厠の華子さん登場の巻

《1》

 ――二〇XX年、日本は鎖国した。

 文明閉化の足音が出囃子(でばやし)のリズムでやって来る。
 科学と魔導の混在する日本は、鎖国をすることによって独自の文化が花開き、日本をネオ・江戸文化が包み込んだ。
 首都ネオ・江戸シティは大きな都なこともあって、欧米渡来の品々も多く見受けられる。
 鎖国をしたと言っても、日本が一〇〇パーセント自給自足をできるわけもなく、海外との貿易は今でも続いているのだ。
 そう 日本は自給自足もできないクセに鎖国しちゃったんです。
 だって、魔導が日本を変えてしまったんですもの……。

 ――逢魔ヶ刻(おうまがとき)。
 空は黄昏(たそがれ)色に染まり、漆黒の翼を羽ばたかせる鴉(からす)たちが鳴き叫び、風が木の葉を揺らす音が微かに聞こえる。
 今このとき、校舎内では、げにも恐ろしき怪奇現象が起きていた。
「……お腹痛くて死にそう」
 悲痛の叫び。
 木造校舎の廊下を、三人の男女が必死な形相で走る走る走る。そのうちの一人の少年なんて、墓場から出てきたみたいな顔をして、腹痛に耐えながら走っている。いや、逃げているのだ。
 後方から追いかけて来る闇。
 後ろを振り向いても、その姿を確認することはできないが、確かに奴が追いかけて来ている。禍々(まがまが)しい気が息苦しいほどに迫って来るのを嫌でも身体が感知してしまう。
「いや、もぉ、身体がゾクゾクして、気持ち悪い!」
 女子は学園指定の切袴(きりばかま)の裾を捲し上げながら走り、太ももが見える恥じらい事など気にしている場合じゃない。今は奴から逃げることで頭がいっぱいなのだ。
 形振り構わず走る女子の横では、全身から幸薄そうなオーラを出している眼鏡少年が並んで走っていた。
 少年の疲労の色は濃い。もともと貧弱そうな身体つきをしているが、背中に人を背負っていたらなおさらだ。
「蓮田(はすた)くん、そんなヤツ背負ってないで捨てちゃいなさいよ」
「そ、そんなことできないでござるよ……」
 ちょっぴり変わった口調の少年――蓮田風彦(はすたかぜひこ)の背中にはシルバーアッシュの髪色をした少年が背負われていた。
「不良で問題児って言われてるくせに、あいつ姿を見たとたんに失神なんてありえないわ。よくそれで魔導学園なんかに通ってられるわね!」
「あ、あんまりイライラしないでくだされ、稲葉(いなば)殿」
「イライラしてるんじゃないわよ、怖くて頭がいっぱいなのよ!」
 稲葉茜(いなばあかね)は頭を振り乱して、再び後ろを振り返った。
 姿は見えない。物理的な距離はだいぶ離したに違いない。けれど、ぶるぶると悪寒が治まらないのは、奴がまだ自分たちを追いかけて来ているからに間違いない。
 風彦の足がストップした。
「そろそろ体力の限界でござる、申し訳ない」
 背中に人を背負って走り続けていた風彦の体力はすでにリミットを超え、疲労困憊(ひろうこんぱい)により足元が震え、立っているのもミラクルに近かった。
「だめよ、逃げなきゃ!」
「あの、それとでござるが、拙者たち職員室に行こうとしてたんでござるよね?」
「わかってるわよ。だって、あいつが追って来るから職員室に行こうにも、逆方向に逃げるしかなかったんじゃない」
「もう仕方ないでござる。稲葉殿だけでも逃げて助けを呼んできてくだされ」
「さっきみたいに紙形を使って時間稼ぎできないの?」
「もう無理でござるよ。二度も同じ手が使えるとは思えないでござる」
 紙形とは紙を切り折りするか、もしくは紙面に絵を描き、それに気を送り込んで実体化させる術のことである。さきほどはその術を使い、三人の人形を作り実体化させ、時間稼ぎをしたが、二度も相手が騙されるとは思えない。それに今の風彦の疲労困憊状態では、術を使うのは困難に思えた。
 茜は辺りを見回した。
「走れないならどこかに隠れましょう。それしかないわ」
「駄目でござるよ、稲葉殿だけでも逃げてくだされ」
「嫌よ、あたしだけ逃げるなんて、目の前にいる人を置いて自分だけ逃げるなんて……。あさみのことだって……」
「新垣殿のことは仕方ないでござる。あのときは拙者らだけで逃げることで精一杯だったんでござるから」
「だからって!」
「……静かに……近くまで来てるでござる」
「どこ?」
「避けてくだされ!」
 巨大な手が襲い来る!
 人の背丈ほどもある巨大な手が、今まさに茜の身体を鷲掴みにしようとしていた。
「きゃーっ!?」
「稲葉殿!」
 すぐさま風彦は懐から紙形を出して気を込めた。
 気を込められた紙形は虎に変じて巨大な手に噛み付かんとする。しかし、虎はまるで子猫のようにいとも簡単に振り払われてしまったではないか。それでも奴の気を逸らし、三人が逃げるだけの時間はできた。
 ――だが。
「稲葉殿、焦っていたとはいえ、なぜに女子厠に逃げ込んでしまったんでござるか?」
 三人はなぜか女子厠の中にランナウェイしてしまったのだ。
「だって仕方ないじゃない。逃げ込む場所がここしかなかったんだから!」
「でも、ここから先は逃げ場が……!?」
 奴の影が女子厠の前まで迫っていた。
 嵐がやって来たように建物が振るえ、厠の戸に雷が落ちたように叩かれた。
 ガタガタガタガタ!
 戸が悲鳴をあげ、今にも破壊されてしまいそうだ。
「……おかしいでござるな」
 風彦が呟いた。
「なにが?」
「あのような扉、すぐに壊されてしまいそうなのに……?」
 建物は振るえ、戸は今にも壊されてしまいそうだ。それなのに、外にいる奴は戸を開けることも壊すこともできないでいる。
「なぜだかわからないけど、とりあえず時間稼ぎができそうね」
 さきほまで恐怖に歪んでいた茜の顔に、微かな光が見えてきた。けれど、風彦の顔は蒼白い。蒼白いのは生まれ持っての個性だが、まだまだ油断のできない表情をしている。
「ですが、拙者たちにはここから逃げる術がござらん。ここは三階でござるから、そこにある窓から外に出るわけにもいかないでござるし、携帯電話はもちろん使えないでござるよ」
 霊的磁場の強い学園内では、電波が乱れてケータイの使用がまったくできないのだ。
 風彦はとりあえず背中に背負っていた少年を壁にもたれ掛かるように降ろし、厠の奥にあるガラス戸を開けに行った。
「少し外の空気でも……あれれ、開かない?」
 ガラス戸を開けようとするが、力を入れてもびくともしない。
「もしかしたら……稲葉殿?」
「なに?」
「閉じ込められたのかもしれないでござる」
「どういうこと?」
「もしかしたら、学園内の扉や窓、外に通じる道は全て封じられ、外に出ることもできないみたいでござる。きっと外にいる奴が、学園内にいる者を逃がさまいと結界でも張ったんでざるな」
「てゆことは、外からの助けも中に入れないってことじゃないの?」
「そういうことかもしれないでござるね」
「そんな……」
 ここが厠の床だということも忘れ、茜の身体は力なく膝から崩れ落ちた。
 茜の目がしらから熱いものが込み上げてきた。その姿を見ていた風彦は声をかけようとしたが、茜はそれを振り払うかのように立ち上がり、涙を止めた。
「もう、こうなったらなんでもいいわ。蓮田くんなんとかしなさいよ!」
「なんとかと言われましても、拙者の魔導力じゃ奴に太刀打ちできないでござるよぉ」
「そんなことないわよ。だって、あたしのこと何度も助けてくれたじゃない!」
「だども……」
「召喚でもなんでもして、外の奴をコテンパンにやっつけてもらっちゃってよ」
「召喚と申されても道具を持ち合わせてないでござるし、ここでできる召喚と言ったら……」
「ここでできる召喚があるなら、なんでもいいからやって!」
 髪の毛をかき乱した風彦は考え込むように唸り、意を決したように三番目の個室の扉の前に立った。
「わかりました、召喚するでござる」
 息を大きく呑んだ風彦は大きく拳を振り上げた。
 いったい風彦はなにをしようとしているのか?
 トントントンとリズミカルに風彦はドアを三回ノックした。
 ――返事はない。
 そして、召喚の呪文を唱える。
「はなこさん、遊びましょう♪」
 ……茜フリーズ。そして、再起動。
「は!? なにやってんの蓮田くん?」
 意味フだった。風彦の奇行は茜の常識を逸脱していた。範囲適用外!
 しかし、風彦は構うことなく真剣な顔をして、個室をオープン・ザ・ドア!
 開かれた個室から流れ出す芳しき花の香り。
「わたくしとお遊びしたいのかしら?」
 個室の中に現れた妖艶な美女が朱唇(しゆしん)を吊り上げた。
 前髪は眉の辺りで綺麗に切り揃えられ、長く美しい黒髪からは芳しい花の香りプラス微妙にお香の匂い――おばあちゃんの匂いがする。
 黒い髪とコントラストになっている蒼白い顔には、二本の柳眉(りゆうび)が走り、筋の通った鼻梁[びりょう]の下には、形の良い朱唇が不適な笑みを浮かべていた。
 個室の中にいたのは、なんと着物姿の絶世の美女だったのだ。

