あやかしの棲む家

第2話 そこに棲むものたち

《1》

 それは運命の糸を覗き見た末路。

 男は尋ねた。

 村人は答えず。

 誰もが口を閉ざす呪われた一族の怪。

 雑誌の取材だと説明すると、早く帰れと怒鳴られた。

 そのような扱いをされると逆に興味がそそられる。

 立川克哉はその屋敷に直接向かうことにした。

 取材をしていた山里の小さな村からだいぶ距離があった。こんな場所に屋敷があっては不便だろう。狩人や農民であるなら自給自足もできるだろうが、立派な屋敷を見る限り、物資は遠方から運ばされているように思える。

 そう考えると、新たな疑問が浮かんでくる。

 こんな辺境でどのようにして生計を立てているのだろうか?

 この辺りの土地を所有していて、あの里からの税収のような物があるのだろうか?

「……ったく、誰も取材に答えてくれないから、なんにもわからずじまいだ」

 愚痴をこぼしながら克哉は屋敷に近付いた。

 悪寒がした。

「嫌な感じの屋敷だ」

 何がと問われると答えるのは難しい。大雑把に言えば雰囲気。普段は無邪気な子供の笑い声も明るく聞こえるが、ここでそんな声が聞こえてきたらぞっとする。

 大きな正面門は固く閉ざされていた。克哉はそこから堂々と中に入る気がしなかった。門を開けてもらうには人を呼ばなくてはならないが、まだ屋敷の者とは会いたくない。

 まずは屋敷に周りを歩いてみることにした。

 背の高い垣根が続いている。

 垣根は唐竹で作られた格子の物で、四つ目の隙間から中のようすを伺うことができる。

 庭には草木一つなく、枯れた大地が深々と広がっている。

 屋敷は平家建て、雨戸などはすべて閉められ、閉鎖的な印象を受ける。見通しのよい格子とは対照的だ。

 さらに進むと竹林が広がっていた。鬱蒼としていて、あまり進んで入りたいとは思わない。

 道を戻り逆方向から屋敷の周りを歩いてみると、今度は崖がありそれ以上は進むことができなかった。

 克哉は垣根に足を掛けた。体重を乗せても大丈夫そうだ。そのまま垣根を登った。

 折り返して下りようとしたとき、足に何かがぶつかり掬われた!?

「お…っと」

 垣根から手足が離れた。

「うっ」

 どしりと音を立てて克哉は腰から地面に落ちてしまった。

 腰を押さえながら立ち上がって、周りを見回してみるが何もない。

 見通しのよい何もない庭だ、屋敷の者が現れたらすぐに見つかってしまう。垣根を越えて入ってくるような真似をしたのだから、こんなところで住人に見つかっては意味がない。

 小走りで屋敷に近付いた。

 固く閉ざされた雨戸。中からの気配はなく、静まり返っている。

 どこか中へ侵入する場所はないかと歩き出そうとしたとき――がたっ、がたがたがた!

 騒々しい音が中から聞こえてきた。

 耳を澄ますと、すぐに音は聞こえなくなってしまった。

 もうしばらく耳を澄ませてみたが、もう音が聞こえてくることはなかった。

 見切りをつけてほかの場所へと移動する。

 窓の一つも開いていそうだが、まるで空き家のように閉ざされている。

 しかし、先ほどの音からわかるように、中に何者かがいることは間違いないだろう。

 屋敷の裏手まで来ると扉の開く音が聞こえ、克哉は慌てて身を隠した。

 勝手口から出てきた侍女らしき少女。

 機会は今しかないと思い、克哉は勝手口から屋敷の中に侵入した。

 脱いだ靴を片手に持ち、早々に台所から立ち去る。

 広い屋敷とはいえ、無闇に歩き回ればすぐに住人と鉢合わせしてしまうだろう。しかもまだ真っ昼間だ。さらに鉢合わせの危険性が高まる。

 これだけ広い屋敷だ。あまり使われていない部屋があるに違いない。

 廊下には余り長居をしたくない。気配がしたら近くの部屋に逃げ込みたいところだが、この場所ではそれも叶わないらしい。

 部屋の戸には赤い札が貼られている。それもそこかしこの部屋の戸だ。剥がして中に逃げ込めば一目でわかる。

 それにしてもこの赤い札はなんなのだろうか?

 自然に考えれば部屋の立ち入りを禁止しているのだろうが、部屋の立ち入りを禁止すること事態が自然ではない。それもそこら中の部屋だ。

 多くの部屋が開かずの部屋となっているとしたら、開いている部屋に入った途端に住人と鉢合わせ、という確立が高くなる。広い屋敷でも、まるで狭い家にいるようなもの。こうやって屋敷の中を歩き回る危険性も高くなるということだ。

 一歩踏み出した廊下が酷く軋んだ。体重を乗せる度に静かな廊下に音が響き渡ってしまう。

 その軋みが逆に克哉の身に危険が迫っていることを教えてくれた。

 誰かが廊下を歩いてやってくる。まだ曲がり角の向こうにいるらしいが、このままでは鉢合わせだ。

 慌てた克哉は辺りを見回した。札のない部屋だ。

 この場に立っていて見つかるくらいなら、部屋に入った途端に住人がいても同じだ。

 克哉は速やかに部屋の中に入り、静かに戸を閉めた。

 少し安堵できた。部屋には誰もいなかったのだ。

 しかし、安心してもいられないだろう。

 廊下からはまだ音が聞こえてくる。この部屋に向かっているという可能性は十分に考えられるだろう。

 隠れられそうな場所は押し入れしかなかった。

 開けてみると布団などが収納されていた。葛籠などの箱がいくつか入っているが、少しどかしてやれば大人ひとりくらいなら入れそうだ。

 克哉は急いだ。

 部屋の前で足音が止まった。

 靜かに押し入れがしまるとほぼ同時に戸が開いた。

 克哉は息を呑んだ。

 ほんの少しだけ押し入れを開けて、部屋のようすに目を凝らした。

 入ってきたのは少女だ。花の刺繍が施された着物を纏った清楚な少女。

 少女は部屋でなにかを探しているようだった。

 そして、克哉が隠れている押し入れに近付いてきたのだ。

 もう一巻の終りだと克哉は思った。

 言い訳など役に立たないだろう。見つかったときは相手を押し倒して一目散に逃げよう、とまで考えて覚悟した。

 だがそのとき、部屋の戸が開き新たな少女が顔を見せた。克哉はその少女の顔を見て息を呑んで驚いた。今部屋にいる少女と瓜二つなのだ。

「美花いらっしゃい、探し物が見つかったわよ」

 探し物――少しどきっとする言葉だ。

 美花と呼ばれた少女は、同じ顔をした少女と共に部屋をあとにした。

 忘れていた呼吸を思い出し、克哉は大きく息を吐いた。

 周りの気配を探りながら念のため少し時間をおき、それから押し入れから出た。

 やはり屋敷の中を歩き回るのは難しい。せめて夜中になれば状況が変わるかもしれない。それまでどこかに隠れていようか?

 押し入れに目をやる。布団が収納されていることから、寝室である可能性が高い。こんなところに隠れていては見つかってしまう。

 克哉はさらに押し入れの奥を見た。押し入れの天井。天井裏なんて場所は人が来る場所ではない。いるとしたら鼠や蜘蛛くらいだ。

 どうにか天井裏に隠れられないものか?

 克哉は押し入れの2段目によじ登り、布団を掻き分けるようにして天井を調べた。

 天井が動いた。

 外れたというよりは、まるで戸のように動いたのだ。はじめから屋根裏に入ることを前提に作られているかのようだ。

 その意図的な仕掛けに不安を感じながらも、克哉は屋根裏へと登った。

 ライターの火を灯す。

 遠くまでは暗くて見通せないが、屋根裏は思ったよりも広かった。屋根も高く立って歩けるくらいだ。

 足下には埃が溜まっている。

 暗がりで何があるのかわからないので慎重に歩く。足下だけでなく、頭も気をつけなくては

いつ梁にぶつかるかわからない。

 少しずつ目が慣れてきたが、それでもライダーだけの灯りでは心許ない。

 驚くべき物を見つけて、出そうになった言葉を引っ込めた。

 そこにあったの部屋だった。いや、この屋根裏自体が巨大な部屋だったのかもしれない。

 質素ではあるが家具一式が揃っている。どこれも埃を被っていて、長らく使われていないことは明らかだ。

 ありがたいことにまだ使えそうな蝋燭もあった。すぐにライターから火を移した。

 蝋燭に火を付けると、先ほどよりも見通しがよくなり、小さな雨戸を見つけることができた。

 雨戸に手を掛けるがなかなか開かない。

「くっ……この……っ!!」

 勢いよく開いた雨戸。全体重を掛けて開けようとしたため、開いた反動で克哉は転んでしまった。

 屋根裏に響いた大きな音。

 克哉は身の凍る思いをした。

 今さら息を潜めるが、鳴ってしまった音は消すことができない。

 すぐに屋根裏に誰か上がって来やしないか肝を冷やす。

 誰にも気づかれていないことを祈るばかりだ。

 仕方がないので克哉は気を取り直すことにした。この屋敷のどこにいても気は休まらないのだ。

 雨戸を開けるとさらに屋根裏は明るくなった。

 息を止めて椅子に乗った埃を静かに払う。山盛りの埃を手から落としてから椅子に腰掛けた。

 自然と溜息が出る。

 ズボンから出した煙草の箱は潰れてしまっている。残りは三本。いったん口に運んでから箱に戻そうとしたが、やはり口に咥えることにした。

 ライターで煙草に火を付ける。

 ふかした煙を雨戸の先に見える空に向かって噴き出した。

 安堵と余裕が生まれた。

 煙草を吸い終えたが灰皿がなかった。

 まさか灰皿なんてないだろうと探してみると、別の物を見つけてしまった。

 机の隅に黒く焼け焦げた箇所があったのだ。それは何度も熱源を押しつけた点の集合体で、まさかと思いながらも克哉はそこに煙草を押しつけてみた。すると同じような焦げ痕ができたではないか。

 煙草を消すとちょうど手の届くところにごみ箱があった。空だった中身に煙草を放り投げる。

 屋根裏に棲んでいた住人に思いを馳せてみる。

 もしも煙草を吸う人物だったとしたら、灰皿くらい用意しろと思うところだ。不精者か何かだったのだろうかと思いながら、克哉は自らの顎に生えた無精髭を撫でた。

 屋根裏の住人の人物像を探るにはまだ情報が少ない。

 さっそく家具などを調べて見ることにした。

 机には幾つもの引き出しがあった。全部鍵穴がついている。さらに鍵も掛かっていた。

 箪笥も調べて見よう。

 こちらも鍵穴があった。そして、どれも開かない。

 こんな場所、滅多に人の来る場所ではない。屋根裏なんかにある家具に鍵など必要だろうか。

 それほど重要な物が中に入っている――としても、この全部にだろうか。

 本当に重要な物がたくさんあるのか、それとも相当用心深いのか。

 灰皿も用意していない人物が?

