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第2章 黄泉の夏

08 季節は巡り

崩れた鳥居の前で、呪いと祈りの輪郭が明らかになる。

【七之幕】『季節は巡り』

 男は崩れた鳥居の前で、ぼろぼろと膝を突いたまま、呻くように口を開いた。

「……俺はな、反対してたんだよ。今回だけじゃねぇ、ずっと前から……」

 うなだれたその顔を、夜風が撫でると、乱れた髪の隙間から腫れ上がった目元がのぞいた。紫に変色したその痣は、まるで誰かの意思を押しつけられたように、生々しかった。

「嫌だったんだ……あんなの、ずっと……だから……なつきを、あの子を連れて逃げようとしたんだ……けど……」

 声が嗄れ、喉が潰れるような音になった。

「……救えなかった。俺の目の前で……やつらは、あの子を……」

 唇が震え、男はただ首を振るしかなかった。

 ――生贄に、捧げられたのだ。

「……何もかも、可笑しかった。今までだって酷かったさ……けど、今年は……違ってた。目の色が……まるで鬼だ」

 男の瞼の奥に焼きついていたのは、血に染まった少女が、半ば意識を失いながら、男たちの手で引きずられていく光景だった。

 演舞台での“儀式”を終えた巫女が、神輿に乗せられ、社へと送られる――それが、村の〈春告げの祀り〉における“表向き”のしきたりであった。

 舞を舞い、村を笑顔で見送ったあと、巫女は山の社へと向かい、春の到来を願って神に祈りを捧げる。祈りを終えた巫女は、〈神の使い〉として村の外に送られ、他所で奉仕の務めにつく。

 ――そう語られていた。

 だが、それはすべて、虚構だった。

 実際には、社に送られた娘は、生きては戻らぬ。

 社の扉は二度と開かれず、そこに囚われた娘は、生きたまま焔に包まれるのだ。

 焼かれることで、“春を呼ぶ”。娘の命が焔となって、雪を溶かし、山を目覚めさせると信じられていた。

「村じゃ、そうやって……“役目を終えた巫女は、外で暮らすんだ”なんて……もっともらしく言いやがる……けど、みんな知ってるんだ……あの社に行った娘は……帰ってこねぇって……」

