あやかしの棲む家
第6話 黙して語らず
《1》
それは運命の糸が紡がれはじめた刻。
自らの尾を飲み込んだ蛇に始まりも終わりもない。
今や出口はなく、この地に囚われて、何度目の朝焼けを迎えただろうか。
開いた小窓から屋根裏に差し込む光は、横たわる冷たい少女の頬を照らした。
まるでその少女は屍体――否、ただの人形のようだ。
男は力強く問うた。
「自分の名前がわかるか?」
少女は瞳を閉じたまま、ぴくりともしない。
「生きろ、お前は生き物だ。目を開けろ、お前は生きている」
さらに男は力強く言ったが反応はなかった。
突然、赤子の泣き声が屋根裏に響いた。
目を丸くした男は慌てて、ゆりかごで寝かされていた赤子に駆け寄った。
赤子は二人。双子の姉妹だった。
「なんだ、どうしたどうした? なんで泣いてるんだ?」
男は双子を交互に持ち上げながらあやす。
「漏らしてはないな……ただの夜泣きか?」
考えていると、ぴたりと赤子が泣き止み、男は首を傾げた。
気配がする。
双子の赤子、自分自身、そして第四の気配。
強ばった真顔で男は振り返った。
男の瞳に歓喜と共に起き上がる少女が映った。
「や……ったぞ。まさか本当に……まだだ、重要なのはこれからだ」
急いで駆け寄った男は少女の手を力強く握った。
冷たい少女の手が男の温かい手で温められる。
「自分の名前がわかるか? 思い出すんだ、重要なことだ。生きているお前には生きている名前が必要だ」
「…………」
「お前の名前には花の名が使われている。どうだ、思い出せないか?」
「…………」
「名前のはじめは『き』だ」
「…………」
少女の瞳には光が差しているが、とても弱い。
男は少女を抱きかかえ、顔と顔を間近で向き合わせた。
「生きている記憶が必要だ。なんでもいい思い出せ、頼むから生きてくれ」
懇願。
だが、虚しくも少女の瞳から色が消え、ふっと魂が抜けたように力が抜けた。
「菊乃!」
魂の雄叫び。
男は其の名を呼んだ。
少女の名は菊乃。
瞳を彩る色が輝きはじめた。
少女がつぶやく。
「……菊乃」
半信半疑で確認するように、少女は自分の名すら覚えていないようだった。だが、反応したと言うことは、記憶の琴線に触れたのだ。
記憶は神経が張り巡らされた糸ように構成されている。記憶から記憶へと伸びる糸の数、太さ、それらによって一つの記憶から、多くの記憶を呼び起こせるかもしれない。
「そうだ、お前の名前は菊乃だ。ほかになにか思い出さないか?」
「…………」
少女は首を振り言葉が途切れる。男は急いで言葉を紡ぐ。
「思い出さなくても良いこともある。重要なのは今生きていることかもしれないな。俺の名前は克哉だ」
「……克哉……克哉様?」
「思い出したかっ!?」
「いいえ、けれどあなたのことを知っているような気がする」
なぜか克哉は気まずそうな顔をして、菊乃から視線を外した。そして、話題を変えるように、双子の姉妹に歩み寄る。
「娘たちのことは覚えているか? 右にいるのが姉の美咲、もうひとりが妹の美花だ。俺の名前は忘れてもいい。二人の娘の名は心に刻んでおいて欲しい、いつか……」
言葉は切られた。
菊乃がじっと克哉を見つめている。なにか話したそうにしているのではなく、ただじっと見つめているだけ。
迫られたように克哉は口を開く。
「ほかに話すことは……そうだな、妻は死んだ。娘を生んで死んだんだ……」
うつむいた克哉の表情は、悲しみではなく怒りに満ちていた。顔を上げたときには、その表情は消えていた。
「いろいろと考えてみると、説明することも多いな。どれから順を追って話せばいいのか、なにか聞きたいことはあるか?」
「……ありません」
「聞かれても困るか。まず話すことは、もっとも重要なことだが、無闇に屋根裏を出ないで欲しい。ここは屋根裏部屋なんだが、この屋敷でもっとも安全な場所なんだ。今は静まっていて、ほかの場所もそれほど危険ではないと思うが、それでも無闇に歩き回れば危険を招く」
「なにが危険なのですか?」
聞かれて克哉はすぐに答えなかった。
言葉に詰まったのではなく、なにやら考え込んでいるようだ。
「……鬼だ」
と、克哉は短く言い放った。
「鬼?」
少女は少し驚いたような声を出したが、表情は乏しい。
「鬼と一口で言ってもいろいろいる。死人をすべて鬼という場合もある。この場合はそれだろうな。やつらは悪霊の類だ。死んでこの地に取り憑いている――俺に殺されて」
やつらと呼ばれた者たちは、克哉によって殺された。
なぜ殺されなければならなかったのか?
なぜ悪霊になったのか?
そんなモノがこの屋敷に本当にいるのか?
克哉は真剣な顔をしていた。
「俺のこと、気が狂れていると思ったか?」
「いいえ」
「いや、俺はきっと気が狂れている。だが、やつらは本当に存在している。そして俺はやつらに呪われている。呪われているのは俺だけじゃない。やつらは末代まで呪う気でいるだろうな。正確に何代先の子孫かはわからないが、だいぶ先の子孫もおそらく呪われていたんだろうと思う」
少しおかしな言い方がされた。菊乃がそこに触れることはなく、克哉の言葉は流された。
そして、菊乃が相づちを打つこともなく、克哉は話を続けることにした。
「まさか呪いの原因が俺だったとはな。けど、不思議だと思わないか? 元を辿ればその呪いのせいで俺はここにやって来て、呪いを生み出すことになった。例えるならこうだな。自分が生まれる前の過去に遡って、自分が自分の両親を殺すとする。そうすれば俺は生まれなくなるから、両親は死なずに済む。両親が死ななければ自分が生まれて、過去に行って両親を殺す。時間というのは不可逆であるはずだから、初まりと終わりがちゃんとある。今の例えはありえないものの例えだが、もし本当に起きてしまったとしたら、初まりと終わりはどこへ行ってしまうのか?」
克哉と菊乃は顔を見合わせた。
しばらく見合わせていた。
急に克哉は噴き出して笑った。
「すまない、変な話をしちまったな。昔はこうじゃなかったんだが、いつの間にか小難しく考える質になったんだ。いろいろあったせいだろうな」
「いろいろですか?」
珍しく合いの手が入ったことで、克哉はすぐに答える。
「いろいろとあった。多くの謎や疑問、これから自分はどうするべきなのか。過去は未来に干渉できる……のか。未来もまた過去に干渉できるとしたら、それはもはや未来が過去を変えたのではなく、予定調和だったのではないか。ああ、すまない、また変な話をしてしまった。この話は時期を見て少しずつしよう、今はそうだな、これからの生活について、俺と二人の娘たち、そして菊乃を入れた四人で、この屋敷で生きていく話をしよう」
克哉が屋根裏部屋の机に向かい雑記を書いていると、階段を何者かが上がってきた。
振り向いた克哉。そこには菊乃がいた。
「早すぎるな。買い出しに行く前になにかあったか?」
「庭先に女が紛れ込んでおりました」
「里からも遠いし、屈強な男でも恐れて近づかないような土地だ。そんな場所に女なんて、おかしな話だな。で、その女はどうした?」
「発見したときには気を失っていたので、庭にある木に縛り付けて置きました」
「困ったな。気を失ったまま、里に捨ててくるのが最良だが……」
克哉は椅子から立ち上がって、机の引き出しからなにかを出した。
「縛り付けた木まで案内してくれ」
屋根裏を降りて玄関に向かう。
廊下を走る物音が響いた。足音は二つだ。
克哉が振り返った。
「大事な用があるから、絶対について来ちゃ駄目だぞ。お父さんがいいって言うまで屋敷の中から出ても駄目だ。わかったね?」
言って聞かせたのは双子の姉妹だった。見た目で判断するなら、年の頃は四歳くらいだろうか。
「おそとであそぶのー」
駄々をこねたのは美花のほうだ。
困った顔をする克哉。
救いの手は美咲から伸ばされた。美咲は美花の着物の袖をつかんだ。
「おとうさまをこまらせてはだめよ。あっちであそびましょう」
双子だが、妹の美花よりも大人びている。加えて見た目よりも、口調が大人びている。
不満顔の美花が美咲によって廊下を引きずられていく。それを見届けてから、克哉は改めて玄関を出た。
屋敷に出てすぐに二人は顔に面を被った。木彫りの恐ろしい鬼の面だ。
そして、庭の木に縛られているという女の元へ向かった。
女はまだ気を失っているようだ。
克哉はその女の顔を見て息を呑んだ。女は若い娘だった。
鬼の面を付けたまま菊乃が克哉に顔を向ける。
「どうかなさいましたか?」
「この子のことは知ってる。まさかここで出会うなんて思わなかった。素性の掴めない謎の使用人だったが、ここで会ったということは、少なくとも人ではないだろう」
「人にあらずなら、なにでしょうか?」
「さあ、人でないという確証も今得たばかりで、正体まではわからない。敵か味方かもわからないが、少なくとも当分はこの屋敷で俺たちに仕えてくれると思う」
二人が話していると、気を失っていた娘の閉じたまぶたが微かに動いた。
「う……うう……」