 開かない以上はどうしようもない。壊してもいいが、価値が生まれるかどうかは壊してみないとわからない。それに壊すには一苦労どころではない苦労をしそうだ。

 克哉は別の物を調べることにした。

 置かれていた寝具はベッドだ。埃が酷くて今すぐ寝る気にはなれない。

 どのくらいこの屋敷にいることになのか。それはまだ克哉にもわからなかった。

 そう考えると休む場所が必要だ。

 静かにベッドの埃を払うことにした。なかなか骨の折れる作業だ。

 だいぶ時間が掛かった。目で見える上に乗っていた埃払うことができたが、寝た瞬間に埃が舞い上がりそうな気がする。両手も酷く汚れてしまった。手を洗いたいところだが、屋根裏には水道までは用意してなかった。

 そもそも、この屋敷自体に水道が通っているとは考えづらい。

 克哉は普段の生活を思い出した。

 三流ルポライターで狭い共同住宅に住んでいるとはいえ、水道くらいはちゃんとある。食べ物だって自給自足ではなく、お金を出して買う物である。

 とは言っても、幼い頃は田舎に住んでおり、水はいつも井戸からくみ上げていた。そのくみ上げを仕事をさせられていたのが克哉だ。

 克哉は煙草を再び吸おうとして、どうにか堪えた。あと二本しかない。

「……まあ、住めば都か」

 こんな屋根裏でも、長く住めば都かもしれない。

 ただ、そんなに長居をしたいとは思わないが。

 克哉はほかの場所に移動することにした。この場所は生活空間だろう。屋根裏のほかの場所には、またなにか別のものがあるかもしれない。

 手に持てる蝋燭台を見つけた。蝋燭も設置してある。雨戸を開けて日が入ってきたが、奥はまだ暗闇だ。蝋燭台を持って行くことにした。

 雨戸はほかの場所にもあった。

 今度は慎重に開ける。また大音を立てて肝を冷やすのはごめんだ。

 徐々に屋根裏の全貌が明らかになってくる。

 本当に広い屋根裏だ。おそらく屋敷とほぼ同じ大きさだろう。

 もしかしてと克哉は思った。

 屋根裏への道は意図的な作られていた。果たしてあの場所だけが出入り口なのだろうか?

 この屋根裏からすべての部屋に行けるような気がしたのだ。

 埃が邪魔で足下がよく見えない。

 さすがにこの広い屋根裏を掃除する気にはなれなかった。

 出入り口がほかにあったとしても、これでは探すのに苦労しそうだ。

 這いつくばって床を調べるなら、掃除したほうが楽そうだ。

 とりあえず足で少しずつ埃を払いながら進んでいく。

 しばらくして、何やら床に書かれた白い模様を見つけた。

 縦に三本の線。文字だとしたら〝川〟だろうか?

 向きを変えて改めて見た。そうすると〝三〟のようにも見える。

 さらにほかにも模様が描かれていた。ただの丸だ。これは見る方向を変えても丸は丸だろう。

 目を凝らして丸を眺めていると、まるで夜空で微かに輝く星のような物が見えた。光が漏れている。埃を払って目を近づけた。

 それは間違いなく穴だった。大きさは針穴よりは大きいが、だいたい錐で開けたくらいなものだろう。

 さらに穴に目を目を近づけた。

 見える!

 かなり見づらいが部屋の中を見ることができた。

 しかも部屋には誰かいるではないか!?

 物音一つ立ててはいけない。

 克哉に緊張が走った。

《2》

 なんとそこは浴室だった。

 裸の女がひとり。歳はおそらく二五前後くらいに見える。

 女はたらいの湯を肩から流した。

 流れた湯の色が朱く染まる。

 それを見た克哉は出そうになった声を慌てて呑み込んだ。

 まさかと思いながら確かめようがない。

 怪我をしているのか?

 綺麗な肩をしている。背中にも傷はない。では朱いそれはいったい何なのか?

 女は浴槽から湯を汲もうとした。

 それを見た克哉は気づいた。

 湯船が朱い。

 その湯船につま先をつけた女。そのままゆっくりと朱の中へ全身を沈めていく。

 このとき克哉ははじめて女の顔を見た。

 顔の半分を埋め尽くす痛ましい痣。

 その痣を持つ者がこの屋敷にいることを克哉は事前に知っていた。

 この屋敷の当主――鬼塚静枝だ。

 事前に持ち合わせている情報がいくつかある。そもそも情報が一つも無ければ、こんな場所でこんなことをしているはずもない。

 鬼塚静枝は女だてらにこの家の当主であるという。噂によれば、そもそもこの家には男がひとりもいないらしい。少なくとも見たと話は聞かなかった。

 奇妙なこの屋敷の話。里の者が不気味がり、噂でも伝え聞いた情報によれば、屋敷の者はひとりを覗いて屋敷の敷地から出てこないのだという。

 妖しげに思った者が何度かこの屋敷を調べた結果、庭先で何人かを見ることができたという程度。ただし、屋敷の中に入ったという話は聞かなかった。

 敷地から出ないという行為は徹底しているらしく、住人が垣根越しに外の者と話しているのが目撃されたことがある。外に出ないだけではなく、外からも中に入れないという決まりもあるのかもしれない。

 中に入ったという話は聞かないが、実際こうして克哉は入ることができた。敷地に侵入するだけなら、あんな垣根くらい簡単に越えることができる。恐ろしがって今までだれも入ろうとしなかったのか――いや違う。

 今回、克哉がここに来た理由の一つ、それが行方不明者の捜索だった。

 数週間前、克哉の友人のルポライターが失踪した。克哉に言い残した最後の取材場所は、ほかならぬこの屋敷だったのだ。

 克哉が調べて見ると、過去にも同様の事件が起きていることがわかった。事件と言っても表沙汰にはなっておらず、噂程度のものだったが。

 知り合いのルポライターは、取材に来たのだから屋敷の中に入っているはずだ。正面から行って断られても、きっとあいつだったら忍び込むだろうと克哉は思っている。

 克哉はこの屋敷で知り合いのルポラーターの痕跡、そして足取りを見つけ出したかった。

 おそらく今すぐそこにいる当主である静枝がなにか知っているだろう。来たのであれば、そういう人物が来たという話くらいは聞いているはずだ。

 しかし、正面を切って克哉は静枝と話したいとは思わない。穏やかな噂を聞かないこの屋敷。不気味な屋敷の取材に来た知り合いが実際に行方不明になっている。

 実はまだほかにも克哉がもっとも危惧している悪い噂がある。

 屋敷の中に入ったという話を聞かないというのは、屋敷に入った者を見たという話ではなく、屋敷の中に入ったことがある者の話という意味だった。

 つまり屋敷の中に入る者は目撃されているのだ。

 ひとりを覗いて出入りをしていないということだが、もちろんその者のことを言っているのではない。

 月に一度ほど、この屋敷にまとめて若い少年が入って行くのが目撃されている。何度も何度も屋敷の中に入っていく。だが誰も出てこない。今では屋敷の中は若い少年で溢れかえっているはずだ。

 克哉がここに来てそんな気配しただろうか?

 まとめてどこかにいるにだろうか?

 噂によると、中に入った少年の数は優に百を越えているらしい。最近ではさらに加速して多くの少年が中に入っていくという話だ。

 そんな多くの少年を集めていったい何をしているのか?

 克哉は再び穴を覗いて湯船を見た。

 朱い湯が揺れている。

 静枝は腕をもみほぐしながら、その湯を練り込むようにしている。

 その悦に入る表情がなんと艶やかなことか。痣までも美しく見えてくる。

 それ以上見ることを克哉はやめた。

 気配を消して静かにその場から離れる。

 しばらく次の行動に移らず、ただじっと立ちすくんでいたが、一〇分ほど安いんで再び動き出した。

 床を注意深く探す。すぐにそれは見つかった。

 横に線が二本。おそらく〝二〟と書かれているのだろう。そしてまた丸で囲われた穴があった。

 次の穴を覗くのは少し勇気がいった。

 意を決して覗くと、そこは脱衣所だった。ちょうどそこには静枝の姿があり、着物に着替えている最中だ。

 すぐに静枝は着替えを終えて出て行く。誰もいない脱衣所を見ていても仕方がないので、眼を離そうとしたとき、また新たな人物が入ってきた。

 小柄な少女だ。おろらく格好からして侍女だろう。勝手口で見た侍女とはまた違う少女だ。

 艶やかな黒髪に陶磁器のような白い肌。仕事中だからかもしれないが、表情が無機質に乏しい。

 なぜか克哉はその侍女に心惹かれた。

 理由はさっぱりわからなかった。このような少女に何か思い入れがあるわけでもなければ、今まで付き合ってきた女も年上だけだった。それもだいぶ年上の女が多かった。

 侍女は服を脱がずに浴室へ入っていった。克哉は浴室の天井に移動した。

 先ほどは感じなかった後ろめたさ。

 静枝のときは嫌なものを見たという気持ちだったが、今は悪いことをしているという感情が湧いてくる。

 侍女はとくになにをしているというわけではない。浴室の清掃をはじめただけだ。それでも目が離せなかった。

 やがて清掃も終わり、脱衣所へ、そして廊下へ。移動する侍女を追いかけようとした。

 新たな穴を探す。

 穴はそこら中にあった。おろらく全ての部屋にあるのだろう。

 侍女を追って穴を覗いたが、そこは誰もいない部屋だった。

 次に見つけた穴は廊下を見ることができた。けれど侍女の姿はもうなかった。

 先を予想して穴を覗いたが、そこも人気のない廊下だった。

 克哉は侍女を追うことを諦めた。

 まずはいったん生活空間まで戻ろう。

 収穫は覗き穴の存在だ。それもおそらく屋敷のすべてを見ることができる。

 わざわざなぜそのような穴をつくったのか?

