第16回 歪む肉欲
 カミハラ区某所の安ホテル。
 カーテンは硬く閉められ、部屋の電気は全て消されていた。
 それでも微かにカーテンを通して月明かりが窓辺に差し込んでいる。
 カーテンに背を向けて椅子かなにか座っている人影が見える。大まかな輪郭だけで、性別すら判別できないが、もしかしたら帽子のようなものを被っているかもしれない。
 カーテン越しの微かな月明かりすら届かない部屋の隅で物音がしている。何者かがぶつぶつと呟いている囁きのようだ。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
 脅えるように震える声。それは雅の声だった。どうやら部屋の隅にいるのは雅らしい。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……もう自宅にも帰れない」
 自宅に乗り込んできた謎の少女。あの少女が何者だったかはわからないが、もうあの場所には戻ることはできない。
「お兄ちゃんのせいだよ!」
 雅は叫んだ。
 低い笑い声が闇に響き渡った。
「オレはオレのやりたいことやってるだけだ。次は確実にあいつをオレのもんにするぜ」
 お兄ちゃんの声に続いて、第三の声が聴こえる。
「あんたね、次こそは確実ですって? 首を切られて全身丸焼けにされて尻尾を巻いて逃げてきたのによく言うわよ!」
 それはお母さんの声だった。
 〈般若面〉を装着した紅葉――呉葉に殺されかけ、死に物狂いでこの安ホテルに逃げてきた。
 しかし、お兄ちゃんは心を燃え上がらせて興奮していた。
「オレはな気づいたんだ。強い女ほど屈服させ甲斐があるってな。ますますオレは紅葉って女が気にったぜ」
「駄目、お兄ちゃん! もうよして、どこかに逃げよ――昔のように」
 訴える雅にお兄ちゃんはため息を漏らした。
「オレは逃げることに疲れたんだ。この街以外にどこに逃げるんだよ。また外へ行くのか? ここはオレたちの楽園じゃねえかよ、帝都エデン――最高の街だぜ。オレはこの街を出る気はねえ」
 その言葉の意味は、まだこの街で女を殺し続けるという意味だった。そして、次のターゲットは変わらない。
「早く紅葉とやりてぇな」
 お兄ちゃんの頭の中には紅葉のことしかない。もう雅にそれを止めることはできない。
 今までだってずっと犯行を黙認してきた。そして、ついに紅葉を誘き寄せるために犯行に加担してしまった。
 紅葉は雅に裏切られたことを気づいているだろうか?
 善意を利用して悪意のために誘い出された。
 雅は朱美たちにからまれたときのことを思い出した。周りの人々が見てみぬ振りをして通り過ぎていく中、紅葉が助けに入ってくれた。そういえば、洗って返すと言ったハンカチをまだ返さずに持っている。
 ハンカチは洗ってアイロンをかけたが、返す機会がなくて、自宅に置いてきてしまった。もう自宅に戻ることも、紅葉と顔を合わせることもないだろう。
 雅の心を覗いたようにお兄ちゃんが言う。
「おまえにはオレと母さんしかいないんだ。他は全部他人だ。三人きりで生きてるんだよ」
 常に雅の背後に聳えるお兄ちゃんとお母さんの影。二人がいなければ自分は生きていけないと雅もわかっている。
 しかし――。
「雨宮さんにはもう手を出さないで」
 ――家族以外ではじめて自分を守ってくれた人かもしれない。だから雅はどうしても紅葉がお兄ちゃんの手にかかるのを見ていられなかった。
「お願い、お兄ちゃん」
「駄目だ。お前がそう言えば言うほど、オレは紅葉って奴を犯し殺したくなる。お前が気にかけるから悪いんだぞ。雅、お前はオレのもんなんだ。オレ以外の奴を好きになったりするのは許せねえ」
「好きとか、そういうのじゃなくて……」
「絶対オレは紅葉を犯し殺してやる!」
 ずっと黙っていた母が口を開く。
「あんたじゃ無理よ。さっきも言ったけど、あんた尻尾巻いて逃げたのよ」
 雅はお兄ちゃんに反抗できないが、このお母さんだけがお兄ちゃんに悪態をつける。唯一お兄ちゃんを止めることができるかもしれない。
「逃げたんじゃねえよ、様子見だ!」
「相変わらずの減らず口ね。あんた昔から嘘や言い訳は得意だものね」
「クソ婆!」
「クソ婆の息子はなんなのよ!」
「うるせえ!」
「わかったわ、やればいいじゃない。失敗したら貶してやる!」
「……クソッ、見てろよ」
 お兄ちゃんの憎悪が自分に向けられていることに雅は気づき、その先を想像して躰を火照らせた。いつものように、雅はお兄ちゃんの玩具になる。
「だめぇん、お兄ちゃん!」
 すでに雅は鼻先で喘いでしまっていた。


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