《2》

 今から数分前に遡(さかのぼ)る――。
 何者かが、イモリかヤモリか、トカゲのように廊下を這う。
 学園指定の法衣に身を包み、前髪と眼鏡で目元を覆い隠し、黒い影を背負う幸薄そうな少年――蓮田風彦。
 彼は今、木造校舎の廊下を這うように匍匐前進(ほふくぜんしん)していた。その姿はまさに水辺を這う両生類のようだ――間違えた。ホラー映画のワンシーンのようだ。
 窓から差し込む夕焼けが血のように鮮やかに映ってしまうのは、風彦のかもし出す負のエネルギーの力によるものに違いない。
 風彦は歯を砕けんばかりに食いしばり、片手は腹部を押さえている。
 そんな格好を見ていると、こんなツッコミを入れたくなる――刺されたのか!?
「ちぬ……お腹……痛くて……死にそう」
 ――腹痛だった。
 やっとこさ厠(かわや)の前までたどり着いた風彦。
 だが、そこで彼を待ち受けていたものは!?
 ――臨時休業中!
 意味わからん。
 男子厠の戸口に立てかけられた『臨時休業中』の立て看板。
 学園北校舎三階の厠では、この手の怪奇現象が多発しているのだが、仲良しフレンドのいない風彦は学園の噂話にもうとい。むしろ、逆に噂話にされるほう。
 意味不明の四文字が脳内をネバーエンディングに駆け巡る中、風彦は頭いっぱい、お腹いっぱいいっぱいの状態で視線を飛び交わせた。
 男子厠は臨時休業中。横にあるのは女子厠。
 風彦の額に油汗がべっとりねっとり滲む。
 ――限界だった。
「天地神明(てんちしんめい)、仏様、キリスト様、アッラー様、とにかく拙者(せつしや)の罪をお許しください、御免(ごめん)!」
 秘儀トカゲ歩きで風彦は女子厠の中に飛び込んだ。
 静まり返っている女子厠。
 放課後だったためか、運良く生徒の影は見当たらない。個室に誰かいる気配もなく、聞こえてくるのは滴の落ちる音だけ。
 清掃も行き届き、清潔感溢れていた女子厠だが、顔色真っ青で負のオーラを漂わせている風彦の登場により雰囲気が一転。じめじめした空気が辺りに漂いはじめた。風彦は場の雰囲気をどんよりとさせる天賦(てんぷ)の才能を持っているのかもしれない。そんな才能イラネ。
 一目散に個室に駆け込んだ風彦に訪れる至福の時。このときばかりは周りの雰囲気も薔薇色に変わる。気持ちよい便通――ザッツ快便!
 が、人生楽ありゃ苦もあるさ♪
 全身から油汗を滲ませながら風彦は焦った。在るべきものが、ここにはない!
「オーマイゴッド!(おお、神よ!)」
 静まり返っていた厠に響き渡る風彦の情けない叫び。
 そう、神……じゃなくって、紙がなかったのだ!
 風彦、絶体絶命のピンチ!
 顔面蒼白の死人っ面をした風彦の脳ミソがネバーエンディングに回転する。
 風彦の頭の中で行われる脳内会議。
 議長は前頭葉(ぜんとうよう)、出席者は人間の根源的な欲求を司る視床下部(ししようかぶ)、好きか嫌いかを判断する扁桃体(へんとうたい)、蓄積された記憶や情報を整理して管理する海馬(かいば)の四名。
【前頭葉】「厠に紙がない。このような場合、どのような行動を取ったらいいのだろうか?」
【海馬】「ふむ、過去の例を検索すると、このようなケースは一件も見当たらないようだ」
【扁桃体】「う○ち汚いからきら〜い、ばっちいきら〜い」
【視床下部】「俺、もうすっきりしたから関係ねぇーし」
【前頭葉】「うるさい黙ってろ扁桃体、視床下部! 海馬、なにか妙案はないのか?」
【海馬】「過去のケースから考えて、人を呼ぶのが得策だろう」
【前頭葉】「よし、それで行くぞ!」
 脳内会議がひとまず段落して風彦は人を呼ぶべく口を開けた。
「あ、あっ……!?」
 しまった!
 人を呼ぶのはいいが、放課後なので人がいそうにない。そんなことより、女子厠で人を呼んだら自分が女子厠で用を足したことがバレてしまう。これは末代まで語られてしまう恥だ。それは避けねばならない!
 再び召集される脳内会議と思いきや、女性の声がした。
「お使いなさって」
 風彦の頭上に飛来してくる白い物体エックス。
 あれはなんだ!?
 鳥か、飛行機か、トイレットペーパーだ!
 妙に第六感の働く風彦は、頭で考えるよりも早く、トイレットペーパーを見事キャッチした。
「誰だか存じぬが、あ、ありがとうでござる」
 まさに神の助けとはこのことだなと思いながら、ようやくスッキリ満足した風彦は水を流して個室を出た。
 辺りを見回すが人影はない。だが、微かに気配がする。それに、さきほどまでしなかった花の香り。
 ふと、疑問に思う。
 なぜ、紙を投げ込んでくれた人は、トイレットペーパーがないことを知っていたのだろうか?
「ま、まさか……覗かれてた!?」
 だとしたら恥ずかしい……。
 すっきりしたハズなのに、まだ蒼白い顔をしていた風彦の頬が少し赤らんだ。
「さてと」
 気を取り直した風彦は誰かに見られていたイコール末代の恥うんたらかんたらということなど、すっかり忘れて厠を後にした。
 人気のなくなった女子厠から、微かに女性の笑い声が聞こえた。
「……うふふ」
 そう、この声の持ち主こそが――。

