を向けた。
「鬼が……春を呑む……」
それはただの言葉ではない。
目の前で語られた記録であり、現在進行形の祟りである。
村の者たちは、抗わず、忘れず、ただ耐え忍ぶ。
春がもたらすのは、温もりではなく喪失。
その季節をただ、恐怖とともに待つしかないのだ。
黒子の瞳が、じっと女将を見つめる。
彼の目は、冷ややかでありながらも、観察の鋭さを光らせていた。
恐怖の正体を、決して逸らさぬ姿勢がそこにあった。
お蝶は、女将の前に膝を寄せる。
「……その鬼とやら、いまだ山の奥に棲みついておる、ちゅうことでありんすかえ?」
女将は顔をこわばらせながら、恐る恐る頷いた。
「そうさねぇ……。山のもっと奥深く、人が近づかぬ場所があってね、昔からそこには“鬼”が住んでるって言い伝えがあるんだよ。けれど、誰も確かめに行った者はいない……皆、戻らないから」
その言葉には、古の封印のような重みがあった。
“誰も戻らない”――それが、すべてを物語っていた。
お蝶はしばらく沈黙したまま、女将の顔をじっと見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「鬼が……春を喰う、てわけでありんすねぇ……」
その言葉は、ただの問いではなく、問いかけに名を借りた覚悟のようでもあった。
女将はもう、それに応えることはなかった。
ただ俯いたまま、火の揺らぎのなかに、その身を溶かしてゆくようだった。
窓の外では、静かに雪が降り積もっていた。
その白さはあまりに静かで、まるで過去の罪を塗り隠そうとするかのように。
囲炉裏の火は細く灯り、湯釜の音がかすかに響く。
雪の降りしきる夜の静けさの中で、女将は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「どんな鬼かは……わからないんだよ」
言葉の端が震え、吐息のように洩れたその声には、長年胸に押し込めてきた恐怖と諦めが滲んでいた。
「ただね、春になるたびに、娘がひとり、またひとりと消える。……もう、何十年も、ずっと」
お蝶は思わず身を乗り出し、低く問い返す。
「何十年も、でありんすか……?」
女将はゆっくりと頷いた。
「最初の年は、ただの不幸だと……誰もがそう思った。でも、次の春も、その次も。毎年、春が来れば娘がいなくなる。……皆、分かってるのさ。鬼の仕業だって。でも声を上げる者は……もう、誰もいない」
その声音には、深い無力感が宿っていた。
言葉のひとつひとつが、名もなき娘たちの命を弔うかのように、重く沈んでいく。
しばしの静寂。
雪の音さえ遠のいたような静けさが、部屋を包む。
女将は目を伏せたまま、ぽつりと続ける。
「“春を呑む鬼”と呼ばれておるよ。……あれは春とともに現れ、骸花を咲かせ、命を喰らう者だって……そう言い伝えられてきた」
お蝶はそっと目を細めた。
「骸花……」
それは、魂が春へと昇華する花。
命の終わりが生み出す、優しき終焉の象徴のはず――
それを喰らうというのか。
女将の声は、ますます低くなった。
「誰も鬼の姿を見たわけじゃない。でもね……春が近づくと、あの山の方から何かが来る気配がするの。何か、大きな、得体の知れないものが……」
「山に入っちゃいけない。昔、それに抗おうとした者がいたけど……皆、祟りを受けたの。娘だけじゃない。家族も、家も……みんな壊された」
その声は、擦れた薪のように脆く、胸を刺すほど切実だった。
お蝶はゆるりと立ち上がり、女将をまっすぐ見つめた。
「けれど……あたしらは、行かねばならぬ気がいたしんす」
女将の顔が驚愕に染まり、かぶりを振る。
「駄目だよ……! お願いだから、あの山には近づかないでおくれ……!