呻きながら娘がゆっくりと目を開ける。
目を開けた途端、視界に飛び込んできたのは二匹の鬼の顔。
「きゃーっ!」
思わず娘は悲鳴をあげた。
座った状態で木に縛られている娘は、自由な足をばたつかせて砂埃を立てた。
「助けてください、どうか命だけは堪忍してください!」
怯える娘。
克哉は笑いながら面を外した。
「あははは、すまない。脅かして済まなかった、俺は鬼でもないでもない。お前を取って食う気もない」
そう言いながら克哉は娘の縄を解いてやった。
自由になった娘はまだ怯えているが、すぐに逃げようとするそぶりは見せなかった。じっと目を離さないように克哉と菊乃を見据えている。特に菊乃を警戒しているようだ。その理由は――。
克哉が気づいた。
「菊乃、鬼の面を外してやってくれ、この子が警戒してる」
「はい」
鬼の面を外して素顔を晒した菊乃。表情には乏しいが、一見すればただの少女。
自分と同い年くらいの菊乃を前にして、娘は少し安心したようだ。
「なんなんですか、あなたたち?」
「それはこっちの台詞だ」
返したのは克哉。
滅多に人の寄りつかない場所にある屋敷に現われた娘。人が寄りつかない――克哉の言葉ではこの娘は人ではないが、それでもなぜここにいるのか疑問を抱かずにはいられない。
娘は困った顔をした。
「……あたし……あたしだれですか?」
普通ならしないような質問だ。そのような質問をするとしたら、考えられるのはこうだろう。
「記憶がないのか?」
と、克哉が尋ねると娘は頷いた。
「名前も思い出せません」
「そうか、ならお前の名前は仮に瑶子にしよう」
「いい名前ですね! まるでそれが本当の名前のような気がします」
「記憶を失ってさぞ大変だろう。良かったら記憶を取り戻すまで、この屋敷にいるといい。ただし、家の仕事などはしてもらわないと困るが」
「ありがとうございます! あなたのような良い人に出逢えて良かったです!」
記憶を失っているというのに、落ち込むことなく明るい娘だ。
菊乃が冷静な視線で瑶子を刺した。
「本当に記憶喪失でございますか?」
「本当ですよ、疑うなんて酷いですよ!」
記憶喪失が本当と嘘か、それを他人が判断するのは難しい。
菊乃に顔を向けられた克哉。
「疑っても仕方がない。人手が足らなくて困っていたところだ、ちょうどいいじゃないか……ん?」
なにかに気づいて克哉は屋敷の影を見つめた。
「もう隠れても遅いぞ。困った娘たちだ……隠れてないでこっちに来なさい」
克哉に言われ、双子の姉妹がおどおどとしながら現われた。
「美咲がいこうって……」
涙目の美花。
「美花がそうしたがっていたからでしょう」
きつい口調の美咲。
双子でありながら性格に大きな違いがある。それは単純に姉と妹という役割のためか。その様子をじっと克哉は観察するように見ていたが、美花の瞳から涙が零れたところで口を挟むことにした。
「俺の言いつけを守らなかったのは二人とも悪い。今回は大事至らなかったが、俺たちが生きていくためには、守らなくてはいけない決まりがある。と、言っても、実際に恐ろしい目に遭わないとお前たちもわからないだろう。よし、二人とも晩飯は抜きだ」
「そんなおとうさま!」
と、空かさず克哉に飛びついてきたのは美咲のほうだった。
「わるいことしたのだからしかたないでしょう美咲?」
姉をたしなめる妹の姿。興味深そうに克哉は二人を見つめている。美咲は大変不満そうな顔を、言いつけをした克哉ではなく美花に向けていた。
ぼさっと立っている瑶子に克哉が気づいた。
「家族を紹介しよう。俺は克哉、娘の美咲と美花、侍女の菊乃の四人で暮らしている。彼女は瑶子だ、しばらく家で暮らすことになった。仲良くするんだぞ二人とも」
「よろしくお願いします!」
頭を勢いよく深く下げた瑶子。美花は笑顔ですぐに瑶子に抱きついてきたが、美咲は敵意のような視線を送りながら距離を保っていた。
「二人の娘はずっとこの屋敷で育ったものだから、人が珍しいんだ。たまに来てくれる行商人を遠くから眺める程度だからな」
付け加えるように克哉が言った。
すっかり美花は瑶子に懐いたようだ。
克哉の微笑ましい横顔を菊乃が見つめていた。
《2》
「困ったことがある」
と、克哉が話を切り出した。相手は菊乃だ。
「どうなさいましたか?」
「屋敷の敷地から出られなくなった。菊乃はどうだ?」
「わたくしは問題なく」
「そうか……おそらく美咲と美花も出られないだろうな。昔もこの謎に直面したことがあるが、原因はわからなかった。今やっと糸口が掴めたな……おそらく瑶子が関わっているのだろう、彼女が来た時期と同じだ」
「瑶子に尋ねますか?」
「いや、本人に自覚がない可能性もある。記憶がないというのは本当だろうな。不便ではあるが問題はないと思う。菊乃と行商人がいなくなったら死活問題だが、何事もなければ未来まで安泰だ」
手製の煙草の火を克哉は机に押しつけて消した。
「話はほかにもある」
「なにでございますか?」
「そろそろ一部屋空けようと思う」
一部屋空けるとは?
このとき、無表情の菊乃の顔がよりいっそう固い物に感じられた。
「まだ早いのでは?」
「たしかに奴らの力が弱まるのを待ったほうが安全だ。しかしそれでは俺はとっくに寿命が尽きて死んでいる。俺だってすべての部屋を開放することは無理だ。だから菊乃の力が必要なんだ、未来を託せるのは菊乃だけなんだ」
「わたくしはなにをすれば?」
「部屋の開放と奴らを使役する手順を教える。口頭で伝えるだけでは不安だから、実際に俺が一部屋空けて見せる」
克哉は汗を掻いていた。冷や汗だ。それはこれから行う事は、そういうことなのだ。
突然、菊乃が瞳を見開く。
「聞こえました」
「なにが?」
「悲鳴です、すぐに向かわなければ!」
屋根裏部屋の階段を飛ぶように降りる。先を走る菊乃のあとを急いで克哉が追う。
階段を下りきって隠し扉を開いた瞬間、克哉が袖口で口を鼻を覆った。
「酷い異臭だ……生き物の臭いじゃない。まさか封印が破られたのかっ!?」
湿気が多く生暖かい。だが、背筋は凍るように冷たく感じる。
克哉は辺りを見回した。
「どの部屋だ!」
「向こうから!」
叫びながら菊乃が指を差した廊下を双子の姉妹が走ってくる。蒼白の顔。なにかしらの恐怖に追われているのは間違いない。
すぐに克哉が娘たちに駆け寄ろうとしたが、新たな気配を感じて足を止め振り返った。
「どうしたんですか、怖い顔して?」
瑶子だった。
「娘たちをたのむ、すぐに屋敷の外に連れ出すんだ!」
「え?」
なにが起きたのか理解できない瑶子は唖然とした。
次の瞬間、瑶子の首に赤い筋が横に走った。
ずるり。
「きゃーっ!」
叫び声をあげた美花と硬直した美咲を、克哉はすぐさま隠すように抱きしめた。
見せてはいけない――床に転がったモノを。
血の川が廊下を流れる。
「菊乃っ、二人を頼む!」
瑶子に任せたのは菊乃と二人がかりで奴らを対処つもりだったからだ。だが、もう一人で立ち向かうしかない。娘たち、菊乃がいなければ、未来がない。
過去は不変か?
未来は不変か?
克哉は横たる瑶子に目を配った。それが答えか?
「未来が変わるのなら、それは一種の希望だが……現状を打開しなければ絶望だ。死んでいいのは俺なんだ」
――生き延びてくれ。
しかし、美花が菊乃の腕を振り解いて克哉に駆け寄ってきてしまった。
「おとうさま!」
「来るな、菊乃といっしょに逃げろ!」
気がつけば美咲も傍にして、克哉の着物をつかんでいた。
「私が美花をそそのかして……ごめんなさい、おふだをはがしたせいで……」
「いいから逃げろ、菊乃ふた……っ」
言葉に詰まった克哉。
そこには首から下だけが落ちていた。頭部が消えてしまっている。血はまったく出ていないようだ。
克哉は廊下に膝を付いて、二人の娘たちと視線を合わせた。
「いいか、俺が合図したら屋敷の外まで逃げるんだ。お父さんの言いつけは絶対だ、なにがあっても守るんだ。なにがあっても絶対に立ち止まらず逃げろ、絶対だ」
二人の娘は無言で頷いた。
「逃げろ!」
克哉は叫びながら短剣を抜き、黒い影に飛び掛かった。
「きゃっ」
短い悲鳴が聞こえた。
思わず克哉は振り返った。血溜まりに足を取られて全身真っ赤に染まった美花の姿。助けに行きたいが行けない。
美花の真っ赤な手を美咲が力強く掴んだ。
「逃げるのよ、なにがあっても絶対に立ち止まっては駄目!」
二人の娘たちが遠く離れていくのを見て、克哉はふと笑った。
「それでいい。さて、牢獄の中で元気にしてたか? その様子だと元気が有り余っているようだ、俺を殺したくて殺したくて仕方がないんだろう?」
目と鼻の先に剥かれた眼があった。
克哉を睨んでいる。怨んでいる。嫉んでいる。
目の前の眼が血走ってどんどん赤くなっていく。
生暖かい息が克哉の顔にかかった。
「ついに実体化しやがったか」
短剣を握る克哉の手首は握られ止められていた。もう片手は相手の腕を押さえつけている。
相手とは、克哉が言っていた奴らのことか?
