あやかしの棲む家

第5話 異界の少女

《1》

 それは運命の糸が辿り着いた先。

 結ばれている限り、そこで必ず出逢うのだから。

 の面のは呼ばれて此処に来た。

 屋敷の中を案内し終わった瑶子は、次に庭を案内することにした。

 遠くに見えてきた鳥居を指差す瑶子。

「あそこに見える鳥居の先には祠があります」

「どんな祠ですの?」

 と、慶子は尋ねた。

「すみません、鳥居にはあまり近づかないですし、祠にも入ったことがないので、具体的には答えられないんです」

「なら今日は一緒に祠に入ってみましょう。それがいいわ」

「そ、それは……なんだか怖いですし」

「大丈夫よ、一緒に入りましょう」

 慶子は不安そうな瑶子の背中を強引に押した。

 鳥居から続く細道の先で、祠が口を開けている。

 背中を押され、瑶子は鳥居をくぐろうとしていた。

「駄目です、これ以上は……あれっ?」

「どうなさいましたの?」

 慶子は背を押していた手を離した。

 何かを見ている瑶子。

 その何かとは?

「……糸」

 つぶやいた瑶子。

 慶子は瑶子の背で妖しく微笑んでいた。

「どこに糸なんてあるのですの?」

「えっ、見えませんか? 眩しいくらいに輝いている糸があるじゃないですか?」

 その糸に瑶子は手を伸ばした。

 細道のずっとずっと先まで伸びている糸の先。

 糸の先には何がある?

 瑶子は瞳に色を宿さず糸を手繰たぐり寄せた。

 引き寄せようとすると、張り詰められる糸は、その先に何かがある証拠。

 ぐいっと瑶子の躰が逆に引っ張られた。

 向う側からも力が掛かっている。

 糸の先で空間が歪んでいる。

 その先で蠢く塊。

 あの先にいるのはいったい何か?

 慶子がつぶやく。

「まるで芥川龍之介の小説。糸が切れないように、今度こそしっかりと手繰り寄せてあげなさい」

 糸の先に群がる亡者ども。

 まるで地獄から極楽を目指す罪人たち。

 その光景は芥川龍之介の描いた蜘蛛の糸。

 糸の群がる者どもは、老人のような顔をした毛のない猿のような者ども。

 かの小説では、カンダタは己だけが助かろうと、糸にぶら下がり下から群がってきた者を落とそうとした。そして、糸は切れてしまうのだ。

 しかし、ここにカンダタはいない。

 先頭で糸を掴んでいるのは、角の生えた少女。

 少女は他の者を蹴落とすこともせず、ただ黙々と糸にしがみついている。

 不気味なものどもは、少女の服や腕や首、髪までも、掴めるところならばどこでも掴んだ。

 必死なのだ。

 こちら側にこようと必死なのだ。

 そこまで必死にさせる理由は何か?

 こちら側に来たいからか?

 それともあちら側を出たいからか?

 兎にも角にも、必死に藻掻いている。

 髪の毛を引っ張られた少女の顎が上を向く。苦痛の表情をするが、声は出さない。

 瑶子は糸を手繰り寄せ続ける。決して自ら糸の先に近づこうとはしない。境は鳥居。鳥居が隔てる境界線。

 少女の腕が鳥居をくぐり、そこに掴まっていた枯れ木のような手が崩れ落ちるように離れた。

 墜ちていく。

 次々と不気味なものどもが墜ちていく。

 少女の頭や肩が鳥居をくぐると、さらに墜ちた。

 ぼろぼろと剥がれ墜ちていくのだ。

 あと少し、あと少しで少女の足が鳥居をくぐる。

 不気味なものは執念深く少女の足首に爪を立てしがみつく。

 呻くような声が聞こえてきた。

「極楽……極楽……」

 不気味なものが念仏でも唱えるように呻いている。

 慶子は微笑んだ。

「こちら側も地獄ですのよ」

 少女は完全に鳥居をくぐり、最後に残っていた不気味なものもついに墜ちた。

 もう糸はない。

 歪んだ空間もなかった。

 はっとして我に返る瑶子。

 足下には今にも絶えてしまいそうな息づかいの少女。慌てて瑶子は少女を抱きかかえた。

「だいじょうぶですか?」

「…………」

 返事はなく、息も果てそうだが、少女の眼は業火を宿したように、瑶子を睨みつけていた。

 慶子は瑶子の肩越しに少女を覗き込んだ。

「角がありますのね、この子。まるで人を喰らう鬼のよう」

「きゃっ」

 急に少女は瑶子を押し飛ばし、髪の毛を振り乱しながら、駆け出してこの場から逃げてしまった。

 素早い動きでもう少女は影も形も無い。

 唖然とする瑶子。

 慶子が声をかける。

「早く探さなくて宜しいのですの?」

「あっ、はい! 案内の途中ですけど失礼します」

 お辞儀をして瑶子は駆け出した。

 残された慶子も瑶子が消えてしばらくしてから、ゆっくりと歩き出した。

「あたくしの手を煩わせるなんて、瑶子、あなたはなんのために此処にいるのかしら」

 呟いた慶子はなぜか愉しそうな顔をしていた。

 髑髏の丘。

 地面に掘られた大きな穴は、いつしか骨で埋まり、なにかの拍子に頭蓋骨が頂上から転がり落ちるほど、骨が積み上がっていた。

「ここにいたんですか、探しちゃいました」

 後ろから声を掛けられて少女は振り返った。

 立っていたのは瑶子。

「もう逃げないでくださいね。取って喰ったりなんてしませんから」

 冗談なのか、瑶子はにこやかに笑って見せた。

 少女は瑶子を睨んだまま動かない。警戒しているのは間違いない。

 髑髏の丘。角生えた少女。詰め寄る瑶子。

 角生えた少女は異様と言えるが、ここにあるモノたちはさらに異様だった。

 静かに瑶子が近づいてくる。

「だいじょぶですよ、だいじょぶですからねぇ~」

 近づいてくる瑶子を前にして、少女は左右に目をやり確かめた。

 地面を蹴り上げ、一気に駆け出した少女。

 しかし、腕が掴まれた!

 逃げようとした少女の腕は、瑶子によって強く握り締められていた。

「だいじょぶですから、ね。逃げないでくれますか?」

 少女が己の姿が見えるほど、瑶子の瞳が近くにあった。

 腕を掴まれ、こんな間近まで詰め寄られても、少女はなおも逃げようとした。

 激しく腕を振り解こうとする。何度も何度も振った。思いのほか瑶子の力は強く、まったく振り解けそうになかった。

 このままでは逃げられないと知るや、少女は己の腕を掴む瑶子の手に噛み付いたのだ。

「痛っ」

 顔をしかめて短く漏らした瑶子。それでも少女の腕を放さなかった。

「だいじょぶですよ。ほら、怒ったりしませんし、あなたに危害を加えたりしませんから、ね?」

 手の甲から滲む鮮血。

 傷を負いながらも瑶子はにっこりと笑っていた。

 緊張の糸が極限まで張り詰める。

 睨む少女。

 微笑む瑶子。

 表情こそ違えど、二人はせめぎ合いた。

 しばらく二人は動かなかった。決して眼を離さず、その瞳の奥から相手の心を探るように。

 そして、勝ったのは瑶子だった。

 少女の全身から無駄な力が抜けるのがわかり、瑶子は腕を解いた。

「お名前は?」

「…………」

 腕を解いても逃げることはなかったが、警戒は解けたわけではないらしい。少女は未だに睨みを効かせている。

「傷の手当てをしてあげます。だから一緒に行きましょう?」

 瑶子の目の前にいる少女は躰中に傷を負っていた。それはあのものたちが付けた傷だ。この少女と共にこちら側へ来ようとしていた不気味なものども。彼らは肉を抉るほど強く少女にしがみついていたのだ。

 少女からの返事はなく、動こうともしない。

「今朝届いたばかりの果物もありますよ?」

 食べ物で釣ろうとする瑶子。

「それとも野菜にしますか? 新鮮なお肉もありますよ」

 少女の唇が微かに動く。

「……み……」

 よく聞き取れない。

 瑶子は少女の唇に耳を傾けた。

「もう一度お願いします」

「……み……ず」

「みず……お水ですか?」

 尋ねる瑶子に少女は頷いて見せた。

 嬉しい気分を現すように瑶子は満面の笑みを浮かべた。

「喉が渇いているんですね。井戸ならすぐそこです、一緒に行きましょう」

 瑶子は少女の手を差し伸べた。

 しかし、手を繋ぐことは無視された。

 寂しそうな顔をしながら、瑶子は前を歩きはじめた。後ろからは少女が子鴨のようについてくる。

 井戸はすぐに見えてきた。すると少女は瑶子を追い抜いて駆け出した。

「あっ」

 小さく漏らしながら瑶子が手を前に出すが、少女は止まらず井戸まで駆けた。

 井戸についた少女はすぐさま滑車を回して水を汲んだ。

 地下深い水面から桶で運ばれてきた冷水を、被るようにして少女は飲んだ。口の端から溢れ、全身に掛かるが気にしていないようだ。よっぽど喉が渇いていたのだろう。

 喉を潤した少女は瑶子に顔を向けた。

「るりあ」

 短く呟いた。

 首を傾げる瑶子。

「るり……あ?」

 少女は頷いた。その瞳は依然として鋭さを持っているが、恐ろしいという感じはしない。瑶子に対する敵意はないが、まだ常に周りを警戒しているようだった。

 瑶子も頷いた。

「それがお名前ですか?」

「…………」

「ああっ、また黙らないでくださいよ。るりあちゃんでいいんですよね?」

「…………」

「ええっと、あたしの名前は瑶子です。今からるりあちゃんとあたしはお友達です。だから仲良くしましょう?」

 少女は難しい顔をした。なにを考えているのだろう?

