薔薇の黙示
 ハナンの町は夜を向かえ、ハナン聖堂の中ではシスター総出で見回りが行われていた。セシルは本当に治安官に怪盗ジャックからの予告状のことを知らせなかったのだ。そして、セイとファティマはセシルに怪盗を捕まえる手伝いをして欲しいと頼まれていた。
 怪盗の目的はセシルの持つ杖であり、彼はセイとファティマと一緒に自分の部屋に閉じこもっていた。
 部屋の外では二人のシスターが見張りをし、扉と窓にはしっかりと鍵が掛けられていた。
 もうすぐ町の鐘が九つ鳴る。だと言うのにセシルは落ち着いたようすで椅子に腰掛けていた。
 セイは内心ドキドキしながらも椅子に腰掛けて冷静になろうとしていた。だが、一番落ち着きのないファティマが部屋を歩き回っているのを見ていると、自分の心までが焦りを覚えてくる。
「ファティマ、セシルさんを見習いってじっとしていてよ」
「だってもうすぐ怪盗が来るんだよ、ドキドキしちゃうよね」
「この状況を楽しんでどうするの、もっと真剣になってよ」
「ボクは真剣だよぉ、頑張ってセシルの杖を守るんだから」
 なんでこんな自分たちが怪盗を捕まえることに協力して欲しいと頼まれたのかセイは疑問だった。
「セシルさん、本当に僕たちもここにいた方がいいんですか?」
「ええ、ここにいてください。人数が多い方が怪盗を捕まえることができますから」
「だったら、治安官に来てもらった方がいいんじゃないですか?」
「心配なさらずとも大丈夫ですよ。怪盗は我々の手だけで捕まえて見せますから」
 セシルの考えがセイには理解できなかった。
 急に慌て出したファティマが柱時計の前で大声を出した。
「もうすぐ鐘がなるよぉ!」
 町の中心に聳(そび)える鐘楼の鐘が夜の街に響き渡った。怪盗は?
 セイが息を呑んで待っていると、突然部屋のドアが強くノックされて女性の声が外から聞こえた。
「私です開けてください、ティアナです!」
 シスターティアナがドアを開けるように要求し、セシルはセイの方を向きながらドアを指差した。
「セイさん、わたくしの代わりに開けてください」
 セシルに頼まれたセイはなんの疑問も抱かずにドアの鍵を開けた。すると血相を変えたティアナが部屋の中に飛び込んできた。
「大変です、見慣れないシスターが聖堂の中に侵入して、何人かのシスターが捕まえようとしたのですが逃げられてしまいました。セイさんとファティマさんもそのシスターを探しに行ってください!」
 すぐに言われたとおりセイとファティマが部屋を出て行こうとすると、それを凛(りん)としたセシルの声が止めた。
「お待ちなさい、行く必要はありません」
 そして、すぐに杖を構えて呪文の詠唱をした。
「薔薇よ、その蔓を持って全てを拘束しろ――薔薇呪縛(じゅばく)!」
 杖に取り付けられた宝玉の中から薔薇たちが飛び出し、その蔓によって全身を縛り上げられたティエルはバランスを崩して床に倒れた。
「なにをするのですか司教様!」
 床に倒れるティエルに静かに近づいたセシルは全てを見透かしていた。
「小芝居はわたくしには通用いたしませんよ」
 この言葉を聞いてセイはまさかと思った。
「この人が怪盗ジャックなんですか!?」
 怪盗ジャックは変装の名人と聞いていた。しかし、目の前にいるのはティアナその人であった。いくら変装の名人だからと言って、ここまでの見た目と声を真似することができるのだろうか?