もう、誰にも……同じ思いは、させたくないんだよ……」
掠れたその叫びは、嗚咽にも似ていた。
お蝶は、女将の手をそっと取る。
「そのお気持ち、しかと受け止め申した……けれど、誰かが踏み出さなければ、春はいつまで経っても祟りのままどす」
その言葉に、女将は目を伏せ、もう何も言えなかった。
ただ、小さく震える肩が、長年抱えてきた痛みと恐怖を語っていた。
黒子は何も言わぬまま、静かにお蝶の隣に立つ。
その影はひとつ、凍てついた宿の灯火のなかに、深く揺れていた――
囲炉裏の火は細く揺れ、室内には湯の立つ音と、遠くから届く雪の気配だけがあった。
言葉は尽き、時間はどこか遠くを流れているようで、お蝶も黒子も、ただ静かに座していた。
やがて、湯釜の音にまぎれるように、女将がぽつりと問いかけた。
「……どうして、こんな村に?」
その声音は、あまりに素直だった。
長い会話の果てに、ようやく絞り出された本音。
春に祟られ、誰もが口を閉ざすこの村に、なぜ訪れたのか――。
お蝶はふと顔を上げ、その問いを正面から受け止めた。
静かに、花のように微笑む。
「……ただ、来てみとうなっただけでありんす」
言葉はあくまで淡々と、されどその奥には、揺るぎない意志と、消えることなき灯火が宿っていた。
表情に浮かぶのは、懐かしさにも似た柔らかな光と、心の奥底に沈む覚悟。
「春を迎えられるなら、きっと何かが変わる。……そう思えたんでありんす」
女将は、その言葉に目を伏せる。
長年の沈黙のなかで忘れかけていた、誰かの言葉のように、それは静かに彼女の心に届いた。
やがて、微かに笑むような、けれど笑いには至らぬ声で女将が呟く。
「……変わる、ねぇ……」
それは嘆きにも似た響き。
けれどお蝶は、まっすぐに、かすかに目を細めて言葉を返す。
「ええ、きっと変わりんす。……変えねばならぬ、と、わちきは信じておりんす」
その一言に宿るのは、過去と未来の狭間に立つ者の覚悟。
ただ希望を語るだけではない、踏み込んだ者にしか帯び得ぬ確かな強さ。
女将は小さく息を呑み、深く目を閉じた。
その傍らで、黒子は動かない。
ただ静かに、その空間すべてを見守っていた。
彼の沈黙は、言葉よりも雄弁に、相棒の決意と、これから訪れる闇を見据えていた。
雪は止む気配なく、宿の外に降り積もる。
けれど、部屋の中には――
春を呼ぶ者の、静かな光が、確かにあった。
◇ ◇ ◇
その晩、篝火の宿は、深々と降り積もる雪に包まれていた。
村の気配はまるで凍りついたかのように静まり返り、白銀の帳が世界を呑み込み、すべてを夢の中へと閉じ込める。
窓の外には、月明かりを吸い込むような雪原が広がり、風の音すら届かぬ夜が、ただ無言で世界を支配していた。
だがその沈黙の底に、微かに、鋭い針のようなざわめきがあった。
お蝶は、膝を抱え眠る黒子の横顔をちらと見やり、そっと立ち上がる。
振袖の裾がふわりと揺れ、硝子の窓辺に歩を運んだ。
硝子越しに映るのは、凛とした美しさを湛えた雪景色。
だが、あまりに完璧すぎるその静寂は、かえって異様な気配を滲ませていた。
お蝶の瞳が細くなる。
「……おかしいねぇ。人の気配でも、獣の気配でもない……それでも、何かがおるよ」
その声音には、確かな警戒が含まれていた。
喉の奥で、どこか懐かしい不安が鈴のように震える。
胸の内で、妖糸がふるふると軋み、知らぬ闇に触れたと告げていた。
そのとき、黒子が静かに身を起こす。
彼は何も言わぬまま、窓の向こうに目を据える。
お蝶と目が合う。言葉はいらない。互いの表情だけで、確信は共有された。
――この夜、何かが、来る。
空気が僅かに凍てつく。
それはただの雪の冷たさではない。
人の世に属さぬ“なにものか”が、息を潜めていた。
お蝶は扇のような睫毛を伏せ、息を呑む。
「来るなら、受けて立ちましょう。……そのために、ここまで来たんやからねぇ」
静かに、言い聞かせるような呟き。
その声音には、怯えも躊躇もなかった。
この村の闇と向き合うことこそが、己の役目だと信じているから。