目の前にいるモノが奴らだとしたら、なんとおぞましい悪鬼なのか。
土気色をした人形のそれは、毛のない猿のようだが、体は猿よりも大きい。浮き出た肋骨、節々の骨が浮き上がっているほど痩せこけている。顔は直視しないほうがいい。大きく裂けた口から覗く牙や、飛び出そうなほど剥かれている赤い眼など問題ではない。
造形ではない。狂気を鋭く放っているのだ。直視すれば気が狂う。
みしみしをなにかが軋む音を立てた。
苦痛に顔を歪める克哉。
握られた手首の骨がじわじわと砕かれていく。
短剣が手から滑り落ちた。
武器を失った克哉が大きく投げられた。大の男が投げられて宙を飛ぶなど、どれほどの怪力か。
「うっ」
床に叩きつけられた克哉に悪鬼が飛び乗った。
鋭い牙が剥かれた。
すぐさま克哉が首を逸らした。
「ぐ……ぐぐっ……」
歯を食いしばる克哉。悪鬼の歯も食いしばられていた――克哉の肩の肉に噛み付きながら。
首から口を離した悪鬼は血の滴る牙を再び剥いた。首を噛み切られれば絶命する。
克哉は悪鬼の頭を掴んで押し戻そうとしたが、片腕に力が入らない。肩をやられて痛みに耐えるだけで必死だ。さらに最悪なことに、悪鬼には両腕が残っている。
長く鋭い爪は研ぎ澄まされた包丁のようによく切れる。その爪で落とされたのが、克哉の横に転がっている瑶子の胴体だ。
蠢いている。
胴体の中、皮膚の下でなにかが蠢いているのを克哉は目撃した。
息を呑む克哉。
瑶子の体が内側から破かれ、毛の生えた長い脚が飛び出してきた。ひとの脚ではない。それは蜘蛛の脚だった。
一種の脱皮のようだ。その胴よりも遥かに大きい大蜘蛛が這い出てくる。
「こ、これが正体か……」
不気味に光る八つの眼に映る己を見ながら克哉は呟いた。
敵か味方か、大蜘蛛が牙を剥いて襲い掛かったのは悪鬼だった。
悪鬼も大蜘蛛を敵と瞬時に判断して、克哉を解放して飛び掛かる。
粘糸が悪鬼の体を簀巻きにする。大蜘蛛が噴き出した糸だ。
大蜘蛛は動きを封じた悪鬼を頭からかじり付いた。
硬い物が砕ける音と柔らかい咀嚼音。
頭を食われても悪鬼は足をばたつかせ、死ぬことはなかった。初めから死んでいるのだから、死ぬことはないのだ。
克哉は辺りを見回した。目に入ったのは御札で封じられた部屋の戸だ。
「大蜘蛛よ、言葉がわかるなら従え! その戸を俺が開けたらすぐにそいつを押し込めろ。本当にすぐだぞ、一刹那も余裕はないからな!」
すぐさま克哉は封じられた戸に駆け寄り、御札を剥がすと勢いよく戸を開けた。
逆風だ。
部屋から強い風が吹いてくる。
大蜘蛛が前脚を器用に使って簀巻きの悪鬼を部屋の中に放り投げた。
目の前を悪鬼が通り過ぎるとほぼ同時に克哉は戸を閉める。
がっ!
なにかが戸に引っかかった。
鷲のような鋭い爪を生やした痩せこけたひとのような手。
「別の奴が邪魔しやがって!」
元から部屋にいた悪鬼が外に出ようとしてきたのだ。
刃が煌めいた。
次の瞬間、戸が閉められ、すぐに克哉は御札を張り直した。そして、床に落ちた悪鬼の手首を見てから、それを切り落とした者に眼を向けた。
「大丈夫か菊乃?」
「克哉様たちをお守りするのがわたくしの役目なのに、無くした頭部を探すのに翻弄されて、なにも……」
「落ち込むことはない。最後の決め手は菊乃だ。もしも奴らが二人も出てきたら……考えただけで恐ろしい。体を直すのは少し待ってくれないか、屋根裏で待っていてくれ、先に娘たちを探してくる」
「克哉様の手当も早くしなければ、さらに酷くなります」
「俺は平気だ、少し肩を噛まれただけだ」
克哉は怪我の手当。菊乃は怪我を手当するのではなく、直すのだ。
そこに立っていた菊乃の姿は異様だった。自らの頭部をわきに抱えて会話をしているのだ。菊乃もひとではなかった。
そして、そこに佇んでいるモノも。
「そこにいる大蜘蛛は?」
菊乃が尋ねた。
「瑶子だ。見てわかるとおり、俺たちに敵意はないようだし、危害を加えるつもりもないらしい。意思疎通ができるかわからないが、どこかに隠れるように言っておいてくれ。俺は娘たちが心配だ」
急いで駆けていく克哉の後ろ姿を見つめる菊乃。
「大蜘蛛と二人きりにされても困ります」
ベッドに横たわる克哉の姿。
まるで老衰。だが、顔はよく見ると若い。痩せこけた頬、目の下には隈、乾いた唇は割れてしまっている。
ベッドの周りには囲むように、双子の娘たち、瑶子、菊乃が寄り添っていた。
克哉が嗄れた声を発する。
「菊乃だけ残って、三人は席を外してくれないか……ゲフッ」
少ししゃべっただけ、よからぬ咳が出る。
後ろ髪を引かれる思いの娘たちが、瑶子に連れられて屋根裏部屋を去っていく。
残された菊乃は克哉を見つめながら、無機質でありながら、悲しげな表情を浮かべているようだった。
「克哉様……わたくしも涙を流せればよかったのに」
「その逆で菊乃に泣かれなくてよかった。全員に泣かれたら、死ぬ方も後味が悪いからな」
「死ぬなんてとんでもありません!」
「いや、俺は死ぬ。どうせ遅かれ早かれひとは死ぬんだ……すまないと思ってる」
「なにをでしょうか?」
「菊乃だけを残して逝くことを……俺だけじゃない。これから先も、俺の子孫たちは菊乃を残して逝くことになるだろう。多くのものを背負わせてしまって、すまないと思っている」
衰弱した顔は沈痛な表情を浮かべることで、より深い影を落としてさらに死人に近づけた。
菊乃は枯れた克哉の手を優しく握った。
「わたくしは克哉様のお側にお遣いできて幸せでした」
「その好意につけ込んだ俺は本当に罪深い。記憶はいつから戻っていた?」
「…………」
押し黙った菊乃。
「隠さなくていい、生まれ変わる前の記憶はすでにあるんだろう?」
「記憶は少しずつ取り戻していました。完全に思い出したのは、克哉様がこうなってしまった原因をつくったあのとき。克哉様と瑶子が鬼と争っているとき、わたくしは首を無くして動揺しておりました。克哉様の元に駆けつけるのが遅れたのも、それが原因でございます。わたくしがもっとしっかりとしていれば、克哉様が傷を負い、こんな結果には……」
「ならなかったとも限らない。それはわからないことだ、自分を責めるな」
「…………」
責めるなと言われても、無言の菊乃はうつむいたままだ。
涙は流せない。
しかし、菊乃のまぶたは涙を流すように震えていた。
「底知れない恐怖でわたくしは動けなかったのです。鬼に首を落とされた瞬間、あのときのことが……」
「それは思い出さなくてもいいことだ。それだけは思い出して欲しくなかった」
「新しい奉公先のご主人様に手籠めにされた挙句、ほかの男たちにも……ああ、鮮明に覚えています。ついに気が狂れたわたくしは男のそれを噛みきってやったのです。そして仲間の男が刀を抜きました」
「それ以上は話さなくていい」
「…………」
菊乃は震えながら押し黙った。
再び菊乃は克哉の手を握り直した。
「わたくしを生き返らせてくれたことを感謝しております。克哉様のこともわたくしが――」
「それは無理だ」
「無理などとおっしゃらないで!」
「それができればすでに頼んでいるよ。だが無理なんだ。菊乃のを蘇らせたのは、本物の鬼の技術と道具だ。反魂に必要な道具や義体は、菊乃を蘇らせるのにもう全部使い切ってしまった」
「本物の鬼とは? わたくしがまた死ねば、克哉様にこの躰を渡せるのではないですか?」
「菊乃が死んだら、だれが俺を蘇らせる? 娘たちや瑶子では絶対に無理だろう。本物の鬼とはなにか、妻との出逢いの話はまだ聞かせてなかったな。妻は正真正銘の本物の鬼だった。名は――るりあと言う」
《3》
克哉は自らの精気を燃やすように、瞳に熱を込めながら語りはじめた。
「未来の話は何度も聞かせたと思う。だがここでいうるりあは、この時代で出逢った鬼だ。鬼と云えば、凶暴で残虐な印象があるが、人間のほうがよっぽど鬼だ」
克哉の顔に浮かんでいたのは怒りだ。
ふと、柔和な顔に戻り、克哉は菊乃に手に漢字を書いた。
「瑠璃亜と書く。名前も美しかったが、その容姿は絶世の美女だった。だが、俺が瑠璃亜を初めて見たときは、見るに堪えない無残な姿だった」
また克哉の顔は怒りに染まっていた。
「人間の仕業だ。欲に駆られた人間どもが瑠璃亜に酷い仕打ちを繰り返していたんだ。相手が鬼だからというわけじゃない。もっとほかに理由があったんだ。順を追って話していこう」
怒りを静めるように克哉は呼吸を整え、再び口を開きはじめた。
「この地には元々鬼が棲んでいた。本物の鬼たちだ。彼らはこの時代の人間たちが及ばない高度な技術と、人間を鬼に変えるほどの財宝を持っていた。
あるとき、その噂を嗅ぎつけた男たちが鬼の財宝を奪おうと考えた。男たちはなにも知らない若い娘に毒入りの酒を持たせ、鬼の里に放り込んだんだ。鬼たちは高度な技術力を持ってはいるが、欲望には忠実で酒や若い人間の娘が好きだったらしい。娘がどうなったのかわからないが、想像はつく。
そして、遅効性の毒だったため、気づいたときにはもう遅い。毒入りの酒を飲んだ鬼たちは次々と死んでいった。中には男たちに命乞いをした鬼もいたそうだ。そんな鬼は男たちの中に術に長けている者がいて、そいつに魂を囚われて使役されることになった。この屋敷もそんな鬼につくらせたものらしい」
ここまでは、克哉も瑠璃亜も登場していない。
「瑠璃亜は仲間の鬼たちが殺されたとき、里にいなかったらしい。帰ってきたところを支配者になっていた男たちに捕らえられた。そのころ、瑠璃亜はまだ幼い少女だった。
はじめは男たちは瑠璃亜を殺そうと考えたらしい。だがすぐにその考えは変わった。怯えた瑠璃亜の流した涙が、世にも美しい宝石だったからだ。
それからだ、瑠璃亜はありとあらゆる拷問、辱めで枯れても枯れても涙を流すように強要された。男たちは下卑た笑いを浮かべながら、事細かく俺に話してくれたよ。はっきり言って吐き気がした。それが人間のすることかと思った。俺がこの時代に飛ばされてたときも、それは行われていたが、俺はその場には立ち会わせてもらえなかったし、俺にその気もなかった。ああ、少し話が飛んだな。
