第19話_終焉の魔王
 アグリッパの腹の内側から指が十本突き出て、内にいるなにかが腹をこじ開けて出てこようとしていた。
 それがなにかいち早く気づいたハルカが叫ぶ。
「クロウリー!」
 ルーファスは恐怖し、カーシャは驚愕した。
 アグリッパの腹が割かれ、中々ら人の両足が出て、胴が出て、最後に腹から出てきたというにまったく穢れていない美しい顔が出た。
 まさしくそれは魔人クロウリー。
「嬉しいぞハルカ。私のことをいち早く気づいてくれて礼を言おう」
 死んだと思っていた者の出現により、戦いの焦点がすべてクロウリーに向けられてしまった。
 険しい表情でカーシャがクロウリーを見据える。
「生き返ったのか、それとも不死身か?」
「私は最初から死んではおらんよ。君たちが戦ったのは私の影だ、本物はこの私。今ここにいたアグリッパも同じ方法でつくったのだよ」
 まさにそれは人の創造。ホムンクルスは入れ物でしかないのに対して、たしかに〝あのクロウリー〟は本物だった。
 不思議な顔や、腑に落ちないといった顔でクロウリーは見られ、彼は艶やかに微笑した。
「姿かたち、記憶までも同じダミーを私は造ることができる。姿も記憶も本体と同じならば、なにをもって偽者とするかは難しい問題だが、自己の存在を証明するのは他であり、他があっての自分。光があっての闇と同じことで、君たちが倒したのは私に対しての影だ」
 観念的なことが混じっていて、なかなか意味を理解するのが難解だ。
 ハルカには意味がさっぱりだったが、これだけはすぐにわかった。まだ自分が狙われている。妖しい視線をハルカに送るクロウリーの眼を見れば察することができた。
 守るようにルーファスがハルカの前に立った。
「まだハルカのこと狙ってるの?(そうでなきゃ、こんなとこまで来るはずない)」
「もちろんだとも、ハルカは魔王となり、私に大いなる力を与えてくれる。ルーファス君には、ハルカの力が視えないのかな?」
「ハルカは私たちとは違う世界からきたかもしれないけど、普通の女の子だよ!(今は猫だけど)」
「すぐに私の言っていることを理解できる時が来る」
 続けてカーシャがクロウリーに質問を投げかける。
「なぜアグリッパの姿をしていたのだ?(クロウリーほどの力があれな、隠れて不意をつく必要もない)」
「それは私がカーシャ君に興味を持ったからだ」
「妾のことと、おまえがアグリッパに化けていたことになんの関係があるのだ?」
「私の造ったアグリッパは君の過去を知る重要な人物だ。君が何者であるか、君が潜伏していそうな場所はどこか。私は彼の中に溶け込み、彼の記憶を読み取った。記憶を読み取ったあと、私が彼の中から再構築して出るには、腹を破るしかなかっただけのこと」
 クロウリーがアグリッパの腹から出てきた理由は、今の姿かたちとは異なる物質になっていたからだ。クロウリーのすぐ近くにアグリッパが倒れているが、その身体は日干しされたみたいに小さく干からびている。クロウリーが元の身体に戻るためにエネルギーを吸われたためだ。
 風もないのにクロウリーのマントが揺らめいた。
「さて、質問がないのならば、ハルカを渡してもらおう」
「ルーファス避けろ!」
 叫んだのはカーシャだった。
 暗黒の炎が渦を巻きながらルーファスに喰らいかかった。
 不意を衝かれたルーファスは動くことを忘れ、眼前に迫った炎を瞳が映し出し、真っ赤に瞳が色づいた。
 ルーファスが炎の直撃を食らう瞬間、その眼前に白い影が立ちはだかり、ルーファスは押し飛ばされてしまった。
 すぐ近くにいたハルカは一部始終を見ていた。
 クロウリーの放った炎の直撃を喰らいそうになったルーファスを、カーシャが庇ったのだ。
 まさかカーシャが人を庇うとは誰も思ってなかったかもしれない。それは相手がルーファスだったからかもしれない。
 苦痛を顔に刻むカーシャ。背中の服は燃え焼け焦げ、大きく素肌を露出されてしまっている。そこに浮かぶ大きなケロイド状の痕が生々しい。
 カーシャの火傷の痕を見たハルカが叫ぶ。
「カーシャ大丈夫っ!(酷い、見てるだけで胸が苦しくなっちゃう)」
「ふふっ、案ずるな。それは古傷だ(見られたくない傷を見られてしまったな)」
 カーシャが身を挺してルーファスを庇ったのは、クロウリーにとっても予想外であった。
「動けずに直撃か、それともハルカを庇うか、どちらにしてもルーファス君に当たると踏んでいたのだがな。とても興味深く面白いものを見せてもらった」
「では妾がもっと面白いものを見せてやろう」
 唇が淫らに妖しく微笑んだ。
 冷気を含んだ風が叫び声を上げ飛び交う。
 怨念か執念か、妄執か、風の声が呪いのように耳にこびりつく。耳を塞いでも悪寒が身体の芯を突かれてしまう。すべて魂に直接訴えかけていた。
 カーシャの身体に起こる変化。
 金髪が銀髪へ変わり、瞳は黒から深い蒼へ。
 紫色に変化した口元が言葉を紡ぎだす。
「妾の城へようこそ。この場所は妾にとってのパワースポット。最盛期とまでは行かぬが、今の妾は強いぞ?(きゃーカーシャさん素敵……ふふっ)」
 自信に満ちた不適な笑みを浮かべたカーシャ。しかし、拳は汗を握っていた。
 実力を計り知れない存在を前にしている。あのとき戦ったクロウリーは本気ではなかったとカーシャは確信していた。ならば、クロウリーの実力は?
