第6回 金剛力の男
 茶色いローブを羽織り、白い仮面はマンションの三階あたりを見上げていた――紫苑だ。
 マンション敷地内の芝生から、三階に潜む住人の部屋を伺っていたのだ。
 部屋はカーテンで隠され、中の様子までは地上から察することができない。けれど、明かりが漏れていることから、おそらく中に人はいるのだろう。
 その予想は当たっていた。
 部屋の中には男と女、それもベッドの上で裸になって抱き合っていた。
 四十前の男は若者に負けぬ鍛え抜かれた体躯を持ち、逞しい背中には悪魔に引っかかれたような十字の傷があった。
 傷痕を隠すように彫られた刺青。左右対称の蝙蝠の羽と、その中心に『D』と『C』の刺青が彫ってあった。
 ――魔導結社ダークネスクライ。
 D∴C∴はダークネスクライの頭文字を取った略称であり、帝都を中心に暗躍する魔導結社の名前だった。その活動は主に帝都政府へのテロ行為。過激なものが多く、住民が犠牲になることをいとわない最悪のテロ集団だ。
 帝都政府からD∴C∴の幹部たちは、『生死を問わず』で懸賞金つきの指名手配をされている。だが、その幹部の多くは顔や経歴が一切不明の者も多く、顔がわかっている者も本当に幹部なのか怪しい部分が多い。
 今、女を抱いている男はD∴C∴の元団員で、通り名は〝金剛〟。肉体を強化する魔導に長けていることで知られていた。
 〝金剛〟に跨る女は自ら腰を動かし、積極的に〝金剛〟を誘っている。
 女は一方的に燃え上がっているようで、〝金剛〟は付き合わされているだけのようだった。
「ねえ、いつものように奥まで衝いて!」
 激しく女は誘うが、〝金剛〟は疲れたように女の腰を両手で持ち上げ、ついに女を自分の上から退かしてしまった。
「あたしまだイッないのよ!」
 叫ぶ女を尻目に〝金剛〟はズボンのチャックを閉めてベルトを通していた。
「だからなんだ?」
 野太い声で威圧する〝金剛〟に女はヒステリーを起こした。
「この甲斐性なし! あんたの股間についてるモノは女もイカせられないお飾りよ!」
「ふん、この淫乱売女が」
「木偶の坊、あんたなんか死んじまいな!」
 〝金剛〟はまったく動じず、つまらない話題を変えた。
「お前の探していた子供が見つかったぞ」
 その言葉を聴いた女は腹の傷をなぞるように擦った。
 傷を見るたびに腸が煮えくり返る。
「この傷見てよ、自分の子供に刺されるなんて信じられる?」
「その話は何度も聴いた」
「何度言っても気がすまないのよ。奴隷がご主人様に逆らっていいわけないじゃない」
 女の話に耳を傾けずに、〝金剛〟はなにかを察して身構えていた。
 ベランダに続く窓硝子が弾け飛び、影が部屋の中に飛び込んできた。
 女は突然のことにシーツを手繰り寄せて体に巻いた。
 白い仮面の主は女に興味も示さず、巨躯を持つ〝金剛〟に意識を集中させていた。
「通り名は〝金剛〟――D∴C∴の元団員だな?」
 氷のように澄んだ紫苑の声が響き渡った。
 相手を敵と知り、〝金剛〟はすでに手足に力を込めている。
「D∴C∴なんて聞いたことねぇな」
「ならば思い出せ、一〇年ほど前のことだ」
「昨日の晩飯も覚えてない」
「男を連れ去り、その妻を殺し、家に火を放った。それが晩飯と同じ価値か?」
「そうだ」
 〝金剛〟は下卑た笑いを浮かべた。紫苑の示唆で〝金剛〟は過去を鮮明に思い出したのだ。それに紫苑も勘付いた。
「思い出したか?」
「ああ、いい女だったな。ケツから犯してやったあとに首を絞めて殺した」
「外道が」
 紫苑の手から輝線が放たれ、巨躯から象の鼻のような太い腕が床に落ちた。
 絶叫があがり、カーペットに広がる赤い血。
 〝金剛〟は血が噴き出す腕を押さえながら床に両膝をついた。その額には脂汗がべっとりと滲み出している。
 全身を痙攣させる〝金剛〟の前に凛然と立つ紫苑。その無表情の仮面が悶絶する〝金剛〟を見下している。
「ひとまず止血してやろう」
 紫苑の手が神速に動き、切断された〝金剛〟の腕を妖糸で縛り上げた。
「簡単には殺さない。お前を恨んでいる者は他にいる」
 冷酷な仮面を見つめる〝金剛〟の瞳は震えていた。鍛え上げられた巨躯も今では小さく見える。
「知ってることなら話してやる。だがな、あのときの俺はまだ下っ端で、上に言われるがままに動いていたんだ。詳しい話までは知らねえよ」
「源家を襲撃したメンバーの数と名前。そして、襲撃の理由」
「メンバーは俺を含めて三人だ。俺と〝鴉〟こと影山彪彦、それに〝傀儡士〟の秋葉蘭魔だ」
