大魔王ハルカ(改)ばーじょん1.25
「にゃーッ!?」

 ――朝起きたら猫でした。

 おっきな鏡に映った自分の姿を見て、ハルカは発狂しちゃいました。振動で脳ミソがシェイクです。これは大変です!
 人間だったら全身を映せるくらいのおっきな鏡なのに、今日はちょこんと小柄な黒い毛並みのナマモノがお座りしています。
 上から見ても、下から見ても、右も左も、斜め四五度から見ても黒猫です。
 ハルカのグルングルン動転する脳内で、脳味ミソがネバーエンディングにグルングルン回転します。
ハルカ・イズ・ア・パニック!
 と、カタコトのイングリッシュで叫びたい気分です。
落ち着いてなんていられません。
 ここはどこでしょう?
 家ですね!
 自分の部屋ですよ!
 焦ることはないと思います!
 やっぱり、焦ることはあるかもしれません!
 どっちだッ!?
 やっぱりここは焦っておきましょう。
 部屋のドアがガチャッと開き、少女が飛び込んで来ました。
 いったい誰でしょう?
「まさかお姉ちゃん帰って来たの!」
 驚きの表情を浮かべて入って来たのは、ハルカの妹のカナタでした。お姉ちゃんの叫び声を聞きつけて、部屋に飛び込んで来たのです。
 部屋の中を見渡すカナタの視線は、明らかに〝何か〟よりも高い位置にあります。その視線の下を黒い物体が猛スピード駆け抜けました!
 ハルカは逃げました。まん丸な瞳に涙を浮かべながらランナウェイ――逃走したのです。
「(カナタぁごめ~ん。でも、こんな姿見られるのはマズイもん)」
 そんなこんなで、ハルカは家を飛び出したのでした。
 道路に駆け出して、だいぶ自宅から離れたところで、ハルカは少し冷静になって状況把握に努めようします。
「……やっぱり逃げなきゃよかったぁ」
 人語で呟くハルカ。その声音は人間のときのほんわかした声と変わりません。
「(なんで逃げ出しちゃったんだろぉ。逃げないでカナタにちゃんと話せばよかった。でもママがハルカが猫になったって知ったら驚いて入院しちゃうかもぉ)」
 小柄な猫の身体から大きなため息が吐き出されました。後姿が黒い影を背負っています。
 なんとなぁーく歩き出したハルカの足は来た道を引き返していました。
「(やっぱり家に帰ろぉ。カナタに相談してから、ママとパパにどうやって説明するか考えればいいや)」
 下を向きながらトボトボ歩いていると、前方に小動物の気配を感じてハルカは顔を上げました。
 灰色の猫がこちらを見ています。首をつけていないので推定野良猫だと思われます。あくまで推定です。
 少しずつ野良猫が近づいて来ます。明らかにハルカに向かって来ちゃってますよ。
 野良猫(推定)はハルカの前まで来て『にゃ~ん』と鳴きました。もちろんハルカにネコ語はわかりません。
「(ハルカに話しかけてるみたいだけど……何言ってんだろ?)」
 クエスチョンマークがハルカの頭でダンスをします。
 野良猫(推定)は、また『にゃ~ん』と鳴きました。
「(だーかーらぁ。なにを言われてるのかわかんない。うぅん、とにかくにゃ~んって鳴いてみようかな)……にゃ~ん♪」
 ――野良猫沈黙。
人間の『にゃ~ん』は、所詮は人間の声だったようです。
 野良猫(推定)がしっぽを立てています。怒っているらしいですよ。
 野良猫(推定)が『ふーっ!』と鳴きました。かなり怒っているらしいですね。
 野良猫(推定)がハルカに飛びかかる!
「マ、マジ!?」
 眼を丸くしてハルカは逃げました。
「(なんでっ!? なにか悪いことしたハルカ!?)」
 人間の声真似がマズかったのか、野良猫のテリトリーだったのか、はたまた発情期の雄猫だったのか、とにかくハルカは野良猫に追いかけられるハメになってしまいました。
 逃げるハルカ。
 ドリフト走行をしながら住宅街のカーブを見事に曲がりました。
そこから猛ダッシュかけようと思ったハルカの作戦Aが見事に打ち砕かれました。
 前方からスクーターを襲いかかって来るではないですかッ!
 甲高い急ブレーキ音が鼓膜を震わせ、ハルカは紙一重でスクーターの直撃を免れました。
 ――ですが。
 肉球がアスファルトについている感触がありません。
 交通事故や危機的状況のときって、時間がスローモーションになるとかよくいいますが、このときのハルカも妙に冷静で辺りを見回す余裕がありました。
 黒と黄色のストライプ模様が目に入りました。それは工事現場でよくみる三角のカラーコーン。足元を見ると、ぽっかり大きな口を開けた闇。
 急に時間がもとに戻り、ハルカが全てを悟ったときは成す術なしでした。
「にゃーっ!!」
 落ちました。
 ハルカの姿はフタの開いたマンホールの底に、叫び声といっしょに吸い込まれるように消えちゃいました。
 不幸の連続。
最後にはしっかり落ちがつきましたね。
リアル落ちですけど。
 暗い闇の中に落ちたハルカの運命はいかにッ!

 さてさて、ところ変わって、遥か遠くの世界に舞台は移ります。
 水面がキラキラ光るシーマス運河が、地平線の先まで伸びています。
 その上空を羽の生えた爬虫類のような生物が滑空し、丘の上に聳え建つ立派な城が見下ろす王都アステアへと降りて行きます。
 市場で活気付く中央広場。
その目の前に建てられた天突い大聖堂を一周し、石畳が敷き詰められたメインロードの上空を、なぞるように羽の生えた爬虫類――ドラゴンが飛翔しました。
 世界三大魔導国家と名高い王都アステアは治安もよく、裕福な階層が多く住み、魔導国家というだけあって魔導関係の仕事についている者も多いようです。
 木造作りの家よりも石造りの家が主流で、三角屋根を乗せた三階建てや四階建ての建物が目に付きます。
その場所を離れ、仕事場を家に持たない者が多い東居住区に行くと、庭付きの平屋や二階建ての建物が多く見られるようになります。
 ドラゴンが飛翔した風の煽りを受けて、ポストからはみ出すくらい溜まっていた手紙が空に舞い上がりました。
 地面に落ちた手紙の宛て先を見ると、『ルーファス』と宛名が書いてあります。
 手紙の先に目をやった庭付き平屋建ての借家が、魔導士ルーファスの家です。
 ドーン!
 ビックリ仰天、ルーファスのおうちから通りまで鳴り響く爆発音が木霊しました。
 付近の住人たちは誰も驚いて家から出てくる様子はありません。
 近くを散歩していた子供が、無邪気にはしゃいでいます。
「やったぁ、またへっぽこが実験に失敗したぞ!」
 へっぽこ魔導士ルーファスの名前は、大人から子供、お隣さんの猫まで、知らない者はこの国にはいません――たぶん。
 ルーファス宅の中はとにかく汚いです。
 部屋の中はカビや薬品臭い――というか散らかっています。
 リビングを埋め尽くす魔導書や魔導具やら、脱いだままの服などなど、バザーが開けるくらい選り取り見取りです。簡単に言ってしまうと足の踏み場がないということです。
 ソファーに座るには、大規模な発掘作業が必要です。ホントにこんな部屋に人が住んでいるのでしょうか?
 表札には『ルーファス』とありますが、この部屋には人の気配がありません。
 ですので、もう少し辺りを観察してみましょう。
 ややっ、洞穴発見です!
 ――違がいました。地下室に下りる薄暗い階段でした。ある意味人工洞窟ですね。
 地下は魔導実験室になっています。
蝋燭の灯る暗い部屋にコソコソ動く人影発見です。ご近所さんでも挙動不審で有名なルーファスです。
 マント付きの魔法衣に身を包み、灰色を薄くしたみたいなアイボリーの長髪を、首の後ろで抵当に結わいています。めんどくさいから髪を切らないタイプの人間ですね。
 ルーファスは魔導学院を今年卒業したばかりで、就職もできなかったらしいと、ご近所さんが噂をしていました。
そんな噂話もルーファスの耳に入る――というか胸にグサグサ突き刺さったらしく、汚名返上のためにビックな召喚術をしようと無謀な試みをしている最中なのです、今。
 大魔王ルシファーの召喚――それは未だかつて成功例のない超一流の上に超がつく悪魔召喚です。
この大魔王を召喚し、自分のパシリとして遣うことができれば、ルーファスの名は超ミラクル天才大魔導士ルーファス様付けとして、世界にその名を轟かせることができるでしょう。
万が一、万が一奇跡の運命連鎖が起きちゃった場合の話ですけど……。
 少々カビ臭い地下室で、ルーファスはひとつ咳払いをしました。咳き込んだのではなく、これから唱える魔法に備えたのです。
 分厚い魔導書を片手に、ルーファスの柳眉がひそめられました。マジっぽいです。
「えーと、なになに……ライララライラ……闇よりも暗き者……されど……陽よりも……黄金の翼……」
 自信なさ気にボソボソと、しかも棒読みです。駄目っぷり全快ですね。
 けど、ルーファスが呪文の詠唱をはじめたと同時に、地響きが地下室を襲い、棚に並べてあった赤青緑の薬品が入ったビンが次々と床に落ち、激しい音を立てながらガラス片を飛び散らせて割れたのです。
ガラスの破片を踏まないように気をつけないと大変です!
 ゴクンと硬い唾を呑み込み、ルーファスは最後だけ大声を腹から出します。
「出でよ大魔王ルシファー!」
 床にペンキで描かれた幾何学模様の魔方陣が黄金の輝きを放ちました。
 魔方陣の真上で、空間が渦巻くように歪曲します。
「成功?(それとも失敗かなぁ~)」
 歪んだ空間が黒い影を魔方陣の上に吐き出しました。
「やったーっ、成功だ!」
 と歓喜の声をあげた次に、大魔王らしからぬ声が返ってきました。
「いったぁ~い。お尻打っちゃったぁ……」
 思いっきり女の子のかわいらしい声です。
 まさか出て来たの女の子!?
 しかも、出てくるときにお尻を強く打ったらしく、痛そうにお尻を摩っています。そんな仕草がプリティーです!
「(こ、これが……大魔王なのかな?)」
 自信なんて相手の姿を見ればぶっ飛んでしまいます。
 召喚された大魔王(仮称)は、亜麻色の髪の女の子。歳は十六か十七ぐらいで、薄手のチェックのスカートと上着は白いブラウスです。オプションで首元には、おっきなリボンがついています。
 ルーファスは動揺でドヨドヨしていましたが、頭はちゃんと回っていました。
「(ふ、普通っぽいぞ。けど、この世界ではあまり見かけないセンスの服を着ているし……か、変わり者か!?)」
 大魔王(変わり者?)を見ながら、ルーファス意を決して質問タイムです!
「(よし、ここは直接本人確認が確実だ)あ、あのぉ~、あなたルシファーさんですか?」
 眼を丸くした大魔王(揺ぎなく女の子?)と眼が合ってしまいました。
なにがなんだか、今はじめて自分がここにいて、しかも目の前に人がいることに気づいたみたいな感じです。
「ここどこなの?」
 連続瞬きをしながら女の子(もしかしたら大魔王)は辺りを見回して、いきなりルーファスの胸倉につかみかかって来ました。
「ハルカ誘拐されたのっ!?」
「(なんか怒ってるっぽいぞ。いや、パニック状態か? しかも僕のこと誘拐犯扱いしてる?)あ、あの、その、ここは私の家の地下室でして……」
「やっぱり誘拐!(どうしてハルカこんなところに?)」
「ちがっ、違う、そんな大それた真似、私にはできないよ(完全に勘違いされてるよ)」
「ここどこなの? あなた誰っ?(マンホールに落ちたところまで覚えてるんだけど)」
「私の名前はルーファス。ここはアステア王国の王都アステア。日時までついでに言ってあげると、十三月七日ハリュク」
「十三月!?(十三月ってなにっ!? うるう年の親戚かなぁ?)」
「時間もついでに言おうか?」
 袖を少し捲り上げてルーファスは腕時計で時間に確認して言葉を続けました。
「午前十一時十三分二五秒だよ」
「わかんないよぉ!」
「わかんないって言われても……あなたルシファーさんですよね?」
「ルシファーって誰だか知れないけど、ハルカはハルカだよぉ!」
 やっぱりというか、女の子が出て来た時点で絶対失敗だと誰もが思いますよね。ここまで粘ったルーファスはエライです。
「(ぐわーっやっぱり。生贄を人の代わりにマグロの刺身にしたのが原因かな。せっかくふんぱつして中トロにしたのになぁ)」
 当たり前です。召喚の手順は正しいに越したことなはありません。
しかも、人の代わりにマグロの刺身を生贄にする魔導師なんて前代未聞です――たぶん。マグロの値段が高かくても安くても大した問題じゃないと思います。どちらにしろ大失敗するのですから。
 眼を丸くしてきょどきょどするハルカに、ルーファスは重たい声をかけます。
「あー、立ち話もなんだから、上の部屋でゆっくり話そう(生まれてこの方、召喚術がまともに成功したためしがない)」
 のに、大魔王を召喚しようとしたルーファスはエライ。いや、無謀です。
二人は一階に移動しました。
そこでハルカが目の当たりにしたモノはッ!
「腐海の森?(すごい散らかってる。ハルカも片付けに苦手だけど、ここまでじゃないもん)」
「足もと気をつけてね、すごく散らかってるから。その辺りに座って」
「えっ?(座る? なにに?)」
 床に散乱するアイテムの数々が大地を創り、山を創り、森を創り、まるでここは箱庭レベルの世界縮小模型を見ているようです。ちなみにルーファスが指さしたのは、巨大なガレキの山。
 ハルカがなかなか座らないのを見て、ルーファスは発掘作業を開始し、ソファーを掘り当てると、ハルカに改めて席を勧めました。
「どうぞ、座って」
「う、うん」
 再びハルカの前で発掘作業をはじめるルーファス。今度はハルカの向かい側で一人がけのソファーを掘り当てました。
「どっこいしょ」
 年寄りみたいな声を出して座ったルーファスが、すぐにハルカの瞳を見つめるようで見つめない。本人はハルカの顔を見ようと努力しているのですが、眼が好き勝手に泳ぎまくってしまっています。
「あー、えーっと、なにから話したらいいのかな(うわぁ、僕のことずっと見てるよ。眼で殺されそう。早めに謝ったほうがいいかな)」
「ここはどこなのぉ?(なんかぜんぜん状況が理解できないよぉ)」
「それはさっきも言ったけど、アステア王国にある私の家。あなたは私に召喚されてこの場所に……(間違って来ちゃったみたい)」
 完全に床を凝視するルーファスの顔を、まん丸のハルカの瞳が見つめます。
「召喚ってなぁに?」
「つまり、他の場所からのこの場所に召喚(召喚ってポピュラーな言葉だよね、なんで通じないの?)」
「わかったような、わからないような(漫画とかでよくあったりする召喚のこと……なわけないよね)」
「あー、えっと、だからね。大魔王を召喚しようとしてね。そのね、だからね、間違ってさ……召喚しちゃった、えへっ」
 ルーファスの爽やか笑顔炸裂ですッ!
 が、その口元はムリしちゃって引きつっています。人間ムリしちゃいけません。
「大魔王ってなぁに、わかんない、意味不明だよっ。やっぱりハルカ見知らぬ国に誘拐されたのっ!? ねぇ、誘拐だよねっ!」
「だーっだだだだーから違うって、ごめんね、間違って召喚しちゃったんだってば。ごめんね、ごめんね、ごめんね!」
 再びパニック状態になったハルカを見て、ルーファスもパニック状態です。パニック状態の二重奏です。
 かなーり取り乱した様子で、ルーファスは自虐的になり、ソファーから飛び降りてスゴイ勢いで謝りだしました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさない、ごめんなさい、ごめん……」
 と床におでこを何度も強打しながら、何度も土下座する痛々しいというかイタイ人のルーファスを心配して、ハルカが血相を変えて止めに入ります。
「ごめんね、ハルカが少し悪かったかも(悪くないけど)。だから頭を上げてっ、そんなことするとハルカが悲しむよ?」
 涙目になってるハルカを見て、ルーファスは真っ赤なおでこ上げました。
「ハルカごめんね。僕さ……根っからの駄目人間でさ……うわぁーん!」
 ゴン、ゴン、ゴン!
 再び頭を床に打ち付けるルーファス。釘を打てそうな勢いです。
「だからやめって、お願いだから。ハルカ泣くよ!」
「泣かないで、ごめんね。僕が全て悪かったから。生きててごめんさいだから(僕を生んでくれた母さんごめんよ)」
「いいから落ち着いて、ねっ?」
 まん丸の瞳で見つめられ、ルーファスの顔がほんのり桜色に染まりました。
「あーっ、紅茶いれてくるね。ちょっと待ってて(ほとんど家にひきこもってるから、すぐに女の子に恋しそうになっちゃうな。マズイ、マズイ、あはは)」
 仕切りなおしにルーファスは台所に姿を消してしまいました。
 ひとり部屋に残されたことで、ハルカは周りをぼんやり見つめながら冷静さを取り戻してきました。
「(全部夢なのかも。不思議な服装の人だし、アステア王国とか言ってたけど、そんな国聴いたことないもん。それに普通に言葉だって通じちゃってるし)」
 ハルカはマンホールに落ちた記憶まではあるのですが、そのあとは気づいたら薄暗い地下室でした。
 ま、まさか下水道に落ちて知らない国まで流された!?
 なんて非現実的なことはないと思います。
 しばらくしてルーファスが湯気の薫るカップを二つ持って帰って来ました。
「熱いから気をつけてね」
「うん、ありがとう」
 ティーカップを渡されたハルカは笑顔で受け取り、入念に息を吹きかけてから一口飲みました。
 次の瞬間。
 ハルカの口が紅茶の噴水を吹き上げた!
「マズーっ!(しょっぱい。砂糖と塩間違えたんじゃないの!?)」
 紅茶だと思ったものが紅茶の味ではなかった。油断した。真後ろから鈍器で撲殺されるくらい不意打ちで不覚を取ってしまいました。
 唇から滴る紅茶を手で拭いながら、ハルカはふと目線を上げました。
そして、凍りつく。
 レンジでチン♪
 ハルカは解凍されました。
「ごめん!」
 紅茶を噴出してしまったこともそうですが、それによって引き起こされた悲劇が重大だったのです。
 顔までびっしょり紅茶で濡らしたルーファスが、肩を震わせて引きつった笑いを浮かべています。怒っているのではありません。ネジが外れて壊れているのです。
「へっへっへっ……ぜんぜんへーき。えへへ、僕みたいな奴は紅茶かなんかで顔を洗って出直したほうがいいから、気にしないで(紅茶にもカテキン入ってるっけ。カテキン効果で雑菌退治。あはは、僕は雑菌か……)」
「ごめんねっ、紅茶があまりにもマズかったから!」
「それは僕の責任だね、あはは(いつも砂糖と塩の容器間違えるんだ)」
「ごめんなさい!」
 駅前でもらったポケットティッシュを取り出して、ハルカは悪霊に取り憑かれたように一心不乱にルーファスの顔をゴシゴシ拭きました。
「あ、あのさ(痛い)」
 それでもハルカは手を止めようとしません。本当になにかに取り憑かれているかもです。
 ハルカは一心不乱になりながらも、ルーファスの顔を目の前でまじまじと覗き込んでいました。
 あんな土下座とかしなければ……てゆーか、なにもしないで黙ってれば、実はルーファスって綺麗な顔立ち?
 ハルカの手がついに止まりました。
「はぁ……はぁ……(これだけ拭けば)」
 たしかに、タイル掃除でもするみたいにこれだけ拭けば、紅茶は一滴も残ってないでしょう。けど、ルーファスの顔はティッシュのカスでスゴイことになっています。
 顔にティッシュカスを付けたまま、急にルーファスは真剣な顔つきになりました。こんな顔をするとカッコイイですが、ティッシュカスがそれを台無しにしています。
「そういえばさ、ハルカってどこから来たの?」
「うーんと、日本?」
「ん?(ニホンってどこだろう)」
「地球?」
「チキュウ(ニホンという国のチキュウって都市?)」
「アース?」
「……な、なんだって!?(アースってアースのこと!?)」
 顔が飛んでしまうくらいの驚いた表情で、ルーファスはソファーから飛び上がりました。
 ティッシュがついたままのルーファスの顔がハルカに詰め寄ります。
「アースというのは伝説の楽園の名前だよ。でもね、楽園のいうのは名ばかりで、大きな戦争のあとにそこは悪鬼の住む地獄のような世界になったらしい。全部御伽噺だけどね」
「たぶんハルカがいたところとは、ぜんぜん関係ないかな(平和そのものだし。海外は戦争してる国もあるけど、日本はぜんぜん平和だもん)」
「関係ないのか、よかった」
 アースにルーファスはなにか危惧したようですが、それ以上はなにも語りませんでした。
「そんなことよりも、ハルカを帰してよ」
「帰してって言われても。間違って召喚したとはいえ、契約内容が生きている場合は、その契約を果たさないとあなたは帰れないわけで……(この子にそんなことさせられないし、どうしよう)」
「どうしたら帰れるの?」
「大魔王を召喚しようとして間違ったって言ったっけ?」
「うんうん」
「その召喚した理由って言うのが……世界征服なんだよねぇ、あはは」
「なにそれ、子供の夢見たいな」
 子供の夢ならまだしも、十九にもなって世界征服を本気で考えるなんて、脳内が子供です。それとも、よほどの自信が……ルーファスにあるはずがありませんね。
「子供の夢で悪かったですね。私はこれでも真剣に世界征服をして、世間を見返してやろうと思ったんだよ」
「ハルカが世界征服すれば帰してもらえるの?」
「たぶん(本当はどうしたらいいかわからないけど)」
「世界征服なんてしたくないよ。できるわけないじゃん。ハルカを家に帰してよ!」
 声を張り上げながら薄っすらと涙を浮かべるハルカ。まだパニック状態から完全に抜けておらず、感情のコントロールがうまくいかないみたいです。
 困った顔をしてルーファスは声を噛み締めながら言います。
「ごめんね、私のせいでこんなことになって。私が責任をもってあなたを帰してあげるから、心配しないで」
 ルーファスの手がハルカの顔にそっと伸び、瞳から零れ落ちた涙を優しく指で拭いました。
「うん。ありがとう」
「でもね……実はさ……ぜんぜんあなたを帰す方法がわからないんだよね。アースから来たなら、私には絶対ムリかなみたいな……あはは」
 急に態度を変えて軽く笑い出すルーファスに対し、ハルカの中で突発的な憎悪が生まれました。
「ばか!」
 ハルカは近くにあった分厚い魔導書を手に取り、大きく振りかぶり風が唸るぅ。
 グォォォォン!
 改心の一撃!
 分厚い本がルーファスの顔面に炸裂しましたよッ。
 顔の形を変形させながらルーファスは吹っ飛び、そのまま意識がブラックアウトしてしまいました。

 床に倒れるルーファスを見下ろすハルカの顔に焦りの色が猛ダッシュです。
「殴るつもりはなかったの(そう、不可抗力♪)」
 数秒の時間を置いて、ハルカの焦りが爆発しました。
「ル、ルーファス! だいじょぶ!?」
 ハルカは凄まじい勢いでルーファス傍らに膝を付き、床に倒れる彼の身体を思いっきり揺さぶりました。ゆっさゆっさ。
「ル、ルーファス!」
 返事がありません。気を失っているようです。
 焦りに焦るハルカは、ルーファスの上半身を起こして肩をガシっとつかむと、大震災みたいにルーファスの身体を揺さぶりました。
 ルーファスの首がガクガクと揺れている……骨折れてませんか?
「ねぇ、返事してよぉ~!」
 ハルカは思います。
「(殺っちゃったかも……ショック!)」
 ハルカ的大ショックのあまり、ハルカの身体からは力がすぅーっと抜けていき、支えを失ったルーファスの身体がパタンと床に転がりました。
 ゴン! 床に頭がぶつかっちゃったぁ。
「(殺っちゃった……)」
 灰色の世界が辺りを包み込みます。
 ハルカはまばたきすらせず、首だけをゆっくりと機械的に動かし、床に転がるルーファスを見下ろしました。
「……るーふぁす……生キテル?」
 ハルカの呼びかけに対して、返事がない……ただの屍のようだ。
「あぁぁぁぁぁっ! 殺っちゃった! どうしよう、どうする、なにが、いつ(When)今日、どこで(Where)この家で、誰が(Who)アタシが、なにを(What)ルーファスを殺した、なぜ(Why)不可抗力で、どのようにして(How)分厚い魔導書で殴打、なんてこったい!(Oh my God!)」
 ハルカは完全にパニクっています。
「(どうするハルカ……!?)」
 ピカーンとハルカの脳細胞が、ハルカ的に完璧な作戦を考え出しました。
 作戦はこうです。

①まずハルカちゃんは物置に行きます。
②そこでスコップを見つけ出して庭に行きます。
③庭についたら大人がひとり入れる穴を掘ります。
④そして、掘った穴に先ほど殺害してしまったルーファスを投げ入れ、土をかぶせてあげましょう。
⑤それが終わったら、手を綺麗に洗って、凶器となった魔導書を焼き捨てて証拠を隠滅しましょう。
⑥全部の過程を終わらしたら、何食わぬ顔をして紅茶でも飲んで一休みしましょう。

「か、完璧だわ」
 ぎゅっと拳を握り締め、ハルカは眼を輝かせると、さっそく作戦実行に移ります。
 まずはスコップの入手ですが、これは案外簡単に見つかりました。
 次はルーファスの移動です。
 身動き一つしないルーファスの足首をガシッとつかみ、ハルカは力いっぱい頭いっぱいいっぱい、とにかくルーファスの身体を引きずりました。
「……重い」
 そのまま廊下を進もうとすると、ハルカの手に伝わる振動と鈍い音が聴こえてきたけど、気にしない。だって相手は死んでるんだから、エヘッ♪
「にゃはは、早く穴掘んなきゃ」
 先を急ぐハルカの真後ろで人の気配がしました。ルーファスではありません、別の気配です。
《見たぞ……ふふふふっ》
 低い女性の声に心臓が飛び出るくらい驚き、ハルカはすぐに真後ろを振り向きます。
「誰っ?」
《貴様なにものだ?》
 そこには黒いナイトドレスを着た長い黒髪に女性が立っていました。
 スリットから美しい脚線が伸び、胸元をカットされた服から豊満な胸の谷間が顔を覗かせています。そして、蒼白い顔に浮かぶ唇が、なんとも言えぬ艶やかな微笑を湛えています。
 なぜ、ここにこんなミステリアスな女性が突然出没したのでしょうか?
 もしかしてルーファスを殺害しちゃったとこ見られた?
 なんてことよりも、ハルカは別のことでもっともっとパニックになっていました。
 ――言葉がわかんない!
 そう、女性が発した言語はなにがなんだかさっぱりだったのです。
「ふぅーあーゆぅー?」
《なにをいっているのだこの娘は》
「日本語は通じますかぁ?(ぜんぜん通じてないかも!)」
《ふむ、言葉がわらぬようだな。仕方ない》
 謎の女性はハルカの傍らに近づくと、そのまま顔をハルカの耳とに近づきました。
 艶やかな女性の唇から、熱い吐息がハルカの耳に吹きかけられました。
「はぅ!?」
 敏感な部分を刺激され、膝がガクンとなったハルカの身体をすぐさま女性が支え、そのまま顔と顔が重なったぁっ!
 ぶちゅ~っ!?
 女性の熱いちゅーがハルカの唇に覆いかぶさりました。
 きっと痴女に違いありません!
 唇を奪われたハルカは驚いて女性の身体を突き飛ばし、唇を拭って後ろに後退りをしました。
「にゃ、にゃにするのぉ!?(ちゅーされた!?)」
「術をかけただけだ案ずるな、妾にそっちの趣味はない」
「あっ、えっ、言葉がわかる!」
「だから術をかけたと言ったであろう(この娘、頭が弱いな……ふふっ)」
 実はあの熱い吐息は言語を理解できるように、キスは言語を話せるようにする術だったのです。
 まだまだキスの動揺を隠せないハルカ。顔を真っ赤にしながら俯き加減で女性に尋ねます。
「あなた誰ですかぁ?」
「人の名を尋ねるときは、自分の名を先に名乗れ。だがな、妾から乗ってやらないこともない。妾の名はカーシャ」
「……カーシャさん。ハルカの名前はハルカです」
「おまえ、ルーファスの彼女か?(ま、まさか、へっぽこ魔導士に彼女ができる……なんてな、ふふっ)」
「ち、違います! それよりも、ルーファスが急に倒れちゃって、それでハルカはこれから病院に連れて行こうかなって(思いつきで嘘ついちゃったよぉ。どうしよ)」
「案ずるな、弱っているが生命反応が視える。放置しておけば、そのうち意識を取り戻すだろう。それよりもだ」
 カーシャが音もなく動き、ハルカの眼前まで迫りました。
「おまえ、なぜルーファスの家にいる?(ついに女に飢えたルーファスが少女拉致監禁か?)」
「間違って召喚されたらしくって(ハルカもよくわかんないけど)」
「(さすがはルーファス、間違って召喚か)それで、どこからきたのだ?」
 この質問にハルカは少し戸惑いましたが、正直に答えることにしました。
「……アースから、かも」
「アースからだと!?(……のはずがないな。見た目から判断しても、とてもアースから来たとは思えない)」
「だから、かもって」
「アースからというのは嘘だな。おまえは頭の可笑しくて妄想癖のある娘だ(そうとしか考えられない)」
「ハルカ頭可笑しくない!」
「そんなことは妾にとってはどうでもよいことだ。おまえがこの辺りの者ではないのは、見ればすぐにわかる。それだけが事実だ」
「実は家に帰りたいんですけど、帰り方がわからなくて困ってるんです」
「……ふふふ、おまえが本当はどこから来たかは知らぬが、妾もおまえが帰れるよう協力しよう(ルーファスがまたおもしろいことをしてくれたようだな。アースから来た娘、成り行きを見なければ損だな……ふふっ)」
 妖艶な笑みを浮かべたカーシャは内心ウキウキ気分です。ルーファスの近くにいれば、人生に退屈せずに過ごせる。とカーシャは思っているみたいです。
 未だ床で気を失っているルーファスの腹に、カーシャの強烈な蹴りが炸裂しました。
「ぐっ!」
「起きろルーファス魔導学院に行くぞ」
 腹を押さえて床でもがくルーファスの襟首をカーシャがつかみ、そのまま無理やりルーファスの身体を立たせました。
 無理やり起こされたルーファスは状況把握ができないまま喚きます。
「腹を蹴ったのカーシャだろ!」
「そんなことはどうでもいい。それよりも、まずはお茶と菓子を出せ」
「はぁ?」
「一休みしてからクラウス魔導学院に行くぞ」
「はぁ?」
「ハルカのためだ。魔導のことなら、まずはあそこに行くのがいいだろう」
「はぁ?」
「とにかくまずは妾に茶を出せ」
「は、はい、わかりました(なんでいつも僕はカーシャに顎で使われてるんだろ)」
 胸の奥では不満を覚えながらも、ルーファスは黙々と台所に向かって歩いて行きました。女王様と奴隷の構図みたいです。
 ルーファスの後姿を不憫に思ったのでしょうか、ハルカもそのあとを追いかけて台所に向かいました。
「ハルカも手伝うよっ」