 覗くという行為は相手に知られないように観察するため。

 特定の人物を覗くのであれば、特定の部屋の上にだけ穴があればいい。これだけ網羅しているとなると、この穴を作った人物は屋敷のすべてを把握しようとしていたのだろう。

 その目的と、それを使用していた人物の特定はさておき、まずは穴の位置を把握することからはじめよう。

 克哉は懐から手帳とペンを取り出した。

 まずは大まかな屋敷の平面図を描く。そこに先ほど見た穴の位置と番号、部屋の見取り図を書き込む。

 この作業を続ければ屋敷の見取り図が完成するはずだ。

 屋敷の輪郭を調べようと壁沿いに歩いた結果、離れが三つ存在していることがわかった。ありがたいことに、離れに続く廊下にも天井裏が存在しており、どうやら本当にすべての部屋を網羅しているらしい。

 輪郭を描き終えたら、いよいよ一つ一つの穴を調べる作業だ。これはじつに骨の折れる作業である。

 ここで一服するか克哉は迷った。

 あと二本。

 吸いたくて堪らない。後先のことを考えるよりも、今だ、

 克哉は煙草を咥えライターで火を付けた。

「ふぅ……」

 残り一本になってしまった。

 最後の一本は屋敷を出たらと思ったが、その思いも長く続くとは限らない。

 煙草を吸い終えるとさっそく作業に取りかかる。

 まずは近くにある穴からだ。

 埃を払い番号を確認して、穴を覗く。

 ――眼。

「わっ!?」

 短く叫んで克哉は腰を抜かした。

 穴の先に見えた目玉。誰かがこちらを覗いていたのだ。

 凍えるほど寒く、全身が震える。

 汗が噴き出してきた。

 今のいったい?

 確かめるために再び覗く気にもなれない。

 偶然か?

 屋根裏の穴を知っている者がいたのか?

 しばらくすると天井を叩く音がした。何度も何度も天井を叩いている。先ほどの穴があった部屋だ。鬼気迫る勢いで猛烈に叩いている。

 音は移動している。棒か何かで部屋を歩き回りながら叩いているのか?

 確実に克哉の存在を気づかれている。そうでなければ、あんなにも威嚇するように天井を叩くものか。

 克哉は静かに後退った。

 その場を離れ、生活空間まで戻ると、机の上に登った。

 そして背は壁に付ける。

 克哉を捜しに屋根裏に誰かが来るか?

 瞬きの回数が減る。

 耳も研ぎ澄まされる。

 心臓の鼓動は加速して止まらない。

「大丈夫だ……大したこったない」

 小さくつぶやいた。

 早くも最後の一本を口に咥えた。まだ火は付けない。咥えているだけでもだいぶ安心する。

 屋根裏は静まり返っていた。

 ――誰も来ない。

 時間だけが過ぎていく。

 ――まだ誰も来ない。

 このまま誰も屋根裏に現れないのか?

 克哉は淡い期待を抱く。

 もしかしたら自分の存在を知られていないかもしれない。

 屋根裏は暗がりだ。向こうから覗いても、こちらのようすはよく見えなかったはず。

 克哉は首を横に振った。

 あのとき叫んでしまったし、腰を抜かしたときに尻餅までついて音を立ててしまった。

 ではなぜ屋根裏に来ない?

 屋根裏の入り口がわからないのか、それとも向こうも怯えて確かめに来られないのか。

 克哉はばれたことを前提に考えることにした。用心をして対策は練っておくべきだ。

 まずはいつ誰かが来るとも知れない屋根裏を抜け出したい。

 それには下のようすを探る必要がある。

 穴を覗いて確かめるのか?

 それとも確かめもせず下りてみるのか?

 ――下りられない。

 これは物理的にというより、精神がこの場に縛られてしまった。

 軟禁状態になってしまったのだ。

 下りられないなんて言って、一生ここにいるわけにはいかないのは明らかだ。

 ここには水も食料もないのだ。数日も保たないだろう。数日も待つ必要はないかもしれない。その前に誰かが屋根裏に登ってくる。

 すべては時間の問題だ。

 なにをそんなに恐れている?

 相手はたかだか人間だ。

 本当に人間なのか?

 噂を思い出せ。

 風呂場で見た静枝を思い出せ。

 そして、あの眼だ。

 あの目玉はいったい誰だったのか?

 今まで見た人物の中にいただろうか?

 勝手口で見た侍女。

 美花と呼ばれた少女と瓜二つのもうひとりの少女。

 当主である静枝。

 なぜか心を惹かれた侍女。

 あと何人くらいこの屋敷にはいるのだろうか?

 連れて来られている若い少年たちはどこに?

 また時間だけが過ぎていく。

 このまま屋根裏に誰も来ないのか?

 来ないのならそれに越したことはないが、来ないのならずっと緊張が解けない。

 机の上でじっとしたまま、恐怖を思い描きながら時間が過ぎていく。

 長い時間だった。

 やがて陽も落ちはじめた。

 このまま夜更けまで待って住人たちが寝静まるのを待つか?

 いや、逆にこちらが寝静まったのを見計らって、そのときこそ屋根裏に登ってくるかもしれない。

 いつになったら屋根裏から下りられるのか?

 このまま見つかってしまえば気も楽になるかもしれない。

 もしも見つかるなら誰がいいのか?

 静枝には見つかりたくない。

 ほかの者だって見た目にはわからない狂気を秘めているかも知れない。

「……すべて俺の妄想か?」

 じつは恐怖など存在していないのか?

 克哉が煙草に火を付けることはなかった。

 ただただ時間だけが過ぎていった。

《3》

 夕焼けが蒼く染まろうとしている。

 ついに克哉は動き出した。

 まだ穴を覗く気にはなれない。そこで音を頼りにすることにした。

 床の埃を払い耳を近づけ澄ませる。

 音が聞こえた。規則正しい何かを叩く音だ。

 もうしばらく聞いていると、女の声が聞こえてきた。

「菊乃さんまだですのぉ? わたしお腹が空いてしまったわ」

「申しわけございません慶子様。今日は捌く量が多かったものですから」

「静枝さんのせいね」

 会話の最中だったら覗いても平気かもしれない。

 克哉は意を決して穴を覗き込んだ。

 そこにいたのは心惹かれた侍女とはじめて見た女だ。眼鏡を掛けたこの女は二〇代後半くらいだろうか。

 どうやらここは台所らしい。

「静枝さんはすぐに玩具を壊してしまうものだから、わたしはもっと楽しみたいのに」

 声から察するにこちらが慶子と呼ばれたほうだろう。だとすれば侍女のほうが菊乃だ。

 二人はまだなにかを話している。だが、克哉の耳には遠い声に聞こえた。克哉の意識は別の場所にあったのだ。

 まな板に乗せられたあれはまさしく……。

「こんな物のどこが美味しいのかわたしには未だにわからないわ。わたしは殺すのが楽しみだから」

 慶子はそれを見てそう言った。

 身体の芯から克哉はぞっとした。

 菊乃はなんの躊躇いもなく、それから肉をそぎ落として調理する。

 それ以上は見ていられなかった。

 恐怖はあったがこの調子で別の穴も覗く事にした。

 まずは音を確かめる。物音と気配がした。けれど天井近くからではない。

 そっと穴を覗き見ることにした。

 どうやらここは食堂のようだ。

 勝手口で見た侍女が配膳の用意をしている。その脇に寄り添うようにいる幼女。克哉はその幼女の頭に目を凝らした。

 ――角だ、角が二本生えている。

 まるでその姿は鬼だ。

 角に見えるだけで瘤かもしれない。それにしても異様な位置にある瘤だ。

 ふっと角の少女が天井を仰いだ。

 克哉は眼があったような気がした。だがこんな小さな穴で眼が合うはずがない。

「どうしました、るりあ?」

 勝手口の侍女が角の少女――るりあに尋ねた。

「…………」

 るりあは何も言わず首を横に振って、天井から眼を離した。

 気づかれたのだろうか?

 ほかの住人は克哉に気づいているのか?

 気づいていて知らぬ振りをしているのか?

 まだ誰も屋根裏には来ない。

 油断を誘っているのか?

 不安はいくらでも生まれる。

 克哉は次の穴を覗いた。この穴は前に覗いたことがある廊下だ。

 廊下の向こうから少女の影がやってくる。

 美花か美咲、どちらかだろう。

 そのとき、廊下の横の部屋から激しい物音が聞こえてきた。

「うるさいわよ!」

 美花か美咲の少女は物音のした戸に向かって叫んだ。

 音は静かになる。

 克哉はさらに目を凝らした。

 物音がした部屋の戸に赤い札が貼られている。

 封印されている部屋に誰かいたのか?

 いたからこそ物音がしたのだろう。そして、美花か美咲の叱咤で静かになったのだ。

 ここで克哉はふつふつと恐怖が沸いてきた。

 蘇る恐怖。

 こちらを覗いていた眼。

 あの眼を見てしまった部屋だったのだ。

 赤い札のあった部屋はもう覗くまいと誓った。

 そして、屋敷の中を歩いたときの記憶をたぐり寄せた。

 赤い札のあった部屋はどことどこにあったのか?

 ――正確には思い出せない。

 穴を覗く前に赤い札の部屋を把握する必要がありそうだ。

 今の時点でほかに覗けそうな穴はないか?