 しばらくして、少女は握った拳を瑶子に向け、小指だけを立てた。その仕草と言えば。

 同じように瑶子も小指を立てた拳を出して、少女の小指と自らの小指を絡めた。

「指切りげんまん、うそをついたら閻魔様えんまさまに舌をぬ~かれる」

「やだやだ、舌を抜かれたら餓鬼道くらい辛い」

 閻魔の裁きによって下る六道りくどうのひとつ餓鬼道がきどう。罪人が常に飢えと渇きに苦しめられる場所。

「指切った」

 強引に瑶子は指を切った。

 少しるりあは怯えているようだ。

 瑶子は笑顔を送った。

「これで絶対にお友達です。仲良くしなきゃ駄目ですよ?」

「……うぅ」

 るりあは弱った声を漏らした。

 このとき、るりあからはあの鋭さが消えていた。そこにいるのは幼い少女。警戒もいつの間にか解けたようだ。

 るりあの手が瑶子によって握られた。振り払うことはしなかった。手を繋いで歩き出す二人。

「傷の手当てしましょうね」

「平気」

「え? あっ本当だ。もう治っちゃってますね、良かった」

 滲んだ血の痕は残っていたが、傷痕は残っていない。人とは思えぬ治癒力だった。

 一目見ただけでは人と変わらぬが、すぐに角に気づくだろう。その角も動物のそれとは違い、こぶと言われれば瘤とも言える。ただ、二本はあまりにも綺麗に生えそろっている。

 そして、るりあいったいどこからやって来たのか?

 謎多き少女だが、瑶子はあまり気にしていないようだ。

「なにか食べます? それとも……そうだ、まずは静枝さまにご報告したほうがいいですよね。静枝さまはこの屋敷で一番偉い方です」

「釈迦よりもか?」

「お釈迦様はこのお屋敷には住んでおられませんから、お屋敷で一番は静枝さまです。あたしは屋敷でお仕事をさせてもらっていて、静枝さまの身の回りのお世話をさせていただいています」

 歩きながらしゃべり、二人は勝手口から屋敷に入った。

 台所の土間でポンプから水を汲み、履き物を履いていなかったるりあの素足を濯いだ。

 草履を脱いだ瑶子はるりあと共に床に上がった。

 冷たい廊下。

 屋敷の中は静まり返っていた。

 そこに響いた大きな声。

「だれか! 早くだれか来て頂戴!」

 幼い少女の声だ。

 瑶子はるりあの手を引いて早足で歩いた。

 開いた襖ふすまから廊下に顔を出しているのは、美咲だ。歳は五つだが、見た目は十とおほどに見える。

 駆け寄ってきた瑶子と美咲は目が合った。だが、目はすぐにるりあに引かれた。

「だれその子?」

 不機嫌そうな声音だ。

「るりあちゃんです。さっきお友達になりました。それでご用はなんですか?」

 瑶子は尋ねた。

「虫ピンを切らしてしまったの。新しいのなかったかしら?」

「う~ん、探してみないとわかりません。でも今はるりあちゃんを静枝さまのところへ連れていかなきゃいけないので、あとでよろしいですか?」

「あとでもいいから急いで」

 無愛想に言うと、美咲は自室に入って襖を閉めてしまった。

 閉まった襖に瑶子は声を掛ける。

「菊乃さんにも伝えておきます。それでは失礼いたします」

 軽く頭を下げた瑶子。

 再びるりあは瑶子に連れられ歩き出した。

《2》

「お入りなさい」

 静枝の声に導かれ、るりあは瑶子と共に部屋に足を踏み入れた。

 床の間の中心に静枝はいた――車椅子に拘束され。

 車椅子に座る静枝はベルトで肯定され、首から下の一切の自由を奪われていた。不自由な躰は安定感に掛け、車椅子から落ちないように躰を固定することはあるが、これは違う。ベルトの数は何本にも及び、肉に食い込むほどきつく固定されているのだ。

 静枝の傍らには菊乃が立っていた。このような状況だ、誰か傍についていなければ、静枝はなにをすることもできないだろう。

 静枝はるりあを見るなり話を切り出した。

「慶子さんからすでに聞いているわ」

 その瞳はるりあよりも鋭い。

 負けじとるりあは静枝を睨み返すが、小さな躰は瑶子の後ろに隠れてしまっている。

 意にも介さず静枝は話を続ける。

「自由になさい」

「はい?」

 と、瑶子は首を傾げてしまった。

 静枝は言葉を紡ぐ。

「その子はこの屋敷で自由にすればいいわ。ただし、面倒は瑶子が見てあげなさい」

「は、はい。ですが、それでは家事や静枝さまのお世話が至らなくなりそうで……」

「手が回らなくなった分は菊乃が負担すればいいわ。常にその子の面倒を見ろと言っているのではないのよ。必用最低限の世話をすればいいわ。貴女もあまり構われたくないでしょう?」

 目を向けられたるりあは、さらに瑶子の後ろへと隠れた。

 話はこれ以上なかった。静枝もるりあを深く追求することなかった。

 菊乃に虫ピンの件を伝え終えた瑶子と共に、るりあは静枝を睨み続けながら部屋をあとにした。

 廊下に出ると瑶子が声を掛けてきた。

「これからまた美咲さまのところに行きますけど、るりあちゃんはどうします?」

 尋ねられたるりあは首を横に振った。

 しかし、るりあは瑶子の手を握ったままだ。

「困りました」

 瑶子がつぶやくと、背後から気配がした。

「あたくしが見ていてあげましょうか?」

 るりあは素早く瑶子の背に隠れた。

 現れたのは慶子だった。

「嫌われているのかしら?」

 慶子は微笑んだ。

 るりあが瑶子の顔を見上げた。

「よーこといっしょにいく」

「これから美咲さまのところに行きますよ?」

「いっしょにいく」

「だそうです」

 と瑶子は慶子に顔を向けた。

「その子がそう言うなら仕方ありませんわね。あたくしに出来ることがあったら、いつでも声をかけてくれて宜しいのですのよ」

「ありがとうございます。では失礼します」

 頭を下げて瑶子が歩き出すよりも早く、るりあが手を引いて歩き出した。

 手を引かれ、少しつまずきそうになりながら瑶子は歩き出す。

 二人は廊下を進み、再び美咲の部屋の近くまでやって来た。そこで瑶子は足を止めた。

「美咲さまのお部屋のお隣の部屋が美花さまのお部屋です。今はもう使われていないんですけど、ずっとそのままにしてあるんですよ」

 瑶子の話にるりあからの相づちもなにもなかった。

 再び少し歩き出し、隣の美咲の部屋までやって来た。

「美咲さま、失礼いたします」

 瑶子が部屋の中に声をかけると、急に襖が開いた。

「遅いじゃない!」

 いきなり美咲が凄い剣幕で出てきた。

 静枝のところにいくと伝えてあったし、美咲自身があとでもいいと言ったにもかかわらず、理不尽な怒りである。けれど、瑶子は反論せずにすぐさま頭を下げた。

「申しわけございません」

「虫ピンはちゃんと持ってきたのでしょうね?」

「それが、菊乃さんにも聞いたんですけど、もうないとのことなので、来月分の定期便で注文しておくそうです」

「それでは遅いのよ、今すぐ買い出しに行くように菊乃に言いなさい!」

 瑶子の鼻先で襖が音を立てて閉められた。言いたいことだけ言って、美咲は自室に閉じこもってしまった。

 溜息をついた瑶子をるりあを見つめた。

 自分を見つめる視線に気づいた瑶子は笑顔をつくった。

「今から菊乃さんに会いに、静枝さまのところに行かなくてはいけなくなりました」

 るりあは瑶子から手を離した。行きたくないという意思表示か?

 瑶子は膝を曲げてるりあと同じ視線に立った。

「ひとりで遊ぶなら良い子していてくださいね。無闇に物を壊さない、いたずらはしない、それから赤い札の貼ってある部屋は……あっ!」

 瑶子が話し終わる前にるりあは駆け出した。

 特に追ってくる気配はなかったが、瑶子はるりあの背が見えなくなるまで見つめていた。

 廊下を走っていたるりあの足が止まった。そこは赤い札の貼られている部屋の前。

 るりあの視線は部屋の奥を見透しているようだった。

 物音が聞こえた。部屋の奥からだ。風の悪戯だろうか――窓が開いていればの話だが。

「どんな悪さした?」

 るりあは言った。

 誰に尋ねているのか?

 るりあの顔は閉ざされた襖に向けられたまま。

 強い衝撃を受けたように激しく揺れる襖。まるでそれは〝何か〟が怒り狂っているようだ。

 るりあはその場から駆け出した。

 屋敷中が揺れる。

 廊下をるりあが駆け抜け赤い札の部屋を通り過ぎようとすると、屋敷が激しく揺れるのだ。

 立ち止まったるりあが叫ぶ。

「うるさい!」

 静まり返る屋敷。

 るりあは再び駆け出した。屋敷に響くのはるりあの足音のみ。

 屋敷はところどころ色が違った。

 色というのは視覚的な意味でもそうだが、建築の雰囲気も違うようだった。

 廊下の床板の色が変わる。それは増築の跡だった。

 るりあがここまで来る間にも、いくつか色が変わっていた。

 少しまた進むと、また床の色が変わった。

 先に続いている長い廊下。

 突き当たりまで走ったるりあの目の前には、木製の扉が現れた。ノブのある西洋様式だ。

 るりあは急に振り返った。

「あたくしの部屋にようこそ」

 現れた慶子を押し飛ばしてるりあは逃げた。

 背後から突き刺さる視線。慶子の視線。るりあは振り返らず走った。

 また床の色が変わった。

 長い廊下。

 まっすぐと続く廊下の途中に部屋はない。

 その先にあったの頑丈そうな扉。木製だが、縁などは金属板や鋲がつかわれている。錠も金属製だ。

 るりあは扉に耳を押し当てた。

 常人では聞き逃してしまいそうな小さな物音。

 枯れ葉が擦れ合うような音がした。

 がさがさ。

 扉の奥には何があるのか?

