第27回 影の操り士
 愁斗は病院を抜け出しミナト区にある〈ホーム〉に辿り着いていた。
 しかし、愁斗はつかさが捕らえられている廃ビルには直接向かわなかった。
 なぜならば、紅い影を魅てしまったからだ。
 紅いインバネスを風に靡かせながら、その男はフェンスのない屋上の端に立っていた。
「あなたがなぜここにいる?」
 白い仮面の奥で愁斗は紅い影に問うた。
 答えは妖艶な風と共に返って来た。
「探し物を追って来た」
 愁斗の顔を見据える蘭魔の瞳は黒く輝き、優しくも妖しい笑みを湛えていた。
 屋上を囲っていた段差から蘭魔は一歩降りた。
「改めて久しぶりと言わねばならんな」
「紫苑を通して見たときよりも、恐ろしいヒトだ」
 蘭魔の纏う魔気は愁斗の力を圧倒している。
 一歩一歩と近づいて来る蘭魔に愁斗は動くこともできなかった。
「その仮面を外してくれないか、成長した息子の顔を見てみたい」
 言われるままに愁斗は茶色いローブのフードを取り、無機質な白い仮面をゆっくりと外した。
 現れた愁斗の瞳は逸らされることなく、しかと蘭魔の瞳を見据えていた。
 十数年ぶりに息子の顔を見た蘭魔は父親の顔で微笑んだ。
「昔から妻に似ていたが、より妻の相が強くなったな。目の辺りなど紫苑にそっくりだ」
「あなたは母さんのことを愛していたか?」
「もちろんだ、でなければあのような大事件を起こしてまで駆け落ちなどせんよ」
「でもあなたは母さんの傀儡を壊した」
「あれは顔もない廃品だった」
「僕まで殺そうとした」
「しかし、お前はこうしてここに立っている」
「……それはあなたが手加減したからだ」
 魔導医マルバスの〈虫籠〉で蘭魔によって紫苑が破壊されたとき、愁斗と紫苑のシンクロ率は八〇パーセントを越えていた。蘭魔が手を抜いて紫苑が壊れる数秒のときを与えなければ、愁斗は確実に離脱できないまま死んでいた。
 愁斗は蘭魔の腕に目をやった。
「腕はもう治ったのか?」
「そうだ、直した」
 紫苑が壊されたとき、愁斗は蘭魔の片腕を落として一矢を報いた――はずだった。その腕が元通りに戻っているのだ。最先端の医療を持ってすれば可能ではあるが、愁斗にはひとつ気になることがあった。
 蘭魔の腕を切り落としたとき、その傷口から闇色の液体が零れ落ちるのを見たのだ。
「あなたは本物の秋葉蘭魔か?」
「なにを言うのだ?」
「僕はあなたの切断された腕から〈闇〉が零れ落ちるのを見た。あなたは傀儡だな?」
 秋葉蘭魔の考案した傀儡の製造には、その原材料として〈闇〉を必要とする。紫苑が蘭魔に壊され〈暴走〉した際も、中の〈闇〉が外に放出されてしまった結果だ。
 蘭魔は妖しく艶然とした。
「はて、私の切断された腕から〈闇〉が出たと、なにかの見間違えではないのか?」
「それなら、ここでまたあなたを切る」
「それは無理だ。お前の躰の中はボロボロに傷付いている。虫の息のお前は私の足元にも及ばんよ」
 やらねばわからないとは言えなかった。そのくらいのこと愁斗にもわかっている。前回全力で戦ったときにも勝てなかった相手だ。
 それに今の愁斗は生身。
 紫苑は増幅器の役割もしており、紫苑を使うことにより、愁斗は実力以上の力を出すことができるのだ。
 愁斗は身構えた。
 しかし、蘭魔はただそこに立つのみ。
「私に牙を向けるのではなく、共に歩む気はないか?」
「ない」
「即答か……お前に面作り師の話をどこまでしたか……。私がここに来た理由も、その面作り師――源幻刀斎の彫り上げた面の行方を追ってきたからだ」
 愁斗は表情には出さなかったが、その話を聞いて内心では焦りを拭っていた。蘭魔が姉妹を追ってきたという可能性も考慮に入れていたのだ。けれど、蘭魔は姉妹ではなく、仮面を探してここに来た。
 蘭魔は愁斗に背を向けて、遠くのビルを眺めた。
「私は思うのだ。幻刀斎の面を探すうちに、いつか運命があの姉妹に引き合わせてくれるのではないかと――いや、すでに私は逢ったかもしれん」
 蘭魔は〈般若面〉を被った呉葉に逢っていた。けれど、そのときは目の前の面だけを回収し、逃げる呉葉を敢て追うことをしなかった。
 焦りを覚える愁斗であったが、自分の知りえる情報を悟られるわけにはいかなかった。愁斗はすでに紅葉と呉葉が源幻刀斎の娘だということを知っている。もし、蘭魔が姉妹のことに気づけば、執拗に姉妹を付け狙うことは必定。
「僕には面作り師のことなんてどうでもいい話だ。僕はここであなたを倒す、ただそれだけ……」
 愁斗の手から妖糸が放たれた。
 が、ほぼ同時に蘭魔は三本の妖糸を放っていた。
「業に切れがないぞ」
 愁斗の放った妖糸は三本の妖糸によって虚しく空中で切られた。
 このあと何度、同じことを繰り返しても、すべて相殺させるのは目に見えている。
 それでも愁斗はやらねばならなかった。
 愁斗の手が素早く動き、空間に傷をつくった。その傷は空気を吸い込みながら徐々に広がり、闇色の裂け目となって蘭魔の前に広がった。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。常人であれば耳を塞がずにはいられない。
 愁斗が〈闇〉に命ずる。
「行け!」
 闇色の裂け目から飛び出した〈闇〉は蘭魔の躰を捕まえるはずであった。
 しかし、蘭魔は命じた。
「己の世界に還れ!」
 〈闇〉は魔性を纏う蘭魔に恐れをなして裂け目に還っていく。
「〈闇〉を恐れてはならぬ。より強い者に〈闇〉は従う。絶対的に屈服させるのだ」
 厳しい口調で蘭魔は言った。
 愁斗は敗北を痛感した。負けるとわかっていながら、さらに負けた。
 虚脱感に苛まれながら立ち尽くす愁斗を尻目に、蘭魔は自ら空間の裂け目に足を踏み入れていく。〈闇〉が還っていった世界だ。
「次に会うときまでに業を磨いて置け。さらばだ我が息子よ」
 蘭魔を受け入れた闇色の裂け目は硬く閉じられた。
 闇色の裂け目の先にどんな世界があるのか愁斗も知らない。あの場所は敵を葬る場所であった。二度と出て来られない場所のはずだった。そこへ蘭魔は自ら消えた。
「あなたは僕の知っている父ではない。あなたは魔人と化した」
 愁斗はフードを被り、白い仮面で顔を隠した。
 こんな場所で立ち止まっている場合ではなかった。
 まだ先に行かねばならない。


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