 ルーファス宅で一休みをしたハルカたちは、強引に押し切られる感じでカーシャの命令を聞くことになりました。
 乗合馬車で魔導学院近くまで移動する車中、ルーファスは明らかに不満そうな顔をしていました。
「魔導学院に行くの……ちょっと嫌かなぁ(とくにカーシャと行くのは)」
「ハルカを帰してくれるんじゃなかったの?」
 ハルカが詰め寄ると、ルーファスは『うーん』と唸ってしまいました。
「帰してあげたいんだけど、その、なんていうかな、とにかくさ、そうなんだよ」
「わかんないよ、もっとはっきりしてよ!(ぜんぜん頼りにならなんだから。カーシャさんのほうが頼りになりそう)」
 頼りになりそうな感じはするが、どこか信用できない感じも漂っています。
 揺れる馬車の中で座らずに立っているカーシャは、威圧するようにルーファスの前に立っています。怖いです。
「ルーファス、おまえがハルカを間違って召喚したのが悪いのだぞ。全ての責任はおまえだ、学院時代からおまえを知っているが、トラブルを起こさなかった日があるか?」
「だから私が悪かったのは反省してるよ」
「妾がどれだけおまえの尻拭いをしてやったと思っているのだ。成績もだいぶ改ざんしてやったのだぞ」
「わかってるって、僕が全部悪いんだよ。生まれてきたのが、そもそも悪かったんだよ……うわぁ~ん!」
 ハイパーネガティブのルーファスが車内の壁に頭を打ち付けだしました。
「お客さんやめてください!」
 乗務員がルーファスを止めに入り、ハルカもそれに加わりました。
「ハルカぜんぜん怒ってないし、ルーファスのせいじゃないよ。とにかく家に帰してもらえればいいから、お願いだから自分を傷つけないでっ!」
 噴水のある広場を抜けたところで、馬車が止まりました。
 頭を打ち付けているルーファスの首根っこをつかみ、カーシャが馬車の外に引きずり出します。
「行くぞ、ルーファス(まったく世話の焼ける奴だ)」
 クラウス魔導学院といえば、この国では歴史は浅いですが名門校としては名高いです。ルーファスは数ヶ月前に、この学院を卒業した卒業生です。おそらく入学と卒業でルーファスは人生の運を全て使い果たしたに違いありません。
 校門を抜けて、すぐに事務室に向かった三人。
 外来受けつけをしている事務員の女性がカーシャの顔を見て凍りつきました。
「カーシャ先生!? あ、あのカーシャさんの当学院への立ち入りは禁止されています(なんであたしが受付してるときにブラックリストに載ってる人が来るのよ)」
 じつは、カーシャは以前魔導学院の教員をしていたのですが、ルーファスの卒業式直前に問題を起こしてクビになっていたのです。
 事務員の女性にカーシャが妖しく笑いかけます。
「ふふふ、それが元教員に対する態度か? せっかくわざわざ正面から乗り込んできてやったのに、つまらん」
 カーシャの掌がそっと女性の目元を覆い隠しました。ふっと女性の意識が飛び、床にゆっくりと倒れこんでしましたよッ。
「行くぞ、ルーファス戦争だ!(待っていろファウスト、今日こそ決着をつけてくれる!)」
「だから僕は嫌だったんだ」
「どういうことぉ?」
 ハルカはなにがなんだか、お目めをパリクリさせてしまっています。
 疑問いっぱいのハルカを置いてカーシャが学院に乗り込みます。そのあとを子分のルーファスが仕方なさそうに、ハルカの袖を引っ張ってついていきます。
 玄関を抜け、廊下を走ります。
 魔導学院はただいま授業中らしく、廊下は静けさに満ち、時おり教室から生徒たちの声が聞こえてきます。
 カーシャの後を追って廊下を走るルーファスは考え深げに、懐かしさを覚えながら辺りをキョロキョロ見回していました。
「懐かしいな(確かここでローゼンクロイツの毒電波攻撃を受けて、腹痛を起こしたんだった……いい思い出少ないな)」
「悠長なこと言っている場合ではない。まずは手始めに教室ジャックをするぞ!」
 カーシャのビックリドッキリ発言に、ルーファスは度肝を抜かれ、ハルカは強く反論しました。
「なんでそんなことするんですかぁ? ハルカを家に帰す方法を探しに来たんじゃ?(途中から雲行きが怪しいとは思ってたけどぉ)」
「全ては奴への宣戦布告だ!(ふふふ……ふふふふっ)」
 明らかに善からぬことを考えているカーシャの前に、魔法衣の制服に身を包んだ生徒たちが曲がり角から飛び出して来ました。
 足を止めたカーシャが生徒たちに投げかけます。
「おまえら授業はどうしたのだ?(授業をサボル悪い子は、お仕置きしちゃうぞ……うふふ)」
「我らは風紀委員。学校を守るため、他の生徒にはない特権をもらっている。カーシャさん、あなたが学院に進入したことは、すでに教職員たちに知れ渡っています。速やかに抵抗せずに僕たちに捕まってください」
「言いたいことは、それだけか?(うさぎか猫か、ピンクのブタにするか)」
 カーシャから放たれる氷のように冷たい視線。魔力のこもった瞳でカーシャは風紀委員たちを凝視しました。
 すると見つめられた風紀委員たちの身体は、見る見るうちに縮んでいき、その身体はピンクの短い毛で覆われ、ハルカが声をあげた時には、ピンクのブタに変身してしまっていたのです。
 ブタに変えられた風紀委員たちがビヒブヒ鼻を鳴らしながら逃げていきます。
 騒ぎを感じて教室の生徒たちが、ドアの小窓から廊下の様子を伺っていますが、それ以上のことはしません。ここは三年生の教室で、魔導学院時代のカーシャを知っているからです。
 いつの間にか物陰に隠れていたルーファスが呟きます。
「これで僕も立ち入り禁止かな(もう最悪だ、最悪だ、最悪だー。首吊って自害しようかな……あはは)」
 ネガティブキャンペーン実施中のルーファスを放置して、カーシャの次の目標は教室に向けられていました。
「次は教室をジャックして、人質を取るぞ!」
 当初の目的を放棄して破天荒に突っ走ろうとするカーシャを、必死になってハルカが止めようとします。
「待ってお願いだから、教室の中に入らないでぇ!」
 ハルカはカーシャに抱きついて動きを静止させようとしますが、カーシャはお構いしなしで教室のドアを開けようとします。
 が、その手が急に止まりました。
 大きな気配がすぐ傍にいるような。
「御機嫌ようカーシャ先生」
 耳に張り付くような陰湿な男性の声。
 そこには鏡や羊皮紙や宝玉やら魔導具をジャラジャラ身に付けた、肌まで浅黒の黒尽くめの魔導衣に身を包む長身の男性が立っていました。黒魔導教員ヨハン・ファウストです。
 すでにカーシャの意識はファウストだけに注がれています。
「待っていたぞ、ファウスト」
「私を待っていた? カーシャ先生に貸した一〇〇〇ラウルをやっと返していただけるのですか?」
「知らんな、お前に金など借りた覚えなどない(妾は決して認めんぞ。認めたら、負けだ)。それに妾は『先生』ではない(知っていてわざと言うところが腹が立つ)」
 カーシャは確信犯(誤用です)だった。絶対に借りたお金を踏み倒す気らしいです。
「などほど、そういえばすでに『先生』ではなかったですね、これは失礼。どこかで非合法の魔導ショップをして稼いでいると噂を聞きましたが、その稼いだお金から一〇〇〇ラウルを返していただけないでしょうか?」
「だから借りた覚えなどない」
「(あくまでシラを切るつもりか)返済期限が五年以上も過ぎていることは、再三申し上げているのでご存知ですね?」」
「記憶にないな」
 こうやって五年以上もの間、カーシャはファウストから借りたお金を踏み倒そうとしているのです。エライです。
「記憶になくとも、この際宜しい(シラを切られるのはいつものことだ)」
「ほう、なにをする気だ?(ファウストのマナが上昇している。なにか仕掛けて来る気か?)」
 マナとは魔法を使うときに発生するエネルギーのことです。
「一〇〇〇ラウルを返さぬというのなら、契約の名のもとに冥府に送って差し上げますよ」
「(たかが1000ラウルで目くじらを立ておって)」
 向かい合う二人の間に電気を帯びたピリピリした空気が流れます。
 緊迫と沈黙。
 カーシャVSファウストの構図がわかりやす~くできあがってしまっています。
 激しい激突は免れそうにありません!

 ハルカが口なんか挟めるわけもなく、その場でじっとしていることしかできません。
「あぅ(どうしよぉ、なんかすごい困った展開になりそう)」
 魔導士でもない凡人のハルカにどうすることもできません。たとえ魔導士あっても、この二人の戦いを阻止すのは難しいかもしれません。
 ファウストの身体からは、目でも確認できる黒いオーラが悶々と出ています。その手に持った羊皮紙の契約書が風もないのに揺れました。それはまるで強風に揺れる旗のように揺れ動いています。
 目には見えませんが、カーシャの身体からも凍てつくオーラが出ています。空気中に漂う水蒸気が氷結し、学院の廊下に薄い霜を降ろしました。その発生源は、かつて〈氷の魔女王〉の異名を持っていた魔女――カーシャです。
 揺れる契約書をファウストがカーシャに突きつけましたッ。
「カーシャ、早く一〇〇〇ラウルをお返しなさい」
「借りてもないのに返せるか!」
 カーシャはきっぱりはっきり断言しました。
――嘘は認めたが最後。
これがカーシャの信条なのです。
 契約書の一節にはこう書かれています。『契約を破った場合は魂を持って償う』と。それはつまり、契約を破ったカーシャは殺されちゃうということです。大変です。
 ファウストの持つ契約書にただならぬ邪気を感じて、カーシャは〈氷の魔女王〉ならぬ発想をしました。
「……うむ(焼くか)」
 〈氷の魔女王〉が〝炎〟を使う。この時点で反則ワザっぽいですが、『焼く』ということは契約書をなかったことにするという意味です。そっちの方が反則ワザです……てゆーか、セコイですよ。
 カーシャの右手が凄いスピードで動きました。
 その手から放たれた炎の玉が、契約書を焼き尽くそうと飛びます。しかし、その間に謎の障害物が出現ですッ。
「ちょっと二人とも止めてよ!」
 謎の障害物――ルーファスに炎の玉が見事ヒット!。
「あちぃ~っ!」
 ルーファス炎上。炎の玉はルーファスの服に引火してしまいました。大変です。
 すぐさまカーシャが魔法で水を放射し火を鎮火させました。
 シュ~っという音を服から立てながら立ち上がるルーファスを見て、カーシャが小さく呟きます。
「ちっ……外したか(契約書を燃やしてしまおうと思ったのだが)」
 ここまでくれば言うまでもありませんが、カーシャは自己中です。
「契約書を燃やそうとしましたねカーシャ? 契約書により制裁を下しましょう。出でよ、闇の眷属よ!!」
 悪魔の笑みを浮かべたファウストの持つ契約書から、なにかが呼び出されました。
 威圧感を放つ存在。それは悪魔でした。契約を破った制裁として、契約書に宿っていた悪魔が、この世に召喚されたのです。
 筋肉質で赤黒い身体を震わせ、丸まった背中から漆黒の翼を羽ばたかせ、獣の頭を持つ悪魔は、金色に輝く眼でカーシャをギロリと睨みつけました。怖いです。
 けど、カーシャも負けていません。
 冷めた瞳で悪魔を一瞥したあと、すぐに口元を歪ませました。
 危険を察知したルーファスはしゃがみます。彼の判断は正しかったみたいです。
カーシャの口が言霊を紡ぎだします。
「ホワイトブレス!」
 氷系の高位魔法をぶっ放しました。カーシャは学院内――しかも廊下で強力呪文をぶっ放したのだです。
 ブォォォッッッ!
 濃縮された吹雪が悪魔に直撃して悪魔が凍ります。おまけにルーファスの心も凍ります。
 周りの被害など考えず、やりたい放題の子供の喧嘩ですかッ!
「カ、カーシャ! なにすんだよ!(死ぬかと思った!)」
 だが、ルーファスの言葉なんてカーシャの耳に届きません。
 カーシャの姿が残像をその場に残し、霞のように消えました。幻術です。
 凍りつき身動き一つしない彫像と化した悪魔の前にカーシャが立ちました。
「ふふ、儚く散れ!」
 着ている服からは想像もできない動きで、カーシャの回し蹴りが悪魔に炸裂!
 角度によってはスカートの隙間からパンツが見えたかもしれません!
 粉々に砕け散る悪魔。砕け散った氷の結晶が煌くその先でファウストは微笑しています。
「なかなかやりますね」
 舞い散る結晶の中、カーシャは冷笑を湛え言います。
「もう終わりか?」
「いいえ、カーシャ先生が死ぬまで、制裁は続きますよ。早く一〇〇〇ラウルをお返しなさい(ただが1000ラウルと言えど、契約を破った者は許しませんよ)」
「借りた覚えなどない(こいつ、ただが一〇〇〇ラウルで妾を殺す気か)」
 こんな足踏み状態のやり取りが五年以上前から続けられているのです。
 二人のトンデモ魔導士が戦いを繰り広げる中、すでにハルカはルーファスと一緒に廊下の隅に避難していました。あんな場所にいたのでは、命がいくらあっても足りません。
「ねぇルーファス、一〇〇〇ラウルって高いのぉ?」
「一ラウルチョコが一〇〇〇個買える(一〇〇〇個も食べきれないな)」
「例えが悪いよぉ(一ラウルチョコって五円で売ってるチョコみたいなのかな?)」
「じゃあさ、うめぇぼうが五〇〇個買えるとか(う~ん、これも食べきれないな)」
「だから、わかんないってばぁ(うめぇぼう……これも聞いたことあるような名前)」
 こんな呑気な会話なんてさて置いて、カーシャとファウストの戦いはとどまることを知らないようです。
 カーシャは自分の両耳にしていた蒼い宝玉のイヤリングを外しました。
「ふふ……ここままではラチがあかない(滅却してくれるわ)」
 滅却って、カーシャはなにする気なのですかッ!
 刹那、カーシャの身体が蒼白き光を発しはじめました。その輝きは冷たく辺りを包み込み気温をグッと下げます。
 そして、カーシャの瞳は黒から蒼に変わり、唇は赤から紫に、髪は漆黒から白銀に変わっていったのです。
 廊下は完全に凍りつき、先の尖った氷柱が次々と飛び出しました。刺さったら痛そうですね。
 ハルカは叫びながら身を屈め、ルーファスは『つ』や『と』の形に身体を曲げて氷柱を避けます。この中でファウストだけが漆黒の炎を身にまとい平然と立っています。
「なにをする気ですかカーシャ?(急激なマナの増加。クロウリー学院長に匹敵するかもしれない、危険だ)」
 カーシャ砲撃準備OK!
 氷の結晶――マナ粒子がカーシャの身体に集められていきます。もう誰も止められないのでしょうか?
「カーシャいい加減にしてよ!」
 ドゴッ!
「ぐっ!」
 ゴォォォッッッーーー!
 天井に開いた大穴から青空を見えます。今日もいい天気ですね。
 なんてことはさて置き、なにが起こったのか説明しましょう。
 まず、カーシャは学院ごとふっ飛ばすくらいのマナを溜めて撃とうとしました。
 それから、ルーファスが掃除用具入れから取り出したモップでカーシャの後頭部を強打。
 そのときの効果音が『ドゴッ!』。
 殴られたカーシャは『ぐっ!』と言ってバランスを崩しバタンと床に倒れました。
 撃とうとしていた魔法は中途半端なまま、天井を突き破り上空に放たれたのでした。
 以上説明でした。
 床に大の字で倒れたカーシャの髪の毛の色は元の漆黒に戻っていました。打ち震えるカーシャはなにかを小声で言っています。
 耳を澄ませて聴いてみましょう。
「……ル……ファス……(死!)」
 気迫とともに立ちがるカーシャ。その目はキレています。怖いです。
 凍りついた廊下に緊張が猛ダッシュします。
 無言で妖艶な笑みを浮かべるカーシャの手が動きます。
 動きます!
 動きますよ!
 そしてまた動きましたよ!
 カーシャの手から放たれる氷の刃がそこら中に突き刺さります。ルーファスは紙一重で避けますが、明らかに刃はルーファスに向けて放たれています。
 殺る気だッ!
「カ、カーシャ、落ち着いて!(殺されるぅ~)」
「ふふ……(死!)」
 キレちゃったカーシャの容赦ない攻撃は続きます。狙われているのはもちろんルーファスです。
 なかなか的に当たらないことに業を煮やし、カーシャの意識はルーファスだけに注がれています。その隙をついてファウストが攻撃を仕掛けてきます。
「ダークフレイム!(魂をも焼き尽くせ)」
 漆黒の炎が渦を巻き、カーシャに襲い掛かります!
 瞬時にカーシャは魔法壁を張ります。
「アイスシールド!」
 氷の壁がカーシャの姿を隠し、ダークフレイムの直撃を受けて砕けながら溶けてしまいました。その先にカーシャの姿はすでにありません。カーシャは教室の中に逃げ込もうとしている最中でした。
 教室内で身を潜めていた生徒たちを人質にする気です。悪人です。
 ファウストもカーシャを追って教室に駆け込みます。
 これはチャンスです!
 ハルカがルーファスの袖を掴んで引っ張ります。
「今のうちに逃げようよぉ」
「そうだね」
「早く行こっ!」
「ハルカ危ない!」
「にゃ!?」
 どこからか飛んで来た氷柱がハルカを襲います。
 ルーファスの身体がハルカを庇うように覆いかぶさりました。
「くっ」
 ハルカの前で歯を食いしばったルーファス。魔導衣の袖が裂け、腕に紅い鮮血が滲んでいます。
「大丈夫ルーファス!」
「ハルカこそ平気?」
 真剣な眼差しでハルカを見つめるルーファス。
「うん、ありがとう(ハルカのために怪我まで……)」
「よかった」
 ハルカの瞳に映るルーファスが輝いて見えます。微かなトキメキが胸をくすぐります。
 が、次の瞬間。
 爆発音と一緒に飛んできたモップに後頭部を殴打されて、ルーファスは顔面から床に沈みました。
「ルーファス……カッコ悪すぎだよぉ」
 この辺りが、ルーファスがへっぽこと言われるゆえんかも知れません。ズバリ不幸体質。

 どうにかあの現場から逃げ出し、ルーファスとハルカは学院の地下一階まできていました。
 目の前にあるドアに想いを馳せるルーファス。もちろんドアフェチの変わった趣味があるわけじゃありません。想い出がいろいろあるからです。
「学生時代にここのドアを壊して、パラケルスス先生のホムンクルスを盗みに来たことがあるんだ(あの時は大変だったな)」
「器物破損に窃盗、ルーファス昔はワルだったのぉ?(意外だなぁ)」
「ち、違うよ! ドア壊した(蹴破った)のはローゼンクロイツっていう私の友達だし、ホムンクルスを盗んだのも理由があって、カーシャに盗むように言われたから……」
 昔からルーファスはカーシャにいいように使われていたらしいです。つまり、学生時代から女王様(カーシャ)と奴隷(ルーファス)の構図ができていたということですね。ルーファス、かんばれ!
「ところで、そのホムンクルスってなぁに?(聞いたことあるような、ないような感じ)」
「魔導によるクローン技術だよ。詳しい話は機会があったらするよ」
 ドアを軽くノックして、ルーファスたちは部屋の中に入りました。
「失礼します」
 とお辞儀して、ルーファスが顔を上げると、そこには杖を持った初老の男が立っていました。
 山吹色の魔法衣に身を包んだ老人は、ルーファスの顔を見て破顔しました。
「おお、ルーファスか、久しいの」
 笑みを浮かべる老人にルーファスは近づき握手を求めました。
「お久しぶりですパラケルスス先生。お元気そうでなによりです」
「魔導の勉強は今もしっかりしているかね?(実力ならば、学院でもローゼンクロイツに次ぐ実力の持ち主じゃったからな。しかし、実力をコントロールできないのが、ルーファスの欠点じゃな)」
 恩師と教え子の再会を喜ぶ二人をよそに、ハルカは部屋の中を物珍しそうに見回していました。
 部屋の中は実験機具などが整理整頓され、一目でどこになにがあるのかが確認できるようになっています。パラケルススの性格が部屋に出ているに違いありません。
 一番ハルカの目を惹いたのは、部屋にあるいくつかのガラス管でした。
 ガラス管の中は液体のような物で満たされ、下から小さな気泡が上へ上へと上がっています。そして、ガラス管の中に浮かぶ人型の生物の口から、時おり大きな泡が吐き出されます。これが魔法生命体のホムンクルスです。
 キョロキョロしているハルカに目を向け、パラケルススはルーファスに尋ねます。
「そこのお嬢さんも紹介してくれぬかね?」
「この子はハルカです。今日はこの子のことでご相談があって、学院まで来ました」
 ルーファスに小突かれ、ハルカは慌てて頭を下げました。
「こんにちわ、ハルカって言います」
 このあとルーファスはパラケルススに簡単に経緯を話して、ハルカがもしかしたらアースから来たかもしれないことを説明しました。
 自分でまいた種ですが、ルーファスは一生懸命パラケルススに掛け合いました。
「どうにかハルカを自分の世界に帰すことはできないでしょうか?」
「もし本当にアースから来たのであれば、手立てはないかもしれぬ」
「本当にないんですか? 私のせいでハルカは召喚されてしまったんです。できることならなんでもしますから、どうにかなりませんか?」
「力にならなくてすまない」
「……そんな」
 肩を落としてルーファスは落胆しました。その落胆はハルカよりも大きいです。全て自分の責任ですし、その重荷がルーファスを押しつぶそうとします。
 落ち込んで下を見るルーファスの顔をハルカが笑顔で覗き込みます。
「元気出してっ。見つからないだけで、ないと決まったわけじゃないんだから」
「ごめんねハルカ」
「ぜんぜん気にしてないよ(ルーファスってやっぱりいい人。ルーファスのせいだけど、あんまり怒れない)」
 ハルカに背中を叩かれ、ルーファスは一つお辞儀をして研究室を出て行こうとしました。その後姿にパラケルススが声をかけます。
「アースから来たと知れれば、不都合なことも多い。なるべくそのことは隠しなさい。とくに保守的な宗教家の前では絶対じゃぞ」
 ルーファスがもう一度頭を下げます。
「ありがとうございました」
 今度こそ出て行こうとする二人にパラケルススがもう一度、声をかけます。
「そうじゃ、忘れとったわい。今日はたまたま学院長が帰ってきておるぞ」
「本当ですかっ?」
 顔に希望を浮かばせたルーファスは、急いでハルカを連れて研修室を後にしました。
 クラウス魔導学院の学院長アレイスター・クロウリー。開校以来ずっと学院長を務めていた彼は、学院長をいう職に就きながらも生徒の前に姿を現すことは稀で、魔導研究や海外視察などで学院を空けていることが多いのです。その実力は世界でも五本の指に入るといわれるほどで、アステア王国では揺ぎなく一番の地位を誇っています。
 そのクロウリーが学院にいると聴いて、ルーファスは希望を胸に抱きました。
「ハルカ、クロウリー学院長に会おう。学院長ならハルカを帰す方法も知っているかもしれない」
「学院長ってすごい人なのぉ?」
「世界でも五本の指に入る魔導士だよ。もしかしたら世界一かもしれない」
「そうなんだ(よぼよぼのお爺ちゃんかな?)」
 廊下を進みながら、遠くから響いてくる爆発音が聞こえました。もしかしたら、まだカーシャとファウストが争っているのかもしれません。
 なんとなく先を歩くルーファスでしたが、その後ろでハルカは足を止めていました。気配がします。
 夜の静寂のような気配。その中に潜む闇の気配。そして、闇に浮かぶ星の気配。
 ハルカは振り向きました。
 赤と黒を基調にしたマント付きの魔法衣を着ていても、内に秘められた引き締まった体躯が感じられます。
 絵師の懇親の一筆で描かれたような眉、彫刻家が魂を込めた高く筋の通った鼻梁、誰をも魅了する瑞々しく紅い唇、深い黒瞳はこの世の真理を全て見据えているようです。
 この者こそがクラウス魔導学院の学院長アレイスター・クロウリーなのです。
 クロウリーの傍らには、ボンテージ姿の女性が身を潜め影のように寄り添っています。その背中からは蝙蝠のような漆黒の翼が生え、衣装から零れる白い肌が肉欲を誘います。魔界から召喚された悪魔である秘書のエセルドレーダです。
 一歩一歩クロウリーがハルカに近づいてきます。他を圧倒する威圧感が、具現化して風となり吹き荒れました。
 ハルカは恐怖を感じました。そして、名前も聞いていないのに、近づいてくるのがクロウリーだとわかったのです。
 小柄なハルカの前に、大柄なクロウリーが立ちます。
「この世界の者ではないな?」
 言葉そのもに魔力がこもっている――魅言葉。
 ハルカは聴かれたことに頷いて返すことはできましたが、声を発することはできません。そうさせない威圧感が、クロウリーからは放たれていたのです。
 目の前の威圧感で隠されてしまっていますが、傍らのエセルドレーダも色香とともに威圧感を放っています。
 ハルカが少し視線をエセルドレーダに向けると、緋色の瞳が睨むようにハルカを見ていました。怖いです。
 身体を小さくさせながら、ハルカは一歩後ろに下がって後ろを振り返りました。
 ルーファスの姿がない!?
 あった!
 中庭の植え込みに身を潜めています。ハルカが自分を見ているのに気づくと、ルーファスは頭をかいて笑いながら出てきました。
「こ、こんにちはクロウリー学院長先生(や、やっぱりこの人苦手だ)」
「卒業生のルーファス君だったね」
「は、はい。私のことを覚えてくれていたんですね、光栄です(なんで僕のことなんか知ってるの)」
「君は特別だ。それに私の愛するローゼンクロイツと親しいそうじゃないか?」
「ええ、まあ(そうか、クロウリー学院長がローゼンクロイツに資金援助してるって聞いたことあるな)」
「そこの娘はルーファス君の連れかね?」
 クロウリーの深い黒瞳に緋色が差し、その眼に五芒星が浮かびました。
 主人はなにも言いませんでしたが、秘書であるエセルドレーダはどこからか古びた表紙の本を取り出し、それをクロウリーに手渡しました。
 手に持たれた本は自動的に表紙を開き、風でも吹いたようにページがパラパラと捲られました。
 そして、ページが開くことをやめてあるページで止まると、クロウリーは口元を色っぽく歪ませ、ハルカを射抜くほどに見つめたのです。
「君の名は?」
「あー、えっとハルカです」
「どの世界から来た?」
「それは……アースから」
 クロウリーは自分の持っていた本のページをなぞります。そこは白紙でなにも書かれていなかったページでしたが、クロウリーが指でなぞった瞬間、記号が浮かび上がり輝きだしたのです。
「イーマの月にアースからきたる者、世界に――」
 続きは言いませんでした。
 クロウリーは途中で言葉を止め、本を閉じてエセルドレーダに渡しました。
「今の古い預言書だ。宇宙の真理に比べれば他愛もない戯言が羅列されている。真に戯言なれば興味はない。言葉は力を持って意味を成す。死とは復活だ。救世主とは善にも悪にもなる。わかるかね?」
 意味不明です。クロウリーは電波に違いありません。どこからか電波を受信しているに間違ありません。きっと頭の可笑しな人なんです!
 などと思っても、ハルカとルーファスは口には出しませんでした。
 クロウリーは傍らに影のように立っていたエセルドレーダを激しく抱き寄せ、その唇に接吻を交した。白昼堂々ハレンチです。
 なにごとかとハルカが眼を剥いていると、クロウリーは艶やかに微笑みました。
「知っているかね。悪魔界などの異界からきたものは申請書を出さなくてはならない。ここにいるエセルドレーダも悪魔であり申請書を役所に提出してある。だが、アースからきたとなれば認められないだろう。――アースからきたものは災いをもたらす」
 それが言葉の続きだったのです。
 ――イーマの月にアースからきたる者、世界に災いをもたらすであろう。
 そうクロウリーの持つ預言書には書かれていたのです。
 この伝承は古くからあるもので、ガイア聖教のみならず、他宗教でも多く云われていることです。
 クロウリーの手がそっとハルカの頬に触れ、撫でるように動かされました。触り方が変態です。
「アースからきたということが真実ならば処刑もありえる」
 心配そうに怯えるハルカ。視線を泳がすと、なぜかエセルドレーダに睨まれています。先ほどもそうでしたが、なぜ睨まれているのか理解できません。視力が悪いだけでしょうか?
 自然と足が後ろに動いてしまったハルカは、そのままルーファスの傍らに立ち、彼の魔法衣の袖をぎゅっとつかみました。
 自分を頼るハルカの姿を見て、自発的には声の出せなかったルーファスが、喉から声を絞り出します。
「こ、クラウス国王は聡明な方です。御伽噺を鵜呑みにして、ハルカを処刑になんてするはずがないですよ(声を出すために息をしただけで咽そうだ)」
 妖しげにクロウリーが笑いました。
「クラウス国王は我が学院の卒業生だったね。君やローゼンクロイツとも同窓生でまだ若い。若くして王になった者には敵が多い。その御伽噺を信じる保守的な宗教家も多く存在する。この国にいる大司教も異質なモノを嫌う保守派だと聞いたぞ」
 アステア王国で多く割合を占めている宗教はガイア聖教です。ガイア聖教の保守派と進歩派の争いは、血を流すほどに激しく根深いものでなのです。怖いですね。
 王都アステアにも多くの保守派がいます。
 その意味を理解したとき、ハルカは暴力的な恐怖を感じ、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「もしかしたら、ハルカはこの世界にとって敵なのかもしれない。たとえ悪いことしなくても、殺されちゃうってことだよね、ねぇルーファスっ!」
 悲しみと怒りの入り混じった表情を投げかけられ、ルーファスは一生懸命笑顔を作って返しました。でも顔が引きつってます。
「大丈夫、大丈夫、この国の王は進歩的だから平気だよ。ハルカがどんな子かってわかってもらえば、絶対そんなことないから」
「たしかに……」
 呟いたクロウリーがハルカの手をそっと掴み、優しくハルカの身体を持ち上げて立たせてくれました。
「そのとおりだ。ルーファス君のいうとおり。現に悪魔であるエセルドレーダにもビザが発行され、職業につく権利も与えられてる。悪魔とておぞましいものだけではない。美しい悪魔はいくらでもいる、ここにいるエセルドレーダのようにだ」
 傍らにいるエセルドレーダは、影のようにクロウリーが動かなければ無駄に動かず、鋼の表情を決して崩しません。雇い主と秘書という関係よりも、絶対的な忠誠心によってクロウリーに仕えているように思えます。
 ここでクロウリーがハルカにある提案を持ちかけました。
「私がこの子を匿おう。安全で不自由な暮らしを保障しよう」
 ハルカは捨て猫みたいな眼差しで、自分よりも背の高いルーファスを見つめました。それになにを感じたのか、ルーファスはクロウリーに向かって首を振って見せました。
「いいえ、ハルカは私が責任を持ちます」
 こう言ったのは、ハルカの無言の訴えだけのせいではありません。
 ボランティアや援助活動や社会福祉など、社会への貢献も多くしているクロウリーですが、魔導に関しては黒い噂が多々あります。それに実際に会ってみればわかります。傍にいるだけでクロウリーの発する鬼気に当てられ、気分が悪くなって咽返りそうになるのです。
 魔導力が強すぎて、他者が影響を受けてしまうのです。それは有害物質を大気に垂れ流しているのと、なんら変わりありません。
 歩く公害だ!
 なんて思っても、本人を前にしては口が避けて言えません。
 ルーファスは一度俯き、ゆっくりと顔を上げてクロウリーの眼を見つめ……ようとしましたが、相手の眼力が強すぎて、眼は泳ぐし、舌がうまく回りません。
「実はハルカを召喚してしまったのは私でして、失敗から召喚してしまったわけですが、自分のせいだから自分で責任を取らなくてはいけないというか、私が責任を持って帰してあげると約束したから」
 自分でも言葉が整理できないルーファス。感情だけが先走り、言葉がうまく出せません。ハルカを自分の世界に帰してあげたい気持ちは本物でした。
 悔しそうに下を向いてしまったルーファスの耳元で、男とも女ともつかない声が突然しました。
「なるほどねルーファス(ふにふに)。また魔導で失敗したんだね(ふっ)。しかも、前にも召喚術で悪魔に取り憑かれたことがあったよね(ふにふに)」
 驚いたルーファスが声を上げました。
「ローゼンクロイツ!(なんでここに!?)」
 この場にいた全員の視線が、空色ドレスを着た可愛らしい顔に注目されました。
 日傘を差し直射日光を避けるその人物は、白色と空色を基調にしたふわりとしたドレスに身を包み、耳が隠れるくらいの空色をしたショートカットの襟足を指でクルクル弄んでいました。
 どこか中性的な顔立ちの不思議な魅力を持つ人物。それがルーファスの幼馴染のローゼンクロイツだったのです。
「ボクがなぜ、ここにいるか(ふにふに)。それは人間の真理の追究に他ならないよ(ふあふあ)」
 質問とは大きく的を外した――人はなぜ存在するのか。なんてことをローゼンクロイツが長々と語りだすのを前にルーファスが止めます。
「違うって、そういうことが聞きたいのではなくて。ローゼンクロイツが、ここになんの用できたのかってことだよ(あんな発言いつもことだから、いい加減つっこむのも疲れた)」
「それならそうと最初から言ってくれればよかったのに(ふぅ)。ボクさ、治安官もやってるの知ってるよね(ふあふあ)。それでさ、クラウス魔導学院で事件だって連絡を受けてから、わざわざ来てあげたんだよ(ふあふあ)」
 治安官になんて見えません。おまけにハルカの感想もつけ加えましょう。
「(かわいらしい人だなぁ。でも、どこかネジが外れてそう)」
 ローゼンクロイツの姿を確認したクロウリーは、横にいたルーファスを跳ね除けてローゼンクロイツに熱い抱擁をしました。その顔は歓喜に満ち溢れています。
「愛しの愛しのローゼンクロイツ。最近はなかなか私に顔を見せてくれないので心配していたよ」
「理由は簡単だよ(ふにふに)。何度も言ってるけど、ボク、キミのことキライ(ふっ)」
 顔に一切感情を浮かべず、ローゼンクロイツはそう切り捨てました。一刀両断です。
 ですが、それを承知でクロウリーはローゼンクロイツの身体を強く抱きしめたまま、この上ない至極の笑みを浮かべています。どー見ても変態です。
「いいのだよ、たとえ君がなんと言うおうと構わない。私が君を愛することには変わりないのだから」
 空色のドレスを着た小柄なローゼンクロイツを、赤と黒の魔法衣を着た大柄なクロウリーが呑み込んでしまいそうでした。食べてしまいたいくらい好き。そんな雰囲気をクロウリーは醸し出していました。やっぱり変態です。
 そんな二人の姿を見る秘書のエセルドレーダの視線は、ローゼンクロイツに明らかな敵意を示しています。怖いです。
「我が君、ローゼンクロイツ様とは、いつでもお会いになることができます(こんな偶然でなければ、アタシが絶対に近づけないのに)。それよりも今は騒ぎの収拾をしなくてなりません」
「それは違うぞエセルドレーダ。ローゼンクロイツは私を避けているからね、偶然でもない限り逢えないのだよ。なあローゼンクロイツよ?」
 妖艶な笑みをクロウリーに贈られ、ローゼンクロイツは彼の身体を丁重に押し離します。
「ボクはここに仕事にきたんだよ(ふあふあ)。キミに構っているはずヒマはない(ふっ)」
 無感情の瞳をローゼンクロイツは上に向けました。
 そこには激化した戦いを繰り広げるカーシャとファウストの姿がありました。
 箒に乗って宙を飛ぶカーシャ、方や腕から漆黒の翼を生やし舞うファウスト。戦いは空中戦へと持ち越されていたのです。
 クロウリーは腕を使って、裏地の紅いマントを翻しました。
「かわいいローゼンクロイツに怪我あってはいけぬ。ここは我が城、ここで起きた問題は私が解決する義務がある。騒ぎの鎮静には私は赴こう――覇ッ!」