俺は未来からこの時代のこの場所に飛ばされてきた。はじめはなにがなんだかわからなかった。ここが過去で、しかも未来と同じ土地と屋敷だと気づいたのはしばらくしてからだ。
まず俺は男たちに捕まった。男たちは俺を殺す気でいた、当然だ。恥ずかしい話だが、顔がぐしゃぐしゃになるくらい泣きじゃくって命乞いをしたんだ。奴らは笑ってたよ。それでどうにか下僕として、奴らの元に置いてもらえるようになった。瑠璃亜の世話も俺がすることになった。大事な金づるだが俺に任せたのは、生かさず殺さず、世話をするのがずっと面倒だったんだろうな。
それから俺と瑠璃亜は……その辺りは割愛させてくれ、気恥ずかしい話だ」
菊乃の視線が少し鋭かった。
はっとして克哉は気づいたようだ。
「……すまない」
「なぜ謝るのですか?」
「いや、それは……」
言葉に詰まる克哉。
菊乃は無愛想にすましている。
「わかっております。わたくしがどんなに克哉様をお慕いしようと、奥様には敵わないことなどわかっておりますから、それでも良いのです」
「怒るなよ」
「怒ってなどおりません」
「なあ、俺と菊乃がはじめて出会ったときのことを覚えているか? 呉服問屋に奉公していた菊乃は、あの家の娘よりもはっきり言って美人だった」
「褒められても辛いだけでございます。克哉様に褒められても……」
「話を戻そう」
克哉は菊乃から視線を逸らしながらまた語りはじめた。
「瑠璃亜を逃がしてやりたい。そして、沸々と沸き上がる奴らへの怒り。俺は奴らを殺した。毒殺だ、奴らが鬼たちを殺した方法と同じ方法で奴らを殺した。殺すだけでは気が収まらず、鬼の道具にちょうどいい物があって、それを使って奴らの魂を捕らえて屋敷の各部屋に閉じ込めてやった。
魂を封じ込める際、奴らと一つの契約を交わした。鬼の道具を使うにはそうしなければいけなかったんだ。それが奴らを使役して、ある程度仕事をさせたら魂を開放して成仏させるというものだ。そのあたりの話はもう十分話していると思う」
「屋敷に閉じ込められている鬼は、元は人間だったのでございますか」
「俺が殺した……な。俺はこの地に留まって奴らをどうにかする義務がある。そして、もうひとつ解決するべきことがある」
克哉はゆっくりと眼を閉じた。
そうしていると、まるで死んだように見える。
思わず菊乃が声をかける。
「克哉様」
「……すまない」
「なぜ謝るのですか?」
「菊乃に多くのことを背負わせてしまって」
「わたくしは己の意思でお慕いする克哉様に仕えております」
「その好意を利用することで、心が痛み葛藤を引き起こす。まだ頼み事がいくつもあるんだ」
「なんでもおっしゃってください」
なんでもという言葉に偽りはないだろう。だからこそ、克哉は菊乃を頼り、頼ることに負い目を感じる。
「美咲と美花は死産だった」
「……そんなはずは、だったら」
「瑠璃亜が自分の命と引き替えに双子を生かしたんだ。美咲と美花が急速に生長してくのは、そのせいだと思う。これは確証のないことだが、もしかしたら娘たちは10歳で死ぬかもしれない。未来でも……おそらくそのせいだろう、瑠璃亜の命一つでは足りなかったんだ。問題はなぜこれから先、双子の姉妹だけが生まれ、娘たちと同じように急速に生長していくのか。そして、いつのごろから変なしきたりができて、姉妹で殺し合うなんてことが……」
克哉の脳裏になにかが浮かんだ。
霞の向うに人影が見える。
背筋の曲がった老人の風体。顔には能楽の翁面。怪しげな者が脳裏に浮かんだ。
「なんで今まで忘れてたんだ、忘れようにも忘れられないことなのに」
「どうかなさいましたか?」
「ああ、思い出したんだ。娘たちが死産になってすぐ、夢枕に奇妙な老人が立った。娘たちを蘇らせてやると。その夢は俺だけではなく瑠璃亜も見ていた。ただの夢ではなかった。現に娘たちは蘇ったのだから。俺は反対したんだ、悲しいことだったが瑠璃亜の命を使ってまで娘たちを蘇らせることを。だが瑠璃亜は老人の言うまま……あのとき、老人となにか約束をしたような気がするんだが、思い出せない。もしかして、それが未来に渡る呪いの原因なのか?」
克哉は頭を抱えた。
そして、ベッドからふらつきながら起き上がった。
すぐに菊乃が克哉の躰を支える。
「なにをなさるおつもりで?」
「俺が死んだら、俺の先祖を捜して渡して欲しい手紙がある。前々から書いてあったものだが、少し内容を書き換える必要が出てきた。
一通は先祖に直接渡して欲しい。これから起こる歴史的なことや、投資話なんかが書いてある。それで俺のことを信用してもらえると思う。
もう一通はこれから書き直すんだが、俺自身に渡るようにして欲しい。封はあらかじめ、特殊な術で俺以外は開封できないようにしておくが、ちゃんと俺の手に渡らないと困る。俺に渡すと言っても、俺が生まれてから渡しても遅い。あらかじめ先祖に託しておいて欲しいんだ」
「畏まりました」
椅子に腰掛けた克哉は引き出しから手製の煙草を取り出した。
「ついでに言っておく。俺が死んだらあの洞窟の一番奥に埋めてくれ。あの場所に瑠璃亜も埋まってるんだ。それから、こっちの引き出しに入ってる中身を全部、あそこにある石の入れ物の中に収めてもらえるとありがたいな。実はあの中には瑠璃亜の写真も入ってるんだ。写真と言ってもわからないか、この時代の人間たちはまだ発明していないが、鬼たちはすでに持っていて驚いたよ。実はあの石の入れ物も鬼の道具なんだ」
しゃべりながら手紙を書いていた克哉が、後ろにいる菊乃のほうを振り向いた。
「娘たちを呼んできてくれないか? 死ぬ前に話したいことがいくつもある」
「畏まりました」
頭を下げて菊乃は屋根裏部屋をあとにした。
それが菊乃が克哉と交わした最期の言葉だった。
双子の姉妹を探してここへ連れてきたときにはもう、克哉は事切れていた。手紙は書き終えており、机でそのまま死んでいた。手に持った煙草の火も消えていた。
克哉が亡くなってからしばらく経ったある日、屋敷に客人が尋ねてきた。
客人などありえない話だった。
少なくとも、これまで客人はただの一度も屋敷を訪れたことはない。
玄関で出迎えた菊乃。出迎えたと言うより、外に出ようとしたら、そこに立っていたのだ。
翁面の老人。
すぐにそれがいつか克哉が話してくれた老人だと菊乃は察しが付いた。
「どなた様でございますか?」
「名乗る名前は特にない。約束のモノをもらいに来た」
このしゃがれ声は一度聞いたら忘れられない。耳障りが非常に悪い。
「約束のモノとおっしゃいますと?」
「三つになった双子の片割れをもらいに来た」
「そのような約束、わたくしは聞いておりません。どうぞお引き取りを」
「この屋敷の主人はおらんのか? 彼と直接話せばわかること」
「……ご主人様はお亡くなりになりました」
「それは難儀な難儀な、しかし双子の片割れはもらっていくぞ」
強引に屋敷の中に老人は入ってこようとする。菊乃は両腕を伸ばして立ちはだかった。
「ここから先は通すわけにはいきません。ご息女には指一本、一目たりとも会わせるわけにはいきません」
「契約は守らねばならんぞ。抵抗など無力なり無力なりと心得よ」
と、言った老人のほうが抵抗をやめて、強引に屋敷に入ろうとすることをやめた。
あきらめたわけではなく、屋敷に入る必要がなくなったのだ。
廊下の向うから声が聞こえてきた。
「いたい、いたい、やめて瑶子」
「放しなさい、どこに連れて行く気なの!」
双子の姉妹が瑶子に引きずられてやって来る。
菊乃は瑶子の瞳を見つめた。虚ろだ。まるで魂が入っていないような眼をしている。
老人が笑う。
「ふぉふぉふぉっ、よい子よい子、久しぶりじゃったな瑶子、元気にしておったか?」
瑶子からの返事はなかった。二人は知り合いなのか。少なくとも、この老人は瑶子の名を知っていた。
目の前で双子のどちらかが連れ去られようとしている。そうとわかっていても、菊乃は動くことができなかった。得体の知れない老人が、これ以上になにをしてくるかわからない。それに克哉の望みは違うところにあるだろう。
「わかりました、強引な真似はなさらないでください。話し合いをして、ご息女の意思を最大限に尊重するというのはどうでございますか?」
「よかろう」
老人は深く頷き、屋敷の中に足を踏み入れた。菊乃の横を通り過ぎるとき、老人は巻物を手渡した。
「手土産じゃ。蜘蛛の飼い方が書いてある」
蜘蛛とはつまり、言わずとも。
老人は自分の家のように、無遠慮に荒々しく屋敷の中を進む。菊乃はあえて止めもしなければ、適当な部屋への案内もしなかった。
「ここがよい。当主の部屋に相応しい場所じゃ」
老人が立ち止まった先には固く閉ざされた戸があった。封印がなされている。
「そこは!」
菊乃が止めようとしたときには、老人は御札を破って部屋の戸を勢いよく開けてしまっていた。
静まり返っていた。
部屋の中は蛻の殻だった。
これは嵐の前の静けさか。いや、嵐などそこにはなく、雲一つない、本当になにもない部屋だった。
はじめからなにもいなかったのか。
「中にいた鬼はどうなさいましたか?」
と、菊乃が老人に尋ねた。
「さてさて、鬼とはなんぞや?」
惚けているのは明らか。老人は迷わずこの部屋を選んだ。追求はしたいが、材料もなく、強硬な追求は波風を立てる結果になる。菊乃はそれ以上の追求はしなかった。
広い座敷に四人が座った。瑶子は虚ろなまま部屋を出たすぐの廊下で待っている。美咲、美花、菊乃と横に並び、向かいにひとり老人が座っている。
「わしから話そう。双子の片割れをもらいに来た。ここの主人と奥方と約束をしておったのじゃ」
すぐに反応したのは美咲だった。
「そんなの嘘よ!」
叫びながら見たのは菊乃の顔。
「本当でございます。病床の克哉様から聞いておりました」
