第28回 マスク
 二階へ上がった紅葉はそこですぐに二人の人影を見つけた。
 ひとりは胸から血を流して倒れていた。紅葉にとって見覚えのない女性で、駆け寄って息を確かめたが、死んでいた。
 もうひとりは壁にもたれ掛かって目を閉じているつかさだった。
「つかさ!」
 躰を縛られ、ぐったりと死んだように動かない。
 首元を触って脈を確かめると、血液が流れているように感じた。けれど、躰がいつもよりも冷たい。まるで死人のようだ。
 つかさの生命の危険を感じた紅葉は、手に持っていた裁ち鋏と〈般若面〉を置いて、すぐさまつかさの躰を縛っている包帯を取ろうとした。
 まずは口に噛まされている包帯を取ろうとしているとき、どこかから人の気配を感じて紅葉は振り向いた。
 太いコンクリの柱の影から姿を現したのは〝早苗〟だった。
 紅葉はそれが誰だか知らなかったが、すぐそこで死んでいる人物と似ていることはすぐにわかった。
「どうして……死んでいるのは……あなたは誰?」
 紅葉はわけがわからなかったが、ある考えが思いついた。
「もしかして雅のお母さん?」
「そう、あたしは雅の〝お母さん〟よ」
「でも、そこで死んでいるのは……誰?」
「そいつはあたしの偽者。だから殺してやったの」
 なにが真実か、今の紅葉にはそれを知るための情報が少なすぎた。
 紅葉はそっと地面に置いてあった〈般若面〉に手を伸ばした。流れ込んでくる〝姉〟の意識が紅葉に語りかける。
《紅葉油断しないで、嫌な気配が立ち込めているわ》
「わかってる」
 紅葉は小声で応じた。
 もう片方の紅葉の手は裁ち鋏に伸びている。
 つかさが気を失ってくれているのは幸運だったと紅葉は思った。戦う姿、特に〈般若面〉を付けて戦う姿は見られたくなかった。
 〝早苗〟は手にナイフを握り締めながら、少しずつだが紅葉との距離を縮めていた。
「あんた綺麗な顔してるじゃないか、その顔が欲しいわ!」
 地面を蹴り上げて〝早苗〟がついに牙を剥いた。
 すぐさま紅葉は〈般若面〉を被り迎え撃つ。
 ナイフと裁ち鋏が重なり合い小さく火花が散った。
 呉葉は軽く飛び退いてしゃがみ、そこから廻し蹴りで〝早苗〟の軸足を払った。
 バランス崩した〝早苗〟は転倒し、持っていたナイフを呉葉に蹴り飛ばされてしまった。
 両手を付いて立ち上がろうとする〝早苗〟の背中を呉葉が踏み潰した。
「ぐうッ!」
 嗚咽を漏らしたような音を立てて、〝早苗〟は潰れた蛙のように地面にへばった。
 呉葉は〝早苗〟の背中を踏み台にしたまま訊く。
「貴様が近藤香織と猪原由佳、そして武田朱美を殺したのか?」
「近藤香織を殺したのはクソ息子のタケルだよ。武田朱美を殺したときは近くにいたけど、殺したのはクソ息子で、あたしはその彼氏を喰らってやったのさ」
 〝早苗〟を踏みつける呉葉の足に力が入った。
「他にも殺しただろう?」
「何人殺したかなんて覚えてないね」
「男だけじゃない、この世の中は女も信じられない……この外道がッ!」
 再び呉葉は〝早苗〟の背中を足蹴りした。
 地面に叩きつけられた〝早苗〟から力が抜けた。ぐったりとして動かない様子を見ると、気を失ってしまったのかもしれない。
 ゆっくりと確かめるように、呉葉は〝早苗〟の背中から足を退かしたとき、変異は起きた。
 突如として〝早苗〟の躰が短く痙攣し、筋肉が膨張するように脈打った。
「まさか!」
 呉葉の足首が巨大な手で掴まれ、そのまま横振りに投げられてしまった。
 思わぬことに呉葉は両手両足で地面に着地し、そのままの態勢でなにが起きたのか見定めたのだった。
 立ち上がった〝早苗〟は咆えた。
 ――否。すでにそれは〝早苗〟ではなかった。
 その者の筋肉は膨張し、着ていた上着を筋肉が引き千切り、躰は一回りも二回りも巨大化していく。それに合わせ、顔はマスクが伸びるように変形した。
「今日こそ犯し殺してやるぜ!」
 野太く雄々しい男の声。
 呉葉は勘付いた。
「まさか、雅の兄かッ!」
「そうだ、俺様は雅の〝お兄ちゃん〟だ」