「……そうか、噂は本当だったということだな」
 誰が源家を襲撃したのか、すでに噂として紫苑の耳に入っていた。けれど、それを信じられずに今まで引きずってきた。襲撃犯のメンバーだった男の言葉を聴いても、まだにわかに信じがたい。
 沈黙し動かなくなった紫苑の隙を衝いて女が部屋の外に逃げようとした。
 だが、愁斗はそれを許さない。
「動くな、この距離ならば確実に殺せる。お前にも訊きたいことがある」
 輝線が女の鼻先を通り過ぎ、女はぴたりと足を止めて床にへたり込んだ。
「あたしはただの愛人だよ。その男が過去にやったこととはなんの関係もありゃしないさ」
「別件で訊きたいことがある。名前を草薙早苗と言ったな、雅という女を知らないか?」
「訊いたこともないね」
 注視したが嘘を付いているような様子はなかった。拷問してたしかめる方法も残っているが、そこまで興味のあることでない。紫苑の仮面は〝金剛〟から放されていないのだ。
「まだ襲撃の理由を聴いていない」
「俺は詳しい話は知らないっていったろ?」
 頭から水を被ったように汗で髪の毛を濡らしている〝金剛〟の眼は憔悴しきっている。それでも紫苑は追求をやめない。
「知っていることだけでいい。現場にいてなにも知らないということはないだろう?」
「さらった男は面作り師だった。それもただの面作り師ならD∴C∴が目を付けるはずがねえ。そいつの彫る面はだたの面じゃねえって話だ」
「それだけか?」
「十分話したじゃねえかよ!」
「そうか……お前を恨んでいる者は他にもいると言ったが、やはりその者にお前を引き渡すわけにはいかなくなった」
 〝金剛〟の首を刎ねようと紫苑の手から妖糸が放たれた。だが、〝金剛〟の首が落ちることはなかった。
「残念だったな。ここに乗り込んできたってことは俺の技も調べて来たんじゃないのか?」
 下卑た笑いを浮かべ、急に立ち上がった〝金剛〟は紫苑にタックルし、吹っ飛んだ紫苑を尻目に部屋の外へと逃走を計った。
 〝金剛〟の名に相応しい金剛力で紫苑は壁に叩きつけられ、苦痛も漏らさずすぐに体勢を整えたが、壁に叩きつけられたタイムラグで〝金剛〟を部屋の外に出してしまった。
 紫苑は部屋に草薙早苗を残し、マンションの廊下に飛び出した。
 象が走るような地響きが聴こえる。
 〝金剛〟の背中を追って紫苑が駆ける。
 古いマンションは繁華街が多いホウジュ区の外れにあった。近くには細かい路地も多く、夜の今に逃げ込まれたら見失う可能性もある。
 マンションの廊下に銃声が響いた。
 三八口径の銃弾が紫苑のローブに背後から風穴を開けた。
 紫苑の後方でリボルバーを構え、足を広げて立っていたのは草薙早苗だった。
 銃弾を喰らっても怯まない紫苑に二発目の銃弾が放たれた。だが、それは紫苑の横の鉄柱に弾かれた。
 狙撃手の相手をしている暇などない。紫苑は廊下の鉄枠に妖糸を巻き付け、その妖糸をロープのように使って三階から駐車場に降りた。
 辺りに〝金剛〟の気配はない。
 聴こえる音は自分を狙う銃弾とヒステリックな女の声。
 魔気を帯びた風が流れてくる。紫苑はその方向へと足を進め、シャッターを下ろした店が並ぶ道へと出た。
 異様な気配がする。
 商店と商店の間の細い路地の奥からだ。〝金剛〟の気配ではないとわかったとき、路地の奥から帽子を目深に被ったTシャツ姿の男が駆け出してきた。
 路地から出てきた男は紫苑と目を合わせることなく、紫苑もまた男を追う理由もなかった。
 男が去った直後、暗い路地の奥から女の叫び声があがったのだ。
 紫苑がすぐに駆けつけると、汚い地面に裸体を晒して横たわる女のすぐ横で、なんと紅葉が蹲っていたのだ。
 頭を抱えて蹲っていた紅葉は人の気配に気づき、顔を上げて驚いた表情をつくった。
「どうして……紫苑さんが?」
「同じ質問を返す」
 淡々と紫苑は言った。
 裸体の女の躰には大量の白濁した液がぶちまけられ、辺りは雄臭かった。
 女の首には指の痕が痣になってありありと残っている。
 紅葉は〝名無し猫〟の予告殺人を阻止しようと香織の行方を捜していたのだ。そして、彼女はここで屍体となって見つかった。
 紫苑が呟く。
「近藤香織か……」
 その呟きを紅葉は聞き逃さなかった。
 なぜ名前を知っているのか?
 それを問いただす前に、紫苑は深い闇の中へと姿を消した。


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