これは嘘だ。菊乃は克哉が老人となにかしらの約束をしたとは聞いていたが、その内容は克哉も思い出せなかったのだ。
「嘘よ、嘘よ、お父様がそんな約束するはずがないわ。私たち姉妹を引き裂くなんて、お父様が考えるはずもないもの!」
叫びながら美咲は菊乃に飛び掛かっていた。
「やめて美咲! 菊乃に八つ当たりしても仕方がないわ」
「美花はいいの? いいなんて思っているわけがないわよね。私がそう思っているのだから、あなたも同じ気持ちのはずよ!」
「わたしだって、でもそれがお父様の望みなら……」
「いいわけないでしょう!」
話し合いにもならない。
ついに美咲が部屋を飛び出してしまった。
話し合いは完全に決裂だ。
老人も席を立った。
「三日後にまた来よう。それまでに返事を聞きたい。どちらがわしの元へ来るか。一生わしの元で暮らすわけではないと付け加えておく。四年じゃ、七つになったとき、片割れを返しに来ると約束しよう」
部屋を出ようとする老人の背中を美花が追った。
「お話がっ……あります」
「なんじゃな?」
二人の成り行きを菊乃は口も挟まずただ見守った。
《4》
いつのころからか、その部屋は代々の当主が使う部屋であった。現在の当主は鬼塚智代。娘は姉の静枝、妹の静香、七つの誕生日を迎えたこの日、妹の静香がこの屋敷に帰ってくる。
「わかっているわね静枝さん?」
「はい、わかっておりますお母様」
向かい合って座る母の言葉に、一切の感情を挟まない口調ですぐに静枝は答えた。
しばらくして、廊下から声が聞こえた。
「静香様をお連れいたしました」
ふすまが開き、深々とお辞儀をした菊乃の後ろから、静枝と瓜二つの静香が部屋に入ってきた。
「お久しぶりですお母様、ただいま帰りました」
智代の前に正座した静香は深々と頭を下げた。
「元気にしていたかしら?」
「はい、お母様」
「長旅で疲れたでしょうけれど、大事な話があるので聞きなさい」
静香は不思議そうな顔をした。
静枝は無表情のまま、遠く壁を見つめていた。
「貴女たちに残された寿命はあと三年」
双子の姉妹は共に一つも表情を崩さなかった。
不気味な笑みを浮かべながら、智代は話を続ける。
「生き残る方法はただひとつ。そのために静香さんは帰って来たのでしょう」
「はい、里親に聞かされております。しかし、嘘だと言ってください。姉妹で殺し合うなんて、そんなことわたしにはできません」
涙ぐんだ静香を見て、智代は笑いながら歯を剥いた。
「私にはできないできないと言いながら、だまし討ちでもするのかしら? キャハハハ、いいわよ、どんな方法を使っても片割れを殺し、そして肝を喰らうのよ、さあ、はじめなさい!」
「できません!」
と、静香が叫んだと同時に、静枝がすっと席を立った。
無表情な静枝の手元で妖しく輝く短刀。
静香は眼を見開いて怯えた。
「お姉様……そんな、やめて……やめてください!」
短刀の切っ先が襲い来る。
智代は嗤っている。
血相を変えて静香は部屋を飛び出して逃げた。
「すぐに追うのよ!」
響き渡る智代の叫び声。
母の命令を聞き静枝が部屋を飛び出した。
息を切らせながら静香は膝に両手をついた。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫でございますか静香様?」
洋燈を片手に菊乃が尋ねた。静香は深く頷いた。
洞穴を照らす淡い光。屋敷の敷地内にこのような場所はただ一箇所。
「本当にこの場所なら大丈夫なの?」
心配そうに尋ねてきた静香に、菊乃は無表情に答える。
「この場所には加護がございます。なにがあろうと、お二人のことを守ってくださるでしょう」
人の気配がした。
入り口のほうから手で壁を伝って、明かりも持たずだれかがこちらにやってくる。
「お姉様大丈夫!?」
「ええ、たぶん気づかれていないわ」
表情は厳しいが、そこには狂気の一欠片もない。先ほど妹を殺そうとしていた姉は、今はどこにもいなかった。ここにいるのは妹を想う姉だ。
「ごめんなさい静香、あなたに刃を向けてしまって」
静枝は静香を力強く抱きしめた。
すべては母を欺くための演技だったのだ。
静枝は菊乃に顔を向けた。
「あとは静香が死んだことにして、鶏の血は用意できているでしょう」
「はい、ご用意できております」
そう言いながら菊乃が近づいてくる。だが、その手に持っているのは折りたたまれた手ぬぐいだった。
不意を突かれて静枝が何者かに羽交い締めにされた。
「どういうこと!? 静香、どうして静香がっ!」
なにがなんだか静枝はわからなかった。まさか静香に羽交い締めにされようとは、思いも寄らないことで、理由も皆目見当がつかなかった。
菊乃がにじり寄ってくる。
逃れようと躰をよじらせながら静枝が叫ぶ。
「どういうことなのっ! 二人もお母様側だったの、んぐっ!」
手ぬぐいで口と鼻を塞がれた。
静枝の意識が遠のく。手ぬぐいに薬品が染みこませてあったのだ。
力を失った静枝の躰を支えながら、静香は地面にゆっくりとしゃがみ込み、そのまま膝枕をした。
膝の上で眠る静枝の顔を愛おしく見つめる静香。自分と瓜二つの顔。姉の頬を優しく指先でなぞる。
「本当に自分の顔を見ているみたい。でも一箇所だけ違う、目の下のほくろ。ここもお姉様と同じがよかった」
静枝の頬に涙が落ちた。
「……さようなら」
廊下にぽつぽつと落ちる血の痕。その血は当主の部屋まで続く。
「お母様のお言いつけ通り、静香を殺して生肝を喰らってやったわ」
真っ赤に染まった短刀を手に、腕には血の滴る少女の首を抱えていた。
物言いも、雰囲気も、静枝だが、その顔は――。
「静香にやられたのかしら、その顔は?」
智代は尋ねながら、愉しそうに嗤っていた。
顔半分に火傷を負い、痛々しく真っ赤に腫れ上がり皮膚が爛れた。
「ええ、思わぬ反撃に遭って。傷の手当てをしてくるわ」
足早に部屋を出て行く娘の後ろ姿を見ながら、嬉しそうに嬉しそうに智代は嗤っていた。
ある日の夜更け、屋敷に叫ぶような呼び声が響き渡った。
すぐに菊乃が静枝の部屋に駆けつけると、そこでは滅多刺しにされた女が死んでいた。
「お母様を殺してしまったわ」
「智代様だったものでございます」
「そうね、たしかにこれは母とは呼べないわ」
死んでいる女の顔はまるで般若のように恐ろしく不気味だった。
静枝の着物は酷く乱れ半裸状態で、その手には血塗られた短剣が握られていた。
「私を抱きながら全部話してくれたわ。どうやら私たちが生まれてすぐに、お母様の肉体を乗っ取って入れ替わったみたい。今襲われたのは孕まして双子をまた生ませるつもりだったみたいよ。そして、双子が生まれたら肉体を乗っ取って、殺し合いを仕向ける。その歴史の繰り返し。けれどこれでおしまいだわ」
自分を見つめている菊乃に顔を向けて、静枝は言葉を付け足す。
「服を脱がされて躰を少し触られただけよ。それ以上のことはなにもされていないわ」
「本当でございますか?」
「なにを疑うの?」
菊乃の視線を静枝は追った。
はだけた着物から覗く太股に走る一筋の赤い糸――鮮血だった。
静枝は絶句した。
「っ!? 嘘よ、本当にそんなことはなかったのよ!」
狂乱しながら叫ぶ静枝に背を向けて、菊乃は畳の血を調べていた。
「乾いている血がございます。わたくしを呼んだのは、智代様を殺してすぐにでございますか?」
「そうよ、すぐに廊下に出てあなたを呼んだのよ」
「記憶が途切れているということはございませんか?」
「そんなこと……時計が進んでいるなんてことが……四時間近くも、嘘よ」
時計を確認して静枝は驚きを隠せなかった。
まだ終わりではなかったのだ。
苦しそうな顔をして静枝が大きなお腹を抱えながら、菊乃に肩を借りて歩いて行く。寄り添っている瑶子はあたふたしているだけだ。
その場に慶子も駆けつけてきた。
「私にできることはないかしら?」
「なにもございません」
にべもなく菊乃は申し出を断った。
屋敷の外に出た静枝は台車に乗せられた。
「まさかそれで町まで?」
慶子は眉を寄せて尋ねた。
答えは返ってこない。菊乃は台車を引いて急ぐ。その方角を見て慶子は嫌そうな顔をした。
「そういうことね、なんの悪あがきかしら」
小さく呟いた。
台車は鳥居をくぐり、そこから台車を降りて洞窟の中へと入った。
洞窟の奥は明かりで満たされており、先客がそこで待っていた。
「久しぶりね、会いたかったわ静香」
そこにいたのは静枝だった。
そして、菊乃に肩を借りているのも静枝。
「お帰りなさい、お姉様」
菊乃に肩を借りていた静香の瞳から涙がこぼれ落ち、頬の焼けの痕を伝った。
あの日から、静枝を名乗り続け、演じ続け、一時も静香に戻ることはなかった。けれど、このときついに妹の静香に戻ったのだ。
悲しげな瞳で静枝は静香の火傷の痕に触れた。
「静香が自分の顔を焼いたと知ったとき、私も自分の顔を焼こうと思ったわ」
「やめて絶対に、お姉様にはその顔のままでいて欲しい。だってそれはわたしの顔だから」
「わかっているわ。けれど、静香が私の身代わりになったことは、絶対に許せなかった」
「それはなにが起こるかわからなかったから、お姉様には安全な外の世界で生きて欲しかったの。だから、だから会いたかったけれど、帰ってきて欲しくはなかった」
「そうはいかないわ。静香が私の身代わりになったこと、今は正しかったと思っているわ。これから話すことをよく聞きなさい、後戻りはできない、する気もないわ絶対に」
静枝の瞳は鋭かった。
姉がなにを心に決めているのか、静香は不安になって視線を泳がせ辺りを見回した。
出産の準備のため、たらいや湯などいろいろと用意されている。だが、その中には数珠や香などの法具もあり、中でも目を引いたのは肉切り包丁だ。
静香は怯えた。
「なにをする気なの……お姉様」
「今からやろうとしていることは大博打よ。けれど生き残るためにはやらねばならないわ。そのために私が死ぬわ」
生き残るために、死ぬ?