《3》

 夕焼けの差し込む教室。
 世界は朱色に染まり、その中で二人の女子は妖しげな儀式に勤しんでいた。
 二人とも学園指定の巫女装束に身を包んでいる。
 ひとりは千早と呼ばれる貫頭衣を着て、下には切袴と呼ばれる少し短めの袴を紅色に染めたものを穿き、上下ともにきっちりとした本来の着こなしをしている。
 もうひとりはイマドキの女学生らしく、切袴の裾を膝上よりも高く上げ、過去に流行ったと云われるルースソックスをアレンジしたルーズ白足袋を履いている。
「召喚術やりたいって言い出したのはあたしだけど、マジやることないんじゃない?」
 イマドキの女学生――茜は、魔導書を片手に儀式の準備をする少女に申し立てをしたが、声をかけられた少女は淡々と儀式の準備をしている。
「ワタシもしたいと思っていたところだから、ちょうどよかったの……」
「だからって……」
 茜は難しい顔をして口を噤んだ。
 午後の召喚実習で失態を犯してしまった茜が、友人のあさみに『笑った奴らを見返してやりたい』と言ったのが事の発端だった。茜の言葉を聞いたあさみは不気味な笑みを浮かべて、召喚術の練習をする運びになったのだ。
 教室にあった机はすべて後ろに下げられ、空いた半分のスペースに儀式の用意がされている。
 赤いクレヨンによって茶色い木の床に魔方陣が描かれていく。
 どことなく鬼気を発している友人あさみの背中に、茜は恐る恐る声をかけた。
「あさみ、やっぱりやめようよ。それにここ召喚実習室じゃないし、なにかあったら危ないよ」
 声をかけられたあさみは作業を一時中断し、物静かな顔をして振り返った。
「もう少しで終わるから、心配しないで、ね?」
 物静かなあさみの笑み。その笑みを見た茜はなぜかゾッと背筋が冷たくなった。
 西洋式の魔方陣を描き終えたあさみは静かに立ち上がり、辺りの気配を探る。
「ミサキ風が吹いた」
 誰もいない場所でなにかの気配を感じ、寒気などを覚えることを『ミサキ風にあった』などと表現するのだが、ミサキとは本来『前触れ』や『予兆』を意味する言葉で、ミサキという小さな霊が現れると、その後に大きな祟りや災いを連れて来ると恐れられているのである。
「ミサキ風?」
「いいの気にしないで、茜はワタシの召喚の仕方を見て学んでいればいいから、ね?」
「……そう」
 召喚術をやりたいと言ったのは茜だが、準備を進めるのはあさみで、茜は立っているだけでなにひとつやっていない。手伝おうにも、黙々と準備を進めるあさみからは手伝わせない雰囲気が出ていた。
 なにも手伝うことのない茜がすることといったら、場が静まるのが嫌であさみに時折、話しかけることくらいだった。
「ねえ、これって西洋魔術だよね。なにを召喚しようとしているの?」
「鬼」
 あさみは短く発し、鬼という言葉を聞いた茜は少し戸惑いを覚えた。
 床に描かれた魔法陣は、どう見ても西洋式の召喚法に用いられるものであった。それにたいして、鬼を召喚するとは、いったいどういうことなのだろうか?
「ねえ、あさみ。西洋式の召喚法じゃ鬼は召喚できないんじゃないの?」
「手順も方法もそれほど重要ではないの。ワタシがもっと高位の使い手だったら道具を使わずに召喚し、使役することだってできる。ワタシは東洋より西洋魔術のほうが得意なの。だから、この方法でやっているだけ」
「よくわからないよ」
「召喚は成功するわ。過程より結果が重要なの」
「……うん」
 この学園は霊的磁場の高い場所に立てられたために、放課後の教室はなにかが起こりそうでただでさえ怖いのに……。
「あさみちょっといつもとなにか違くない?」
「なにがかしら、ワタシはいつもと同じよ?」
 違う、なにかが違う。いつものあさみとはなにかが違う。そう思いながらも茜はあさみが準備を進めるのを見ていることしかできなかった。
 だんだんと茜は口も減り、寒気が全身を襲いはじめた。
 これははたして寒気なのか、恐怖なのか?
「どうしたの茜?」
「ううん、なんでもない」
「いつもの茜らしくないわね」
 それはこっちのセリフだと茜は言いたかった。
 どことなく暗い雰囲気を持っているあさみにたいして、茜は気後れすることなくいつも明るい態度で接している。しかし、今はどうだ。完全に相手の陰の気に押されているではないか。
 夕焼けが地に沈む。
 夜闇が刻淡々と訪れようとしている。
 蝋燭に火を灯し、香を焚いたあさみは、静かに目を閉じて呪文を唱えはじめた。
 力を持った言葉が室内に反響し、茜の耳の中でも木霊する。
 背中に冷たい汗をかき、茜はここから逃げ出したい気分だった。しかし、恐怖が彼女の縛りつけ、茜は震えることはできても、逃げ出すことはできなかった。
 しばらくして、あさみが呪文を唱えるのを止めた。
「すぐそこまで来ているわ。長かった、本当に長かったわね。いくつもある地獄の層を登り、すぐそこまで来た。空間の壁が弱くなっている今なら、あちら側から鬼門を開くことができるわ」
「あさみ……なにを言ってるの?」
「開くわ」
 静かに扉は開かれた。
 じめじめした風と一緒に、重々しい影が室内に入ってくる。
 茜は唾を呑み込み、影から目を離せなくなっていた。この世ならぬモノの気配を感じてしまったのだ。恐怖のあまり声も出ない。
 影が震えた声を発した。
「あ、あのぉ〜、お取り込みのところ申し訳でござる」
 声が震えているのは恐縮しているからだった。
 茜はこんな情けない奴、一人しかいないと思い、その名を呼んだ。
「蓮田くん?」
「は、はい!?」
 身体をビクつかせ、蓮田風彦は宙にジャンプした。
 開かれた扉――教室の戸を開けて入ってきたのは風彦だったのだ。
「あ、えっと、ちょっと忘れ物を取りに来ただけでござるので、すぐに、で、出るでござる」
 ものすご〜く申し訳なさそうに身体を小さくして、風彦はゴキブリのようにサササッと動き、自分の席に忘れていった下痢止めの薬を取ると、サササッと教室から出て行こうとした。
「では失礼したでござるぅ……あれ? あれれ、開かない?」