 この屋根裏の入り口があった部屋だ。

 さっそく克哉はその部屋の穴を探した。

 屋根裏の来たばかりのころは気づかなかったが、やはりこの部屋にも穴があった。

 克哉は気配を探った。人の気配がするような気がする。話し声や物音は聞こえない。覗くか覗くかまいか迷うところだ。

 なにがあろうと驚かないと心に決め、深呼吸をしてから克哉はその穴をそっと覗いた。

 少女が机に向かって読書をしているようだった。美花か美咲か、瓜二つなので見分けは付かない。

 先ほど見た少女とこちらの少女。たしかに雰囲気が違う。姿形は同じでも、そこでどうにか見分けられるかもしれない。

 しばらくようすを伺っていると、戸の奥から声が聞こえてきた。

「美花さま、失礼してよろしいでしょうか?」

「どうぞ瑶子さん」

「はい、失礼します」

 勝手口で見た少女――瑶子は部屋に入ってきた。

「お薬がまだのようなのでお持ちしました」

 瑶子はそう言って盃が美花に渡そうとした。

 本にしおりを挟んで美花は怪訝そうな顔を瑶子に向けた。

「もう飲みたくありません」

「そんなことをしたらお体が……」

「本当にそうなのか、試してみなくてはわかりません」

「美咲さまも静枝さまも飲んでいらっしゃるのですよ?」

「そうですね、それが当たり前のように。わたしはこの家で生まれ、この家で育ち、何の疑問を抱かずそれを飲み続けてきました。しかし最近になって思うのです。それを飲む行為は正しいことなのか」

「そうおっしゃらずに」

 瑶子は盃に朱い液体を注いだ。

「飲みたくないと言っているでしょう。これからは食事もお母様やお姉様とは別の物にしてください。食事を摂るのもこの部屋です」

「そんなこと静枝さまがお許しになるはずが……」

「今日のところは具合が悪いとでも伝えておいてください。あとでお母様と話をしてみようと思います。どうぞそれを持って行ってください」

「失礼いたします。しかしこれは部屋の隅に置いておきますから」

 瑶子は部屋を出て、正座をしてから一礼して戸を閉めた。

 部屋の隅に置かれままになった盃と銚子。美花はそれを見つめ続けている。克哉も同じように見つめた。

 あの朱い液体はなにか?

 美花の躰が震えはじめた。

 視線は盃に注がれたまま美花は何かに葛藤しているようだった。

 拳を強く握り、歯を食いしばっている。

 それも長くは続かなかった。

 美花は盃と銚子に駆け寄った。

 そして注がれていた盃に手を掛けたのだ。

 美花は泣いていた。

 泣きながらその朱い液体を一気に飲み干した。

 さらに銚子から盃に朱い液体を注ぎ、銚子が空になるまで飲み干した。

 美花の口元から朱い液体が垂れている。

 指でそれを拭った美花は、しばらく眺めたあと、指事それをしゃぶった。

「……できなかった……我慢できなかった……意志ではどうにもならない本能なのね」

 美花はぐったりと壁にもたれかかった。

 あの朱い液体が克哉の想像するものであれば、それはおぞましい行為であった。

 しかし、今目の前で泣いている少女は、すぐにでも抱きしめてあげたかった。

 美花の葛藤は克哉にも伝わったのだ。

 静かに克哉はその穴をあとにした。

 陽が落ち、空は月明かりに照らされていた。

 椅子に腰掛け休憩をしていた克哉は蝋燭に火を点けた。

 克哉はその場を移動して食堂の穴を覗く事にした。

 食事の頃合いを狙うつもりだった。その時間であれば、この屋敷の住人が多くその場に集まっているはずだ。まだ知らぬ住人がいるかもしれない。

 まずは耳を澄ませてようすを探る。小さな物音がいくつか聞こえる。女の話声も聞こえてくる。

 克哉はそっと穴を覗いた。

 食卓を囲っていたのは静枝、美花か美咲のどちらか一方、前に聞いた話から察するに美咲のほうかもしれない。それに慶子を加え、侍女の菊乃と瑶子は傍でじっと立っている。新たな顔ぶれはない。

 当主の静枝、それを母とする美咲と美花の双子、侍女の二人。すると慶子とはいったい何者なのだろうか?

 それにるりあという角の生えた少女の姿もない。

 赤い札の部屋の住人。

 まだ姿を見ない少年たちの行方。

 そして、友人のルポライターはどこに?

 しばらく見ていると瑶子はいったん奥へと消え、再び戻ってくるとお盆に食事を乗せて戻ってきた。そのままほかの部屋へと移動する。

 克哉は先を見越して美花がいると思われる部屋の天井裏に向かった。

 そっと穴を覗く。

 美花は壁にもたれかかりうずくまっている。まだ泣いているのかもしれない。

 すぐに廊下から声がした。

「美花さま、失礼してよろしいでしょうか?」

「どうぞ瑶子さん」

「はい、失礼します」

 やはり瑶子の行き先はここだった。

「お食事をお持ちしました」

 白米と山菜、果物などで肉はない。

「ありがとう瑶子さん。あなただけ、あなただけ……本当にわたしのことを心配してくれるのはあなただけです」

「そんなことはありません。静枝さまだって美咲さまだって、慶子先生も、るりあちゃんも菊乃さんもきっと心配してますよ」

「……そうね」

「大丈夫ですか美花さま?」

「大丈夫、なにも心配いらないから、あなたも自分の仕事に戻って」

「……はい」

 瑶子はちらりと盃と銚子を見て、なにも言わずそれらを盆に乗せて部屋をあとにした。

 独りになった美花は沈んでいるようだった。

 机に向かって本を読もうとしているが、頁がいっこうに捲られない。

 すぐに美花は本を閉じて机に顔を伏せた。

「……外の世界にことなんて知らなければよかった」

 美花はそっと本を自分から遠ざけた。

 噂を克哉は思い出した。

 この屋敷の住人は外に出ない。唯一出入りをしているのはひとりの侍女だけ。

 出ない、それとも出られないのか?

 この屋敷が世界のすべてだったらと思うと克哉はぞっとした。

 突然、戸が開き美咲が入ってきた。

「瑶子に聞いたわ、どういうことか説明して」

「お姉様!」

「ねえ死にたいの?」

「そんな……死にたいだなんて」

「だってそういうことでしょう。死にたいのなら今ここで殺してあげましょうか?」

 克哉は戦慄した。美咲のその言葉が本気だと感じたからだ。

 狂ってる。

 胸を締め付けられるような狂気を美咲は放っている。

 美花は美咲を見つめたまま黙っていた。

 美咲もなにも言わず睨んでいる。

 しばらくして美咲が美花に向かって歩き出した。

 そして、細い手が美花の首へと伸ばされる。

「お姉様!?」

 眼を丸くして息を詰まらせる美花。

 美咲は嗤いながら美花の首を絞めていた。

「苦しいでしょう、死ぬのは苦しいのよ、死に近付くにつれてもっと苦しくなる」

「ううっ……やめ……お……」

「綺麗な顔……世界で一番綺麗なあなたの顔……大好きよ美花」

「く……うっ……くはっ!」

 首を解放され、一気に呼吸を取り戻した。

 美咲は背を向けた。

「死にたいのなら勝手になさい」

 そう言って美咲は咳き込んでいる美花を尻目に部屋を出て行ってしまった。

 美花の首にはくっきりと指の痕が残っていた。

 殺す気はなかったというのか?

 だとしても尋常な行為ではなかった。

 美花はじっと動かない。克哉は別の穴を探ることにした。

 廊下の穴を覗くと美咲と静枝がなにやら話しているようだった。小さな声でまったく聞き取れない。険しい顔をする美咲と涼しげな顔をする静枝。

「わたくしの部屋においでなさい」

 と、いう静枝の声だけは聞き取れた。

 廊下を歩き出す二人。

 見失わないように克哉は次々と穴を辿った。ほかの穴を覗かぬように、慎重に二人のあとを追わなくてはならない。

 そして、ついに静枝の部屋を突き止めた。

 部屋の中に消えた二人。克哉も部屋の天井の穴を覗いた。

 正座をして向かい合う二人。先に話を切り出したのは美咲だった。

「放っておけばそのうち死ぬわ。どうする気?」

「どうもしないわ。そうなればそれが定めなのよ」

「定めなんてくだらない」

「くだらなくても従わなければ生きていけないのよ、我が一族は」

「本当に嫌気が差す。わたしの代で全部終わらせてやる」

「それならなおのこと、あの子が死んで貴女が次の当主になればいいわ」

「……当主なんて興味ない」

 美咲の眼は相手を殺さんばかりの眼だった。

 艶やかに微笑みながら静枝は受け流している。

「貴女の意志なんて関係ないのよ。必ずどちらかが当主になる。そして、この屋敷と共に生き続ける」

「今だってこの屋敷に縛られてるじゃない!」

「そう、それが続くだけ。貴女も、貴女の子も、貴女の孫も、永遠に……」

「子供なんて生まないわ!」

「……わたしもそう思っていたわ」

 静枝は哀しそうな表情をした。

「もういい!」

 美咲は立ち上がり部屋を飛び出した。

 残された静枝はひとりつぶやく。

「困った子だこと。でもああいう子が次の当主になるのよ、お前のようにな……」

 お前とは誰だ?

 克哉は静かに穴から目を離した。

《4》

 夜は更けて、草木も眠りはじめた頃、克哉は再び活動をはじめた。

 廊下の覗き穴の近くを入念に探す。

 もしかしたらここにあるかもしれないという勘が的中した。

 天井の板が動いたのだ。

 開いた入り口に手を掛けてぶら下がった。床との距離はさほどないが音を立てないように慎重に。床に落ちたと同時に屈伸して衝撃を和らげた。

 どうにか廊下に出た克哉は天井を見上げた。

 入り口が開いたままだ。

 下りるのは容易だったが閉めるのは一苦労だ。

 何度か飛び跳ねながら板を元に戻す。棒かなにかあれば楽だっただろう。

 板を戻し終えた頃には息が切れた。

 美花と静枝が寝ていることは穴を覗いて確認済みだ。おそらくほかの者も寝てるとは思うが、用心には用心を重ねて慎重に行動しなくてはならない。

 克哉は迷っていた。

 いつ屋根裏から脱出できたのだ。

 このまま捜索を続けるのか?

