第2章 / 09 of 10
第2章 黄泉の夏
09 夏を待つ村
春は告げられるものではなく、ふと息を吹き返すもの。
【終幕】『夏を待つ村』
春というものは、決して告げられて訪れるものではない。
それはある日、ふとした拍子に息を吹き返し、知らぬ間に足元に咲いている。
だが、誰ぞ知ろう――
その春の先に、さらに季節が巡ることを。
春が終わりではなく、始まりですらないことを。
篝火村の空には、今なお淡い霞が流れ、
陽の光が大地にやわらかく差していた。
けれどその光は、春のそれとは違っていた。
どこか、燃えるような熱を孕んでいた。
道端にほころぶふきのとう。
梅の花がようやく開きかけ、冬の気配を追い払おうとしていた。
だが、土の匂いは――すでに夏を知っていた。
季節は巡る。
だがこの村の春は、まだ完全に咲ききってはいなかった。
咲かぬまま、どこかで足を止め、誰かを待っていた。
それを、誰よりも感じていたのは、こはるであった。
彼女はひとり、焼け跡の社に立っていた。
焦げた柱の残骸。崩れた石段。
その中心にぽつねんと立つ一本の白梅。
春姫の祈りが、根を張った証であった。
こはるは、掌に乗せた一枚の花びらを見つめる。
それは、春のものではなかった。
陽を仰ぐ、夏の象徴――向日葵であった。
その花びらを胸にあて、こはるは目を閉じる。
「春姫さま、なつき……あなたたちの季節は、もう終わったんですね」
声は、風に溶けるようにして社跡を包んでいく。
そこには、ひっそりと咲いた向日葵たち。
まるで、なつきの魂が地に宿ったかのように、凛として咲き誇っていた。
こはるはその中に身を沈め、目を細める。
「でも、終わりじゃありません。
わたしは、わたしの春を終えました。
次は、“夏”を迎えに行きます。わたしは、なつきを――わたしの“夏”を……生きて咲かせてみせます」
その言葉に、風が応える。
ふと、背後から足音が近づいた。
「……良い面持ちじゃないかい。春を経て、夏を知った娘の顔ってやつさねぇ」
紅と黒の衣をひるがえし、お蝶がそっと背に立つ。
「お蝶さん……」
こはるが微笑む。
お蝶は、ゆるりと手を合わせ、社の方へと一礼する。
「春の祀りも、ようやく幕引きでござんすなぁ。
ならば次は、“夏”の艶舞――その幕を引き受ける役目、しっかと見届けさせてもらいやしょう」
こはるは頷いた。
「……わたし、“春”のこはるは、今日でおしまいです。
次は、なつきの背を継ぎ、わたしの“夏”を生きてみたい」
「よう言うた……その言の葉があれば、どこぞの神もよう見とるはずでござんしょ」
お蝶は小さく笑い、空を仰ぐ。
空は、晴れていた。
夏を待たずして、光はもう、村を照らしはじめていた。
こはるは最後にもう一度、向日葵に手を伸ばし、そっと摘み取った。
その花を胸元に抱くと、足元の白梅が風にそよぐ。
「春は、別れの名……」
「そして、夏は――」
「命の、巡りなのですね」
そう口にしたこはるの背に、お蝶は静かに歩み寄り、やさしく押す。
「ほら、もう立ちなされ。“夏”が待っとるよ」
ふたりは、向日葵の揺れる中を、静かに歩き出した。
春の名残が後ろで揺れ、けれど、振り返る者はいなかった。
――春は終わった。
そして、夏がやってくる。
季節は、廻り、繰り返し、
命は、その中で、何度でも咲く。
ご希望であれば、エンディング詩や余韻ある一文も加筆可能です。必要であればお申しつけください。
こはるがゆるりと身を翻すと、そこには、すでに待っていた者たちの姿があった。
紅と黒に身を包んだ花魁――お蝶。
そして、その背に無言の影を落とす黒子。
ふたりは黄泉の火をくぐり、骸花の咲く夜をも共に越えた。
今やその面持ちは、何かを成し遂げた者の静けさを湛えていた。
お蝶がひとつ、艶然と微笑む。
「さぁて……あんたの“春”は、これでひと段落でござんすなぁ。けどね――春の果てには、必ず“夏”が顔を覗かせるもんでさぁ」
その声には、やわらかさと厳しさ、両の色が交じっていた。
こはるは小さく息を吐きながら、ふと遠くの空を見やった。
「……でも、その“夏”は……また誰かを試すのでしょうね」
空の青は深く、風はすでに春を追い越していた。
「そりゃあ、命というものは、よう試されるもんさねぇ。