 男は苦悶に顔を歪め、焼け焦げた地面を拳で打った。

「だから、忘れるんだ……村人たちは……見て見ぬふりして……“あれは神のご加護だ”って……そう言って、毎年、春を祝ってやがるんだよ……!」

 しばしの沈黙が、村の焼け跡に落ちた。

 風が吹いた。まるで、その嘘をあざ笑うかのように。

 ――忘れられた命。

 ――祭りの裏に隠された、犠牲と血の真実。

 こはるは、ただ震えていた。

 なつき――かつて小さき手で扇を握り、こはるの後ろを追いかけていた、あの幼子。

 その子が、今、焼かれたのだ。

 誰に見送られることもなく。

 誰にも救われることもなく。

 ただ、“春”の名のもとに。

 こはるの胸の奥で、何かが壊れる音がした。

 自分は春を救われた。

 春姫の祈りに守られ、骸花の呪いから解き放たれた。

 けれどその陰で、もうひとりの少女が差し出されていた。

 こはるの代わりに。

 春を閉じるために。

 次なる季節を、狂わせるために。

「……わたしの……代わりに……?」

 こはるの唇から、かすれた声が洩れた。

 その声に応えるように、焼け落ちた社の残骸のほとり、黒く煤けた石の間より、少女の声がふいに響いた。

「……覚えてるよ。熱かった……苦しかった……でも、いちばん辛かったのは――」

 声はどこからともなく響きながら、耳ではなく胸の内へ染み渡る。柔らかくも凍てついた哀しみを帯びていた。

 と、その声に呼応するように、焼け跡を撫でる風がひと吹き。

 春の余韻を含んでいたはずの空気が、突如、じわりと粘り気を帯びる。

 湿り気と熱気を孕んだ空の気配――それは、春を終わらせる気配。

 ――夏が来る。

 お蝶は黙然と立ち上がった。

 朱を引いた唇が、低く囁くように紡ぐ。

「春の次に来るのは、夏……。なんの因果か、とうに仕組まれた流れだったんだねぇ……」

 その声音は風の向こうに滲み、時の流れを裂くように響いた。

 その言葉に、こはるの瞳が揺れる。

「……なつき……わたしの……代わり……」

 唇が震え、声が掠れたその刹那――

 焼け焦げた地面より立ちのぼる陽炎が、ゆらりと形を成した。

 熱風が唸りを上げ、ひとつ、ふたつ、黒焦げの骸が塵のように風へと散っていく。

 やがて、社の中心に揺れる光のなか。

 そこに在ったのは、一人の少女の姿だった。

 白の巫女装束は焦げ跡一つなく、足元からはふつふつと陽の気配が立ち昇っている。長い髪には黒百合の髪飾りがひとつ挿され、瞳には古の夏が宿っていた。

 彼女は、ただ静かに立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように。

「――こはる姉ちゃん、わたしのこと、覚えてる?」

 その声は、耳ではなく、魂の奥底へと直接響いた。

 こはるは一歩、また一歩と引き寄せられるように足を踏み出す。

 風が止まり、音が消えた。世界が一瞬、時を止めたかのように沈黙する。

 こはるの唇が、かすかに震えた。

「……なつき?」

 ぽつりと漏れたその名に、白き少女は小さく、確かに微笑んだ。

 だが、それは幼き懐かしさでも、再会の喜びでもなかった。

 それは――まるで長き眠りを終え、すでにすべてを知り尽くした者の顔。

 諦めに似た静けさと、覚悟に染まった清冽な微笑。

 風がふたたび吹き始めた。今度は、明らかに“夏”の匂いを含んだ熱を帯びていた。

 なつきは、風と共に現れた。

 春のあとに咲く、“もう一人の巫女”として――。

「わたし……春を喰われたその夜、呼ばれたの。こはる姉ちゃんの代わりに、“夏の巫女”として……」

 なつきの声は、氷をなぞるように静かだった。

 瞳は曇りひとつない水面のように澄んでいたが、その奥には、長い歳月を閉じ込めた深海のような悲しみと、炎のごとき怨がひそんでいた。

「誰も、わたしのことなんて見ていなかった……。名を呼ぶ者も、傍に立つ者も、誰ひとり……。だから、今度は――わたしが呼ぶの。“黄泉の夏”を、ふたたび……」

「なつき、待っておくれ」

 お蝶が静かに声を挟んだ。

 その響きには、叱責ではなく、見極めようとする鋭さがあった。

「あんたは、春を奪われた恨みで戻ったのかい。それとも、誰にも呼ばれなかった自分の名を、今度こそ取り戻しに来たのかい」

 なつきは、お蝶を見た。

 白い顔に、かすかに揺らぎが走る。

「……どちらでも同じよ。わたしは、こはる姉ちゃんの代わりになった。誰にも望まれず、誰にも弔われず、ただ帳尻を合わせるために焼かれた。それなら今度は、わたしが季節を選ぶ」

