復讐の朱(2)
 黄昏の空は蒼に沈もうとしていた。
 おぞましい形相を浮かべた〈般若面〉に反射する夕焼けの朱。
 〈般若面〉を被ったその下の姿は、神原女学園の制服であった。
「貴様、そこを退け!」
 〈般若面〉の怒号がビルの裏口に立つ大男に浴びせられた。
「さっさと返りやがれ! 変なお面なんか被りやがって……」
 男は唾と共に言葉を吐き捨てた。
 憤怒する〈般若面〉が牙を剥く。
「退け、木偶の坊! 退かないならコロス!」
「やれるもんならやってみな!」
 大男は指を鳴らし、ニヤリと下卑た笑いを浮かべた瞬間だった。
 風が唸った。
 噴出す血汐が〈般若面〉を鮮血に染める。
 大男の首が止まらぬ血を噴出した。
 〈般若面〉を被る少女の手に握られている裁ち鋏から滴る紅い雫。
 その裁ち鋏は布ではなく、肉を斬るために手を加えられた鋏。内刃だけでなく、側面を研磨された両刃の鋏だったのだ。
 崩れ落ちる躯を尻目に〈般若面〉の少女は地獄の扉を開けたのだった。
 へヴィメタルのBGMが耳を攻撃し、半裸の男女が叫びながら踊り狂っている。〈般若面〉の少女が室内に侵入したことに気付く者はない。気付いたとしても、気に止めるものもいないだろう。
 強烈なドラッグでトリップして、悪魔に魂を売り飛ばす。
 現代版のサバトが行なわれていたのだ。
 人ごみを掻き分けて〈般若面〉の少女は奥の部屋へと足を進めた。
 裁ち鋏を隠し持つ少女の手は汗ばんでいた。この先に待ち構える敵を感じているのだ。
 ドアを守る男の頚動脈を切り裂き、〈般若面〉の少女は奥の部屋へと踏み込んだ。
 下男たちを従え、妖女は長椅子に腰を掛けていた。
「血の香を纏う般若の化身か……妾になに用じゃ?」
 玲瓏たるささやきが、近くにいる男どもを惑わす。
 胸元が大きく開かれた黒いレザースーツに身を包む女。その女、紫苑と一線を交えた謎の妖女であった。
 〈般若面〉の少女は辺りを見回しながら激怒した。
「貴様らが攫った生徒はどこだ!」
 妖女は不思議な顔をしながら思考をめぐらせ、ふと邪悪な笑みを浮かべた。
「ほほほほほっ、汝と同じ制服を着た女がいたな。彼奴か、彼奴を探してここに着たのかえ?」
「そうだ、彼女を返せ!」
「それはできぬな」
「なぜだ!」
 〈般若面〉の少女が強く詰め寄ると、妖女は艶笑した。
「あの女は妾の咽喉を潤してくれたぞよ。処女じゃった」
「犯したのか!」
「血を飲んだ」
「外道がッ!」
 叫び声をあげて〈般若面〉の少女が妖女に襲い掛かった。
 妖女を守るように三人の男が壁となる。
 裁ち鋏が肌を裂き、肉を抉り、鮮血が雨のように降り注ぐ。
 壁は人間だった。特殊な力を持っているわけでもない、ただの若者だったのだ。
 躯の山を目の前にして、ただひとりこの場で笑う妖女。
「よい薫りじゃな」
 妖女は顔に跳ねた血を手の甲で拭い、その手を妖しく伸ばされた舌で舐め取った。
 その瞬間、妖女の眼が朱色に輝いたような気がした。
「人外の魔性か……」
 と、呟く〈般若面〉の少女に対して、妖女もまた呟く。
「般若面に宿りし怨霊……汝も人外じゃろうて」
「……うるさい!」
 なにが〈般若面〉を憤怒させたのか?
 〈般若面〉の少女が妖女に飛び掛った。
 余裕か嘲りか、妖女は裁ち鋏の一刀を手で受けた。
 しかし、手では鋭利な刃を受け止めきれず、鮮やかに指が落ちた。
 〈般若面〉は燃え揺る瞳でしかと見た。
 切り落とされた妖女の指が再生する。
「斬っても無駄じゃ。たとえ灰になろうとも死なぬ」
 それは不死ということか?
 その言葉を理解しながらも〈般若面〉の少女は再び攻撃を繰り出す。
 妖女は両手を広げ無防備な姿を晒した。
 渾身の一撃が妖女の心の臓を突く!
 妖女は艶笑していた。
 心臓を刺されながらも微動だにせず、艶やかな笑みを浮かべているのだ。
「避けろ呉葉!」
 誰が叫んだのか?