 柄の長い箒に跨りカーシャが飛空しています。
「ファウスト負けを認めろ!(くそっ、あのときルーファスの邪魔が入れねば早々に決着がついたものを)」
「今の貴女は魔導学院とは無関係。存分に戦わせていただきますよ(空中戦に持ち込まれたのは不利だ。どうにか広い地上に)」
 右手首の辺りから漆黒の翼を生やし、空を飛ぶファウスト。その手の自由が利かずに左手だけの戦いを強いられていたのです。今使っている術は場所から場所への移動用であり、戦闘向きの術ではなかったのです。
 飛行速度に関してもカーシャの方が早いようです。
 旋回してファウストの背後を取ったカーシャが仕掛けます。
「アイスニードル!」
 鋭く尖った氷柱がファウストの背後から心臓を射抜こうとします。
「甘いですよカーシャ、ドゥラハンの盾!」
 巨大な魔法盾が出現し、氷の氷柱を跳ね返しました。その後ろに隠れていたファウストがすぐに呪文を唱えます。
「シャドーボルト!」
 魔法盾が消えてすぐに、後ろから暗黒の稲妻が空を横に奔ります。
 的に向かいながらも変則的に折り曲がって進む稲妻に、カーシャは急旋回するも避けきれず自ら箒から飛び降りました。
 地面に落下するカーシャの元に箒がすぐさま追いつき、箒の柄にぶら下がったカーシャはそのままファウストに速攻を決めます。
「喰らえファウスト!」
「それはこちらのセリフですよ!」
 赤黒い羽根で覆われた六枚の翼を背中に生やした巨大な影が、地上から空中の二人めがけて飛翔して来ます。
 至近距離で攻撃を仕掛ける寸前だったカーシャとファウスト。その間に割って入ったクロウリーが魔導力を開放しました。
「覇ッ!」
 魔導力を帯びた爆風がカーシャとファウストの身体を大きく吹き飛ばしました。
 生唾を喉で鳴らし呑み込んだ音が二ヵ所から聴こえました。
 今の自分たちとは魔導力に差がありすぎる。
 普段、汗など絶対にかかないカーシャの握られた手に汗が滲みます。
「邪魔をするなクロウリー!(息苦しいまでのプレッシャーだ。手に汗を握るなど何百年ぶりか……というのは言いすぎか、ふふっ)」
「邪魔はしない。しかし、これ以上の破壊はここではやめてもらいたい」
 地上を見下ろすクロウリーの視線の先では、煙が立ち巨大な穴が開いた魔導学院の建物が見えました。
「これ以上、我が君の城を侵すのでれば、アタクシが今すぐ貴女を殺すわ」
 背後に淫靡な女性の声と殺意を感じたカーシャはすぐさま振り返りました。そこには、なんと翼を大きく広げ羽ばたくエセルドレーダの姿あったのです。
「いつの間に妾の背後に!?(……ふふ、忍者かこやつ)」
「我が君にばかり気を取られているからよ」
 なんて説明など聞かず、エセルドレーダの隙を突いてカーシャは動かずにいるファウストに速攻を決めました。不意打ちです。
「(今なら勝負がつく!)ブリザード!」
 ちょっぴり卑怯ですが、これがカーシャのやり方です。
 けど、突如として放射されたブリザードとカーシャの前にクロウリーが立ちはだかります。
「覇ッ!」
 クロウリーが気合を入れただけで、ブリザードは一瞬にして蒸気になり消えてしまいました。それでもめげずにカーシャは次の行動に移ろうとしましたが、身体が動きません!
「なぜだ!」
 カーシャは見ました。クロウリーの瞳が黒から緋色に変わり、その中に五芒星が浮かんでいるのを――。
「貴様、魔眼の使い手だったのか!」
「ご名答だカーシャ君」
 運命の子として生まれた子が授かるという魔眼。後天的に目覚める者もいれば、生まれたときから持つ者もいます。それは魔の象徴とされ、この瞳を持つものは強大な魔力を持つと云われているのです。
 魔眼に魅つめられ、身体が動かせないカーシャ。それでも無理やりに動かし、どうにか片腕が動きました。けれど、そのためには魔眼に打ち勝つ膨大な魔導力と、鉛ようになった腕を動かすような力、それに刺すような痛みが全身を襲います。ツライですね。
「たかが魔眼ごときに妾の自由は奪えぬ(……威勢は張ってみたが、腕を少し動かすのが限界だ……ふふっ、笑えん)」
 必死に動こうとするカーシャを冷笑で見守るクロウリーの妖しい口元が、小さく動かされて小声でなにかカーシャに話しかけました。
「さすがは古の支配者〈氷の魔女王〉。神の娘だけのことはある」
「なにっ!? なぜそれを知っている、ルーファスがバラしたのか!」
「ルーファス君とカーシャ君の関係も少しは見抜いている。私を甘く見ないでもらいたい」
「妾の素性を知るのなら、妾のことも甘く見るな若造が!」
 魔導力を解放しようとしたカーシャの髪の毛が黒から白に変わる途中、それは起きました。
 木材が折れるような音が宙に木霊し、カーシャの顔が激しい苦痛に歪んだのです。
「くっ!」
 魔法を唱えようとクロウリーに向けられいた腕が、背後から忍び寄っていたエセルドレーダによってへし折られたのです。
「我が君に危害を加える者は許さないわよ(我が君が止めなければ殺せたのに)」
 エセルドレーダを魅つめるクロウリーの瞳が、カーシャ抹殺を寸前で止めていたのです。
「すまないなカーシャ君。私の番犬はしつけがなっていなくて、すぐに人を傷つけてしまう。しかしだ、次に私に歯向かうようであれば、エセルドレーダではなく私が君を殺す」
「妾を殺すだと、下賎な人間風情が!」
「私を甘く見るなと言っただろう。神はまだ殺したことはないが、〈精霊竜〉なら殺して喰らったことがある」
 長い時を生きたドラゴンの中でも、智慧と知識と力を持つものをマスタードラゴンと云います。そのマスタードラゴンをも凌ぎ、身体に精霊を宿したマスタードラゴンの中のマスタードラゴンを〈精霊竜〉と云うのです。その存在は半ば伝説と化し、この世界でもっとも神に近い存在とされています。
 それをクロウリーは喰らったというのです。
 他の者が云えば誰もが嘘というでしょう。
「私の言葉を信じぬかね?」
「妾には興味のないことだ(まさかと思うが、ありえないことではないと思わせる力が、こやつの内からは感じられる。まだまだ内に力を隠しているな……逃げるが勝ち、ふふっ)」
 カーシャは重い腕を必死に上げ、クロウリーの後ろを指して叫びました。
「ローゼンクロイツが裸踊りをしているぞ!」
「!?」
 そんな馬鹿なと誰も思いますが、クロウリーは思わず後ろを振り返ってしまいました。唯一の弱点がここかもしれません。ローゼンクロイツ溺愛病。愛も度を越えると変態です。
 魔眼の魅了から逃れたカーシャは箒を反転させ、一目散で空の彼方の星になりました。
 空の様子を地上で見ていたローゼンクロイツが横を向き言います。
「ボクたちも早く逃げよう(ふにふに)。あいつが地上に降りてくるとイヤだ(ふぅ)」
 あいつとはもちろんクロウリーのことです
 ルーファスとハルカの背中を押してローゼンクロイツは先を急ぎます。上空ではクロウリーが叫んでいます。
「待っておくれ愛しのローゼンクロイツ」
「イヤだ(ふっ)」
 魔導学院ではハルカを元の世界に返す方法の手がかりは見つかりませんでした。
 これからのこと、自分が置かれてい現状にハルカは大きな不安を覚えていました。そんなハルカにルーファスは優しい顔をしました。
「私が絶対にハルカを帰してあげるから」
 真剣な顔になってつけ加えます。
「約束するよ、絶対に」
「うん、ありがとう」
 この世界で頼れるのはルーファスだけ。頼りないところも多いですが、今のハルカにはルーファスがとても頼もしく見えました。
 見詰め合うルーファスとハルカの間にローゼンクロイツが割って入ります。
「ルーファス、キミの彼女かい?(ふあふあ)」
「ちゃちゃちゃ、違うよ! あ、あとでゆっくり話すか……ぐわっ!」
 石畳の隙間に足を取られてルーファス顔面からダイブ。
 その姿を見て、呆れたようにハルカが呟きます。
「やっぱりカッコ悪いかもぉ」
 ハルカが元の世界に帰るれるのまだまだ遠い未来かもしれません。

 今日も平和な青空のもと、ルーファス宅の煙突から煙が上がっていました。いつもならルーファスがドジをしたからなのですが、今日は違いました。
 寝室をハルカに譲った――どちらかというと取られたルーファスは、安物のソファーの上で眠っていました。
 どこからか漂ってくる小麦の焼けたような香ばしい匂いが、ルーファスの鼻の中で遊びます。
「う、ううん?」
 寝ぼけまなこで眼を擦るルーファスは、ソファーから身を乗り出し鼻先をクンクンと動かしました。
 どうやら匂いの出所は普段は湯沸しでしか使わないキッチンからっぽいです。
「ルーちゃんおはよぉ!」
 元気な笑顔でハルカがルーファスの前に現れました。その手の上にはお皿に盛られた焼きたてのクッキーが乗せられています。
 ハルカの衣服はすでにこちら側のカジュアルな物を着こなしています。フリースにスカート姿で、ハルカのいた世界でも充分通用する服装です。
 まだまだ眠いルーファスは足元にあった魔導書を蹴っ飛ばしながら、大きなあくびと背伸びをしました。足元にある魔導書以外の場所は、綺麗さっぱり片付けられていました。全てハルカ一人で片付けてしまったのです。
「おはよぉーハルクァー」
 ルーファスの声はあくびなんだが、言葉なんだかわからないような感じです。
 頭をポリポリ掻いたルーファスは再びストンとソファーに座りました。
「遅くまで調べ物してたら、なんか寝過ごしちゃったよ(あんな遅くまで魔導書と睨めっこしたのは学校のテスト前夜以来かな)」
「ハルカのために?」
「まあね。ごめんね早く帰してあげれるように努力はするから。ごめんね、ごめんね、ごめんね!」
 このままだとネガティブモードで自虐的になりそうなルーファスを、ハルカがあるものを差し出して止めました。
「ほら見てっ、昨日買った材料でクッキー焼いたの(お願いだから鬱にならないで)」
「おいしそうだね」
 ジュルと口を拭うルーファスを見てハルカが笑います。
「上手にできたでしょ。あんな綺麗なキッチンがあるんだもん、使わなきゃ損だよっ」
「あーそれは私が料理が苦手だからで、ごめんね料理すらできない駄目人間で!(デリバリーの方が僕の料理より断然美味しいさ、ふっ)」
「そんなことより、ひとつ食べてみて、ねっ?」
「じゃあひとついただきまーす」
 クッキーに伸ばす手が二本。一本の手がルーファスの手を引っぱたき、先にクッキーを摘んで自分の口の中に放り込みました。
「……マズイな」
 クッキーを横取りしたのは、どこからか現れたカーシャでした。
 しかも、マズイと言われてハルカ素でショック。
 お菓子作りは得意なハルカだっただけに、クリティカルなショックでした。
 ショックを受けてクッキーを無言でゴミ箱に捨てるハルカなんてお構いなしで、カーシャは自分が尋ねてきた理由を言わなくては気がすみません。ちなみにカーシャはルーファス宅に不法進入ですが、誰もそこにはツッコミをいれません。
「今日はこれをハルカに渡すためにきてやったのだ(見て驚くがよい……なんてな、ふふっ)」
 カーシャが胸元からかマジックアイテムを取り出しました。四次元ポケットかっ!
 それはなんと猫耳型ヘッドホンとゴム製の玩具みたいな大きなクチビルでした。
 誰もまだ聞いてもいないのに、カーシャがさっさとマジックアイテムの説明をはじめます。
「これはだな、ハルカがこの世界の言語を理解できるようにするアイテムだ。毎回キスと吐息で遊んでやってもいいが、あの術の効果は前にも言ったが丸一日が限度だ。だがな、これを使えば半永久的に術の効果を得ることができるのだ!」
 術をかけられるたびにキスされるのもごめんだし、カーシャが近くにいなければどうやらルーファス以外の人と会話することもできません。そんなハルカにとってこれは画期的なアイテムです。
 がしかし!
「そのクチビルも付けるんですかぁ?(絶対イヤ。猫耳は許せても、そのクチビルはイヤ)」
 ハルカの質問にカーシャは胸を張って頷きます。なかなかの巨乳が強調されます。
「うむ。これをつけぬのであれば、妾が毎日情熱的な接吻をしてやるが?」
「それはイヤ!」
「では、つけてみろ」
「ぐぅ……わかったから、貸してください(こんなたらこクチビル……イヤだぁ)」
 クチビルと猫耳を受け取ったハルカは二人に背を向けてコソコソっと動きました。
 カーシャはどんな姿でハルカが振り向くのかドキドキわくわくです。
「早くこっちを向け」
「はーぃ(絶対爆笑を誘うよぉ)」
 振り向いたハルカの頭に乗るかわいらしい猫耳。が、そんなもんぶっ飛ばしてくれる、巨大に腫れ上がったみたいな真っ赤なクチビル。
 その姿を見たルーファスがほっぺたを風船みたいに膨らませます。漏れ出すのは限界です。
「ぷっ……ぎゃははははっ、マジうけるる。ハルるるウケるよ、あはは(息できない、息できない殺されるぅ)」
 大爆笑するルーファスの頬を強烈な平手打ちが襲います。
「ルーファス死ね!」
 ハルカの強烈な一撃がルーファスの頬を抉ったぁ!
「ばかばかばか、そんな笑うことないじゃん!」
 としゃべる途中もクチビルがパクパクして、よけいにルーファスの笑を誘います。
「ご、ごめ……ぎゃはっはっ」
「もぉ!」
 バシーン!
 と二度目の平手打ちがルーファスの頬に炸裂。両頬とも真っ赤に腫れ上がってしまいました。
「ご、ごめんってば」
「今さら謝らないでっ!」  クチビルを床に強く投げ捨てたハルカを見て、カーシャが部屋に響くくらい舌打ちしました。
「チッ……なかなかシュールで素敵だと思ったのだがな、仕方あるまい。こっちをやろう」
 カーシャは一本のリップクリームを胸元から取り出し、怒り気味のハルカに手渡しました。
「なんですかっコレ?」
「唇に塗れば、そこのクチビルと同じ効果を発揮する」
「なんでこっちを先に渡してくれなかったんですか!」
 頬を真っ赤にしたルーファスが呟きます。
「そうすれば僕も殴られずにすんだのに」
「理由は明白だ。どっちが楽しいかに決まっているだろう」
 カーシャにたいして、ハルカは確実な殺意が沸きましたが、それは腹の底にぐっとぐぐぐっと押さえ込まれました。カーシャに手を出したら仕返しが怖いのです。
 リップはピンクの色つきで、それを塗ったハルカのかわいらしさが、猫耳と相乗効果でアップです!
 これでハルカは言語の壁という障害をクリアできました。なんてことを吹っ飛ばすくらいにルーファスが叫びます。
「ぐわーっ、教会に行かなきゃ!」
 カレンダーを見たルーファスがその場で足踏みをしました。おしっこが漏れちゃう寸前みたいな動きでし。ジタバタするなよっ♪
 慌てるルーファスをハルカのまん丸な瞳が覗き込みます。
「教会?」
「そうだよ、ガイア曜日の今日は教会に行くのが慣わしなんだよ!」
「ガイア曜日?」
「一週間くらい知ってるでしょ。ガイア、ノーム、アンダイン、シルフ、エント、サラマンダー、ハリュク。世界の常識だろ!」
「ハルカそんなの知らないもん」
「ごめん、そうだった」
 ガイア聖教の信者のみならず他宗教の信者の多くも、一般的に休日のガイアの日に教会に行くのが慣わしなのです。
 慌てて出かける支度をはじめたルーファスにたいしてカーシャがボソッと。
「毎日ガイア曜日みたいな暮らしをしているから、曜日の感覚がわからなくなるのだ」
「引きこもりで悪かったよ!(学院卒業してから、出かける機会が減ったなぁ)」
「自分でわかっているのならばよいのだ(学院を卒業してから、引きこもりがひどくなったな)」
 玄関に向かって走るルーファスが途中で止まって振り向きました。
「ハルカも来る?」
「ウンウン、行きたい!」
「カーシャは来ないよね?」
「知っていて聞くな。妾は無宗教だ……それよりも、ルーファス茶だ!」
「は、はい!」
 出かける間際にもカーシャにこき使われるルーファスでしたとさ。

 この国の宗教比率を多く占めているのがガイア聖教です。
 中央広場を見下ろすように建てられた大聖堂はガイア聖教のもので、ガイア聖教から派遣された大司教がこの都市のガイア聖教を統括しています。
 ルーファスが向かったのは、住宅地に建てられたこじんまりした教会です。
 教会の中は静寂に包まれ、朝の礼拝式はすでに終ったようで、人の姿はたったひとつしか残っていませんでした。
「ルーファス、今ごろきても遅いよ(ふぅ)。今日はボクが説法を説いてあげたのに(ふあふあ)」
 陽が差し込むステンド硝子の下の教壇に立っていたのは、司祭服を着たローゼンクロイツでした。今日は空色のドレスではありませんが、やっぱり白と空色を貴重にした荘厳な司祭服です。なぜかローゼンクロイツが着ると、法皇かなにか位が高く高貴な存在に見えるのが不思議です。
 この世界で数少ない知り合いにあったハルカは嬉しそうに挨拶をします。
「こんにちわぁローゼンクロイツ」
「……誰だっけ?(ふにゅ?)」
「えっ?」
「覚えてない(ふあふあ)」
「ハルカの服を買うのも付き合ってくれたのに?」
「さっぱりだね(ふあふあ)」
 二人の間にルーファスが割って入ります。
「ローゼンクロイツは物忘れが激しいんだ。そのうち突発的に思い出すから平気」
「そぉなんだぁ(物忘れが激しいって、ここまで来るとボケ老人)。ところで、ローゼンクロイツって治安官じゃなかったの?」
「この教会の祭司が本業で治安官は副業なのさ(ふあふあ)。普段は助祭にここのことを任せているけど、今日はたまたまボクがいたんだよ、そのくらい雰囲気で察してくれよ(ふぅ)」
 雰囲気で察するとはぜんぜん関係ない問題です。察しられません。
 二つの職業をするローゼンクロイツに感心しながら、ウンウンと頷くハルカはルーファスに顔を向けました。
「ところでルーファスは?」
「えっ?(やな質問だ)」
 焦って一歩足を引くルーファスに、ローゼンクロイツが言葉で刺します。
「ルーファスは無職だよ(ふあふあ)」
「うっ」
 痛いところを衝かれたルーファスが胸を押さえてうずくまりました。
 そこにローゼンクロイツが雪崩のような追い討ちをかけます。
「いくらクラウス魔導学院を卒業したエリートコースだからといって、歳を取るとどこも雇ってくれなくなるよ(ふあふあ)。就職が難しくなる(ふっ)。それにルーファス、君はバイトもなにもしてないじゃないか(ふあふあ)。ニートだよニート(ふにふに)。最近増えているらしいよ、そういうの(ふぅ)。父上には見切りをつけられ、生活費は母上からの仕送りを頼っているんだろ?(ふにふに)」
 長台詞は全てルーファスの腹や心臓を抉り、ローゼンクロイツの攻撃にルーファス完全に落ち込んでしまいました。
「生まれてきてごめんなさい。母さん迷惑かけてごめんなさい。自殺するときは他人に迷惑がかからないように最善を尽くします……ふっふふふ(苦しまずに死ぬのがいいなぁ)」
「ルーちゃん大丈夫!(また落ち込んじゃったぁ)」
 ハルカはすぐさま体育座りしているルーファスを抱きしめ、頭をいい子いい子してあげました。
「ルーちゃんは頑張ればなんでもできる子だよっ、がんばって!」
「ふふふっ、僕は世の中のゴミでカスで有害物質なのさ!(首吊りってどうなのかなぁ)」
 ここまでルーファスを落としていおいて、ローゼンクロイツはなんのフォローもしません。
「ルーファスの母上は甘いよ、君をこんな風に育てしまって(ふにふに)。でもね、そんな甘く優しいところがルーファスの母上のよいいところだよ(ふあふあ)」
 そして、ローゼンクロイツは何気にボソッとつけ加えました。
「そんな母がいて羨ましい(ふぅ)」
 それはローゼンクロイツの本音だったかもしれません。
 落ち込んでいたルーファスでしたが、ローゼンクロイツのひと言を聞いて、愁いの帯びた瞳をしてしまいました。
「ローゼンクロイツ……君は孤児だったからね。僕の母も君のことを心配して、いつも僕と一緒に君のことも気にかけていた」
「そうだね、キミの母上には本物の愛情をもらったよ……どっかの誰かみたいな歪んだものじゃなくてね(ふっ)」
 ローゼンクロイツは鼻で嘲笑しました。
 孤児だったと聞いて、ハルカはそこには触れないように考えましたが、二人だけが共通の話題を進めているのがイヤで、思わずローゼンクロイツに尋ねてしまいました。
「孤児だったんですかぁ?(あーあ聞いちゃった)」
「うん、そうだよ。本当の両親の顔も知らない、赤ん坊のときに修道院の前に捨ててあったのを拾われたらしい(ふにふに)。偶然にも当時シスターだったルーファスの母上にね(ふあふあ)」
 裕福な階層が多い王都クラウスでは、捨てられる子供など滅多におらず、経済的な理由ではなく他に仔細があったのだろうと修道院の中で噂になりました。ローゼンクロイツはそのまま幼少期を修道院で育ち、敬虔なガイア司教の信者として教育されたのです。
「ボクは修道院で育ったんだけど、その頃からあいつはボクに経済的な支援をしてくれたんだ……すごく迷惑な話だね(ふっ)」
「あいつって誰ですかぁ?」
 ハルカが尋ねるとルーファスが小さな声で教えてくれました。
「クラウス魔導学院の学院長だよ。アレイスター・クロウリー学院長」
「……あの人か(すごい怖い感じがしたけど、悪い人とは違うし、怖いのも雰囲気だけだったけど)」
 いろいろな場所に寄付金をばら撒くクロウリーでしたが、ローゼンクロイツへの思い入れは異常で、資金的から進路の手配からなにからなにまで支援されていました。
けれど魔導に関しては、ローゼンクロイツはクロウリーに教えをもらったことはありません。生活への圧力はありましたが、魔導に関しては自由の中で学んだのです。
 ローゼンクロイツは少し疲れたように、近くにあった長椅子に腰を掛けました。
「感謝はしていないわけじゃないよ(ふあふあ)。資金を援助してくれたおかげでボクは魔導を学び、幼稚園からずっとルーファスと同じ道を歩めたからね(ふにふに)」
 幼稚園から、きっともっと昔からルーファスとローゼンクロイツは、一緒に過ごしてきたのでしょう。ハルカは大きな疎外感を胸に抱き、二人の間に割って入れないことを知りました。
「ふたりは昔から仲良しさんなんだねっ(なんか悔しい)」
「そういうわけじゃないさ(ふあふあ)。ルーファスは昔からドジでマヌケで救いようがなくてね、ボクがどれだけキミの尻拭いをしてあげたことか、召喚が不得意なのも昔からの十八番さ(ふあふあ)」
 少し喧嘩を吹っ掛ける態度のローゼンクロイツ。いつもほとんど無表情なのがとくにそれを煽ります。
「なんだよ尻拭いをしてたのは僕だろ。ローゼンクロイツは昔から頭脳明晰で魔導の才能もあったけどさぁ、トラブルメーカーで問題ばかり起こしてたのを僕が庇ってじゃないか!」
「トラブルメーカーなのはキミだろルーファス(ふにふに)。キミに巻き込まれてボクが無実の罪でどれだけ叱られたことか(ふぅ)」
「その言葉、そっくり返すよ(問題の規模が違うよ。ローゼンクロイツの問題は建物の損壊がついてくる)」
「でもね、ルーファス(ふあふあ)。キミといる時間は楽しい、退屈はしないさ(ふあふあ)。だからボクはキミのこと好きだよ(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツがはにかんだように一瞬笑い、一秒もしないうちに無表情に戻りました。その笑顔を見逃さなかったハルカは、胸に歯痒いものを感じてしまいました。
「(ルーちゃんのこと好きか……ルーちゃんはローゼンクロイツのことどう思ってるんだろぉ。ルーちゃんのタイプなのかなぁ。でもこの人、自分のことボクとか言ってる変わった女の子だし……全体的に)」
 ぼーっと考え事をしていたハルカは大きな音で身体がビクッとさせてしまいました。何事ですかッ?
 教会の正面門が左右に開き、外から女の人が飛び込んできました。
 その女性の注目すべき点は猫耳です!
 いや、違いました。
 教会に飛び込んできた女性の注目すべき点は他にありました。猫耳も充分、注目すべき点ですが、猫耳ならすぐ近くでハルカもしています。ハルカがしているから注目しないというわけではなく、なんと女性は肩から血を流していたのです。大変です。
 血の滲む肩を押さえ飛び込んできた女性に、ローゼンクロイツは声もかけずに無言のまま、教壇の下にあった隠し階段へと導きました。
 女性の姿が聖堂から消えると、後を追うように大柄な男が飛び込んできました。
「不審な女を見かけなかったか?」
 ハルカやルーファスよりも早く、ローゼンクロイツは首を横に振りました。
「見かけてないよ、ずっとボクたちは三人で話していたよ(ふあふあ)」
「俺は公安課の治安官だが、秘密結社〈薔薇十字〉の団員を追ってきた。この辺りに逃げ込んだと踏んだんだが、本当に知らないか?」
「知らないね、この教会の上に飾ってある聖セーフィエル様に誓ってもいい(ふあふあ)。あと、これにも誓ってもいいよ(ふにふに)」
 そう前置きをしてローゼンクロイツが取り出したのは、誇り高く輝く金色の安官バッジでした。しかもこのとき、前に一歩足を出したローゼンクロイツは血痕を足で隠していたのです。
 治安官バッジに付属した身分証を確認して頷いた治安官ですが、その目はハルカへ移動されていました。
「だがな、そのいる娘の姿が気になる」
 駆け込んできた女性と同じ猫耳。治安官の目はそこにズームアップされていたのです。
 すぐさまルーファスがフォローに入ります。
「この子、遠い国からきた子でして、この頭に着けているのはすね、翻訳機なんですよ」
 ローゼンクロイツも続きます。
「〈薔薇十字〉の団員がつけているのはカチューシャだと聞いたよ(ふにふに)。この子が付け入るのには、ヘッドホンが付属されているだろう?(ふあふあ)」
 治安官はハルカに近づき、足の先から顔まで毛穴を覗くように顔を近づけて見ました。視姦っぽくてイヤです。
「それにしても怪しい娘だ。遠い国ってどこの国からきた?」
「ぁーっ(どうしよう、言わないほうがいいのかな)」
 ハルカは本当のことを言うべきか否か迷いました。
「どうした、言えないのか?(まずます怪しいな)」
「そっ!(にゃ!?)」
 なにかを言うおうとしたハルカの口をルーファスが塞ぎました。
「翻訳機で言葉は理解できるんでけど、話すことはできなんですよ(アースからきたってことは黙っていたほうがよさそうだ)」
「それなら、なぜ口を塞いだ。なにかやましいことでもあるんじゃないか?(なにを隠してるんだ)」
「違いますよ、やだなぁ(マズイ、ローゼンクロイツ助けてよ)」
 必死にヘルプの視線をルーファスはローゼンクロイツに贈りました。すると、ローゼンクロイツが思い立ったように眼を大きく見開いたのです。
「あっ、思い出した(ふにふに)。ルーファスに間違って召喚されたんだったね、たしかアースからきたんだよね(ふにふに)」
 今になってローゼンクロイツの物忘れが解消されたのです。バッドタイミングですね。
 治安官は少し考え込み、今朝、署で目を通した被害届けを思い出しました。
「そうだ、思い出したぞ。アースからきたという娘が、魔導学院の一部を損壊させ、院内に安置されていた国宝の〈ライラの写本〉を盗み出して逃走。逃げた犯人の外的特徴と告示するぞ!」
「そうなの、そんな凶悪犯罪者だったのかい!?」
 驚いたのはローゼンクロイツでした。普段無表情のローゼンクロイツはわざわざ驚いた表情をしました。けれど、それはあっという間に消え、普段の無表情にすぐ戻ります。
 自分に全ての疑いが掛けられていると知ったハルカが叫びます。
「ハルカそんなことしてない、国宝なんて知らないよ!」
 しゃべれないはずのハルカがしゃべってしまいました。嘘がバレました。
「おまえが犯人だな!」
「知らないよハルカ!」
「嘘をつくな、署に連行する。そこの二人も事情聴取だ!」
 そこの一人は呆気に取られ呆然と立ち尽くし、もう一人は無表情のまま治安官バッチを提示しました。
「ボクはこのバッジに掛けて、この子とは無関係だよ(ふあふあ)。今日ここではじめて会ったんだよ(ふにふに)」
 これは忘れているのではなく、白々しく嘘をついているのです。
 取り押さえられるハルカを見て、やっと再起動したルーファスが治安官の腕につかみかかります。
「ハルカが犯罪者なんて嘘だ。クロウリー学院長もハルカのことを知っているから、本人に聞いてみてくれないか!」
「そのクロウリー学院長が被害届けを出している」
「まさか!?(なんでクロウリー学院長が?)」
 クロウリーは騒ぎを全て知っているはずです。学院内の建物を破壊されたのは、カーシャとファウストの争いが原因で、ましてや国宝の〈ライラの写本〉なんてまったく知りません。濡れ衣です!
 表情を崩さないローゼンクロイツが治安官に尋ねます。
「具体的な被害届けの内容を教えてくれると嬉しい(ふあふあ)。この子の一人の犯行なのかい?」
「被害届けにはアースからきた者ひとりの犯行だと書いてあった。共犯者はいないとクロウリーも証言している」
「学院長本人が?(ふにゃ)」
「そうだ。だが、おまえらにも聞きたいことがあるから一緒に来い!」
「……イヤ(ふっ)」
「なんだと!?」
「事件はこの子ひとりの犯行だろ(ふにふに)。ボクらはたまたまここで、この子に会って話をしていただけさ、任意の事情聴取なら拒否する権利があるよ(ふにふに)」
 ローゼンクロイツは警察手帳とは別の証明書を治安官の鼻先に突きつけました。
「ボク、弁護士の資格も持っているんだ(ふにふに)」
「……くそっ(むかつくガキだ。同じ治安官として胸糞が悪い)」
 治安官はローゼンクロイツ(資格マニア)を睨み、ハルカの腕と自分の腕を手錠で繋ぎました。
 強引に引きずられて聖堂の外に連れて行かれるハルカがルーファスに手を伸ばします。
「助けて!」
 今、目の前でローゼンクロイツにも裏切られ、この世界で頼れるのはルーファスだけだったのです。
「ハルカ!」
 追いかけようとしたルーファスの背中にローゼンクロイツが言葉を浴びせます。
「ルーファス待て!(ふーっ)」
 エメラルドグリーンの瞳に浮かぶ六芒星。ローゼンクロイツの瞳に魅入られたルーファスは身体が動かなくなってしまいました。
「ルーファス助けてよっ!(なんできてくれないの!)」
 ハルカの悲痛な叫び声だけが、静かな聖堂に木霊しました。
 扉が閉まり、二人だけが残されました。その瞬間、ルーファスの術が解けました。
 すぐにルーファスはローゼンクロイツに詰め寄ります。
「どうして止めた!」
「今の状況では仕方ないことだよ(ふにふに)」
「それにさっきの女の人、〈薔薇十字〉の人だそうじゃないか。どういう関係なんだよ?」
「今は言えないよルーファス(ふぅ)。ハルカのことはボクがどうにかするよ、安心して(ふにふに)」
「どうにかするってどうやって!」
「無実は法廷で晴らそうよ、ボクが弁護人を引き受ける(ふにふに)」
 そして、舞台は法廷へと移されたのでした。