 勝負は長くはならないだろう。
 カーシャは最初から全力で向かうつもりだった。これで仕留めることができなければ、カーシャが勝てる見込みはない。
 視認できるほどのマナフレアがカーシャの周りを浮遊していた。
「レイビーム!」
 真っ白なビーム光線がいくつもカーシャの身体から放射された。
 質量を持ったその光線は光速とはまではいかないが、決して人間が避けられるスピードではなかった。
 クロウリーの身体が霞み、その中を白い光線が抜ける。
 反動で霞が引き千切られ拡散して、クロウリーは姿を消した。
 すぐに気配はした。
 カーシャの真後ろだ。
「ヘルファイア!」
 地獄から呼び出された炎が、振り向きざまのカーシャの身を包み込んでしまった。
 炎の中でカーシャは冷ややかにクロウリーを見ていた。その口元が笑みを浮かべると、炎は掻き消され、水蒸気がカーシャを包み込んだ。
「この城の中にいる限り、妾は一切の攻撃を受けることがない(と強がってみたが、限界もある。おそらくクロウリーはそれを知っておるな……ふふっ笑えん)」
「それでは城ごと吹き飛ばすか、それともなければカーシャ君が身に着けているイヤリングを奪うかだな」
「チッ……気づきおったか(これが城からのマナを受け取る受信装置だと、いつ気づいたのだ?)」
「私の眼は全てを視ている。そのイヤリングにマナが集まっているのを視えないとでも思ったかね?」
「気づいたところで易々と奪わせぬわ。ホワイトブレス!」
 クロウリーの姿が猛吹雪の中に一瞬で消え、魔導を放ったカーシャの視界も遮られたが、吹雪の中からクロウリーの声がした。
「シャドービハインド!」
 たしかに吹雪の中からクロウリーの声はした。だが、カーシャが気配を感じたのは自分の真後ろだった。さっきも同じことがあった。
 それはいつかエセルドレーダが、対ローゼンクロイツ戦で用いた能力に似ていた。相手の影に潜み姿を見せる能力。
 カーシャの影から、飛び出たクロウリーが呪文を唱える。
「――イラ、魂をも凍りつけ、ホワイトフリージング!」
 至近距離でカーシャは避ける術がなかった。
 宙に発生した白い雪の塊が次々とカーシャに襲い掛かり、その身体を白く覆っていく。
 足が、手が、胴が、雪はカーシャの首から上を残し覆い隠し、まるで顔の小さな雪だるまのような姿になってしまった。
 雪など簡単に砕いて抜け出せると思ったカーシャだったが、いくら手足に力を込めても動かない。びくともしないのだ。
「動けん、なぜだ!」
「〈氷の魔女王〉と呼ばれた君が、雪だるまにされた気分はどうかね?」
「戯けが、すぐにこんなもの!」
 だが、身体は氷――いや、鉄の中に閉じ込められたように動けなかった。
 クロウリーの手がカーシャの耳元に伸び、蒼い光を放つ宝玉のついたイヤリングに触れた。
「これは私がもらっておこう」
 耳たぶが悲鳴をあげ、イヤリングはカーシャの耳たぶを割きながら奪われた。
 クロウリーは上を向いて大きな口を開けると、なんとその中に瞳の大きさもある宝玉のついたイヤリングを落としてしまったのだ。
 そして、喉を鳴らす音だけが響き渡った。
 見る見るうちにカーシャの髪色が金に戻っていく。
 黒瞳のカーシャはクロウリーを睨みつけたが、もうすでに彼女には戦う力は残っていなかった。大きな戦力が失われてしまったのだ。
「妾が雪だるまにされるなど、いい笑い話になるな。殺すならさっさと殺すがよい(勝ち目はない、玉座の後ろに身を潜めている二人にも期待はできん)」
「カーシャ君のことは嫌いではない。私たちは似たような境遇に持ち主だ。だから、殺しはせんよ」
 クロウリーの言葉に疑問を抱き、カーシャは話に関心を持った。
「妾とおまえが似ているだと?(どちらも美形……ふふっ)」
