復讐の朱(1)
 蒼い月が世界を照らすその影で、黒土に滲み出す赤い血。
 水が湧くように地の底から朱が滲み出す。
 地の底でなにかが蠢いている。
 指が出た。
 土を握り締める拳は赤く染まっている。
 指先は血を滲み出しているだけではなく、指そのものが赤い。指には皮がなく、筋組織が剥き出しになっている。
 死者がまるで墓から這い出すように、それは暗い地の底から現世に蘇ったのだ。
 真っ赤なその肉体は、やはり皮がなく、人体模型のように内臓が覗いている部分もある。
 血の滴る肉体に薄い皮が張られていく。
 優美な肉体が徐々にその形を完全なものへ……この者は女だった。豊満な胸と油の乗った尻にこびり付く血が、妖々しくも美しさを醸し出している。
 魔性の者がそこにいた。
 朱に染まった血の衣装を纏った妖女。
 ただしかし、その妖女には片腕がなかった。筋組織から再生したにも関わらず、片腕を失っているのだ。
 妖女は乱杭歯[らんくいば]を覗かせ、疼く腕の傷痕を押さえた。
「この恨み晴らさんぞ……」
 艶笑を浮かべたその顔は、翳り邪悪を映し出していた。

 突然の敵は背後から現れた。
 人気の少ない裏通りの影から現れた異形。
 しかし、紫苑は背中に眼があるように、刹那にして妖糸の煌きを放つ。
 醜い顔がさらに醜く歪み、異形の頭部が宙を舞った。
 鈍い音を立てて堕ちた頭部に眼をやる紫苑。
 白い仮面が見定めた異形は人型の生物であった。毛は一本もなく、餓鬼のような容姿をしている。特徴的なのは、肉食獣のような鋭い犬歯だろうか。
 まだまだ大きな事件にはなっていないが、水面下で帝都を脅かしている事件の陰。
 新型の人体変異ウィルスが帝都で広まりつつあるのだ。
 紫苑の依頼主はそのウィルスに興味を持ち、ウィルスの確保を依頼した。
 首を飛ばされた異形の体は滅びつつあった。燃えカスのように塵と化し崩れて逝く。だが、驚くべきことに胴を失った首は生きているのだ。
 顔面に蒼白い幽鬼の相を映し、怨念の篭った眼で白い仮面の主を睨みつけている。
 変わった。
 瞬時に紫苑はそれを感じた。異形の瞳の色が変わったのだ。視覚的ではなく、中身の人格が変わったとでもいうのだろうか。
 下卑た異形の顔に相応しくない玲瓏たる魅言葉が発せられる。
「……蘭魔……秋葉蘭魔……」
 その名を聞いて紫苑の先にいる愁斗は驚かずにいられなかった。
 微かに紫苑を操る愁斗の意識が乱れたが、それを敵が察したかはわからない。
 紫苑の白い仮面は、どこまでも無表情に異形を見下している。
「なぜその名を知っている?」
「蘭魔……憎い……憎い……汝[なれ]は彼奴[あやつ]のなにぞ?」
 紫苑は答えなかった。
 秋葉蘭魔――それは愁斗の父。今は行方知れずになっており、生存すら不明だ。その父の名をなぜ異形が知っている?
