第14回 炎術士
 アリスに死を願われたとも知らずに紅葉は生きたいと願っていた。
 犯されて殺されるなんて屈辱だった。
 犯されるよりも死を選びたかったが、〝姉〟を残して死ぬわけにはいかない。二人で復讐を誓ったのだ。地を這ってでも生き抜いてみせる。
 紅葉は渾身の力を込めて男の股間から手を放そうとした。
「わたしはあなたのモノになんてならない!」
「オレに犯されそうになって鼻息を荒くしてるクセに」
「違う!」
 男性恐怖症の紅葉は失神寸前だった。それでも呼吸を整えながら、意識を持ちこたえさせているのだ。ここで失神したら確実に犯されてしまう。
 足の感覚がなくなりつつあるのを紅葉は感じていた。このままでは立っていることすらできなくなってしまう。
 意を決して紅葉は男に体当たりをした。
 男はドアに激突して一瞬だけ握っていた紅葉の手から力が抜けた。
 続けざまに紅葉は蹴りを繰り出し、男の腹を靴の裏が抉ってドアごと吹っ飛ばした。
 背中から倒れた男の上を飛び越えて紅葉は逃げ出そうとした。
 一刻も早く〈般若面〉の元に行かなくてはならない。
 しかし、焦りに拍車をかけるように紅葉の足首が掴まれ、紅葉は床に手をついて転倒してしまった。
 汚いタイル床に横顔が付きそうになってしまった。
 すぐに紅葉が後ろに目をやると、倒れたままの男が紅葉の足首を掴んで、自分の元へ手繰り寄せようとしていた。
 咄嗟に紅葉は男の頭頂部に蹴りを喰らわせ、相手が怯んで足首を放した瞬間に立ち上がって逃げた。
 公衆トイレを脱出した紅葉は地面の落ちていた鞄を拾い上げ、中から〈般若面〉を取り出して顔に被せた。
 すると〈般若面〉は顔の皮膚と融合し、眠りから〝姉〟が覚醒た。
「殺してやる、殺してやる、出てきやがれクソ野郎!」
 全身から狂気を漲らせながら呉葉は憤怒した。
 妹の悲痛な叫びは姉の耳にも届いていた。目で見えなくとも、呉葉は妹のされていたことを感じていた。
 黒い雲によって月は隠され、帽子を被り直しながら出て来る男の背後で、蛾の舞う公衆トイレだけが光を放っていた。
 〈般若面〉がさらに恐ろしい形相に変化した。この面は生きているのだ。すでに面は顔の一部として融合していた。
 男は〈般若面〉を見ておどけ笑った。
「そんな怖い顔してどうしたんだ?」
「貴様を嬲り殺してやる!」
「声までまるで別人だな」
「紅葉に危害を加える野郎は血祭りに上げてやる」
「オレはおまえを犯し殺す。ただ、その仮面は邪魔だな」
「特に女を強姦しようとするような野郎は性器を引き千切って、ケツの穴に突っ込んでやる!」
 汚い言葉を吐く呉葉は相手を苦しませて殺すことを執念していた。
 呉葉は持っていた鞄の中から刃がケースに入った裁ち鋏を取り出した。
 まるで鞘から刀を抜くように、呉葉の眼前で鋏は抜かれた。
 鋏の刃は両刃だった。つまり、通常の鋏とは異なり、外側にも刃がついていたのだ。まさにこれは武器だ。人を傷つけるために刃がついている。
 裁ち鋏を構えた呉葉を前に、目深に被った帽子の奥で男は眼を輝かせた。
「いいもん持ってるじゃねぇか、オレの母親そっくりだぜ」
「貴様のような外道を生んだ女と一緒にするな」
「そうだな、おまえの方がイイ女だもんな」
「良い女か……まずはその目玉を抉り出してやる!」
 〈般若面〉の口が裂け、鋭い牙を覗かせながら呉葉は男に襲い掛かった。
 びゅんと風が鳴った。
 飛び退いた男の首を後一歩で逃した。
 再び裁ち鋏を小太刀のように構えて殴るように斬る。
 びゅんと、今度は男の胸元を斬り、Tシャツに横へ斬撃が残った。
「痛ぇッ……少しヒリッとしたぜ」
「次はザクッとやってやる!」
「やれるもんならやってみな鬼婆ァ!」