 誰が裏で糸を引いているのか、傍聴人席には誰もおらず、より静寂が増していました。この時点で怪しいと気づくべきでした。
 裁判官がハンマーを叩き証人を呼びました。
 法廷に入ってきたのはルーファスでした。ゆっくりと証言台に上るルーファスを、ハルカは被告人席から泣きそうな顔をして見つめています。
 ハルカの顔を見てしまったルーファスですが、すぐにつらそうな顔をして視線を逸らします。
「(……ごめんハルカ)」
 証言台に立ったルーファスに廷吏から宣言書が渡されました。
「宣言書を朗読し、最後にここにサインをしてください」
「本法廷において、わたくしは母なる神ガイア、数多の神々、そして審判の神ラーブラに誓い、ここに真実のみを語ることを誓います(き、緊張するなぁ)」
 宣言書に羽ペンでサインをすると、すぐに検事がルーファスのもとにやってきました。
「被告人はクラウス魔導学院において、器物破損、窃盗の罪で起訴されている。そして、こともあろうに我が国の国宝である〈ライラの写本〉を盗み出したのです。証人であるルーファスは、被告人に脅迫されていたと我々の調べでわかりました」
「ちょっと待って、私は――」
「待ちたまえルーファス君、わたくしは質問の途中だ。口を慎みなさい」
 ハンマーを軽く叩いた裁判官がルーファスに注意します。
「証人は質問された内容だけを簡潔に答えるように」
 ルーファスが無言で頷くと、引き続き検事が質問を続けました。
「不運な事故によりルーファスは被告人を誤って召喚されたそうですが、被告人はどこから来たと言っていましたか?」
「異議あり(ふあふあ)」
 ハルカの横で座っていたローゼンクロイツが手を挙げて立ち上がりました。
 すぐさま検事が反論します。
「異界からきた者にたいしては、どこからきたのかと尋ねるのは常識であります。それに今回のケースでは被告人がどこからきたのかが本件において、いえ、国家において重要なできごとなのです」
「検察官の主張を認め、弁護人の異議を却下します」
 鋼の表情を崩さないままローゼンクロイツは着席しました。
 再び検事が同じ質問を繰り返します。
「被告人はどこからきたと言っていましたか?」
「あ、アースからだと自分で語っていました。けれどアースからきたといって、罪に問われるのはおかしいよ。アースのことは伝承に過ぎない。魔導学院の件だって嘘がある」
 早口でしゃべるルーファスを止めるべく、裁判官がハンマーを強く鳴らしました。
「証人は聞かれたことだけに答えるように」
 下唇を噛み締めながらルーファスは着席しました。
 検事は大きく手を広げパフォーマンスで証人ルーファスの証言を誇大します。
「魔導学院での騒ぎを見れば一目瞭然でしょう。伝承は正しかったのです。アースからきた者はこの世界に災いをもたらす」
 ローゼンクロイツは手を挙げます。
「意義あり、伝承などという曖昧なものを信じるのはどうかと思うね(ふにふに)」
「意義を却下します」
 裁判官の言葉に、ローゼンクロイツは静かな視線を送りました。
「理由はなんだい?(ふにふに)」
「ガイア聖教の伝承は信じるに値する」
「さっきも言ったけど伝承は伝承さ、御伽噺の類は証明にはならないよ(ふにふに)」
「弁護人の異議は却下する」
「わかったよ、では証人としてアレイスター・クロウリーの出廷を求めたいんだけど?」
「却下します」
「ここまで来ると、最初から仕組まれてるとしか考えられないよ、まったく(ふぅ)」
 まるでハルカを絶対に有罪にしようとしている意図が感じられます。
 被告人席から不安そうにハルカがローゼンクロイツを見つめていました。
「(ハルカどうなっちゃうの? 死刑になんてならないよね)」
 今にも大泣きしそうなハルカを見て、ローゼンクロイツはここいる人々を次々に一瞥しました。
「もしかしたらここにいる陪審員や検事、裁判官だって本物かどうか疑わしくなるね」
 雷でも落ちたみたいにハンマーが激しく木霊しました。
「弁護人は口を慎みなさい。君のような者がなぜ弁護人の資格を持っているのか疑問だ」
「ボクも疑問だよ(ふあふあ)」
 挑戦的な態度に裁判官が怒号します。
「これより陪審員による審議に入る!」
「嘘だろ!?(にゃ!?)」
 これにはローゼンクロイツも本当に驚いた顔をしました。こんなこと滅多にありません、写真に収めたらスクープです。
「異議あり!(ふーっ)。反対尋問すらしてないよ、この裁判は不当だ(ふーっ)」
「異議を却下する」
 辺りを見回すと、検事たちが嘲笑っています。完全に仕組まれた裁判です。審判の場である法廷が、仕組まれていたのでは意味がありません。公平なんて言葉はここにはなかったのです。怖いですね。
 このままでは確実にハルカに有罪の判決が下ります。大変です。
 まだ証言台にいたままのルーファスが腹から叫ぶ。
「国王が外交で国を開けているとはいえ、こんな横暴が許されると思ってるか!」
「ボクたち、クラウス国王のご学友だしね(ふあふあ)」
 検事も叫んだ。
「国王不在の場合、この都市を動かす力を持っているのは政府ではない。大司教様だ!」
 全ての都市に大司教がいるわけではない。この王都アステアはガイア聖教にとっても重要であるから、大聖堂が建てられ大司教がこの都市にいる。ガイア聖教が多く割合を占めるこの都市では、それに比例して大司教の権限が強くなるのだ。
 ローゼンクロイツがボソッと呟く。
「宗教と政治……まったくやりにくくて仕方がないね(ふにふに)」
 そして、防波堤が崩れたように一気に話しはじめる。
「クラウス国王とこの国の大司教と仲が悪いのは有名だよね(ふにふに)。大司教は生きた化石で脳ミソは古くて固まってるよ(ふっ)。大司教だけじゃないよ、保守派はみんな伝承や迷信ばかり気にしてる(ふにふに)。国王を中心とした進歩派と大司教を中心とした保守派の争いは絶えないよね(ふぅ)」
「弁護人は口を慎みなさい」
 と裁判官に言われてもローゼンクロイツは話し続けます。
「そういえば、この国の大司教は悪名高き魔導結社〈銀の星〉から献金をもらってるとか?」
 ハンマーが何度も何度も鳴らされ、耳が痛くなるほどでした。
「弁護人は口を慎みなさい。君も敬虔なガイア聖教の信者。しかも教会のひとつを任されている司祭の身だろう」
「関係ないね(ふっ)。腐ってるモノを食べるとお腹を壊すよ、だから排除しなきゃね(ふにふに)」
 ローゼンクロイツに負けじと、お腹をぎゅるぎゅる鳴らしながらルーファスが叫びます。
「ハルカが有罪なら、召喚した私にも罪があるはずだ!」
「故意で召喚したわけではない。不慮の事故であり、ルーファスも被害者である。と当法廷は判断する」
「そんなばかな。私の父が元老院だから、僕には音沙汰なしか!」
 裁判官はなにも言いませんでした。
「父は父、僕は僕だ!」
 ついにルーファスが証言台から飛び出しました。お腹をぎゅるぎゅる鳴らして壊しながら。
「証人を取り押さえなさい!」
 裁判官の声に数人の男たちがルーファスに飛び掛ります。けど、その動きは途中で止められました。
 男たちの四肢に巻きつく輝く魔導チェーン。その先をローゼンクロイツが握っていたのです。
「ルーファス、やるならボクにも合図してくれよ(ふあふあ)」
 一気にローゼンクロイツがチェーンを引っ張りました。すると引きずられ崩れる男たち。
 すぐさまローゼンクロイツにも男が襲い掛かりますが、エメラルドグリーンの瞳に魅つめられ、男は石のように動けなくなってしまいました。
「証人と弁護人を早く取り押さえろ!」
 法廷は一気に闘技場になろうとしていました。
 しかし、それを止めたのはローゼンクロイツでした。
「ここで暴力沙汰を起こす気はボクにはないよ(ふあふあ)。ルーファス、外に出よう(ふにふに)」
「なんでだよ、ハルカを置いて出れるもんか!(あんな顔したハルカを置いていけない)」
 ルーファスの視線の先で震えるハルカ。混沌とした恐ろしさで、精神は極限状態に達しようとしていました。
 自分の知らない世界に突然迷い込み、無実の罪で犯罪者にまでされそうになっている。自分の力ではどうにもならない、激しい渦の中に飲み込まれました。ハルカは自分がなぜここにいるのかすらわからずに、被告人席でただただ震えていたのです。
 ハルカに駆け寄ろうとするルーファスの腕をローゼンクロイツが掴みます。
「行くよルーファス(ふにふに)」
「なんでだよ!」
「ここで牢屋に入れられたいのかい? それこそなにもできなくなる(ふにふに)」
「だからって!」
「ボクを信じろルーファス」
 もっとも長い付き合いの友人をルーファスは信じて深く頷きました。
 ルーファスはハルカの手を握り締め、深く澄んだ瞳でハルカの瞳を覗き込みました。
「ハルカは僕が守るから、信じてて」
「……ルーファス(信じてるから)」
 涙を流すハルカに背を向けて、ルーファスはローゼンクロイツに連れられ法廷をあとにしました。
 そして、二人が法廷をあとにしてからも裁判は続き、最終的な判決が下りました。
「被告人ハルカを死刑に処す」
 涙を止めようとしましたが、やっぱり泣いてしまいました。それでもハルカはルーファスを信じていました。
 ――ルーファスは必ず助けにきてくれる。

 大聖堂の見下ろす中央広場は、普段は市場などで賑わいを見えています。けれど、今は違いました。
 中央広場に隣接された市庁舎の真横にある処刑台の近くに人々が群がっています。人間がまるでゴミのようです。
 黒頭巾で頭をすっぽりと覆い隠した刑吏に囲まれたハルカが処刑台に上がらされ、群衆にざわめきとどよめきが巻き起こりました。
 古い時代には罪人の死刑が決まると、華やかなパレードを催し、罪人は死を前にもてはやされるものでしたが、今は時代も変わり速やかに刑が執行されます。
 処刑台の上からハルカは群衆を見回しました。人だかりの中にルーファスの姿を捜しました。けれど、見つかりません。姿は見えないけれど、どこかにいるような、そんな気がハルカにはしました。
 処刑台の近くに群がる人々の中でひときわ背の高い影ありました。
 大きな頭に作り物を獣耳が乗っています。それは猫のきぐるみでした。中に入っているのは、もちろんルーファスです。
 死刑執行の日に華やかなパレードは行なわれなくなったものの、その風習は今も残り、民衆たちは宴会などを催し、それを楽しみにする者もいます。
 お祭り気分で浮かれる者が多い今日は、見世物で金を稼ぐ者たちも稼ぎ時で、道化師の格好をする者も中にはいます。
と、フォローしても猫のきぐるみはやっぱり浮いていますね。
 行き交う人々の目を一心に集めるルーファス。
 すれ違う人、路地の向こうにいる人、変な眼差しでルーファスを見ています。軽く笑って流してくれるのは酔っ払いのおっさんだけです。
 猫のきぐるみを着て歩き回るルーファスの背後に忍び寄る影。こっそりなのでルーファスは気づく余地もありません。
 ルーファスの背後に立ったガキンチョが『ニカッ』と子悪魔の笑みを浮かべました。
 ガキンチョのドロップキックがルーファスの背中に炸裂!
 ルーファス海老反る!
 そして、コケた。
 地面にYの字になって倒れているルーファスをガキンチョが指さして笑います。
「ぎゃははは、マヌケ!」
 ガキンチョはそう言って走り去って行きました。テーマパークやイベントに行くとよくいる。きぐるみを見るとキックとかパンチをしてくるガキンチョです。
 ルーファスは何事もなかったようにビシっと立ち上がり、何事もなかったように歩き出してこう思いました。
「(こんなコケた姿、知り合いに見らたれたら、恥ずかしいよねぇ。よかったきぐるみ着てて)」
 ルーファスよく考えて!
 きぐるみを着てなかったら蹴られなかったでしょう?
 群衆の中で頭一個分突き出して、ルーファスはきぐるみの中から処刑台の上のハルカを見守りました。
「(……ハルカ)」
 ルーファスはローゼンクロイツに言われていました。
 ――なにが起きても、ルーファス、キミはなにもするな。
 そんな忠告を受けても、なにかしないではいられない。自分がハルカは僕が守るからと約束したのです。
 ローゼンクロイツにはなにか考えがあるに違いありません。そのローゼンクロイツのことをルーファスは信じています。けれど、ローゼンクロイツはルーファスになにも告げませんでした。
 自分もなにかをしなくてはという気持ちがルーファスの中で募ります。
 ハルカを見つめるルーファスの視界が滲みます。
 死刑確定後、保守派はハルカの処刑方法を火あぶりにしろと主張しました。怖いですね。
 火あぶりは異端者を処罰するのに多く用いられた方法です。けれど、王都アステアで火あぶりが行なわれた公式な記録は、ここ三〇〇年以上ありません。それでも火あぶりを保守派が望んだのは、それほどまでにアースからきた者を恐れたためでしょう。伝説や伝承であっても、信じていればそれが事実なのです。
 しかし、国王不在の際の強行的な裁判。このことだけでも知れれば、国王と大司教の溝は深まります。そこに火あぶりを民衆の前で大々的に行なったとあれば、大きな争いになるのは目に見えています。そこでハルカの処刑方法は斬首刑と決まったのです。
 斬首刑は身分の高い罪人に対する刑です。そこに国王に対する保守派の思惑があるのかもしれません。
 刑吏の手によってハルカに目隠しの布が巻かれようとしていました。
 それを見て、ついに堪えられなくなってルーファスが飛び出そうとしたとき、その身体を押さえて前に飛び出した者がいました。
 処刑台に飛び出した影は三つ。
 猫耳にカシュネと呼ばれる額から鼻先を覆う仮面を装着しています。つまり仮面舞踏会の仮面です。
 警備に当たっていた治安官が叫びます。
「〈薔薇十字〉だ!」
 飛び出してきた謎の三人組を見て、ハルカは自分を助けにきてくれたのだとすぐに悟りました。そして、大声で叫ぶびます。
「死にたくない!」
 叫んだハルカの口を真後ろにいた刑吏が押さえました。
 ハルカは腹に衝撃を覚えました。もしかしたら、殴られたのかもしれません。けれど、次の瞬間にはすでに全身から力が抜け、意識は闇の中に落ちてしまいました。
 〈薔薇十字〉の団員が治安官と攻防を騒ぎの中、ルーファスが台上に登ろうとしていました。
 ハルカの傍にいるのは刑吏ひとりだけです。他の者は〈薔薇十字〉に気が回っています。今なら助けられるかもしれません。
 群衆の中を掻き分けて、あと少しでハルカに手が届きそうです。
 だが、気を失ったハルカを抱きかかえていた刑吏が、群衆を抜け出してきたルーファスの前に立ちはだかります。
 黒頭巾に開けられた二つの穴の奥で、刑吏の眼がルーファスを魅つめました。
 足が動かないことをルーファスは悟りました。
 手も動きません。
 全身が石になってしまったように感覚が全て失われたのです。
 治安官と攻防を続けていた〈薔薇十字〉は苦戦を強いられ、次々と現場に駆けつけてくる治安官に勝ち目がないように見えます。
 攻防が続く最中、ハルカの身体は引きずられ、ギロチン台に首を固定されていました。
 ルーファスは身体を動かすことも、声を出すこともできず、刻々と近づいてくるハルカの死の瞬間を見ていることしかできませんでした。
 〈薔薇十字〉の団員が治安官を振り切ってハルカのもとへ翔けます。
 ギロチンの刃が悲鳴をあげました。
 時間が止まる。
 刹那、群衆が波打ちました。
 ルーファスの時間が時を刻む。
「ハルカーっ!」
 胴体から切り離された首が無残にも転がりました。
 悲しみに打ちひしがれながら、憎しみが腹から沸き立ちルーファスの手に魔導力が集まります。
 だが、ルーファスは腹に強烈な拳を喰らい気を失い、〈薔薇十字〉の手によって逃げ運ばれたのです。
 ――ハルカを助けることができなかった。
 首は胴から切り離され、確実に肉体は生を失っています。
《ハルカ死んでる!?》
 その光景を目の当たりにしてハルカは叫びました。
 その場にいたたったひとりだけが〝ハルカ〟を視て、ボソッと黒頭巾の中で呟きました。
「クビチョンパだね(ふあふあ)」
 そして、ハルカはショックのあまり気を失ったのでした。

 自分の死よりも苦しい。
 天井を見つめるルーファスの眼は空ろでした。
 ハルカの首が切り落とされる瞬間はあまりにも残酷で、眼をつぶるたびにその光景が思い出されてしまいます。ルーファスはついに精神を蝕まれ廃人と化してしまいました。
 なぜかルーファス宅にいるカーシャも、ルーファスの抜け殻に困り果ててしまっています。
「ルーファスしっかりしろ!」
「…………」
 返事はなにも返ってきませんでした。
 インターフォンが家の中に響き、家の主はこんな状態です。いつもなら絶対に動かないカーシャが仕方なく玄関のドアを開けました。小さな奇跡です。
 そこに立っていたのは、空色ドレスのローゼンクロイツでした。
このとき、カーシャは他の者の気配も感じていました。なにかがいるような気がするけれど、そこに立っているのはローゼンクロイツだけです。
 不思議に思いながらカーシャはローゼンクロイツを家の中に入れました。
 カーシャの横を擦り抜ける風が二つ吹いきました。
 ソファーに座って天井を見つめるルーファスは、ローゼンクロイツの存在に気づいてもいません。
「ルーファス、ボクの声が聞こえてるかい?(ふにふに)」
「…………」
「大事な話があるからよく聴くんだよ(ふにふに)」
「…………」
「ハルカは死んでない(ふにふに)」
「…………っ!?」
 急にルーファスの瞳に色が差しました。
「なんだって!?(ハルカが死んでない!)」
 ソファーから飛び上がったルーファスがローゼンクロイツにつかみかかりました。驚愕するルーファスの顔が劇画チックです。
「慌てちゃいけないよルーファス(ふあふあ)。死んでないけど、生きてもいない、とても不安定な状態だ(ふあふあ)」
「よくわかんないけど、ハルカは今どこに?」
「ここに(ふあふあ)」
「どこに?」
「ここだよ(ふあふあ)」
 指が差された場所にはなにありません。しいて言うなら空気があるくらいでしょうか。
 ローゼンクロイツ指差す場所をカーシャが目を細めて視た。
「まさか!?」
 カーシャが声をあげました。
 映りの悪いテレビより酷く乱れていますが、目を細めると微かに視える――ハルカの姿。
 まさかハルカ幽霊になっちゃった!?
 この中でハルカをハッキリと視えているのはローゼンクロイツだけらしく、カーシャは目を細めて悪人面になってかろうじて見える程度。そんな中で、ルーファスだけが綺麗さっぱり視ることも気配を感じることができません。
「どこどこにいるのさ?」
《ルーちゃん聴こえる?》
 ハルカはルーファスの耳元でしゃべりますが、ルーファスは微かな反応すらしません。
《ねぇルーちゃんてば!》
 大声を出しても変わりません。
 仕方なくローゼンクロイツが通訳を買って出ます。
「ハルカは今ルーファスに話しかけているよ(ふあふあ)。ボクが代弁してあげるよ『死んで償いやがれルーファス!』だってさ(ふあふあ)」
 そんなことはひと言もいってません。
《ハルカそんなこと言ってない!(なんで勝手なこと言うの!?)》
「『ルーファスのばーかばーかばーか、へっぽこ魔導士!』って言ってるよ(ふにふに)」
 ローゼンクロイツの言葉を真に受けてルーファスが沈みます。
「そうだよ、僕が全部悪いのさ……僕が死ねば気が済むんだろ……へへへ」
 ハルカは死んでいないらしいと知り、ルーファスは歓喜しましたが、自分が原因の根底にいることでマジネガティブモードです。
 たしかにルーファスが自分を召喚したのが事件の発端ですが、ハルカはルーファスを怨む恨みきれませんでした。
《ルーちゃん元気出してっ。なんだかいろいろありすぎて吹っ切れちゃった。だからハルカは平気だよっ?》
 落ち込むルーファスを逆に励ますハルカですが、その言葉も聞こえていません。
 今から自殺の準備もしかねないルーファスなんて完全放置で、ローゼンクロイツとカーシャは勝手に会話を進めていました。
「実はね、処刑台の上でボクは刑吏に扮して、ハルカに秘薬を飲ませたのさ(ふあふあ)」
「ところでローゼンクロイツ、これはまさしくアニマの状態だな。人工的にどうやってハルカをアニマにした?(こんな芸当ができる者は、妾が知る限りいない。さすがは奇才と呼ばれるだけのことはある……あなどれん、ふふっ)」
「魔女にやり方、教えたくないな(ふにふに)。絶対悪用する気だろ?(ふあふあ)」
「……チッ(ケチめが)」
 二人の中では会話が成立していますが、ルーファスにはなんのことだかさっぱりです。切り替えが早いときは何気に早いです。
「あのさー、アニマとかってなに? ハルカは本当にここにいるの?」
《だからここにいるのに》
 少しハルカはさびしそうな顔をしました。けど、それもルーファスには見えていません。
 コホンとカーシャが咳払いをしました。その手にはいつの間にはフリップボードが数枚。きっと四次元胸元から出したに違いないですッ!
「適当に座れ。今から妾がわかりやすく説明してやる」
 この後、現在のハルカの状況について、紙芝居や人形劇を交えたり交えなかったりしながら、二時間ほどでカーシャが説明してくれました。
 説明の途中、なぜかサスペンスあり、ラブロマンスありの話でしたが、それを全部要約するとこういうことです。
 肉体を失ったハルカは死ぬのではなく、アニマという魂だけの存在になってしまったらしいです。幽霊の遠い親戚のようなものかもです。という説明に二時間をかけたっぽい。
 ハルカは家に帰れないどころか、身体まで失ってしまったのです。まさに不幸のどん底と言ってもいいでしょう。
そこにカーシャが留めを刺します。
「一つ、さっきの説明でしていなかった重大なことがある。このままだとハルカは消えてしまう(これはマナの還元理論の応用なのだが、ルーファスに説明してもわからんだろうな)」
「えーっ!」
《えーっ!》
 ルーファスが声を荒げ、ハルカも声を荒げました。事前にローゼンクロイツに説明を受けていたハルカでしたが、その部分は聞かされていなかったらしいです。
 平然とハルカ消滅を口にしたカーシャは、ローゼンクロイツにバトンタッチしました。
「魔女の言ったとおりだよ(ふあふあ)。このままだとハルカは世界に還元されてしまうんだ(ふあふあ)。だからさ、ハルカのアニマを器に移す必要があるんだけど、器の手配が思うように進まなくてね、困ってるんだ(ふぅ)」
 器とはつまり代わりの肉体のことです。
 アニマの状態はとても不安定であり、少しでもバランスが崩れると、アニマを構成するエネルギー同士を繋いでいた楔が解け、世界に還元されてしまう。生き物が土に還るのと同じことです。
 ニヤリと笑ったカーシャがボソッと呟きます。
「墓でも掘り返すか……なんてな、ふふっ」
「この国の九割が火葬だよ(ふあふあ)」
「わかっておるわ、冗談だ。鮮度で言えば病院の屍体安置所も付加だな、保存状態が完璧ではない」
「ショック死で死んだばかりが好ましいね(ふにふに)」
「この際、多少の外的損傷は仕方あるまい。最終的にはパーツを縫い合わせて一体こしらえるか?」
 平然と屍体回収について話をする二人。ハルカはドン引きでした。
《ハルカは屍体に入れられるのはイヤかなぁ。入れられるとしても、傷のない女の人の身体にきればぁ》
 ローゼンクロイツがため息を付きます。
「贅沢は言っちゃいけないよ(ふにふに)。ボクの計算ではあと六時間ほどでアニマの崩壊がはじまるんだから(ふあふあ)」
 マジですかっ!?
 タイムリミット六時間。
《贅沢言いません、間に合わせでいいから早くしてっ!》
 偶然にハルカを後押ししてルーファスも叫びます。
「ハルカのこと助けてあげてよ、お願いだよ!(僕のせいだ、全部僕のせいだー)」
 焦るハルカ。取り乱すルーファス。無表情のローゼンクロイツ。
 そして、妖しく笑うカーシャ。
「妾の取って置きを使うとするか。だが、あくまで一時的な応急手段だかな」
 妖しすぎる笑みを浮かべるカーシャ。この女はいったいなにを企んでいるのでしょうか?

 そんなこんなで、一時的な応急手段を取るためハルカはカーシャに連れて行かれました。
 アニマ状態のままハルカが連れて来られたのは、ルーファス宅から程近い場所にある商店の立ち並ぶ地区でした。
 こじんまりした二階建ての石造りの店。看板にはこうあります『美人魔導士がいる店』と。ネーミングセンスがイタイです。
 店の裏口に向かうカーシャを追いかけながらハルカは思いました。
《はっ、まさかカーシャさんの店っ!》
 そのとおりでした。
 魔導学院の教師をクビになったカーシャは、その魔導の知識を活かし、魔導ショップを開業したのです。ほとんど毎日休業だと近所でも有名な店です。カーシャのヤル気なさが感じられますね。
 外付けの階段を上り、二階の住居に上がりました。
 家の中は――暗い。
 とにかく暗いです。
 電気もつけずにカーシャはスタスタと歩いています。
《カーシャさん電気つけてよ、見えないよぉ》
「なにか言ったか?(聞き取りづらい)」
 アニマ状態のハルカの声はカーシャには聞き取りづらいらしいです。
《電気つけて!》
 大声を出すと、カーシャは仕方なさそうに頷きました。
 暗闇が一気に明るくなり、部屋中が見渡せるようになりました。が、目が痛いです。
 ピンクのテーブル、ピンクの椅子、ピンクの家具と小物が部屋中に配置され、おまけにピンクのぬいぐるみたちが床や戸棚の上を占拠しています。
 目が痛いだけでなく、心もなぜか痛いです。
 壁などがピンクじゃなかったのが、せめてもの救いでしょうか。
 その部屋から階段を下り、店舗である一階を通り越して地下室まで下りました。
 この部屋は電気をつけなくても明るいです。部屋全体がぽわぁ~んと淡い光を放っています。
 部屋を見回すと、実験装置のような物がありました。どこかで見たことが――パラケルススの研究所に似ています。
 大きくて透明な円筒形の入れ物が二本あり、管の中は液体で満たされていて、小さな気泡が下から上がっています。
 その中に浮いていた生物を見てハルカは眼を丸くしました。
《にゃ!?》
 片方の筒には金魚の出目金、もう片方には黒猫が浮いています。
《なんですかぁ、あれ?》
 ごもっとも質問に対して、カーシャも質問で返します。
「どっちがいい?」
 カーシャは出目金と黒猫を指差しています。つまり、どっちが好きかということなのでしょうか?
《なにがですかぁ?》
「あれは妾のペットの出目金と黒猫だ(ちなみに、ジェーソンとフレディという名前だった)。屍体となったあの者たちを大事に保存しておいたのだ(蘇りの秘薬のためにな)」
 焦りがハルカの脳内を駆け巡ります。ヤバイ、ヤバすぎる予感がします。どう考えても、そうとしか考えられません。
《にゃははは、だーかーらぁ、どういうことですかぁ?》
 にこやかに焦るハルカにカーシャは淡々と返します。
「どっちが好きかと聞いているのだ(妾のおすすめは出目金だ。持ち運びに便利だからな……水がないと死ぬがな……ふふふっ)」
《……黒猫がいいかもぉ(てゆーか、どっちもイヤみたいな)》
「では、黒猫の屍体を使用するぞ(出目金がおすすめだったのだがな、しかたない)」
《使うってどういうことですかぁ?》
 徹底的にとぼける構えです。このままとぼけとおすことができるのでしょうかッ!
「物分りの悪い娘だ」
《まさかネコさんの中に入れってことじゃないよね?》
「そうだが、なにか不満か?」
 ハルカしばしの沈黙。
《…………(人間じゃなくて、ネコ)》
「では、はじめるぞ(ひさしぶりの実験だ。魔導学院をクビになってから、おもしろい実験はしていなかったからな……ふふっ)」
 カーシャの口の端が少し上がりました。カーシャがこの妖しい笑みをやると本当に恐いです。だってなにが起こるかわかないもん。
「カ、カーシャさん、はじめるって、な、なにをですかぁ~!?(な、なにで笑ってるのこのひとは!?)」
 ハルカ大ピンチ!
 恐怖に苛まれてハルカは猛ダッシュで逃げようとしました。が、カーシャは床を滑るように移動して、ハルカの前に立ちはだかります。
「逃げるのか?(ふふ、逃げても無駄だぞ)」
《逃げるなんて……ちょっとトイレ(カーシャさん、恐い)》
「アニマ状態でトイレに行きたくなるわけないだろう?」
《あ、あの、カーシャさん、ちょ、ちょっと心の準備が……(殺される!)》
 殺されはしないと思いますが、いい実験台にはされるでしょう。ハルカ危うしです!
 アニマ状態のハルカの首に魔導チェーンが巻きつき、グッと引っ張られます。
「ヤルぞ」
《やっぱり、黒猫っていうのはちょっと》
「では、出目金にするか?」
《……黒猫でお願いします(こんな選択肢反則だぁ!)》
 魔導チェーンに引っ張られながら、ハルカは研究室の奥へと消えていきました。
 ハルカの運命はいかにぃ!?