 その瞬間だった。

 空が、裂けた。

 天上から響いたのは、まるで空そのものが悲鳴を上げるかのような、ひび割れる音。

 風が逆巻き、焦土となった地を這うように、青白い炎が奔った。

「なつきッ!」

 こはるが駆け出そうとした、その身体を、しっかと後ろから抱きとめたのはお蝶だった。

 その瞳に宿るは、哀しみと覚悟。

「――そこから先ぁ、黄泉の道よ。姉ちゃん、それ以上踏み入れちゃ、いけねぇよ……」

 お蝶の声音は艶やかにして、どこまでも静謐であった。

 風が唸る。地鳴りが這う。まるでこの世の理が反転するように。

 なつきの身体が、ふわりと宙に浮かび上がる。

 白装束の袖が風に踊り、黒百合の髪飾りが夜空に煌めいた。

 その背後――焼け落ちたはずの社の残骸が、まるで意志を持つかのように立ち上がり、組み上げられていく。

 燃え焦げた柱、崩れた梁が、誰の手も借りずに積み重ねられ、やがてひとつの異形を成す。

 ――〈夏の社〉。

 その姿は神聖を模しながら、どこか禍々しく、凍てついた悪夢の骨格のようでもあった。

 お蝶はひとつ息を吐き、そっと呟いた。

「こはるを救った先に、なつきがいた……。犠牲の春を終えた先にゃ、また別の扉が開いたってわけさ」

 唇に苦い笑みを浮かべながら、お蝶は続ける。

「犠牲の春は終い。けんど次にゃ、“黄泉の夏”の幕が開くって寸法か……。こりゃあ――ますます、厄介なことになってきたねぇ」

 風は止まぬ。

 なつきの瞳に宿る炎は、もはやあの幼子のものではなかった。

 これは、春を弔ったその先に待つ、新たな季節の祟り。

 そして、こはるが抱くべき、次なる“答え”の物語。

 黒子は、ただ黙して佇んでいた。

 その黒装束の影は、風に揺れることもなく、空に焦げ跡を残したままの焼け野の端に、まるで時間の外にいるかのように沈んでいた。

 その胸に何を秘めているのか――誰にも、いや、お蝶にすら、窺い知ることはできぬ。

 けれど、この場に立つ誰もが、無言の彼から感じ取っていた。

 これはもう、人の手でどうこうできる次元ではない。

 運命か、因果か、それとも――

「……神さまの戯れか、あるいは罰か。どのみち、洒落にもなりゃしないねぇ……」

 お蝶は、空に残る焔の名残を仰いで呟いた。

 空には、なお焦げた雲が尾を引いていた。

 地には、いまだ拭えぬ怨の気配。

 そしてその中心に、ひとりの少女が立っていた。

 なつき。

 ――黄泉返りの巫女。

 焼け落ちた社の跡地、その残炎の熱すら失せた土の上に、突如として姿を現した〈夏の社〉。

 それは古き因習の歪みが、時を越えて姿を変え、まさにいま再構築された“呪の祭壇”であった。

 なつきは、白装束に身を包み、黒百合の髪飾りを揺らしながら、社の中心に佇んでいた。

 その瞳は、夜の底よりなお深く、微かに浮かべた笑みは、見る者の背をぞくりとさせる冷たさを孕んでいた。

 神々しさと人ならぬ儚さ――

 ふたつの矛盾を兼ね備えたその存在に、誰しもが言葉を失った。

 風は、止んだ。

 雨も、すでにやんでいた。

 空は、さながら薄墨を流したようにぼんやりと曇り、物音ひとつなく、静寂が辺りを覆っていた。

 そして――

 雲が裂ける。

 天頂より、陽が射した。

 まるで神託のように、空が晴れわたったのだ。

 晴れ渡る快晴。

 その光の下、なつきの姿は、まるで天から遣わされた神使のようにも、地より這い出た怨霊のようにも見えた。

 お蝶はひとつ、目を細めて呟いた。

「春が終いを告げるころ……夏が目を覚ますって寸法かい。ずいぶん、厄介なお出ましじゃないかえ……なつき、あんたって子ぁ……」

 その声音は、嘲りでも哀れみでもなく、ただ真実を見据える者の諦観と静かな敬意に満ちていた。

 巡る季節。

 いまや春は鎮まり、夏が、祟りとして目覚めようとしていた――。

 お蝶が、ひとつ息を吐き、炭を踏むように静かに一歩、足を踏み出した。

 焼け落ちた社の残骸、その焦土に生まれ落ちたかのような〈夏の社〉を前にして、彼女の声は決して高ぶることなく、だが確かな響きを持って宙を裂いた。

「……なつき。あんたは、黄泉から“何を”持ち還ってきたんだい?」

 その問いに、なつきはふっと目を伏せ、ひととき間を置いてから、まるで古井戸の底から掬い上げたような声で応えた。

「――こはるを救った代償よ」

 その声音には、怒りも恨みもない。ただ、火が尽きることを拒む灰のように、燃え残ったものの静かな熱が宿っていた。

 彼女の背後で、〈夏の社〉の柱がぎい、と軋む。

 その音はまるで、遠い慟哭のように風に乗って社殿の周囲へと響いた。

「……あの春の夜のあと、わたしは“選ばれた”の。こはる姉ちゃんの代わりとして。儀式の“埋め合わせ”として――」

 なつきの目は遠くを見ていた。けれど、その瞳が映しているものは、眼前の風景ではなかった。

「けど、誰にも望まれなかった。誰ひとり、わたしの名を呼んではくれなかった。こはる姉ちゃんの命を繋いだ代わりに、わたしがいなくなったことさえ……村の誰も気づかなかった」

 お蝶は言葉を挟まなかった。ただ、その視線の奥に、なつきの魂の温度を測るような、深い静寂を湛えて見つめていた。

 そのときだった。

 なつきの両の手がそっと開かれた。

 焦げ土に、黒紫の〈返り火草〉が咲き出す。花というには異様なその姿は、まるで地の底から湧き上がる怨念の火種のように、ぽつりぽつりと芽吹いていた。

「だから、今度はわたしが呑み込むの。春が呑まれたのと同じように、今度は――“夏”を供物として」

 その言葉と共に、〈返り火草〉は地を這い、社の基壇を覆いはじめる。

 空の色が変わった。

 晴れ渡っていたはずの青空が、徐々に翳り、まるで夏の陽炎がそのまま黒雲へと変じたかのように、天を染めていく。

 お蝶は、足元の花を一瞥し、唇に紅を引くように言葉を乗せた。

「――なるほどねぇ。春に呑まれ、夏に祟られ……こりゃあ、四季じゃなくて、四怨ってところかい」

 なつきの瞳が、その声に一瞬だけ揺れた。

 けれど、その揺らぎはすぐに静けさへと戻っていく。

「こはる姉ちゃんが生きたから、わたしは死んだの。

 でも、それで良かったのよ……あの人が笑ってくれるなら、それで、ね。

 でも……でもね、あの人が、もうわたしを思い出せないのなら――」

 なつきの足元から、返り火草が火のように燃え上がった。

「――この夏は、誰のものでもないわ。わたしが、わたしのために咲かせる“黄泉の夏”よ」

 お蝶は静かに目を伏せ、風に揺れた髪を押さえながら、ぽつりと呟いた。

「……春を返してもらったら、今度は夏を引き換えに持っていかれる……。皮肉なもんだねぇ、まったく」

 そして、風が吹いた。

 なつきの姿が、返り火草の中心に立ち尽くし、まるでこの夏そのものを纏った化身のように、静かに空を仰いだ――。

 ◇ ◇ ◇

 空が灼けるように白み、季節の鼓動が狂い始めたのは、それが現れてからのことだった。

 〈夏の社〉――焼け落ちた旧社の焦土に、禍々しき呪の理によって再構成されたその社は、いまや誰も寄りつかぬ禁足地となり、昼夜問わず淡い火の粉を宙へ撒いていた。

 その火は、風に乗って村の屋根を焦がし、畑の苗を枯らし、井戸の水を濁らせた。

 老女が目を凝らして言った。

「……陽は出とるのに、どうしてこうも……肌が焼けるように痛むのかねぇ……」

 子を背負った若き母が泣き叫ぶ。

「この子が……熱を出したまま、冷めないんです……水も、薬も効かないの……!」

 軒先では、蓑を着た男が唇を震わせて天を睨んでいた。

「……夏の陽が……燃えちまってる……あれは、陽の光じゃない……炎だ……!」

 村に広がるのは、無音の災禍であった。

 だが、誰一人としてそれを“なつき”の仕業とは口にせぬ。

 なつきは、村にとって“無かった者”であり、“忘れられるべき存在”であったからだ。

 ――だが、それこそが彼女の怒りを燃やした。

 その夜。

 〈夏の社〉の奥、かつて神楽が舞われた祀りの間に、なつきはひとり立っていた。

 白装束に浮かぶ赤黒い影は、まるで夏に灼かれた死装束のようであり、彼女の肌には燻るような文様が浮かび上がっていた。

 目を閉じたなつきの唇が、ふいに動く。

「……燃やす。わたしを捧げた村も……名を呼ばなかった人々も……記憶ごと、ぜんぶ燃やしてしまえば、きっと楽になれる……」

 次の瞬間、社の祭壇の中央に、〈返り火草〉がひとつ咲いた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 無数の黒紫の炎が地を這い、境内の木々に絡みつく。

