薔薇の宝玉
 夜の町は騒然とした。
 聖堂が突如消失したかと思うと、その周辺にあった木々や家や人々までもが消失してしまった。そのことに気づいた人々は状況も理解できないままに我先にと逃げ出した。
 静かだった町は人々の恐怖の声で溢れた。
 逃げ惑う人々に混じって逃げていたセイは突然足を止めてファティマの手を引いた。
「僕の魔導書でどうにかすることはできないかな?」
「ご主人様はバカだなぁ、こんなすっごいことになってるのに何する気? こーゆー時は逃げるが勝ちだよ!」
「でも、セシルさんを止めなきゃいけないと思うんだ」
「そんなこと言ったってボクはか弱くて可憐な女の子だしぃ。こーゆー時は逃げるが勝ち!」
「でもさ」
「ご主人様は自分の力でなんかできると思ってるの、ご主人様は普通≠フ人間なんだから無理無理」
 これを言われたセイはショックを受けた。少しセイは自分のことを特別な存在だと思っていたところがあった。魔導書を手に入れて、この世界にやってきた自分を特別な存在だと思っていたところがあったのだ。
 その場に立ち尽くすセイの腕をとってファティマは走り出した。
 呑み込まれる町を尻目に逃げる人々であったが、町の出口に突如目に見えない壁が現れ人々の行く手を阻んだ。
 微かに月明かりが目ない壁に反射して輝く。その反射した壁にはびっしりと文字か記号のようなものが刻まれている。
 セイたちもあと一歩というところで町の中に閉じ込められていた。
「ご主人様絶体絶命だね、どうしようか?」
「…………」
 ファティマに尋ねられたセイは無言のまま来た道を逆走しはじめた。
「ご主人様どこ行くの!?」
「セシルさんのところに決まってるじゃないか!」
 町の中に開かれた荒地の中心にセシルはただ佇んでいた。すでに〈ドゥローの禁書〉は閉じられていた。しかし、なぜセシルは〈ドゥローの禁書〉を閉じたのか?
 セシルのもとへ辿り着いたセイは息を切らせながら佇むセシルを見つめた。セシルは少し哀しそうな顔をして空に顔を向けている。そして、セシルは〈ドゥローの禁書〉を懐にしまい呟いた。
「何かが違うような気がするのです」
「セシルさん!」
 セイが声をかけるとセシルはゆっくりと顔下げてセイのいる方向を振り向いた。
「ああ、セイさんですか。それにファティマさんも」
 セイのすぐ後ろから慌てたようすのファティマが追いかけてきて声をかけた。
「ご主人様、危ないから早く逃げようよぉ」
「待って、僕はセシルさんと話がしたいんだ」
 けれどセイは何を話したらいいかわからなかった。その場の感情に任せて勢いでセシルの前に来てしまったのだ。だから、そのまま思いついたことを口にすることにした。
「セシルさんは全ての人々を救いたいから全部無にしちゃえばいいって言ってたけど、僕はそれは違うと思います。人を救いたいって思うのはいいことかもしれないけど、みんなそれぞれには意思があるわけで、辛くたって悲しくたって生きたいと思っている人たちはいるから、その人たちを無に還すっていうのは絶対間違ってる」
 セシルはセイの言葉に静かに耳を傾け、そして口を開いた。
「辛くとも悲しくとも生きたいと思う人の執着心。そんな人々がこの世界にどのくらいいるのでしょうか、おそらくは数え切れないほどいるでしょう。しかし、わたくしにはその全員を救うだけの力はありません。いることがわかっているのに、時として見え見ぬふりをしなくてはいけないのです。救うことのできないのに手を差し伸べても相手の負担になるだけですから。人を幸福にする力はわたくしにはありませんが、今わたくしの手元には世界を無に還すほどの力を持つ魔導書があるのです――これで世界は救われるのです」
 全部なくなってしまえばという気持ちはセイにもわからなくはなかった。自ら命を絶つ勇気はないけれど、世界が全部なくなってしまえばどんなに楽だろうと考えたことはあった。セシルの考えはそれの極致であり、本当に全てをなくしてしまおうと行動した。
 セイが何をいったらいいのか考えていると、セイの背中に隠れながらも威勢よくファティマが声を張った。
「ボクはこの世界が好きだし、ご主人様と旅してる今がすごく楽しい。辛くも悲しくもないから誰かに救って欲しいなんて考えてよ〜だ!」
 世界には救いを求める人々もいれば、救いなど必要としてない人々がいる。必要もないのに手を差し伸べられても、それをお節介と感じる人がいる。それがここにいるファティマだった。
 セシルがふと自虐気味に嗤った。
「実際に多くのモノを魔導書の中に取り込み、わたくしはわたくしの思い描いていたことをしたはずだった。なのに虚しさを感じるのです。わたくしの求めていたものとは違うような気がする。なにが間違っていたのでしょうか?」
 杖に寄りかかりながらセシルは地面に膝をついた。