 ハルカは思います。
「(人間じゃない自分の姿を見て、どう思うんだろぉ)」
 ルーファス宅の玄関の前に立つカーシャ。その手には携帯用のペットハウスが持たれていました。
 ドアは内側から開かれました。
「お帰り!」
 飛び出してきたのはルーファスでした。
 ルーファスはすぐに辺りを見回しハルカの姿を捜しました。けれ、そこにいるのはカーシャだけです。
「ハルカはどこ?」
「安心しろルーファス。ハルカならばここにおる」
 ペットハウスがガタガタ揺れ、カーシャはペットハウスを地面に降ろして蓋をあけました。
 オープン・ザ・ドア!
 中から黒くしなやかな前足が伸びました。
 思わずルーファスの顔が『えっ!?』になります。
 ペットハウスの中から出てきたのは黒猫。でも、ただのネコじゃありません。なんと、このネコは人間の言葉をしゃべれるのです!
「……ルーファスただいま」
 聞き覚えのある声でした。
そして、ルーファス驚愕!
「は、ハルカ~っ!?」
 黒猫=ハルカは小さく頷きました。
「ネコになっちゃった(出目金よりはマシでしょ?)」
 しばし沈黙のルーファス。彼が次に取った行動は、カーシャの胸倉をつかむことでした。
「ど、どういうことだよ?(ネコってなんで? カーシャがネコ好きなのは知ってるけど)」
「ルーファス、そんなに妾の胸を触りたいのか?」
「ちゃ、違うよ!」
 カーシャの胸倉からすぐに手を離し、顔を真っ赤にしたルーファスが後ろに飛びます。
「僕の話を濁すなよ!」
「応急手段と言っただろう。それにな、思わぬ副作用でハルカは魔導具なしでこちらの世界の言語を理解ししゃべることができるようになったぞ」
 黒猫になったハルカはワザとらしく、ネコっぽく、ルーファスの足に顔を擦り擦りしました。
「にゃ~ん♪ そういうことだからよろしくねっ!」
「はぁっ?(なんで、こうなるの!?)」
 ルーファスは頭を抱えて悩みました。頭痛が襲います……可哀想なのはいったい誰なのでしょうか?
 黒猫見習いのハルカとなんちゃって魔導士ルーファスの生活が幕を開けちゃう雰囲気ですよ。
 果たしてハルカは人間に戻ることができるのかッ!?
 むしろ家に帰ることはできるのかッ?
 ハルカの運命はどうなってしまうのかッ!?
 と、問題山済みです。
 とにかくハルカとカーシャを家の中に上げました。
 リビングではハルカたちの帰りを持っていたローゼンクロイツが、デリバリーで注文したイチゴパフィを無表情で食べていました。近くにはピザもあります。
 黒猫がハルカだとすぐにわかったローゼンクロイツが、ビシッと思わず立ち上がりました。ローゼンクロイツにしてはリアクションが大きいです。手にはイチゴの乗ったスプーンを持ったままですッ。
「まさか、本当にこうなるとは思ってもみなかったよ(ふあーっ!)。新世界の幕開けは近いね(ふにふに)」
 意味不明の発言です。
 眼に感情を宿さないまま、ローゼンクロイツの口元だけが笑みを浮かべました。クリームのついた口元がチャーミングです。
 ローゼンクロイツの手が素早く動きました。スプーンに乗ったイチゴがパクッと口の中に放り込まれ、そのスプーンがハルカを指し示します。
「キミは神だ(ふあーっ!)」
 声音はヒツジ雲みたいな感じですが、なんかよくわかんないけどスゴイ気迫が感じられます。
「ハルカが神っ!?」
 言われたハルカも戸惑いを通り越して唖然です。
 ローゼンクロイツの『キミは神だ』発言。この発言は愛の告白よりもある意味衝撃的な発言です。
「今からその説明してあげるよ(ふあふあ)」
 無表情な顔についた口が一瞬だけ歪み、すぐに無表情に戻ります。そして、ローゼンクロイツの説明がはじまりました。
「細かい話はめんどくさいから抜かすよ、国を乗っ取ろう(ふあふあ)」
 衝撃の告白第二弾、『国を乗っ取る』発言。
ハルカ固まる。ルーファスはあごが外れました。
 細かいどころか、話を飛ばしすぎです。
 ――数秒の時間を要してハルカとルーファスが叫びます。
「国を乗っ取るってどういうことぉ!?(この人テロリストなの?)」
「ちょっと、待った、なんで国を乗っ取るんだよ?(ローゼンクロイツはなにを考えているんだ?)」
 話が混沌としてきた中で、勝手にお茶をいれて飲んでいるカーシャだけが平然としていました。けれど、その口元は微妙にニヤニヤしています。
「ローゼンクロイツ、本当に国を乗っ取る気なのか?(ふふふっ、妾の血が騒ぐ)」
「国を乗っ取るのは魂の解放、全てのモノを天へと導くのはボクの使命(ふあふあ)」
 幼い頃から付き合いのあるローゼンクロイツはルーファスの知る限りでは、出会った頃から電波な子供で、しかも危ない思想を持った人物でした。よくこんな奴が治安官と司祭を兼任してるもんだとルーファスは思います。
 天を見つめるローゼンクロイツが身体をクルクル回転させます。電波を受信しているのかもしれません。きっとしてます。
「クロウリーの書庫でいつも遊んでいたボクは、ある本と運命的な出逢いをしたんだ……ある意味偶然(ふっ)。アースは地獄だとされる書物が多い中、それには正反対のことが書かれていたよ(ふあふあ)。アースは真の楽園だよ、そのアースからきた者が世界を統治し平穏をもたらすんだ、素敵だろ(ふあふあ)。そしてね、預言書も見つけたよ、アースからきた救世主は死の後に蘇る(ふあふあ)」
 全てはそこからはじまった?
 ピタッと回ることをやめたローゼンクロイツの眼が輝きます。澄んだエメラルドグリーンの瞳に浮かぶ六芒星。
「だからボクはいつか来る戦いに備えたんだ(ふあふあ)。ボクが〈薔薇十字〉の教祖〈薔薇の君〉さ(ふにふに)」
 クラウス王国で主に活動する秘密結社〈薔薇十字〉。秘密とされながらも国民の大半に知られる公然の秘密の組織です。
 その活動内容はとくに重い病を患う者を無料で救い、一部の特権階級しか知らない秘術などを一般人に広める活動をしていました。
 慈善活動をやっている団体のようではありますが、国やガイア聖教を主にした宗教団体に目をつけられ疎ましく思われていました。
 理由の一つ目は国の最高機密である秘術などが、この秘密結社によって一般人にも広まってしまっていたからです。二つ目は、一般人には手を出さない〈薔薇十字〉ですが、ガイア聖教には積極的な攻撃を仕掛け、式典の妨害など過激な活動もしていました。
 六芒星を映した瞳がルースファスたちを射抜きます。
「ボクらが政府やガイア聖教と仲が悪いのは知ってるだろ(ふにふに)。でもね、本当の敵はガイア聖教とも繋がっている魔導結社〈銀の星〉さ(ふにふに)」
 ローゼンクロイツの独断場と化してしまったこの場。このままだと絶対に大事に巻き込まれてしまいます。そんなのイヤです。だからハルカは前足を挙げました。
「はーい、そんなことよりもハルカは自分の世界に帰りたいかなって(ルーちゃんの友達って滅茶苦茶な人多すぎ。カーシャさんとローゼンクロイツしか知らないけど)」
 ピンクのカップでお茶を飲んでいたカーシャがハルカに視線を向けます。
「だがなハルカ。おまえがこの世界の召喚された理由を考え、その契約に基づくならば、おまえは世界征服をしなくてはいけなかったはずだ。つまり、世界征服を達成することにより、おまえの世界に強制送還される可能性があるぞ(思いつきで適当に言ったのだが)」
「ハルカそんなことできないってば!(世界征服なんてできるわけないじゃん)」
「方法が見つからぬのであれば、思いつく限りのことをやってみるしかあるまい(世界征服か……血が騒ぐな、ふふっ)」
「そういう問題じゃないよぉ。そんなことよりハルカの身体を元に戻してよ!(最悪でなにがなんだかわかんないよぉ)」
 もとの世界に帰る前に、まずは身体を元に戻すのが先決で、ごもっともな意見です。このまま猫のまま帰ったら大変なことになるのは目に見えていますもの。
 話を一通り聞いていたルーファスが、自身なさ気に手をゆっくーりと挙げます。
「あー、さっきは思いつかなかったんだけど、ネコじゃなくてホムンクルスにハルカを移せばよかったんじゃないかな?」
 鋭い指摘にローゼンクロイツもカーシャも動きを止め、ハルカの中で風船が爆発しました。
「なんで早く言ってくれなかったの、ルーちゃんのばかっ!」
「ごめんハルカ。ごめんねハルカ(責任は僕が取る。身体も戻すし、ハルカの世界にも帰すよ)」
 今回はネガティブモードを発動させることなく、ルーファスはため息をついて俯くだけでした。そんなルーファスを見ると怒るに怒れず、ハルカは押し黙ってしまいました。
 いろんな感情が入り乱れ、ハルカはなにがなんだかわからなかったのです。
 ソファーからルーファスが立ち上がります。
「パラケルスス先生を訪ねよう。ホムンクルスを応用してハルカのクローンを作ることが可能かもしれないから。それから、今日はもう遅いから、ピザ食べたら帰ってね」
 疲れたように全員に背を向けて、ルーファスは寝室に消えていきます。
 その途中でゆっくりと振り向き、ハルカに告げました。
「必ず元の身体に戻してあげるから。それとさ、ハルカはネコになったんだし寝室のベッド僕が使っていいよね、ねっ、ねっ?(久しぶりのふかふかベッド!)」
「う、うん」
「ありがとう(今日はぐっすり眠れそうだぁ)」
 スキップしてルーファスは寝室に消えました。
 さてと、ピザを食べようとハルカがテーブルを見ると、ない!
 ピザがない!
 ピザが一切れもありませよ!
ハッとしてハルカは二人を見ました。
 何食わぬ顔をしているローゼンクロイツとカーシャの口元には、トマトソースがついていました。
「ハルカも寝るぅー」
 こうしてハルカのネコとしての一日目が幕を閉じたのでした。

 絶対にカーシャはついて来るなッ。
 と、念を押してルーファスとローゼンクロイツは出かけました。
 今日も洗濯日和な街中を携帯用のペットハウスを持って闊歩します。もちろん、この中には黒猫のハルカが入っています。
 ふあふあと歩く空色ドレスのローゼンクロイツの後ろを歩いているのは――ネコでした。またもやネコのきぐるみを着せられているルーファス。
 クラウス魔導学院の正面門には、いつもよりも厳重に見張りの職員が立っていました。つまり、きぐるみを着せられているのは変装のためです。
 そんなばかな!
 って言いたくなる話ですが、ついて来るなと言われたカーシャの命令、嫌がらせ、腹いせなので、ルーファスはしぶしぶ従ったのです。
 鉄格子の正面門に立っている職員に、ローゼンクロイツは治安バッチを提示しました。
 ローゼンクロイツはこの卒業生の中でも有名であるし、治安官をやっているのもそこそこ知られたいました。けど、疑う要素が近くにありすぎです。謎のきぐるみ。
 疑いの視線を痛いくらいルーファスに向ける職員。
「そちらの方は?(連行中の変質者?)」
「ボクの相棒です(ふあふあ)。腕は確かなので、心配せずに(ふあふあ)」
 感情の全く読めない声と顔でローゼンクロイツは言いました。腕は確かでも、見た目が不確かで怪しすぎです。
 疑いの眼差しがグサグサぬいぐるみに刺さります。
「そちらの方も治安官さんでしたか。それで、その手に持っているのは?」
 手に持っているのはペットハウスです。
 ルーファスは無言のままペットハウスのふたを開けて、中身の黒猫を職員に見せました。
 どこからどー見ても黒猫に間違いありません。これが元人間だなんて誰も思わないでしょう。しゃべりさえしなければボロはでません。
 難しい顔で職員はうなりながらも、治安官バッジを提示されたことからしぶしぶ重い門を開きました。
 鉄格子の門が左右に開け、ローゼンクロイツが先を急ぎます。
 急いで追おうとしたルーファスが段差につまずいて、おっとととコケました。
 どてっ!
 ペットハウスの中のハルカが大震災に襲われ、ルーファスのかぶっていたネコの頭がコロコロ転がります。
 職員がコケたルーファスの後ろ姿を、目を細めて見ています。
「あっルーファス!」
 バレました!
 立ち上がったルーファスはすぐさま逃げます。
 すでにローゼンクロイツの姿はありません。先に逃げられましたッ!
 思いっきり腕を振って走るもんですから、ペットハウスの中は揺れに揺れました。
「ルーファスってば!」
「緊急事態だから我慢して!」
「イタッ!」
「世の中、我慢と忍耐も必要だよ」
 追っかけてくる職員を振り切り、ルーファスは学院の地下に逃げました。
 静まり返った廊下に足音が響き渡ります。ときおり、ゴツン、ガツンと聞こえるのはご愛嬌です。
 パラケルススの研究室の扉の前で、ローゼンクロイツが体育座りをしていました。無意味に憂いを含んだ虚ろげな表情が、マニアの胸にグッときます。
「待ってたよルーファス(ふあふあ)」
「待ってたってさ、私を置いて逃げるなんてひどいじゃないか」
「キミの足が遅いだけだよ(ふっ)」
 無表情な顔の口元が歪み、すぐに元に戻ります。相手を小ばかにした笑いです。
 ルーファスの持っているペットハウスが内側から大暴れして揺れました。
「早くここから出して!」
 キーキー甲高い喚き声がしました。
 すぐにペットハウスを床に下ろすと、フタに突進して無理やりハルカが出てきました。
「もっと丁重に扱ってよ(身体中イタイよぉ)」
「ごめんねハルカ」
 頭から湯気を出して怒るハルカに謝るルーファスですが、謝ってばかりのルーファスを見てハルカのほうが情けなくなってきます。
「もういいよ、次から気をつけてね」
 ショボーンとするルーファスをほっといて、すでにローゼンクロイツは研究室のドアをノックしていました。
「失礼するよ(ふあふあ)」
 返事を待たずに勝手にドアを開けて中に入ります。カーシャとはまた違った自分勝手な感じです。
 カーシャは自分が一番。
 ローゼンクロイツは周りを見てない。
 研究室の中には、山吹色の魔法衣を着た初老の男性――パラケルススがいました。
「これは珍しいの。今日はローゼンクロイツも一緒か。君とは卒業式以来じゃったかな?」
「……忘れた(ふあふあ)」
 目の前の老人より、ローゼンクロイツのほうがよっぽどボケが進行しているらしいです。
 ルーファスはハルカを胸の前で抱きかかえ、パラケルススにハルカの姿を見せました。
「パラケルスス先生、こないだ会った女の子のこと覚えてますか?」
「うむ、アースからきた子じゃったかな?」
「実はこの猫がそのハルカでして、いろいろあったんですけど、とにかくもとの身体に戻るために、パラケルスス先生のホムンクルスの技術でどうにかならないかと……」
「あの娘は死刑になって死んだと聞いたが?」
「アニマを猫に移し変えたというか、なんというか(僕自身がアニマとかに詳しくないから説明ができない)」
 液体を満たした硝子ケースの中に浮かぶホムンクルスを見ながら、ローゼンクロイツがボソッと呟きます。
「その子のアニマをボクが抜いて、猫に移し変えたのは魔女――カーシャだよ(ふにふに)」
「アニマを抜くじゃと?(やはりローゼンクロイツは侮れんな。〈魂移しの儀〉を成功させたカーシャもじゃ)」
 驚きで眼を剥いたパラケルススの視線は黒猫のハルカに注がれていました。研究者としてとても興味のある存在なのでしょう。
 アニマを取り出し、別の入れ物に移し替える。それはつまり不老を手に入れることに等しいことなのです。
「わしに作れというのは、この子の元の身体の形をした器じゃな?」
 研究室内にあるホムンクルスは人間と寸分変わらぬ再現率です。これならばハルカの肉体を再生させることも可能かもしれません。
 しかし、ローゼンクロイツは知っていました。
「ハルカの肉体を作るためには、ハルカが人間だったときの細胞が必要なんだ(ふにふに)。すでに火葬されたらしいよ(ふあふあ)」
 ハルカ&ルーファスが唖然としました。
 なんでそんな大事なのこと早く言わないんですかツ!
「今まで忘れてたよ、そのこと(ふあふあ)。ホムンクルスを見てから気づいた(ふにふに)」
 忘れてたでは済みません。希望を持たせといて、崖から突き落とされた気分です。
 ハルカの頭が真っ白になりました。
 グッドアイディアだと信じて疑わなかったルーファスも頭真っ白です。
 パラケルススの細い手がハルカに伸びます。
「髪の毛一本でもあればいいのじゃが。少し調べたいことがあるので、わしにその子を預けてくれんかね?」
「はい、お願いします」
 ルーファスは抱いていたハルカをパラケルススに渡そうとしました。その二人の間にローゼンクロイツが立ちはだかって邪魔をしました。
「良くないよパラケルスス(ふあふあ)」
「なにがじゃね?」
「ボクにはわかるよ、人の良さそうな老人の顔をしているけれど、一瞬だけ邪気がした(ふあふあ)」
 エメラルドグリーンの瞳がパラケルススを見据えていました。
 恩師に向かってトンデモないことを言うローゼンクロイツに、さすがのルーファスも怒りを露にします。
「なんてこと言うんだよ、パラケルスス先生が悪いこと考えるはずないじゃないか!」
「ルーファスは甘いね(ふあふあ)。ここにいるハルカは研究対象として、どれだけの価値があると思っているんだい?(ふにふに)」
 それは不老の可能性。
 ローゼンクロイツを前にして、パラケルススが後退りをしました。
「ふぉふぉふぉ、錬金術師の研究のひとつである不老不死に、この猫は精通するものがある。じゃがな、わしは医学には興味があるが不老不死には興味がない」
「ほら、ローゼンクロイツの思い過ごしじゃないか(そうだよ、僕がどれだけパラケルスス先生にお世話になったことか)」
 軽く笑って済ませようとしたルーファスの思惑を、ローゼンクロイツは見事に打ち砕きました。
「ボクの思い過ごしなら、パラケルススが左手に隠し持ってる注射器も目の錯覚だね(ふにふに)」
 張り詰めた空気が雲の巣のように張り巡らされ、ルーファスは場に捕まってしまいました。
 硬直していた場でいち早く動いたのはパラケルススの左手でした。
 その手から注射器がダーツのように投げられ、ローゼンクロイツの顔面に襲い掛かります。
「ライトシールド(ふにふに)」
 光の盾に弾かれて注射器の細い針が折れました。
 弾かれた注射器が地面に落ちるよりも早く、パラケルススは立て掛けてあった自分の杖を手にしていました。
 杖の先端についた紅い宝玉が唸ります。
「エントよ、力を貸したまえ!」
 パラケルススの声と共に、杖についた宝玉から太い木の根が飛び出し、生き物のようにしてローゼンクロイツ襲い掛かります。
 木の根を避けるローゼンクロイツですが、蛇のようにうねる木の根が執拗に追いかけてきます。
 そんなことよりも、木の根の攻撃をアクロバットな動きで避けているローゼンクロイツに驚きです。実は運動神経抜群だったりします。しかも学院時代は首席で卒業しています。嫌味以外のなにものでもないですね。
 ドレスの裾を揺らしながら、バク転するローゼンクロイツ。
 黒いパンツが見えた!
 ――違った、スパッツでした。
 状況がつかめず、唖然とその場に立ち尽くしているルーファスに抱かれているハルカが叫びます。
「ルーちゃん逃げて!」
「え、あ、なんでパラケルスス先生が!?」
 まだそのことでルーファスは引っかかっていました。けど、そんなことを考えている場合ではなさそうです。
 木の根に追われるローゼンクロイツがいち早く研究室を脱出し、すぐにルーファスもハルカを抱きかかえたまま走り出しました。
 魔導学院の廊下は巨大な魔導具や機材などを運ぶことができるように、場所によっては横幅が五メートル以上あります。その廊下いっぱいに広がった木の根がルーファスたちを追ってきています。大変です。
 階段の近くにある広いホールが見えてきました。そこで迎え撃つしかないのでしょうかツ!?
 しかし、そこには長身の人影が立っていました。
 黒尽くめで魔導具をジャラジャラ身につけているのは、黒魔導教員ファウストです。
 木の根に追いかけられているルーファスたちを見て、ファウストが手に魔導エネルギー体マナを集中させます。
「ダークフレイム!」
 ファウストの手から放たれた暗黒の炎がルーファスたちを掠め、後ろに迫っていたいた木の根を一瞬にして黒い灰へと変えました。
「おまえたち、ここでなにをしているのだ?」
 ルーファスたちがファウストの問いに答えるよりも早く、この場にパラケルススが追いついてきました。
「そやつらは重罪人じゃ、ファウストよ捕まえるのを手伝ってくれ!」
 状況が今ひとつ掴めず、顔をしかめたファウストにルーファスが訴えます。
「違います、パラケルスス先生が私たちに急に襲って来たんです!」
「ルーファスの言うとおりだよ(ふにふに)」
 誰が真実を言っているのか、それを見極めることはファウストにはできませんでした。彼を信用させるには――否、彼を味方につける方法はこれしかありません!
 ローゼンクロイツが懐から一本の羽根を取り出しました。
「ファウスト契約を結ぼう(ふにふに)。代償はこのハーピーに羽一本でどうだい?(ふあふあ)」
「良かろう、契約を結ぼう。これが契約書だ」
 ファウストは腰に身に着けていた契約書と羽ペンを出し、ローゼンクロイツに突きつけました。
 ハーピーとは海に棲む鳥人で、その美しい歌声で船乗りたちを惑わす怪物です。それでローゼンクロイツとファウストは契約を結んだのです。スピード取引です。
 ローゼンクロイツは羽ペンを受け取り、契約書にサインをしました。
「ひと段落したら羽は渡すよ(ふにふに)」
「クク……契約成立だ。契約を破った場合は命を代償とするから覚えておけよ」
 契約絶対主義者のファウストを味方につけるにはこれが一番の方法でした。
 パラケルススと対峙するのは三人と一匹。明らかにパラケルススに分が悪いです。
 けれど、廊下の先から裸体の女性が三人、こちらに向かって駆け寄ってきます。パラケルススの研究所にいたホムンクルスです。
 これで四対三と一匹です。ヤバイです。
 なんの恥じらいもなく生まれたまま姿でそこに立つホムンクルスを前に、ルーファスが急に腹痛でも起こしたみたいにしゃがみ込んでしまいました。
「ごめん、鼻血出た(ヤバイ、向こうを見ることすらできない)」
 鼻血をドボドボ落とすルーファスの横でハルカはため息を吐いていました。
「(……ルーちゃんダサすぎ)」
 ルーファスはあんまり女性の裸などに慣れていないらしいです。
 戦闘不能に陥ったルーファスを多少バカしつつもハルカが見守ります。
「上向いちゃ駄目だよ、食道に血が入るから」
「えっ、鼻血のときは上を向くんじゃないの?」
「それは間違った対処法なんだよ」
「へぇーそうなんだ(だから鼻血のあと胸焼けとかしてたのかな)」
 なんて二人が呑気に会話してる最中も、ローゼンクロイツとファウストはパラケルススたちと攻防を繰り広げていました。
 肉弾戦で襲い掛かってくるホムンクルスの攻撃を躱し、ローゼンクロイツは軽やかに隠し持っていた短剣をホムンクルスの胸に突き刺しました。
「ライト!(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツが呪文を唱えると、短剣を伝わってホムンクルスの身体が輝き、その身体を一瞬にして銀の砂へと変えてしまいました。
 動くたびにジャラジャラ鳴らすファウストは、腰に見つけていた丸めた羊皮紙を一枚取り出しました。
 ホムンクルスに向かって広げられた羊皮紙には、幾何学的な模様と呪文が描かれています。
「喰らえ!」
 ファウストが叫ぶと、羊皮紙の中から黒龍が飛び出し、鋭い牙の生えた口を開けてホムンクルスを二体続けて丸呑みしてしまったのです。
 巻き戻しのように黒龍が羊皮紙に戻ると、ファウストは素早く羊皮紙を丸めてたたみ、紐でしっかりと縛りました。
 残るはパラケルススだけです。
 杖についた紅い宝玉の後ろに手を翳したパラケルスス。
「フレア!」
 宝玉から紅蓮の炎を放出しました。熱そうです。
 ローゼンクロイツの口が一瞬だけ歪み、すぐに元に戻ります。
「ディスペア!(ふにふに)」
 渦を巻いていた紅蓮の炎は、ローゼンクロイツを前に突如として消滅してしまいました。まるでなにもなかったように消えたのです。
 パラケルススが唖然としたのは刹那でしたが、ファウストはその隙を見逃しませんでした。
「シャドウソウ!」
 幾本もの細い針がパラケルススの影に突き刺さります。影縫いです。
 影を縫われたパラケルススは、その本体の身動きをも封じられてしまいました。
 追い討ちをかけるようにローゼンクロイツの指から輝く鎖が放たれます。
「エナジーチェーン!(ふあふあ)」
 光の鎖がパラケルススの身体を雁字搦めに固定します。もう身動きひとつできません。顔の筋肉を動かすのがやっとです。
 結局なんの活躍もしなかったルーファスですが、まだ鼻血が止まらず軽い貧血とは戦っていました。激戦です。
 身動きひとつできないパラケルススの前にローゼンクロイツが立ちます。そして、深く澄んだエメラルドグリーンの瞳に六芒星が宿ります。
「どうしてボクたちを襲ったんだい?(ふにふに)」
「もしも黒猫が姿を現したら捕まえるように言われておったのじゃよ」
「なぜ?(ふにゃ)」
「〈銀の星〉の首領〈666の獣〉の命令じゃからじゃよ」
 どこからか風を斬る音が聴こえました。
 パラケルススの眼が飛び出ました。刹那、彼の首は宙を舞い、瞬時に頭も胴も銀の砂と化して崩壊してしまったのです。なんてことでしょう。
 銀の砂と化したパラケルススの向こう側にある壁に、大鎌が回転しながら突き刺さりました。誰もが大鎌の飛んできた方向を振り向きました。
けれど、そこには誰もいません。
 ファウストの背中が血を吹きました。
「くっ、何者だ!?(気配すらしなかったぞ!)」
 振り向いたファウストの腹に巨大な力が加わり、大柄なファウスト身体は六メートル以上も吹っ飛ばされ、激しく壁に叩きつけられてしまいました。何事ですか?
 床に落ちたファウストは項垂れたまま首を上げることはありませんでした。
 敵がどこにいるかまだわかりません。
 気配すらしないのです。
 ローゼンクロイツの瞳が六芒星を映し出します。
「……見つけた(ふにふに)」
 床を叩く激しい鞭の音が鼓膜に響きました。

 全員の視線が集まったそこに立っていたのは、蝙蝠のような漆黒の翼を持つ悪魔――エセルドレーダでした。
 ボンテージ姿に身を包むエセルドレーダの手には黒い鞭が握られています。その鞭が床の上で踊るたびに、甲高い音が廊下に木霊しました。
 エセルドレーダは人差し指を熟れた口の中でしゃぶり、緋色の眼はローゼンクロイツを恨めしそうに見つめていました。
「本当はアナタの首を刎ねてやりたかったのに、我が君のお許しがでなかったわ」
「キミがボクのことをいつも睨んでいるのは知ってるよ(ふあふあ)」
 視線を滑るように移動させ、次にエセルドレーダが見たのはハルカでした。
「我が君はアナタを欲しているわ。はじめて出逢ったときから、我が君はアナタに惹かれていた。アナタが死から復活したことを知り、その想いはより強いものへと変わった」
 腐臭が霧のようにあたりに立ち込め、エセルドレーダの足元から汚泥が沸き立つように闇が姿を見せました。
 沸き立つ闇はエセルドレーダの感情が具現化したものです。
 ――嫉妬。
「アタシが我が君に愛されることはない、ただの奴隷だから。傍にお仕えで消えれば本望よ。でも、許せない、許せない、許せない。我が君に愛されるアナタたちが許せない」
「ボクはクロウリーがキライだ(ふあふあ)」
 柳眉を逆立てるエセルドレーダを前に、ローゼンクロイツの声音に感情はありません。
 軟鞭が撓りました。
 ローゼンクロイツは動きませんでした。その胸元の衣服は、刃物で切られたように口を開けていました。
「クロウリーの命令がなければ、ボクを殺せないのかい?(ふにふに)」
「くっ!(今すぐにでも殺してやりたいのに)」
「やっぱりキミはクロウリーの犬だ(ふあふあ)」
「アンタこそ、我が君にどれだけの支援をされて、今があると思ってるのよ!」
 幼い頃からクロウリーに経済的支援と愛を受けてきたローゼンクロイツ。それを全て見てきたエセルドレーダにとって、ローゼンクロイツは嫉妬の対象でしかなかったのです。
 目の前にいるのに殺せない。身体の芯から熱く火照り、欲情にも感情がエセルドレーダの脳内を支配します。
「アタシが殺すなと言われているのは二人だけ」
 緋色の瞳に映し出されるルーファスの姿。
 エセルドレーダが床を蹴り上げ飛翔しました。
 巨大な翼を携えたその姿はまさに魔鳥のごとく獲物を狙います。怖いです。
 眼を丸くしたままルーファスは動けません。蛇に睨まれた蛙。美女に狙われたルーファス。
 鞭がルーファスに襲い掛かり、ハルカが叫びます。
「ルーファス!(危ない!)」
 鞭は宙に輝線を残し、紙一重でヘッドスライディングしたルーファスの足元を掠めました。
 次の攻撃はどこからくる!?
 来ない?
 エセルドレーダの繊手はルーファスではなくハルカを捕らえようとしていました。
「放して!」
 喚くハルカの首根っこを鷲掴みにし、エセルドレーダは妖艶な笑みで唇を舐めました。エロイです。
「我が君の命令が優先よ。この仔猫ちゃんはいただいていくわ」
 高らかな嘲笑が木霊し、ハルカを胸に抱いたエセルドレーダの身体が、墨汁を垂らしたかのごとく闇に侵食されていきます。
「助けて!」
 悲痛なハルカの叫びがルーファスの鼓膜を振るわせます。
「ハルカ!」
 闇に溶けていくハルカにルーファスが手を伸ばしました。けど、間に合いそうにありません。
 虚しく伸びるルーファスの手の横を輝く鎖が抜け飛びました。ローゼンクロイツの放った魔導の鎖――エナジーチェーンです。
 魔導の鎖は先端で四つに分かれ、エセルドレーダの四肢を捕らえました。
「ルーファス手伝え!(ふにふに)」
 珍しくローゼンクロイツが声をあげました。録音したらプレミアが付きます。
 魔導チェーンを握っているローゼンクロイツの身体は少しずつ引きずられていました。
 すぐさまルーファスも魔導チェーンを握り締め、手に汗が滲むほどに力いっぱい引っ張りました。
 力が込められるのと比例して、徐々にエセルドレーダの身体が闇の世界から引きずり出されていきます。
「はっくしょん!」
 誰かがした突然のクシャミで、エセルドレーダは不意を衝かれハルカがその隙に逃げます。
 軽やかに床にジャンプして、ハルカはすぐにルーファスのもとへ走りました。
 ルーファスは額に汗を滲ませ動きを止めていました。
 エセルドレーダは苦々しい顔で先を見つめていました。
 ハルカはまだ気づいていませんでした。
 大きなクシャミが引き金となり起こる現象を、ローゼンクロイツを知る者ならば誰も知っています。
 蒼い顔をしたルーファスは脳ミソをフル回転させて、現状を分析しました。
 身体をムズムズさせているローゼンクロイツ。
 その頭になぜか猫耳が生えました。
 おまけにしっぽまで生えたました。
 そして、意味不明な言葉を発します。
「ふあふあ~っ」
 空を漂う羊雲のような声を発したローゼンクロイツ。
「ハルカ逃げるよ!(ヤバイ、タイミングも悪い)」
 ローゼンクロイツの変化を見たルーファスは大声で叫びました。
「なにがどうしたの?」
 状況がつかめないでいるハルカはすでにルーファスの腕の中でした。
「ローゼクロイツの〈猫返り〉だよ。一種の発作でトランス状態でなにを仕出かすかわかったもんじゃないよ!」
 ローゼンクロイツの〈猫返り〉とは、一種の発作のようなものです。いつ起こるともわからないその発作を起こすと、ローゼンクロイツの身体はキュートな猫人へと変身してしまうのですッ。
 しかも――。
 猫人となったローゼンクロイツの口元が一瞬だけ歪み、すぐに無表情になります。
「……ふっ」
 次の瞬間、ローゼンクロイツの身体から大量な〝ねこしゃん人形〟が飛び出しました。しかも、ねこしゃんは止まることなく放出され続けているではありませんか!
 ――『ねこしゃん大行進』発動ですッ!
 〈猫返り〉時のローゼンクロイツは記憶がぶっ飛び、トランス状態になります。人間の言葉も通じませんし、意味不明な破壊活動も行なっちゃうのです。
つまり、手に負えなくなります。
 今のローゼンクロイツは最凶の魔導士です。
 ローゼンクロイツの身体から放出される大量のねこしゃん人形。それは止まることなく、休むこともなく、二足歩行でそこら中を元気いっぱいに走り回る――てゆーか、暴れまわります。
 ねこしゃんたちが壁に当たり、障害物に当たり、大爆発を巻き起こして逝きます。
 この魔導は勝手気ままに走り回るねこしゃんたちが、なにかにぶつかると『にゃ~ん』とかわいらしく鳴いて、手当たり次第に大爆発を起こす無差別攻撃魔法だったのです。
 しかも、一匹目がど~んと大爆発すると、爆発が爆発の連鎖を呼んで、そこら中で大爆発が起こってしまうのです。怖いですね。
 硝煙を爆風が消し、轟音とともに再び硝煙が視界を遮ります。戦乱の中に放り込まれてしまったような有様です。
 煙の中で微かに見える建物を確認するルーファスは汗びっしょりでした。
「階段どこだかわかる?」
 ルーファスに抱かれたままのハルカは、聞かれて顎をしゃくって方向を示します。
「たぶん、あっ……あーっ!?」
「あーっ!」
 ハルカの見たものをルーファスも見て叫びました。
 一階へ続く螺旋階段はすでに爆発によって崩落していたのです。
 すぐにルーファスは方向を変えて走り出しました。
「別の階段に行こう、こっちに道があるはず」
 視界を遮る煙の中で走る行為は、闇の中で走る行為に等しいです。
 ゴンッ!
 鈍い音を立ててルーファス転倒。ハルカが宙を舞う!
「イタッ!(壁に頭ぶつけた)」
 頭を押さえるルーファスの傍らで、見事に着地したハルカはすぐに辺りを見回しました。
「ルーちゃん、こっちだよ!」
 ハルカが顎をしゃくった先に長い廊下が見えました。
 混乱に乗じてルーファスとハルカは廊下の奥へと走り去っていきました。
 それをエセルドレーダが追うことはありませんでした。
 魔導に対して耐久性のある魔導学院の壁が崩壊していきます。
 主人の城が壊されていくさまを見て、エセルドレーダの瞳に憤怒が宿ります。
「もう許さないわよっ!(傷つけるだけなら、あとで再生が効くわ)」
 障害物のねこしゃんを軽やかに躱し、軟鞭を振るうエセルドレーダがローゼンクロイツに襲い掛かります。
 一方のローゼンクロイツは天井を見上げながらクルクルステップを踏んでいます。攻撃を躱す気、ヤル気ともにゼロです。完全にトランスして、イッちゃってます。
 ねこしゃんの放出量が増えています。
 いっせいにねこしゃんがエセルドレーダに襲い掛かりました。
 エセルドレーダに向かって微笑むねこしゃん人形。目と目が合い、芽生えるトキメキ。そして、恋(?)は激しく燃え上がったのです。
 にゃ~ん♪
 といっぱつ大爆発!
 そして、エセルドレーダの視界は真っ白の世界に包まれたのでした。