 るりあは鍵を持っていない。

 錠を握ったるりあ。

 そこに慶子がやって来た。

「中が見たいのなら鍵を壊さなくとも、あたくしが案内して差し上げますのに」

 今度は慶子を押し飛ばして逃げるようなことはなかった。るりあは慶子を睨みながら、扉の前の道を空けた。

 慶子はどこからか太く長い鍵を取り出し、それを錠の鍵穴に差し込んだ。

 錠が外れるとるりあは重い扉を押した。

 薄暗い室内。

 天井近くの小さな格子窓から光が漏れている。

 入ってきた扉が慶子によって閉められた。

「ここにいるのは、みんなあの子ですのよ」

 蠢くモノたち。

 部屋中に張り巡らされた白い糸。

 いくつもの巨大な繭の中で何かが蠢いている。

 繭に触れようとしたるりあの腕を慶子が掴んで止めた。

「駄目ですのよ。この状態のあの子は、とてもデリケート……いえ、虚弱ですの」

 慶子は途中で言葉を言い直した。

 静かにるりあ繭を見つめ続けている。

 ときおり、繭の中で何かが動く。まるで母胎で眠っているようだ。

 慶子はこの部屋の鍵をるりあに握らせた。

「差し上げますわ。これでこの部屋はあなたの自由。何をしても構わないけれど、この子たちに万が一のことがあったら、あの子がこの屋敷に帰ってこられなくなりますわ。それはそれで愉しげかもしれませんけれど」

「…………」

 るりあは慶子を見つめたまま黙っている。

 妖しく微笑んだ慶子はるりあに背を向けた。そして、そのまま無言で部屋を出て行ってしまった。

 残されたるりあは部屋を見回し、この部屋をあとにするこにした。

 部屋を出て重い扉を閉めると、錠で鍵をかける。

 鍵を強く握り締めながら、再びるりあは屋敷の中を駆け出した。

 廊下の向こうにいる瑶子と目が合った。

「探しちゃいました」

 安心するような顔をする瑶子にるりあは飛び込んだ。

 手を握る。

 るりあの空いた手に鍵が握られていることに瑶子は気づいた。

「その鍵はどうしたんですか?」

 尋ねられたるりあは奪われると思ったのか、恐い顔をして鍵を持った手を遠くに伸ばした。

 瑶子は笑った。

「取ったりしませんよ。その大切なものなんですね。るりあちゃんの物なんですか?」

 るりあは頷いた。

「そうですか、なら無くさないようにしましょうね。ほら、鍵にひもを通す穴が開いてますから、ひもを通して首からぶらさげることにしましょう。それなら無くしませんよ?」

 またるりあは頷いた。

 さっそく瑶子はるりあの手を引いて、自らの部屋に案内した。

 部屋についてさっそく鍵にひもを通し、るりあの首から提げられた。このときに、裁縫道具を見た瑶子はあることに気づいた。

「まち針で代用できないでしょうか?」

 独り言をつぶやいた。きっと虫ピンのことを言っているのだろう。

 針刺しを手に持って瑶子はるりあに顔を向けた。

「美咲さまのところに行きますけど、いいですか?」

 るりあは頷いた。

 二人は再び美咲の部屋に向かった。

 しばらく歩き、美咲の部屋まで来た瑶子は声を掛ける。

「美咲さま、失礼いたします」

 少し無言で立ったままの瑶子。返事は返ってこなかった。そこで再び声を掛ける。

「美咲さま、いらっしゃいますか?」

 しかし、やはり返事はない。

「美咲さま?」

 念のためもう一度。だが返事はなかった。

 そこで瑶子は静かに部屋の襖を開けることにした。

「美咲さま、いらっしゃいますかぁ?」

 部屋の中に顔を伸ばした瑶子。そのまま辺りを見回すが人影はない。どうやら美咲は部屋にいないらしい。

「いないみたいですね」

 つぶやいた瑶子の服をるりあが引っ張った。

「知ってる」

 短く言ったるりあ。

「知ってる?」

 瑶子は聞き返した。

 るりあは小さく二度頷いた。

「美咲さまの居場所ですか?」

 返事を返さずにるりあは瑶子の手を引いて駆け出した。

 廊下を駆け、途中の部屋を素通りして、るりあは瑶子を屋敷の外に連れ出した。

 もう空は夕暮れだ。

 るりあは本当に美咲の居場所を知っているのだろうか?

 どこかを探しているそぶりはない。るりあは迷わず進んでいる。

 やがて前方に鳥居が見えてきた。

 そして、夕日を浴びる鳥居をくぐる少女の影。

 瑶子たちを目をした美咲は不機嫌そうな顔をした。

「あなたたち、こんなところでなにをしているのかしら?」

 軽く尋ねたように聞こえない。問い詰めるような声音だ。

 すぐさま瑶子が答える。

「美咲さまを探していたんです。これ、虫ピンの代わりになりませんか?」

 差し出された針刺しを見た美咲。

「一応もらっていくわ」

「よかった」

 安堵して瑶子は笑顔になった。

 しかし、美咲はまだ不機嫌そうな顔だ。

「ねえ、瑶子はあの中に入ったことがあるのかしら?」

 美咲が祠を見ながら尋ねてきた。

「祠ですか? なんだか恐くて近づくのもちょっと……。中はどうなってるんですか?」

「〝入れない〟のならそれでいいわ。ただの穴よ、奥はただの行き止まり」

「そうなんですかぁ」

 瑶子はそれで納得したようだ。

 さらに美咲はるりあに視線を向けた。

「お前は入れるのかしら?」

「…………」

 無言のままるりあは美咲は見つめているだけ。

 瑶子が口を挟む。

「それがどうかしたんですか?」

 美咲は冷ややかに視線を外した。

「あなたたちには関係のないことよ。それよりもこんなところで油を売っている暇はないでしょう、瑶子?」

 夕暮れに向かって美咲は顎をしゃくった。

 はっとする瑶子。

「す、すみません。夕食の支度をしなきゃ!」

 急に慌て出す瑶子は握っていたるりあの手を離した。

「るりあちゃん、これからあたしは夕食の準備をしなきゃいけないんです。だからまたあとでね!」

 忙しくなく早口で言って瑶子は屋敷に向かって駆け出した。

 美咲も鼻を鳴らしてそっぽを向き、るりあを置いて行ってしまった。

 残されたるりあは鳥居の先にある祠を見つめた。

《3》

「待ってくださいよぉ!」

 廊下を走る瑶子は息を切らせながらるりあを追っていた。

 瑶子のことなど構わずに、るりあは前も見ず駆け回っていた。

 るりあが顔面から何かに飛び込んだ。

 見上げると不機嫌そうな美咲の顔。

「前見て歩きなさいよ!」

 瑶子もるりあも、その姿形は二人が出会ったときから変わっていない。

 しかし、美咲はどうだ?

 その容貌は色艶が出てきて、外見はだいたい一五に行くか行かないかだろうか。まだ少女も色濃く残っていて、妖しい色香を纏っている。

 瑶子は美咲の上等な着物姿を見て感嘆した。

「美咲さま、本当にお似合いです。うっとりしちゃいます」

 この日、はじめて袖を通した着物だ。晴れ姿と言ってもいいだろう。美咲がこんな姿をしているのには理由がある。

 るりあの腕が急に掴まれた。

 掴んだのは菊乃だ。

「瑶子さん、しっかり見張っていてくれなくては困ります。美花様に粗相があってはなりません」

 菊乃は瑶子にるりあを預けて玄関に向かって歩き出す。

 そのあとを美咲も付いていこうとした。だが、菊乃が振り返って美咲の足を止めさせた。

「美咲様は静枝様にお部屋にいるようにと、聞いておりませんでしたか?」

「聞いたわ。お母様の言うことなんて聞く必用なんてないわ。私は一刻も早く美咲に会いたいの、悪い?」

 反抗的な態度が伺える。

 菊乃は瑶子に目を移したが、すぐに美咲に視線を戻した。

「静枝様にご報告してまります。それから美咲様を迎えに正門に向かいます」

 早足で菊乃は姿を消した。

 美咲は玄関に向かう。

 それに付いていこうとしたるりあの腕を瑶子が引っ張った。

「駄目ですってば、今日はおとなしくしてくださいって頼んだじゃないですか」

「やだ」

「そんなこと言わないでくださいよ」

「やだ」

「うぅ~」

 困ってしまった瑶子。

 るりあは瑶子に掴まれた腕を引っ張って行こうとする。

 しばらくの間、二人はその場を動かず引張りをした。

 ここで綱引きを続けているわけにもいかない。なぜならこの廊下を美咲が通るはずだからだ。なので瑶子は折れることにした。

「ちょっとだけですよ、影からこっそり見るだけですからね?」

 譲歩した瑶子にるりあが向けた顔は、唇を尖らせた不服な態度。

 眉をハの字にして瑶子はほとほと困ってしまった。

「お願いします。今日はご家族の久しぶりの再会なんですから、邪魔をしちゃいけないんです。ご家族の対面が終わったら、それからるりあちゃんも紹介してあげますから、ね?」

「…………」

あとで柘榴ざくろをいっぱいあげますから、ね?」

「……わかった」

 返事はしたが、まだ唇は尖ったままだ。

「まだここにいたのですか」

 この場に戻ってきた菊乃に言われた。

 瑶子は慌てた。

「大丈夫です、ちゃんとるりあちゃんは大人しくできますから。ねっ、るりあちゃん?」

 同意を求めて瑶子は顔を向けたが、るりあはつんと唇を尖らせている。

 菊乃は静かな瞳で二人を見つめていた。

「言うことを聞かないのなら縄で縛ってください」

「そこまでしなくても」

 弱々しく瑶子は言った。

 隙を突いてるりあは瑶子の手を振り払い、菊乃に向かってあっかんべーをした。

 そして、るりあは逃げた。

 慌てる瑶子。

「ああっ!」

 菊乃の冷たい視線が瑶子に突き刺さる。

「早く追ってください。私はもう行きます」

 足早に菊乃は姿を消してしまった。

 瑶子は頭を抱えて重たい溜息を漏らした。

 逃げ出したるりあだったが、結局は瑶子に掴まってしまった。けれど、縄に縛られることはなかった。そして、影から見るということもできそうだ。

 屋敷の縁側から遠く正面門をるりあは見つめた。

 横にいる瑶子も懸命に目を凝らしている。

「ここからじゃ、あんまり見えませんね」

「よく見える」

「るりあちゃんは目がいいんですね。あたしは動体視力だったらいいんですけど」

 しばらく二人は正面門を見つめていたが、先にるりあが集中力を切らせてしまった。視線があちらこちらに泳ぎ回り、今にも躰が動きそうだ。だが、るりあの服はしっかりと瑶子によって握られている。

 るりあに気を配りながらも、瑶子は集中力を切らさずにじっと正面門を見つめている。

 やがて正面近くにいる美咲や菊乃に動きがあった。この位置からは垣根が邪魔して、屋敷の敷地外の状況を見ることはできないが、美咲たちの動きを見るに何かがやって来たようだ。