 妖女が大きな口を開き乱杭歯を剥いた。
 心臓に裁ち鋏を突き刺し、妖女に寄り添い重なる〈般若面〉の少女の首筋に、妖女の毒牙が襲う。
 避けるには間に合わなかった。
 しかし、それよりも早く煌いた輝線。
 妖女の首に奔る輝線は一変して紅く転じ、ずるりと首が堕ちたのだ。
 堕ちた首は嗤っていた。その瞳は部屋の奥に立つ美影身に向けられている。
 ――傀儡士紫苑。
「偶然だな」
 呟く紫苑。
 そう、偶然だった。
 決して紫苑は妖女を追って来たわけではなかった。
 〈般若面〉の少女――呉葉は妖女と間合いを置いて、現れた紫苑に視線を向けた。
「また……助けられたな」
 その口調に恩義はない。
 紫苑は妖女に向けていた視線を呉葉に一瞬だけ向けた。
「制服は着替えろといつも言っているはずだ。足がつく」
「うるさい、一刻を争う事態だったんだ」
 しかし、それも最悪な結果として終わってしまった。
 妖女は床に堕ちた首を拾い胴に乗せると、動きを確かめるように首を回した。もう首には傷痕など残っていない。
 紫苑は妖女を見据えていた。けれど、声は呉葉に掛けられた。
「ここは引け、勝てる相手ではない」
「冗談じゃない、引けるものかッ!」
 妖女への怨みが沸々と腸を煮え繰り返す。
 呉葉が再び妖女に刃を向ける。
 だが、それは紫苑によって止められてしまった。
 刹那にして振るわれた妖糸が呉葉の肢体を拘束した。
「なぜ止める!」
「勝ち目がない……私にも」
 その紫苑の言葉を聞いて、妖女は大そうな笑みを浮かべた。
「おほほほ、妾に恐れをなしたかえ?」
「違う」
 紫苑の声に恐れは含まれていない。
「今は勝つ術がない。それだけのことだ」
 首を飛ばしても死なない。
 先に一戦を交えたときも、妖女は成れの果てに変貌を遂げたが、その妖女は今ここにいる。前の妖女は本物だったのか?
 ひとつはっきりしているのは、通常の攻撃では倒せそうもない。
 紫苑の手から妖糸が豪雨のごとく放たれた。
 倒せぬとわかっていてなぜ振るう?
 妖女も死なぬとわかっているためか、避ける仕草も見せずに連撃を全身に浴びた。
 柔肉が細切れになり、血溜りが床を浸蝕する。
 床の肉塊は、あのときのように肉塊のままではなかった。
 肉塊を土壌として、骨が枝のように伸び、内臓が果実のように実ろうとしていた。
 妖女は生成しようとしていた。
 だが、それを待っている理由はない。
 紫苑は妖糸に拘束された呉葉を抱きかかえ、出口に向かって疾走した。
「放せ!」
 抱きかかえられている呉葉が叫んだ。けれど紫苑は耳を貸さない。
 ドラッグと音楽に酔いしれる若者たちは、部屋の奥で事件が起こっていること知る由もないようだった。
 紫苑は人ごみの中を掻き分け、建物を出て裏通りに姿を見せた。
 空はダークブルーに染まり、星々が妖しく輝いている。
 疾走する紫苑に抱きかかえられた呉葉が喚く。
「勝つ術がないなど嘘だ! なぜ戦わない!」
「……さて?」
「貴様には召喚があるだろッ!」
 傀儡士の奥義――召喚。
「あの場所では召喚も使えまい」
 それも一理ある。強大な存在が〝こちら側〟に現れれば、周りはただでは済まない。狭い部屋は当然のごとく破壊され、壁を隔てた一般人にも危害が及ぶことは必定。
 だとしても、呉葉は納得しなかった。
「なにが目的だ!」
「術を整えてから挑む……それだけのことだ」
 紫苑の脳裏に再生させる妖女の言葉。
 ――蘭魔。

 自室にこもっていた愁斗は暗闇から明るい廊下へと出た。
 鼻に香るアルコール臭。
 酒臭い。
 愁斗が姿勢の良い歩き方でリビングまで行くと、脚を広げてソファに座っている亜季菜の姿があった。
「ペースが早いですね」
 愁斗はそう諭しながらローテーブルの上に捨てられた空き缶を眺めた。
 500ミリリットルのビール缶が10つ潰れている。
 ビールに飽きたのか、亜季菜はワインを瓶のままラッパ飲みしていた。
「愁斗もこっち来て飲みなさいよぉ~」
 語尾の伸び具合が酔っている証拠だ。
「ボクは未成年ですから」
「そんなこと言わないでよぉ、伊瀬クンったら『仕事中ですから』とか言っちゃって付き合ってくれないんだも~ん」
 その伊瀬はすぐそこのキッチンでツマミを作っていた。
 二人ともまるでこの家の住人だ。
 愁斗は部屋を見回して、1人足りないことに気付いた。
「アリスは?」
 キッチンから出てきた伊瀬が愁斗の横を通り過ぎながら言う。
「なにも言わず出かけて行きましたよ」
「……なるほど」
 愁斗には思うところがあった。おそらくこの客人が好きではないのだろう。愁斗の視線は服を脱ぎはじめた亜季菜に向けられた。
