第9回 マルバス魔法病院
 パソコンのモニター以外の光がない部屋で、愁斗は右手だけでキーボードを打っていた。左手の指はキーボードのないところで世話しなく動かされている。
 愁斗の傍らにたたずむ蒼眼の少女――アリス。
「わたくしはなにを?」
 アリスは主人の命令を望んでいた。
「君は草薙雅の住むマンションに行って欲しい」
「なぜでございましょうか?」
「つかさを通して感じた鬼気。あの部屋の奥には〝何か〟が潜んでいた」
「紅葉様のためにお調べになるのでございましょうか?」
 無感情ではなく、無表情。アリスの声音は毒を含んでいた。
「いや、僕のためだ」
 愁斗の瞳はアリスではなくモニターを映していた。両手は常に別の動きを見せている。アリスがすぐそこにいても、会話はまるで電話越しのようだった。
 ――心ここにあらず。
 アリスの表情も見ず、その言葉も感情を読み取らずに記号的に解釈する。心が遠くにあるときはいつもこうだ。
「愁斗様」
 と前置きをしても、耳を傾けているのかどうかわからない。それでもアリスは言葉を続ける。
「わたくしは具体的になにをすれば宜しいのでございますか?」
「様子を探って来るだけでいい、手は出さずに情報集に務めろ。しかし、深追いはしてもいい」
「承知いたしましてございます」
 一礼してアリスは部屋を出て行った。
 ドアの閉まる音は愁斗の耳に届いている。ただ、興味があるのはアリスがもたらす情報だ。
 愁斗は雅ではなく、あのマンションに潜んでいる〝何か〟に興味がある。それがなにであるか、現時点ではわからない。
 つかさは雅に尋ねた。
 ――草薙早苗って知ってる?
 あのとき雅は明らかな動揺をした。
 『知らない』と答えた雅の言葉が、不審な行動によって『知っている』に聴こえた。
 では、雅と早苗の関係は?
「見つけたぞ――〝金剛〟」
 愁斗は〝金剛〟の情報から〝金剛〟にはたどり着けないと知って、草薙早苗から〝金剛〟への道筋を探っていたのだ。
 早苗が本人認証をして買い物した記録を元に、居場所を絞り込んでいた結果、早苗と〝金剛〟が街の防犯カメラに映っている映像にハッキングできた。
 パソコン画面で再生されるライブ映像。二人の居場所は――マドウ区だ。
 マドウ区はカミハラ区の下、帝都中枢ミヤ区の左に位置する。前に二人が潜伏してホウジュ区からは南西に位置する。
 〝金剛〟は早苗を連れて個人病院の中へ消えた。
 紫苑はすでにターゲットを絞り込み、マドウ区に潜伏させていた。
 愁斗の意識が強く紫苑に注がれ、広がるビジョンは紫苑を通して見える世界。
 夜のカーテンが空を覆い、所々開いた穴から星が煌きを魅せる。
 マドウ区は女帝のお膝元とも云われ、魔導産業で栄えた街だ。外から魔導師たちの移民も多く、居住地区と産業地区に分かれている。居住地区の一角は魔導成金の屋敷が立ち並び、ゴシックやバロック建築などの芸術性に富んだ屋敷も多く見られる。
 紫苑がやって来たのは魔導街の裏の顔。
 毒々しい色の煙を出す煙突や芳しくも危険な香のする空気。排水溝で弾けた気泡は悪臭を放ち、スライムが溝から外へ出ようとしている光景も見受けられた。
 紫苑は個人病院の看板を見ながら、入り口の前に立った。
 ――マルバス魔法病院。個人病院であるが、魔導街の住民ならば誰もが知る病院だ。病気の治療のみならず、悪魔の業を持った院長が肉体の機械化や妖物との合成もやってのける。
 二四時間営業で病院は深夜でも患者を受け入れる。
 待合室には患者の姿はなかった。けれど、背もたれのない長椅子には人影が見える。ここに棲み憑いてしまっている亡霊だ。
 受付を通さず診察室に入ろうとする紫苑を看護婦が止めた。