 異形の中で眠っていた楔の鍵が解かれようとしていた。
 なんと単細胞生物に匹敵する再生力で生首の下が生えはじめたのだ。
 植物が枝を伸ばすように骨が形成され、内臓が果実のように実り、筋組織が蔓のように躰に巻きつく。
 紫苑が依頼を受けるときに聞いた報告では、これほどまでの再生力はなかったはずだ。
 加えて、異形は先ほどまで雄だった。今は外見的には雌だ。
 優美な曲線を描く裸体を露にし、醜悪な異形の顔はたちまち妖艶な美女に生まれ変わったのだ。
「蘭魔と同じ魔性を纏う者……何者ぞ?」
 玲瓏たる声で妖女は問うた。
「なぜ蘭魔の名を知っている?」
「妾の自尊心を傷つけた者……この腕を見るがよい!」
 妖女には右腕がなかった。まるで鋭利な刃物で切断されたように、断面も鮮やかに肩から先がないのだ。
 殺気の満ちる妖女から紫苑はすでに間合いを取っていた。
 大よその察しはつく。妖女は己の腕を奪った者を怨んでいる――それが蘭魔なのだ。
 艶かしい裸体をくねらせながら妖女は艶笑を浮かべていた。
「汝の業、しかと見たぞ。あの業、憎き蘭魔と同じモノ。汝は蘭魔のなにぞ? 蘭魔はどこにいるのかえ!」
 妖女は柳眉を逆立て怒号を飛ばした。
 しかし、無機質な白い仮面は無表情のままだ。
「蘭魔の所在は私が聞きたいくらいだ」
「戯け事を、彼奴の居場所を言え!」
 紫苑の言葉を信じない妖女は乱杭歯を覗かせ、般若の形相で襲い掛かってきた。
 すでに構えていた紫苑の攻撃は早い。
 放たれた妖糸は妖女の膝を切り飛ばした。それでも妖女は勢いよく手を伸ばして紫苑に飛び掛ってきた。
 再び紫苑の手から妖糸が放たれる。
 乱れのなく振り下ろされた妖糸は妖女の眉間に入り、躰を真っ二つにしてしまった。
 割れた胴体が紫苑の真横を掠り抜けた。そして、重い音を立てて地面に堕ちる。
 それでも妖女は生きていた。
 真っ二つに割れた躰の断面がぶよぶよと蠢きながら、すでに再生をはじめているのだ。
 しかし、紫苑はその動きを見守った。
 細胞分裂を続け、肉を増殖させていく残骸であったが、それが元通りになることはなかった。肉の塊と化してしまったのだ。
 肉塊から蝋が溶けたような手が伸びた。
 速やかに躱し、紫苑は妖糸で肉塊の腕を斬った。
 本体から斬り離された腕は枯れて消滅したが、本体は尚も生命力を誇っている。それはまるで単細胞生物のようだ。
 脊髄反射的に獲物への攻撃を仕掛ける。すでに知性ある生物とはいえないようだ。
 紫苑は飛び退き肉塊との距離を置いた。
 水泡が膨れ上がるように肉塊が蠢いている。
 妖女は消滅したのか、姿を消したのか?
 紫苑は気配を感じ、振り返って人影を確認した。
 白い防護服を着た集団。感染症などを防ぐために、完全防備で近づいてくる。
「あれが?」
 と、防護服の男がマイク越しに尋ねてきた。
 紫苑は深く頷き、
「それを調べるのはあなたたちの仕事だ」
 茶色いローブを翻し、紫苑は風のように去って行った。
 紫苑の仕事はこれで終わった。あとは彼らが仕事を引き継ぐだろう。
 そして、この事件を気に紫苑もまた……引き継いだ。

 例年になく蒸し暑い夏の日だった。
 前触れもなく首都東京を襲った未曾有の大地震。直下型の地震は震度8を記録し、多くの二次災害と死傷者を出した。けれど、それは前触れでしかなかった。
 地震により倒れるはずのない東京タワーが倒壊し、山手線の線路が分断された。
 そして、聖戦がはじまったのだ。
