二人のナルシス
 ナルシス。
 それはギリシア神話において、自らに恋をした者の名。

 着衣を脱いだ若者は、リクライニングチェアに深く腰掛けた。
 少し汗ばんだ手を開くと、そこには錠剤が乗っていた。
 店員の話では、これを飲んでしばらくすると、甘美な世界に誘われるらしい。
 彼は少し戸惑っていた。
 この店――いや、この手の店に来ること自体がはじめてであった。
 ましてや、彼はまだ一度も女性との経験がなかった。
 つい最近に出来た彼女。初めて出来た彼女。強引に押される形で付き合うことになった彼女。
 積極的な彼女は彼を求めた。それを拒み続ける彼。
 そう、彼は恐ろしかったのだ。まるで何か喪失してしまいそうで。
 心から愛していない彼女と交わることで、何かを裏切ってしまうように感じた。
 果たして何を裏切るのだろう?
 しかし、彼は覚悟を決めた。
 彼女と交わる前に、心の準備をしなくてはいけない。
 そこで彼はバーチャルセックスという方法を取ることにした。
 この店では相手を選ぶことはできない。深層心理を読み取り、もっともしたい相手と性交が出来るシステムを売りにしていた。
 彼は錠剤を口に含み、コップの水を一気に飲み干した。
 目元まで隠れるヘルメットのような器具を頭に被る。
 深い音を立て心臓が怯えている。
 震える呼吸をした瞬間、急に浮遊感が全身を襲い、瞼の裏を白と黒の幻影が泳いだ。
 嗚呼、甘い花の香。
 閉ざされていた瞼の幕を上げると、辺りは乳白色の霧に包まれていた。
「……こっちへ……早く……」
 誰かが呼んでいる。
 霧中を泳ぐように声の主を捜した。
 役目を終え徐々に去っていく霧たち。
 澄み渡る湖水と、咲き揺れる水仙の清らかさ。
 畔に膝を付き、鏡のような水面を覗き込む。
 嗚呼、一目で恋に墜ちた。
 陽光を反射して煌めく水面の先にいる、美少年。
 溶けるほど熱い恋心。胸が張り裂けんばかりのメロディ。運命の出逢い。
 そして、彼だった者は、はっと気づくのだ。己が女になってしまったことに――いや、はじめから女だったことに。
 微笑む美少年が水面の中から美少女に手を差し伸べた。
 甘美な舞踏の誘いを拒む理由など、どこにあるというのだろうか。
 美少女は美少年の手を取った。
 湖に呑み込まれた美少女。
 虹色の水玉が宙で踊る。
 揺れる揺れる世界。
 全身を包み込む生命の温もり。
 根元たる命の水。
 浮遊する世界で彼らは口づけを交わした。
 甘く、溶け合い、舌を絡ます。
 思わず漏らした熱い吐息はどちらが漏らしたものか?
 優しく、強く、互いを抱きしめ確認し合う。
 そこに存在していることを、愛し合っていることを、決して裏切らないことを。
 嗚呼、躰が熱い。
 美少女の着ていた服が水に溶ける。
 目の前の美少年もまた、生まれたままの姿。
 美少女は美少年の首筋に顔を埋めた。
 白く綺麗な首筋。舌を這わせ、緩やかに下りていく。
 美少年の胸板に頬ずりをして恍惚としながら、指先で腰を触りながらさらに下り、かしずく奴隷のように美脚にすがりついた。
 美少女にとって目の前の美少年は完璧であった。
 白磁の肌を持ち、均整の取れた躰、長く伸びる手足、絵に描いたような美貌の君。
 美少年の足の指を舐める美少女。
 指の一本一本ですら愛おしい。
 美少年の髪の匂いを嗅ぐ美少女。
 髪の一本一本までも愛おしい。
 嗚呼、その薔薇のような唇で囁いて欲しい。
「愛しているよ」
 天にも昇る想いで美少女は微笑んだ。
 その言葉は嘘ではない。嘘である筈がない。決して裏切らない。
 契りを交わそう。
 美少年が美少女の上に乗った。
 口を艶やかに半開きにしながら瞳を閉じる美少女。
 美少年のことを信じている。