 風彦は取っ手に手をかけて戸を開けようとしたが、うんともすんともビクともしない。
「ここの扉って鍵があったでござるか?」
 顔を向けられた茜はばからしいと言わんばかりの顔をして、
「そんなのあるわけないじゃない」
「そうでござるよね」
「開かないなんてことがあるわけないじゃない」
「でも、開かないんでござるよねぇ」
 苦笑する風彦を急激な悪寒が襲い、腹の虫がぐぅと奇声を発した。
 腹痛に襲われた風彦は床に膝を付き、腹を押さえながらも必死に声を絞り出した。
「この部屋には陰気が漂っているでござる。早くこの場所を離れたほうが……」
 実は、風彦は邪気を感じると腹痛を起こす特異体質だったのだ。
 呪術に使う短剣を持ったあさみが膝を付く風彦に近づく。その顔は鬼気に満ち溢れていた。
「もう遅いわ。そして、不運にもこの場に居合わせてしまったあなたにも……」
 風彦の頭上に短剣が振りかざされた。
「あさみ、なにするの!?」
 友人が人を刺そうとしている!?
 止めなくてはいけないと思った。けれど、身体が動かない。
「蓮田くん!」
 茜の叫び声とともに、風彦が動いた。
「御免、白衣霊呪縛!」
 風彦が着物の懐から経典らしき物を取り出した刹那、折りたたまれていた経典が蛇腹状に開き、鎖のようにあさみの身体に巻き付き縛り上げた。
「くっ、なにをする小僧!」
 あさみの口からあさみの声ではない別の女の声がした。それを聞いた風彦は確信したように頷いた。
「ふむ、新垣殿は憑かれてるみたいでござるな――悪霊に」
「くくくっ、そのとおりだ。この娘の身体は今や私のもの」
「わかってるでござるよ。……だから除霊させてもらうよ」
 誰知れず気を孕んだ風が吹いた。
「ただが魔導学園の生徒ごときが私を祓うだと?」
「たかが低級霊ごときを祓うなど造作もない」
 流れる映像でも観るかのように、茜は一部始終を整理しきれていない頭で眺めていた。今わかることは、あさみがいつものあさみじゃないことと、風彦がいつもの風彦じゃないことだ。
 そういえば、風彦はいつもかけている牛乳瓶の底みたいなレンズの眼鏡をかけていない。前髪で目元を隠してしまっているので、いつもとさほど変わらないが、もっと根本的な部分でいつもの風彦と違うような気がする。いつもはもっと陰湿で人としゃべるのが苦手で度胸もない。
 でも、今の風彦は?
「貴様の身体を縛っているのは白衣神咒。一字一句に霊を封じる力がある除霊専用の経文のようなものだ」
「小僧、早く私を解放しろ!」
 経典に縛られた身体を動かそうとするが、思うように身動きが取れない。憎悪に顔をゆがませ、あさみが歯を鳴らしながら風彦を睨んだ。
 いつも猫背の風彦が今は背筋を伸ばして立っている。意外に長身で、普段はやせ細っているようにしか見えない身体が、スリムに綺麗に見える。
 今の風彦はいつもと違ってカッコイイ――そんなことを思いながら茜は少し顔を赤らめ、ばからしいと思って頭を振って気を取り直した。
 前髪で目元を隠し、唯一風彦の表情を読み取れる口元が緩んだ。
「仮初の客を相手している暇はない。南無大慈大悲救苦救難……」
「くっ、くわぁっ!?」
 風彦が呪文を唱えはじめてすぐ、あさみの身体からなにかがすっと抜け、巻きついていた経典が消え、力を失ったあさみは崩れるように床に倒れた。
 そして、風彦もまた、力を使い果たしてしまったのか、床に膝を付いて倒れてしまった。
「大丈夫、二人とも!?」
 すぐに駆け寄って来た茜に、最期の言葉かのように風彦が喉の奥から声を発する。
「……お、お腹痛くて死にそう」
 持病の腹痛が再発したのだ。
「やっぱカッコ悪……蓮田くん」
 一〇〇年の恋も醒めてしまうような感じだったが、それでも友人のあさみを助けてもらったこともあるので、床に膝を付いて風彦の身を案じようと手を伸ばした瞬間だった。
「ぐはーっ!」
 真っ赤な血飛沫が風彦からほとばしった。
「どうしたの蓮田くん!?」
 まさか、風彦の身体に悪霊が!
「パ、パンツ見えているでござるよ」
「は?」
 風彦から出た血は、極度の興奮による鼻血だったのだ。
 沸々と湧き上がる怒りが、今、拳に宿る!
「ふざけんな!」
 茜パ〜ンチ、炸裂!
「ぐはーっ!」
 再び風彦の鼻からほとばしる鼻血。
 放物線を描いてぶっ飛ばされた風彦の身体は、床にドスンと落ちてノックアウト。口から泡を吐いて、身体を痙攣させている。
 一発KOウィナー茜!
 カンカンカンカンと終了のゴングが風彦の耳には聞こえた。もちろん幻聴。
 怒りを拳に込めて放出させた茜は、すぐに冷静さを取り戻し、そのことによって混乱してしまった。
「だ、大丈夫、蓮田くん!?」
 気絶した風彦に駆け寄り、茜は彼の頭を抱きかかえた。
「しっかりして、殴っちゃったのは、つい出来心で悪気あったわけじゃないの……あれ?」
 ――眼鏡をかけている。
 さっきまで眼鏡をかけていなかったはずの風彦が、いつの間にか眼鏡をかけている。
 眼鏡の奥に隠された素顔を見たい。そんな衝動になぜか茜は駆られ、風彦の眼鏡に手を伸ばした、そのときだった。
「……お……おっ……」
 風彦の口元が微かに動いた。意識を取り戻したのか?
 なにかをしゃべろうとしている風彦の口元に茜は耳を近づけた。
「お、お腹……痛い……死にそう」
「は?」
「危ない……早く逃げるでござる」
「えっ?」
 茜には風彦の腹痛の意味がわからなかった。邪気を感じると腹痛を起こす特異体質。そのことを茜は知らない。
 ミサキ風が吹いた。
 空間が《向こう側》から破られる。
 音にならない悲鳴がどこからか聞こえ、茜はわけもわからず両耳を強く塞いだ。
 鬼門が無理やりこじ開けられたのだ。
 紅いクレヨンで描かれた魔法陣の真上になにか巨大なモノが現れた。
 それは巨大な手だった。
 赤黒く筋肉質な手に肉を引き裂くための鋭い爪が生えている――鬼の手だ。
 鬼気が吹き荒れ、人間など一掴みにしてしまう巨大な鬼の手が、恐怖のあまり身動きできない茜の身体に伸ばされた。
「いやーっ!」
 絶鳴が木霊した。