「人間でも神でもない中途半端な存在。カーシャ君の母は神々の母にして、氷の神ウラクァだと云うではないか。しかし、君は神ではない。それに劣等感を感じているのではないかね?」
「劣等感だと、妾が人間よりも優れた存在であることには変わりはないわ」
「そのプライドが君を世界征服への想いへと導いたわけだな」
 アステア王国ができるよりも遥か以前の出来事。
 このウーラティア地方を支配しようとしていた一人の魔女がいたと古い文献にはある。
 魔導の研究にも熱心で、研究のために学院を空けることの多いクロウリーは、その話について誰よりも詳しく知っていた。
「古の時代にこの地方は〈氷の魔女王〉――つまり君によって征服されかかったことがある。しかし、君は夢半ばで倒れた。そう伝承や古文書にはある。なぜ〈氷の魔女王〉がこの地方の征服に失敗したのか、それを語る物は現代には残っていない。ルーファス君たちは、なぜという理由に対して探究心が沸いてこないかね?」
 玉座の後ろに隠れていたルーファスとハルカは顔を向けられ、心臓が鷲掴みにされる思いだった。ルーファスの腕に抱かれたハルカは恐怖で震えてしまている。
 ただ息を呑み込み、震えるだけの二人を見て、クロウリーが話を続けた。
「私はなぜカーシャ君が征服に失敗してしまったか知っている」
「それ以上しゃべるなクロウリー! 殺してくれる!」
 怒りに露にしたカーシャが叫んだ。しかし、クロウリーは口を閉じない。
「カーシャ君は人間の部分が強かったと見える。アグリッパの記憶を読んだ私は、彼と君との間になにがあったのか知っている。それを知ったとき、私は君にかわいらしささえを覚えたものだ」
 爽やかな笑顔であるのに、クロウリーの内にあるものが違うという。狂いが感じられるのだ。
 自分の秘密を人に口にされることほど、カーシャにとって屈辱的なことはなかった。それなのに、身体の自由は奪われ報復もできない。怒りが腹の中で煮えくり返るだけだ。
「殺すぞクロウリー!(全ては若気の至りだ……ふふっ)」
「私はカーシャ君と同じミスはしない。私のハルカに対する愛はとても深く崇高なものだが、それによって失敗を犯すことは決してない。私はハルカを食べてしまいたいほど愛している。それが私の目的だ――シャドービハインド!」
 クロウリーの姿が瞬時にルーファスの背後に移動した。
 一〇メートル以上もの距離をどうやって移動したのか、ルーファスは眼も剥いて驚いた。
「なんで後ろに!?」
「この業を使える悪魔は数が限られている。非常に高度な業なのだが、私はそれを魔導化したのだよ。私がこの術を使えば、半径三〇メートル以内にある影の中に移動することができる」
「じゃあ私たちが走って逃げても、すぐに追いつかれるってことじゃないか(魔導は万能じゃないって講義で教わったのに、そんなの嘘じゃないか)」
「それがわかっているのならば、ハルカを寄こしたまえ」
 ルーファスの腕の中でハルカが震えていた。
「アタシやだし。アンタのところなんかいきたくない!」
「いくら嫌われようが、私はハルカを愛するよ」
「アンタから愛してるなんて言われたくない、うぇっ!」
「では言葉を変えよう、君のことが欲しい」
 妖しく笑うクロウリーの手がルーファスに抱かれたハルカに伸びる。
「ハルカ逃げて!」
 大声を上げたルーファスはハルカを投げ、すぐさま手にマナを集中させる。
「エナジーチェーン!」
 光の鎖が赤黒い魔導衣に巻かれていく。
 クロウリーの身体を魔導チェーンで簀巻きにして、ルーファスはすぐにハルカに目をやった。その場でハルカは動かずにいた。ハルカは逃げなかったのだ。
「ハルカは早く逃げて!」
「ルーファスのこと置いて逃げれないでしょ!」
「他に方法がないんだよ!」
「ヤダッ!」
「わがまま言わないで!」
「アタシわがままだし!」
 魔導チェーンが金切り声をあげた。
「覇ッ!」
 砕け散った魔導チェーンが輝く砂となって煌びやかに舞った。せっかくのルーファスの時間稼ぎも無駄になってしまったのだ。