 それとも屋敷から逃げてしまおうか?

 心が揺れ動く。

 とりあえず懐から蝋燭を出し、ベルトに挟んであった蝋燭台に乗せて火と点けた。

 さらに手帳とペンを取り出した。

 部屋の見取り図を描きはじめた克哉。まだ調べる気なのだ。

 注意しなくてはいけないのは赤い札のある部屋だ。

 廊下を歩きながらしばらくして、なにやら気配がした。

 蝋燭をすぐに消して、静かに息を潜める。

 何も見えない闇だ。

 微かな光さえない。

 神経が研ぎ澄まされた。

 気配はない。

 気のせいだったのだろうか?

 蝋燭を灯して再び歩きはじめる。

 細い廊下だ。両端に部屋はないらしい。きっと離れに続く廊下だろう。

 行き止まりにあったのはドアだった。純和風の屋敷の中で、この扉は西洋風だった。やはりここは離れなのだ。

 この先に何があるのか、興味はあっても今は開ける必要はない。危険に自ら飛び込む必要もあるまい。

 引き返そうと振り返ったとき、克哉は言葉を失った。

 巨大な何かがそこにいる。

 天井に逆さになってそれはいくつもの眼でこちらを見ている。

 その眼の持ち主は一匹だ。

 なんと天井には克哉の躰を越える巨大な蜘蛛がいたのだ。

 克哉は背に手を回してドアのノブを回した。鍵が掛かっている。

 逃げ場を塞がれた。

 もし逃げられるとしたら、大蜘蛛の下を駆け抜けるしかないだろう。

 それとも――大蜘蛛を仕留めるか?

 克哉は隠し持っていた短剣を抜いた。

「ったく、こんな奴とは出くわしたくなかった」

 物音を立てない――そんなこと構っていられなかった。

 克哉は床を蹴り上げ全速力で走った。

 大蜘蛛が落ちてくる。

 紙一重で大蜘蛛よりも先に抜けた。

 だが、大蜘蛛の尻から糸が噴き出された。

 なんと強力な糸か!

 粘糸は克哉の腕に絡みつき、さらには壁にまで固定されてしまった。

 封じられた腕は短剣を握っていた右手だ。

 力を込めて引っ張るがびくともしない。もし外れても肉ごと持って行かれそうだ。

 大蜘蛛が迫ってくる。

 迷っている暇などなかった。

 克哉は蝋燭の火で絡みついた糸を燃やした。

 腕が焼ける。

 苦痛を浮かべながら克哉は耐えた。

 酷い火傷を負おうとも、生きたまま食われるよりはましだ。

 糸が焼けて取れた瞬間に克哉は走った。

 大蜘蛛が大きく跳んで襲い掛かってきた。

 状況など確かめてもいられない。

 とにかく克哉は逃げた。

 廊下に響き渡る足音。

 恐怖が追ってくる。

 振り向かずにただひたすらに逃げる。

 確実に迫ってくる気配。

 玄関が見えた。

 克哉は焦りながら玄関の鍵を開けて外に飛び出した。

 当然靴など履いている暇などなかった。

 庭を駆け抜けて垣根を目指した。

 あの垣根を登れば外に出られる――そう信じていた。

 だが!

「わっ!?」

 なにが起きたのか理解できなかった。

 垣根を眼と鼻の先としたとき、なにか見えない力によって克哉は押し飛ばされたのだ。

「嘘だろ……本当に出られないっていうのかっ!」

 地面に倒れながら克哉は振り返った。

 ――いなかった。

 見通しのよい庭のどこにも大蜘蛛の姿はない。

 庭までは追ってこなかったの……か?

 見えないからと言って安心はできない。

 一刻も早く逃げ出したい。

 克哉は立ち上がると空間を調べた。

 手を添えるとそこには見えない壁があった。

 移動しながらその壁を触ってみるが、延々と垣根に沿って続いているように思えた。

「来る者は拒まず、去る者は逃がさずか……中に入ったという話を聞かないはずだ」

 それが目の前の現実。

 克哉は地面に胡座を掻いて、残してあった最後の一本を吸うことにした。

 煙草を口に咥え、手を添えながらライターで火を付ける。

「ふぅ……煙草は吸いたいときに吸うに限るな、本当は」

 空を見上げると星が輝いていた。

「いつも見る星は綺麗なもんなのになぁ。今は不気味に見える」

 最後の一本を短くなるまで味わい、克哉は決意を固めた。

「さて、仕事の続きでもするか」

 煙草を地面に投げていつも癖で足で消そうとしたが、靴を履いていないことに気づいてすぐにやめた。

 さっき見えない壁にぶつかった拍子に落としてしまった蝋燭台を拾う。消えてしまっていた蝋燭に火を点け直した。

 今ままで月明かりで明るいが、火が灯っていた方が気持ちの足しになる。

 本当に外に出ることはできないのか?

 克哉は見えない壁を触りながら歩き出した。

 途切れることなく続く見えない壁。

 高さはどのくらいあるのだろうか?

 試しに克哉は小石を拾い上げ、天高く投げ飛ばしてみた。

 放物線を描いた小石は垣根の遥か上を越えて屋敷の敷地を飛び出して行った。

「上は平気なのか?」

 再び小石を拾った克哉は、今度は垣根に向かって投げてみた。

 小石は垣根の隙間を通って外に飛び出して行った。

 今度は蝋燭台を壁に見えない壁に近づけてみた。

 壁のある場所を蝋燭台は通り抜けたのだ。

「生きてる者が駄目ってことか……死んでから出られてもな。死んでも出られるかわからんが……」

 しばらく進んでいると小さな鳥居が見えてきた。その先には祠がある。

「神様と言っても八百万、友好的とは限らんからな」

 静かに鳥居に近付く。

 気配など微塵もなかった。

「お前誰だ?」

「っ!?」

 克哉は驚きの余り蝋燭台を落としそうになった。

 鳥居の影から出てきた幼女。謎の角を持つるりあだ。

 克哉は冷静に振る舞った。

「お嬢ちゃんこそ誰ですかい?」

「聞いたのはおらだ」

「名乗るほどのもんじゃありませんよ。お嬢ちゃん……もしかして鬼?」

「…………」

 急にるりあは走り出してしまった。

 すぐさま克哉は腕を掴んだ。

「待ってくれ!」

「離せ!」

「離したら俺……私のことほかのみんなに告げ口するでしょう?」

「お前なんかに興味ない!」

 るりあは克哉の腕に噛み付いた。

「いたっ!」

 克哉の手を逃れてるりあが走って逃げた。

 あまりの痛さに克哉は蹲った。噛み痕もまるで牙でも生えていたような深い傷だが、なによりも噛まれた場所が火傷を負った傷痕だった。

「っくそ、餓鬼のくせに……けど邪気は感じなかったな。本当に鬼だったのか?」

 ここで克哉はこの家の名字を思い出した。

 ――鬼塚。

 塚とは土を盛って気づいた墓。

 首塚とは首を埋葬した塚。

 鬼塚とは?

「やっぱり鬼だったのか? あの餓鬼が何者にせよ、逃がしたのは失敗だった。家中に俺のことが知れるのも時間の問題……もう知れている可能性もあるが」

 このあと垣根沿いを一周回ったが、見えない壁が途切れている箇所は見つからなかった。

 屋敷に戻るか?

 祠もまだ詳しく調べていない。

 克哉は隠し持っている短剣を確かめた。

 父から受け継いだ短剣だ。父は祖父から受け継ぎ、その祖父はまた曽祖父に……から受け継いだらしい。

 武器はこの短剣のみ。

 克哉は屋敷に戻ることにした。

 玄関は開きっぱなしになっていた。

 屋敷の中に入り、玄関を閉めて鍵も掛ける。

 神経を研ぎ澄ませる。

 廊下は静かだ。

 怖いくらい静かだ。

「出たな大蜘蛛」

 克哉は囁いた。

 闇の向こうに潜んでいた大蜘蛛。

 短剣が抜かれた。

 大蜘蛛が飛び跳ねた。

 一撃で深手を負わさなければ、次の相手の攻撃で逆に深手を負うことになる。

 腹だ。跳んだ大蜘蛛が腹を見せている。

 短い刃でどこまで貫けるか!

 克哉が大蜘蛛の腹に潜り込んだ!

「っく、そ」

 大蜘蛛の足のほうが長い、このままでは短剣が届かない!

 しかし大蜘蛛の本能か、獲物を足で抱え込んで捕らえようとしたのだ。

 捕らえられたことが逆に功を奏した。

 世にも恐ろしい叫び声。

 軟らかい肉に刺さった短剣。

 大蜘蛛の口が克哉の目の前で蠢いている。

 克哉は短剣を上げて腹を裂いた。

 大蜘蛛の足から力が抜ける。

 その隙に克哉は逃げ出して難を逃れた。

 大蜘蛛の糸が宙を翔ける。

「怯んだだけで、弱ってないってのか!」

 克哉は紙一重で糸を躱した。

 初手と同じ手は使えないだろう。あれは一か八かの賭けだったのだ。

「俺は誰よりも死が怖いんでね」

 無我夢中で克哉は逃げ出した。

 目に入った戸を開けて中に飛び込む。

 すぐに戸を閉めた。

 冷静でなかったと克哉はやったあとに後悔する。部屋に逃げ込んでも逃げ場を失うだけではないのか?

 さらに部屋の中には誰かが寝ていた。

 その顔はどちらだ――美花の部屋だったのか!?

 大蜘蛛は来ない。

 気配はまだ外にある。

 なぜ来ない?