《4》

「ったくよー、説教受けてたらこんな時間になっちまったじゃねーか」
 雅琥(がく)はシルバーアッシュ色の短髪をかき上げながら、静返る放課後の廊下をひとりで歩いていた。
「ちっ……今度はぜってぇ自宅謹慎になると思ったのに」
 自分以外いない廊下で雅琥の独り言は続く。
「謹慎処分にもなんねーし、退学にもなんねーし、オレのことどうしたんだよ……ったく」
 冷たい風が廊下を通り抜け、恐怖が雅琥の身体を通り抜けていった。
 口を閉ざした雅琥は、顔を引きつらせながら辺りを見回した。
 窓はすべて閉められ、放課後は戸締りもしっかりとされているはずだ。普段でもあんな強い風が廊下に吹くことはない。それなのに風は吹いた。
 真っ青な顔をしながら雅琥は再び口を開いた。
「気のせいだよな、気のせい」
 恐怖をかき消すように雅琥の声は大きくなっていた。
 そして、いないはずの存在にケンカを吹っかける。
「な、なんかいるんだったら出て来いよ。オレがぶっ飛ばしてやる!」
 威勢を張ったものの、雅琥の顔色はさきほどよりも蒼白くなっていた。
 廊下の奥に黒い影が現れた。
「で、出た!?」
 腰を抜かしそうになった雅琥だが、廊下の壁に背中を付けて堪え、黒い影の正体を見極めた。
 こちらに向かって走って来る人影は男女二人組みで、この学園の制服を着ている。
「なんだよ、脅かすなよ、人間じゃねえか」
 威勢を取り戻した雅琥はこちらに向かって走ってくる二人組みを静止しようとした。
「おい、おまえら!」
 だが、女子生徒のほうは無我夢中で、目の前に立ちふさがった雅琥を避けることもせず、そのまま正面衝突してしまった。
 女子生徒の身体を受け止めながら、床に腰を打ちつけた雅琥は怒った顔をして女子生徒の胸倉につかみかかった。
「おい、てめぇ!」
「うるさいわね、なんで廊下の前に突っ立てるのよ!」
「はぁ? なんだてめぇ、ぶつかってきといて、その態度はなんだ!」
「あんたにかまってるヒマなんてないのよ!」
「てめぇ、オレにケンカ売る気かよ!」
 二人の言い争いを聞きながら、男子生徒はどうしていいかわからず、髪の毛をかき乱して言葉を発した。
「あ、あの、稲葉殿、その人にケンカ売らないほうがいいでござるよ。だって、その方……」
 シルバーアッシュの髪を見ればすぐにわかる。六道雅琥――喧嘩っ早く、学園内でも多くの問題を起こしてきた問題児だ。
 雅琥には誰も近づこうとしない、誰も話しかけようとしない。学園の生徒たちは雅琥を恐れている。雅琥だけでなく、その背後にいる存在のせいで教師すら手を出せないのだ。
 胸倉をつかんだ女子生徒の名前を聞いて、雅琥が怪訝な顔を浮かべた。
「この辺りで稲葉って言ったら、稲葉藩主の娘――稲葉茜か!」
「そうよ、だからどうしたっていうのよ?」
「生まれたときから裕福な暮らしさせてもらってんだろ。なんの苦労もせずにのうのうと生きてきて、人にたいする礼儀も弁えねえてめぇみたいな奴が、オレは大っ嫌ぇなんだよ。人様にぶつかったら、ごめんなさいの一言も言えねえのかよ!」
「なによ、あんただって不良のクセして、親が学園長だからみんなが手出せないと思って粋がってるのは、どこのどなたかしら?」
「あんなの奴、親でもなんでもねえよ、血のつながって野郎を親なんて呼べるもんか!」
「え?」
 熱の上がっていた茜だったが、雅琥の発言を聞いてすぐに熱が引いてしまった。
 茜が雅琥の言葉を聞き返そうとしたとき、二人の間に風彦が割って入った。
「あ、あの、こんなところでケンカをしているヒマなんてないと思うでござる。早く逃げないと奴が追って来るでござるよ」
「あーっ! そうよ、早く逃げないと、殺される」
 呆然とする雅琥の手を自分の胸倉から振り解いて、茜は後ろを振り返った。
「まだ、来てないようね。よかったぁ……あんたも早く逃げたほうがいいわよ」
「逃げる?」
 雅琥は依然、状況を把握できないまま呆然としていた。
 そう言えばこの二人、なにかから逃げるように走っていた。それはなにか?
「おい、てめぇら、なにがあったんだよ? 変質者でも出たのかよ?」
「変質者なんて生易しい者じゃないわよ、鬼よ、鬼が出たのよ!」
「はぁ? この学園内は強力な結界が張ってあんだぞ、そんなもん出るわけ……!?」
 姿は見えない、けれど確かに気配がする。禍々しく、息苦しくなるくらい、激しい憎悪に満ちた気配。なにかの気配を感じ、雅琥は話の途中で口から声が出せなくなってしまったのだ。
 前か後ろか、気配が強すぎてどこにいるかわからない。
 風彦は額から汗をかき、お腹を擦っている。一見頼りなさそうな風彦だが茜は知っている。自分が襲われそうになったとき、白衣神咒を使い、鬼の動きを封じ込めここまで逃げてくることができたのだ。
「蓮田くん、どうしよう、どうにかしてよ!」
「どうにかしてと申されても、白衣神咒はあそこから逃げるときに使ってしまって、教室に置いてきてしまったでござるし、今は逃げるしか……」
「逃げてるだけじゃだめよ。だって、あさみのこと教室に置いてきちゃったし、鬼が出たことを誰かに知らせないと!」
 茜が大声を張り上げてすぐ、狂気を孕む静けさが辺りを包み込み、三人は身動きを止めてしまった。
 奴がすぐそこまで来ている。
 誰かが唾を呑み込んだ音が聞こえた。
 木造の廊下が長く伸びたその先に、禍々しい気を纏った黒い闇が現れた。
 凍りつくような寒気が全身を襲い、闇に中に光る眼を見てしまった雅琥は、意識が遠くなり、そのまま闇の中に落ちてしまったのだった。