 人智を超えた存在の戦いは、地震以上の被害を東京にもたらした。聖戦の果てに死都と化した東京に代わり、首都は東京から霊的磁場の強い京都へと移された。
 しかし、なにが戦いを繰り広げられていたか、未だに確証ある答えは出ていない。
 東京が死都と化した。それだけが確証ある事実であり、現実だった。
 この聖戦と呼ばれる戦いの終戦と同時期、関東には女帝と名乗る者が巨大都市を築いた――それが帝都エデンだ。
 どこの誰とも知れぬ、謎の指導者のもとでも都市は発展した。それは女帝の絶対的な力と、彼女がもたらした〝魔導〟のためだ。
 帝都エデンは世界政府に反対されながらも独立国家を名乗り、魔導の力がもたらした恩恵は科学との融合により、帝都エデンを発展させた。
 発展の象徴は多くあるが、魔導産業で成功したのは女帝のお膝元と呼ばれるマドウ区だろう。
 都市として発展したのは、東京からの文化が流れ込んできたホウジュ区が象徴的だ。
 神原女学園の制服を着た少女は、ギガステーションホウジュのホームで待ち人をしていた。
 巨大なホームに到着するのは超伝導リニアモーターカーだ。
 少女のボーイッシュなショートヘアとチェックのスカートが風に揺れた。
 リニアモーターカーが緩やかに停車して、転落防止のドアと車体のドアが開かれた。
 少女は左右を見回した。
 車内から次々と人が降りてくる。そんな中にいて、特別変わった格好をしているわけでもないのに、なぜか目立つ長身の女性。
 極端に短いスーツのスカートからしなやかな脚を伸ばし、その女は少女を見つけつと同時に駆け寄ってきた。
「つかさちゃん、久しぶり!」
「ストップ、抱きつかないでください」
 つかさはさっと後ろに脚を引いて、抱きつこうとしていた女の躰を避けた。
 スキンシップを躱された女は顔をぷくっと膨らませた。
「つかさちゃんなんだから、〝つかさちゃんらしく〟してよ」
「相手が亜季菜さんですから」
「アタシ以外のときはちゃんとつかさちゃんしてるわけ?」
「ええ、当たり前です」
「想像できない」
「…………」
 つかさは難しい顔をして押し黙り、その沈黙を無理やり破るように話題を変えた。
「こないだの件はどうなりましたか、伊瀬さん?」
 影のように亜季菜の横に立つダークスースの男性。亜季菜の秘書兼ボディーガードだ。
「その話は他の場所に移ってからしましょう」
 眼鏡を直しながら伊瀬は二人に先を促した。
 駅ビルから用意していた車に乗り込み、伊瀬の運転でホウジュ区から隣のカミハラ区に向かう。
 車中でつかさは質問の続きを伊勢に尋ねた。
「アレの検査結果は出たんですか?」
「サンプルから複数のDNAが検出しましたが、そのひとつがホストだと思われます」
 信号待ちで停車した伊瀬は、ノートパソコンを後部座席のつかさに渡した。
 ディスプレイに表示された3Dポリゴン。3DでモデリングされたDNAの塩基配列が分裂を繰り返し、徐々に生物としての形をつくって行く。
 モデリングされた生物を見て、つかさは神妙な顔をした。
「これは?」
「DNA情報を元に生物の形を復元したものです」
 伊瀬はゆっくりとアクセルを踏みながら言った。
 つかさの横に座っていた亜季菜がディスプレイを覗き込む。
「アタシよりナイスバディじゃない!」
 ディスプレイに映し出されていたのは妖艶たる美女だった。
 それはまさに紫苑が一戦を交えた相手。あの妖女そのものだったのだ。
 これが意味するものは?