「院長先生は手術中です」
 白い仮面を覗き込む看護婦の顔は魚の鱗で覆われていた。
「手術にも院長にも興味はない。男を捜している」
 紫苑はドアの前に立つ看護婦を押し退けようとしたが、その腕を看護婦のギザギザの歯で噛みついてきた。
 白い仮面は表情を変えず、服を引き千切られながらも看護婦を投げるように振り払い、診察室のドアを開けた。
 診察室は手術室と同じ部屋であり、そこには三人の人物がいた。
 手術台に上半身裸で横たわっていた〝金剛〟の顔は紫苑に向けられていた。
「またてめぇか!」
 〝金剛〟は状態を起こそうとするが、それは院長によって止められた。
「動くな、あと少しで終わる」
 紫苑が入って来たというのに、院長はライオンみたいな後頭部を向けて、切断されていた〝金剛〟の腕に新たなアームをつける手術をしていた。
 早苗は紫苑が入って来てから目線を泳がせてしまっている。
「手術なんかいいからこいつを殺して!」
 叫ぶ早苗に院長が吠えた。
「うるさい気が散るではないか!」
 そして、ここではじめて院長は紫苑に顔を向けた。
「わしの顔に免じて手術が終わるまで待て」
 向けられた院長の顔は獅子であった。人間の躰に獅子の頭が乗っている。いや、靴を履いていない足は割れた蹄だ。二足歩行する人間外の生物と考えたほうがよさそうだ。
 院長の申し出に紫苑は頷いた。
「高名な魔導医マルバスの顔を立てよう」
 これには〝金剛〟も早苗も度肝を抜かれた。
 約束どおり紫苑は待った。いったいなにを企んでいるのか、それとも愁斗になにかあったのか?
 手術をされている〝金剛〟の額には汗が滲んでいる。すぐそこにいる紫苑とどう戦うか?
 早苗も焦っていた。紫苑は攻撃こそ仕掛けてこないが、プレッシャーによって早苗の動きを封じている。
 マルバスは手を止めた。
「完成した」
 まるでそれは芸術品が生まれたような声だった。
 手術台から降りた〝金剛〟の腕には、金属のアームが取り付けられていた。形は手と腕のようだが、生身の左手と比べると一回りほど大きい。
 まだ紫苑は動かなかった。
 〝金剛〟も仕掛けようとしない。
 こんな狭い手術室は戦いに向かない。とくに大雑把な戦いが得意な〝金剛〟には不利な場所だ。
 血のついた手袋を投げたマルバスが言う。
「おまえには手術の代償を、君には手術を待ってくれた礼をしよう」
 早苗は目の前で起きた事態に眼を剥いた。帝都に住んでいてもなかなか見られない現象だ。
 マルバスが指を鳴らしたのと同時に紫苑と〝金剛〟が消失したのだ。
 紫苑は刹那に巨大な檻の中に移動させられていた。檻というより虫籠のようで、木枠の向こうには果てしない灰色が広がっている。五メートル前方には驚いて辺りを見回している〝金剛〟がいた。
 マルバスの声が世界に響く。
「そこは本来、わしのコレクションを入れて置く籠なのだが、特別に使わせてやろう。心存分に戦うがよい……ふぁははははは……」
 不気味な哄笑が世界全体に響き渡った。ここはマルバスが支配するテリトリーなのだ。下手をすれば物理法則などの世界法則までもマルバスの思うがままだ。
 理解をした〝金剛〟はニヤリとした。
「どちらかが死ぬまでというわけだな」
「そのようだ。お前が殺すまで外には出してもらえないらしい」
 二人の間に気迫が流れた。
 五メートルという距離はなにを意味するか?
 手に武器を握っていない〝金剛〟。
 対して、紫苑には刹那を翔ける妖糸があった。
 先に仕掛けたのは〝金剛〟だ。
 手術で得た金属の腕が大蛇のように伸びて紫苑に襲い掛かる!


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