 拘束から開放されたクロウリーのマントが激しく揺らめいた。赤黒いマントが壮絶な動きを魅せる。なんと、マントが生き物のように形を変え、赤と黒の触手となってハルカに魔の手を伸ばしたのだ。
 いつかカーシャが言っていた。
 ――肉体は人の肉にあらず、服もマナを具現化させたものに違いない。
 触手と化したマントはハルカの四つの足をつかみ、そのまま宙に持ち上げてしまった。
「放して!」
 叫ぶハルカであったが、触手は開けた口の中にまで入り言葉を封じた。
 息苦しいと感じたのもつかの間だった。体中が触手で覆われていく。もはや呑み込まれるのも時間の問題だ。
 ハルカを助けようとルーファスは魔導で触手を切ろうとしたが、それに勘付いたクロウリーに妨害されてしまった。
「エアボール!」
 クロウリーの手から放たれた空気の塊がルーファスの腹にめり込み、そのままルーファスの身体を後方に吹き飛ばしてしまった。
 くじけず立ち上がろうとしたルーファスの耳に、ハルカの叫び声が木霊したような気がした。口を塞がれているにもかかわらず、ルーファスの耳には自分に助けを求めるハルカの悲痛な叫びが聴こえたのだ。
 触手はハルカを呑み込み、次にクロウリーの身体を呑み込んでしまった。そう、それは昆虫の繭のようにクロウリーの身体を包み込んでいた。
 この場に新しい気配がした。
「……サイテー(ふぅ)」
 空色の影――ローゼンクロイツだった。
 中継映像が途切れたことに危険を感じ、すぐさまここに駆けつけたのだ。
「すごく嫌な予感がする(ふにふに)。ルーファス、ハルカのことはあきらめて、その繭を壊すよ(ふにふに)」
「ハルカのことをあきらめるだって!(なんてこというんだ!)」
 なにかとてつもない空気を、身動きを封じられているカーシャも感じていた。
「ルーファス壊せ、これは命令だ!(神が、邪神が生まれようとしている……マジ笑えん、ふっふふふ)」
「カーシャまでハルカを見捨てる気なの!(ハルカは僕らを置いて逃げなかったのに)」
 だが、ルーファスも狂気を感じていないわけではなかった。
 すぐそこにある繭に赤い血管のようなものが浮き、中でなにかが鼓動を打っている。
 ローゼンクロイツはすでにライラの詠唱をしていた。
「――そして、偉大なる大天使セーフィエルよ、御名において誓う。邪を砕く力を我に与えたまえ、汝の呪われた魂に救いあれ、昇華セイントクロス!」
 その一瞬、身体を十字したローゼクロイツの背中に輝く羽が生え、激しい閃光と共に彼の身体から十字の輝きが解き放たれた。
 繭は一瞬にして黄金に光に包まれ昇華はずだった。
 ローゼンクロイツは自分の目を疑った。
「……無傷(ふ、ふにゃ?!)」
 傷一つなかった繭に小さな亀裂が走った。
 ローゼンクロイツの攻撃が効いたのか?
 いや、違う。セイントクロスは物理的なダメージを与える魔導ではない。効果があれば、昇華されて消え去ってしまうはずだった。
 繭に入った亀裂が徐々に大きくなり、中から黒い瘴気が息をするように吐き出された。
 闇が世界に奔った。それは闇の閃光とでもいうのだろうか、刹那、世界は闇に包まれていた。
 時が蝕まれた。
 闇が明け、世界に色が戻ると、繭のあった場所に羽を生やした裸体の人影が立っていた。
 裸体には性器がなく、背中に生えたバタフライのような翼は、片方が蝙蝠のような悪魔の羽、もう片方は鳥のような天使の翼だ。
 光輪の王冠を頭に載せ、クロウリーよりも妖艶で中性的な顔を持った者は微笑した。
「我が名は〈666の獣〉」
 天が奏でる調べのように玲瓏とした声が響いた刹那、〈666の獣〉の腹に異変が起きたのだった。

 つづく


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