 何も畏れることなどない。
 花園に伸ばされた美少年の指先。
 芳しい蜜が溢れ出す。
 今このとき交わされし接吻は甘い罪。
 愛の海で背徳は溺れ、ゆらりゆらりと沈み墜つる。
 閉ざされた門を開くのは鍵。
「ああっ……」
 止まる呼吸。
 淡く幼い心と別れを告げましょう。
 ――さようなら。
 秘密の扉が開かれた。
 舞い散る花びら。
 朱色の絹糸が泳ぐ。
 なぜか瞳に映る夕焼け空が滲む。それは零れ落ちた美少女の涙。
 再び交わされた接吻は優しさ。
 愛の糸を引く唇を離し、美少年は微笑んだ。
 静かに頷く美少女。
 ゆっくりと美少年は腰を動かしはじめた。
 眉を寄せながら美少女は下唇を噛みしめた。
 愛液と共に流れる朱色の喪失。
 美少年の指は美少女の小振りな胸の上で遊んだ。円を描きながら踊り、頂きで薄紅色の乳頭を指先で弾いた。
 小さく勃起する美少女の乳頭に、赤子のような口がしゃぶり付く。
「あぁン」
 乳頭を舌で転がされながら、乳房を揉まれ、さらに花園を荒らされる。
 徐々に美少年の息が荒々しくなってきた。
 激しく動かされる腰。
 大輪の華が乱れ乱れ狂った。
 貪り喰うような口と舌が美少女の肌を唾液で穢していく。
 激しくこねくり回される乳房。
 美少女は瞳孔を開いて眼を丸くした。
 ――恐怖。
 奥深くを突かれる衝撃。
 貪られる躰。
「やめて!」
 悲痛な叫びは泡となって消えた。
 美少年は無理矢理に体位を変えて、美少女を四つん這いにさせると、後ろから激しく突き上げた。
 ぶつかり合う肉の音。
 美少女は躰を強張らせながら逃げようとした。
 地を掻きむしるように爪を立て、必死になって美少女は悪夢からの逃亡を図る。
 しかし、美少年はそれをさせなかった。
 美少女の小振りな尻をしっかりと掴む手には力が入り、悪魔のような爪が肉に食い込んで放さない。
 巨大な赤黒い肉の悪魔が奥の奥まで掻き回す。
 感情を支配する恐怖で美少女は眩暈に襲われた。
 決して裏切らない筈だったのに……なぜ?
 見開かれたまま瞬きもしない瞳から零れ墜ちる涙。
 美少女は慟哭した。
「お願いもうやめて! なんで……こんなこと……なんでなの!?」
 その問いに答えられる者はいなかった。
 なぜなら……。
 破壊すらいとわない乱暴さで美少年は美少女を犯し続けた。
 嗚呼、脆くも崩れ去る夢幻。
 美少女の中で暴れ狂っていた赤黒い悪魔が憎悪を吐き出した。
 白濁の憎悪が躰の中から美少女を浸食する。
 奥の奥まで流し込まれ、満たされていく。
 力の抜けた美少女は黒い土の上に頬を付け、降り注ぐ雨の中でいつまでも美少年に犯され続けるのであった。
 永遠に……。

 騒ぎを聞きつけ店のマネージャーが駆けつけた。
「ったく、また薬の副作用か……で、死んでんのかもう?」
「はい、脈は止まってると思うんですが……」
 怪訝な顔をする従業員の視線を追ったマネージャーはそれを見た。
 リクライニングチェアでぐったりとしている全裸の若者。その股間で起立する男根から噴き出し続けている朱色の混ざった精液。
「本当に死んでんだろうな?」
 マネージャーは再度確認したが、従業員は難しい顔をして頷いた。
「はい、確かに死んでますよ」
「そうか、じゃあ服を着せて色欲街の裏路地にでも捨てとけ」
 そう言いながらマネージャーは若者が被っていたヘルメットを取り、ぎょっとしながら後ずさりをした。
「こいつ……なんで泣いてやがる?」
 若者は恍惚の口元で笑い、悲しそうな瞳をしながら泣いていた。
 もう死んでいるというのに……。
 嗚呼、ナルシスたちの夢は終わらない。

 おわり


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