 美花が寝返りを打った。

「うん……ううん……」

 起きてくれるなと克哉は願った。

 やはり大蜘蛛は来ない。

 あんなモノと同居している住人たち。そう考えると、住人たちは襲われないのかもしれない。そうでなければこんな無防備に寝ている筈がない。

「うう……ん……」

 美花がゆっくりと目を覚ました。

「きゃっ!?」

 飛び起きた美花は掛け布団を抱きしめた。

 克哉はすぐに短剣をしまった。

「お嬢ちゃん、俺……じゃなかった、私は妖しいもんじゃありません。この状況じゃ、物取りか変質者に思われるもしれませんが」

「誰か!」

「静かに!」

 慌てて克哉は美花の口を塞ぎ、仕方がなく短剣を首元に突きつけた。

「静かにしてくださいよ。あなた美花お嬢様ですよね?」

「…………」

 口を塞がれたまま美花はうなずいた。

「あなたに危害を加えるつもりはないんですよ。その証拠に今から手を放しますから、絶対に騒がないでくださいよ」

 そっと手を放した。

「…………」

 美花は騒ぎもせず、無言のまま約束を守った。と言っても、短剣を突きつけられたままでは、相手に従うほかないだろう。

「人間相手に、ましてやお嬢ちゃんにこんな物騒な物を突きつけたくないんですが、状況が状況でして」

「殺したいのならどうぞ」

「死を覚悟している人間にこんな真似しても無駄か。俺もあなたのこと殺したくないですし」

 克哉は短剣をしまった。

 美花の視線を克哉の腕に向けられていた。

「酷い怪我ですね、今はこれで我慢してください」

 そう言うと美花は引き出しから手ぬぐいを取り出し、簡単な傷の手当をはじめた。

「まさか侵入者の俺がこんな手厚く手当をしてもらえるなんて、ありがとうございます美花お嬢様」

「悪い方には思えませんから」

「あっはは、よく言われます」

「それにあなたが誰であれ、外の方とお話できたのは久しぶりで、本当に嬉しくて」

「やっぱりあなたも外に出られないんで?」

「ご存じなのですか? そうですね、わざわざこのような場所に出向くのですから、なにも知らないというわけではないのでしょうね」

 傷薬などはなかったので、傷口を縛ることしかできなかった。そのままにするよりは幾分かましだろう。

「どーも」

「どうしたしまして」

 克哉と美花は顔を見合わせた。

 静かな面持ちをしている美花と不思議な表情をしている克哉。

「本当に騒がないんですね、あなたは」

「騒いだ方がよろしいですか?」

 真顔で尋ねてくる美花に克哉は大きく首を振って見せた。

「とんでもない、騒がれたら困ります」

「騒げば人が来ますものね、呼ばれたら困りますか?」

「それはもう」

「なら黙って置いてあげます」

「本当に?」

「ええ、ただしわたしの話相手になってもらえたら……」

「もちろん!」

 大きく返事をした刹那に感じた気配。

 突然、ふすまが開き、隣の部屋から美咲が顔を見せた。

「どうかしたのかしら美花?」

「いいえ、お姉様」

「そう、幻聴だったのかしら。本当にうるさい奴らだわ」

 美咲は怒った顔をしてふすまを閉めて自分の部屋に戻った。

 ふとんに潜っていた克哉がゆっくりと首を出す。

 隣が美咲の部屋だったとは迂闊だった。絶対に見つかると思ったが、寝起きで観察力が散漫になっていたのかもしれない。どうにか美咲に見つからずに済んだ。

 美花が克哉の耳元で囁く。

「また明日話しましょう」

 同じく克哉も美花の耳元で答える。

「ではまた明日。実は俺、屋根裏に棲まわせてもらってるんで、いきなり現れても驚かないでください」

「まあ、屋根裏に!?」

「それから、何も食べてなくて、そこの果物少しもらってよろしいでしょうか?」

「ええ、全部持って行って構いませんよ」

 それは美花の夕食だった。まったく手を付けていなかったらしい。美咲とのことが尾を引いてのどを通らなかったのかもしれない。

 克哉は果物をお盆ごと取った。

 食料を調達するにしても、台所を漁る気にはなれなかった。変な物が出てこないとも限らない。ここで食料をもらえたのは本当によかった。のどが渇いているところに果物というのも嬉しい。

 克哉は頭を下げて、押し入れを開けた。

 それを見た美花は目を丸くしている。

 克哉は声を発さずに「おやすみなさい」と挨拶して押し入れを閉めた。

《5》

 陽が昇った。

 屋根裏にも日が差し込む。

 克哉は一睡もしてなかった。こんな屋敷で寝られるわけがない。

 不気味な住人たち、屋敷を徘徊する怪物、屋根裏とて安全ではない。

 そんな中で、美花の存在は克哉にひと時の安らぎを与えた。

 常識に照らし合わせれば、美花とて……それでもこの屋敷に染まりきっていないと感じた。

 克哉は美花のようすを見に行くことにした。

 穴を覗く。

 安らかに眠る美花の姿。

 この屋敷で育てばそれが普通か。恐怖など微塵も感じさせず、深い眠りに就いている。

 克哉は隣の部屋も確認することにした。隣は美花の部屋と繋がった美咲の部屋だ。

 余り気を入れず覗いたせいで、少し克哉は驚いてしまったが、声は呑んだ。

 美咲はすでに起きていた。

 なにをしているのか?

 よく見えない。

 克哉は目を凝らした。

 それでもよく見えない。

 机の上でなにか細かい作業をしているような感じだ。

 小さなものが動いた。

 美咲の手についているのは朱いものはなにか?

 駄目だ、細かい上に美咲が影になって余計に見えない。

 美咲はなにかを壺の中に詰めはじめた。

 一瞬、朱いなにかが見えたような気がする。

 詰め終わると壺にふたをした。

 そして、机の上を手ぬぐいで拭くと、何事もなかったように片付いてしまった。

 壺は押し入れの奥へと仕舞われる。

 それがなんであるか疑問は浮かぶが、克哉はあえて見ようとは思わなかった。

 この屋敷には見なくてよい多すぎるのだ。

 次に美咲は鏡台で髪を梳かしはじめた。これは得に変わったようすもない光景だ。と思ったのも束の間だった。

 鏡に一瞬、部屋にいないはずの女の顔を映ったような気がする。

 あの顔は誰かに似ていたような気がする。

「おはようおば様」

 美咲が独り言を言った。

 いや、それは本当に独り言なのだろうか?

 まさか鏡に一瞬映ったなにかに言ったのではあるまい。そうならば、本当に映っていたことになる。

「今日はどうしたのかしら? なにか心配事でもおありになられて?」

 美咲の独り言は続いていた。もちろん答える者などいないのだ。そう、いないのだ。

「さようならおば様」

 美咲は櫛を置いて鏡に布を被せた。

 独り言だとしても、そこに登場した〝おば様〟とは、いったい誰のことを言っていたのだろう。

 美咲は部屋を出た。

 克哉も移動することにした。

 次は静枝の部屋を覗いた。

 静枝は部屋のどこにもいなかった。

 場所を移動して食堂、台所と続けて覗いた。

 食堂には誰もいなかった。台所では菊乃が朝食の準備をしているようだった。

 台所での作業はあまり見る気がしない。きのうのことを思い出してしまう。

 念のため脱衣所と風呂場も覗いたが、誰もいなければ変わった点もなかった。

 そして、廊下も見た。

 これで覗ける場所は全部だろうか?

 昨晩のうちに赤い札のある部屋を把握するつもりだったが、大蜘蛛の襲われただけで作業はなにもはかどらなかった。

 そう言えば、大蜘蛛に追い詰められたとき、離れの入り口まで行った。あの部屋にはなにがあるのだろうか?

 さっそく克哉は離れの一つを覗くことにした。

 その部屋は西洋風の作りであった。置かれている家具も足のある椅子やそれに合わせたテーブルなどである。ベッドから何者かが起き上がった。

 手元の眼鏡を探して、掛けた姿は慶子だった。

 部屋を見回して克哉は舌を巻いた。それにしても多い本だ。壁一面が本棚になっており、それが天井まで伸びている。本棚に入りきらない本なのか、山積みになっている物もある。

 膨大な本だが、この屋敷から出られないのなら、読む時間はいくらでもあるのだろう。

 慶子は着替えをはじめた。

 服を脱いだその姿は、全体的に肉付きがよく健康的で、胸は豊満で柔らかそうだった。

 克哉は生唾を呑み込んだ。

 年上の女性は克哉の好みだ。あの躰付きも好い。

 この屋敷で唯一洋服を着用している姿も、見慣れていて安心できる。

 慶子は下着を一切身につけず、スカートを穿いた。

 これでこの屋敷の住人でなければ……と克哉は溜息を吐いた。

 町で会えば声も掛けたくなるいい女だが、今はあまり深い関係にはなりたくない。

 克哉は穴を覗くのをやめた。

 そろそろ美花のところへ戻ってみよう。

 美花の部屋を覗くと、すでに布団が片付けられていた。当の美花は着替えの最中だ。克哉は穴から目を離した。

 しばらして覗き直すと、美花の姿が部屋から消えていた。

 機会を逃したと思って克哉が穴から目を離そうとしたとき、ちょうど美花が部屋に戻ってきた。

 すぐに克哉は屋根裏から下りることにした。

 布団を掻き分けて押し入れを開ける。

 そのとき見た美花の表情は少し眼を丸くしていた。

 克哉は小声で話しはじめた。

「驚かせてすまないですね。美花お嬢様おはようございます」

「おはようございます、そう言えばまだお名前を伺っておりませんでした」

「立川と言います。ここで話すのもなんですから、お時間があるなら屋根裏に参りましょう」

「はい、朝食までの時間なら」

 こうして二人は屋根裏に向かった。

 美花は屋根裏にはじめて登ったらしく、だいぶ驚いたようだ。まさかこんなところに家具が置いてあるとは、さらにその家具から察するに、だいぶ昔にここを使っていた者がいたということだ。