「司教様も私が怪盗だと思っていらしゃるのですか!? 私はティアナです、ですから早くこの薔薇をどうにかしていただけませんか?」
「わたくしの目は人よりもよいものでして、あなたがティアナでないことはお見通しです。そして、わたくしはあなたにこの町ではじめて出逢った時に二つのことにすぐに気が付きました。一つは予告状に残っていた匂いとあの時出会った踊り子の匂いが同じだったこと。二つ目はあなたがわたくしの姉であること」
 怪盗ジャックとアズィーザとアリアは同一人物であるとセシルは言っているのだ。
 床に倒れているティアナが突然笑い出した。
「ふふふ、そうよアタシが怪盗ジャックよ。でもね、アタシはアンタの姉なんかじゃないわよ」
「いいえ、あなたはわたくしの姉アリアです」
「アタシに弟なんかいないわよ」
「わたくしは光を失いましたが、その代わりに素晴らしい眼≠手に入れました。わたくしにはあなたがわたくしの姉であることが視えている。そして、あなたの持っていた魔導書は〈ドゥローの禁書〉だと思います」
 〈ドゥローの禁書〉と聞いて怪盗ジャックの顔つきが明らかに変わった。
「なぜその名を知ってるの……〈ドゥローの禁書〉を知っているなんてアンタ何者?」
「わたくしの名はセシル、ノエルの父とセイレーンの母を持ち、純白の翼を持つ子として生まれました」
「嘘よ、弟は死んだのよ!」
「いいえ、生きています」
 そう言ったセシルはおもむろに服を脱ぎはじめ、怪盗ジャックに自分の背中を見せた。そこには縦に入った生々しい傷跡が二つ残っていた。
「わたくしは両親を殺され、姉に置いていかれ、翼をもがれ、光を失った。翼をもがれた傷跡だけは消さずに残し置いたのです。しかし、姉のことは怨んでいませんよ、こうしてわたくしの前に現れてくれたのだから」
 いつの間にかファティマはセイの背中に隠れて震えていた。
「怖い、怖いよセイ」
「なにが?」
 ファティマがなにに対して恐怖を抱いているのかセイにはわからなかった。
 床に倒れて身動きを封じられている怪盗ジャックの懐からセシルは一冊の本を抜き取った。その本は表紙と背表紙の厚さ以外の厚さがほとんどないような薄い本であった。そう、この本が〈ドゥローの禁書〉のなのだ。
「わたくしは〈ドゥローの禁書〉の内容について父に聞かされていなかった。しかし、姉が街中でワームを魔導書の中に取り込んだのを見て、それがすぐに〈ドゥローの禁書〉だとわかりました。なぜだかわかりますか?」
 誰に問うているわけではなかった。セシルは恍惚(こうこつ)とした表情をして自分に酔っていたのだ。そして、ファティマの脅えの原因は〈ドゥローの禁書〉に対してのものではなかったのだ。
「ヤバイよ、セシルヤバすぎ……なんで今まで気づかなかったんだろう」
 脅えきったファティマはセイの背中の服を掴んで震えた。そう、ファティマはセシルに対して脅えていたのだ。しかし、セイにはその理由がまだわからない。
「どうして、セシルさんはいい人じゃないか。なんでそんなに脅えているのさ?」
「ボクには見えるの、セシルの心が壊れているのが」
 心が壊れているとはいったどういう意味なのか?
 セシルはすでに誰の話も聞いておらず、誰に語りかけるでもなく話をしていた。
「〈ドゥローの禁書〉について触れられている書物をわたくしはたまたま見つけることができた――それが〈薔薇の黙示〉です。〈薔薇の黙示〉にはわたくしの興味をそそることが多く書かれていましたが、その中でもわたくしが最も興味を引かれたのは〈混沌〉についての記述でした」
 〈混沌〉とは天地創造よりも、宇宙ができるよりも遥か以前の空間に存在していたモノであり、古(いにしえ)の大魔導師は〈はじまりの物質〉と称した。
「わたくしは常日頃から全ての人に救いを与えたいと思っておりました。しかし、この世界をお創りになられた神は人々を救わない。そして、わたくしは全知全能の神ではない。それが悲しくて堪りませんでした。ですがわたくしは〈混沌〉に出会い、悟りを得たのです」
 セシルは肩を震わせてくつくつと笑っていた。この時、セイにもファティマの脅えがわかったような気がした。
 怪盗ジャック――セシルの姉アリアが脅えた表情で叫んだ。
「セシル……アンタいったい何をしようとしてるんだい!?」
「この世界を全て〈混沌〉に還してしまえばいい。そうすれば、全ての感情は消え失せ人々は救われる。そう、わたくしは全てを無に還したいのですよ。ああ、そして、今わたくしの手元には〈ドゥローの禁書〉がある。今こそ〈ドゥローの禁書〉の真の力を使う時なのです!」
 〈ドゥローの禁書〉の表紙がセシルの手によってゆっくりと開かれた。その本の中身は塗りつぶされようにページが真っ黒で、その黒が蠢いていた。
 セシルの口元が微かに動いた次の瞬間、床で拘束されていたアリアの身体が〈ドゥローの禁書〉の中に吸い込まれてしまったではないか!?
「わたくしは姉を怨んではいませんでした。だからこそ一番初めに救ってあげたのです。さあ、次はあなた方を救って差し上げましょう」
 セシルが一歩踏み出したところでファティマはセイの腕を掴んで逃げ出した。
「セイ逃げるよ!」
「どうしてセシルさんが……?」
 セイにはセシルの考えが理解できなかった。とにかくセシルのやろうと止めなくていけないような気がした。けれど今は逃げることしかでなかった。
 廊下を駆け抜け、セイたちはとにかく聖堂の外に出た。そして、外に出たセイは目の前で聖堂が消えるのを見た。〈ドゥローの禁書〉は聖堂をも呑み込んだのだ。恐らく中にいた人々も一緒に呑み込まれたに違いない。
 聖堂が消えるのを目撃したものが他にもいた。その者は上空を旋回する翼の生えた馬ペガサスの上から聖堂が消えた瞬間を見た。
「あれが〈ドゥローの禁書〉の力か、おぞましき力じゃな」
 白銀の髪を夜風に揺らしながら少女は静かな月のように微笑んだ。


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