「その舌も引っこ抜いてやる!」
 呉葉は手よりもリーチの長い回し蹴りを放つが、それもいとも簡単に躱わされてしまった。
「うへへッ、パンツ丸見えだったぜ」
「うるさい外道!」
 速攻で地面を蹴って間合いを詰めた呉葉の鋏が肉にめり込んだ。
 男の首が血を拭き、〈般若面〉が憤怒に染まる。
「うごっ、うぎゃがぁ……」
 血の噴き出る首を必死に押さえて男は地面の上で七転八倒する。
 蒼白い死相が男の顔に浮かび、男が地獄へ連れて行かれるのは時間の問題かと思われた。
 しかし、変異が起きた。
 男の筋肉が空気を入れたように膨らみ、ダボダボだったTシャツが限界まで伸ばされた。
「オレはまだまだ死なないぜ!」
 辺りには邪気が満ちていた。
 怨霊が集まってきているような寒気が肌を刺す。
 男は立ち上がった。
 血を吸ったTシャツはどす黒く、マスクや顎にもべっとりと紅い血が付いていた。
 呉葉は目の前の男が真の化け物であることを知った。
「すでに人に非ずか……」
 斬ったはずの首はすでに塞がり、山のようになった傷痕を残している。治癒力も人を凌駕しているのだ。
「うぉぉぉぉっ!」
 男は咆えた。
「力が漲ってきたらやりたくてやりたくて我慢できないぜ!」
 男は腰を振って呉葉を挑発した。
「そんなにやりたきゃ自分で咥えやがれ!」
 こちらも負けじと挑発した。
 互いに狂気に満ち溢れ男と呉葉は対峙した。
 妖気と鬼気が混ざることなく渦巻き、殺気が空気を氷結させる。
 先に仕掛けたのは呉葉だった。
 裁ち鋏をフックパンチのように大きく振る。
 太くなった男の腕を伸びる。
 裁ち鋏を持った呉葉の手首が強く握られ、思わず呉葉は裁ち鋏を地面に落としてしまった。
 地面に刃先を突き立てた裁ち鋏を男は遠くへ蹴り飛ばした。
 草むらに消えた裁ち鋏。
 呉葉は手首を捻られたままだ。
 捻られている方向とは逆に回転しながら呉葉は回し蹴りを男の側頭部にヒットさせた。
 蹴りを喰らった男は揺らがない。それどころかすぐに反撃をしてきた。
 呉葉の躰はいとも簡単に空中で振り回され、ハンマー投げのように遠くへ飛ばされてしまった。
「くッ……」
 地面に四つん這いになって呉葉は男を睨んだ。
 ――こんなところで負けられない。
「殺してやる!」
 狂い叫んで立ち上がった呉葉は両手を胸の前に突き出した。
「紅葉が怖がるから封印していたけれど、貴様はこれで殺してやる!」
「来いよ、やれよ!」
 男は両手を大きく広げて呉葉を挑発する。呉葉にとって的が大きくなったのは好都合だった。
「紅葉の顔を焼いた忌々しいこの炎で貴様も焼いてやるわ!」
 突き出された呉葉の両手が燃え上がり、渦巻く紅蓮の業火が男に襲い掛かった。
 男は両手を広げて動かなかった――否、動けなかった。
 呉葉のまさかの攻撃に度肝を抜かれ、逃げることすらできずに男は地獄の業火に呑み込まれた。
「ギャァァァァァァッ!」
 甲高い女のような悲鳴を上げて、火達磨になった男は地面の上を転がりまわった。
 それを見下す呉葉が笑う。
「苦しめ、もっと苦しめ、キャハハハハハハハ……」
 炎の光を浴びた〈般若面〉が醜悪な笑みを浮かべていた。
 刹那、炎の中から真っ赤に焼けた腕を伸びた。
 呉葉は側頭部にハンマーで殴られたような衝撃を受け、地面に腹ばいになって倒された。
 倒れながら顔を上げたその先を男が背を向けて逃げていく。
「逃がさないわよ!」
 呉葉はすぐに立ち上がって住宅街に逃げ込んだ男が探した。
 夜闇は濃い。
 焼けた肉の臭いは途切れ、呉葉は男を完全に見失ってしまったのだった。


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