 どうにか一階まで逃げ出したルーファスとハルカはそのまま走り、中庭が真横に隣接する回廊を抜けようとしていました。
 授業の終わりを知らせるベルが学院中に鳴り響きました。
 気の早い生徒たちが教室から出ようとした瞬間、ベルは警報へと変わり、けたたましく辺りを騒然とさせました。
 廊下にシャッターが下り、ルーファスたちの行く手を阻びます。すぐに後ろへ引き返そうとしますが、後ろのシャッターもすでに降りています。残る道は中庭しかありません。
 誘導されるように出されてしまった中庭でルーファスたちは足を止めました。
 学院内にはいくつもの中庭が存在していて、ここは噴水広場と呼ばれる中庭で、芝生が広がる中央に女神像が水浴びをする噴水が設置されています。
 噴水から吹き上げられた水しぶきが陽光を浴びて煌き、その輝きを呑み込むような闇が傍らに立っていました。
 黒と赤が男を包み込んでいました。
 世にも恐ろしいまでの美貌を備えた魔人クロウリー。
「私は君が現れるのを心待ちにしていた。嗚呼、なんと崇高な姿なのか……私は君のことを心から愛しているぞハルカ」
 静かで優しい音色でしたが、相手がどこにいても放さないような声でした。粘っこい声です。
 クロウリーがただ近づいていくだけで、ルーファスは振るえ大地が唸る錯覚を覚えました。
 すべては錯覚なのでしょうか?
 猫の身体を得たハルカは超感覚が研ぎ澄まされ、身を刺すような悪寒と咽返るような瘴気、そして激しい嫌悪感を覚えました。
 怯えるようにしてハルカはルーファスの後ろに隠れ、そこからクロウリーの顔を凝視しました。
「ハルカに近づかないで!」
「ルーファス君、私のハルカを渡してくれないか?」
 自分の足元でハルカを見ずとも、ルーファスの答えは決まっています。
「できません」
「ハルカは私の物だ、私の手の内にあるのが当然だろう?」
「ハルカは誰のものでもありません」
「それは違うよルーファス君。ハルカは私のものである、それは運命だ。森羅万象も想いさえも、全ては運命に従い存在しているのだよ」
 クロウリーはハルカの傍らに膝をつきました。その間、ルーファスはまったく動けず、遠くを見たまま瞬きすらできませんでした。
「(僕はなんで動けない、今は動けないなんて最低だよ、ハルカが、ハルカが……)」
 汗を大量に掻きながら、ルーファスは自分を蔑みました。
 なにもできないルーファスなど、もうここにいませんでした。クロウリーはハルカのことしかすでに眼中にありません。アウト・ウブ・眼中です。
「愛してるハルカ。こちらにおいで、君を抱きしめて放さない」
 深く歪んだ盲目的な愛をクロウリーは捧げました。怖いです。
 ゆっくりと伸びてくる手を見ながらも、ハルカは逃げることも動くこともできません。喉もカラカラに渇き、声を出そうにも出ませんでした。
 ルーファスの呼吸が荒くなり、彼は念仏でも唱えるように同じ言葉を繰り返しはじめました。
「僕はやればできる、僕はやればできる、僕はやればできる、僕はやればできるかわかんないけど、やるっきゃない!」
 ついにルーファスが吹っ切れました。
 急上昇するルーファスの魔導力が場の空気を換えます。
 風が巻き起こり、芝生が波紋を立てて波立ちました。
 ルーファスの口が呪文を吐き出そうとします。
「タ――っ!?」
「覇ッ!」
 クロウリーに睨まれたルーファスが、前かがみに身体を曲げた体勢のまま吹っ飛ばされました。カッコよくないです。
「邪魔をしないでくれたまえ。今から私たちは愛を語り合うのだから」
「そんなことさせない!」
 地面に尻餅をついていたルーファスはすぐに立ち上がり、クロウリーに向かって駆けました。
 ルーファスの手が高く掲げられ、腕の周りに風が巻きつきます。
「エアプレッシャー!」
 グーにして伸ばされた腕から竜巻が横に放たれました。
「覇ッ!」
 だが、その竜巻もクロウリーの気合だけで一瞬にして掻き消されてしまったのです。
「ルーファス君、私に牙を剥くのならば、もっと殺傷力のある魔導を使って本気で掛かってきたまえ」
 殺傷力のある魔導を人に向けて使うなど、ルーファスには到底できないことでした。
 パラケルススも、エセルドレーダも、殺意を持って襲ってきました。
 しかし、人を傷つける戦いをしていいのか、まだルーファスには判断が付きませんでした。
 ハルカが連れ去られようとしている。
 相手を殺してまでそれを防ぐ?
 ルーファスにはできません。
 怯えるハルカの瞳がルーファスを見つめています。なにを訴えたいのか、その瞳を見ればすぐにわかります。
 ルーファスは全速力で走りました。
 そして、クロウリーを押さえ込もうと飛び掛ったのです。
「ハルカは渡さない!」
「なぜ魔導を使わんのだ。ダークポイズン!」
 汚泥のように濁った泡が大量にクロウリーの手から放たれ、ルーファスの全身にヘドロのようにへばりつきました。
 瘴気が針のようにルーファスを串刺しにして、一瞬にして毒が体中を駆け巡りました。
 身体が痺れに襲われルーファスは地面にうつ伏せになったまま動けません。
 胃から込み上げて来る吐き気。
 ルーファスの顔は緑色に変色し、解毒剤を飲ませなくて死んでしまいそうです。
 苦しみに襲われるルーファスを、長身のクロウリーが見下ろしています。
「君はこの程度かルーファス君。私は君にも大きな期待を寄せてたのだが、実に残念だ」
「……僕は……最初から期待されような……人間じゃない」
「君の体の中には、君の力ではない大いなる力が宿っている。所詮は他人の力、君はそれをうまく使うことができなかった」
 クロウリーは空に気配を感じました。
 なにか来る。
 心が躍るような、なにか。
 学院の時を司る何十メートルもある時計台の屋根から、噴水広場を見据えるエメラルドグリーンの瞳。
 綿毛のようにふわりふわりと、日傘を差して空色の影は地上に舞い降りました。
「待たせたねルーファス(ふにふに)」
 中性的な面持ちも相俟って、天から舞い降りたローゼンクロイツが、今のルーファスの目には天使のように見えました。
「……ローゼンクロイツ、君さ……登場の仕方カッコよすぎだよ」
「学院で〈猫返り〉すると必ず時計台の屋根で気が付くんだ、仕方ないさ(ふにふに)」
 地面に這いつくばるルーファスの傍らにローゼンクロイツは片膝を付き、ルーファスの背中に片手を押し当てて呪文を唱えました。
「プリキュア(ふあふあ)」
 ルーファスの顔色が見る見るうちに良くなっていき、全身の毒が浄化されていきます。
「ありがとうローゼンクロイツ」
 地面から立ち上がったルーファスとローゼンクロイツが並び、クロウリーと対峙しました。
 とても愉快そうにクロウリーは微笑んでいました。愛する者が二人も傍にいる。片方は正確には一匹ですが。
「嗚呼、愛しのローゼンクロイツ、私に愛に来てくれたのかい?」
「……違う(ふっ)」
 短くローゼンクロイツは切って捨てました。
 それでも寂しい顔ひとつせず、クロウリーはローゼンクロイツに抱擁を求めようとしました。
「愛してるローゼンクロイツ」
「……愛してない(ふっ)」
 軽くあしらってクロウリーを避けたローゼンクロイツの口元が一瞬だけ歪み、すぐに無表情になります。相手を小ばかにしています。
 ローゼンクロイツがクロウリーの気を惹いている間に、ルーファスはハルカを救い出し抱きかかえていました。
「ハルカ大丈夫だった?」
「……うん」
 手を伝わって感じられるハルカの振るえ。ルーファスはもう決してハルカを放さないと心に誓いました。
 小柄なローゼンクロイツが大柄なクロウリーを見上げました。
「なぜハルカを必要としているんだい?(ふにふに)」
「アースから来たる者、復活の後にこの世を支配する魔王となる」
「アースから来たる者、復活の後にこの世を統治する聖王となる(ふにふに)。思想の違いだね(ふにふに)」
「いつの日か、私と君が対立することは予期していたよ。私は魔眼を持ち、君は聖眼を持つ。それを知りながら私は君を支援したのは、心の底から君を愛していたからだ」
「……その愛、お断り(ふっ)」
「手に入らないから、欲しくなるのだよ」
「諦めが悪いんだね(ふあふあ)」
 偽りだとしても、それを信じる者がいれば、争いが起こり、血が流れることもあります。
 クロウリーは魔王を望み。
 ローゼンクロイツは聖王を望み。
 二人はハルカを運命の救世主だと信じました。
 クロウリーに視線を向けられ、ハルカは心臓を絞られる思いに陥りました。
「私は君を愛し崇拝する――それは絶対運命なのだ。ローゼンクロイツを愛したのも運命であり、敵同士になることも運命だった。私が〈銀の星〉の首領〈666の獣〉だ」
「そんな気がしていたよ(ふあふあ)」
 ボソッとローゼンクロイツは呟きました。
 ハルカ争奪戦が幕を開けたのです。
 先に仕掛けたのはローゼンクロイツでした。
「ライララライラ、光よ闇を貫け!(ふにふに)」
 クロウリーを串刺しにせんと光の槍が天空から降り注ぎます。
「ライラかおもしろい。ライララライラ、暗黒よ光をも喰らってしまえ!」
 強大な闇が獣のように口を開き、天から降り注ぐ光の槍を丸呑みしてしまいました。
 ライラとは古代魔導であり、威力は絶大ですが、現在では使える者がほんの一握りしかいません。現在主流となっている魔導は、ライラを簡略化させた魔導で、威力はライラに遠く及ばないのです。
 空で光が呑み込まれるのを待たず、ローゼンクロイツはクロウリーに向かって駆け出していました。
「ライララライラ、宿れ光よ!(ふにふに)」
 ローゼンクロイツの持っていた日傘に光が宿り、それは闇を切り裂く光の剣と化しました。
 相手を殺す気でローゼンクロイツはクロウリーの脳天に光の剣を振り下ろしました。
 が、光の剣はクロウリーの顔を前にして、素手によって受け止められていたのです。
「悲しいぞローゼンクロイツ。まだまだ私たちには、これほどまでの力の差があるのだ」
 憂うクロウリーの手が大きく振られ、ローゼンクロイツは強烈な平手打ちを受けて横に吹っ飛ばされいました。
 地面に転がってもすぐローセンクロイツは立ち上がり、クロウリーに飛び掛ろうとしました。
 しかし、クロウリーの姿が消えたのです。
 ルーファスが叫びます。
「ローゼンクロイツ後ろ!」
 声は耳に入りましたが、ローゼンクロイツが驚愕して動けませんでした。
 自分の背中に伝わる大きな温もり。後ろから抱きしめられてるとわかっても、ローゼンクロイツは動けませんでした。
「もっと強くなれローゼンクロイツ」
 耳元でクロウリーの囁きが聴こえ、ローゼンクロイツの首筋をクロウリーの唇が這いました。
 ローゼンクロイツは膝から崩れ落ち、地面に両手を付き項垂れました。その顔から零れた汗が地面を濡らします。
 ――人生ではじめて真の敗北を知った。
 戦意を喪失させたローゼンクロイツをその場に残し、クロウリーが一歩一歩ルーファスとハルカのもとに近づいてきます。
「さあ、愛しのハルカ。私と共に新時代を築こう」
 恐怖に駆られたハルカがルーファスの腕の中から逃げ出しました。
「嫌、嫌、嫌ーっ!」
 逃げるハルカをルーファスが止めようとします。
「行っちゃだめだ、僕の傍にいて!」
 けれど、ハルカの耳にルーファスの声は届きませんでした。
 景色すら見えない。闇の中にいるように、なにも見えない、なに聴こえない。ハルカは迫ってくる恐怖から一心で逃げ出しました。
 闇の手がハルカの身体を包み込みました。
 恐ろしいまでに妖艶と笑うクロウリーの瞳の中で、六芒星とハルカが重なり合いました。
「行こうハルカ」
 クロウリーの背中に赤黒い六枚の翼が生え、ハルカを抱きかかえたまま飛び去ってしまいました。
 また、ルーファスは一歩も動くことができなかったのです。

 球根型をした黄金の屋根を頂き、寺院にも見えるその建物は、一種の荘厳さを兼ね備えています。そこは王都アステアの北西に位置する古代寺院の跡でした。
 土気色の石壁に囲まれた寺院の一室で、ハルカは台座の上に座らされ、その毛並みをクロウリーに撫でられていました。
 もう抵抗する気も起きない。
 麻薬漬けにされたみたいに思考能力を空ろになり、ハルカは前を見つめながら前など見ていませんでした。
「これから私たちは婚約し契りを交すのだ。式はこのサン・ハリュク寺院で執り行う」
 ハルカを連れ去り、次にクロウリーがしようとしていることは、ハルカとの結婚でした。スピード結婚ですね。
 主人がハルカを見る目つきは、崇める神像を見るような眼差しであると同時に、神に畏怖などまったく感じていない、いざとなれば神をも喰い殺してしまうような狂気の眼差しだった。けれど形はどうあれ、主人はハルカに愛を捧げている。エセルドレーダは心穏やかではありませんでした。
「我が君、本当にこの者が魔王になるとお思いですか?(アタシはそうは思えない)」
「私のこの眼を信じられぬのか?」
 クロウリーの瞳が黒から緋色へ変わり、瞳に映る六芒星とエセルドレーダが重なり合いました。六芒星に囚われているのは、瞳の中のエセルドレーダです。それなのに現実のエセルドレーダまでもが、楔によって繋がれたみたいに動けません。
「我が君が信じるものであれば、アタクシも受け入れます」
「そうだ、それでいい。私がハルカと肉体の契りを交すまで、全てを見届けるのだ。おまえが歴史の証人となる」
 肉体の契りとは、身体と身体の交わりを意味します。
――猫とえっちするんですかッ!
 すでに人間の域を超えた妖艶さを持つクロウリーにならば、動物さえも虜にさせられるかもしれません。
しかし、美しさに潜む狂気が、相手を畏怖させてしまいます。エセルドレーダは畏怖の先に、クロウリーの奴隷となる道を選びました。
 絶対なる主人に仕え、主人の全てを受け入れる。受け入れる――信じていなくても受け入れる。
 ハルカを見るエセルドレーダの目は厳しいです。
「(殺してやりたい)」
 せめてもの救いは、主人はハルカに愛を捧げながらも、己をハルカよりも各下だと思っていないことでしょうか。エセルドレーダにとって、主人は常に最強の魔導士でなくて困るのです。この世でもっとも優れた存在であると信じているのです。
 ずっとハルカを撫で続けていたクロウリーがマントを翻しました。
「私は先に行っている。私の妻となる者だ。丁重に扱え」
「御意」
 花嫁の支度をエセルドレーダに任せクロウリーが去りました。
 二人だけになった部屋に息苦しい空気が立ち込め、ハルカを憎悪の視線が突き刺します。
「アンタなんかが我が君に愛されるわけがない。全てが終れば、我が君はおまえを捨てるのよ。我が君の本当の目的は、魔王の力を手に入れること」
 エセルドレーダの長い爪がハルカの首根っこに食い込み持ち上げました。
「アンタはね、我が君に喰われる運命にあるのよ!」
 ハルカの身体が壁に投げつけられました。
 全身を強い衝撃と痛みが走り、ハルカの眼に色が戻りました。
「痛いっ!」
「やっと意識が戻ったようね」
「…………(よく覚えてない、ハルカ……)」
「これからアンタは我が君――クロウリー様と結婚式をあげるのよ」
「にゃっ?(なに、どうなってるのぉ?)」
「アタシがベールを被せてあげるわ」
 純白ではなく、葬儀のような漆黒のベールをハルカは被せられました。
 ハルカの混乱は増すばかりです。
 結婚式?
 ここはどこ?
 そう、ルーファスたちは?
「(……ルーファス。助けに来て)」
 パニック状態に陥りながらも、ハルカも脳裏に浮かぶのはルーファスの顔でした。
 頼りにならないのはわかってる。でも、絶対助けに来てくれる。
 蛇のような生き物がハルカの首に巻きつきました。
「なにっ!?」
 黒蛇の先を握っていたのはエセルドレーダです。そう、蛇だと思っていたのは黒い鞭だったのです。
「我が君がお待ちよ、行くわよ!」
 犬の首輪を引くように鞭が引かれ、最初は抵抗を示したハルカでしたが、すぐにあきらめてエセルドレーダの後をついて歩きました。
 長方形に切った石を敷き詰めた廊下が続き、壁をくり貫かれた小窓から直接外の光が差し込んできます。
寺院内の内壁は剥がれ落ちて今にも崩れそうな感じですが、そこには絵巻物のような長い絵が描かれていました。絵が紙芝居のように物語りになっているのです。
 廊下はいつしか姿を消し、ハルカたちは青空のもとに出ました。
 そこは寺院の石壁に囲まれ、緑の芝が地面を覆っています。その中を通る石畳みの一本道は祭壇へと続き、女神像の見守る眼下に黒い人影が佇んでいました。
 ヴァージンロードの変わりでしょうか。
 石畳の上を黒いベールを被った花嫁が悪魔に付き添われ歩きます。
 式を見守る者は誰もいません。静かな結婚式でした。
 目を閉じ、瞼の裏で花嫁を見ていたクロウリーの瞳が見開かれました。
 緋色の瞳が妖しく輝き、六芒星が五芒星を見据えました。
「早いな、もうここを見つけたか、ルーファス君。そして愛しのローゼンクロイツ」
 クロウリーの口元は笑みを浮かべていました。
 式場の入り口に立つ二人の影。ルーファスとローゼンクロイツの姿がそこにはありました。
 ルーファスとハルカの目が合い、声を出したのはほぼ同時でした。
「ハルカ!」
「ルーちゃん!(やっぱり助けにきてくれた)」
 ハルカは満面の笑みを浮かべました。白馬の王子様にはほど遠いですが、今は誰よりも頼もしく見えます。
 全速力でハルカに駆け寄ろうとしたルーファス――ズッコケました。
 地面に足をつまずいて腹から地面に落ちたルーファスを見て、顔色の曇ったハルカは思います。
「(助けにきてくれたけど、助けてくれるかは不安)」
 式に邪魔者が入った。招かれざる客です。しかし、クロウリーは笑っていました。
「よい余興になりそうだ」
 クロウリーのマントが風もないのに大きくはためきました。
 コケているルーファスはほっといて、ローゼンクロイツはすでに戦闘態勢に入っていました。
エメラルドグリーンの瞳が映し出すのはクロウリーだけ。
ローゼンクロイツは地面を駆けました。だが、その前に巨大な翼を広げたエセルドレーダが立ちはだかったのです。
「邪魔はさせないわ」
「キミに用はないよ(ふあふあ)」
 鬼気をまといながら対峙する二人の先で、クロウリーが妖しく笑います。
「今日は特別な日だ。エセルドレーダよ、ローゼンクロイツの相手をしてやれ――殺す気で構わん」
「御意」
 ついにこの瞬間がきました。クロウリーの許しを受け、エセルドレーダは心の底から打ち震えました。
 怪鳥のような甲高い奇声を発し、エセルドレーダの鞭がローゼンクロイツを捕らえます。
 ローゼンクロイツの口元がエセルドレーダを一瞬だけあざ笑います。
「ボクに勝つ気かい?(ふあふあ)」
 二つの氣が激しく衝突し、爆風が辺りを蹴散らしました。
 地面に這いつくばったままチャンスを伺っていたルーファスは、爆風の中で立ち上がりハルカに向かって走り出しました。
「ハルカ!」
 叫ぶルーファスにハルカも駆け寄ろうとしました。
 けれど、クロウリーがそれを許すはずがありません。
「ハルカは私の物だよ」
 手に魔導を溜め、クロウリーがルーファスに向かって解き放とうとしました。そのとき、背後に気配を感じ、クロウリーは瞬時に振り返りました。そこに立っていたナイトドレスの女性は妖艶と微笑みます。
「ふふふ、アイスニードル!」
 そこに立っていたのはカーシャでした。
 カーシャの手から放たれた氷柱はクロウリーの身体を貫かんとします。
 二メートルにも満たないこの至近距離で避けられえる者はまずいません。
 ゼロではない可能性の中で、クロウリーは避けて魅せたのです。
 クロウリーの身体が残像を残し消え、カーシャから遠く離れた場所に立っていました。
「カーシャ君が近くにいたのは知っていた」
「やはりな、しかしあの距離で妾の躱すとは流石は魔人(チッ……仕留め損ねた)」
「利己主義な君がなぜここに来た?」
「こんな面白いこと、見逃すわけにはいかぬであろう……ふふふっ」
 それぞれの目的で戦いははじまりました。
 〈薔薇十字〉の首領としてのローゼンクロイツの宿命。
 憎悪に燃えるエセルドレーダのローゼンクロイツのへの嫉妬心。
 己の信じる理想を求めるクロウリーのハルカに対する愛。
 どうしてもハルカを助けたい一心でルーファスはクロウリーに立ち向かう。
 そして!
 ただ単に面白そうなことを見逃せないだけのカーシャ!

 日傘に光の力を宿した剣を取ったローゼンクロイツ。傘を剣と変えたのです。
「ボクは〈薔薇十字〉の中で〈薔薇の君〉と呼ばれているんだ、なぜだかわかるかい?(ふにふに)」
「そんなこと知ったことないわ!」
 ローゼンクロイツの問いに答えず、エセルドレーダの猛攻が鞭を生き物のように動かします。
 漆黒の鞭が宙に輝線を刻み、ねり狂い残像を残す鞭。
 光の剣でローゼンクロイツは全ての鞭を受け、激しい火花が煌く星のように散りました。
 柔軟鞭を躱すのは至極の業。鞭は素手より早いスピードでローゼンクロイツに襲い掛かってきていました。
 戦いが増すにつれ、鞭を操るエセルドレーダの動きが機敏になり、ついに鞭はローゼンクロイツの持つ光の剣に巻きつました。
 カメレオンの舌に巻き取られるように光の剣がローゼンクロイツの手を離れ、回転しながら宙に舞い、鋭く地面に突き刺さりました。術者の手を離れた光の剣は、速やかに光を失いただの日傘に戻ってしまいました。
 武器を失ったローゼンクロイツは動揺すらしていません。その無表情な顔は余裕すら感じられます。
「ボクが戦うべき相手はクロウリーだから、力を温存しようとしたんだけどな(ふにふに)」
「アタシに手加減なんかしてると痛い目見るよ。高級悪魔が甘く見られたものよね(絶対殺してやるわ、殺してやる)」
「低級、中級、高級とはいっても、高級にもピンからキリまでいるけどね(ふあふあ)」
「言ったねアンタ。死を持って知るといいわ!」
 嗜虐の色を瞳に宿し、残酷な笑みを浮かべました。
 ローゼンクロイツの視界からエセルドレーダが消えました。
 微かな気配がしました。
 後ろです!
 すぐにローゼンクロイツは後ろを振り向きましたが、エセルドレーダの姿はありません。
 広がる芝と遠く見える外壁。
 どこに消えたのでしょうか?
 否、近くいるのは間違いありません。
 ローゼンクロイツの足元の影が揺れ、その中からエセルドレーダが飛び出してきました。
「死ねぇッッッ!」
 武器と化した長い爪がローゼンクロイツの胸を抉りました。
 どうにか後ろに飛び退いてローゼンクロイツは鋭い爪を躱そうとしましたが、その胸元に四本の穴が走り、血が滲み出していたました。
 エセルドレーダは物が作った影に巣を張る能力を持ち、その中にできた異空間に身を潜めることができるのです。
 間合いを取っているローゼンクロイツに鞭が襲い掛かります。
 縦横無尽に動き回る鞭を避けることに集中しているローゼンクロイツには、魔導を使うために必要なエネルギーを練っている暇が与えられませんでした。
 魔導を使うには自然界のエネルギーなどを含む他からマナエネルギーを得る方法と、自分の体内にあるマナエネルギーを使う二通りの方法があります。
 自分のマナを使えば魔導をすぐにでも放てます。けれど、ローゼンクロイツはそれをしませんでした。
「ボクはクロウリーと戦いたいんだけど(ふぅ)」
 今もルーファスとカーシャがクロウリーと戦っています。二対一の戦いですが、クロウリーは実力を出していません。ローゼンクロイツもいち早く、そちらの戦いに加わらなければなりませんでした。
 鞭が大気を砕き、爆竹をならしたような破裂音が鼓膜を振るわせます。すでに鞭のスピードは超絶の域に達し、ローゼンクロイツは全く避けきれなくなってきました。
 鑢で削られたような痛みがローゼンクロイツの腕に走ります。
 肩に、脚に、腹に、背中までも鞭によって切り刻まれ、全身に激痛を覚えるローゼンクロイツのドレスが、空色から夕焼け色に徐々に変わっていました。
 それでもローゼンクロイツは表情を崩しませんでした。
 相手をいたぶるエセルドレーダは、まだまだ獲物を殺す気はありません。嬲って嬲って嬲り殺しにする。身体中に欲情が駆け巡り、エセルドレーダは舌舐め擦りをしました。
「殺してやるわ、殺してやる。けれど、まだまだ遊びましょう」
「……ヤダ(ふっ)」
 ボソッと吐き捨てるローゼンクロイツの態度が、エセルドレーダの感情を高ぶらせます。
「アンタのことを殺したいほど憎んでいるわ。でもアンタのひねくれた性格は好きよ」
「あっそう……だ(ふにゃ)。忘れた(ふあふあ)」
 苦しい表情すら見せなかったローゼンクロイツが突然、驚いたように目を見開きすぐに表情を戻しました。
「忘れてたよ(ふにふに)。〈薔薇の君〉だった(ふあふあ)」
 先ほどの話の続きを今になって掘り返してきたのです。
 爽やかな風が芝生の上に波紋を立てました。
 ローゼンクロイツの身体から、蛍火のような小さなフレアが放出されました。高濃度に凝縮されたマナが目に見えるまでになったのです。
 目の前で変化するローゼンクロイツを見るエセルドレーダの目つきが険しくなりました。
「(ローゼンクロイツのマナが上昇している。なにが起ころうとしているの!)」
 エセルドレーダの頬から汗が零れ落ちました。
 真っ赤な蕾が花開こうとしていました。
 可憐で気高い薔薇の華。
 空色のドレスが薔薇色に変わり、そのスカートの形すらも、何重にも折り重なった薔薇の花びらのように変化したのです。
 エメラルドグリーンの瞳に五芒星が宿ります。
「これが〈薔薇の君〉さ(ふあふあ)。赤くなると移動速度が三倍になるんだ(ふにふに)」
 〈薔薇十字〉の教祖にして首領。クリスチャン・ローゼンクロイツが〈薔薇の君〉へと変身したのです。
 薔薇の香りが充満し、ローゼンクロイツが動きました。
 重そうで動きづらそうなドレスにも関わらず、ローゼンクロイツの移動速度は宣言どおり三倍。そのスピードにエセルドレーダは付いていました。
「その程度の実力かしら!」
「……性能も三倍だよ(ふにふに)。ライトボール!(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツの手から光球が放たれますが、エセルドレーダは瞬時に飛び退き地面に膝と手を突きながら着地しました。
 だが、まだですッ!
「アースニードル!(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツが呪文を唱え、エセルドレーダの足元で地鳴りがしました。危険を感知したしたエセルドレーダはすぐさまバク転をしました。
 大地から突き出た尖った岩が、エセルドレーダが寸前までいた場所に突き出しました。
 バク転を繰り返しながら逃げるエセルドレーダを追って、岩の針山がいくつも顔を出して襲います。
 このとき、バク転で視界が狭くなっていたエセルドレーダは、背後に近づく影に気づいていませんでした。気づいたときには拳が眼前まで迫り、衝撃と共に顔を抉られて地面の上を転げ回らされてしまっていたのです。
 相手を殴った手を痛そうに振るローゼンクロイツが、地面に倒れたエセルドレーダを見下げています。
「戦いとは、いつも二手、三手先を考えて行なうものだよ(ふにふに)」
「よくもぶったわね。我が君にもぶたれたことないのに!」
「……あっそう(ふっ)」
 無表情の顔に浮かんでいた口が歪み、すぐに元に戻りました。ものスゴイ性格の悪さがにじみ出ている行為ですね。
 倒れたままのエセルドレーダは自分の尻から生えた尾を掴み引っこ抜きました。そして、それを横に振るいローゼンクロイツの足首を絡め取ってしまいました。
 エセルドレーダの鞭は、自らの尾をだったのです。すぐに新しい尾が生え変わります。まるでトカゲの尻尾ですね。
 足を掬われてしまったローゼンクロイツは身体のバランスを崩し、地面を片手で受け止めて軸としながら回し蹴りを放ちました。
 回し蹴りはすぐそこまで襲い掛かってきていたエセルドレーダの足を掬いました。
「やったらやり返さないとね(ふあふあ)」
「ふざけるんじゃないわよ!」
 すぐに鞭を振るおうとしたエセルドレーダの手首に細い蔓が巻き付き、手首を鋭く刺すような痛みが襲いました。よく見るとそれは棘の生えた薔薇の蔓でした。
「キミと同じ武器だから使いたくなかったんだ(ふにふに)」
 薔薇の鞭を操ったのはローゼンクロイツでした。
 そして、すぐにローゼンクロイツは下げていた短剣を鞘から抜き、エセルドレーダの顔面に投げつけました。
「ライララライラ、口を開けろ地獄の門よ!(ふにふに)」
「ぎゃぁぁぁぁっ!」
 天を仰ぐエセルドレーダ口から叫び声があがりました。
 短剣はエセルドレーダの右目を深く突き刺さしていたのです。
 痛烈な痛みに襲われたエセルドレーダは短剣を抜いて、獣のような声をあげてローゼンクロイツに短剣を振るいました。
 予想を超えたスピード。
 重なり合うローゼンクロイツとエセルドレーダの身体。
 エセルドレーダは喰らうようにローゼンクロイツの唇にしゃぶりつきました。肉欲的な接吻でした。
そして、ゆっくりとその唇が放されると、ローゼンクロイツの口が赤い薔薇を吐いたのです。
 鮮血が美しい悪魔の顔を彩りました。
 吐き出された血を浴びた顔で、エセルドレーダは妖艶と嗤います。
「報いてやったわ」
「……なかなか痛いね(ふにふに)」
 ローゼンクロイツの腹を突き刺した短剣は、エセルドレーダの腕ごと背中を突き破っていたのです。
「でもね、ボクの勝ちさ(ふっ)」
「ばかな!」
 エセルドレーダの真後ろで風が唸り声をあげました。
 骨を捻り折るような悲痛な音を立てて叫ぶ空間に、渦巻く穴が出現してエセルドレーダを吸い込もうとしいました。
 不適な笑みを浮かべたローゼンクロイツが、エセルドレーダの身体を軽く突き放しました。
 すると穴の中から闇色の触手が飛び出し、エセルドレーダの四肢を掴み、穴の中に一瞬にして引きずり込んでしまったのです。
「傷が癒えても、その場所から当分こちらに来れないね(ふぅ)」
 エセルドレーダはローゼンクロイツの開いた〈門〉によって、地獄の深い階層に引きずり堕とされたのです。
 重症を追ったローゼンクロイツは意識が霞み、背中から芝生の上に倒れました。
 見上げた空がとても青い。
「今日もいい天気だね(ふあふあ)」
 そして、ローゼンクロイツの瞼はゆっくりと閉じられたのでした。