 克哉は椅子を勧めた。

「汚いところですが、今は私の城です。どうぞ椅子に腰掛けて」

 と、克哉はベッドに腰掛けた。椅子は一つしかなかったのだ。

 椅子に座った美花は、自分から話を切り出した。

「あなたはいったいどこのどなたで、どのような目的でこの屋敷にいらっしゃったのですか?」

 当然の質問だろう。美花は忍び込まれた当事者だ。

「改めて自己紹介といきましょう。立川克哉、歳は二七、職業はルポライターをやってます」

「ルポライター?」

「平たく言えば雑誌記者ですよ」

「取材などをなさる?」

「そう、それで飯を食ってます」

「それにしては、色白であまり日に焼けてないのですね」

「体力がなくて外回りが苦手なもんで」

 克哉ははにかんで見せた。

「それで目的はなんでしょうか?」

 先ほどの質問を美花は促した。

「この屋敷を記事のネタにしようと思いまして、だいぶ常識から外れていると噂を聞いたもんで」

「記事にされるのは困ります。多くの人に晒されたら生きていけなくなります」

「でしょうね。俺も記事にするつもりはありませんよ」

「ならほかに目的があるのですか?」

「ずばり言いますよ。友人がこの屋敷の取材の最中、行方不明になりました。ほかにもこの屋敷に関わった者が何人も行方不明になってます。この屋敷に住んでるあなたなら知ってるでしょう?」

「……ごめんなさい、なにも知りません」

 嘘か誠か、皆葉は辛そうな表情をしている。

 美花はうつむいて口をきつく縛ってしまった。話題を変えた方がいいかもしれない。

「なら、赤い札が貼ってある部屋はなんです?」

「幼い頃から決して開けてはならないとお母様などにきつく言われてきましたが、それ以上のことはなにも知りません。お母様に聞けば、もしかしたらお姉様、菊乃さん……知らないのは私だけかもしれません」

 もしかしたら行方不明者がそこにいるのではないかと克哉は考えていた。

「じつは、あの部屋の中を見たんですよ」

「そんなこと、どうやって?」

「この屋根裏には穴がありまして、覗き穴です。おそらくすべての部屋が覗けるようになってるんですよ」

「私の部屋も?」

「いやいやいや、決してあなたの着替えやそういう場面は見てませんよ!」

「私の着替えがなにか?」

「いや、べつに」

 着替えを見られると恥ずかしい。という感覚がこの閉鎖された屋敷で育ったせいでないのかもしれない。

「どこにありますか、開かずの間の覗き穴は?」

「見る気ですか?」

「はい」

「本当に?」

「はい、あの部屋になにがあるのか私も気になっていましたから」

「そこまで言うのなら教えてあげますよ」

 あのときの恐怖はまだ拭えていない。それを人に勧めることも躊躇われる。しかし本人が見たいと言っているのだ。

 克哉は穴を指差した。

「そこの丸の中に小さな穴があります」

「わかりました」

 美花は手と膝をついてその穴を覗いた。

「……薄暗くて……なにかあるようには……ただの部屋……みたいです」

「本当に?」

 替わってもらい克哉が穴を覗き込んだ。

 薄暗くて何も見えない。だが、徐々に部屋が蒼白く見渡せるようになってきた。

 ――部屋に誰かいる。

 部屋の中心で蹲っている男の姿。

 あの男はいったい誰だ?

 行方不明者なら声を掛ける方法を考えたほうがいいかもしれない。

 そのとき、男が鬼の形相で振り向いた!

「久しぶりだな克哉」

 おぞましく頭の中に木霊した声。

 克哉は声を詰まらせそのまま後ろに倒れてしまった。

「どうしましたか?」

「……い……だれか……いた……しかも俺の名前を呼びやがった」

「本当ですか?」

 美花は穴を再び覗いた。

「なにも見えませんし、だれかいるような気配もありませんけど?」

「そんな馬鹿な。あんただって俺の名前を呼ぶ声を聞いたろ?」

「いいえ、なにも」

「嘘だ……たしかに俺の名を……」

 なぜ克哉の名前を知っていたのか?

 もしかしてあれが知り合いのルポライターだったのか?

 克哉はそんなことはないと首を横に振った。あの形相は人成らざるモノだった。怪物だ、怪物の顔だった。

 蒼い顔をする克哉に美花は心配そうに寄り添った。

「大丈夫ですか?」

「もう駄目だ。もうこの屋敷を出たいよ。じつは記事の話も、行方不明者捜しも、全部表向きの理由なんだ。本当はもっと大切な目的があったんだが……それも命あってのことだ」

「本当の目的?」

「ちょっと口を滑らせちまった。言えないんだ、ちょっと風に当たるか」

 克哉はよろよろと歩きながら開いた雨戸に向かった。

 美花もついてきた。少し厳しい顔をしている。

「本当の目的とはなんでしょうか?」

「なあ、美花ちゃん。もしもこの屋敷から出られたらどうする?」

「絶対にありえないことですから」

「俺も今は出られない。でも出られたらどうするって考えたことないのか?」

「そんなこと考えても悲しくなるだけですから……。もし出られたとしても、別の呪いが私を……外では生きていけません」

 外に出るだけでは救われない。

「呪いのこと聞いていいかい?」

「…………」

「なんだか薬飲まなきゃいけないみたいだけど、飲むのを拒んでるんだろ?」

「そこまで……そうですか。私いくつに見えますか?」

 いきなりの質問に克哉は少し戸惑いを浮かべた。

「いきなりなんだ……う~ん、一五前後だろう?」

「お母様は?」

「三〇はいってない。もしかしたら二五前後か」

「私とお姉様は七歳です。そして、お母様は一九歳です」

「それが呪いか……」

「あまり驚かれないのですね」

「世の中にはもっと驚くことが多いもんで」

 さらに克哉は続ける。

「早死にするとわかってて、それを食い止める方法がわかってたらすがりたくなるよな」

「わたしはいつ死んでも構いません。でも薬への渇望が抑えられない」

 美花は今にも泣きそうな表情をしていた。

 克哉は手を差し伸べて抱きしめてやりたいと思った。

 だが、美花は背を向けて歩き出した。

「もうすぐ朝食の時間です。私がいないとわかれば、家の者が探すことになるでしょう。そうなる前に行きます」

「朝食のあと話せるかい?」

「朝食後は授業がありますから、午後過ぎなら時間があると思います」

「授業?」

「慶子先生に勉強を教えていただいているのです」

「じゃあ、また」

「はい、失礼します」

 美花は屋根裏から去っていった。

《6》

 朝食の風景を覗いた。

 集まっているのは静枝、美花、美咲、慶子、菊乃。瑶子とるりあの姿はなかった。

 食事を終えると美花と美咲は、あの本に埋もれた離れで慶子の授業を受けた。

 授業の内容は年齢相応ではなく、見た目相応。七歳という年齢は、見た目からも知能からも感じさせない。美花の言葉を信じるほか決め手がない。

 克哉にとって退屈な授業だったため、別の場所を覗く事にした。

 朝食が終わり、三人が同じ部屋にいるとなると、なにかありそうな部屋も限られてくる。

 静枝の部屋を選んで覗いた。

 部屋の中には二人が向かい合って座っていた。静枝と菊乃だ。

 先に聞こえてきた声は菊乃のものだった。

「はい、るりあが発見しました」

「状態は?」

「深手を負わされたようですが、そこまでする必要はございません」

 深手を負わされた?

 そこまでする必要?

 どちらも引っかかる言葉だ。

 少し間を置いてから静枝が口を開いた。

「屍体の痕跡は見つかったのかしら?」

「それはいつものことでございます。あれは骨まで食い尽くします」

「しかし、まさか深手を負わされるなんて……るりあは何か知らないのかしら?」

「知っていても答えません」

「そうね、とりあえずいつものように何事もなく済ませましょう。けれど、少し気がかりな点もあるから、美咲と美花はしばらく部屋から出さないように、慶子の部屋で見ていてもらいましょう」

「畏まりました」

 菊乃が部屋を出て行く。

 克哉にとって嫌な予感のする会話だった。

 頭に浮かんだのはあの大蜘蛛だ。

 さらに侵入者の存在が知られたのだ。

 今まで何度も存在を知られたと思い恐怖してきた。

 はじめは赤い札の部屋の眼だ。

 次は大蜘蛛との遭遇。

 さらに同じ晩にるりあ、美花。

 住人たちに幾度も見つかってきたが、幸運にも事は大きくならずに済んできた。

 しかし、静枝に知られた今、事は動き出した。

 屋根裏にいて平気なのか?

 いや、決してここは安全とは言えないが、ここ以上の場所が今はないのだ。

 もしも静枝が大蜘蛛を使って侵入者を殺させているとしたら、見つかれば克哉も殺されるのだ。

 屋根裏から脱出するときは、屋敷からも脱出するときだ。屋敷から出られなければ、なにも解決しないのだ。

 情報が足らない。

 美花は屋敷から出ないのではなく、出られない。ほかの者も同じで、出る方法を知らないかったとしたら、どうすればいいのか。

 そうだ、唯一出入りをしている侍女がいるらしい。菊乃か、瑶子か、ほかにいも侍女がいるのか。

 何かを調べるにしても、これ以上住人に顔が知れるのはまずい。侍女と話をするのなら、出入りをしている者を特定して話たい。

 美花と話ができれば情報がもらえるかもしれない。その美花は授業のあとも監視がつくことになってしまった。

 このままなにも手を打てずに時間だけが過ぎていくのか?