咲くも散るも、その手で選びなされ。
あんたが背負った“夏”を、どない咲かすか――それが次の路(みち)でござんす」
お蝶の言葉に、こはるは黙って頷いた。
そして、掌の中に包んでいたひとつの簪を、そっと髪に挿す。
それは向日葵を象った、ひときわ小さな簪。
かつて、なつきが遺した“季節の証”であった。
挿した瞬間、ふいに風が吹いた。
それは春と夏の狭間を揺らすような風。
どこか懐かしく、けれど熱を帯びていた。
こはるの頬に、ひとひらの花びらが舞い落ちる。
それは、梅か、桜か、それとも向日葵の影か――誰にもわからない。
けれど、こはるはそのまま目を閉じ、そっと花びらを指先でつまみあげた。
「……春は終わった。でも、わたしは終わらない。咲かせます、“夏”を。わたしの季節を」
お蝶はそっと背を押し、微笑んだ。
「それでこそ、春を越えた娘さねぇ。咲きなされ、あんたの“夏”を――誰の代わりでもない、あんた自身のために」
風が再び吹く。
向日葵の畑が、ざわりと音を立てる。
そこに咲いていたのは、祈りでも贖罪でもない。
ただひとつの――新しい季節の始まりであった。
篝火村は、未だ燃え残る記憶の中にあった。
村のあちこちには、炎の名残が残っていた。
煤けた壁、崩れた屋根、焦げた柱の下に、泣き崩れたままの誰かの跡がある。
火事は、多くを焼き、奪った。
命も、家も、未来も。
その傷痕は、あまりにも深く、浅くは癒えぬ。
それでも――
村の片隅に、ぽつりぽつりと咲いていたのは、鎮魂花だった。
春姫が遺したもの。
あの娘が身を挺して咲かせた、静かな祈りの証である。
だが、村人たちの目は――
なおも鋭く、お蝶たちに向けられていた。
無理もないことだ。
誰が何を見たのか。
社で何が起きたのか。
お蝶たちが何を討ち、何を救ったのか――
そのすべては、知る者などおらぬ。
ただ一つ、村人たちが覚えていたのは、あの“よそ者”たちがやってきて、村が崩れたということだけ。
怒りにも、悲しみにも、正体がいる。
理由なき苦しみに、どうにか輪郭を与えるには、誰かを憎まずにはいられぬ。
それが人の、哀しい性というものだろう。
お蝶は、何も言わなかった。
ただ、肩越しに村を一瞥すると、ぽつりと呟いた。
「……長居は無粋でござんすな。意図せずとも、また何ぞ……いらぬ“業”が生まれちゃあ、たまったもんじゃない」
それは責めでもなければ、諦めでもなかった。
ただ、静かに一度きりの季節を見送る者の言葉であった。
黒子が、無言のまま葛籠を担ぎ直す。
こはるは、ただひとつ、村の白梅に一礼し、最後の振り返りもなく歩き出す。
村人たちは――誰一人、声をかけなかった。
ただ、その背を見送るように、黙して立ち尽くすばかり。
けれど、その沈黙には、確かに何かがあった。
憎しみか。諦めか。あるいは――
ほんのひとしずくの、感謝のようなものか。
それは風の中に溶けて、もう誰にも確かめる術はない。
そうして、春の終わりを背に――
お蝶たちは、次なる“夏”の兆しを追い、村をあとにした。
こはるだけが、しっかりと、その背を見送っていた。
焼け落ちた社の跡も、崩れた家屋も、すでに風に晒されはじめていたが、こはるの眼差しは、ただ二人の姿を追っていた。
「今はまだ……この村は落ち込んでいても、きっと、何年か先には……よくなっていると思うんです。だから……いつかまた、また来てください」
その声音には、震えも迷いもなかった。
春を越え、夏を迎え、なおここに立つ者としての、確かな覚悟があった。
お蝶は、ゆるりと紅の唇を綻ばせ、肩越しに振り返る。
「へへ……季節が巡りゃあ、また戻って来るさ。そんときゃ、あんたがこの村を咲かせておくれ……春の巫女様よ」
そう言って、艶やかに微笑んだその横で、黒子は黙して葛籠の紐を締め直した。
言葉はなかったが、その所作のひとつひとつに、深き想いが滲んでいた。
彼らは、歩き出した。
背には過去を、足元には未来を携え、風にその身を任せるように、次なる季節へと。
旅は終わらぬ。
それが、命を継ぐ者の宿命なのだろう。
やがて、こはるの頬を撫でる風が変わった。
まだ春の匂いが残る中に、確かに“夏”の気配が混じり始めていた――
◇ ◇ ◇