「ローゼンクロイツ!」
 ローゼンクロイツが倒れたのを見てルーファスが叫びました。
「余所見をするなルーファス!」
 カーシャの叱咤が飛びました。
 慌ててしゃがんだルーファスの頭上を風の刃が擦り抜けました。
 クロウリーの動きは猫とじゃれ合うように、ルーファスとカーシャを弄んでいました。
 わざと攻撃を少し外し楽しむ。
 石の祭壇の裏からルーファスたちを見守るハルカの瞳。
「カーシャさんがんばって、とくにルーちゃんは死ぬ気でがんばってよ!」
「……私まだ死にたくないよ」
 呟くルーファスの真横を氣弾が抜けました。またもやカーシャの叱咤が飛びます。
「戯けがルーファス、気を抜く出ない!(へっぽこ魔導士め!)」
 舞うように動くクロウリーは笑っていました。このお遊びを心から楽しんでいるのです。
「運身は決して変えられぬ。ハルカと私がひとつに結ばれることも、この戦いの行方も。さて、この勝負どちらが勝つと思うかね?」
 どうしてもハルカを助けたい。
「僕が絶対に勝たなきゃいけないんだ。ハルカを助けなきゃいけない」
 何度もルーファスはハルカを助けることができませんでした。
 教会でハルカが連行されたときも、ハルカが処刑されたときも、魔導学院で連れ去られたときもです。
「(これが最後だ)」
 そんな想いがルーファスの頭を過ぎりました。ここでハルカを助けられなかったら後がありません。すべてが取り返しの付かないことになってしまうような気がしました。
 ルーファスがハルカのことをどう思っているのか?
 そんなことじゃないありません。
 今のルーファスはただ一心にハルカを守りたいだけでした。
 ただひたすらにがむしゃらに、ルーファスはクロウリーに向かっていきました。
「わかったやるよ、やるさ、やってやるさ――クイック!」
 呪文を唱えたルーファスの移動速度が急激に上がりました。普段の二倍以上のスピードが出ました。
 遊んでいるクロウリーの真後ろにルーファスが回りました。
「ウィンドカッター!」
 クロスさせた腕を広げ、ルーファスは風の刃を放りました。
 空気を切り裂く風の刃は簡単に避けられてしまいましたが、そこを狙ってカーシャが魔導を放ちます。
「ライララライラ、生を凍らせ!」
 カーシャの両手から放たれた冷気が扇状に芝生を凍らせ、鋭い氷の刃がいくつもクロウリーに襲い掛かります。
 上下左右に扇状に広がる攻撃を避けることはクロウリーにもできませんでした。
 氷の刃がクロウリーの肉体を貫通し穴を開け、肉体は蒼い氷に覆われ凍結しました。
 けれど、氷付けにされたクロウリーの身体から、突如として黒い炎が巻き起こり、天を焦がす勢いで燃え上がったのです。
 炎の中で優しく微笑むクロウリーの目に緋色が宿ります。
「覇ッ!」
 業火は一瞬にして掻き消され、衣服すらも無傷のクロウリーが蒸気をあげながら現れました。
 それを見たカーシャが呟きます。
「もはや奴は人間ではない。肉体は人に肉にあらず、服もマナを具現化させたものに違いない(人間の域を超えたか……神か悪魔か、どちらでもない魔人か)」
「さすがはカーシャ君だ。私はすでに人間の域を超えている。しかしまだまだ……ハルカとひとつに交われば、もっと強大な力を得る。神をも凌駕する力をね」
 クロウリーは魔王の出現を望み、それを喰らい力を吸収する気でいたのです。
「そんなことさせない!」
 地面を蹴り上げたルーファスのクイックが時間オーバーで切れました。急激なスピード変化に身体がついていけず、その反動でつまずいたルーファスがぶっ飛び、拳を前に出しながらクロウリーに向かってロケットパーンチ!
「覇ッ!」
 けど、ルーファスはクロウリーの気合だけで吹っ飛ばされたしまいました。
 物陰で見守るハルカはため息をつきました。
「頑張ってるのは伝わるんだけど、ルーちゃんやっぱり駄目な感じ」
 しかも、もっとダメなことに、飛ばされたルーファスはカーシャにぶつかって押し倒してしまっていました。
「このへっぽこ魔導士がっ!(どこまで人に迷惑をかければ気が済むのだ……笑えん、ふふっ)」
 人様に迷惑をかけているのはお互い様です。カーシャも人のことを言えません。
 すぐにカーシャの上から退いたルーファス。
「わかってるよ、僕だって一生懸命やってるんだよ!」
「私が本気で戦えぬは貴様のせいだぞ、貴様が責任を取らずにどうする!」
 カーシャに叱咤され、ルーファスのお腹が『ぐぅ』となりました。だんだんお腹が緩くなってきました。極度の緊張がピークを超えようとしているのです。
 しかし、こんなときにトイレにいってる場合じゃありません。
 クロウリーは腕を組み、ルーファスとカーシャのやり取りを見守っていました。不意打ちをする気すらないのです。余裕です。
「つまらんな、二人とも弱すぎる。しかも二人とも実力を出し切れていないようだな。特にカーシャ君、君は最盛期の十分の一の力も出せないのだろう?」
「悪かったな、全てルーファスのせいだ!(ルーファスから出会ってから、前にも増して運が悪くなったな……ふふふっ)」
「そうか、やはりな。ルーファス君の中にある力は、カーシャ君の力を奪ったものだったのだね。いや、それを足しても最盛期の力にはならない。残りはどこに?」
「うるさい知るか!」
 クロウリーの緋色の瞳に浮かぶ六芒星は、ルーファスの中に入り込んでいるカーシャのエネルギーを感じていました。
どうやってカーシャのエネルギーが、ルーファスの体内に入り込んだのかまではわかりません。しかし、そのエネルギーを使えば、ルーファスはもっと高度な魔導を使えるはずでした。
「力の使い方を知らんようだな、もったいない」
 クロウリーは呟きました。
 想い耽るようにクロウリーは天を仰ぎ、動きをまったく止めてしまいました。
 その隙をカーシャは見逃しません。
「ルーファス、ライラの炎を撃て!」
「えっ!?」
 なにを言われているのかわかりませんでしたが、カーシャの髪色が白銀に変わったのを見てすぐに理解しました。
 カーシャは身体の中のマナを全て手に集中させました。
「ライララライラ、神々の母にして氷の女王ウラクァよ……」
 ルーファスの身体の周りにもマナのフレアが飛びはじめ、魔導を帯びた風が髪の毛を巻き上げました。
「ライララライラ、紅蓮の業火よ全てを焼き尽くしたまえ……」
 二人が呪文を詠唱する最中もクロウリーは空を見上げ、流れる雲の動きを詠んでいました。
そして、クロウリーが首を下げた瞬間。
「メガフレア!」
「ホワイトブレス!」
 紅蓮の業火と猛吹雪が世界を包みます。
 高等魔導ライラの中でも名を持つ魔導。不完全な詩だけではライラは真価を発揮できません。正しい詩を読み、名を呼ばれることによってライラは完成するのです。
 ほぼ同時に放たれた炎系高位魔導と氷系高位魔導は、普通なら互いを相殺するはずでした。
 心の底からクロウリーは笑いました。
「あははははっ、素晴らしいぞ、太古の神術。さすがはカーシャ君だ」
 二人の放った魔法は互いに轟音と共にとぐろを巻きながらクロウリーに襲い掛かります。決して混ざり合うことなく、炎と氷がそこに存在する。それを見たカーシャが不適な笑みを浮かべました。
「名付けて、カーシャ様スペシャルだ!」
 クロウリーは魔導壁を張りましたが、二人の放った魔導に当たった刹那、シールドはガラスの割れるような音を立てて粉々に砕け、炎と氷がクロウリーの身体を包み込んだのです。
 蒸気と硝煙で視界が遮られ、渦巻き混沌とする魔導の中で、クロウリーは高笑いをしていました。
「ははははははっ、素晴らしい、素晴らしいぞ、とても快感だ!」
 クロウリーの身体が溶けていく。それはまるで鉄が溶解するようでした。
 ルーファスが額の汗を拭います。
「どうなった?」
 すでにクロウリーの笑い声は消えていました。
 視界を遮っていた煙たちが姿を消すと、その中に人影が!?
 まさか、まだクロウリーは生きているというのでしょうか!
 人型をしていた影が飛び散り、銀色の粉が風に吹かれ舞い上がりました。
 煌く粉の中にクロウリーはありません。
 あれだけの攻撃を喰らえば、跡形も残らないのは当然でした。
 その場に立ち尽くすルーファスにハルカが駆け寄ります。
「ルーちゃんカッコよかった。やった、あいつのこと倒しちゃったよ!」
「あ、ああ、うん」
 呆然としてしまっているルーファス。自分でもビックリなにがなんだか実感が沸きません。
 カーシャは焦げた地面に残る銀色の粉を指先で掬いました。
「完全に消滅したらしいな。これは身体を構成していた物質だろう」
 そう、全ては終ったのです。
 それをじわじわと実感してきたルーファスはハルカのことを抱きかかえました。
「よかった、本当によかったハルカが無事で」
「ありがとうルーファス……ちゅっ」
 仔猫の唇がルーファスの頬にキスをしました。
「はわっ、な、ななにしたの!?(キス、キスされた!?)」
 猫といえどキスはキス。一回は一回です。
 ルーファスは顔を真っ赤にして取り乱し、ここでもうひとつあることに気づいてしまいました。
「あーっ! 人殺しちゃった、殺しちゃった、クロウリー学院長殺しちゃったよ、これって殺人じゃん!」
 ルーファスの頭から意識が紐のように抜け、口から泡を吹いて最後は気絶してしまいました。
 そんなルーファスをハルカは見て思います。
「……やっぱり駄目な人」

 夜のカーテンが空を覆い、サン・ハリュク寺院が静けさを取り戻した頃、式場だったあの場所で赤と黒の魔導衣が風に揺られてはためいていました。
「よくぞ私の影を倒した。しかし、まだまだだ、まだまだ彼らは強くなる……ふっはははははっ!」
 月明かりに照らされる妖艶な横顔は狂気の影を孕んでいました。

 先日の戦いで重症を負ったローゼンクロイツが病院を退院すると聞いて、ハルカとルーファスはローゼンクロイツを迎えに行きました。
 リューク国立病院は、アステア王国の四代目国王の名に冠された病院で、その歴史はざっと三〇〇年以上あります。
 病院に着くと、副院長の魔法医ディーが自らルーファスを出迎えました。
 白衣ならぬ黒衣を身にまとった魔法医ディーと言えば、この国はおろか隣国でも有名です。
 黒衣をまとう医師というだけで、少し変わり者の匂いがしますが、魔法医術の腕は超一流で、リューク国立病院が創立されて以来から、すっと副院長の椅子に座っています。歳がいくつかということは気にしてはいけません。外見が二〇代後半にしか見えないというのもツッコミを入れてはいけません。
「最近はルーファス君がなかなかきてくれないので、私は寂しい思いをしていた」
 病院になんか毎日もきたくありません。なかなか来ないほうが正しいです。
 ルーファスの全身を妖しい目つきで見るディー。実はルーファス、この人のことが苦手だったりします。いつか食べられるのではないかとビクビクしているのです。
「あー、知り合いのローゼンクロイツと可及的速やかに会いたいんですけど?(もしくはディーにどっか行って欲しい)」
「ルーファス君の頼みなら重病だろうが退院させるが、お友達の入院を長引かせてルーファス君がまたお見舞いに来るというのも捨てがたい(それとも適当な理由をつけてルーファス君を入院させるのもいい)」
「とにかくローゼンクロイツに会わせてください」
「仕方あるまい、着いてきたまえ」
 二人の会話を始終じっと見ていたハルカは、ディーの視線がルーファスの身体を隈なく舐めるように見ていたのに気づいていました。
「(……目つきがエロかった。もしかして、このお医者さんってそっちの趣味っ!?)」
 変態さん発見です!
 ハルカは頭を悶々させながら白い廊下を歩きました。
 前を歩く二人の足が止まったのは集中治療室の前です。
 ディーが壁に取り付けられていたタッチパネルに手を置くと、金属製の扉が横に開かれました。
 室内は青いライトで照らされ、そこには人が横になって入るカプセルがあり、液体で満たされたその中にローゼンクロイツが目を閉じて眠っていました。
「治療はすでに終っている。再生液を抜いて目覚めさせるぞ」
 ディーはそういうと、カプセルについていたキーボードを操りました。
 カプセルの中に液体が徐々に抜け、透明のカプセルのふたが開きました。
 そして、カプセルの中から這い出てきたローゼンクロイツを見て、ハルカ大絶叫!
「にゃーっ!?」
 すっぽんぽんで気だるそうにあくびをするローゼンクロイツ。その身体からは水が滴り、髪の毛も濡れていてとても色っぽい。
 なんてことじゃなくて、ハルカの視線はローゼンクロイツの股間を凝視してました。
「男の子だったの!?」
 股間についたかわいらしい小象が鼻を揺らしています。
 これはハルカにとって衝撃的な展開でした。てっきりローゼンクロイツのことを女の子だと思っていました。てゆーか、ドレス姿の見た目は、女の子以外の何者でもありません。
 そうだ、これは夢に決まってます!
 けど、ハルカのまん前に立ったローゼンクロイツの股間には、ぞうさんが鼻をぶらんぶらんさせていました。
「(なんでハルカ凝視しちゃってるのぉ!?)」
 急いでハルカはローゼンクロイツから目を伏せて、目をぎゅっとつぶりました。
 ――逆効果でした。
 目をつぶるとぞうさんが鮮明に思い出されてしまうのです。
 汗をダラダラ掻いてひとり取り乱すハルカにルーファスが声をかけます。
「ローゼンクロイツが男だって言わなかったっけ?」
「聞いてないよぉ!」
「じゃあ、改めて言うよ。ローゼンクロイツ男だよ」
 いまさら遅い。遅すぎです。
 バスタオルを受け取り身体に巻くローゼンクロイツ。さっきまで隠すそぶりもせずに堂々としていたのに、タオルの巻き方は胸を隠すように上から巻いています。
「ふわぁ~よく寝た(ふあふあ)。ところでさ、ボクが寝ている間、熱帯魚の世話は誰がしてくれたの?(ふにふに)」
「はっ?」
 ルーファスは口をあんぐり開けてしまいました。そんな話初耳です。
「そうだ、熱帯魚は去年の夏に水槽から家出したんだった(ふあふあ)」
 どうやらローゼンクロイツは寝起きで寝ぼけているらしいです。
 一方ハルカは未だに衝撃から立ち直っていませんでした。
「(ローゼンクロイツが男の子ってことは、ルーファスとはただの親友関係かな。違うかも、どう考えてもローゼンクロイツは男の子に興味があるような。でもでも、女の子の格好してるだけってことも考えられないこともなくて、あーもぉわかんないよぉ!)」
 考えれば考えるほどドツボにハマりそうでした。

 リューク国立病院からルーファス宅に直行しました。
 家の鍵を開けて中に入ろうとすると、逆に鍵が掛かってしまいました。急いでルーファスは鍵を開けて家の中に飛び込びました。
 ソファーでティーカップ片手に優雅に寛ぐ人影。
「遅かったなルーファス」
 神出鬼没の不法侵入常習犯カーシャでした。
 いつものことなので、もうルーファスはなにも言いません。言う気にもならなりません。言いたくない。そして、言えない。
 三人と一匹がルーファス宅に揃ってしまいました。個性豊かな面々です。
 数日の間にいろいろなことがありました。
 ハルカは死んだり、生き返ったり、猫になったり、結婚させられそうになったり。でも、すべては解決し、平穏な日々が戻りつつりました。
「じゃないよぉ!」
 突然、ハルカが大きな声を上げました。
「ハルカの身体戻ってない。家に帰る方法もわかってないよぉ!」
 重大なことを忘れるところでした。それがメインだったハズです。途中、紆余曲折がありすぎたのです。
 目的の再認識をしましょう。
 身体を元に戻して、ハルカは自分の世界に帰る。
 目的ははっきりしていますが、ここにいるメンバーで話がややこしくならないはずがありません。
 ローゼンクロイツがボソッと提案します。
「まずはハルカが世界を統治するのが先だね(ふあふあ)」
 それに反論するルーファス。
「違うよ、まずは身体を元に戻すのが先でしょ?」
 それにまた反論するカーシャ。
「ふむ、ハルカを魔王に仕立て上げ、妾が影の支配者になるのが一番だな(ふふ、魔王カーシャか)」
 それにまたまた反論するハルカ。
「世界征服なんてハルカしたくない。一刻も早く身体を戻して、家に帰りたいよぉ!」
 大よそで言うと、意見は二対二の同点です。
 この後もあーでもない、こーでもない、と激論を繰り広げたり、繰り広げなかったりで、二時間経過してしまいました。
 そして、ついにはローゼンクロイツが、どっかからかホワイトボードをまで持ってくる始末でした。
「ボクの目的はまずこれ、そして、これ……で……」
 ローゼンクロイツがペンで描いた文字は次の通りです。

 ①アステア王国を乗っ取る。
 ②アステア王国を使って世界を乗っ取る。
 ③ハルカ神になる。
 ④世界が愛と平和に包まれる。
 ⑤ねこねこファンタジィ~!

 最後の⑤が意味不明ですが、それはさて置き、やはりローゼンクロイツは本気でハルカを神に仕立てるつもりなのです。
「ボクの目的はこんな感じ(ふあふあ)」
 生徒が教師に質問するときのように、ルーファスは『は~い』と手を上げました。
「質問がありま~す」
「なんだねルーファスくん?(ふにゃ)」
 こちらも負けじと教師の顔つきになってルーファスを指名しました。
「本気で世界征服するつもりなの?(……聞くまでもなく本気だと思うけどさ)」
「……わかってないね(ふっ)」
 無表情な顔についた口が一瞬だけ歪み、すぐに無表情に戻ります。
「征服じゃなくって統治だよ(ふあふあ)」
 今度はハルカが『は~い』と前脚を上げました。
「は~い、質問で~す」
「なんだねハルカくん?(ふにゃ)」
「どうやって世界征服……じゃなくって世界統治するんですかぁ?(明らかに無謀だと思うんだけどな)」
「……知らない(ふっ)」
 言い出したローゼンクロイツが『知らない』とはどういうことでしょうか。と言いたくなりますが、ローゼンクロイツの性格からして次に言葉はコレです。
「……ウソ(ふっ)」
 無表情な顔についた口が一瞬だけ歪み、すぐに無表情に戻ります。
そして、もう一言。
「……ウソ(ふっ)」
 『どっちだよ』と誰もが思い、ルーファスが代表してツッコミを入れます。
「どっちだよ!」
 普段無表情なローゼンクロイツの顔が深刻そうな顔つきになりました。……が、たぶん特に深刻でもないと思われます。
「……なにも考えてなかった(ふあふあ)」
 これって、もしやとハルカは思いました。
「(無計画!?)」
 怖すぎて声に出してツッコミを入れられませんでした。怖いですね。
 話を一通り聞いて、カーシャの瞳がピカーンと妖しく輝きました。悪巧み全快、脳みそフル回転で駆け巡ります。
「妾によい考えがある(ぴかっと、きらっと、最たるひらめき……ふふ、天才)」
 不適な笑みを浮かべるカーシャを見て不安を覚えるハルカ。けど、いちよう聞いてみます。
「どんなひらめきですか?(トンデモないことだとは思うけど)」
「昔、妾が世界征服をしようとしたときに用意した、あるモノがある(ドカーンと一発)」
「(やっぱり、やな予感)」
 世界征服って言ってる時点でかなりアブナイ。が、次の言葉はもっとアブナかったです。
「世界を破滅に追い込む、世界最大級の魔導砲、その名も『コメットさん三號機』だ!(我ながらナイスネーミングだ)」
「「はぁ?」」
 ハルカとルーファスが声をそろえて変な顔をしました。かなり間の抜けたへっぽこな表情です。
 魔導砲とは古の大魔導士たちが創り上げたという魔導兵器です。アステア王国が太古の技術を復元して造った魔導砲の威力は、最大出力で小さな島を破壊させるほどのものだったらしいです。
 アステアの所有するレプリカとも言える魔導砲でさえ小島を吹っ飛ばすのだから、世界最大級の〝オリジナル〟の威力はいかに?
 カーシャはローゼンクロイツの方を振り向きました。
「ローゼンクロイツ、国民に妾の声明を伝えたいのだが、おまえできるか?」
「〈薔薇十字〉のネットワークを介せば、映像つきでいけるよ(ふあふあ)」
「ふむ、頼む」
 アステア王国に住む人々は驚愕しました。
 突如、どこからか放たれた稲妻のような光線が、生き物のように縦横無尽に飛び交い、誰もが敵の襲来かと思いました。
 閃光はやがて上空でホログラム映像を作り出しました。映像に映し出された人物はもちろんカーシャ。
 カーシャはルーファス宅で、ローゼンクロイツが魔導で作り出したマジックウィンドウに向かって話していました。
「妾はカーシャだ(ふふ、カメラ写りは良好だろうか?)。全世界の下賎な愚民どもたちに告ぐ、おまえたちに未来はない、あるのは死のみだ。今、この国は世界最大級の魔導砲の照準にセットされた。妾が合図をすれば、この国は木っ端微塵に消し飛ぶ!(カッコよく決まったな!)」
 ぶっ飛んでるカーシャの横にいたルーファスがへっぽこな顔をします。
「はぁっ! それってやりすぎじゃないの?」
 空かさずカーシャのボディブローがルーファスの腹に炸裂。さらばルーファス。ルーファスは床にうずくまって動かなくなりました。
 何事もなかったようにカーシャは話を続けます。
「だが、妾とて冷酷な女ではない」
「(ウソつき、カーシャさんは十分冷たい人だと思う)」
 ハルカの発言は大当たりです。カーシャは絶対私利私欲のためならなんでもするタイプの女です。
「おまえらにチャンスをくれてやろう。全人類が妾の下僕になると約束したら、魔導砲は撃たないでやる」
 本気でカーシャは世界征服をするつもりです。きっとカーシャが世界の支配者になったら、世界はピンクの小物で溢れかえってしまいます。大変です。
 別に開いたマジックウィンドウで外の映像を確認しているローゼンクロイツ。カーシャの声明を聞いている人々はみんな笑っています。星が木っ端微塵に吹っ飛ぶなど、冗談だと思っているのです。
 人々の反応を見ていたローゼンクロイツは、カーシャの顔の横でそっと耳打ちしました。
「みんな信じてないみたいだよ(ふあふあ)。ここはひとつ、軽くかましてやるべきだと思う(ふっ)」
 無表情な顔についた口が一瞬だけ歪み、すぐに無表情に戻ります。これに合わせてカーシャも口元を歪めます。
「人間どもよく聞け! アステア王国の上空を掠めるように魔導砲を撃ってみせる」
「カーシャさん本気ですか!?(やっぱりアブナイよぉ、この人)」
「(ドカンと一発散らせてみましょう……なんてな、ふふっ)」
 カーシャはハルカに対して不敵な笑みを投げかけただけでなにも言いませんでした。けど、心の中では――ドカンと一発ってマジですかカーシャさん!?
 マジでした。
 悪魔の笑みを浮かべたカーシャの宝玉が付いたイヤリングが妖しく輝きます。
「発射!(どか~ん……ふふ)」
 次の瞬間、宇宙空間に設置してあった超巨大魔導砲が発射されました。

 巨大な光の柱がアステアの上空を掠め飛び、巨大な風を巻き起こし、上空の空気を掻っ攫い真空状態にしました。
 真空状態になったことにより、そこに空気が一気に流れ込み、地盤が浮き上がり、建物が上空に吸い込まれ、人々も、看板も、洗濯物で干してあったステテコパンツも飛んでいく。大惨事です。
 この中で顔を真っ青にしている人間的な普通人はハルカだけです。ちなみにルーファスは未だ床にうずくまり、アステア王国を襲った大惨事を知りません。
「さて、相手の出方を伺うとするか(これこそ妾の憧れていたものだ……ふふ)」
 これにてカーシャの演説は終わりました。
 沈黙が流れます。
――ハルカは気づきました。
「今のってカーシャさんが世界征服するみたいじゃないですか? ハルカが征服しないとダメなんじゃないんですかぁ?(完全に脅しだよね……)」
 びびっとひらめき、ローゼンクロイツは手を叩きました。
「じゃあ、こうしよう(ふあふあ)。魔女はハルカの補佐で、実際に動くのが魔女で、裏で糸を引いているのがハルカっていう設定にしよう(ふにふに)」
 これって完全な悪役です。ハルカの大魔王への道は着実に向こうから勝手にやって来ます。ビバ大魔王ハルカ。
 ローゼンクロイツ、ハルカを聖王にしたいんじゃなかったんですか?
 魔導砲が放たれた瞬間から、国家を巻き込んだ戦いになってしまいました。
 しかも、三大魔導大国のアステア王国にケンカを吹っ掛けたとあっては、後々世界を巻き込んだ戦いになることは必然でした。
 床に這いつくばっていたルーファスが、やっと立ち上がったときには、魔導砲はすでに放たれたあとでした。
 カーシャの破天荒ぶりにも困ったものですね、あはは。
 なんて簡単に済ませられる問題じゃなくなっていました。
「なんてことするんだよカーシャ!」
 ルーファスが、あのカーシャにキレ、怒鳴りつけたのです。きっと明日は大雪です。
 憤怒するルーファスはびしっとばしっと堂々とカーシャを指差しました。
「カーシャが世界征服をするなら、私はカーシャの敵になるよ(……ハッキリ言ってしまった。後が怖いかも)」
「ふふ、妾の敵だと? この世界征服はハルカの世界征服だ。つまりおまえはハルカの敵になるということだな?」
「……統治(ふっ)」
 無表情な顔についた口が一瞬だけ歪み、すぐに無表情に戻ります。そして、話を続けます。
「征服じゃなくって統治(ふあふあ)。ハルカを全知全能の唯一絶対の神として君臨させて、絶対君主による完全なる統治がボクの目的だよ(ふあふあ)」
 この場の状況というか、雰囲気が可笑しくなりはじめています。
 『はい、は~い』と言った感じでハルカは手をあげて発言しました。
「あの、カーシャさんは……やり過ぎだと思うんですけど(ああ、言っちゃった)」
「ほう、ハルカも妾に口答えする気か?(喧嘩上等!)」
 冷酷な表情をしてカーシャはハルカとルーファスを睨みました。まさに蛇に睨まれて蛙状態です。
 思わずハルカとルーファスは一歩と言わず、一〇歩ほど後ずさりをしてしまいました。
 ルーファスはハルカを抱きかかえて共同戦線を張りました。
「ハルカをダシに使って、自分が世界征服をしたいだけなんだろ!(……ヤバイ、また口が滑ってしまった)」
「そうですよ。今回ばかりはカーシャさんに付いていけません(……ルーファスにつられてハルカも言っちゃったよぉ~)」
 一方的に押されぎみの二人を助けるようにローゼンクロイツが割った入りました。
「魔女の方法はいいと思ったんだけどな(ふあふあ)。ハルカが魔女と決別するなら、ボクはハルカ側に付くよ(ふにふに)」
 ここで完全にカーシャVSハルカたちの対立の構図が完全にできあがってしまいました。
ひとりになったカーシャはどうする!?
「妾はやるぞ(走り出したら止まらない……ふふ、ビバ世界征服)」
 だそうです。カーシャはひとりでも世界制服をするつもりらしいです。
 決別したカーシャは部屋を出て行こうとしました。それをルーファスが止めます。
「どこ行く気?」
「おまえたちとは絶交だ。妾はシルバーキャッスルに帰る(あそこに帰るのは何年ぶりか?)」
 そういい残すと、カーシャは姿を消してしまいました。それを追う者は誰一人としていません。ローゼンクロイツを除く二人は、絶対にカーシャを止めることは不可能だと思っているからです。
 ローゼンクロイツが軽い咳払いをしました。
「じゃあ、そういうことで魔女カーシャを倒しに行こう(ふあふあ)」
「「はぁ?」」
 いつも通り息がぴったりな二人。ハルカとルーファスは裏返った声をそろえて出して、間の抜けた表情をしました。
「世界征服を企む魔女を正義の味方ハルカが倒しに行くんだよ(ふにふに)。そうして世界に恩を売って、ハルカを世界に君臨させるんだよ、わかった?(ふあふあ)」
 この男、カーシャよりも悪いやつかもしれません。悪知恵腹黒。
 再び国中に配信されるホログラム映像。
 その内容とは、カーシャは世界の敵であり、ハルカ率いる〈薔薇十字〉はカーシャを討伐してみせるというものでした。
「じゃあ、ハルカとルーファスはカーシャを討伐に行っておいで(ふあふあ)」
「「はぁ!?」」
 本日何回目だったでしょうか?
 またまたハルカ&ルーファスは声をそろえて驚きました。
「ちょっと待ったローゼンクロイツ、君はもしかして行かない気?(カーシャを敵に回すなんてできるわけないじゃん)」
「そうだよ、ハルカはただの猫だもん(にゃ~んってね)」
 二人の発言はなかったことにされて、ローゼンクロイツは先に話を進めます。
「ところでルーファス、魔女はどこに行ったんだい?(ふにふに)」
「あー、それは私とカーシャがはじめて出会った場所(思い出しただけで寒気がする)」
「どこ?(ふにゃ?)」
「地獄の雪山野外実習だよ」
「あの実習でルーファス遭難したろ? もしかしてそのときかい、カーシャと出会ったの(ふにふに)」
 ルーファスが無言で深く頷きました。
 そう、あのときルーファスはカーシャと出遭いました。
しかし、遭難して帰ってきたルーファスはそのことを誰にも話していません。聞かれてもなにも覚えてないとウソをついていました。その理由はもちろん、カーシャによる説得(脅迫)があったからです。
 その野外実習があったのはグラーシュ山脈。そこはクラウス王国の北に位置する極寒の山岳地帯。クラウス王国全体はやや温暖で過ごしやすい地域なのですが、この山脈地帯だけがなぜか気温が異常なまでに低い。その気温は平均で零下二五度に達し、最低気温はだいたい零下五〇度まで達するといいます。
 そのため、グラーシュ山脈には特殊な生物以外は全くいません。
 魔導学院に入学した一年生がはじめて行なう野外実習がここでした。あまりにも無謀なため、毎年、怪我人病人が出る地獄の校外実習なのです。魔導学院の実習で怪我人の出ない実習はないのですが――。
 ローゼンクロイツの瞳が妖しく輝きだし、五芒星が浮かび上がりました。
「じゃ、がんばってきてね(ふにふに)。ボク、寒いの苦手なんだ(ふあふあ)」
 話を切り返す猶予すら与えられませんでした。
 次の瞬間、ハルカ&ルーファスは極寒の雪山に放置されていたのでした。
 寒い、寒い、じつに寒すぎる山脈。凍え死にそうなくらいに寒い。いや、凍え死にます。
 気づいたらグラーシュ山脈に空間転送されていました。
「ローゼンクロイツって空間転送まで会得してたのか(やっぱ僕とは比べ物にならないほど天才だな)」
 空間転送の魔導は、どんな優れた魔導士でも失敗が大いにありえる魔導で、まともな神経の持ち主ならまずやりません。失敗した場合は、亜空間の狭間に閉じ込められて出られなくなることもある危険な魔導なのです。
 ルーファスとハルカは魔導で身体の表面をコーティングし、防寒対策をして雪山の中を進みました。
「はにゃーん、なんかぽかぽかしてきちゃったよぉ(こたつの中に入ってるみたい)」
 夢心地のハルカ。こたつを愛するハルカはこれでまたネコに一歩近づきました。
 ハルカが眠りそうになってすぐに、その城は見えてきました。氷でできたような城――シルバーキャッスルです。
 城の壁は石でできていますが、その周りは全て氷に包まれ、城から突き出る塔はまるでつららを逆さまにしたような形をしています。
 城門は開けられていました。もしや、これは『かかって来れるもんなら来てみろ!』というカーシャの意思表示なのかもしれません。
 城の床にも氷が張っていて、スパイク靴を履いていないと滑ってしまいます。ちなみに今は魔導でどうにかこうにかしているので普通に歩けます。魔導って便利ですねッ!
「(なんだか、スケートとかできそうなところだなぁ)」
 そう思いながらハルカはルーファスに抱きかかえられながら辺りを見回します。
 廊下には窓から差し込む輝く光と、炎が灯され、とても明るいです。この炎は普通の炎の色とは違い、青色をしていて、触るととても冷たいのです。凍傷の原因になるので、触るな危険です。怖いですね。
 長い廊下を進み玉座の間まできました。
そこで一行を出迎えたのはッ!?
「誰のあの金髪の人?(カーシャさんがいると思ったのに)」
 金髪の白い薄手のドレスを着た優美な女性。それを見たハルカは不思議な顔をしましたが、ルーファスは身も凍る思いで、一歩後ろに足を引きました。
「また金髪に戻したんだねカーシャ(カーシャが僕のこと恐い目して見てるよぉ)」
 金髪の女性はカーシャでした。ハルカの知っているカーシャの髪の毛の色は黒です。
「……ふふ、ぬけぬけとようこそ我が城、シルバーキャッスルへ(ここに来たからには、身も凍るような、あ~んな目やこ~んな目に遭わせてやる)」
 金髪のカーシャ――それは彼女が氷の魔女王と呼ばれていた時代の髪色です。
 実はこのとき、アステア王国全土では、聖王ハルカVS魔女カーシャの戦いが巨大ホログラムスクリーンによって映し出されていたのです。もちろんローゼンクロイツの仕業です。
 ハルカVSカーシャの映像を流して、見事ハルカがカーシャをやっつける映像を全世界に広めようとしているのです。
 ローゼンクロイツの思わく通り、人々は戦いを見守り、ハルカを応援しました。
 そういうわけで、この戦いは〝実況中継〟されていました。
 この実況をしているのはローゼンクロイツの雇った実況のプロと、特別解説員としてクラウス魔導学院の黒魔導教員ファウストが呼ばれていました。こんな仕事もするんですねファウスト。
「なかなか、面白い戦いだ。クク……私は誰が勝とうが構わないがな」
「おおっと、ルーファスがカーシャに歩み寄っていきます、なにをする気か!」
 実況中継どおり進んだルーファスは、カーシャのシャキッとビシッと足を止めました。
「軍隊がここに攻め入ってくる前にさ、全部ジョーダンでしたで済まそうよ」
「ヤダ(ぴょ~ん……ふふ)」
 即答でした。カーシャは人の言うことを聞くのが嫌いな女です。
「そこをなんとさ(どうにか丸く治めないと)」
「ヤダ(ぴょ~ん)」
 また即答でした。もう一度確認のために言いますが、カーシャは人の言うことを聞くのが大嫌いな女です。
 ルーファスの傍らに立ったハルカからも説得します。
「カーシャさん、世界征服なんてよくないですよぉ、ねっ?(この人に世界征服なんてされたら……恐い)」
「ヤダ(ぴょ~ん)」
 またまた即答でした。改めて言いますが、カーシャは人の言うことを聞くのがちょー大嫌いな女です。
 カーシャは目を瞑り、語るようにしてルーファスに尋ねます。
「ルーファスと妾はこの城で出逢った。あのときのことを覚えているか?」
「忘れるわけないだろ、私が雪山で遭難してこの城に迷い込んで、それでカーシャの眠りを覚ましちゃんだよ」
「そのとおりだ。過去の大戦で妾は重症を負い、エネルギーを癒すために装置の中で深い眠りについていたのだ。そして、不完全状態で妾はおまえに起こされた。それだけだったらよかったのだが、その際に妾のエネルギーの大部分が世界に還り、残った分までもおまえが吸収してしまった」
「だから、死ぬほど謝ったじゃん」
「もう気にしてはおらん。装置を直す技術が今の世界にはないがな!」
 思いっきり気にしているらしいです。
 グサッとカーシャの言葉がルーファスの胸に刺さりました。物理的な戦いがはじまる前に、精神的な戦いでルーファスは敗北しました。
 そんなときでした。この場に新キャラが登場したのはッ!
 白髪白髭の杖を突いた見るからにヨボボヨの爺さんがこの場に乱入してきたのです。
 誰ですかこの人ッ!
「やっとこさ見つけたぞ、魔女王カーシャよ(こやつを探すのに、はて、何年くらいの月日を費やしたかのぉ?)」
「誰だおまえは?(この爺さんは誰だ?)」
 全く記憶に御座いません状態のカーシャ。この老人の正体とは?
「わしのことを忘れてしもうたのか、この魔女が。わしは……わしは……どこの誰じゃったかの?(ロバート、ポール、エリザベスじゃったかの?)」
 この老人はだいぶボケていました。
「ああ、思い出したぞ、わしの名前はハインリヒ・ネッテスハイムじゃった(少しボケたかのぉ?)」
 だいぶボケています。
 名前を聞いてもカーシャはこの人物について思い出せませんでした。もしかして、老人は自分の名前を勘違いして、別の名前を言っているのでしょうか。いいえ、これが彼の本名で、人々に知れ渡っている名前は別にあるのです。
 驚いたルーファスは裏返った声をあげました。
「もしやあなたが、かの有名なアグリッパ様ですか?(……そんなわけないか、このボケ老人がね)」
「おお、そうじゃ、その名前じゃ。その方が世間様に知れ渡っておる」
「ああ、思い出した(だいぶ歳をとっていたので見た目ではわからなかった)」
 ぼそりと呟いたカーシャはやっと思い出しました。この男は〝過去〟にカーシャを討伐するために編成された魔導士の一団のひとりだったのです。
 けど、今ごろカーシャの城を見つけるなんて、たまたまカーシャがここに帰っていなかったらどうする気だったのでしょうか?
 むしろ今まで探し続けていた彼の根性はスゴイと褒めてあげたい。なんせ、一〇〇〇年以上もの月日を費やしているのですから。
「よく、人間が永い時を生き長らえたものだな。で、今更アグリッパが妾になんのようがあるというのだ……まさか妾を倒すなんて言うわけがないな。(こんなご老体のヨボヨボ爺さんがな)」
「わしの仲間は長い時の流れの中でみんな死んでしまったわい。残っているのはわしだけだ。仲間のためににもお主の首を貰わねばならん。じゃが、なぜわしをお主の首を狙っておるんじゃったかの?(こそ泥だったか、わしの逃げた女房だったか?)」
 ボケてまで追い手を追い続けるとは大した執念です。もしかして、ボケていて年月もわからなかったのでしょうか?
 このアグリッパがカーシャ討伐の旅に出たのは、もちろん過去に魔女王としてカーシャが人々に恐れられていたからです。
 キラリ~ンとカーシャの目が妖しく輝きました。またまたトンデモないことを言いそうな空気がこの場を包み込みます。いや、絶対言います(断言)。
「では、こうしよう。ハルカ&ルーファスチームとアグリッパと妾で三チームに分かれて戦い、勝った者が世界を自分のものしていい権利を持つことにしよう。魔導砲の制御装置はこのイヤリングだ。これを勝者にはくれてやる(勝つのは妾だがな、どんな手を使っても妾は勝つ……ふふ、卑怯者)」
 蒼い宝石の付けられたイヤリングが妖しく輝きます。
 アグリッパは杖を高く上げて笑い出しました。
「ふぉふぉふぉ、そうじゃったわい。わしは全世界の覇権を賭けて戦っているんじゃった。ハルカを手に入れたら私の勝ちだ」
 自分の名前を呼ばれたハルカはひどい身震いをしてしまいました。
違う。この人アグリッパじゃない。
 国民たちが今から起こる戦いに固唾を呑んでいたとき、突如としてライブ中継していたカメラにノイズが入り、中継が中断されてしまいました。
 そのとき現場は!?