 その火は火でありながら熱を持たず、触れたものを“思い出”ごと焼き払う呪の焔だった。

 そして、天が裂ける。

 なつきの足元から、緋色の裂け目が地を割るように走り、地中深くに眠る“過去”が目覚める。

 〈黄泉〉の囁き。

 かつて生贄となった少女たちの名もなき嘆きが、返り火の焔に乗ってこの世へと還る。

 なつきの瞳がゆっくりと開かれた。

 そこには、もう“人の子”の光はなかった。

 その眼は、春の終わりを拒み、夏の命を灼き尽くす、異なる理の象徴――

 〈夏祀の主(なつまつりのぬし)〉。

 風が止み、虫の声が絶えた。

 空は凪いだまま、昼とも夜ともつかぬ“白い闇”に覆われた。

 ――黄泉の夏が、始まった。

 翌朝、こはるは村の外れから〈夏の社〉を見上げていた。

 春を取り戻したはずの山には、もう雪はなかった。

 けれど、そこに広がっていたのは、生命の芽吹きではない。

 白く焼けた草原。

 水気を失った川床。

 煤のような花粉を降らせる黒紫の返り火草。

 春の呪いを解いたはずなのに、村は新しい季節の災いへと呑まれつつあった。

「……あの子を、止めなきゃ」

 こはるが呟いた。

 その声は震えていたが、逃げる者の声ではなかった。

 お蝶は、そんなこはるの横顔を見やり、少しだけ目を細める。

「止めるだけじゃ足りんよ、こはる。あの娘は、敵になりとうて戻ったわけじゃない。誰かに名を呼んでほしかったんさ」

「……わたしが、呼ばなきゃいけないんだね」

「ああ」

 お蝶は短く答えた。

「この夏は、あの娘のものだ。なら、あの娘の夏を終わらせるのも、あの娘を覚えている者の役目さ」

 こはるは胸元に手を当てた。

 そこには、かつて春姫から受け継いだ銀の簪があった。

 春の記憶。

 鎮魂の祈り。

 そして、今はまだ救えぬ、夏の名。

「行こう、お蝶さん」

 こはるは顔を上げた。

 その瞳に、ようやく迷いの奥から意志が灯る。

「なつきを、迎えに」

 お蝶はにやりと笑った。

「そうこなくちゃねぇ。さ、黒子。幕を上げようじゃないかい」

 黒子は何も言わず、ただ葛籠を背負い直した。

 その影が、ほんのわずかに頷いたように見えた。

 ◇ ◇ ◇

 〈夏の社〉――それは焼け落ちた旧社の骨の上に、呪いが織り上げた“祀りの骸”であった。

 その柱は赤黒く、焔に焼かれたような裂け目からは熱気が漏れ、屋根には触れれば記憶を溶かす返り火草が咲き乱れていた。風すらも社のまわりでは立ち止まり、虫の音も絶えて久しい。

