第5回 名無し猫
 つかさとエレベーターで別れたのが、つい先ほどだったように感じる。
 夕食を済ませ、シャワーを浴び、趣味の裁縫を終わらせた紅葉はベッドに潜った。
 ベッドの周りには紅葉が作ったぬいぐるみたちが並んでいる。その中に似つかわしくない恐ろしい形相をする〈般若面〉。
 紅葉はそっと立て掛てあった〈般若面〉を手に取った。
 〈般若面〉を持つ手からエネルギーが吸われ、換わりに〝姉〟の意識が紅葉の中に流れ込んでくる。
《こんばんは紅葉》
「うん、こんばんはお姉ちゃん」
 優しい〝姉〟の声を聴くと、紅葉は涙が出そうなほどほっとする。
 本当はひとりでいるときは、ずっと〝姉〟と話していたいが、摂理は思い通りには働かない。
 〝姉〟との会話は〈般若面〉に触れなければならない。すると、〈般若面〉に紅葉のエネルギーが流れ、〝姉〟は眠りから覚める。眠りから覚めるというのは例えで、実際は意識があるが、動くことも話すことも聴くこともできない。ただ、考えることと超感覚で感じることができるだけだ。
 エネルギーを吸われることによって、〝姉〟との会話はとても疲労感の伴い、一時間も会話をすれば、汗だくになるほどの疲労感に襲われる。話し込んでしまった翌朝は起きるのが辛く、学校に遅刻しそうになったことも何度もあった。
 会話はたわい無いものが多く、紅葉が日記のように出来事を話していくことが多い。
 友達に教えてもらったおもしろい話、授業のことなどを話し、そして話は聖堂でのことになった。
「そうだ、今日ね、つかさに大好きって言われちゃった。それを聴いたら、凄いドキドキして、不思議な気分になっちゃったの」
《……そうなの》
「それでねそれでね、つかさの顔が近づいてきて……キスされるのかと思っちゃった。わたしって可笑しいでしょ、キスされてもいいかなって少し思っちゃったし」
《そう》
 少し赤面しながら話す紅葉に呉葉(くれは)はつまらなそうに返事をした。
 妹の心の中でつかさが日に日に大きくなっていることを〝姉〟は感じていた。いつか妹を奪われてしまうのではないかという、そんな恐怖すら〝姉〟は抱いていた。
 紅葉と呉葉――姉妹の絆は絶対だ。
 しかし、昔の紅葉だとしたら呉葉だけだったのが、今では呉葉が一番になってしまった。
 〝姉〟の存在は今やオンリーワンではなくなってしまったのだ。
 つかさに嫉妬する自分に虚しさを感じるが、それでも〝姉〟は嫉妬せずにはいられなかった。
《憧れよ、紅葉はつかさに憧れているだけよ》
「でも……」
《アタシたちは男を憎んでいる。だから余計に勘違いしてしまうだけよ。アタシたちは二人きりなの、決してアタシは紅葉を裏切らない》
「つかさだってわたしのこと裏切ったりしないのに……今日だってわたしのこと助けてくれた」
 紅葉の声は弱々しく、瞑った瞳から薄っすらと涙を滲ませていた。
「今日もまた武田さんと喧嘩になっちゃって、そのときもつかさが助けてくれたの」
《またあいつ、なにされたの?》
「ついにビンタされちゃった」
《殺してやる! あの女、ズタズタに刺し殺してやるわっ!》
 紅葉の躰が大きく跳ねる。〝姉〟の憎悪が紅葉の心に激流のように流れ込んできた。精神的な力なのに、思わず躰まで押されそうになってしまう。
 〈般若面〉に宿った〝姉〟の魂。その魂は〈般若面〉の顔に相応しく、憤怒と嫉妬、怨念が渦巻いていた。けれど、紅葉は優しい〝姉〟を知っている。
 世界で誰よりも優しかった姉。
 いつから姉はこんなふうになってしまったのだろうか?
 果たして〈般若面〉に宿った〝姉〟は本物の姉なのか?