「美花さまが帰っていらっしゃったみたいですよ」

 瑶子に声をかけられたるりあが急に駆け出した。

「あっ!」

 急いで止めようとしたが間に合わない。るりあは虚しく伸ばされた瑶子の手の遙か先。

 一直線にるりあは正面門を向かった。

 向かってくるるりあにいち早く気づいた菊乃。

「やはりこうなりましたか」

 予想をしていたようだ。

 菊乃は素早くるりあを捕らえた。

 美咲はるりあなどに目に入っていなかった。

 山を切り開いた道を走ってくる軽自動車はスバル360だ。

 ゆっくりと走ってきたスバル360は、正面門に入る手前で止まった。

 運転席から顔を出した無精髭の克哉。

「どこに止めればいいですかねえ?」

 すぐに菊乃が応じる。

「ここまでで結構でございます」

「そんなこと言わずに、お茶の一杯でも飲ませてくださいよ。もうくたくたで、喉もからからで、美花ちゃんからもなんか言ってやってよ……あっ!」

 克哉の視線の先で美花は車を降りようとしていた。

 逸る気持ち抑えられなかったのだろう。車を降りた美花は一目散に美咲の前に行った。

「お姉さま、お久しぶりです」

「元気そうね美花。あのころとなにも変わっていない、〝見慣れた顔〟だわ」

 双子の姉妹は瓜二つ。服が違わなければ、まったく見分けが付かないほどだ。

 再会に浸る姉妹の横をスバル360がゆっくりと走る。菊乃が止める間もなかった。

 門をくぐったスバル360は停車して、再び克哉が窓から顔を出した。

「適当に停めさせてもらいますんで」

 断りを入れたが、強引には変わりない。

 ハンドルを握って再び顔を前に向けた克哉が眼を丸くした。

「おおっ、なんだガキか!?」

 フロントガラスにるりあがべったりと顔を付けていたのだ。驚くのは当然だ。

 また克哉が窓から顔を出した。

「どけどけ、どかないと轢いちまうぞ」

 注意してもるりあは退こうとしなかった。

 仕方がなく菊乃がるりあを引っ張って捕まえた。そして、深々と頭を下げた。

「申しわけございません。幼い子のしたことでございます。どうか許してあげてくださいませ」

 と、顔を上げた菊乃は遠く縁側にいる瑶子に眼をやった。

 見られた瑶子は度肝を抜かれ固まった。るりあを追いかけて出るか出まいか戸惑っていたのだ。

「許すもなにも気にもしてませんよ。それじゃあ冷たいお茶でも用意していてください」

 そう言い残して克哉は車を走らせて屋敷に向かって行ってしまった。

 姉妹はなにやら話し込んでいたが、どうやら一段落したようで、美花は菊乃とるりあに顔を向けた。

「お久しぶりです菊乃さん。そちらにいる女の子は?」

「るりあ様でございます」

「るりあちゃんと言うのね」

 美花に見つめられたるりあは急に駆け出した。

 正面門から戻ってきたるりあは瑶子に抱きついた。

 瑶子は少し困った顔をした。

「ああ、ああ、素足のまま外に出て、そのまま上がっちゃ駄目じゃないですか。すぐに台所で流しましょうね」

 自分を抱きかかえて歩き出す瑶子をるりあは見つめた。

「あいつ冷たいお茶飲みたい言ってた」

「あいつって美花さまのことですか? 駄目ですよ、美花さまのことあいつだなんて」

 るりあは首を横に振った。

「男言ってた」

「男の方ですか? もしかして車を運転して来た方ですか?」

 今度は首を縦に振った。

 台所に着き、足を流していると、勝手口から何者かが入ってきた。

「お茶用意してくれました? って、さっきの子じゃないのか」

 入ってきたのは克哉だった。

 驚いた顔をした瑶子だったが、すぐに気を取り直して笑顔になった。

「こんにちは、運転手の方ですよね?」

「運転手っつたら運転手ですけど、職業は運転者じゃなくてルポライターなんで」

「ルポライター?」

「三流雑誌の記者ですよ。あと美花ちゃんとの関係は、美花ちゃんを預かっていた家の息子です」

「そうだったんですか! 美咲さまがお世話になりました」

「いえいえ」

 満更まんざらでもない様子で、克哉は無精髭を触りながら笑った。

 克哉はなにかに気づいて顔を下に向けた。服をるりあに引っ張られていたのだ。

「どうしたお嬢ちゃん?」

「男、男」

「男に決まってるだろ。俺が女に見えたらそりゃ重傷だ」

 瑶子はすぐにるりあがなにを言いたいか察したようだ。

「るりあちゃんはきっと男の方が珍しいんですよ。あたしもですけど。この屋敷には男の方がいないので、男の方と言えば定期便で荷を運んで来てくださる方を遠くから見るくらいで、るりあちゃんの場合は」

「男を知らないなんて可哀想だな。そりゃ、男が女を知らないのと同じくらい可哀想なことですよ」

 克哉が笑った。

 靴を脱いだ克哉が土間から床に上がった。

「おじゃましますよっと。さてと、美花ちゃんたちはどこかな」

「それなら屋敷に入ったらすぐに静枝さまのお部屋に向かわれたと思います」

 瑶子が克哉の背に声を掛けた。

 振り返った克哉は愛想よく笑った。

「どうも。ちょっと探して来ますんで、お茶用意してもらえます? 冷たいやつ。あとで取りに来ますんで」

 台所を出て行く克哉にるりあはついて行った。

 しばらく廊下を歩いていると、角を曲がって現れた三人が前を歩いて行くのが見えた。

 克哉はすぐに声をかける。

「美花ちゃん!」

 すぐに美花が振り返った。

「克哉さん、どこに行っていたのですか?」

「車を停めてたんだよ。これからお母さんに会いに行くんだろ? 俺も行くよ」

 だが、その前に立ちはだかる菊乃。

「静枝様は美咲様と美花様だけをお呼びでございます。静枝様にご挨拶なさるのなら、ご家族での話が終わってからになさってください」

 そして、るりあに顔を向けて話を続けた。

「るりあ様も決して邪魔をなさらぬように」

 すぐさまるりあは克哉の背に隠れた。

 克哉はるりあを抱きかかえた。

「そういうことなら俺らは退散しますか。台所で茶でも飲んで待ってますよ」

 るりあは駄々をこねるように足をじたばたさせたが、克哉は構わす抱きかかえながら歩き出した。

 しばらく歩き、三人の姿を見えなくなったところで、克哉が悪ガキのような顔をして口を開いた。

「お前も気になるんだろ。俺も気になるよ、静枝さんとやらも早く見たいし、帰って来た娘にどんな話をするかもな」

「降ろせ男」

「降ろしてもいいが、秘密の場所に連れてってやんないぞ?」

「なんだそれ?」

「いっしょに来ればわかるさ」

 克哉は屋敷の中を歩き出した。まるで道を知っているようだ。

 廊下を歩き、なにかを探すように克哉は辺りの壁を調べた。

「見取り図は頭に入ってるんだが、地図と実際の道は違うからなあ。あった、あったこれだ」

 木目の壁が開く。一見してただの壁だが、実は隠し戸になっていたのだ。

「お前なんで知ってる?」

 るりあは克哉を睨みつけた。

「恐い顔しなさんなって。企業秘密ってことで勘弁な。お嬢ちゃんと俺だけの二人だけの秘密だぞ、そういう秘密ってわくわくするだろ?」

「…………」

「しないのか。まあいい、とにかくほかの奴らに見つからないうちに、さっさと上がっちまおう」

 上へと続く階段。この屋敷に二階はない。そこにあるのは屋根裏だ。

 埃だらけの屋根裏部屋。長らく使われていなかったらしく、積もった埃に足跡一つ無い。

 克哉は唇の前で人差し指を立てた。

「静かにな。下にいる奴らに気づかれないように」

 屋根裏を歩きながら克哉は古びた手帳を取り出した。そこに書かれた何かを頼りに、ここで何かを探しているようだ。

 克哉の足が止まった。

 静かに床に這いつくばり、床の埃を払った克哉は、なにかを指差した。

 近くでしゃがみ込んだるりあはそれを見た。小さな穴だ。天井に開いた小さな穴。

 まず克哉がその穴を覗き込んだ。すぐに顔を上げて、指でその穴を覗き込むように仕草で示した。

 るりあは穴を覗き込んだ。

 見える。

 屋敷の中だ。

 そこはちょうど静枝の部屋の真上だった。

《4》

 驚いた顔をする美花。

 平然としている美咲。

 車椅子に拘束された静枝は沈痛な面持ちだった。

「しかし助かる方法はあるわ」

 その方法を静枝が口にする前に、美咲が口を挟む。

「そんな方法があるなら、なぜ叔母様はこの世にいないの?」

「その方法のために妹の静香は死んだのよ」

 かつて静枝も美咲と美花のように双子の姉妹だった。

 しかし、生き残っているのは……。

「ひとりしか生き残れないのよ」

 重く静枝は口にした。

 美咲は衝撃を隠せない。

「どうしてですか!」

「わたくしの言うことをしかと聞きなさい。生き残る方法は、双子の片割れを殺し、その肝を喰らわねばならないからなのよ」

「ッ!?」

 静枝の話に美咲は絶句した。

 まったく美咲は表情を崩さなかった。

 静かに静枝は話を続ける。

「かつてわたくしも静香と殺し合いをすることになったわ。思い出したくもない記憶。そして生き残ったのはこのわたくし。急速な老いは実際に止まり、話は本当だったのだと実感したわ」

「そんなことわたしにはできません!」

 正座をしていた美花が急に立ち上がった。我慢ならなかったのだろう。そんな辛い運命、受け入れろというほうが無理だ。

 静枝は頷いた。

「姉妹を殺し、喰らった母を軽蔑する?」

「軽蔑するわ」

 と吐き捨てたのは美咲だった。そしてさらに続けた。

「自分が生き残りたいがためにそうしたなら」

「まかさ美咲さんからそんな言葉を聞くとは思わなかったわ」

 少し静枝は驚いたようだ。そして微笑んでいた。

「過去についてわたくしは何も弁解することはないわ」

 口を閉ざす静枝に美花が身を乗り出した。

「お母様はそんなひとではありません。だってわたし覚えてます、叔母様との思い出を大切にしていることを」

 美花がこの屋敷を出る以前のこと。瞳に映っていた母――静枝との思い出。それは櫛で髪を梳いてくれる母の姿だった。髪を梳きながら母はこんなことを言ったのだ。

 ――この櫛は元々静香の物だったのよ。

 遺品。

 それを手元に残して真に理由はなにか?