そして、ふいに――
雪の上に、音が走る。
ざっ……
それは一度きり。けれど、耳に届いた刹那、ふたりの全身を緊張が駆け巡った。
黒子が音もなく立ち上がり、葛籠に手をかけかけて、しかしすぐに離す。
まだ、その時ではない。
お蝶は、静かに背筋を伸ばす。
その視線は、もはや夜の闇を見据えていた。
この夜の奥に蠢くもの――
“春を呑む鬼”の気配すら、微かに交じっていたのかもしれない。
雪は、音もなく降り続く。
けれどその下に、何かが確かに近づいていた。
気配は、息づいている。
静謐に閉ざされた銀の世界は、あまりにも美しく、あまりにもおぞましかった。
粉雪が空より舞い降り、地を白銀に染めるさまは、まるで神の筆先が世界を塗り直しているよう。
けれどその中には、人の理を外れた“なにか”が、確かに紛れ込んでおった。
――この世のものにあらず。
風の狭間、雪の隙間を縫うようにして滲む気配は、まるで“幽”のもの。
お蝶は、黒子の背を目で追う。
黙して動かぬ彼の気配すら、もはや当たり前のように感じられた。
けれど今夜ばかりは、その沈黙が、より強く彼女を支えているように思えた。
お蝶は、静かに吐息を漏らした。
「来たんやったら……迎え撃つしかあらへんやろ」
その声に怯えはない。
これは戦いの前に己を鼓舞する言葉ではない。
自らの存在を確かにし、あの“何か”に対峙するための、誓いの一言であった。
ふたたび窓辺へ。
薄月が白髪を青白く染め、その面に落ちる影をより艶やかに映し出す。
夜の闇に抗うその姿は、まるで舞台の上に立つ花魁――けれどそこに浮かぶのは、艶ではなく、覚悟。
「……何かが、おる」
そう呟いた声は、雪の静寂を切り裂くでもなく、むしろそれを抱きしめるような、しんとした響きを持っていた。
お蝶はそっと目を閉じた。
そして、音のない世界に身を沈める。
風が、廊下を撫でていく。
その流れが、簪の鈴をかすかに鳴らす。
まるで、昔の神楽の余韻のように。
そのときだった。
遠く。
雪の中。
誰かが――確かに“お蝶”を、呼んでおった。
それは言葉ではない。音でもない。
けれども、確かに感じ取れる。
胸の奥を、琴線のように震わせる“誰かの気配”。
(……呼ばれとる)
雪はまだ、やむことを知らぬ。
銀の闇の向こうから、何かがこちらへ、手を伸ばしていた。
お蝶は、静かに瞼を開ける。
その瞳には、もはやためらいなどなかった。
夜が明けぬのなら、己がその闇に踏み込もう。
「……行かんと、ならへんようやね」
その声は凛としながらも、どこか穏やかであった。
まるで、すべてを受け入れた者のように。
お蝶は静かに、黒子の背へ目をやる。
彼はひと言も発せぬまま、ただ扉の前で佇んでいた。
ふたりの影が、雪の宿の中で重なり、ひとつの意志を結ぶ。
――その先に、何が待つとも知れず。
それでも、行かねばならぬ。
この夜の底へと。春を呑む闇の正体へと。
月が、雪の帳を照らしていた。
――しん、しん、と雪は降り続けていた。。
白の帳が、篝火村のすべてを覆い尽くす。
その静寂の奥で、風に紛れて、ふいに――何かが囁いた。
「……わたしを、さがしてるの?」
耳元に触れたその声は、あまりにか細く、あまりに淡く、けれど確かに、お蝶の胸奥を凍らせるには十分でだった。
ぞわり、と肌をなぞる冷たい指先のような感覚。
思わず、お蝶は息を呑んだ。
「……誰かえ……?」
自ずと漏れた問いに、応えるものはない。
ただ雪の降る音さえ消えたような静寂が、室内を満たしていた。
しかし、胸の奥では何かがざわめいている。
理では説明のつかぬ“気配”が、外からこちらを見ている――お蝶には、そうはっきりと感じ取れたのだ。
そっと窓辺へ近づき、外を覗く。
白、白、ただ白。
風が雪を巻き上げ、世界をぼかす。
けれど、その揺らぎの奥――ひとつ、形あるものが混ざっていた。
“誰かが立っている”
目を凝らせど、雪が遮る。
されど確かに、そこに「誰か」がいた。
その影は、次第に姿をとって浮かび上がってきた。
一人の、少女。
白装束。裸足。長き髪。
