第13回 夜の公園
 紅葉は夢幻の住人になっていた。
 いつも見る嫌な夢。
 暗闇の中で復讐を具現化したように炎が揺らめいている。
 〝名無し猫〟は炎の中でケタケタ嗤っていた。
「残念だったなあ、紅葉」
「許さない、あなたのせいで三人も死んだ!」
「俺様のせい? 三人を救えなかったのはお前だろう?」
「違う、あなたが殺したの!」
 紅葉は〝名無し猫〟に飛び掛って両手で掴んだ。だが、〝名無し猫〟は紅葉の胸の中で水風船のように割れ、どこからかケタケタ嗤う声が聴こえた。
「何度同じことをするんだ、俺様を殺せないのは知ってるだろう?」
 背後にいる〝名無し猫〟に気づき紅葉はすぐに振り返った。
 ――いない。
 ケタケタと嗤う声は紅葉の頭上から聞こえた。
 上を向いたが、そこにもいない。
「ここだよ、こーこ」
「どこにいるの!」
 ケタケタと嗤う声はどこからも聴こえた。右からも、左からも、上も下も、何百何千もの嗤い声が紅葉を取り囲んでいた。
 紅葉は耐えられなくなって耳を塞いでしゃがんだが、嗤い声が脳に直接響いてくるようだった。
「もうやめて!」
 叫んで立ち上がると嗤い声は消えた。
 辺りは静かで荒立った紅葉の息遣いが際立って聴こえる。
 〝名無し猫〟はどこに消えてしまったのだろうか?
「早く覚めて……」
「それは無理だな」
 その声がした場所に紅葉は驚いた。
 急いで服を脱ぎ捨てて上半身裸になって、紅葉は〝名無し猫〟を見つけて再度、驚いた。
 〝名無し猫〟は紅葉の胸の間に顔だけを出していたのだ。
「いやッ、早く消えて!」
 紅葉は力いっぱい自分の胸ごと〝名無し猫〟の顔を叩き、思わず咳き込んでしまった。
 それを見て〝名無し猫〟がケタケタ嗤う。
「馬鹿だな、自分で自分を叩いて咳き込んだのかよ」
「うるさい!」
「ケケケッ、現実世界でもそうやって自分で自分の首を絞めるような真似はやめろよ」
「わたしがなにかするの?」
 紅葉は〝名無し猫〟がまたなにかを企んでいるのだと思ったのだ。
「さぁて、どうかな。それよりもお前の場合は自分より他人になにかされたほうが傷付くよな」
「なにを企んでいるの!」
「お前は裏切られるんだ。これからお前はいろんな奴に裏切られて生きていくんだよ」
 ケタケタと嗤う声がどんどん遠くなっていく。
 紅葉の意識が夢の中で堕ちる。
 ケータイのベル音が聴こえる。
「なにっ!?」
 ハッとして紅葉はソファの上で眼を覚ました。どうやらソファでうたた寝していたらしい。
 紅葉は鳴り続けているケータイを探して、テーブルにあったのを見つけて慌てて掴んで通話ボタンを押した。
「誰?」
《助けて、雨宮さん……助けて!》
「草薙さん!?」
《クヌギの木公園で……きゃぁぁぁぁ!》
 ツーツーツーと虚しく通話が切れた。
 とにかく雅を助けに行かなくては思って紅葉はソファから立ち上がった。
 このときは焦りの念が強くて、なぜ雅が自分のケータイの番号を知っているのか疑惑も浮かばなかった。
 紅葉はいつも使っている鞄を持って、寝室にいる〝姉〟の元に向かった。
 〈般若面〉を手に取ると〝姉〟が目覚めた。
《紅葉の狼狽する鼓動が聴こえるわ。どうしたの?》
「お姉ちゃん、友達が大変なの、とにかく一緒に来て!」
 有無を言わせぬまま紅葉は鞄に〈般若面〉を放り込み、急いで玄関を飛び出した。
 夜の風は冷たかった。
 丸になりきれない歪んだ月が道路を照らし、空には黒い雲も姿を見せていた。
 息をつかせながら紅葉は両膝に手をついて止まった。
 視線の先にある小さな公園の入り口。
 こんな夜に誰もいるはずもなく、木の葉がざざざと音を鳴らしている。
 紅葉は公園の中に足を踏み入れた。
 遊具の少ない公園で、昼は遊び場というよりは主婦の憩いの場になっている。
 木々や草むらも多く、たまにかくれんぼをしている子供もいるが、すぐに見つかってしまうような小さな公園だ。