 過去の悲劇を思い出すたびに、紅葉は端整な顔のその下で、傷の疼きを感じた。
 揺らめく炎と彩られた罪色が重なり合う。
「お姉ちゃん……わたし……こんな面を掘ってはいけなかった……お姉ちゃんを黄泉返らせてはいけなかった」
《なんていうの! 紅葉はなにひとつ間違ったことをしていないわ!》
「でも、わたしは叔父さんを殺した!」
《それは……アタシの仇を……》
「わからない、わからないよ! 気づいたら叔父さんを八つ裂きにしてた……」
 心の底から涙が溢れ出た。胸が苦しくて息が詰まり、紅葉の眼からは涙が止め処なく零れ落ちた。
 〝姉〟はその涙を拭ってあげることができなかった。
《紅葉が悔いることではないわ。あんな豚、八つ裂きにされて当然なのよ。あの豚は紅葉の前でアタシを犯して楽しむような外道だったのよ、八つ裂きぐらいじゃ足らないわ!》
 紅葉は〈般若面〉を包み込むように胸で抱いた。
「お姉ちゃん、わたし疲れちゃった……もう、寝るね」
《……おやすみ、愛しているわ紅葉》
「おやすみなさい」
 〈般若面〉はぬいぐるみたちの中に立て掛られた。
 いつも以上に疲れてしまったように感じる。
 紅葉は膝を抱え込んで頭から掛け布団を被った。
 意識はすぐに闇の中に堕ちた――。
 世界は深く暗い闇の中で閉ざされ、紅葉は世界でたった独りになってしまった。
 夢の中で呆然と立ち尽くす紅葉。
 暗くて、怖ろしくて、胸が締め付けられる。闇はヒトの心を巣食い、古代から畏れられ、ヒトは光で闇を照らし続けた。
 漆黒の中に紅蓮が灯り、空気が水面のように揺れた。
 ケタケタと嗤う声。
 紅い光に包まれた黒い猫がそこにはいた。
「久しぶりだな紅葉、どうだい調子は?」
 男とも女とも判断つかないしゃがれた声で猫は言い、またケタケタと嗤う。
 この黒猫に名前はない。だから紅葉は〝名無し猫〟と呼んでいた。
「調子なんて聞かなくても、あなたはわたしのことを全部知っている。あなたいったい何者なの?」
「ケケケッ、さぁてね、俺様は俺様だ。俺様以外の何者でもない」
 自分の夢の中に度々現れる〝名無し猫〟。
 ならばこれも紅葉の一部なのか?
 そう思っているのならば、『あなたはいったい何者なの?』とは問わない。
 〝名無し猫〟は紅葉の知らないことも知っているのだ。
「おい、そういえば今日、武田朱美に叩かれただろ?」
「だからなに?」
「ムカついただろ、相手のこと殺したいと思ったんだろ?」
「そんなこと思ってない!」
「嘘つくなよ、俺様はおまえにことは全部知ってるんだ。俺様が代わりに奴らを殺してやるよ」
「駄目、そんなこと駄目ぜったい!」
 紅葉は恐れた。
 夢の住人の戯言に、なぜそこまで恐れるのか――否、それが戯言ではないからだ。
 〝名無し猫〟が殺すといったら、必ず人が死ぬ。
 もちろん夢の住人である〝名無し猫〟が、直接に手を下すわけではないが、事故、殺人、自殺、あらゆる理由で今まで何人も死んだ。
 人の心や運命を操る。もしかしたら、今と同じように他人の夢枕にも立っているのかもしれない。そんなふうに紅葉が推測していた。
 ケタケタを嗤う声が耳にへばり付く。
「まずは誰を殺して欲しい?」
「誰も殺さないで!」
「そうだな、リーダーの朱美はメインディッシュに取って置くか。周りから殺していったほうが恐怖を煽れるだろ?」
「なんで、そんなにわたしのことを苦しめて楽しいの?」
「ああ、楽しいね」
 嫌みったらしく嗤い、〝名無し猫〟は牙を剥いて叫ぶ。
「まずは香織を殺す!」
 息を荒立てながら、紅葉は眼を覚ました。
 べっとりと汗が全身から滲み、不快感が肌を侵す。
 ――このままでは香織が殺される!
 息を整えながら、紅葉はベッドから起き上がり、立て掛てあった〈般若面〉を手に取った。
「お姉ちゃん、力を貸して!」


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