 なつきは祭壇の中央に立っていた。

 その姿は、かつて神に捧げられた巫女たちの面影を纏いながらも、もはや人ではなかった。白装束の袖は炎に揺れ、足元の影は緋色に染まっていた。

「ようこそ、わたしの“夏”へ」

 なつきの声は、遠雷のように境内を這った。

 お蝶とこはるが〈夏の社〉の前に姿を現したとき、空は血のように灼けていた。

 鳥居は歪み、社を囲う結界のような熱風が、近づく者を拒むように渦巻いている。

 だが、お蝶はひるまなかった。

「……ほう、歓迎の火ぃが派手やこと。けど、こんな熱、花魁の肌にはちぃと足りんくらいやねぇ」

 手の甲で口元をぬぐうと、お蝶は髪に差していたかんざしを一本抜き取り、ひらりと指先で宙を踊らせた。妖糸が光を纏い、結界のひと隅に刺さる。

 瞬間、空気がひび割れた。

「さ、こはる。行くよ。あの子を――迎えにね」

 だが、社が応えた。

 柱が呻くように軋み、地を這う黒紫の根が石畳を突き破って伸びた。それらはまるで生きているかのように動き、お蝶たちの足元へと伸びる。

「ッ……足が……!」

 こはるが声を上げる。

 だが次の瞬間、お蝶のかんざしが煌き、根の一本を一閃にて断つ。

「しっかりなさい、こはる。ここぁ、あんたが“春”を取り戻した場所。けど……今度は“夏”が、あんたに託されとるんやよ」

 お蝶の声は、熱のなかにあってなお、冷たく、冴えていた。

 祭壇のなつきが、ふと目を細めた。

「やっぱり……来たんだね、こはる姉ちゃん」

 その瞳には涙ではなく、火が宿っていた。

 次の瞬間、なつきは手を広げる。

 社の天井が砕け、空から黒い火の粉が降り注いだ。それは燃えず、焼かず、ただ記憶と痛みを呑み込む“消去の火”だった。

「記憶を焼き尽くせば……苦しみも、全部消えるの……わたしみたいに、なかったことに……!」

「なつきィィィ!」

 こはるが叫び、駆け出した。だが炎の鎖が彼女の進路を阻む。

 お蝶は一歩前に出た。

「悪ぅな、なつき嬢ちゃん。こはるの前を塞ぐんは、あたしの務めやない。けんど――あんたの道も、今ここで止めさせてもらうで」

 お蝶の妖糸が舞う。

 絡みつく火の蔓を断ち切り、地を這う根を縫い、空から落ちる火の粉を撥ね退ける。

 ひとつ、またひとつ――

 まるで舞のように、お蝶は炎のなかを跳ね、斬り、舞い進んでゆく。

 こはるの足がふらつく。

 だが、彼女の声は震えていなかった。

「なつき――あんたが、わたしの代わりになったこと……本当は知ってた……ずっと、目を背けてただけ!」

 なつきが微かに振り向く。

「……だから、今さら赦されたいの?」

「違う! 赦してほしいんじゃない! ……ただ、わたしは、あんたを――救いたいだけだよ!」

 その言葉に、なつきの表情がほんの一瞬だけ崩れた。

 炎の奥にいる少女の顔が、かつてこはるの後ろを追っていた幼子のそれに戻る。

 だが、すぐに返り火草が燃え上がり、その揺らぎを呑み込んだ。

「救う……? こはる姉ちゃんは、いつだってそう。自分が傷つくことばかり考えて、誰かが代わりに傷ついたことには気づかない」

「……っ」

「でも、もういいの。わたしは、誰かの代わりじゃない。わたしの夏は、わたしだけのものにする」

 返り火草が一斉に燃え上がる。

 その火は、こはるの記憶を舐めるように迫った。

 幼い日。

 夕暮れのあぜ道。

 なつきが笑いながら、こはるの袖を引いていた日のこと。

 その記憶が、白く焼けて消えようとする。

「させやしないよ」

 お蝶が囁く。

「聞いといで、なつき。あの子の言葉は、嘘ちゃうで」

 妖糸の一閃が、〈夏の社〉の結界を断ち切った。

 空が動き、社が震えた。

 なつきの身体が、一瞬だけふらついた。

 その隙を逃さず、こはるは炎の鎖を潜り抜け、祭壇の手前まで駆け寄った。

「なつき……わたしは、あんたを忘れたことなんて一度もないんだよ……あの日から、ずっと……」

 なつきは微笑んだ。けれど、その笑みは、あまりにも静かで、あまりにも遠かった。

「わたし、こはる姉ちゃんの背中、ずっと見てたんだよ。あの時、姉ちゃんを助けられたのが、ほんとうは嬉しかった。けど、誰も――わたしの名を呼んでくれなかった」

「……すまない。わちきは、ずっと目を背けとった。あんたの“夏”を、生きた証を……見ようとせんかった」

 お蝶が静かに言った。

「けれど、あんたは“燃え尽きること”を選んじゃいけない。夏は、燃えるために咲く花やない。“実り”へと続く道や。あんたが歩くべき季節は、ここで終わっちゃいけねぇ」

 なつきは、ふいに顔を伏せた。そして、ぽろりと涙をこぼす。

「じゃあ、わたし……どうすればいいの……?」

 こはるが、そっと手を伸ばした。

「わたしと一緒に、生きてほしい。もう、春を終わらせたんだ。今度は、あんたの“夏”を生きて――その先を、見てほしいの」

 ふたりの手が、ゆっくりと重なった。

 その瞬間、〈夏の社〉を包んでいた黒紫の火が、ふっと風に揺らぐように静まり、返り火草が灰となって溶けた。

 そして、なつきの身体から、光がふわりと立ち昇る。

 だがそれは炎ではなく――希望の灯。

 お蝶がにやりと笑って言う。

「黄泉の夏を抜けたんなら……あんたの季節は、もう“終わり”やない。“始まり”なんだよ、なつき」

 なつきが、微かに頷いた。

 それは、永い鎮魂の果てに、ひとつの魂が選んだ“再生”のしるしだった。

 ――やがて、風が吹いた。

 そこには、静かに咲く一輪の花。燃え残りではなく、芽吹きの兆し。

 そして、空が微かに鳴った。

 風が、ゆるりと動いた。

 その風に紛れて、かつてこの地で散った“夏の亡霊”たちの声が、どこからともなく微かに響く。

「――なつき、わたしたちは忘れない」

「あなたの祈りを……」

「一緒に咲いて、終わろう……」

 お蝶は、はっと息を呑んだ。

「……こりゃあ、ひとりやふたりの無念じゃありやせんねぇ。時を越えて供養もされず、祈りも応えられぬまま打ち棄てられた“夏”……何十年と積もり積もった怨嗟が、ようやっと花を咲かせたってことかいな」