 アグリッパの腹の内側から指が十本突き出て、内にいるなにかが腹をこじ開けて出てこようとしていました。エグイです。
 それがなにかいち早く気づいたハルカが叫びます。
「クロウリー!」
 ルーファスは恐怖し、カーシャは驚愕しました。
 アグリッパの腹が割かれ、中々ら人の両足が出て、胴が出て、最後に腹から出てきたというにまったく穢れていない美しい顔が出ました。
 まさしくそれは魔人クロウリー。
「嬉しいぞハルカ。私のことをいち早く気づいてくれて礼を言おう」
 死んだと思っていた者の出現により、戦いの焦点がすべてクロウリーに向けられてしまいました。
 険しい表情でカーシャがクロウリーを見据えます。
「生き返ったのか、それとも不死身か?」
「私は最初から死んではおらんよ。君たちが戦ったのは私の影だ、本物はこの私。今ここにいたアグリッパも同じ方法でつくったのだよ」
 まさにそれは人の創造。ホムンクルスは入れ物でしかないのに対して、たしかに〝あのクロウリー〟は本物でした。
 不思議な顔や、腑に落ちないといった顔でクロウリーは見られ、彼は艶やかに微笑しました。
「姿かたち、記憶までも同じダミーを私は造ることができる。姿も記憶も本体と同じならば、なにをもって偽者とするかは難しい問題だが、自己の存在を証明するのは他であり、他があっての自分。光があっての闇と同じことで、君たちが倒したのは私に対しての影だ」
 観念的なことが混じっていて、なかなか意味を理解するのが難解です。
 ハルカには意味がさっぱりでしたが、これだけはすぐにわかりました。まだ自分が狙われている。妖しい視線をハルカに送るクロウリーの眼を見れば察することができました。
 守るようにルーファスがハルカの前に立ちました。
「まだハルカのこと狙ってるの?(そうでなきゃ、こんなとこまで来るはずない)」
「もちろんだとも、ハルカは魔王となり、私に大いなる力を与えてくれる。ルーファス君には、ハルカの力が視えないのかな?」
「ハルカは私たちとは違う世界からきたかもしれないけど、普通の女の子だよ!(今は猫だけど)」
「すぐに私の言っていることは理解できる時が来る」
 続けてカーシャがクロウリーに質問を投げかけます。
「なぜアグリッパの姿をしていたのだ?(クロウリーほどの力があれな、隠れて不意をつく必要もない)」
「それは私がカーシャ君に興味を持ったからだ」
「妾のことと、おまえがアグリッパに化けていたことになんの関係があるのだ?」
「私の造ったアグリッパは君の過去を知る重要な人物だ。君が何者であるか、君が潜伏していそうな場所はどこか。私は彼の中に溶け込み、彼の記憶を読み取った。記憶を読み取ったあと、私が彼の中から再構築して出るには、腹を破るしかなかっただけのこと」
 大柄なクロウリーがアグリッパの腹から出てきた理由は、今の姿かたちとは異なる物質になっていたからです。クロウリーのすぐ近くにアグリッパが倒れていますが、その身体は日干しされたみたいに小さく干からびています。クロウリーが元の身体に戻るためにエネルギーを吸われたためです。
 風もないのにクロウリーのマントが揺らめきました。
「さて、質問がないのならば、ハルカを渡してもらおう」
「ルーファス避けろ!」
 叫んだのはカーシャでした。
 暗黒の炎が渦を巻きながらルーファスに喰らいかかりました。
 不意を衝かれたルーファスは動くことを忘れ、眼前に迫った炎を瞳が映し出し、真っ赤に瞳が色づきました。
 ルーファスが炎の直撃を食らう瞬間、その眼前に黒い影が立ちはだかり、ルーファスは押し飛ばされてしまいました。
 すぐ近くにいたハルカは一部始終を見ていました。
 クロウリーの放った炎の直撃を喰らいそうになったルーファスをカーシャが庇ったのです。
 まさかカーシャが人を庇うとは誰も思ってなかったかもしれません。それは相手がルーファスだったからかもしれません。
 苦痛を顔に刻むカーシャ。背中の服は燃え焼け焦げ、大きく素肌を露出されてしまっています。そこに浮かぶ大きなケロイド状の痕が生々しい。
 カーシャの火傷の痕を見たハルカが叫びます。
「カーシャさん大丈夫ですかっ!(酷い、見てるだけで胸が苦しくなっちゃう)」
「ふふっ、案ずるな。それは古傷だ(見られたくない傷を見られてしまったな)」
 カーシャが身を挺してルーファスを庇ったのは、クロウリーにとっても予想外でした。
「動けずに直撃か、それともハルカを庇うか、どちらにしてもルーファス君に当たると踏んでいたのだがな。とても興味深く面白いものを見せてもらった」
「では妾がもっと面白いものを見せてやろう」
 唇が淫らに妖しく微笑みました。
 冷気を含んだ風が叫び声を上げ飛び交います。
 怨念か執念か、妄執か、風の声が呪いのように耳にこびりつきます。耳を塞いでも悪寒が身体の芯を突かれてしまいます。すべて魂に直接訴えかけていました。
 カーシャの身体に起こる変化。
 黒髪が銀髪へ変わり、瞳は黒から深い蒼へ。
 紫色に変化した口元が、言葉を紡ぎ出します。
「妾の城へようこそ。この場所は妾にとってのパワースポット。最盛期とまでは行かぬが、今の妾は強いぞ?(きゃーカーシャさん素敵……ふふっ)」
 自信に満ちた不適な笑みを浮かべたカーシャ。しかし、拳は汗を握っていました。
 実力を計り知れない存在を前にしている。あのとき戦ったクロウリーは本気ではなかったとカーシャは確信していました。ならば、クロウリーの実力は?
 勝負は長くはならないでしょう。
 カーシャは最初から全力で向かうつもりでした。これで仕留めることができなければ、カーシャが勝てる見込みはありません。
 視認できるほどのマナがカーシャの周りを浮遊していました。
「レイビーム!」
 真っ白なビーム光線がいくつもカーシャの身体から放射されました。
 質量を持ったその光線は光速とはまではいきませんが、決して人間が避けられるスピードではありません。
 クロウリーの身体が霞み、その中を白い光線が抜けました。
 反動で霞が引き千切られ拡散して、クロウリーは姿を消しました。
 すぐに気配はしました。
 カーシャの真後です!
「ヘルファイア!」
 地獄から呼び出された炎が、振り向きざまのカーシャの身を包み込んでしまいました。
 炎の中でカーシャは冷ややかにクロウリーを見ていました。その口元が笑みを浮かべると、炎は掻き消され、水蒸気がカーシャを包み込んだのです。
「この城の中にいる限り、妾は一切の攻撃を受けることがない(と強がってみたが、限界もある。おそらくクロウリーはそれを知っておるな……ふふっ笑えん)」
「それでは城ごと吹き飛ばすか、それともなければカーシャ君が身に着けているイヤリングを奪うかだな」
「チッ……気づきおったか(これが城からのマナを受け取る受信装置だと、いつ気づいたのだ?)」
「私の眼は全てを視ている。そのイヤリングにマナが集まっているのを視えないとでも思ったかね?」
「気づいたところで易々と奪わせぬわ。ホワイトブレス!」
 クロウリーの姿が猛吹雪の中に一瞬で消え、魔導を放ったカーシャの視界も遮られましたが、吹雪の中からクロウリーの声がしました。
「シャドービハインド!」
 たしかに吹雪の中からクロウリーの声はしました。けれど、カーシャが気配を感じたのは自分の真後ろだったのです。さっきも同じことがありました。
 それはいつかエセルドレーダが、対ローゼンクロイツ戦で用いた能力に似ていました。相手の影に潜み姿を見せる能力です。
 カーシャの影から、飛び出たクロウリーが呪文を唱えます。
「――イラ、魂をも凍りつけ、ホワイトフリージング!」
 至近距離でカーシャは避ける術がありませんでした。
 宙に発生した白い雪の塊が次々とカーシャに襲い掛かり、その身体を白く覆っていきます。
 足が、手が、胴が、雪はカーシャの首から上を残し覆い隠し、まるで顔の小さな雪だるまのような姿になってしまいました。
 雪など簡単に砕いて抜け出せると思ったカーシャでしたが、いくら手足に力を込めても動きません。びくともしないのです。
「動けん、なぜだ!」
「〈氷の魔女王〉と呼ばれた君が、雪だるまにされた気分はどうかね?」
「戯けが、すぐにこんなもの!」
 だが、身体は氷――いや、鉄の中に閉じ込められたように動けません。
 クロウリーの手がカーシャの耳元に伸び、蒼い光を放つ宝玉のついたイヤリングに触れました。
「これは私がもらっておこう」
 耳たぶが悲鳴をあげ、イヤリングはカーシャの耳たぶを割きながら奪われました。
 クロウリーは上を向いて大きな口を開けると、なんとその中に瞳の大きさもある宝玉のついたイヤリングを落としてしまったのです。
 そして、喉を鳴らす音だけが響き渡りました。
 見る見るうちにカーシャの髪色が黒に戻っていきます。
 黒瞳のカーシャはクロウリーを睨みつけましたが、もうすでに彼女には戦う力は残っていませんでした。大きな戦力が失われてしまったのです。
「妾が雪だるまにされるなど、いい笑い話になるな。殺すならさっさと殺すがよい(勝ち目はない、玉座の後ろに身を潜めている二人にも期待はできん)」
「カーシャ君のことは嫌いではない。私たちは似たような境遇に持ち主だ。だから、殺しはせんよ」
 クロウリーの言葉に疑問を抱き、カーシャは話に関心を持ちました。
「妾とおまえが似ているだと?(どちらも美形……ふふっ)」
「人間でも神でもない中途半端な存在。カーシャ君の母は神々の母にして、氷の神ウラクァだと云うではないか。しかし、君は神ではない。それに劣等感を感じているのではないかね?」
「劣等感だと、妾が人間よりも優れた存在であることには変わりはないわ」
「そのプライドが君を世界征服への想いへと導いたわけだな」
 アステア王国ができるよりも遥か以前の出来事です。
 このウーラティア地方を支配しようとしていた一人の魔女がいたと古い文献にはあります。
 魔導の研究にも熱心で、研究のために学院を空けることの多いクロウリーは、その話について誰よりも詳しく知っていました。
「古の時代にこの地方は〈氷の魔女王〉――つまり君によって征服されかかったことがある。しかし、君は夢半ばで倒れた。そう伝承や古文書にはある。なぜ〈氷の魔女王〉がこの地方の征服に失敗したのか、それを語る物は現代には残っていない。ルーファス君たちは、なぜという理由に対して探究心が沸いてこないかね?」
 玉座の後ろに隠れていたルーファスとハルカは顔を向けられ、心臓が鷲掴みにされる思いでした。ルーファスの腕に抱かれたハルカは恐怖で震えてしまっています。
 ただ息を呑み込み、震えるだけの二人を見て、クロウリーが話を続けます。
「私はなぜカーシャ君が征服に失敗してしまったか知っている」
「それ以上しゃべるなクロウリー! 殺してくれる!」
 怒りに露にしたカーシャが叫びました。しかし、クロウリーは口を閉じません。
「カーシャ君は人間の部分が強かったと見える。アグリッパの記憶を読んだ私は、彼と君との間になにがあったのか知っている。それを知ったとき、私は君にかわいらしささえを覚えたものだ」
 爽やかな笑顔であるのに、クロウリーの内にあるものが違うと言います。狂いが感じられるのです。
 自分の秘密を人に口にされることほど、カーシャにとって屈辱的なことはありません。それなのに、身体の自由は奪われ報復もできないのです。怒りが腹の中で煮えくり返るだけでした。
「殺すぞクロウリー!(全ては若気の至りだ……ふふっ)」
「私はカーシャ君と同じミスはしない。私のハルカに対する愛はとても深く崇高なものだが、それによって失敗を犯すことは決してない。私はハルカを食べてしまいたいほど愛している。それが私の目的だ――シャドービハインド!」
 クロウリーの姿が瞬時にルーファスの背後に移動しました。
 一〇メートル以上もの距離をどうやって移動したのか、ルーファスは眼も剥いて驚きました。
「なんで後ろに!?」
「この業を使える悪魔は数が限られている。非常に高度な業なのだが、私はそれを魔導化したのだよ。私がこの術を使えば、半径三〇メートル以内にある影の中に移動することができる」
「じゃあ私たちが走って逃げても、すぐに追いつかれるってことじゃないか(魔導は万能じゃないって講義で教わったのに、そんなの嘘じゃないか)」
「それがわかっているのならば、ハルカを寄こしたまえ」
 ルーファスの腕の中でハルカが震えていました。
「ハルカやだもん。あなたのところなんかいきたくない!」
「いくら嫌われようが、私はハルカを愛するよ」
「あなたから愛してるなんて言われたくない!」
「では言葉を変えよう、君のことが欲しい」
 妖しく笑うクロウリーの手がルーファスに抱かれたハルカに伸びます。
「ハルカ逃げて!」
 大声を上げたルーファスはハルカを投げ、すぐさま手にマナを集中させます。
「エナジーチェーン!」
 光の鎖が黒と赤の魔導衣に巻かれていきます。
 クロウリーの身体を魔導チェーンで簀巻きにして、ルーファスはすぐにハルカに目をやりました。その場でハルカは動かずにいました。ハルカは逃げなかったのです。
「ハルカは早く逃げて!」
「ルーちゃんのこと置いて逃げれないよっ!」
「他に方法がないんだよ!」
「ダメっ!」
「わがまま言わないで!」
「ハルカわがままだよっ!」
 魔導チェーンが金切り声をあげました。
「覇ッ!」
 砕け散った魔導チェーンが輝く砂となって煌びやかに舞いました。せっかくのルーファスの時間稼ぎも無駄になってしまったのです。
 拘束から開放されたクロウリーのマントが激しく揺らめきました。表地の黒と裏地の赤がコントラストを描き、壮絶な動きを見えます。なんと、マントが生き物のように形を変え、赤と黒の触手となってハルカに魔の手を伸ばしたのです。
 いつかカーシャが言っていました。
 ――肉体は人の肉にあらず、服もマナを具現化させたものに違いない。
 触手と化したマントはハルカの四つ足をつかみ、そのまま宙に持ち上げてしまいました。
「放して!」
 叫ぶハルカでしたが、触手は開けた口の中にまで入り言葉を封じました。
 息苦しいと感じたのもつかの間でした。体中が触手で覆われていきます。もはや呑み込まれるのも時間の問題でした。
 ハルカを助けようとルーファスは魔導で触手を切ろうとしましたが、それに勘付いたクロウリーに妨害されてしまいました。
「エアボール!」
 クロウリーの手から放たれた空気の塊がルーファスの腹にめり込み、そのままルーファスの身体を後方に吹き飛ばしてしまいました。
 くじけず立ち上がろうとしたルーファスの耳に、ハルカの叫び声が木霊したような気がしました。口を塞がれているにもかかわらず、ルーファスの耳には自分に助けを求めるハルカの悲痛な叫びが聴こえたのです。
 触手はハルカを呑み込み、次にクロウリーの身体を呑み込んでしまいました。そう、それは昆虫の繭のようにクロウリーの身体を包み込んでいたのです。
 この場に新しい気配がしました。
「……サイテー(ふぅ)」
 空色の影――ローゼンクロイツでした。
 中継映像が途切れたことに危険を感じ、すぐさまここに駆けつけたのです。
「すごく嫌な予感がする(ふにふに)。ルーファス、ハルカのことはあきらめて、その繭を壊すよ(ふにふに)」
「ハルカのことをあきらめるだって!(なんてこというんだ!)」
 なにかとてつもない空気を、身動きを封じられているカーシャも感じていました。
「ルーファス壊せ、これは命令だ!(神が、邪神が生まれようとしている……マジ笑えん、ふっふふふ)」
「カーシャまでハルカを見捨てる気なの!(ハルカは僕らを置いて逃げなかったのに)」
 だが、ルーファスも狂気を感じていないわけではありませんでした。
 すぐそこにある繭に赤い血管のようなものが浮き、中でなにかが鼓動を打っています。
 ローゼンクロイツはすでにライラの詠唱をしていました。
「――そして、偉大なる大天使セーフィエルよ、御名において誓う。邪を砕く力を我に与えたまえ、汝の呪われた魂に救いあれ、昇華セイントクロス!」
 その一瞬、身体を十字したローゼクロイツの背中に輝く羽が生え、激しい閃光と共に彼の身体から十字の輝きが解き放たれました。
 繭は一瞬にして黄金に光に包まれ昇華はずでした。
 ローゼンクロイツは自分の目を疑いました。
「……無傷(ふ、ふにゃ?!)」
 傷一つなかった繭に小さな亀裂が走りました。
 ローゼンクロイツの攻撃が効いたのでしょうか?
 いいえ、違います。セイントクロスは物理的なダメージを当てえる魔導ではないのです。効果があれば、昇華されて消え去ってしまうはずだったのです。
 繭に入った亀裂が徐々に大きくなり、中から黒い瘴気が息をするように吐き出されました。
 闇が世界に奔りました。それは闇の閃光とでもいうのでしょうか、刹那、世界は闇に包まれていました。
 時が蝕まれました。
 闇が明け、世界に色が戻ると、繭のあった場所に羽を生やした裸体の人影が立っていました。
 裸体には性器がなく、背中に生えたバタフライのような翼は、片方が蝙蝠のような悪魔の羽、もう片方は鳥のような天使の翼です。
 光輪の王冠を頭に載せ、クロウリーよりも妖艶で中性的な顔を持った者は微笑しました。
「我が名は〈666の獣〉」
 天が奏でる調べのように玲瓏とした声が響いた刹那、〈666の獣〉の腹に異変が起きたのでした。

 世界は恐怖しました。
 〈666の獣〉の腹の下でなにかが蠢いたかと思うと、記号と六芒星が痣のように浮かび上がり、その中心に猫の顔が浮かび上がったのです。
 恐怖です!
 それを見たローゼンクロイツが、口から空気の塊を吹き出しました。
「ぷっ……ごめん、笑っちゃったよ(ふにゅふにゅ)」
 荘厳な〈666の獣〉の雰囲気と、腹に浮かび上がった猫の顔のギャップがありすぎたのです。
 腹筋猫ここに現るッ!
 それは吸収されたハルカでした。目を瞑ったままで意識はないようです。
 まだハルカはそこにいる。それを知ったルーファスは希望が沸きました。
「(まだハルカを助けられる。助けなきゃいけなんだ絶対に!)」
 それも束の間の夢でした。
「我の復活に血の祝杯はないのか?」
 〈666の獣〉の瞳が緋色の輝き、そこに六芒星が映し出されました。
 刹那の時、全員の意識が闇の中に堕ちました。
 気がつくと血の香りが鼻を刺激しました。
 ルーファスが振り返ったときには、ローゼンクロイツの腹には黒い槍が突き刺さっていたのです。
「ローゼンクロイツ!」
「……このままやられ役に納まるの嫌だな(ふぅ)」
 自ら腹に刺さった槍を抜き、ローゼンクロイツはそのまま前のめりに倒れてしまいました。
 駆け寄って来ようとするルーファスをローゼンクロイツは止めました。
「君アイラ使えないだろ(ふにふに)。ボクは大丈夫、それよりもハルカを救いなよ(ふあふあ)。ボクは応急処置くらいのアイラは使えるさ(ふあふあ)」
 アイラとは回復魔導の全体を指す言葉です。
 応急処置のアイラでローゼンクロイツは止血には成功しました。それでもローゼンクロイツはもう戦うことも、立つこともできない状況でした。
 大量の血はすでに吹き出し、直した傷口もいつ開くともわからない状況。それに加えて、ローゼンクロイツの使えたアイラは、自分のエネルギーを使って治癒する方法だったために、自らの体力を消費してしまったのです。傷が深かったローゼンクロイツは、それだけ自分の体力を消耗してしまったのです。
 ルーファスだけが残されました。無傷のまま戦えるのはルーファスだけです。
しかし、ルーファスにもわかっていました。力の差がありすぎるのです。
 目にも見える闇の風を纏う〈666の獣〉から発せられる鬼気。
 このときルーファスは死を身近に感じました。汗が滝のように流れ出し、抑えられ恐怖が内から沸き立つ。
 気づいたときには、ルーファスは雪だるまになっているカーシャの後ろに隠れていました。
「駄目だよ、僕は怖いんだ。なにもできない」
「ルーファス、妾の後ろに隠れるでない!」
「そんなこといったってさ」
「妾の顔に顔を近づけろ!」
「えっ?」
「早くしろ戯け!」
 言われるままルーファスが顔を近づけると、カーシャの唇がルーファスの唇に接吻をして、なにか冷気のようなものがルーファスの口の中に投げれ込んできました。
 口を離しカーシャは緩やかに微笑みました。
「妾のマナをくれてやった。早く奴を倒せ……でないと妾が死ぬ……笑えん……」
 ルーファスに力を分け与えたカーシャの意識が途切れてしまいました。
「カーシャ!」
 叫ぶルーファス。
 最後の望みをルーファスに託したカーシャの身体からは大量の汗が流れていました。カーシャの身体が溶けていく。早く〈666の獣〉を倒して、カーシャにマナを返さねば、カーシャの身体が溶けて消えてしまうのです。
 なんてこったい!
 焦るルーファスは恐怖を忘れ、すぐさま〈666の獣〉に向かって手を構えました。
「ライララライラ、ホワイトウィンド!」
 白銀の風が〈666の獣〉に向かって吹き荒れます。
「余興にもならんな」
 〈666の獣〉が羽虫でも払いのけるかのように手を動かしただけで、突風が巻き起こりホワイトウィンドを相殺してしまいました。
 ライラさえも簡単に防がれてしまっては、ルーファスに勝ち目がないに等しい。
 焦りを深くするルーファスの前で〈666の獣〉が残像を残し消えました。
 どこに消えたかなど考える時間などありません。
 ルーファスはすでに〈666の獣〉に首を絞められていました。
「ううっ(く、苦しい)」
「軽く触れているだけだ。少しでも力を込めれば喉の骨は砕けるだろう。だがな、それではつまらん」
「放せ……アイスニードル!」
 至近距離で放たれた氷の氷柱は〈666の獣〉の胸を突き抜けました。
「もっとやりたまえ、抵抗をするのだ」
 〈666の獣〉は笑っていました。胸に穴を開けられたというのに、苦痛など微塵も感じさせず、ルーファスの首を絞め続けていました。
 抵抗することすら虚しく感じてしまいます。
 ルーファスの腕が力を落とすと、〈666の獣〉は不快そうな顔を露にしました。
「もうあきらめるのか、つまらぬ。仕方あるまい、心の臓を抉り出して殺してやろう」
 〈666の獣〉がルーファスに止めを刺そうとした瞬間でした。
急に〈666の獣〉の動きが止まってしまったのです。
否、〈666の獣〉は腕が小刻みに震えています。力を込めても動かないといった感じです。
 苦痛に顔を歪ませ〈666の獣〉はルーファスを開放して、よろめきながら後ずさりをしました。
 そのとき、〈666の獣〉の腹に浮かび上がっていたハルカの顔が、深い眠りから覚めて静かに瞼を開いたのです。
「……ルーちゃん……今のうちに……」
 〈666の獣〉に吸収されながらも、ハルカの意識はまだそこで生き続けていたのです。
「早く……ハルカがこいつの動きを……早く殺して……」
 ハルカがなにを言わんとしているかルーファスはすぐにわかりましたが、苦しみを噛み締めて動くことができませんでした。
「駄目だよ、そんなことできない!」
「このままだとルーちゃんが殺されちゃうから……見ているのも嫌……早く殺して……それでハルカも苦しまずに済むから」
 まん丸のハルカの瞳から大粒の涙が一筋流れました。
 しかし、ハルカの抵抗も長くは持ちそうにはありませんでした。〈666の獣〉は歯をガチガチならしながら、徐々に震える腕を動かしていきます。
「まだ意識が残っていたか……されば、おまえの意識を消し去る前に、この男を目の前で殺してくれる!」
 黒い風が叫び声をあげ、かまいたちのようにルーファスの魔導衣を切り裂き、頬までも赤い筋が走りました。
 傷付くルーファスの姿を見てハルカは叫びました。
「早くハルカごとこいつを殺して!」
「そんなことできない! だって、ハルカは僕の大切な人だから!」
 震える手を必死に押さえるルーファス。
 けれど、死はそこまで迫っていました。
 〈666の獣〉が呪文の詠唱をはじめます。
「ライララライラ、暗黒星イーマより吹き荒れる死に風は……」
 それでもルーファスは動くことができませんでした。
「……駄目なんだ、僕にはできない」
 迷いが生じるルーファスの脳裏に誰かが直接話しかけてきました。
《ルーファス迷うな、ハルカの意思を無駄にするでない!》
 それは気絶してしまっているはずのカーシャでした。肉体的な意識をなくしても、ルーファスの中に入ったカーシャの一部とカーシャのアニマの意識を繋いだのです。
《メガフレアを撃て!》
「は、はい!」
 有無を言わさぬカーシャに押されてルーファスは返事をしました。
《ライララライラ、神々の母にして氷の女王ウラクァよ……》
 カーシャの呪文詠唱がはじまり、ルーファスの手が意思に反して動きはじめました。カーシャの意思がルーファスの身体を動かしているのです。
 慌てたルーファスもすぐに呪文の詠唱をはじめます。
「ライララライラ、紅蓮の業火よ全てを焼き尽くしたまえ……」
 魔導を帯びた風が当たりに吹き荒れ、〈666の獣〉が起こす魔気を反発しあい相殺していきます。
 ルーファスの身体の周りをオレンジとブルーのマナフレアが飛びはじめ、魔法衣と髪の毛が魔導風によって揺れました。
《ホワイトブレス!》&「メガフレア!」
 ハルカは涙を零しながら微笑みました。
 吹雪と炎が渦を巻き、〈666の獣〉を一瞬にして呑み込んだのです。
 身体が分解していく〈666の獣〉を見て、壁にもたれかかっていたローゼンクロイツが口元を歪めました。
「聖王が魔王を倒した……ボクの勝ちだね(ふにふに)」
 〈666の獣〉の身体が暗黒の炎を吹き出し燃え上がり、次々と蝶の形をした死の灰が天に舞い上がります。
そして、跡形もなく消えて逝く。
 至極を味わっているかのごとく〈666の獣〉は嗤っていました。
「ははははははっ、これで終わりではないぞ。我は〈666の獣〉の一柱に過ぎないのだからな!」
 不吉なセリフを残し、〈666の獣〉は灰も残さず完全に消失しました。
 そして、〈666の獣〉がいた場所で、小さな影がうずくまっているのが目に入ります。
 ルーファスの瞳に歓喜の色が宿りました。
「ハルカ!」
「ルーちゃん!」
 そこにはなんとハルカの姿があったのです。
 ルーファスはすぐさまハルカを抱きかかえ、その場でクルクル回転しました。
「ハルカ、よかった……よかったよハルカ」
 笑顔で目に涙を浮かべるルーファスに、ハルカは満面の笑顔で答えました。
「ありがとうルーちゃん。大好きだよっ!」
「えっ、あ、大好きっていわゆる友達関係で?」
 ハルカが答えを口にしようとしたとき、 ローゼンクロイツがボソッと呟きました。
「――あ、来るよ(ふあふあ)」
 なにが?
 ボソッと何気なくでしたが、ルーファスとハルカはローゼンクロイツの発言にただならぬものを感じて、息を塊のまま呑み込みました。
「大変だよ(ふあふあ)。アステア王国がここに向けて魔導砲を撃ったらしい(ふにふに)」
「「えーっ!?」」
 声を合わせてルーファス&ハルカが叫びました。
 どこからその情報を仕入れたのか、きっとローゼンクロイツは電波を受信したに違いありません。実際、このときクラウス王国から発射された魔導砲は、音速に迫るスピードでカーシャの居城シルバーキャッスルに向かっていたのです。大変です。
 ルーファスの意識の中でカーシャがャ叫びました。
《クロウリーが呑み込んだ制御装置を捜せ、こちらからも魔導砲を撃ち返してくれるわ!》
 命令にルーファス迅速に動き、〈666の獣〉の消失した場所を床に這いつくばって、カーシャのイヤリングを捜しました。
「ないよ、ないってば!(なにもないよ!)」
 城の警報装置がけたたましい叫び声をあげ、ローゼンクロイツがボソッと呟きました。
「……間に合わないかも(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツのエメラルドグリーンの瞳がここにいた全員を映し出し、瞳に浮かぶ五芒星が煌く輝きを放ちました。
 城全体が激しく揺れ、唸るような音を出しました。
 目を開けられないほどの光が世界を包み、闇を全て消し去ってしまいました。
 そして、全ては光の海の中に消えたのです。

 ハルカは目覚めました。
「……あれ、ここって?」
 見覚えのある部屋。
 ベッドの上から見える光が差し込む窓の外の景色。
 窓にはお気に入りのレモン色のカーテンがついています。
 ――自分の部屋。
「もしかして……帰って……もしかして、全部夢だったのかなぁ?」
 目覚めたら自分の部屋だった。
 そう考えたら、もしかして今までの出来事は全部夢だったのかもしれないと思えてきました。
 魔法の世界――そんな世界があるはずがありません。
 とても長い夢でした。
「すごく疲れてるみたい……もう少し寝よ」
 そう言ってハルカは深い眠りに落ちました。
 小さな身体が静かな寝息を立てます。
 夢のような冒険は終わり、再び夢の中へ。
 でも、本当に夢だったのでしょうか?
 もしも、あの出来事がハルカの体験した現実だったならば、そのことはハルカの〝身体〟が身に沁みて覚えていることでしょう。
 さて、わたくしも詠い疲れました。
 ベッドの上で静かな寝息を立てる黒猫と一緒に一休みいたしましょう。

 おわり


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