 静枝の心の内はわからない。

「事実はどうあれ、わたくしは喰らったのだから。しかし、それは大きな過ちだったわ。なぜなら……」

 急に静枝の目つきが変わった。

 狂気。

 狂気。

 狂気。

 血走った狂った瞳。

 静枝は乱杭歯を剥き出しにして激しく身を乗り出した。

「姉妹の血肉を喰らえば、その先に待っているにはさらなる地獄よ!」

 躰を拘束しているベルトが軋む。

 激しく躰を揺さぶる静枝は車椅子ごと転倒した。

「キャハハハハハハ、殺し合いなさい! さあ殺し合うのよ!」

 静枝に駆け寄ろうとした美花を美咲が手を出して制止させた。

「狂人の発作になんて構う必用ないわ。行きましょう」

「でも……」

「車椅子なら外で待ってる菊乃が直すわ」

 美咲は無理矢理に美咲の腕を引っ張って部屋をあとにした。

 るりあが覗き穴から目を離すと、横で聴診器を使って聞き耳を立てていた克哉が立ち上がった。

 克哉は屋根裏部屋の奥にある椅子や机などを指差して移動を促した。

 埃だらけの椅子に腰掛けた克哉。るりあは前でじっと立っている。

 屋根裏の小窓を開けた克哉は懐から煙草を出して口に咥えた。

「ありゃ完全に狂ってるな。妹と殺し合いをした挙句、その肉を喰らったら嫌でも狂うか」

 火を付けた煙草から煙が舞う。

 るりあは嫌そうな顔をして煙を払う。

 意地悪をして克哉は煙をるりあに吹きかけた。

 るりあは逃げ出した。

 屋根裏に響く足音。

 克哉は慌てた。

「おい!」

 あまり声は張れなかった。

 それでもるりあは立ち止まってくれた。いや、克哉の声に反応したのではなく、別の声に反応したのだ。それは天井下から聞こえてくる声。

 るりあは近くにあった覗き穴を覗いた。

 そこは美咲の部屋だった。

 同じ顔を持った少女が二人、向かい合って座っている。

「お母さまの話、どこまで本当なのでしょうか?」

 この口調は美花だ。

「本当だとしたら美花は私を殺す?」

「そんなこと!」

「姿形は同じでも心の内では、私は違うことを思っているかもしれないわよ?」

「まさかっ!」

 美花の瞳に映る美咲。その瞳に映る美花。まるで映し鏡。けれど、鏡は表面しか移さない。

 怯える美花に美咲は妖しく微笑んだ。

 そして!

 伸びる繊手。

 か細い首を絞める少女の小さな手。

「お、お姉さま……みさき……う……」

 美咲によって首を絞められる美花。

 しかし美花は抵抗しなかった。

 すっと首を絞められていた手から力が抜けた。

「げほっ……うっ……」

 咳き込みながら美花は呼吸をした。

 まさか姉に殺され掛けようとは、そんな恐ろしいことが起ころうとは。

 しかし、なぜ美咲は途中で手を緩めたのか?

 美咲は眉をひそめて美花を正面から見つめた。

「どうして抵抗しないの?」

「わたしが美咲お姉さまに手を出すなんて、そんなこと絶対にできません」

「…………」

 美咲は苦しげな表情で目を伏せ視線を逸らした。そして、喉から声を絞り出す。

「私に殺されていいの?」

 しばらくの間が合った。

 真剣な面持ちで美花は美咲から目を離さない。

「それが美咲お姉さまのためになるのなら」

「馬鹿ね、美咲は本当に馬鹿者よ。でも……私は美咲を心から愛しているわ」

「ごめんなさい」

「なぜ謝るの?」

「お姉さまが本当にわたしのことを殺そうとしたのだと、少しでも疑ってしまいました」

「謝るのは私のほうよ」

 二人は沈黙した。

 見つめ合い、言葉を交わす代わりに目を交わす。

 だいぶ時間が流れ、美咲が話を切り出した。

「お母様と叔母様は殺し合いなんてしていないわ」

「姉妹を喰らわなければいけないというのは嘘なのですか?」

「いえ、その点についてはなんとも言わないわ。殺し合いはしなかった――いえ、正確に言えば形だけの殺し合いをしたそうよ。そして、最後はお母様が叔母様を喰らった。叔母様がそう仕向けたのよ、自分が殺されるように、そしてお母様が生き残るように」

「そんな話どこで……」

 驚きながら囁いた美花は、あることに気づいた。

 先ほどの出来事。なぜ美咲はあんな真似をしたのか。心から想う美花を手に掛けようとした理由。

「わたしを殺そうとしたのは……っ!」

「それはもう過ぎた事よ。ただ一つ約束して頂戴」

「なにをですか?」

「美咲は私のために命を落とさないで。私も美咲のために命を落としたりしないから」

「はい」

 美花は深く頷いた。

 そして、美咲は先ほどの問に答える。

「あの話はお母様からの手紙で知ったのよ」

「手紙? なぜ手紙で?」

「お母様がいつから狂ってしまったのか、あのような姿で拘束されるようになったのはいつか、わかる?」

「わたしたちが生まれたときには、お母さまは車椅子に縛られていました」

「でも私たちが生まれて間もない頃は、まだ今ほどは狂っていなかったわ。お母様は年々狂っているのよ、美咲が屋敷を出てからはさらに酷くなったわ」

 いつから静枝は狂いはじめた?

 克哉の言葉を借りるなら――妹と殺し合いをした挙句、その肉を喰らったら嫌でも狂う。

 姉妹殺しのその日に狂ったのか?

 美咲が口を開く。

「手紙は私たちがお母様のお腹にいた頃に書かれたものよ。まだそのときは狂っていなかったのでしょうね。でもお母様は自分が狂うことを予測していたわ。手紙に書いてあったのよ、私たちが生まれてすぐに自分を拘束するように指示をしたと」

「それではわたしたちが原因なのですか!?」

「少なくとも私たちの出生が関わっていることは間違いでしょうね。そして、手紙には正常な振りする可能性もあるから、自分の言葉はすべて疑って掛かりなさいですって。でもその手紙だって本当か怪しいじゃない。だから私はすべてを疑うことにしたわ、それなら間違いないもの」

 姉妹が生まれた時に、いったい静枝の身になにが起きたのか?

 美咲の口ぶりから、その詳細については触れられていなかったようだ。

 自分を見つめる美花に美咲はこう付け加えた。

「美咲以外は」

 鏡には心がない。けれど、ひとには心ある。姿形だけを映すなら、鏡にもできること。

 美花は不安が拭えていなかった。

「わたしたちはこれからどうしたら?」

「私たちの家系はずっと姉妹で殺し合いをしてきたそうよ。だれも運命に抗あらがい逃れることができなかったのね。でも私は違う、絶対にそんな運命なんて受け入れるものですか。一〇になれば死ぬ? それが本当かどうか、今までだれか試したことがあるのかしら? なにが真実なのか、それは私にもまだわからないわ。けど流されるままに死ぬ気はないわ。美咲もよ、私と生き続けるのよ。この先、何十年もずっとずっと一緒よ」

「わたし……生きたい。美咲お姉さまとずっといっしょに」

 美花は美咲に抱きついた。

「大丈夫よ美花。お母様は抗ったけど負けてしまった。けれど手紙を残してくれたわ。書かれていたことが事実とは限らないけれど、もう一人に聞けば道が開けるかもしれないわ」

「もうひとり?」

 美花は顔を上げ、潤んだ瞳を美咲に向けた。

「そうよ、お母様は運命に抗い、そのために多くのことを調べていたい。けれど一人では限界だあったのね。そこで呼ばれたのが慶子先生だったのよ」

「慶子先生が? だって慶子先生はわたしたちの家庭教師として呼ばれたはずでは?」

「それは表向き。夕食のあと、慶子先生の部屋を尋ねて問い質してみるわ。美花も来るでしょう?」

「はい」

 るりあが顔を上げると、克哉は階段に向かって歩き出していた。

 こっちに来いと克哉が手で合図してきた。

 るりあは克哉と共に屋根裏を降りた。

 戻ってきた廊下に気配はない。

あんまり姿を晦くらますと不味いからな。まだ静枝さんにも挨拶してないし」

 克哉はるりあの頭に手を置いて、軽くぽんぽんと叩いた。

「今見聞きしたことは俺とお前の秘密だぞ」

 と、言いながら克哉は懐から出した柘榴をるりあに差し向けた。

 るりあは奪うように柘榴を取った。

 それを見た克哉は悪ガキのような笑みを浮かべた。

「受け取ったからには約束守れよ。なんたって、それさっき台所でくすねたもんだからな。これで俺とお前は盗みの同罪ってわけだ」

 何が気に掛かったのか、るりあは柘榴を克哉に返そうと差し出した。

 だが克哉は受け取らなかった。

「だいじょぶだって、盗んだの俺だよ。お前はなにも悪くない、だから受け取っておけよ」

 るりあは少し考え込んだようだが、結局受け取ることにしたようだ。

 また克哉はるりあの頭を軽く叩いた。

「よしよし、い児だ。俺はこれから静枝さんにあいさつしてくるから、またな」

 克哉は立ち去った。

 るりあは逆方向に走り出す。

 足音を立てながら廊下を走り、るりあは台所に戻ってきた。

 台所では瑶子が夕食の準備を忙しなくしている。

「るりあちゃん、その格好どうしたんです? 真っ黒ですよ」

 瑶子に指摘されてもるりあは気にしていないようだが、その服は埃塗れになっていた。屋根裏にいたせいだろう。

 辺りを見回して瑶子は首を傾げた。

「あの方はいっしょじゃないんですか? お茶冷めちゃいますよ」

「冷たい飲みたい言ってた」

「そうでしたっけ? ならいっか」

 るりあは台所から駆け出した。

 勝手口を飛び出して屋敷の外に出る。

 鳥居が見えてきた。

 この場所でるりあはこちら側に来た。

 特に恐れることもなく、るりあは鳥居をくぐって細道を駆ける。

 かつてこの場所で、るりあは美咲に問われたことがある。

 それはいったいなんだったか?