 なつきの身を包む白装束が、かすかに揺れる。返り火草の黒紫の花弁が、風に乗って天へと舞い上がる。

 それは呪いではなかった。

 春を経て訪れるはずだった“季節”――失われた夏が、ここに顕現したのである。

 なつきの姿は、炎に焼かれるのではなく、朝靄のように、やわらかく、透明に溶けていく。

 そのありさまを、こはるは茫然と見つめ、ひとつ歩を踏み出した。そして、震える声で名を呼んだ。

「……なつき……わたし、忘れてなんていなかった。あんたと踊ったあの夕暮れも、歌った唄も、全部覚えてる……だから、どうして……どうしてわたしの代わりに――」

 なつきは、静かに、けれど確かに微笑んだ。

「……忘れてくれて、よかったのに」

 その笑顔には、諦めでも、恨みでもなかった。

 むしろ、それを超えた、深い受容の色が宿っていた。

「こはる姉ちゃんが、生きていてくれるなら……わたし、それで、よかったんだよ」

 彼女の頬を、ひとすじの涙が伝う。

 その涙が頬を離れた刹那、風がそよぎ、遠くで蜩の声が鳴いた。

 まるで、夏の終わりを告げる鐘のように――

 お蝶は、そっとこはるの背に手を添え、低く、深く囁いた。

「……夏が終わりゃ、秋が来る。けれど、あの娘の“夏”は、ここに置いていかれちゃなんねぇ。あんたの中で、咲かせておやり。悔いやなく、願いのままに……」

 こはるは、涙を拭わずに頷いた。

 なつきの身体が、光の粒となり、空へと溶けてゆく。

 その残響が、なおも地に残る“聖火”のように、静かに辺りを温めていた――。

 だが、その光が天へ届こうとした瞬間。

 黒子が、ぴくりと肩を動かした。

 お蝶もまた、顔色を変える。

 救われたはずの魂を、別の何かが見ている。

 それは、山の神でも、春姫でも、夏姫でもない。

 もっと遠く、もっと高く、そして人の痛みからかけ離れた場所より差し伸べられる、白いもの。

 お蝶は、低く舌打ちした。

「……ちっ。せっかく人の手で還ろうって魂を、横から掻っ攫う気かい」

 その言葉が終わるより早く――

 天が割れた。

 ◇ ◇ ◇

 空の蒼がひび割れ、その奥より巨大なる〈門〉が姿を現した。

 門は光に包まれていた。金剛石のように煌めき、無垢の白に彩られながらも、見る者の魂を膝から崩れさせるほどの威圧を孕んでいた。

 まるで、神が裁きを下すために、その“正義”を掲げて現れたかのように。

「……ちっ、またかい……天界の偽善者どもめが」

 それは、誰とも知れぬ男の低い呟きだった。風にまぎれ、地に沈むように吐き捨てられたその声には、底知れぬ憎悪と嘲りが滲んでいた。

 次の瞬間、天空に七つのラッパが鳴り響いた。

 その調べは甘美にして荘厳、狂おしいまでに美しい旋律を伴い、天より声が降ってくる。

 ――これは救済、これは昇華、これは永劫の祝福。

 耳に触れただけで涙が溢れるような、聖なる響きであった。

 こはるは膝を折り、地に伏す。

 涙がとめどなく流れる。理屈ではなかった。ただ、魂が震え、胸が満たされ、息をするだけで幸福に包まれる。

「……なんで、涙が……止まらない……こんなにも……温かい……」

 お蝶が、それを見て駆け寄った。こはるの両肩をぐっと掴み、眼と眼を真っ直ぐに合わせ、躰ごと強く揺さぶる。

「気ぃ確かにおし! そりゃまやかしの光、耳ざわりのええ声で心ぅ縛りつけとるだけさ!」

「でも……お蝶さん……わたし、今……こんなに幸せで……天にも昇るって、こういうことなんだね……もう……死んでもいいくらい……」

「……やれやれ、しっかりおしな……こりゃ洗脳が強すぎるねぇ。あれをどうにかしなきゃ、皆が神の名の下に、喜んで魂を明け渡しちまうわ!」

 お蝶は、ふらつくこはるを支えながら、ゆるゆると天を見上げた。

 門が開こうとしている。

 聖なる響きの裏側に、ぞっとするほどの沈黙があった。

 開けば終わる――そう告げるかのように、空の門はひとすじの光を漏らし、その口をゆっくりと開きつつあった。

 その奥より、まるで裁きの火を孕むかのような白光が漏れ出してくる。

 村の者たちは跪き、喜悦の涙を流し、手を掲げていた。

 だが、お蝶だけは、天に向かって毒を含んだ微笑を浮かべて言った。

「神サマがなんぼのもんだい……あたしらはあたしらの地べたで、己の春も夏も、ちゃあんと歩いて咲かすんだよ」

 その声は、あらゆる天の調べを裂くように、鋭く――そして誇り高く、夜気の中に響き渡った。

 空に裂け目が走った。

 そのわずかな隙間より、白銀に光る無数の手が、螺旋を描いて天より垂れ、ふわりと浮かぶなつきの身へと伸びていった。

 指先は美しく、まるで天使の祝福のようでありながら、その指の一本一本には、神聖と呼ぶにはあまりに過酷な意志がこもっていた。

 ――それは、祝福の手ではなかった。

 救済の名を借りた拘束。

 穢れなき意志による、断罪の手。

 そのとき、空に妖糸の煌めきが走った。

 お蝶が、両手を高く掲げて妖糸を放つ。投げ縄のように巻き上がった糸は、天の光の中を翔け、幾本にも枝分かれして手を断ち切っていく。

 ぎぃぃぃ、と虫のような甲高い悲鳴が虚空に木霊する。