 〈ドゥローの禁書〉は使用者の体力や精神力を消耗させ、セシルはついに膝を地面につけた。しかし、セシルの陰が語るものはそれだけではない。落胆を通り越した空虚。セシルの心は空虚に蝕まれていた。
 動かなくなったセシルのもとへセイが駆け寄った。
「セシルさんがやろうとしたことはやっぱり間違えだったんだと思います。セシルさんもきっと心のどこかでそれに気づいてるから虚しいような気がするんじゃないですか?」
「わたくしが間違っていたのか、それはわかりませんね。何が正しいことか、何が間違ったことなのか、それは人それぞれだと思います。今でもわたくしは自分の行いが正しいと思っています」
「そんな」
 セイは落胆した。人それぞれだと言われてしまえばそれでおしまいだが、セイはセシルにどうにかして考えを変えてもらいたかった。
 ゆっくりとセシルは懐に手を入れて〈ドゥローの禁書〉を取り出した。それを見たファティマはセイの腕を取って逃げようとした。
「ご主人様一時退却!」
「あ、でも……」
 口ごもるセイをファティマは強引にセシルから遠ざけた。しかし、セシルのようすが少し可笑しい。セシルは肩を震わせて笑っていた。
「ふふっ……究極の悟りが今わかりました。そうです、わたくしがこの世界から消えてしまえばいいのです。そうすれば本当に何も見ずに済むのです!」
 表紙に手をかけて開こうとした瞬間、セシルの手が急に止まった。その手はブルブルと震え、血管が浮き出て力を込めているように見える。
「身体が動かない……!?」
 セシルがそう呟いた次の瞬間、煌く夜空の白銀の髪を持つ少女が振って来た。
 落ちてきた少女は地面に槍を突き刺しながら着地し、槍を地面に抜きながら宙を舞い地面の上に降り立った。その目の前にはセシルがいる。
「君はいったい何者ですか、わたくしの動きを封じたの君ですか?」
「いかにも妾がうぬの動きを封じたのじゃ」
 白銀の少女にセイは見覚えがあった。ドラゴンに追いかけられていた時に自分たちを救ってくれた少女エム。そして、エムはドラゴンを嗾けたとのは自分だとも語った。
 エムの声、エムの気配を感じ、エムを視たセシルの顔つきが険しく変わっていく。セシルにとってもエムは見覚えのある人物だったのだ。
「君はまさか……あの時の!?」
 セシルの脳裏に映し出されるビジョン。獣人たちを従えて自分たちの前に現れた、白銀の髪を持ち左右色の違う瞳を持つ少女。
 憎悪に駆られたセシルは呪縛を解き放ちエムに襲いかかろうとした。だが、すぐに再びセシルの身体は見えないなにかに拘束され身動きを封じられてしまった。動けぬセシルの鼓動は激しく脈打っていた。
 動けないセシルの瞼の上にエムがそっと手を乗せた。
「うぬにはまだ滅びてもらっては困る。血と成り肉と成り、糧となるがよい」
 エムの手がそっと離され、セシルの目が開かれた刹那。辺りは紅い光に呑み込まれ、何もかもが紅に染まった。
 思わず腕で目を覆ったセイが腕をゆっくりと下げて目を開けると、そこにはすでにエムの姿はなく、セシルだけがその場に立っていた。そして、見開かれたセシルの目は紅く輝いていた。
 いつの間にかセイの後ろに隠れていたファティマが、ちょっぴり口調を変えて説明をはじめる。
「説明しよう。〈薔薇の宝玉〉とは妖魔の君が幾千人もの処女の血を結晶化したアイテムであり、その力を使いこなすことができればありとあらゆるモノを視ることができると云う。という伝説のアイテムをセシルは義眼にしてたわけだね、うん納得。でねでね、あのアイテムはちゃんと使いこなせれば過去・未来も視れるらしいよ」
「説明はいいから、セシルさんの雰囲気がさっきと違うんだけど」
 セイの指摘するとおりセシルの雰囲気は先程と明らかに違っていた。禍々(まがまが)しい邪気がセシルの全身から立ち込め、この辺りを満たす空気を吸うだけで気分が悪くなってくる。
 ファティマはセイの背中を掴みゆっくりと後退していた。その表情は明らかに悪く、巨大な力に脅えていた。
「ボクが思うにあの銀髪っ娘エムが〈薔薇の宝玉〉細工をしたんだと思うんだよね。だってね、あの宝玉が放つ光に闇が、穢れが混じってるんだもん。〈薔薇の宝玉〉は一点の穢れもあっちゃいけなんだよ。ってことで、ご主人様、ここは退却しよう!」
 町が黒い雲に覆われていく。どこからか呼ばれた悪霊たちが町を飛び交い、町に閉じ込められている人々を殺戮(さつりく)していく。町中から苦痛に満ちた声が聞こえてくる。花の都ハナンは地獄と化そうとしていた。
 セシルが持った〈ドゥローの禁書〉に全てが吸い込まれていく。木が根っこごと地面から引き抜かれ、家々は土台ごと宙に浮き、人々も全て吸い込まれた。辺りは一瞬にして荒地と化し、その場に残っていたのは三人だけだった。
 〈ドゥローの禁書〉を持ってセイとファティマに近づいて来るセシル。セイとファティマだけが吸い込まれずにこの場に残っていた。その意図は?