 答えはすぐそこにある。

 るりあは細道を通り祠に足を踏み入れたのだ。

 薄暗く冷たい祠。

 入り口から奥に行くにつれ、光が失われていく。

 るりあは暗い道を進み、突き当たりの手前で止まった。暗い中でも見えているのだ。

 この場所には祭壇があった。何が祭られているのか、何の為に祭られているのか、それはわからないが、ここには秘密がある。

 石造りの祭壇をるりあは動かした。その下から現れた空間。るりあはその中に手を突っ込み、なにかを取り出すと懐にしまった。

 そして、るりあは光に向かって駆け出したのだった。

《5》

 陽はまだ東よりに昇っている。

 克哉は開かれた正面門の前に立ち、なにかを調べているようだった。

「覚悟はしてたが、本当に出られないんだな」

 叩く仕草をした克哉の手は、なにもない空間にまるでぶつかったようだ。ぶつかると言っても、硬いものではなく、柔らかく弾力性のものに当たった感じだ。

 煙草の箱を出して克哉だったが、中身を見てすぐに握りつぶした。

「しまった、長居するならもっと持ってくりゃよかった……ん?」

 視線に気づいて克哉は振り返った。

 そして、少し視線を下に向ける。

 立っていたのはるりあ。なにかを克哉に差し出している。

 克哉は驚いた顔をしてそれを受け取って、まじまじと目と鼻の先で眺めた。

「同じ銘柄だ。どこで見つけた?」

 それは克哉が握りつぶしたのと同じ銘柄の煙草の箱だった。

「あっち」

 と、るりあは短く。

 これだけではわからない。

「あっちまで案内してもらえると嬉しいんだが」

 急にるりあが走り出した。

「おいおい!」

 慌てて克哉も走り出す。

 るりあが克哉を連れてきたのは、あの祠だった。

 祠に足を踏み入れた克哉はライターの火を点けた。

「ずいぶん暗いな、ライターよりも蝋燭のほうが良さそうだ」

 細いライターの火を頼りに奥へと進む。

 銅鏡と香木が備えられている石造りの祭壇。

 るりあは祭壇の下辺りを指差した。

「この下」

 克哉は祭壇を力一杯押した。大の男でもかなり重たい作業だ。

 一息漏らした克哉。

 祭壇の下に現れた空間に火を向けた。

「護符だな。それにこれは……」

 克哉が手にしたのは鞘に収まった短剣だった。

 ふっと克哉は笑った。

「信じてなかったわけじゃないが……これはこのままにしておくか」

 短剣を戻し、ほかの物も調べた。

 額に入れたらセピア色の古ぼけた写真。

 和服を着た一〇代後半とおぼしき女。

「えらいべっぴんだな。立派な角が生えてるのはあれだが」

 写真の女には二本の角が生えていたのだ。

 克哉は視線に気づいて振り返った。角の生えた少女が見ていた。

「べつに角が生えてるのが悪いって言うんじゃないぞ。角が生えてようが、べっぴんには変わりないからな」

 額を収めると、今度は額にも入っていない写真を手に取った。

 振り袖を着た双子の姉妹が写っている。一目見ただけでは美咲と美花に見えるが、写真の裏には万年筆で『静枝』『静香』と書かれていた。

 さらにもう一枚、二人の顔をがよく写っている写真があった。よくよく目を凝らすと、双子の片割れの目の下あたりに二つのほくろがある。ほくろがあるほうが、静枝か静枝か、それは今となってはわからない。なぜなら現在の静枝はほくろの場所に酷い傷痕があるからだ。

 克哉は写真を収めると、祭壇を動かして元に戻した。

「出るぞ、火がもったいない」

 出口に向かって歩き出す克哉。るりあもついて歩いた。

 暗い祠から出ると、外が眩しく感じられる。

 そのまま玄関に向かって歩いていると、誰かが玄関から出てきた。

 美咲だろうか?

 美花だろうか?

「探したわ」

 恐ろしい顔をして少女をつぶやいた。

 首を傾げる克哉。

「俺になんか用ですかい?」

 少女は克哉を押し飛ばして、後ろにしたるりあに飛び掛かった。

 陽を浴びて反射した凶器。

 包丁がるりあに突き刺さろうとしていた!

 慌てて克哉が凶器を持った少女の手首を抑えた。

 玄関から聞こえる悲鳴。

「やめてお姉さま!」

 だとしたら、るりあに襲い掛かったのは美咲だ。

 しかしなぜ?

 包丁の切っ先はるりあの胸の先で震えていた。

 克哉は手首を握る手に力を込め、美咲に包丁を落とさせた。

 すぐに美花が駆け寄ってきた。

「どうして! どうしてお姉さま!」

「答えはわかっているでしょう美花!」

「だからと言って、その子の命を奪うことは――」

「構わないわ! 私たち以外なんて、どうなろうと知ったことではないもの!」

 喚き散らす美咲は手首を掴まれながら暴れた。

 るりあは逃げた。

 渦巻く狂気から逃げ出した。

 無我夢中で逃げた。行く当てなど考えていなかった。この閉ざされた世界に逃げ場などあるのだろうか?

 るりあは勝手口から屋敷の中に逃げ込んでいた。

 そして、自然と足が運ばれていたのは、繭玉の世界。

 いつか慶子から与えたらた鍵で、るりあはこの場所に逃げ込んだ。

 扉の鍵は錠だ。ここには内鍵もなく、窓は天井近くにある嵌め殺しの格子窓。追い詰められれば逃げ場はない。

「助けて……よ……」

 るりあは呟いた。

 部屋中の繭玉が蠢く。

 中でも片隅にあった繭玉は、ほかの物よりも激しく蠢いていた。

 嗚呼、繭が割れる。

 内側から破られた繭玉から、か細く粘液にまみれた人の手が出てきた。

 なんということだ、それは人の形をしているが、人とは呼べない。

 肉は爛れたように崩れ落ち、眼球が床に転がった。

 ぐしゃり。

 不気味な音と立ててそれは床に落ちた。

 それは泥だ。

 肉の色をした泥だ。

 あまりに不完全なままこの世に出てきてしまったモノ。

 その末路。

 か細い呻き声が木霊した。

 息絶えた。

 そこに残ったのは吐瀉物としゃぶつのような肉塊。

「可哀想に」

 女の声がしてるりあは振り返った。

 こんなに間近にいたのに、声を聴くまで気配がしなかった。

 そこに立っていたのは慶子だった。

「無理をさせるからですのよ。ほかの子にはくれぐれも無理をさせないように」

 この一部始終はるりあのせいだというのか?

 るりあは残酷な悲しみを顔にした。

 ここにはいられない。

 逃げ出そうとした小さな背に声を投げかけられる。

「この世界に逃げ場なんてありませんことよ」

 その言葉を無視してるりあは部屋を飛び出した。

 屋敷は広い、庭も広大だ。それでも外の世界に比べれば、なんと狭い箱庭の世界なのだろうか。

 どこへ逃げる?

 どこに隠れる?

 残された選択肢はどのくらいあるのだろう――この箱庭の世界で。

 るりあが逃げ込んだ場所は屋根裏だった。

 昨日、るりあと克哉が足を踏み入れるまで、長らく使われていなかった屋根裏部屋。住人たちもここの存在を知っているのかいないのか。

 この場所に逃げ込んだるりあだったが、すでに先客が待ち構えていた。

 身を強ばらせたるりあ。視線の先にいたのは克哉だった。

「俺は敵じゃあない。無闇に動き回るとすぐに見つかっちまうぞ」

 その言葉、信じてよいものなのだろうか?

 るりあがこの屋敷に来て、およそ二年。美咲に刺されそうになったのは、今日がはじめてだ。

 一寸先は闇。

 二年間起こらなかったことが、今日起きたのだ。

「捨てろ」

 るりあは克哉を睨んで言った。

「なにをだ?」

 心当たりがないような言い方で返した。

「短刀捨てろ」

「そんなもの持ってない」

 無いと答えた克哉をるりあは射貫くように睨んだ。

 溜息を漏らした克哉は根負けした。

「わかったよ捨てるよ。でもな、これは短刀じゃなくて短剣だ。些細に思えるが、俺にとっちゃ重要なことなんだ」

 克哉は隠し持っていた短剣を鞘ごとベッドに放り投げた。

 るりあはその場を動かない。克哉もその場を動かない。

 先に痺れを切らせたのは克哉だ。

「敵じゃあないって言っても、はいそうですか、なんていうのはお人好しのすることだ。でも問題は証明する術がないってことなんだよ。とりあえず俺の言えることは、ずいぶん昔に死んだ野郎の遺言で、死んでもお前を守れって言われてるんだよ、しかもお前も死ぬなだとよ。矛盾してるだろ言ってることが。遺言は遺言なんだが、俺がお前を命張ってまで守ってやる義理はないってのは先に言っておくぞ。でもなるべく助ける」

 語尾を強めて一気に言い切った。

 るりあはまだ克哉を睨んで離さない。

 構わず克哉は歩いた。

 るりあは目で追ったが、それ以上の行動をすることはなかった。克哉がなにをするのか最後まで見守った。

 椅子に腰掛けた克哉は、顎をベッドに向けてしゃくった。

「お前はそこに座れ、短剣もお前が持ってていいぞ」

 言われたとおり、るりあは埃立つベッドに座った。だが、短剣は手にしなかった。

 二人はなにも言わず時間が過ぎた。その間、克哉はるりあから目を離して、床を見たり天井を仰いだりしていた。

 しばらくして、再び克哉はるりあに顔を向けた。

「まず、お前が狙われた理由からだな。美花ちゃんから聞いたんだが、姉妹の片方を喰らわずに助かる方法は、母親とお前を喰らえばいいと助言されたそうだ。美花ちゃんは当然それに反対だそうだ、普通はそれが当たり前だよな、外の常識なら。問題は美咲お嬢様のほうだ、あれはやるぞ、母親も殺すかもしれん」

 助言をしたのは誰だ?