静枝はなにをする気なのか。
「私たちはもう何年も生きられない。試すまでもなく、それは事実として受け入れなくてはいけないわ。化け物が望むように殺し合いをして肝を喰らっていれば、もう少し長く生きられたでしょうね」
「まさかお姉様!?」
「私を喰らいなさい」
「そんなこと!」
「聞きなさい。どちらにせよ、ここでどちらかが死ななければ、死産の娘たちを蘇らせることはできないのよ。それはあなたもわかっているでしょう?」
見つめられた静香は口を開かず、首を動かすこともしなかった。
仕方がなさそうに静枝は菊乃に顔を向けた。
「話してあげて」
促されて菊乃が口を開く。
「これまで死産でなかったことはございません。そして、歴代の当主たちは、誰もが己の命と引き替えに双子を蘇らせました。それが己の意思だったかどうかは定かではございません。なぜなら、歴代の当主たちはみないつの間にか入れ替わっていたからでございます。入れ替わりを終えた当主は、呪縛で決められていた寿命を越すことができます」
すぐに静枝が続ける。
「けれど、今回は化け物に躰を乗っ取られていない。静香が殺したから」
さらに菊乃が続ける。
「乗っ取るという表現は正しくはございません。入れ替わったときにはすでに、躰は鬼の物になっているからです。鬼の躰の中に当主の魂が取り込まれ、徐々に養分として取り込まれていくという表現が正しいかと」
これを聞いて静香は厳しい顔をした。
「わたしがお母様を殺したとき、まだお母様の意識――魂があったということ?」
静枝は目を伏せた。菊乃は凜として静香を見据えている。
「はい、その可能性はございます。しかし、智代様の魂を救う手立てはございませんでした」
気にすることはない――そうとでも言うのか。
しばらく静香は黙り込み、そして息を吐いてから深く頷いた。
「今さらだけれど、このままではわたしもお姉様も十歳で死ぬの? なにが原因で、もしかしたら死なないのではないの、だって一族の血は今まで堪えていないもの」
過去に幾人がそれと同じ疑問を抱いたのか。その疑問を抱いた者の多くは、一時外で育てられた者たちだった。箱庭で育った片割れは、帰ってきた片割れを殺せ殺せと、疑問の抱かせぬまま育てられる。
静枝はその中では例外であった。繰り返しの歴史の中で生まれる些細な誤差。その誤差は時を重ねるにつれて大きくなっていく。
歴代の双子たちは、あらゆる方法で運命に抗おうとしてきた。
菊乃が語る。
「過去に試そうとした姉妹がいなかったわけではございません。多くの場合は当主によって阻止されてきましたが、一度だけそれを行った姉妹がおりました。十歳になり突然死ぬわけではございません。およそ十歳を過ぎた辺りから、肉体が腐りはじめるのです。肉体が腐れば精神も腐りはじめ、最期は狂気に駆られ……一人が生き残り歴史は続きました」
この屋敷の歴史を見てきた菊乃。多くを知る者である。だが、彼女はあくまで仕える者。自ら流れを変えることはしない。
急に静香が苦しそうな顔をした。股の間から羊水が流れ出す。まるでダムが決壊したように。
新たな死が生まれる。
《5》
ある日のこと、屋敷に客人が尋ねてきた。
客人とはいつぶりのことだろうか。
翁面の老人。
出迎えた菊乃は顔色一つ変えなかった。
「どなた様でございますか?」
「三つになった双子の片割れをもらいに来た」
「その約束はもう果たしたはずではございませんか?」
「約束は破られた。双子が三つになったとき、片割れを決められた里親に預けることになっておるはずじゃ。歴代の当主がそうしてきたように、智代もそうしろと命じたはずじゃが、お主はどうした?」
「…………」
菊乃は黙した。
老人は丸まっていた背を伸ばす。骨が鳴った。背が伸びるだけではない。その形が徐々に変わり、白髪の頭髪が色づいていく。
「規則をあまり曲げてもらっては困るわ」
老人の声が若い女の声に変わった。その姿すらも、女だ。翁面で顔を隠しているが、見たことがある――この女。
「あら、驚かないのね。それともお人形さんには驚けないの?」
「同じ存在だとは思っておりませんでしたが、慶子様は十分に妖しげでしたから」
そこに立っていたのは慶子だった。
「はじめから警戒されていたのね。どうりで私を見るあなたの眼差しが冷たいはずだわ」
「目的はなにでございますか?」
「この世界が永遠に続くことを願っているだけよ」
「おっしゃっている意味がわかりませんが?」
慶子は笑った。愉しげに笑った。
「規則をあまり曲げられるのは困るけれど、あなたが智代の言いつけを破ったことは責めていないわ。それはそれで一つの選択肢ということで許すわ。ただあまり私の目の届かないことをされると、管理が大変で困るのよ。そう、だからこれは警告。あなたの守りたいものは私の人質だと思って。だから今回はこうしましょう、美花を外に出しなさい。里親はあなたの好きにすればいいわ、警告よ、これは」
「…………」
黙した菊乃。
慶子の顔を近づいてくる。鼻先が触れる寸前まで、慶子の顔は菊乃の顔に近づいてきた。
「言わなくてもわかっていると思うけれど、ここでの出来事は忘れてね、うふふ」
軽い足取りで慶子は菊乃の横を通り過ぎて、屋敷の中へ入っていこうとする。
菊乃が振り返った。
「双子の呪いの発端は、克哉様が行った反魂の失敗――ではなく、あなたが教えた方法通りに行ったためでしょうか?」
慶子は足を止めない。振り返ることもない。
さらに菊乃は言葉を投げかける。
「双子の殺し合いの発端は確実にあなたが仕組んだことでございます。あのときあなたに連れて行かれた美花様が、七つになってお帰りになられたときには……」
慶子が足を止めた。
ゆっくりとこちらに向けた慶子の顔は、まるで鬼気の形相を浮かべた蛇。
「今回も美花を里子に出しなさい」
最後にそれだけ言って慶子は暗い屋敷の奥へ消えていった。
わざわざ指定して来たと言うことは、そこになにかがあるはずだ。
菊乃は当主の部屋へと急いだ。
「失礼いたします、菊乃でございます」
「お入りなさい」
返事を待ってから、菊乃は障子を開けて部屋の中に入った。
部屋の畳は酷く毛羽立っていた。まるで台車でも走らせたような跡がいくつもある。
「ちょうど良かったわ。厠に行きたいと思っていたところなのよ」
「すぐにお連れいたします」
菊乃は車椅子を押しはじめた。そこに乗っているのは、顔に火傷の痕がある静枝だった。
車椅子に乗せられた静枝は全身を拘束されていた。何本ものベルトを躰に巻いて自由を奪い、動かせるのは首から上のみ。顔色は酷く、頬や目元はくぼんで精気を失っていた。
なんのための拘束だろうか?