《5》

 ――そして、時間は現在に戻る。
 暗い闇に中。
 鼻をくすぐる芳しい花の香り。
 雅琥はゆっくりと目を覚ました。
「どこだ、ここ?」
 辺りを見回した。見覚えがあるような、ないような場所。女子厠だ。
 ――なぜ、自分がこんなところに?
 雅琥の目に風彦と茜の姿が映った。二人とも厠の個室の中を見ている。二人がなにをやっているのかさっぱりわからない。
 雅琥はゆっくりと立ち上がり、二人の後ろから個室の中を覗き込んだ。
 黒地に紅い蝶の舞う着物が揺れる。
 着物の裾はミニスカートのように短く、そこから覗く長い脚はとても美しく悩ましく、スレンダーな立ちポーズは、まるでファッションモデルのようだ。彼女と見たとたん、世界中のカメラマンたちは瞬時にシャッターを下ろすだろう。それほどまでに絶世の美女がそこにはいた。
 しかも、靴下は流行のルーズ白足袋だ。
 茜は厠の個室に現れた美女を目の当たりにして、頭が大混乱してしまっていた。
「なんでこんなところに人がいるの。あなた誰ですか?」
「わたくしが誰かですって? 人様を呼び出しておいてそれはないんじゃないかしら」
 濡れた唇が玲瓏たる声を響かせた。そして、その声はどこか殺気を孕んでいる。
「どうなってんだよ?」
 雅琥の呟きに気づき、風彦と茜が後ろを振り向いた。
「六道殿、目を覚ましたんござるね」
「あ、起きたんだ」
 茜の態度は素っ気無いものだった。それにたいして雅琥が食って掛かる。
「なんだよ、起きちゃいけなかったのかよ」
「別にぃ。ただ、怪物見てビビって失神しちゃうなんて、情けないなと思って」
「オレがビビって失神だと!? んなわけねーだろ!」
 ガタガタガタと厠の扉が揺れた。その音を聞いた雅琥は恐怖に顔を引きつらせて、茜の背中の後ろに身を潜めた。
 それを見た茜は呆れたように、
「情けないわね」
「ちげーよ、別にオレは……」
 それ以上、雅琥は反論できず、口を閉ざして茜の後ろに隠れたままだった。
 茜の中では恐怖心や不安感といったものが、だいぶ和らいでいた。それというのも、自分よりも弱い人間がこの場にいるからだろう。雅琥がいることによって、茜の気持ちはだいぶ楽になっていた。
 ガタガタガタと再び厠の扉が揺れた。
 雅琥は身を強張らせ、さすがに茜も恐怖に苛まれる。あんな戸などいつ壊せれてもおかしくない。この中に鬼が入って来たら、自分たちは逃げ場がないのだ。
 二人の恐怖を察したように、厠の個室に召喚された美女が個室の中から出てきた。その腰には一振りの刀が差してある。
「平気よ、この厠の中にいる限り、奴はあなたたちに手出しができないわ。それよりも、わたくしと『お遊び』をしたいのは誰かしら?」
「あ、あの、拙者があなた様を召喚したでござる」
 申し訳なさそうに風彦が手を上げた。
「そう、あなただったの。ところでお腹の具合はよくなったかしら?」
「へっ?」
 風彦は眼鏡の奥で目を丸くした。そして、すぐに気が付いたのだった。
「あ、えっと、拙者に紙をくれたのはあなた様だったんでござるか?」
「ええ、とても不憫に思ったから、トイレットペーパーを投げてあげたのよ」
「そうだったんでござるか。その節はお世話になったでござる」
「いいえ、困ったときはお互い様ですもの」
 日常会話レベルの話が進む中に、茜が割って入った。
「そんなことよりも、外にい――」
「そうね、そんなことよりも、わたくしたち、まだ自己紹介もしてなかったわね」
 茜の会話は途中で遮られ、完全にこの美女のペースに呑まれていた。
「わたくしの名は華やかの華と書いて華子。厠の華子さんと呼んで頂戴。では次、そこの眼鏡君?」
「せ、背者の名は蓮田風彦でござる」
「はい、次はそこの女子」
「え、えっと、あたしの名前は稲葉茜」
「はい、次」
「オレの名前は六道雅琥」
 完全に華子さんペースだった。
「さてと、自己紹介も終わったことだし、わたくしのことを召喚した風彦くん。いざ尋常に勝負なさい!」
 煌きを放ち華子さんの腰に差してあった鞘から刀が抜かれた。
「えっ? どういうことでござるか?」
 抜かれた刀の切っ先は風彦の鼻先に突きつけられていた。
「わたくしを召喚した者は、わたくしと一対一の果し合いをするのが掟なのよ」
「そ、そんなこと聞いてないでござる!」
 切っ先を向けられた風彦が一歩後ろに引いたと同時に、ガタガタガタと再び厠の扉が揺れ、外から野獣の鳴き声のような雄叫びが聞こえた。
 三人は自分たちの置かれている危機的状況を思いだし、茜が金切り声を上げた。
「勝負なんてどうでもいいのよ、そんなことより外にいる鬼をどうにかしないと!」
 取り乱しそうになっている茜をよそに、華子さんは平然と静かな笑みを浮かべていた。
「平気と申し上げているでしょう。奴はこの中には入って来れないわ。ここはわたくしの聖域なのよ」
「あ、あの、そういうことはもしかして、外にいる鬼よりも華子さんのほうが、力が上ということじゃござらぬか?」
 風彦の指摘を後押しして茜が華子さんに詰め寄った。
「だったら、外にいる鬼を倒して、お願い!」
「嫌よ」
 瞬時に華子さんはあっさり、きっぱり、断った。
「だってめんどくさいんですもの。それにこの愛刀胴太貫で、あんな怪物を斬るなんて耐え難いわ。刀が穢れる」
 なにかに気づいた茜の視線が泳いだ。
「六道くんは?」
「六道殿なら、奥の個室に入って行ったでござるよ。きっと用でも足しているのでござらぬか?」
 そう言いながら風彦は厠の奥を指差した。
 すぐさま茜は奥の個室に駆け寄る。すると、そこには厠の個室の隅でうずくまり、身体を震わせている雅琥の姿があった。
「なにやってんのあんた?」
「こっち来るなよ、ほっといてくれよ!」
「また、ビビってんの?」
 悪戯に茜が聞くと、雅琥は拳を振り上げて立ち上がったが、すぐにまたうずくまってしまった。
「うるせーよ、悪いかよ、オレは幽霊とかそういったもんが苦手なんだよ」
 震える雅琥に茜が止めの一撃と言わんばかりにあることを言った。
「そこにいる華子さんも人間じゃないわよ」
 ガタン! と雅琥は壁に後頭部を打ちつけながら後ろに退いた。
「く、来るなバケモノ!」
「あら、わたくしがバケモノですって?」
 恐怖に駆られる雅琥に華子さんがそっと詰め寄る。そして、雅琥の頬に軽く指先で触れ、自分の顔をすっと近づけて呟く。
「六道学園の白虎とまで言われた喧嘩の大将が、もののけが怖い? 教師たちの手を焼かせ、去年は教師の一人を病院送りにして落第したと噂に聞いたわ」
「うるせー黙れ、来るなバケモノ!」
「あなたがなぜもののけを怖がるかも知っているし、なぜ教師を病院送りしたかも知っているわ。稲を植えれば稲が育ち、恐れを植えれば恐れが育つ。もっと器用に生きなきゃだめよ。それから、この学園内でわたくしに知らないことはないわ……風彦くん、あなたのこともね」
 突然、話を振られた風彦は驚いて身体をビクつかせた。
「せ、拙者のことでござるか?」
「そうよ、それに茜ちゃんのこともね。厠は噂話の宝庫なのよ、うふふ」
 華子さんは雅琥の胸倉を片手で掴むと、その細腕からは考えられない力で、雅琥の身体を無理やり持ち上げて立たせた。
「男なら自分の足でお立ちなさい。もう時間がないわ」
 時間がない?
 ガタガタガタと厠の扉が揺れ、なにかがひび割れる音がした。
 風彦はまさかと思い、華子さんに尋ねた。
「もしかして、奴が中に入って来るのではござらぬか?」
「そうよ」
 微笑を湛えながら華子さんは正直に認めた。
「どういうことなの、ここにいれば安全なはずじゃなかったの!?」
 血走った目で茜は華子さんに掴みかかろうとしたが、華子さんは軽くそれを蝶のように舞って躱した。
「日が落ちたときこそ、奴の力は本領が発揮されるのよ。そうね、あと五分くらいかしらね」
「五分ですって!?」
 茜は驚いて自分の腕時計を見たが、不思議な顔をした後すぐに怒鳴り散らした。
「もうやだ、なんで壊れてるのよ!」
 時計の針が明らかにでたらめな時刻を指していたが、その腕時計を茜の背後から背後霊のように覗き込んだ風彦は、納得したようにうなずいた。
「違うでござるよ、壊れているのではなく、磁場や霊気などによって狂わせれてしまったのでござる。稲葉殿の時計はおそらく魔導式時計の最新型でござるね?」
「そうだけど」
「魔導式時計は精確な時を刻み、半永久的に電池交換もいらないことが売りでござるが、このような場所には向かないでござる。拙者なんかは、ねじ巻き式の時計を使ってるでござるよ」
「そうなんだ、知らなかった。蓮田くんってあたしと同じ一年生なのに、いろんなこと知ってるみたいだし、魔導力もスゴイのね」
「あはは、そうでござるかぁ、そんなこと言われると照れるでござるよぉ」
 普段から蒼白い風彦の頬に少し赤みが差した。だが、その頬もすぐに蒼白く戻る。
 ガタガタガタと今度は厠全体が揺れ、天井から細かい木片や埃が落ちてきた。
「呑気に話してるヒマじゃなかったわ!」
 茜は自分の置かれている状況を再度思い出し、周りにいる人たちの顔を眺めた。
 華子さんは外にいる鬼を倒してくれそうもなく、雅琥はかろうじて立ち上がりはしたがうつむいて身体を震わせている。残るはただひとり、茜は風彦に顔を向けた。
「蓮田くん、どうにかして、あたしまだ死にたくない!」
「どうにかと言われても……」
「あたしまだ死ねない。明日は友達と学園の近くにできた甘味処に行くって約束してるし、それに……」
 茜が言葉に詰まったところで、華子さんが言葉を続けた。
「お父上が病に臥して、藩は危機的状況ですものね。自分がどうにかしなきゃいけないと思っているのでしょう?」
「なんであなたがそんなこと?」
 驚きのあまり茜は目を大きく開けて息を呑んだ。
「この学園のことはなんでも知っていると申したでしょう。わたくしは江戸中期に武家の長女として生を受けたの。お父上は男子を望んでいたし、あの時代は女が侍になれなかった。けれど、わたくしは独学で剣を学んだわ……という身の上話はどうでもいいわね。とにかく、今はいい時代になったわ、女のあなたでも藩主になることができるもの――っ!」
 ガタガタガタと厠全体が大地震に見舞われたように揺れ、華子さんも思わず状態を崩して床に膝を付いてしまった。
「時間がもうないようね。外の奴が中に入って来たら、きっとおもしろいことになるわね。八つ裂きにされて腸を抉り出されて食われるのかしら、あなたたち?」
 残酷なことを微笑みながら平気で口にする華子さんの傍らで、同じく揺れでバランスを崩して床に倒れてしまっていた風彦が立ち上がった。
「まずはここから逃げるでござる。その前に六道殿を正気に戻さねば……」
 なにか妙案でも浮かんだのか、風彦は雅琥の傍らに立つと、呪文でも唱えるように囁きはじめた。
「華子殿をしっかり見てくだされ。あの人のどこがオバケなんでござるか。足もちゃんと生えてるし、なかなかの別嬪さんでござるよ」
 風彦に促され、雅琥は華子さんのことを恐る恐る見た。これはしめたと風彦が押しの一手を決める。
「どっからどう見ても人間でござるよ」
「華子さんが人間……人間……あそこにいるのは人間……」
 雅琥は風彦の口車……暗示に乗せられようとしていた。
「そうだよな、人間に決まってんじゃんか、オレがどうかしてたぜ!」
 雅琥復活!
 凛々しく立ち誇る雅琥の姿は、まるで白虎のようだ。
 ――だが。
「わたくし、もののけよ」
 さらっと放たれた華子さんの攻撃!
「ぐはーっ!」
 雅琥に精神的ダメージをくらわせた。
「だめだ、オレはやっぱりだめだ……だめなんだ……」
 再び弱気になる雅琥。
 せっかくいい調子だったのにと、茜の怒り爆発!
「もうなにってんのよ、華子さんのバカ!」
「バカとは失礼ね。厠に長いこと住んでいたから、性格が少し陰湿で意地悪になっただけよ」
 と、微笑で返す華子さん。
「みなさん、あの、そんなことをしている場合ではないと思うのでござるが……」
 と、この場で一番冷静だったりする風彦。