 るりあは黙って聞いていた。

 口を挟まないるりあを確認して、克哉はさらに続ける。

「殺される前に美咲お嬢様をやるか?」

「…………」

「お前がうなずいても、それをやらせるわけにはいかない。遺言でな、美花ちゃんと美咲お嬢様も頼むって言われてるんだ。最終的に選ばなきゃいけなくなったら、お前を優先しろとも言われてるんだが、俺は死人が出ることには反対だ。だからこの案は却下だ。別の方法でお前を助ける」

 なぜるりあが優先させるのだろうか?

 そして、遺言の主はいったい誰か?

 少し克哉は黙り込んだ。また床を見たり天井を仰いだりしている。しばらくして、るりあを見て口を開けたが、その口を閉じて再び別の方向を見はじめた。

 またしばらくして、克哉はるりあに顔を向けた。真剣な眼差しだ。

「俺はこの屋敷から出る方法を知っている」

 さらに言葉を続ける。

「この屋敷の中にも何人かそれを知っている奴がいるはずだ。出られないんじゃない、出ないんだ。そして出さないんだ」

 屋敷の敷地を覆う見えない壁というべき何か。かつてその壁を越えた者がいる――美花だ。

 克哉は前に美花を預かっていた家の息子だと説明した。

「美花ちゃんがうちに来たのは彼女が三歳のときだ。美花ちゃんの話によれば、姉妹が三歳を迎えたあとの特定の日、その日に限って外に出ることができると説明されたらしい。実際は大嘘なんだがな。この屋敷の住人は、あることをすることによって外に出ることができる。例外も一人だけいるそうだが」

「あいつ姿たまに見えない」

「菊乃だろう?」

 るりあは首を振った――横に。

 驚いた顔をする克哉。

「違うのか?」

「もうひとり」

「それは知らなかった。もうひとりいるのか?」

「あいつ」

「あいつじゃあ、わからないだろう。それはだれなんだ?」

「女」

「この屋敷は女しかいないだろう」

 静枝、美咲、美花、瑶子、菊乃、慶子。

 克哉は小さく頷いた。だれかわかったのだろうか?

 そして、今度は大きく頷いた。

「この話はあとにしよう。肝心な出る方法なんだが、それは……」

 るりあが克哉に飛び掛かった。

「言うな!」

 大の大人が押し倒された。天井に響く物音。

 克哉は苦しげに顔を歪めた。掴まれた胸が肉ごと持っていかれそうだ。

「離せ、言わないから離せ! これ以上やるとガキでも承知しないぞ!」

 怒号が響く。

 るりあは克哉を睨みつけながら飛び退いた。

 肌着に滲む血。爪の痕だとすぐにわかる。克哉は傷を押さえた。

「お前、知ってるな?」

「…………」

「わかった、この方法はなしだ。そうなると、俺もどうやって外に出るか。さっきの話に戻していいか、もうひとりって誰なんだ? そいつに話を聞けば外に出る方法がわかるかもしれない」

「せんせい」

「先生って呼ばれてるんだな? やっぱりあの女先生か。意外というか、あの先生の情報はほとんどないからな、鍵を握ってるとは……たしか美花ちゃんと美咲お嬢様が話していたな」

 運命を抗う術を調べていた静枝が一人では限界を感じ、そこで呼ばれたのが慶子だった。

 克哉は手帳を広げてなにかを確認した。

「女先生の部屋はあっちだな。お前も来るか?」

 るりあは首を横に振った。

 離れにある慶子の部屋を克哉は覗いた。

 西洋風の作りになっている部屋で、眼鏡を掛けた慶子が本を読み耽っている。

 克哉はるりあに耳打ちをする。

「お前は穴から覗いてろ、俺一人で話を聞いてくる」

 天井裏にあるのは覗き穴だけではなかった。天井板が外れ、部屋に侵入できるようになっていたのだ。

 克哉はそこから慶子の部屋へと降りた。

《6》

 慶子は息を呑んで目を丸くした。

「まあ、どこから入っていらしたの?」

「ちょっと緊急だったもんですみませんね」

 克哉はわざとらしく頭を掻いた。

「急用ですの?」

「そうなんで直球でお伺いしますが、姉妹にるりあを喰えば助かると吹き込んだのはあなたでしょう?」

「あたくしはただ研究の成果を教えただけで、吹き込むという言葉は悪意を感じますわ」

「研究の成果とおっしゃいましたが、証拠や根拠はおありで?」

 問い詰める克哉。

 本を閉じた慶子は眼鏡を直した。

「あの子は鬼ですわ」

「るりあですか?」

「ほかにいます?」

「あの子はこの屋敷でもっとも鬼らしくないと思いますがね」

「おほほほ、おもしろいことをおっしゃいますのね」

 慶子は破顔した。

 そして、慶子は妖しい笑顔で克哉を眼鏡の奥から見つめた。

「あなたは鬼をどのようなモノとお考えですの?」

わざわい、疫病、見えざる力、死んだ人間、霊魂がそうなら、生き返った動物もすべて鬼ということになりますかね」

「あなたご職業はなんですの?」

「ただのルポライターですよ。名刺は切らせちまってるんで勘弁を」

 二人とも柔和な顔をしているが、眼の奥は少しも笑っていない。

 慶子は話の続きをする。

「鬼を喰らうのはあくまで緊急処置に過ぎませんわ。鬼の妖力を得ることによって、呪いを騙すとでも言うのでしょうか」

「つまり、美花ちゃんたちが衰えていくのは、なにかが欠けているからだと? それを補うために本来は姉妹を喰らわなければならない。しかし、今回はるりあでそれを代行しようとしていると?」

「それで足りなければ静枝さんを。もしかしたら、静枝さんを二人で分けるだけでも、平気かもしれませんわ。ただこればかりはやってみなくては、わからないのですの」

「仮説を実験で立証するわけですか。無駄死にもありえると?」

「一つの生命を生かしているのは、多くの死ですのよ。今朝の朝食には卵がありましたわね。姉妹二人の命を長らえさせるのに、一人か二人の死でいいのなら、安いと思いますわ」

 食物連鎖と死の尊厳。

 克哉は冷たい汗を拳で握った。

「あなたも信じてるんですか、美花ちゃんや美咲お嬢様が、このままなにもしなければ数年で死ぬって」

「さあ、それは立証されてませんもの。過去にそれをやったという記録は、残念ながらこの屋敷には残っておりませんでしたわ」

 そして、慶子は妖しく笑って話を続ける。

「もしかしたら、急速な老いも七歳から八歳ごろになると、自然と回復するのかもしれませんわ。姉妹で殺し合って、血肉を喰らう行為は無意味。時期的な偶然が重なり合っていると言うことも考えられますわ」

「もしもそうなら、馬鹿げた迷信に振り回されていることになりますね」

「ええ、本当に哀れな一族ですわ」

「本当なら」

「ええ、本当なら」

 ただただ残酷だ。すべてが無意味なら、なんと残酷なことをしてきたのか。取り返しのつかぬ過ちだ。

 慶子はこの上なく妖しく微笑んでいた。

「しかし、双子の女児が代々生まれ、老いが常人よりも早い怪異は事実。姉妹の肉を喰らわなくても平気という証拠もありませんのよ」

 克哉はだんだん苛立ちはじめていた。

「女先生、呪いを解明しに来たんでしょう? なんでもかんでも証拠や確証がないって言うんですか?」

「いくら理屈をこねても、実験をしなくては立証できませんの。そして、実験が行われた結果、一族の血脈が途絶えても、やり直しはできませんのよ?」

「その通りですよ、女先生。だからるりあの命も奪わせるわけにはいかないんですよ。たびたび女先生は屋敷の外に出られているそうですが、どうやって出てるか教えてくれませんかね?」

「あの子を外に連れ出すつもりですの?」

 話の流れからしてそうと思われるの当然。実際そうなのだから。

「俺としたことが感情的になっていたようで、るりあの話から切り出しちまいましたけど、そうですよ、るりあを外に連れ出して逃がします」

「あたくしが協力するとお思いですの?」

「それは難しいところですね。るりあを喰えと吹き込んだのはあなたですし」

「難しいとわかっていて聞きに来るなんて、図々しいのか、切羽詰まっていらっしゃるのかしら。あたくしの口から言えるのは、そんな方法など存在していないということ」

 言葉の真意は?