 つかさはノートパソコンを伊瀬に返した。
「こいつがウィルスのホストということですか?」
「そうですね、我々はそう考えています」
 伊瀬の声を聞きながら、つかさは窓の外を眺めた。
 朱空に蒼いカーテンが掛けられようとしていた。
 流れていく住宅街の背景が止まった。
 目的地に到着して車を降りようとしていたつかさと、窓ガラス越しに道路を歩いていた女子高生と目が合った。
 車を降りたつかさのスイッチがオンになる。
「やっほーもみじ!」
 つかさは小走りで駆け寄り、同級生の紅葉に両手を広げて抱きついた。
 そんな光景を見ていた亜季菜がボソッと呟く。
「あれがつかさちゃん……クスッ」
 亜季菜に接するつかさとはまるで別人だ。
 つかさはニコニコ笑顔を浮かべて、車から降りた二人を紹介した。
「ウチの義理の姉ちゃんの亜季菜姉ちゃんと、その彼氏の伊瀬さん」
 突然、彼氏の役回りを押し付けられた伊勢は苦い顔をしながらも、紅葉に軽く会釈をした。
 おしとやかな雰囲気を醸し出す紅葉は、才女の微笑を浮かべて小さく会釈を返した。
「はじめまして、雨宮紅葉です」
 雨宮紅葉はつかさと同じ学園に通う同級生だ。
 紅葉は制服姿のままマンションから出てきていた。それも少し急いでいるようなそぶりを見せている。
「実はわたし急用がありまして、また今度時間があるときに……では失礼します」
 背を向けて走り出す紅葉につかさは手を振った。
「ごめん、引き止めちゃって。またねん紅葉!」
 紅葉の姿が曲がり角に消えると、つかさの表情からふっと明るさが消えた。そんなつかさを見ていた亜季菜がクスっと笑う。
「多重人格だったの?」
「……違います」
 紅葉に接していたときとは違い、とても淡白な口調だ。
 つかさはなにも言わず、亜季菜を置いてマンションの中に入って行ってしまった。
 慌ててつかさの後を追う亜季菜と、慌てることなく後を追う伊瀬。
 エレベーターで階層を上がり、廊下を早足で歩くつかさの足が止まった。
 ドアの鍵を開け部屋の中に消えるつかさの姿。ドアは客人を迎えずに閉じられた。決して無礼を働いたわけではない。つかさの役目はここで終えたのだ。
 代わりに開かれる隣の部屋のドア。
 ドアの隙間から覗く幼い少女の顔。メイド服を着た金髪の少女が蒼い瞳で亜季菜と伊瀬を見据えていた。
「お待ちしておりました。愁斗様がお待ちでございます」
「アリスちゃん久しぶり!」
 抱きつこうとして来た亜季菜の躰をさっと避け、アリスは二人の客人を部屋の奥へと促した。
 1日に2度もフラれた亜季菜はぷくッと顔を膨らませながら、次こそはとリビングで待つ人物に抱きつく準備をしていた。
 リビングで亜季菜たちを出迎える細身の影。
「お久しぶりです」
 その口調は、淡白なつかさの口調の酷似していた。
「愁斗クン久しぶり!」
 両手をいっぱいに広げた亜季菜が愁斗に飛びつく。
 が、しかし!
「ストップ、抱きつかないでください」
 それはつかさのセリフとまったく同じだった。
 ショックを受けた亜季菜はソファにどっしりと腰を下ろした。
「紅葉ちゃんに見せたつかさちゃんと愁斗クンが同一人物だなんて……信じられない」
「傀儡はそれぞれ個性を持っていますから、僕はそれを具現化しているにすぎません」
 愁斗は形のよい唇を綻ばせ微笑んだ。
 続けて愁斗は、
「実は急用ができました。僕は部屋に篭りますが、お二人は寛いでいてください。あとは任せたよアリス」
「承知いたしました」
 恭しくアリスは愁斗に一礼し、愁斗は自分の部屋に消えてしまった。
 代わってすぐに愁斗の部屋から出てきた謎の影。
 茶色いローブを羽織り、白い仮面を被った者――紫苑だった。
 ベランダに出た紫苑は躊躇なくフェンスを飛び越え、地上へと姿を消してしまった。
 亜季菜は紫苑の背中を見送って深くため息をついた。
「久しぶりだっていうのにもぉ。アリスちゃんビール持って来て、今日はとことん飲むわよ!」
 亜季菜はスーツのジャケットを投げ捨て戦闘準備万端だった。


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