《6》

 今までになく厠全体が大きく揺れた。
「思ったより早かったわね」
 淡々と華子さんが呟く中、音にならない叫びが辺りに響き渡った。
 夜よりも濃い闇が厠の中に流れ込んできた。
 そして、腐臭が辺りに立ち込め、血生臭い臭いも立ち込めた。
 恐怖のあまり、雅琥はその場で腰を抜かしまった。けれど、恐怖に駆られてしまったのは雅琥だけではない。茜もまた床に崩れ落ちてしまった。
 闇の中から巨大な赤黒い手が伸びる。今まさにそれは茜を鷲掴みにしようとしているではないか!
「あたいの聖域で暴れようなんざ、いい度胸してるじゃないか!」
 姉御の声が響き渡った。
 口調の変わった華子さんはすでに柄に手を添え、床を蹴り上げ鬼の手に仕掛けようとしていた。
 抜きの一手が勝負。
 煌きを放つ華子さんの愛刀胴太貫!
 鮮やかに紅く彩られる世界。
 カチリと音を鳴らして、刀は鞘に収められた。そして、大きな音を立てて、巨大な手首が茜の真ん前に落ちたのだった。
 痛々しく呻くような声が厠を震わせ、巨大な木片が雅琥の頭上に落ちて来そうだった。しかし、うつむき震える雅琥は逃げようとしない。
「世話の焼ける子だねえ!」
 華子さんは疾風のごとくは速く駆け、雅琥の頭上に落ちようとしていた木片を微塵斬りにした。が、その不意を突かれてしまった。
 雲状の闇が華子さんの背後に音もなく近づき、そこから巨大な手が飛び出し華子さんの身体を大きく吹き飛ばしてしまった。
 その殴られた衝撃で華子さんの手から刀が離れ、床に落ちてしまったではないか!
「……っ」
 舌打ちをした華子さんに再び襲い掛かる鬼の手。
 かろうじて華子さんは攻撃を躱わすが、武器を失ったうえに、厠の中は狭い。
「ここじゃ蝶のように舞えやしない」
 鬼の本体は雲状の闇の中に隠れ、全身をまだ現してはいなかった。鬼もまた、巨大な全身を出してここで戦うのは不利と考えたのだろう。
 刀はうずくまる雅琥のすぐ横に落ちていた。ゆっくりと雅琥の視線は刀に向けられ、なにを思ったのか、雅琥はその刀を拾い上げた。
 ずっしりとした重さが手に伝わる。
 稲を植えれば、稲が育ち。恐れを植えれば、恐れが育つ。力の使い方を誤ってはいけない。
「さっさと茜を連れて逃げろ!」
 それは雅琥の声だった。今まで震えていた者の声とは思えない声。それを聞いた風彦は茜の腕をつかんだ。
「逃げるでござる」
「でも……」
 茜は雅琥のことを置いては逃げられないと思った。けれど、風彦は強引に茜の腕を引いた。
「狙いは稲葉殿でござる。逃げるでござるよ!」
 風彦と茜が厠の外に逃げ出したの見計らって、雅琥が刀を振り上げて鬼に向かっていった。
 巨大な鬼の手が襲い来る。
 雅琥は思った。
 ――そこにいるのは、ちょっと大きなプロレスラーだ。
 が、闇の中に光る眼を見た瞬間、雅琥に迷いが生じてしまった。
 鋭い爪が雅琥の胸に振り下ろされる。
 生暖かい鮮血が雅琥の顔を彩った。しかし、それは雅琥の血にあらず、華子さんの血であった。雅琥を庇うように抱きしめている華子さんの腕から血が噴出している。
「早くあんたも逃げな」
 華子さんは雅琥から刀を奪うと、雅琥の背中を押して厠の外に向かわせた。
 厠に残るは鬼と華子さん。
「さて、いざ尋常に勝負と行くよ!」
 と威勢よく華子さんは決めたが、鬼は華子さんに構うことなく厠の外に飛び出していった。
 しまった華子さん!
 誰かが言っていた――狙いは稲葉殿でござる。
 華子さんはすぐさま厠の外に飛び出して鬼の後を追った。
 鬼は厠を出てすぐのところにいた。そして、なぜか風彦たちもいるではないか?
「あんたらさっさと逃げたんじゃ?」
 華子さんの疑問に風彦が答えた。
「それがでござるね、厠を出てとたん、そこにばら撒かれていた赤ペンキに滑って転んでしまって、稲葉殿と六道殿は運悪く頭を打って気絶しちゃったでござるよ」
「それ赤ペンキじゃなくて、血よ。たぶんここに駆けつけた教員が食われでもしたのかしらね」
「ええっ!?」
 とわざとらしく驚いて見せる風彦にたいして、華子さんは鼻で笑った。
「蓮田風彦くん、二人が気絶したなら、そろそろ真剣になさったらどうかしら?」
「わかってるでござるよ。二人が気絶してくれたのは好都合でござった。本当はこの学園で一番安全な本尊に逃げようと思っていたのでござるが……ここでカタをつけましょう」
 風彦はいつの間にか眼鏡をはずしていた。
 雲状の闇の中から巨大な手が出た、足が出た、胴体が出た。
 醜悪な顔に付いた角と肉を食いちぎる牙。
 鬼の姿がそこにはあった。
 どこからか出る熱気を顔に浴びせられながら、風彦は髪をなびかせ鬼を見上げた。
「西洋ではこれを悪魔と呼び、東洋では鬼。見え方は人それぞれ、《向こう側》のモノを、こちら側に住んでいるモノが正確に〈視る〉のは難しい。同じ世界に住んでいるボクのことすら人間は正確に〈視る〉ことができてないというのに……」
 斬り落とされたはずの鬼の手首はすでに復元され、巨大な身体を揺らしながら鬼が風彦に襲い掛かってきた。
 衣が風に揺れるように、風彦は鬼の攻撃を躱わし、反撃に打って出た。
 鱗のようなものが付いた鞭状物体が風彦の手から放たれ、鬼の胴から肉を抉り取る。その攻撃は幾つの幾つも放たれ、鬼の肉を削ぎ落としていく。鬼はたまらず痛みに耐えかね、床に膝を付いて倒れた。
「……お……お腹痛くなってきちゃいました」
 そして、風彦もまた地面に崩れ落ちた。
 その様子を見ていた華子さんは微笑を湛えた。
「不条理だわ、この世界は不条理に満ちているわね。あるときは魔導学園学生、あるときは公儀隠密、あるときはハスターの末裔。そのあなたがたかが腹痛に倒れるなんて、不条理だわ」
「だめです……申し訳ない……お腹痛くて戦えそうもありません」
 バタンと音を立てて風彦はうつ伏せに床に沈んだ。そこ口元からはうめき声が聞こえてくる。本当にお腹が痛くて死にそうだ。
 情けなすぎる風彦。
 そんな風彦の代わりに華子さんが刀に手をかけた。
「仕方ないわね、わたくしが殺るわ。これでもこの学園の守護神ですもの。ところで、なぜ鬼さんは、そこにいる茜ちゃんを狙っているのかしら?」
 華子さんの視線が床で気を失って倒れている茜に向けられた。すると、今まで一言しゃべらなかった鬼が、野太い声で人語を話しはじめたではないか!?
「我、ソノ娘、先祖、使役サレタ」
 片言の日本語に生き絶え絶えで真っ青な顔をしている風彦が補足をした。
「つまり平安時代、稲葉家のご先祖様がそこにいる鬼を使役してこき使っていたので、その仕返しに来たそうです。ちなみに、稲葉殿のお父上が謎の病によって床に臥してしまったのも、その鬼の呪のせいですよ」
「なるほどね。この鬼を退治すれば茜ちゃんのお父上のご病気も治るってことね」
 鬼の手が振り上げられ、華子さんの頭上に落とされる。だが、華子さんは蝶のように華麗に舞い、芳しい花の香りを振りまきながら、鮮やかに美しく鬼の攻撃を躱した。
 紅い蝶の舞う黒地の着物が揺れる。
 そして、舞い踊る華子さんが煌きを放つ。
「華月流――華蝶風月!」
 一刀の煌めきが三日月を描くように繰り出され、華やかに美しく血の華を咲かせた。
 真っ二つになり、もがき苦しむ鬼の前に腹を押さえる風彦が立つ。
「再び地獄に堕ちるがい……痛い、お腹痛くて死にそう……」
 風彦の声とともに風が吹き荒れ、空間を切り裂いた。
 裂けた空間はこの世界と《向こう側》を繋ぎ、空間からは悲鳴が、泣き声が、呻き声が聞こえ、どれもが苦痛に悶えていた。
 そして、鬼は《向こう側》へ堕ちて逝った。リンボウに堕とされた鬼は二度とこちら側にやって来ることも、勧誘してくることもないだろう。
 一件落着というように風彦と華子は互いに向かい合った。しかし、まだ終わりではなかったのだ。
 華子さんが風彦を見つめ、無邪気に微笑んだ。
「さて、邪魔者のもいなくなったことだし、わたくしとお遊びしてもらいましょうかしらね」
「それが召喚の代償ですか?」
「そうよ、わたくしがあれを退治してあげたのだのだから、代償を払って頂戴」
「いいでしょう、望むところです」
 対峙する二人は互いに牽制し合い、構えを取った。
 そして、華子さんが聞く。
「ところで風彦くん」
「なんですか?」
「茜ちゃんにほの字でしょ」
「な、なにを突然!?」
「ま、いいわ。いざ、尋常に勝負!」
 取り乱す風彦をよそに華子さんの鞘から煌きが放たれたのだった。