死相に近い表情を浮かべ、力すらあるとは思えない。暴れてなにかをするとは到底思えず、逃げ出す、自傷の恐れ、いろいろと考えられるが、やはり拘束の理由がわからない。
菊乃に手を借りて用を足しおえた静枝は、再び拘束される。用を足す際に、拘束の一部を解かれていたのだ。
「自分で小便もできないなんて、哀れよね。そう思うでしょう菊乃?」
「…………」
「あなたの予想が正しければ、もう一年も保たないでしょう。一人で十、二人で二十、年数ではなく肉体年齢。生きながらにして躰が腐るって、どんな感じなのかしらねえ」
大声で言ってすぐに、静枝は小声で話しはじめる。
「歴代の当主たちは化け物に取って代わられていたから、双子のひとりを里子に出したり、殺し合いをさせてきたわけでしょう。私には娘たちにそれをさせる理由がないわ」
「意味があるから行われてきたのか、それともただの座興なのかは、わたくしは存じかねます。どうするか、静枝様のご意志にわたくしは従います」
慶子との約束では、美花を里子に出さなくてはならない。
御札の貼られた部屋の横を通り過ぎたとき、静枝が口を開いた。
「その先にいる奴らなのかどうなのか、なにかにずっと監視されている気がするわ。こんな屋敷捨ててしまって、みなで外の世界で暮らすことはできないかしら?」
「わたくしはこのお屋敷に残ります」
「なぜかしら?」
「すべての部屋を開放することが、与えられている使命の一つでございますから」
「菊乃は私たちによくしてくれたわ。はじめは信用していなかったけれど、今は菊乃がいなかれば生きていけないわ。どうしてもあなたがここに残るというのなら、私も残らざるを得ないわ」
車椅子を押しながら廊下を進んでいた菊乃の足が急に止まった。静枝が自らの足で歩いてたら、同じように動きを止めていただろう。
開いている。
床に破り捨てられ落ちている御札の切れ端。
封印されていた部屋の戸が全開に開かれていたのだ。
「全員を私の部屋に集めなさい」
静枝の厳しい口調が冷たい廊下に低く響いた。
ひとりずつ静枝によって問い詰められたが、封印を解いた者が名乗り出ることはなかった。
その間、屋敷の見回りをしてきた菊乃が戻ってきた。
部屋には緊張が走っている。封印が解かれた緊張感ではなく、静枝の発する鬼気に双子の姉妹が当てられているのだ。
菊乃はすぐに静枝の傍に行き、そっと話す。
「一通り見回っただけでは、見つけることができませんでした」
「隣の部屋に移りましょう」
周りの目を気にして、静枝と菊乃は部屋を移動することにした。
車椅子を押す菊乃と静枝の背中に声が投げかけられる。
「怖いわ、封印されていた部屋には悪霊がいたのでしょう?」
不安そうな顔をしている慶子。口元が嗤っている。
「慶子に躰を向けて頂戴」
静枝は菊乃に車椅子を動かせ、艶笑を浮かべながら口を開いた。
「この屋敷のそこら中に悪霊がいるわ。一匹逃げたからと言って取るに足らない存在よ。この屋敷の主人はこの私、この屋敷の支配者はこの私なのよ、キャハハハハ!」
すぐに車椅子の向きは変えられた。
慶子や娘たちと付きそう瑶子に背を向けた静枝は目を伏して、重い表情をした。
隣の部屋に入って菊乃と二人きりになると、さらに静枝の表情は暗く重くなっていた。
「見つからないでは済まないわ」
「わかっております」
「私たちの隙を突いて、いつ襲ってくるかわからない。襲われるのは娘たちかもしれない。守りきれないわ」
「実を申しますと、見つかっていない鬼はもう一匹おります」
「っ!? ほかにも封印の解かれていた部屋があったというの!」
声を荒げた静枝は、はっとして黙した。隣の部屋にまで声が届いてしまう。
菊乃は隣の部屋に視線を向けた。
「現在静枝様がお使いになっております当主の部屋は、代々の当主の部屋でもございました。あの部屋にもかつて鬼が封じされておりました。しかし、あるとき、封印が解かれ、忽然と部屋の中から鬼が消えてしまったのです。それ以来、鬼の行方は杳として知れません」
すべては語らなかった。
当主の部屋の封印を解いたのは、翁面の老人。今、隣の部屋にいる慶子だ。
静枝は知らない。
「もう一度、見回ってきて頂戴。そして、何事もなければ様子を見ることにしましょう。娘たちと慶子を一緒に行動させ、瑶子をつけましょう。私には菊乃がついていて」
「畏まりました」
菊乃は意見しなかった。
もし今回の封印を解いた者が慶子だとしたら、次になにをする気か。慶子、瑶子もまた慶子が仕向けた者、娘たちと共にして危険は及ばないだろうか。
菊乃が自ら不安を口にすることはなかった。
静かに瞳を閉じて静枝が口を開く。
「ねえ、娘二人をこの屋敷から外の世界へ……お願いできないかしら?」
二人。
慶子との約束では、美花と決まっている。
「畏まりました。準備をいたします」
菊乃はそう返事をした。
薪や藁に灯油をまいて火をつけた。
一瞬にして高く燃え上がる炎が、ゆらゆらと菊乃の瞳に映る。
薪と藁の隙間から、人の手らしきものが出ていた。
すぐに菊乃は当主の部屋に向かった。
そこで待っていたのは三人。静枝、美咲、美花。姉妹には直前に聞かせてあった、この屋敷を出ることを。
静枝はこの屋敷に残る。
母に背を向け部屋を出る。美咲は振り返ろうともせず、別れの挨拶もしなかった。美花は振り返った。
「お母様」
涙ぐんでいる美花。母はなにも答えず、なにも表情に浮かべず。
「急ぎましょう」
菊乃が二人を急かした。
玄関まで行かず、締め切られていた縁側の雨戸を開けて、外へ出た。
なぜ急ぐのか。時間に追われているのか、それとも別のモノに追われているのか、後ろからはなにが迫ってくる?
車庫までやって来た三人を待っていたのは、おぞましい群れだった。
「きゃっ!」
息を呑んで美花が短い悲鳴をあげた。
「なんなのあれ?」
侮蔑しながら美咲が言葉を吐き捨てた。
子蜘蛛の群れが行く手を塞いでいたのだ。子蜘蛛と言えど、それは大蜘蛛に比較しての大きさ、その大きさは人の顔ほどはある。それが何十という群れを成しているのだ。
車は使えない。里まで幼い二人を連れて行くことはできるのか。
菊乃は二人の手を引いて走った。
だが、行く手に現われた新たな蜘蛛の群れ。車庫に群がっていた蜘蛛よりもさらに大きな蜘蛛たちだ。
群れの中から大蜘蛛が一匹顔を見せた。
一斉に糸が宙に飛んだ。
菊乃は姉妹を抱き寄せようとしたが、間に合わなかった。
「美咲様!」
蜘蛛たちの狙いははじめから一人。糸に巻かれ動きを封じられた美咲。大蜘蛛たちの糸は、通常の蜘蛛と比べものにならない強度を持つ。火には弱いが、この場で美咲を開放する術はなかった。
一斉に蜘蛛たちが道を開ける。言わんとしていることはわかった。美花だけを連れて行けというのだ。
菊乃は動かなかった。
「わたくしの主人はあなた方ではございません。わたくしの主人はお二人を外の世界へとのご命令でございます」
警告だと、慶子は言っていた。その約束を破棄するのか?
たとえ菊乃はそうしようとしても、それを許さない力がある。
蜘蛛の群れが蠢く。子蜘蛛たちの背に乗って人影が運ばれてくる。静枝だ、静枝が捕らえられたのだ。
「私のことは構わないから、娘たちを連れて逃げなさい!」
絶叫に近い叫び声を静枝はあげた。
目の前にある選択肢を選ぶという行為。
「申しわけございません」
菊乃は仕える主人の命に背いた。美花だけを連れて走り出したのだ。
蜘蛛の群れの中から狂気に駆られた悲鳴が木霊した。
決して菊乃は振り返らない。道は開いている。たとえその道が誘われた一本道だとしても、進むことを躊躇わなかった。
正面門を飛び出して、ついに屋敷の敷地の外へ出たとき、菊乃は地面にある物が落ちていることに気づいた。
しかし、なにも見なかったことにした。
――そこに落ちていたのは、翁面だった。
《6》
「勝手になさい」
車椅子に拘束された静枝はどこを見るでもなく、天井に顔を向けながら吐き捨てるように言った。
「はい?」
と、瑶子は首を傾げてしまった。
頭をぐるぐると回しながら、静枝は答える。
「その子を生かすも殺すも、勝手になさい。生かすのであれば、面倒はあなたが看なさい」
「は、はい」
おどおどしながら瑶子はうなずいた。その背中に隠れている幼女。頭に二つの瘤がある。名はるりあだと、先ほど瑶子が紹介した。
瑶子よるりあが部屋から去ったあと、静枝は付き添いの菊乃に視線だけを向けた。顔が真逆の方向を向いている。
「今の子が何者かわかる?」
「おそらく、本物の鬼でございます」
「ふふっ、答えが返ってくるなんてあなたはなにを知っているのかしら?」
「…………」
るりあ。
其の名を菊乃は知っている。だが、菊乃の本当の主人は、るりあと瑠璃亜の因果関係について、語らなかった。名前が同じだけなのか、それとも。
「黙さないで答えなさい」
静かな口調に静枝は怒気を含ませていた。
「…………」
菊乃は黙した。
静枝は待っている。
そして、菊乃が静かに口を開く。
「存じ上げません。なぜならわたくしは、すべてを知っているわけではございません」
「知っていることを答えなさい」
「わたくしのはじめのご主人様は、それについて語る時間がなかったのか、それとも意図して語らなかったのか、多くを教えてはくださいませんでした」
「はじめの主人……が、なぜさっきの鬼のことを知っているのかしら?」
「…………」
「また黙り。昔、あなたの出自――出自という言葉が正しいかは置いといて、そのときもあなたは答えなかった。ほかにも過去について尋ねると、大抵は黙り。こうしてもっとも私の傍にいるあなたのことを、私はよく知らない。私が生まれたときには、すでにあなたはその姿でこの屋敷に仕えていた。歳を取らないのは瑶子も同じだわ。けれど、あなたはさらに異質だわ。この屋敷では異質。ひとでもなく、物の怪でもなく、あのときはじめてあなたが人形だと知ったときは驚いたわ、自分の首を切れだなんて言うのだもの」
菊乃は口を挟まなかった。独り言のように静枝はさらに話し続ける。
「当たり前のことが疑問に変わるのは難しいわ。けれど、ひとたび一つ疑問が生まれれば、日常の全てが疑問に変わる。ときにそれは疑心暗鬼を生ず。娘たちについても……それは考えないようにしているのだったわ。嗚呼、今や自分自身も信用できない。私の判断は正しかったのかしら?」