 克哉は煙草の箱を出して、溜息を吐くとそれを握りつぶして放り投げた。

「くそっ」

 深い呼吸をしてから克哉は机についた。

 手帳を広げる。

 屋敷の見取り図はまだ完成していない。まだ見ぬ部屋に希望を見いだすというのも、まるで藁をも掴むことだ。

 手帳には名前がひらがなで書いてあった。

 しずえ、みはな、みさき、きくの、けいこ、ようこ、るりあ。そこに赤い札のある部屋の〝謎の男〟を書き加えた。

 克哉は〝しずえ〟に丸を付けた。

 守るか、攻めるか。

 屋根裏に隠れているのは限界がある。

 静枝に丸をつけたのは、この屋敷でもっとも力を持っていると考えたからだ。

 手帳に新たな文字を加えた。

 ――人質。

 もっとも力のある権力を人質に取る。

 手帳を閉じて懐にしまう。

 すぐに克哉は静枝の部屋を覗いた。

 静枝はそこにいた。

 部屋で静かに正座をしながら佇んでいる。

 本当に作戦を実行するなら独りでいる今しかない。

 床を這いつくばって克哉はある物を探した。この部屋への入り口だ。きっとこの場所にも天井板が動く場所があるはずだ。

 がたっ。

 板が動いたが音を立ててしまった。

 慌てて克哉は開いた隙間から部屋を覗いた。

 静枝は動かない。どうやら気づかなかったらしい。

 そして、克哉も動けなかった。

 克哉は断念したのだ。

 動かした板すら戻せなかった。

 しばらくして静枝も部屋を出て行った。

 機会を失った。

 忘れていた呼吸を思い出して克哉は息を吐いた。

「……できるわけないんだよ」

 克哉は椅子に向かって歩きはじめた。

 陽はまだ高い。

 椅子に腰掛けた克哉は机に上に短剣を乗せた。

 鞘からゆっくり抜かれた刃。

 陽が落ち夜が更けた。

 ずっと克哉は動かず椅子に腰掛けていた。

 短剣は再び鞘に収められた。

 ついに動き出した克哉。

 まず覗いたのは離れの部屋だ。

 部屋は暗く静かなものだ。

 早々にその部屋を覗くことをやめ、次は美花の部屋だ。

 薄暗い部屋。

 静かに眠る美花の姿。

 すぐに天井裏から下りることにした。

 板を動かし、押し入れから、美花の部屋へ。

 そっと美花に近付き、肩を揺さぶった。

「美花お嬢様」

「……ううん……」

「起きてくださいお嬢様」

「……っ!?」

 声を上げそうになった美花の口を急いで克哉は手で押さえた。

「私です。声をあげないようにお願いしますよ」

 そっと口から手を放した。

「こんばんは克哉さん」

「寝ているところすみませんね、ほかに機会がなかったもので」

「わかっています」

「お話できますか?」

「はい、屋根裏に参りましょう」

 二人は押し入れから屋根裏へと上がった。

 ベッドに腰掛ける克哉と椅子に腰掛ける美花。朝と同じように、違うのは克哉から口を開いた。

「夜……ですね」

「それがなにか?」

「夜になると何かがこの屋敷を徘徊してますよね?」

「わかりません。夜に限らず、この屋敷は四六時中のことなので」

 四六時中――住人たちは当たり前のこととして、そういうものを感じているということだろう。

「あれをご存じない?」

「あれとはなんですか?」

「巨大なあれですよ。屋敷を守る狩人です」

「わかりません。ただ、夜は決して部屋を出てはいけないときつく言われています。おぞましい声が聞こえてくるのも、昼よりも夜のほうが多いようです」

 それがこの屋敷なのだ。当たり前のように、美花はおかしなことを口にする。本人には自覚がないのだろう。

 克哉はうなずいた。

「捜していた行方不明者の一部はどこに行ったか、だいたい検討がつきました」

「やはりこの屋敷で消えたのですか?」

「どうやら夜になるとこの屋敷には大きな蜘蛛、大きさは俺の躰よりも大きい蜘蛛です。それが人を喰らっているらしい。あなたのお母様の話を盗み聞きすると、まあそんな感じでした。それが行方不明者のすべてだとは思えませんが」

「そんなものが屋敷の中にいるなんて信じられません」

「なら、あなたのお母様が人を殺しているほうが現実的ですか?」

「…………」

「黙りましたね?」

 追求されて美花は椅子から立ち上がった。

「もうお話することはありません」

「俺がここに来た本当の理由……話しましょうか?」

 美花は立ったまま、そこから動かず克哉を見つめた。

 黙る美花を見つめながら克哉が続ける。

「殺しに来たんです」

「だれをですか!」

 屋根裏中に響き渡る叫び声だった。

「それが来るまではわからなかったんですよね」

 間が抜けたような口ぶりだった。

 普段は穏やかな表情をしている美花が怖い顔をして克哉を見つめている。

 克哉は宙を仰いだ。

「来てからも未だに判断が難しくて、あなただって可能性も捨てきれませんが、俺にあんたは殺せない」

「私を……殺す?」

 まさか自分の名前が挙がるとは――美花は青ざめて言葉を詰まらせた。

 さらに克哉は言い続ける。

「あなたを殺すなら、当然あなたのお母様もお姉さんも殺すことになるでしょう」

「そんなことさせない!」

 今の美花はまるで美咲のようだ。恐ろしい鬼気を纏っている。

「落ち着いてくださいよ。今はもうあなたの家族を殺す気なんてありませんから」

「どうして、どうして、殺されなければならないんですか!」

「だから落ち着いてください。可能性があったというだけで、もしそうだったとしても、もう殺す気はないと言ってるんですよ」

 その言葉を信じたどうかはわからないが、美花は静かに椅子に腰掛け直した。

 美花と克哉の視線が並んだ。

 克哉は頭を掻いた。

「どうして殺さなくてはならないのか……という質問でしたよね?」

「……はい」

「死にたくないからですよ」

「私の家族が殺されなくてはならない理由と繋がりません」

「自分では手を下さないまでも、あなただって生きるために多くの命を奪っているはずだ」

 お互い沈黙した。

 克哉の言葉は通常の意味以上の意味を美花に問いかけたのかもしれない。

 時間が過ぎる。

 その沈黙を破ったのは克哉だ。

「まあ、その話は今はどうでもいいんですよ。俺が今望んでることは、この屋敷から逃げ出すこと、それが叶えば今はそれでいい」

「できないことです」

 きっぱりと言い放った美花に克哉は笑って見せた。

「そんなことはやってみなきゃわからないさ」

「できますか?」

「それはだからやってみなきゃわからないさ」

「……そうですね」

 美花はうつむいてしまった。

「だからあなたに協力して欲しいんだ」

 それに美花は答えず、うつむいたまま。

 克哉は返事を待った。

 静かな夜更け。

「……っ?」

 急に克哉は驚いた顔をして辺りを見回した。

「美花ちゃん、なにか臭わないか?」

「なんでしょう……焦げ臭い」

「火事……なんてことはないよな?」

「そんな、早く皆に知らせないと!」

 本当に火事なら屋根裏に隠れているわけにもいかない。

 すぐに出口から――。

「きゃっ!?」

 美花が叫んだ。

 暗がりで蠢く巨大な怪物。

「大蜘蛛だ!」

 叫んで克哉はすぐさま短剣を抜いた。

 大蜘蛛が飛び上がった。

 飛び上がったのは克哉のほうが早い!

 大蜘蛛の上に飛び乗った克哉は、その勢いで短剣を背に突き立てようとした。

 克哉の足下が揺らいだ。

「くっ」

 短剣を刺す前に躰が振り落とされそうになる。

 大蜘蛛の背を滑り落ちながら克哉は短剣を突き立てた。

 恐ろしい物の怪の絶叫。

 克哉は膝に両手をついて床に立っていた。

「はぁ……はぁ……仕留めたのか?」

 短剣を突き立ったままの大蜘蛛はぴくりとも動かない。

「……これで俺は生きられるんだ」

 心からしみ出した克哉のつぶやき。

 克哉は震えて動かない美花に顔を向けた。

「俺が殺さなきゃいけなかったのはこいつなんだ。ほかにもいるかもしれないが、今はどうでもいい。これで俺はしばらく生き延びることができる」

「どういう……ことでしょうか?」

「俺の親父も同じだった。人外を殺して全国を回ってたんだ。理由は死にたくないからさ」

「殺さなくても、わざわざ危険な目に遭わなくても、ひっそりと暮らしていればいい!」

 ひっそりと暮らす。それは自分に向けられた言葉だったのだろう。

「そういうわけにはいかないんだ。定期的にこういうモノを殺さないと、明らかに体調が悪くなっていくんだ……本当にそのまま死ぬかどうかわからない。けど、試してみるなんて真似、怖くてできるわけないだろう、俺は死にたくないんだよ、誰よりも」

 刹那、まだ息のあった大蜘蛛が克哉に飛び掛かってきた。

 武器はない。大蜘蛛の背に突き刺さったまま。逃げる隙すらもなかった。

 ぶんっと何かが風を切った。

 血を噴き出しながら大蜘蛛のが吹っ飛んだ。

 そして、斧を持った少女の姿。

「お逃げください。もう長くは保ちません」

 克哉を救ったのは菊乃だった。

「どうぞこちらです」

 菊乃は二人を隠し階段まで案内した。屋根裏には隠し階段も備わっていたのだ。菊乃ははじめからその存在を知っていたのか?

 屋根裏の一部が崩落し、煙が一気に昇ってきた。

 本当に火事だった。

 屋敷全体が燃えているのだ。

 階段を駆け下り、廊下から雨戸を開けてすぐに外へ出た。

 克哉に手を引っ張られていた美花が立ち止まった。

「皆が、皆を助けないと!」

 燃えさかる屋敷。

 菊乃は屋敷か出ようとせずにそこでじっと佇んでいた。

「火の手は皆様から上がりました。もう助かりません」

 どういうことだ?

 誰が火を放った!?

 美花は膝から崩れた。

 克哉は菊乃に手を伸ばした。

「あなたも来い!」

「はじめの言いつけを守り、わたくしはこの屋敷に残ります」

「なにを言ってるんだ早く!」

 その目の前で屋敷が崩落した。

 瓦礫と共に炎の中に呑み込まれた菊乃の姿。

 克哉は歯を食いしばって美花の手を強引に引っ張った。

 火の粉が風に流れる。

 屋敷から離れ庭を走っていると、後ろから少女の影が追いついてきた。

「美花!」

 それは美咲だった。

 美咲は克哉から美花を奪って抱きしめた。

「捜したのよ美花。どうして部屋にいなかったの!」

「お姉様……みん……な……炎の中に……」

「そうね、みんな焼け死んでしまったわ」

「どうして……」

 そんな二人に克哉は声を掛けようとした。

 しかし、美咲に睨まれたのだ。

「あなたが侵入者ね。でもあなたのことなんてどうでもいいわ。だからあなたもわたしたちに構わないで、一生ずっと……」

 美咲は美花を支え歩き出した。

 その方向は正面門。

 美咲の手によって門が開かれた。

 そして、二人は出て行ったのだ――外の世界へ。

 何が起き、何があったのか、克哉がそれを知ることはなかった。