 あんなだらしない女[ヒト]でも、アリスが面と向かって文句を言うことはないだろう。アリスの主人である愁斗を〝飼っている〟人物なのだから。
 彼女がこんなところで酔っ払っている今も、彼女の資産は着実に増えている。
 亜季菜に服を着させようとする伊瀬を見て愁斗はため息を吐いた。
「伊瀬さんはなんでそんな人に仕えてるんですか?」
「あなたと同じですよ愁斗さん。私も拾われたのです。私の場合は亜季菜様のお父上にですが……」
「まだ姫野家に仕えているわけは?」
 亜季菜の父はすでにこの世を去っている。
「返せていない恩義を、娘の亜季菜様に返しているのですよ」
「こんな人じゃなくて、亜季菜さんのお姉さんに仕えればいいのに」
 亜季菜はすでに寝息を立てて安らかな顔をしていた。二人の会話も耳に届いていないようだ。
 伊瀬は亜季菜の身体を抱きかかえた。
「ベッドをお借りしてよろしいでしょうか?」
「はい、自由に使ってください」
 背中を見せて消える伊瀬の姿を視線で追いながら、愁斗は深く息を吐いて眼を瞑った。
 しばらくして伊瀬が一人でリビングに戻って来た。
「おそらく朝まで目を覚まさないと思います」
「そうですか……あの人、いったいなにしに来たんですか?」
 お酒を飲んで、勝手に眠って、朝まで起きない。これではいったい何の用で来たのかわからない。
「いつもと同じですよ。突然、仕事の途中で愁斗さんの顔が見たいと言い出し、仕事をキャンセルして来ました」
「亜季菜さんの下で働いている人たちが可哀想ですね」
「亜季菜様の顔も見たことのない社員がほとんどですから、大丈夫ですよ」
 その言葉の意味は社員数の多さを意味していた。
 伊瀬は言葉を付け加えた。
「ユウカ様がしっかりしておりますし」
 姫野ユウカ――その名は姫野グループの会長の名前だ。
 帝都には〝帝都の資源〟で財を気付いた金持ちが多くいる。姫野グループもその一つだ。
 有名な帝都成金を上げるとしたら、医療技術で成功した秋影家、魔導産業で成功した神星家、貿易で成功した姫野家が上げられるだろう。
 沈黙が続いた。
 愁斗も伊瀬も自ら口を開くタイプではない。
 静かな表情を伊瀬に対して、愁斗は難しい顔をして柳眉を寄せている。
 そして、愁斗は伊瀬に顔を向けた。
「調べて頂きたいことがあるんですが?」
「なんでしょうか?」
「こないだのウィルスの件です。過去に似たような事件はなかったんですか?」
「ありました」
 返事は即答だった。
「ただし、同じという確証はありません。多額のお金が動く話ですから、どこも非公開に調査をしているようです」
 新型のウィルスは金になる。
「……なるほど」
 呟く愁斗の脳裏に浮かんだ。
「生命科学研究所にデータがある可能性は高いですね」
 〝生命科学研究所〟というキーワード。
 秋影コーポレーションが出資している施設であると共に、政府とのパイプも太い施設だ。外部から情報を手に入れるのは難しい。かと言って侵入はもっと難しい。
 亜季菜のコネクションを使って情報を手に入れるのは不可能だろう。出来るのならば、とっくにしているはずだ。
 帝都で情報を手に入れるためには情報屋を頼るのがいいだろう。けれど生命科学研究所の情報となると、トップクラスの情報屋が必要になるだろう。トップクラスだとして情報を手に入れられるかは不明だ。
 表向きの帝都トップクラスの情報屋といえば、ミナト区のツインタワーに事務所を構える真という名の情報屋だろう。
 ただしあの情報屋は客を選ぶと有名だ。
「サイバーフェアリーにアポ取れますか?」
 愁斗の言うサイバーフェアリーとは真の事務所の名前だ。
「無理です」
「なぜ?」
「彼は個人の仕事しか請けません。企業と関係があると思われる人物の仕事も請けないそうです。彼は情報屋ですから、客の身元調査も完璧です」
「何度か接触しようとして失敗したとか?」
「ええ、企業としては彼を手元に置きたいと考えるでしょう。わが社もそのひとつということです」
「……なるほど」
 愁斗の傀儡で仕事を頼むのは不可能だろう――身元がない。偽造しても見抜かれるだろう。
 愁斗本人で仕事を頼むのはリスクが多い。下手に身元調査をされるのは身の破滅に繋がる。
 リスクが大きすぎるとなれば、別の方法を考えるしかない。
「サイバーフェアリー以外に生命科学研究所のデータを入手できそうな手段はありますか?」
「あれば我々がやっています」
「……やはり」
 愁斗は小さく頷いて押し黙った。
 そして、ふと思い出したようにハッとした顔をした。
「そうだ、彼女を縛ったままだ」
 呉葉を縛ったままだったことを、すっかり忘れていたらしい。


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