 断たれた手がぼとぼとと地に堕ちる。輝きを失ったその白き手は、地に触れた瞬間からぶくぶくと膨れ、蛆を湧かせて黒く変色していった。

「冥府の手にゃ届かせやしないよ……なつきは、まだこっち側の娘だ!」

 お蝶は叫ぶようにして、妖糸をさらに放つ。糸はなつきの腰元へ絡み、ぐい、と一気に地へと引き下ろそうとする。

 だが、なつきの身は羽のように浮かんでいるというのに、あまりにも重い。

 引けども引けども、糸はきしみ、なつきの身体は揺れるばかりで降りてこない。

「……重いねぇ、この子が背負わされとるもんは……あたしひとりの手には余るかい!」

 そのとき、黒子が一歩、静かに進み出る。

 葛籠の蓋が音もなく開いた。

 中から溢れ出したのは、底知れぬ〈闇〉。怒りの熱を孕みながらも、音なき奔流のごとく、空を裂いて門へと襲いかかる。

 黒い布のようなそれは、怒号も嘆きも持たぬまま、門の柱へと絡みつき、扉へと滲みこみ、まるで溶かすように光を喰らいはじめた。

「喰らいな、あたしらの苦悶と怨嗟を、その“きれいごと”の門ごと飲み干しちまいな!」

 お蝶の声が風を裂いた。

 〈闇〉は何重にも門に絡みつき、空をひとしきり暗く染め上げてゆく。天界の門は、光を失い、徐々にその輪郭を歪ませた。

 ――あと少しで届く。

 あと一息で、天界の偽りは呑まれようとしていた。

 だが、刹那。

 門の隙間から、ぞろりと黒い影が這い出た。

 それは――蝗(いなご)であった。

 最初は一匹、そして十、百、千と。

 無数の蝗が、門のひび割れから這い出し、羽音を鳴らしながら空を覆ってゆく。

 蝗は〈闇〉を喰らい、地を這い、空を覆い、風を汚し、火のごとく渦巻いた。

「……こりゃ、神サマが出してきた“最後の切り札”ってとこかい……なんともえげつない真似を……!」

 お蝶の声には怒りというよりも、深い哀しみと呆れが混ざっていた。

 この地に在るべき夏を、“神の正義”とやらが、いま呑み込もうとしている。

 ――なつきを救うのか、それとも――夏そのものを呑み込ませてしまうのか。

 風が唸り、戦いは、いよいよ臨界を迎えようとしていた。

 そして、天の門は、ついにその口を完全に開いた。

 まばゆき光が大地を照らす。だが、それは祝福ではなかった。眩さの底にあったのは、冷たい審判、血よりも白き暴力。

 光が柱となって地に落ちる。

 最初に焼かれたのは、村の祠に伏していた老婆だった。

 ただ手を合わせていただけの老いた手が、骨ごと音もなく蒸発した。

 次いで、逃げ惑う者たちの背に、まるで神罰の矢のごとき閃光が突き刺さる。

 肉は焦げ、骨は砕け、影だけを地に焼きつけて、村人たちは次々に消えていった。

「……っ、あれが……“許し”ってのかい……!」

 お蝶の声が震える。怒りか、絶望か、その区別すらも付かぬほどに震えていた。

「冗談じゃないよ……これが、あんたらの“慈悲”かい……?」

 門より降り注ぐ白き炎は、選ばず、分け隔てず、ただ無慈悲に降り注ぐ。

 善人も、罪人も、子も、母も、狂った者も正気の者も。等しく、許しと称された裁きに焼かれていく。

 ひとり、またひとりと、篝火村の人影が消えていった。

 燃えたのは躰ばかりではない。

 神棚も石碑も、幼子が作った泥団子までもが、神の焔に呑まれていく。

 ――それは、浄化ではなかった。

 ――それは、断絶だった。

 お蝶は、なお立ち尽くすなつきの姿を見つめた。

 彼女の瞳に映るのは、降り注ぐ光――そして、滅びゆく村の影。

「なつき……目ぇ覚ましな! それが“救い”かい? あんたの願いが、そんなもんだったのかい……?」

 なつきは微動だにしなかった。

 だが――風が変わる。

 ひとひらの花びらが舞った。

 それは、返り火草ではなかった。

 春姫の遺した、白き鎮魂花の花弁だった。

 焦土を滑るように、ひとひらの花が、なつきの頬に触れた瞬間――

 少女の肩が、小さく震えた。

 風が、止んだ。

 突如として、なつきの両の瞳が見開かれた。

 その眸に宿るは、神々が与えし光ではない。

 人としての、選択の光であった。

「……違う……こんなこと、わたしは……望んじゃいない!」

 声は悲鳴にあらず、叫びにあらず――まるで呪縛を断ち切る祓言のように、天を衝いた。

 なつきの白き衣が風に翻り、光と熱を孕んで眩く輝きはじめる。

 その身を包んでいた天よりの〈意志〉――それは〈闇〉をも凌ぐ天罰の光であったが、今や彼女自身の意志のもとに祓われ、燃え尽きてゆく。

 蝗どもは絶叫とともに焼け落ち、天に流れていた旋律――甘美にして残酷なる“神の歌声”が、虚空に吸い込まれるように消え失せた。

「……っ!」

 こはるが息を呑み、震える瞳を見開いた。

 ――正気に還ったのだ。

「春姫さまも、こんな“救い”を……望んでいない……!」

 胸元で、春姫から受け継いだ銀の簪が、ひときわ強く光を放つ。

 その光が、こはるの身をやわらかに包んだ。

 ふわり――まるで春風に乗るように、こはるの身体が空へと浮かびあがる。

 白梅の香が漂い、天地の境すら超えるかのごとく、彼女はなつきのもとへと運ばれていった。

 ふたりの少女が、空に浮かぶ。