「わたくしは静枝様に従うのみでございます」
「嘘ばかり。あなたは敵ではない、けれどどうやら私の味方でもないらしい。あなたの意図の先がどこにあるのか、そんな詮索は途方だわ。もう疲れたわ、生かされることに」
一人で十、二人で二十、年数ではなく肉体年齢。いつか静枝が呟いた言葉だ。娘たちは五歳になった。まだ静枝は生きている。
美咲と美花が生まれて七年。
切り開かれた山道を走ってきたスバル360の前に菊乃が立ちはだかる。正面門をくぐる前にスバル360は止まらざるを得なかった。
運転席から顔を出した無精髭の男。菊乃は表情ひとつ変えなかった。
「どこに止めればいいですかねえ?」
「ここまでで結構でございます」
「そんなこと言わずに、お茶の一杯でも飲ませてくださいよ。もうくたくたで、喉もからからで、美花ちゃんからもなんか言ってやってよ……あっ!」
克哉の視線の先で車を先に降りた美花。
向かい合う双子の姉妹。
「お姉さま、お久しぶりです」
「元気そうね美花。あのころとなにも変わっていないみたい。〝見慣れた顔〟だわ」
再会した姉妹の横をスバル360が通り過ぎる。菊乃が止める間もなかった。
運転席から克哉が顔を出す。
「適当に停めさせてもらいますんで」
ハンドルを握って再び顔を前に向けた克哉が眼を丸くした。
「おおっ、なんだガキか!?」
るりあがフロントガラスにべったりと顔を付けていたのだ。
また克哉が窓から顔を出した。
「どけどけ、どかないと轢いちまうぞ」
るりあは引かない。
仕方がなく菊乃がるりあを引っ張って捕まえ、そして深々と頭を下げた。
「申しわけございません。幼い子のしたことでございます。どうか許してあげてくださいませ」
と、顔を上げた菊乃は遠く縁側にいる瑶子に眼をやった。
看られた瑶子は度肝を抜かれたようで、目を丸くして固まっている。
克哉が頭を掻いた。
「許すもなにも気にもしてませんよ。それじゃあ冷たいお茶でも用意していてください」
そう言い残して克哉は車を走らせて屋敷に向かって行ってしまった。
姉妹はなにやら話し込んでいたが、どうやら一段落したようで、美花は菊乃とるりあに顔を向けた。
「お久しぶりです菊乃さん。そちらにいる女の子は?」
「るりあ様でございます」
「るりあちゃんと言うのね」
美花に見つめられたるりあは急に駆け出して行ってしまった。
双子の姉妹を菊乃は屋敷の中へ導く。
「静枝様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
久しぶりに帰ってきた屋敷を懐かしむように、美花はゆっくりと歩きながら辺りを見回している。
「美花ちゃん!」
後ろから声を掛けられた。すぐに振り返ると克哉がいた。
「克哉さん、どこに行っていたのですか?」
「車を停めてたんだよ。これからお母さんに会いに行くんだろ? 俺も行くよ」
克哉の前に菊乃が立ちはだかった。
「静枝様は美咲様と美花様だけをお呼びでございます。静枝様にご挨拶なさるのなら、ご家族での話が終わってからになさってください」
隠れるように付いてきていたるりあにも釘をさす。
「るりあ様も決して邪魔をなさらぬように」
すぐさまるりあは克哉の背に隠れた。
克哉はるりあを抱きかかえた。
「そういうことなら俺らは退散しますか。台所で茶でも飲んで待ってますよ」
るりあは駄々をこねるように足をじたばたさせたが、克哉は構わず抱きかかえながら歩き出した。
そして、再び三人は静枝の元へと向かった。
当主の部屋で車椅子に拘束され、宙を仰いでいた静枝。
「遅いわ。待ちくたびれて死にそうだったわ」
三人を見て静枝は宙を仰ぎながらしゃべった。その顔は木乃伊のように痩せこけている。本当に今にも死にそうだ。
「嗚呼、しゃべるのも辛い。目も霞んでよく見えないわ。美花……もっとこちらへ、美花の顔をよく見せてちょうだい」
見せろと言いながらも、静枝は宙を仰いだまま美花を見ようともしていない。
「はい、お母様」
ゆっくりと美花は歩き静枝に近づく。
「もっと近く、顔をよく見せてちょうだい」
「はい」
さらに美花が近づいた。目と鼻の先。
美花の頬に枯れ枝のようなものが触れた。それは静枝の両の手だった。拘束が解かれている。
ついに静枝が美花と目を合わせ、微笑んだ。
刹那。
美花が眼を見開いた。
紅い花びらが撒き散らされた。
美咲が息を呑む。
そして、菊乃はただそこに立っていた。
静枝の躰から伸びる不気味な六本の細い長い手。それは手と言うより脚だろう。蜘蛛に似た六本の脚が静枝の背中から伸びていたのだ。
美花の頬に触れていた枯れ木のような手は、灰のように崩れ落ちた。
続け様に美花も崩れ落ちるように倒れた。その心の臓には穴が開いていた。
女の奇声が木霊した。
叫んだのは美咲だ。
美咲の手にはどこに隠し持っていたのか、短刀が握られていた。
菩薩のような微笑みを浮かべた静枝。
美咲が全体重を掛けた短刀が静枝の心の臓の位置を突いた。
「どうして美花を殺したの、この化け物めっ!」
「化け物であってもあなたの母よ。よく見なさい、そこにある美花の亡骸を」
口調も表情も冷静な静枝。
取り乱しながらも美咲は一瞬静枝の言葉に耳を傾け、倒れている美花に視線を向けた。
「……なっ、なに……この醜い猿のような化け物は?」
もはやそこに美花の面影はなかった。目が眩むほど真っ赤な血を流して死んでいる不気味な化け物。
「美花は死んだのよ。おそらく四年前、いつの間にか鬼と入れ替わっていたのよ。もしかしたら屋敷を出て行く前に、私の娘は……」
静枝の瞳から一粒の雫がこぼれ落ちた。
六本の細長い脚がぐったりと畳に落ちた。
「騙し騙し生きていたけれど、もう限界だわ」
「お母様はなぜそんな姿に!」
まだ美咲は混乱の最中にいた。
菊乃は知っていたのか。そうでなかれば、動かずにそこでじっとしているはずがない。
「普段はどんなに言うことを聞く番犬でも、いざというときに手を噛まれては敵だと言うほかないわ」
それは四年前のことは言っていた。蜘蛛の群れの叛乱。
「敵と背中を合わせた生活はぜす、私は共生を選んだのよ。使える物はなんでも使う、今日まで生き延びるためには必要だった」
静枝の寿命はとうに尽きていた。それを生きながらえさせたのは、今目の前にある蜘蛛の姿だろう。
話を聞いても美咲はまだ混乱している。
「わからないわ、わからないわなにもかも。お母様は狂っていた、いつも狂っていて会話もろくにできない状態だった。そんなお母様は過去に手紙を残していたわ。私と美花に残した手紙よ、そこには今前にいるお母様は化け物だと書いてあったわ。あの手紙はなんなの? たしかに目の前にいるのは醜い蜘蛛の化け物だわ……けれど、手紙に書いてあったような」
美咲の背後で声がした。
「あの手紙はかく乱のため、そして鬼を炙り出すために書かれたものでございます。そして、鬼は美咲様ではなかった。そうとなれば、鬼はひとりしかおりません。二度も同じ手は食いません」
二度目。
封印された部屋から消えた鬼はどこへ?
その答え。
静枝の瞳から色が消えはじめた。
「姉妹で殺し合いなどさせない。二代続いて、私たちの勝ちだわ。嗚呼、長い戦いだった……」
躰が崩れ落ちる。腐り、形を保てなくなった躰が、脚の先から崩れていく。
「魂と魄。私たちに足らないのは、設計図のほうよ。あとはそれだけ解決できれば……母の最期の願いを聞きなさい……私の魄は二十歳までの設計図を持って……いるわ……私を喰らえば……美咲は……あと六年……」
静枝は事切れた。一族では最長であった。
無表情のまま菊乃は静枝の屍体を短剣で切り刻みはじめた。
そして、その躰から取り出した血の滴る真っ赤なモノを、半分に切ってから両の手に乗せて美咲に差し出したのだった。
「どうぞ、召し上がってください」
「…………」
無言で美咲はそれを受け取り、背を向けた。
ぼとぼと畳に染みをつくりながら美咲の足下に溢れ落ちる血。
菊乃は天井に顔を向けた。
「るりあ様を連れてきてもらえませんか?」
誰に言ったのか?
反応はすぐにあった。
押し入れから物音がして、天井裏から克哉とるりあが落ちてきたのだ。
克哉は蒼い顔をして言葉を失っている。
菊乃は残りを両の手に乗せてるりあに差し出した。
「どうぞ、召し上がりください」
るりあはそれを奪うように受け取り、むしゃぶりついた。口と手を真っ赤にしながら、熟れた果実を頬張るように、ぐじゅりぐじゅりと雫を垂らして。
突然、るりあの眼がかっと見開かれた。
菊乃が静かに尋ねる。
「繰り返されてきた一族の記憶。思い出されましたか?」
「おらは……これは何度目の……嗚呼、克哉……おらのかわいい娘たちは……」
るりあの言葉に克哉は驚く。
「俺がどうした?」
突然、屋敷全体が激しい揺れに見舞われた。
生臭い風が吹く。
風に舞って御札が飛んできた。何枚もの御札が渦を巻いて飛んでくる。屋敷中を封印していた御札がすべて剥がれている。
「いったいなにがどうなってやがる!?」
叫んだ克哉の片足が沈んだ。床が地面に沈んだのだ。
さらに屋敷を遅う揺れは強くなった。天井が崩れ落ち、壁が剥がれ落ちる。
逃げ出さなければ建物の下敷きになりかねない。
しかし、激しい揺れで誰もが自由に動けず床に這いつくばっていた。
床が沈んでいる。地盤沈下などではない。それは渦巻く呪いの重さだった。
屋敷中に蜘蛛の子が散る。
すでに菊乃は落ちてきた天井に両足を押しつぶされていた。それでも這って動き、見えていた少女の手を掴んだ。
「っ!?」
菊乃が動揺を見せた。
掴んだ少女の手は、腕から先が消失していた。
「これでなにもかも振り出しに……申しわけございません克哉様、これで終わりになるはずだったのに……」
ぐしゃり。
落ちてきた天井によって菊乃の頭部が潰された。
大地を穿つ大穴。
瓦礫一つすら残さず、屋敷と共にそこに棲むものは消えた。
荒野に佇む女がひとり、鳥居を見上げていた。
「残念でした」
その女も風のように消え、老若男女が混ざったようなひとりの嗤い声が残された。