薄明かりの下、風に髪を揺らし、まっすぐに此方を見つめていた。
耳に挿した紅の簪が、雪の白に妖しく映え、その輪郭をより幻めいて見せていた。
お蝶の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
言葉より先に、胸が震えた。
あれは、忘れようにも忘れ得ぬ、あの姿――
「……こはる……?」
唇から零れたその名は、まるで儀式の呪文のように空気を震わせ、雪のなかへと滲んでいった。
少女は、その名を聞き届けたかのように、ふわりと微笑んだ。
どこか哀しげで、どこか懐かしく――
そしてその笑みを最後に、雪が一陣、吹きすさぶ。
少女の姿は、風と共に溶け、雪へと紛れていった。
「待ってぇな……!」
お蝶は思わず手を伸ばした。
されど、掴めたのは冷えた空気のみ。
その指先に、ぬくもりは残されていなかった。
残されたのは、凍てついた空気と、胸に残る微かな余韻――
それは幻か、過去の残像か、あるいは、ほんとうに“こはる”が呼んでいたのか。
窓に手をつき、お蝶はそっと息を吐いた。
指先が震え、胸の鼓動はなおも早鐘を打ち鳴らす。
けれどその鼓動が、彼女の中で一つの確信へと変わっていく。
(あの娘は、生きておる――)
たとえそれが、魂だけの存在であったとしても。
たとえそれが、鬼の喰らう“春”の只中に在ったとしても。
お蝶の心は、あの儚き笑みを決して忘れはしない。
そしてその想いこそが、次なる一歩を、お蝶に踏ませるのだ。
闇の奥にはまだ、真実が潜んでいる――。
あれは、夢であったろうか。
それとも、幻。
――いや。
お蝶の心は、否と応えた。
確かに、そこには“何か”がいたのだ。
そして今もなお、その“何か”が、どこかで己を呼び、引き寄せているような感覚が拭えなかった。
その刹那であった。
突如、風が吠えた。
篝火の宿の外にて、吹雪が唸りを上げ、雪は渦を巻き、天へと舞い上がる。
まるで、あの白き少女の面影を――こはるを――隠すかのように。
お蝶の瞳には、もはや何も映らぬ。
ただ白霧の帳が視界を覆い、世界そのものが、しんと音を失っていた。
「……こはる……」
その名は、唇から静かに零れ落ちた。
けれど、その音は、風にさらわれ、雪に沈み、消えた。
されど、名を呼んだその瞬間、胸の奥に、冷たくも鋭い波紋が広がった。
少女の残像は、雪に溶けて消えたはずなのに、胸のどこかが、いまなお引き寄せられていた。
それはまるで、凍てついた心の底に、誰かがそっと触れたような感覚。
やがて、風は力を失い、凪が戻った。
雪は、静かに、なおも降り続けている。
白銀の帳の向こうからは、何の気配もなく、ただしんしんと積もるばかり。
けれども、お蝶の胸には、あの瞬間に灯った“予感”があった。
それは、ゆるりと形を取り、声なき声で訴えかけてきた。
――この村には、春が来ておらぬ。
――春を、誰かが拒んでおるのだ。
「……拒んでおる……?」
お蝶はその言の葉を、低く反芻する。
まるで己の中で何かが目覚めようとしているのを、そっと確かめるように。
思わず、胸に手を当てた。
その奥でくすぶる疼きは、決して気のせいではなかった。
あの少女、こはる。
その名を思うたび、胸の中で火が灯り、得も言われぬ痛みと熱が湧き上がってくる。
なぜ、己はあの娘の名をこうも深く、重く感じてしまうのか。
記憶の奥から呼ばれるように、面影が揺れる。
けれど、掴もうとすれば、指先からふいに抜け落ちていく。
お蝶は、窓へと視線を戻した。
外は、なおも白銀の舞。
ゆっくりと息を吸い、白き吐息を、硝子に曇らせる。
肺に染み込む冷気が、神経を研ぎ澄ませてゆく。
そのとき――
微かに。
ほんの微かに、遠くより足音のような気配が聞こえた。
それは獣か、風か。
あるいは……人ならぬ“何か”か。
「……誰かが、待っとる……」
お蝶はそう呟いた。
その声音は、怯えを帯びてはおらぬ。
むしろ、確信に満ちていた。
誰かが、そこにおる。
誰かが、自分たちを待っている。
――それは、春を拒む者か。