 前髪と眼鏡で目元を覆い隠し、黒い影を背負う幸薄そうな少年――蓮田風彦。
 彼は自宅の廊下を這うよう歩いていた。
 風彦は歯を食いしばり、片手は腹部を押さえている。もう言うまでもない。
 「ちぬ……お腹……痛くて……死にそう」
 ――腹痛だった。
 昔から身体が弱く、特にお腹はしょっちゅう壊している風彦だが、あの一件からは特に虚弱体質が悪化しているようだ。
 厠の前に立った風彦は、苦痛で震える手を押さえながら、ドアを三回ノックした。
 ――返事はない。
 誰もいないことを確認した風彦は勢いよくオープン・ザ・ドアした。
「きゃ〜〜〜っ!」
「ぎゃ〜〜〜っ!」
 家中に響き渡る女の叫び声に仰天した風彦は腰を抜かして床に尻餅をついた。
 厠の中には先約がいたのだ。
「ふふ、冗談よ。それより漏らしてないかしら、大丈夫?」
 と冷たい水のような声が厠の中からした。
「大丈夫でござる。倒れる瞬間にキュッと絞めたでござるよ。そんなことより、どうして華子さんが、拙者の家の厠に?」
「さあ、どうしてかしら?」
 意味ありげに華子さんは朱唇を吊り上げた。
 厠の中にいたのは、なんとあの華子さんだったのだ。しかも、なぜか手には欧米渡来のティーカップを優雅に持っている。
 便器には座っているが下着を脱いでいる様子もなく、用を足していたのではないことは一目瞭然だった。
 では、なぜここに?
 華子さんは音も立てず軽やかに、気品よく便器から立ち上がった。
 そして、濡れた唇が玲瓏たる声を響かせた。
「しばらくの間、この厠に棲まわせてもらうわよ」
「へ?」
 風彦は目を丸くした。目は前髪で隠れているので、外からは表情が変わっているように見えない。だが、風彦は心底驚愕した。そりゃもう、チョービックリって感じ。
 蒼白い顔がぬっと風彦の眼前に迫った。
「聞こえていたでしょ?」
 深さのある黒瞳で見つめられた風彦は瞬時に視線を逸らした。前髪があっても、華子の瞳だけは長く見ていられない。この瞳には底知れぬ力があるのだ。
「聞こえていたでござるが、どうして拙者の家の厠に?」
「仕方がないでしょう。学園の厠が、あんな風になってしまったのだから、ね?」
 淡々と語る華子は月のような白い顔に紅い唇を浮かばせて嗤った。
「それに、あのときの勝負、勝ったのは――。だから、あなたに一生取り憑かせてもらうわ」
「そ、そんなぁ」
 華薫る中、風彦の情けない声が虚しく響いては消えた。


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