 セイの服を掴んで逃げようとしていたファティマの腕をセイが力強く掴んだ。
「なにもできないかもしれないけど、なにもしないで終わるのは嫌だ。これどうやって使うか教えて!」
 セイは肩に下げていたバッグの中から魔導書を出して表紙を開けた。真剣な顔をしたセイの眼差しは邪気を纏うセシルに向けられていた。
 ため息をついたファティマがセイの顔を覗きこんで微笑んだ。
「ボクは平和主義者だから戦うのは好きじゃなんだけど、ご主人様がどうしてもって言うなら仕方ないね」
 開かれていた魔導書のページが風もないのに勝手に捲(めく)れ、あるページを開いた。セイはそこに書かれた文字を読むことができた。そして、セイはその言葉を紡ぎ出す。
「ライラ、ラライラ、リリラララ……幾星霜の時を重ね、天を舞い躍る輝ける戦士たちよ、戦いの時が来た。輝く槍を持って地上に舞い降り破壊の限りを尽くすがいい、スターランス!」
 遥かなる夜空に幾つもの輝きが現れ、それは巨大な槍と化して地上に降り注ぐ。それは流れ星であった。光の尾を引く流れ星が槍のように地面に降り注ぐ。それも一点に向けて。
 爆音と爆風と激しい光に辺りは呑み込まれた。
 立ち込める煙の中でセイはファティマが魔法で張ったドーム型のシールドに守られていた。
 何も見えない煙の中でセイがファティマに向かって叫んだ。
「僕がしたかったのはこんなことじゃない! 僕はただセシルさんを止めたかっただけなんだ、殺したいなんて思ってないよ!」
「でもご主人様、力で相手をねじ伏せないといけないことだってあると思うよ」
 煙の中から杖が現れファティマの張ったシールドを叩き割った。シールドが硝子のように弾け飛び破片が宙を煌く中、血に染まった腕がファティマの首を鷲掴みした。
 セイの顔が蒼ざめ、セイは目の前にいる人物を見上げて行った。そこにはファティマの首を掴んで身体を持ち上げているセシルの姿があった。セシルの身体はボロボロに傷つき、衣服は破れ全身から血が流れ出ている。もはや、いつ死んでも可笑しくないような状態でセシルはファティマの首を締め上げていた。
「ファティマを放してくださいセシルさん!」
 セイがそう叫ぶと、セシルは身体を震わせながらファティマの身体を地面に下ろし首から手を放した。そして、セシルはそのまま膝を突いて苦しみもがきはじめた。セイはたた呆然とそれを見ているだけであった。セシルの身にいったい何が起きているのか?
 地面についたセシルの手が持ち上げられ、すぐに地面に戻り、また手を上げようとする。それはまるで自分自身の身体と戦っているようであった。そう、セシルは自分の意思に反して動く身体に抵抗しようとしていた。
 セシルの手が激しく持ち上げられ、彼は自分の顔を手で覆った。セイがセシルがしようとしていることに気づいて止めようとした時にはすでに遅かった。――セシルは自分の両目を自らの手で抉り取ったのだ。
 セイは目の前で起きたことに目を背けたいのにできなかった。
 地面に力なくして倒れたセシルは震える手でゆっくりと〈ドゥローの禁書〉の表紙を開き何かを呟いた。
 開かれた〈ドゥローの禁書〉から多くのモノが還っていく。吸い込まれた町や人々が元に戻っていくではないか!?
 やがて、町は元通りに戻り、最後に〈ドゥローの禁書〉はセシルの身体を吸い込んでその表紙を固く閉ざし、〈ドゥローの禁書〉は炎に包まれて焼かれ消えた。
 地面に膝をついたセイは動く気力も起きず、無表情のまま目から涙を零した。
 夜の闇はセイの心も蝕んだ。

 ハナンの町を離れ数日――セイとファティマはとある町でこんな噂を耳にした。
 ――怪盗ジャックが現れたらしい。
 怪盗ジャックの話をよくよく聞いてみると、ジャックは世間から悪人と呼ばれる富豪の家で金品を盗んでは、貧しい家庭にそれをばら撒(ま)いているのだという。そのため民衆の間ではジャックがヒーローのように扱われていることセイ知った。そして、じゃあなんで魔導具とかも盗んでいるのかと訊ねると、首を傾げられて答えは返ってこなかった。
 セイは内心でいつかジャックに逢えるような気がした。そして、その時にいろんな話をして、これを渡せばいいと思った。
 首から提げたバッグの中には一冊の魔導書と二つの紅い宝玉がしまわれていた。


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