――あるいは、春を喰らう鬼か。
黒子の気配が微かに動いた。
お蝶は、彼に目をやることなく、ただまっすぐ、闇の向こうを見据えた。
そこには、まだ見ぬ真実がある。
春が、ただの季節ではなくなったとき。
人の祈りが形を変え、鬼の名が囁かれるようになったとき。
この村の時間は――きっと、止まってしまったのだ。
その止まった時間の中で、お蝶は歩き出そうとしている。
真の“春”を見出すために。
そして、こはるという名の娘が、何を背負い、どこへ消えたのか――
すべての答えが、雪の向こうに待っている。
その晩、篝火の宿の一室は、雪に閉ざされた世界の静けさに包まれておりました。
薄明かりの灯りは、木の壁にかすかに揺れ、まるで眠れぬ者の影を映すかのように心細げに震えておりました。
お蝶は、低く伏せた瞳に強き決意を宿し、黙して窓辺に腰を落としておりました。
――この村で起きておること、すべての真(まこと)を暴かねばならぬ。
雪はなお音もなく降り続き、時折吹き抜ける風が障子をかすかに揺らすたび、彼女の肩が微かに震えます。
背後には、黒き影がひとつ。
黒子――何も語らぬ影法師のごとく、黙してその背に寄り添っておりました。言葉を交わすことなくとも、その気配にこそ、深き信頼と覚悟が通い合っていたのです。
やがて、お蝶が静かに口を開きました。
「……山に棲まうてる“春を呑む鬼”、そいつぁ、伝説なんかやおまへん。なにかが……あたしを、あの山へ誘うてる気ぃがいたしますの」
その声は囁きに近く、されど澱むことなく、凛と響いておりました。
思い浮かぶのは、こはるの面影。
あの娘が流した涙、あの娘が残した言葉、あの娘が託した春――それらすべてが、胸に澱のように残り続けておりました。
「こはる……あの子の春を、必ずや取り戻してみせんす。わちきの、この手で……」
それは誰かに告げるためではなく、己に言い聞かせる誓いの言葉でした。
目を閉じれば、なおも瞼の裏に揺れるこはるの笑顔。
春の風に舞う花の中で、柔らかく微笑むその姿。
失われたものの重みが、胸を締めつける。
「取り戻す……それが、わちきの務め。そう、思うておりんす」
その声に込められた想いは、まるで時を超えて再びこはると向き合おうとする者の覚悟であった。
黒子は無言で動くことなく、ただその言葉の重みを受け止めているようだった。
その沈黙こそが、最も深き理解の証。
吹き荒れる風が、再び窓を叩く。
月は姿を隠し、闇がこの村をすっぽりと覆い隠す。
「こはるの春を、失せたままにはいたしません。どんな闇の中にあろうとも、必ずや」
お蝶の声音は、夜の深淵に落ちていくかのような静けさを帯びていた。
そして――窓の外を見つめたまま、彼女はそっと続ける。
「明日は……何かが、起こるような気ぃがいたしますの」
その囁きは、誰に向けられたものでもなく、ただ“兆し”を読み取る者だけが口にする言葉った。
黒子の眼差しがふと、お蝶へと向けられたとき、彼女は振り返って言います。
「そう……起こるべくして、起きること。わちきらの過去が、どこまでも絡みついてくるんどすえ」
その瞳には、哀しみと覚悟が重なっていた。
ふと、窓の外の雪に目を向ければ、どこかにこはるの面影が舞っているような錯覚すら覚える。
されど、怯えることなど、もはやない。
お蝶は強く言う。
「それでも、進むしかありんせん」
吹きつける雪に負けじと、言葉を吐き出すように。
「明日、あの山へ赴きます。“春を呑む鬼”――その正体、わちきが突き止めてみせんす」
その声には、迷いも恐れもない。あるのは、ただ真実を見届けようとする者の矜持のみ。
そして、黒子と静かに視線を交わすと、ふたりの間に言葉はもう不要だった。
「どんなに長い夜でも、越えねばなりません。答えは、きっとあの先にあるんやろうて」
窓の外は、雪が舞い、風が凍る。
されどその白き帳の向こうに――真実は、きっと待っている。
「今は、明日を迎える覚悟を整えましょ」
お蝶はそっと身を起こし、静かにその場を離れた。
それは、春を取り戻すための、一歩でだった。