 炎の舞台を背に、青空を仰ぎ、静かに、しかし確かに手と手を取り合う。

「……あたしらの祈りで……あたしたちの“夏”を……もう一度、生まれ変わらせよう……」

 こはるが呟くと、なつきの瞳にも涙が浮かぶ。

 そして――

 ふたりの少女が、同時に、天に向かって掌を合わせた。

 その背に、光。

 それは西洋のそれでも、天界の裁きでもない。

 この地に古くから宿る、山と風と火と水の祈りだった。

 炎の中に、白狐が駆ける。

 雲の中より、天鈿女命の舞が舞い降りる。

 山の背より、鹿の角を戴く神が、静かに首を垂れる。

 海の彼方からは、龍がひとつ、空をめぐる。

 そのすべてが、なつきとこはる、ふたりの少女の選択を肯んじたのだった。

 後光は、太陽を超えて天を裂き、まばゆき神域そのものとなった。

 村の大地が震え、天の門の影が最後の呻きをあげて崩れ落ちる。

 光がすべてを呑み、世界はひとたび――白く塗りつぶされた。

 ……

 そして、光が収まったとき。

 そこにあったのは、青く澄んだ空と、風に揺れる夏草だけだった。

 天の門は、どこにもなかった。

 お蝶は、地に膝をついて空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。

「――やれやれ……あれが“神”のお裁きだってんなら、あたしは何度でも人間のほうを選ぶよ……」

 こはるは、なつきの手を握ったまま、小さく微笑んだ。

 なつきもまた、肩の力を抜き、ひとつ深く息を吐いた。

 その瞬間、はらりと舞ったのは、白き鎮魂花の花びら。

 それは、夏の終わりを告げるものではなく――はじまりを象徴する、新たな季節のしるしであった。

 お蝶は、そっと空を仰いだ。

 その双眸に映るのは、もはや禍々しき天門ではなく、透きとおる青の彼方――

「わちきひとりじゃ、手に負えなかったでござんす……」

 ぽつりと呟いたその声音は、決して誇らず、ただ深く、感謝に満ちていた。

 お蝶は静かに二歩前へ出ると、天に向かって二度、深く頭を垂れた。

 二礼。

 手を重ね、ぱん、ぱんと二拍。

 そして、もう一度の礼。

「この地には……二柱の土地神様が、宿っておいででしたんやねぇ」

 そう言って、静かに目を伏せた。

 空より、こはるとなつきが舞い降りる。

 その姿は、まるで春と夏とが同時にこの地へと還ってきたようで――

 けれども、なつきはもう、限界だった。

 地に降り立った瞬間、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちる。

「なつきっ!」

 こはるが駆け寄り、迷いなく膝をつき、抱き留める。

 その腕の中で、なつきの躯はふんわりと温かく、しかし、どこかしら遠い風のようでもあった。

「わたし……もう、逝かなきゃいけないの」

 その声は、微かに笑っていた。

 それが哀しい冗談であればと、こはるは思った。

「そんなこと、言わないで……! 一緒に生きよう、ねぇ、いっしょに、また村へ帰ろうよ……!」

「だめだよ……わたしは、もう死んでるから……。ここにいるのは、ちょっとだけ……借りた時間だったんだって」

 なつきの指が、こはるの頬をなぞる。

 冷たくはなかった。ただ、儚かった。

「お姉ちゃん……生きていて……。あのとき、助けられてよかった……わたしが、かわりでよかった……」

 こはるは頭を横に振る。

 涙がぽろぽろと零れ落ち、なつきの髪を濡らした。

「でもね……夏になったら……また、昔みたいに……盆踊りをしようって……“夏姫さま”が、そう言ってたの……」

 なつきは、まるで子供のように、無邪気に笑った。

 その笑みの奥には、もう痛みはなかった。

 ただ――満ち足りた、救いがあった。

 その笑みを最後に、なつきの身体はふわりとほどけるように、光とともに消えていった。

 こはるの腕のなかには、もう何もなかった。

 ただ――

 そこに、ひとつ。

 季節外れの、小さな向日葵が咲いていた。

 夏の象徴。

 燃える太陽を見上げる、小さな命。

 お蝶はその花に目を落とし、そっと言の葉を洩らす。

「……ようやく、夏が咲いたんやねぇ」

 その声は、涙を堪えきった誰かの代わりに、静かに震えていた。

「長すぎた春に、皆が慣れすぎて……夏の訪れを、誰も思い出せなかったのかもしれないね」

 こはるが、空を仰ぐ。

 そこには、もはや神の門もなければ、呪いの気配もない。

 ただ、広がる青と、微かに香る、夏草の匂い。

「春は……こはるは、終わったんだね。これからは、“なつき”の季節……」

 お蝶はゆっくりと、こはるの背を押すように、微笑んだ。

「そうさ……“春”のあとに来るのは、“夏”さ。生まれ変わりでも、継ぎ目でもない。季節はね、ただ……巡るだけなんだよ」

 こはるは、向日葵の傍らで、なつきの名をそっと呼んだ。

「……なつき。わたし、きっと、忘れないから」

 そして、静かに、深く一礼をした。

 風が吹いた。

 初夏の風だった。

 どこまでも、やわらかく、あたたかく――

 季節は巡る。

 命もまた、巡る。

 それは、終わりではなかった。

 夏のはじまりだった。