 なんと〝早苗〟だと思っていた者が雅の〝お兄ちゃん〟だったのだ。
 大男の怪人と化した〝お兄ちゃん〟は伸びたマスクをさらに歪ませ、醜悪で下卑た笑いを浮かべた。
「ククク……今脱がせてやるぜ」
「貴様のようなゲス野郎はテメェのアレでもしゃぶってな。なんならアタシが引き千切って貴様の口に突っ込んでやろうか!」
 呉葉の視線は地面に落ちている裁ち鋏に向けられた。先ほど投げられたときに落としてしまったものだ。
 巨躯を揺らして〝お兄ちゃん〟が突進して来ると同時に、呉葉は裁ち鋏に向かって飛び込んだ。
 地面を転がりながら拾い上げた裁ち鋏を構える呉葉に巨大な影は覆いかぶさる。
 裁ち鋏が太い胸板を突き刺した。
「くたばりな!」
 呉葉の怒号は切っ先に込められ、それが抜かれると同時に艶やかな紅が〈般若面〉を彩った。まるでそれは〈般若面〉が人の生き血を啜ったようであった。
 しかし、噴き出た血もすぐに治まり、胸板の刺し傷は呉葉の見尽くす前で塞がり、傷痕も残さず完治してしまった。
「オレは無敵だ!」
 〝お兄ちゃん〟の裏拳が繰り出され、拳をもろに顔面に当てられた呉葉はボーリングのピンのように飛ばされてしまった。
 地面に手を付いてゆっくりと立ち上がった〈般若面〉の口から鮮血が流れ出る。
「よくも妹の躰に傷を付いてくれたな……殺してやる……殺してやる!」
 呉葉は裁ち鋏を構え直し、〈般若面〉の形相はより濃い憤怒の相を浮かべた。
「そして、アタシの顔を殴った貴様の手の指を一本一本へし折ってから切り落としてやる!」
 躰の中で煮え滾る復讐の血潮が激しく流れれば流れるほど、呉葉は強くなる。
 疾風のごとく呉葉は地面を駆け、裁ち鋏を華麗に操った。
 〝お兄ちゃん〟の腕が血を噴き、刹那、胸が血を噴き、首が血を噴き、顎から額に向かって紅い線が走った。
 顔面を縦に割られながら〝お兄ちゃん〟は平然と笑っていた。
「オレは無敵だ。前よりも力が漲ってくるぜ」
 当然のごとく〝お兄ちゃん〟が斬られた傷は再生してしまった。
 いくら斬っても切りがないと呉葉は悟って、間合いを取りながら〝お兄ちゃん〟の周りを回る。
 裁ち鋏を握る手に汗が滲んでいた。
 切り刻んでも再生するのならば、別の方法を考えるしかない。手は残っているが、紅葉の躰への負荷が心配だった。蓄積された疲労で呉葉はすでに脚に違和感があった。
 呉葉は裁ち鋏を投げ捨てた。
 それを見て〝お兄ちゃん〟が剥がれかかっているマスクを歪めて笑った。
「やっと観念してオレにヤられる気になったか?」
「違う。灰になるまで焼き殺してやる」
 呉葉の手に集中される氣。
 炎を扱うこと、それはもっとも紅葉の躰に疲労を与える技だった。
 だが――。
「悶え苦しんで死ね!」
 呉葉の両手から放たれる炎翔破!
 地獄の業火に〝お兄ちゃん〟は自ら飛び込んだ。
「オレは死なない!」
 炎に巨躯のシルエットが浮かび、絶叫にも似た雄たけびがあがった。
「ウォォォォォォォォッオレは無敵だ!」
 紅蓮に燃え盛る炎の中から火達磨になった巨躯が飛び出し、呉葉に向かって突進してきた。
 相手の妄執に呉葉はその場を動けず、避けなくてはと思ったときには遅かった。
 炎に包まれた手が〈般若面〉を鷲掴みにしようとしていた。
 刹那、魔気と共に輝線が走り、炎に包まれた太い腕が地に落ちた。
 そして、炎に包まれた巨躯は最後の力が尽きたように地面に倒れた。
 呉葉――紅葉自身の体力も限界だった。
 ゆらゆらと足をふらつかせながら呉葉は壁にもたれ掛かった。
 肉の焼ける臭いが辺りに漂い、呉葉の瞳に映る床に転がる黒焦げの巨躯と、無表情の白い仮面。
「紫苑か……またアタシたちは助けられた……いや、前に会ったときと雰囲気が違う」
「紫苑だ。無駄な詮索はするな。私が紫苑であることには変わりはない」
「……そうか」
 そう言って呉葉は〈般若面〉を外そうとした。
 だが、白い仮面は告げた。
「まだだ」


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