 克哉は問い詰める。

「外に出る方法は、重要な秘密なのはわかってますよ。あなたがうそをつくのも当然です。が、俺は一つの方法を知ってるんですよ」

「ならその方法をお試しになられて」

「別の方法を探してるんです」

「別の方法なんてありませんわ」

 急に慶子は克哉に背を向けた。

 克哉は慶子に手を延ばす。

「まだ話は終わって!」

この家の氏うじは鬼塚」

 慶子は克哉を無視して勝手に話をはじめてしまった。

「鬼塚とはつまり、平たく言えば鬼の死体安置所ですの。代々この家が鬼を使役しているのはご存じかしら?」

「さあ、知りませんね」

「うふふ」

 なぜか慶子は笑った。

 そして、また唐突に別の話をはじめる。

洋燈ランプの魔神をご存じ?」

「大抵の場合は、罪を犯した魔神がランプに閉じ込められ、次々と変わる所有者の願い事を規定数叶えないと、自由の身になれないってあれですかね」

「あなたが言う通り、死んだ人間が鬼なら、鬼塚に鬼は増える一方ですわね」

「さっきからあなたはなにが言いたいんですかい?」

「かえるべき場所があるのなら、そこにかえさないと鬼は増える一方と言っておりますの」

 二人が話していると、部屋の扉が大きな音を立てた。扉を叩くというより、激しく殴っているようだった。

 扉の向こうから声が聞こえる。

「大変です! 静枝さまが静枝さまが!」

 瑶子の声だ。

 落ち着いた物腰で慶子は歩き扉を開けた。

 部屋に飛び込んで来た瑶子が慶子にぶつかった。だが、謝罪の言葉はなかった。

「静枝さまが……ッ!?」

 眼を剥いた瑶子が口から血の泡を吐いた。

 ゆっくりと倒れた瑶子。

 その背後には血のついた包丁を握る少女が立っていた。

 慶子は平然と――いや、この場合は平然ではなく冷酷といえるだろう。表情ひとつ崩さず狂気に染まる少女を見据えていた。

「どうしかしましたの、美咲さん?」

「美花は? るりあもいないわ」

「いっしょに探しましょうか? でもその前に、お口は綺麗に拭いたほうが良いですわ」

 言われて少女は真っ赤な口を袖で拭った。

「さらに不味いことになったらしい」

 克哉は屋根裏でるりあに耳打ちした。

 屋根越しの足下には、まだ慶子と美咲がいる。二人が目を離した隙を突いて克哉は屋根裏に戻ってきたのだ。

「ここも時間の問題だ。急いで逃げるぞ」

 克哉はるりあを背負おうとしたが、それを拒否してるりあは先に進んだ。

 屋根裏を降りて、美咲と出くわさないように、廊下を急ぐ。

「こっちだ」

 と、克哉はるりあを誘導しながら走った。

 二人は屋敷を出た。

 向かったのは屋敷の脇に停めてあった克哉の車だ。

 るりあは克哉によって助手席に押し込まれた。

「いや!」

「俺だって嫌だ。美花ちゃんを置いていくことになるんだからな。だが美花ちゃんは殺される心配はない。となるとお前をどうにしかしなきゃならんだろ!」

「…………」

 大人しくなったるりあを助手席に乗せ、スバル360は走り出した。

 すぐに正面が見えてきた。固く閉ざされている。一度車から降りなくては先に進めない。

 下車した克哉は門を開く。扉が中心から左右に口を開け、外の世界が見えた。

 再び車に戻った克哉はゆっくりとアクセルを踏んだ。

「うっ!」

 呻いた克哉。横では同じくるりあも苦しそうにしていた。

 胸を締め付けられる感覚。

 見えない壁と座席に板挟みにされ、押しつぶされる。

「馬鹿な……外に出られる筈じゃないのか……」

 車ごと後ろに引きずられている。正確には、るりあと克哉を釣り針にして、車ごと動いているのだ。

 まるで屋敷に手繰り寄せられている。

 屋敷を囲う見えない壁など存在していなかった。

 そこにあるのは引き戻す見えない力だ。

 座席との磔から解放されたるりあは車から一目散に飛び出した。

 克哉がるりあの背に手を延ばす。

「待て!」

 るりあは待たなかった。

 向かったのはあの鳥居だ。

 すぐ後ろから克哉が追ってくる。

 細道を進み祠の中へ。

 闇に灯る明かり。祠の中には先客がいた。二人の影。

 燭台を持つ菊乃と、壺を大事そうに抱える――。

「美花ちゃん?」

 と、克哉はつぶやいた。

 少女は鋭い眼をして首を横に振った。

「美咲よ」

 克哉はすぐにるりあの手を引いて祠から出ようとした。

 しかし、るりあはその場から動かない。

「逃げるぞ!」

 再び克哉は手を引いて、出口に首を向けた。

 遠い向こうになにかが見える。

 鳥居の先で小さな影がうろついている。その手元でなにかが妖しく輝いている。よく見えないが、おそらく刃物。

 驚いた克哉は祠の中と外にいる少女を見比べてしまった。

 ――同じ。

 外にいる少女がこちらを向きそうになり、克哉はるりあを押して祠の奥に飛び込んだ。

 るりあの目の前に美咲。だが、美咲はるりあに手を出そうとしない。

 克哉は眉をひそめながら美咲を見つめた。

「ほんとに美咲お嬢様か?」

 頷いたのはるりあ。

 美咲は微笑んだ。

「お前を殺そうとした相手の顔は見分けられるようね」

 やはり美咲はるりあを狙っていた。

 菊乃が三人を奥へと促す。

「まだ出ない方が良さそうでございます。どうぞ中へお進みくださいませ」

 四人は祭壇のある突き当たりまで進んだ。

 美咲を警戒しているのは、るりあよりも克哉だった。その物腰と雰囲気、向けられている視線に美咲も気づいたようだ。

「私を警戒しているの? そんなに私は殺気めいたものを放っているかしら?」

「るりあを殺させはしないぞ」

「もうどうでもいいわ、そんなこと」

「ん!?」

 克哉は驚いた。

 るりあが逃げ出さなかった理由はこれかもしれない。襲われたときとは違う、美咲の雰囲気を感じ取っていたのかもしれない。

 なにが美咲に心境の変化を与えたのか?

 外にいる美花が関係しているのかもしれない。

 克哉は美咲と菊乃に視線をやった。

「静枝さんになにかあったそうだな?」

「死んだわ」

 美咲が冷たく言い、さらに続ける。

「美花に殺されたの」

 それを聞いた克哉は驚かずに、複雑で、悲しげな表情をした。

「まさかと思ったが……瑶子ちゃんを殺したのもそうすると……」

 その言葉と重なるように、美咲もなにかをつぶやく。

「美花だったものに……」

 だったもの?

 ここで菊乃が口を挟む。

「見抜けなかったわたくしにも責任がございます」

「なあ、いったい美花ちゃんになにがあったんだ?」

 と、克哉は美咲と菊乃の顔を交互に見た。

 美咲は祠の外へ向かいながら口を開く。

「美花の皮を被った化け物がいるということよ。いつからあれは美花ではなかったのかしら。この屋敷に美花が帰って来てから、それとも外の世界で、あるいは生まれた時にはすでに?」

 克哉は美咲を追う。

「馬鹿な、俺の知ってる美花ちゃんは!」

「演技だったのかもしれないわ。双子の私を騙すくらいですもの!」

 激しい怒り。美咲は怒号を祠に残し外に出た。

 細道を進み鳥居をくぐると、美花が待っていた。手には血塗られた包丁。

 美花が向けてきた凶器を受け流す美咲のこの上ない妖しい笑み。

「これが欲しいのでしょう?」

 そう言って美咲は持っていた壺のふたを開け、逆さまにして中身を地面にぶちまけた。

 ぼと、ぼとぼと……。

 不気味な音を立てて落ちた肉。

 薄紅色のそれはまだ動いていた。

 幾つもの、幾つもの心臓。

 壺の中に入っていたのは生きた心臓だった。

 美花が限界まで眼を剥いた。

 高く上げられた足が心臓をひと思いに踏みつぶそうとしている。

 菊乃が叫ぶ。

「それは危険でございます美咲様!」

 だが――遅かった。

 耳を塞ぎたくなるほどの絶叫。

 それとほぼ同時、屋敷が天から巨大な足で踏みつぶされたように潰れた。

 屋敷の一室で崩れる天井を見上げながら横たわり、全身の殺傷痕から染み出した血で彩られた慶子は、艶笑を浮かべながら呟く。

「嗚呼、魔法の洋燈ランプが甘美に喘ぎなから壊れる」

 屋敷の外では突風が吹き荒れた。

 禍々しいほどの風。

 かまいたちがるりあの頬に朱い一筋を奔らせた。

 吹き荒れる風が呪詛めいた音を鳴らしている。

 眼を剥いたまま仰向けになって息絶えている美花。

 克哉、美咲、菊乃は地面に這いつくばって、なにかに身動きを封じられているようだった。

 無理矢理に立ち上がろうとした菊乃の肩が外れた。一度立ち上がったが、片膝をついてしまった。全身が重く重力に引っ張られているようだ。

 それでも菊乃は歩こうとしていた。

「狙いはやはり……怨念がるりあ様に……」

 菊乃の声は芯こそしっかりしているが掠れている。

 どうにか顔だけを動かせた克哉は、その視線をるりあに向けた。

「どうなってやがる!?」

 いったいなにが起きたのか?

 あまりのも突然で、あまりにも理不尽な力。

 るりあと菊乃の眼が合った。

 ひねり潰すという言葉があるが、今起きたことは言葉一つ一つの意味のまま。

 るりあによって菊乃の腕や脚や胴体がひねり引き千切られ、一瞬のうちに丸めて潰された。なんと無残なことを。だが血は一滴も出なかった。そして、ひねり潰されてもなお、菊乃は生きていた。

「……さま……やつらの……うを……」

 途切れ途切れだった言葉は、完全に途切れた。菊乃はもう動かない。

 恐ろしい眼をしたるりあは跳躍し、美咲に飛び掛かり心臓を手でひと突きにした。

 美咲は絶命した――心臓を喰らわれながら。

 血だらけの手と口で肉を貪る幼女の姿。

 まさにそれは鬼だった。

 克哉はるりあと眼が合った。

 行っている業に反する哀しげな表情。るりあは泣いていた。

「嗚呼、記憶が蘇る……おらは……なんということを……」

 血に染まった両手を涙が落ちる。

 今のことが嘘だったように、るりあは眼を血走らせて憤怒の形相を浮かべた。

「お前の苦しみはわしたちの慰めじゃ!」

 その声はたしかにるりあの喉から発せられていた。だが、るりあには似てもぬつかない、野太く嗄れた声だった。

 屋敷から猛烈な速さで巨大な影がやって来る。

 巨大な蜘蛛だ。

 ひとを喰らえるほどの大蜘蛛がるりあに向かって糸を吐いた。

「おのれ、化け物の分際で小癪な!」

 またあの声でるりあが叫んだ。

 その間に克哉は地面を這いながら落ちている心臓の山に向かっていた。

「こいつをどうにかすれば……あと少し」

 あと少しで心臓に手が届く。

 糸に藻掻きながらるりあが憤怒する。

「ぬううう……そうはさせるかぁぁぁっ!」

 まるで時が止まったようだった。

 風が静まり。

 その場にいた全員が息を呑んで動きを止めた。

 焦りを浮かべるりあは振り返った。

 動き出した時の流れ。

 鳥居の先で空間が渦巻いている。

 それはるりあがこちら側に来たときに似ていた。いや、それよりも大きく巨大な渦だ。

 風が泣き叫んだ。

 吸いこまれる。

 小さな屋敷の破片が空間の渦に吸いこまれた。

 次にるりあが――!

 最後の瞬間、るりあは克哉と瞳を交わした。

「克哉!」

 それは儚げな女の声。

 克哉は地面に爪を立てた。下半身はすでに浮いてしまっている。持ちこたえることはできなかった。

 渦は克哉をも呑み込んだ。

 そして、大蜘蛛も、巨大な屋敷すらも。

 なにもかも、なにもかも。

 やがて静まり返った世界に残されたのは、広大な荒野にぽつりと佇む鳥居のみ。