「ここだって聞いたのに……」
 呟きながら紅葉は周囲を見回した。
 雅は『クヌギの木公園』とはっきり言っていた。ここの通称は『どんぐり公園』だが、公園の入り口にはしっかりと『クヌギの木公園』と刻まれていた。
 暗い公園でただ一箇所、電気が点いている場所がある。公衆トイレの明かりが外に漏れていた。
 紅葉は光に誘われるように公衆トイレに近づいていく。
 公衆トイレの入り口前になにかが落ちている。携帯電話だった。
 それを拾おうと腰を曲げた瞬間、紅葉は何者かに後ろから抱きつかれた。
「きゃッ、誰っ!?」
「大人しくしろ!」
 野太い声が紅葉を威圧した。
 紅葉は強引に腹を抱えられ、踵を地面に引きずりながら公衆トイレへ連れ込まれようとしていた。
「放してッ!」
 腹に回されている腕を取ろうとするが、相手の腕力が強くて外れない。
 紅葉の瞳に映る鞄。あの中には〈般若面〉が入っているのに、手を伸ばすことすらできない。
「助けてお姉ちゃん!」
 声は虚しく公園に置き去りにされ、紅葉は公衆トイレの中へ連れ込まれてしまった。
 鼻を衝くアンモニア臭。
 壁を這っていたゴキブリが急いでどこかに隠れた。
 男性トイレの中に入ったのははじめてだった。こんな場所に連れ込まれるなんて思ってみなかった。紅葉は涙ぐみそうになったのを必死で堪えた。
 引きずられるまま小さな抵抗しかできず、紅葉は個室の中に連れ込まれてしまった。
 ドアが強く締められ鍵が掛かる音がすると、男は紅葉を壁に押し付けてはじめて正面で向かい合った。
 帽子を目深に被り、口には白いマスクをしていた。
 Tシャツ姿で華奢身体つきをしているが、紅葉を拘束していたときの力は見た目に反していた。もしかしたら憑依者かもしれない。
 なにかに憑依された平凡な主婦が連続殺人鬼なることもある。
 男の手が紅葉の胸にじわじわと伸びる。
「いやッ、触らないで!」
 このまま気を失ってしまいそうだった。
 男とこんな狭い場所にいるなんて耐えられないことだった。
 さっき抱きしめられたときに、すでに躰には発疹が出てしまった。
 息もままならず、パニックで過呼吸になる寸前だ。
「お願い止めて!」
 大粒の涙を流す紅葉の眼が見開かれた。
 胸を服の上から揉まれる不快な感触が背筋まで凍らせる。
 スカートを捲し上げられ、男の指先が紅葉の内腿を刺激した。
「お願い……やめて……」
「てめぇの中にいっぱい出してやるぜ」
 マスクの下の口は下卑た笑いを浮かべているに違いない。
 呼吸を荒くした紅葉の足先や手先が痺れを帯びてきた。ここまま世界が白くなって気を失いそうだ。
 紅葉は男の手が太腿から上を目指しているのに気づき、その手を掴んで必死に押し放そうとした。が、その手を逆に掴まれ、押し返そうとしていた力が勢い余って、紅葉の手は硬いなにかに触れてしまった。
「どうだ、これがおまえの中に入るんだぜ」
 男のズボンの下でそそり立つモノを紅葉は触らされていたのだ。
「イヤーーーッ!!」
 その絶叫は公衆トイレの外まで木霊し、公園の中を歩いていた少女の耳にも届いた。
 公園の中心で足を止めたのはアリスだった。
「今の声……紅葉様?」
 アリスは呟きながら公衆トイレへ向かって歩いていたとき、電脳に通信が入った。
《……アリス……すぐに……僕のところへ……》
 尋常ではない咳き込む音が聴こえアリスは慌てた。
《愁斗様!》
 返事はなかった。
《愁斗様!》
 やはり返事はなかった。
 主人が危機に陥っていることを知り、アリスは踵を返して愁斗の元へ急いだ。
 アリスは紅葉を見捨てたのだ。
 そして、アリスは見捨てた相手に向かって呟く。
「……死ねばいいのに」


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